Diary

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Diary with Photograph
人壽百歳蘭香四時
躅飛山光徳寺所蔵の掛軸「人壽百歳蘭香四時」この大らかな泰山文字は中国山東省泰安市の岩山の中腹に刻された金剛般若経の経文から一文字ずつ拓本にとったものである。それをこの軸のように組み合わせて好きな言葉につくって遊ぶ。人壽百歳蘭香四時とは「長生をして常に存在感があるように」であろうか。あやかりたいと思いながら、私の生き様をここに記していきたい。私も昔北京に行った際に骨董屋に赴き20枚ほど買い求めて所有しているがそのままになっている。 躅飛山光徳寺所蔵の掛軸と故高坂制立師

 闘 病 日 記 - 脳内出血との闘い 
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 2018年12月15日(土) 日暮れて道遠し。

狸の標識
近所にある狸に注意の標識
 私の家の近くの坂道に狸に注意の標識があって、これを見る度に微笑んでしまうが、ここ以外にも何カ所かで見かける。同じマンションの1階に住む人が裏側の山に面した窓からたまに狸を見かけると云っている。しかし数から云ったら台湾リスの方が圧倒的に多い。観光客はこれを見つけると喜んでいるようだが、三浦半島ではこいつが増えすぎて色々と問題を起こすから困っているのだ。江ノ島植物園で飼われていたものが逃げ出して野生化したと云われているが、天敵が居ないから増えて今では特定外来生物に指定されている。台湾リスの鳴き声は実に様々でまるで声帯模写。蝉のような鳴きかたをしたり、小鳥のような可愛らしい鳴き声出したり、犬のようにワンワンと云う声を出したり、獣が吠えるような大きな声出しているときもある。知らない人が聞いたら何の鳴き声だかわからないだろう。

 師走に入ってぐっと寒くなってきた。夕食の時にほんの僅かだけ戴くお酒の旨さよ。
 夕べも呑んでいたらファックスが入ってきた。N響で何十年も一緒に仕事をしてきた仲間が亡くなったという知らせだった。嗚呼悲しきかな。合掌。

 最近思うこと。日暮れて道遠し。まだまだ笛の美しさを求めたいのだが。
 誰にも等しく訪れる人生の終着駅。私は悦びを持ってその時を甘受するだろう。
 平生業成を少し読んだ。



 2018年11月26日(月) またグーラッシュをつくった。

グーラッシュ!
うっひゃ!何たる前掛け!
 10月に作ったばかりだというのに好評につき、又グーラッシュを作った。前回は服をよごしてしまったので今日は昔ローマの街を歩いていたときに路露天商で売っていたのをみつけて買った前掛けを使ったのだけれど、え? 品が良くないって? 何を仰る、実はこれミケランジェロのダビデ像がモデルなんですぞ。そうです、フィレンツェのアカデミア美術館にあるあれです。そう言えば見たことがあるでしょ。これを着用してルンルン気分で作りました。しかしイタリア人もなかなかやるよ、ダビデ像を写真に撮ってプリントするなんて。あ、買う方も買う方ですね、Je d'accord.(納得)。これをプリントしたパンティーも売ってたけど、さすがに買いませんでした。
 それにしても、普通の平らな生地なのに随分と立体的にみえるよね。この彫刻が何故に包茎であるかについては、検索すると色々出てくるので興味がある方はどうぞ (自然に視線がいくでしょ(^^))[検索]。そうだ、肝心のアカデミア美術館のダビデ像もリンクしておかなくちゃ。
書いているうちに、どんどん話題がずれていくので、今日はこれにてお終い。


 2018年11月13日(火) 間もなく冬がやってくる

信也
2014年2月の吹雪(画像クリック)
  11月に入って気温が下がってきた。ああ嫌いな冬がくるんだ、という思いが募ってくる。もうこのトシになると寒いのは嫌だよ。昔、冬が一番好きだったころは毎朝新聞の天気図を見るのが楽しみで北の高気圧の等圧線が混んできて富士山頂の気温がマイナス20度以下になるとスキー場の雪質が良くなるのだった。夏はスキーができない辛い辛い季節でしかなかった。思えばワンシーズンに合計二週間もスキー場で過ごしたこともあった。夢中だったなあ。朝リフトが動き始める時からナイターが終わるまで食事の時以外はゲレンデに居たものだ。良く行ったのは奥志賀高原、丸沼高原、白馬、栂池、岩岳、爺が岳、黒姫高原、八方尾根、野沢温泉、奥蓼科、峰の原高原、天元台、ニセコ、富良野などで弟子をぞろぞろと連れて行ったことも何度かあった。ああ、若かったのだ。ゲレンデの気温がマイナス20度になると快感だ、などとうそぶいていたものだ。用具も凝った凝った。ビンディングは最初に付けたのが良くなくて、岩岳で転んだ際に外れなくて捻挫をしてしまった。重症だった。それに懲りて絶対に怪我をしないという今ではもう無いだろう外れるとワイヤーが伸びて、足を上げるとバネで元の位置に戻ってくるというものを使っていたっけ。スキーをやると低温で唇がやられてフルートに良くない、と云われていたのを払拭するために、FMの生放送の前日まで滑ってバッハの音楽の捧げ物とフリードリッヒ大王のソナタを吹いたこともあった。それが20年前にパラレルが出来はじめて勢いにのった時に心臓をやられて、以来スキーはできなくなってしまったのだ(そして今度は脳内出血!)。今でも滑りたいと思うことがある。岡本太郎だって、高齢になってからスキーを始めて調子よくやってたよね。冬型の気圧配置が強まると日本海側は大雪になって太平洋側はからからに乾いた晴天になる。太平洋側に雪が降るのは春先に低気圧が本州南岸寄りを通過するときだ。湿雪の見本のような雪だ。2014年2月の吹雪はすごかった。30センチ以上積もった(画像クリック)。今度の冬、雪は降るのかな。2年ぶりのエルニーニョ現象だそうで東日本は暖冬の予報がでている。


 2018年10月31日(水) ヴァイオリニスト リー・チュンユン

天才ヴァイオリニスト 李チュンユン
 病身になってから家に居ることが多くなりiMacと接する時間も多くなって色々と楽しんでいるが、YouTubeも見る機会が多くなった。世間の誰もが知っているような人や出来事を、遅まきながら知り始めた、と言う事だろうか。昔まだ若い頃妹たちとテレビを見ている時に、有名な芸能人などを見て「これ誰?」なんて聞いて「え?知らないの!」と、呆れかえられた私である。まだまだ知らない人の方が圧倒的に多いけれど、それ程興味もないからこれから先も大して変わりは無いだろうと思われるが。私は騒がしい番組が大嫌いなのだ。出演者がほとんど怒鳴っているかのような大声で早口に喋ったり笑ったりしている番組を見るのは苦痛でしかない。私が好むのはNHKの「さわやか自然百景」や「小さな旅」のようなノンフィクションのものが殆どだ。
 しかし一回前の朝ドラ「半分、青い。」のヒロイン永野芽郁は良かったな。朝ドラはめったに見ない私であるが、ストーリーはどうでも良くて、この人を見たくて番組を見ていた。なんというキャラクターの持ち主だろう。希有な清々しさ、清潔感!。演技するあらゆる表情がすべて感動的でさえあった。この人がカメラの前ではなく、普段の生活ではどういう人なのだろう。
 音楽では、偶然に見つけた中国のヴァイオリン奏者李チュンユンの演奏を聴いて少なからず驚いている。ヴァイオリンにはこの人のような天才肌の人が多いような気がする。李チュンユンの演奏を子供の時からのものなど、沢山探して聴いた。どれを聴いても素晴らしい演奏である。ただ指が回るだけではなく内面的にも深い表現をしている。タダモノではないという感じがする。中には不思議な演奏会もあったが、とにかく凄い。ナイーブを濃縮したようなひとなのだろうか。2013年8月18日の演奏は、YouTubeの見出しにViolinist Chuanyun Li collapsed on stage(ヴァイオリニスト 李チュンユンがステージ上で崩壊)とあってハラハラしながら見たが、しかしその演奏は物凄いものだ。最近はどうしているのだろうか。
チャイコフスキー作曲ヴァイオリン協奏曲 ★11才のときの演奏


 2018年10月21日(日) 鎌倉霊園へお参りに

鎌倉霊園 (マウスOn!)
 ぽかぽかと暖かい昨土曜日の昼前、京都から来た息子(Op.2-2)達と連れだって鎌倉霊園に行ってきた。近いのになかなか行かれなくて久し振りであった。古都鎌倉からも近く、環境の良さから日本一の霊園ともいわれている鎌倉霊園。園内の花壇には四季折々の花が絶えることなく植えられて、3月には霊園全体にサクラが咲いてピンクの霊園になるし、霊峰富士を望む眺望も素晴らしくて、ここならいつ定住しても良いと思っている。ニューインペリアルレッドの墓石には父が通った同志社大学神学部時代の恩師 清水安三先生の筆による「愛」の文字と十字架が刻まれており、父母が眠っている。この日は気温が低いとの予報が出ていたけれど、幸いなことに太陽も顔を出してくれて、暖かいお墓参りができた。皆で雑草の除去をしたが、今の私はしゃがむことが出来ないから見ているだけで気が引けた。我が家のお墓は綺麗にすべく地面をセメントで覆って白い玉砂利を敷き詰め、土を閉じ込めて雑草が生えないようにしてあったのだが、せっかくの対策も後ろから土が落ちてきてセメントの上に大量にたまり、雑草が好き放題に生い茂って見るも無惨な状態になっていた。それで管理事務所に苦情を言って改善をしてもらった。ちょうど皆が立っている背中あたりの後ろに見えている大谷石のようなもので40センチくらいの塀を作ってくれたのである。お陰で随分よくはなった。しかし、それでもまだ雑草は少し生えてくる。さすがに雑草、と感心してもはじまらないのだが。
 献花を終えてから霊園の高台にある休憩所で妻が作ったおにぎり弁当を食べた。美味しかった!薄雲が多くて残念ながら富士は見えなかったけれど。
 息子達はこのあとクルマで京都へと帰途についた。渋滞が無いといいな。事故に巻き込まれること無く無事に帰れますように。


 2018年10月19日(金) 息子達が持ってきてくれたフィレステーキ!

フィレステーキ!
フィレステーキ!
 普段肉はあまり多くは食べない私だが、こんなに美味しい肉だったら毎日でも食べたくなっちゃう、と思ったほど美味しかった。レアに焼いてくれた妻の焼き方も満点だった。京都にいる息子というのは、私が今年の1月20日に入院していた小浜の病院から500キロあまり離れた横浜の病院に転院するときに私の車を運転してくれた京都に居る今年39才の息子のことである。この息子の運転はすこぶる気に入っていて、普段から運転にうるさい私でも安心して走行中に寝てしまった程であるが、この息子が私の体調を案じて治療をしてくれるという事でやってきてくれた。フィレステーキとシャンパンのおまけ付きで!予め来る日の前日に送ってくれた肉とは、極上の出雲の石見黒毛和牛であった。息子達との食事は楽しかった。
 息子はいくつか仕事を持っているようだけれど、私は詳しく把握していない。専門外の分野でも頭を突っ込んで徹底的にはまり込んでしまうところは私譲りかもしれないが、と言っても何が専門なのかは分かっていないと言った方が当たっているのだが。今回の治療は全く青天の霹靂であった。大体息子が治療をする、と言う事がよく理解できなかったが、何やら複雑な機械を持ってきて、いざやってもらったら非常に気持が良かったのである。からだに変化が起きてくることを期待している。息子がどういう治療をしてくれたかは、そのうちに 「闘病日記」に書きたいと思っている。


 2018年10月11日(木) 何年ぶりかでグーラッシュをつくった。

グーラッシュ!
美味しそうでしょ!
 グーラッシュはウィーンの人たちが好む料理で、ウィーンではたいがいのレストランで食べることが出来るから、私はずっとウィーン料理だと思っていた。が、実はハンガリー料理なのである。ハンガリーではグヤーシュという。私もグーラッシュが大好きで、自分で作るようになってから50年以上になった。この料理の作り方を教えてくれたのは、嘗てN響のコンサートマスターとして活躍していた坂本玉明さんである。私がN響に入団した1959年頃はアウロス木管五重奏団を結成してじゃんじゃんコンサートを行っていた頃でもあったが、そのメンバー5人が坂本さんの家に招かれて行ったときに御馳走になったのがグーラッシュとの初めての出会いで、その時に作り方を教えてもらったのである。以後何十回も作ってきたが、その度作り方は自分の好みに変化してきており、現在では信也得意料理の代表になっていて好評である。今ではウィーンで食べるよりも私が作ったものの方が絶対に美味しいと自負している(本当かね?)。
信也レシピ
材料 牛のスネ肉、玉ねぎ沢山、ニンニク沢山、赤パプリカ、生姜、ヨーグルト、リンゴ、オリーブオイル(私はラードを使わないから)、スパイス(カーダモン、胡椒、赤プリカ、ナツメグ等)、美味しい塩、他。
作り方
牛肉を写真の大きさに切る。ニンニクを細かく切る。玉ねぎをみじん切りにする(要水泳のゴーグル)。
シチュー鍋にオリーブオイルを敷いて牛肉を色が変わるくらいまで炒めてから大量の玉ねぎのみじん切り、ニンニクのみじん切りを入れて更に炒め、ヨーグルト、生姜、リンゴを摺り下ろして加え、塩を必要の半分くらと思われる量を加えてよく混ぜながら炒める。水は使わない。化学調味料は一切使わない。スパイスを加えてからガスを蛍火にして数時間煮込む。火を消して冷ます。また数時間煮る。火を消して冷ます。これを何回も繰り返す。味見をして塩を必要量加えて完成させる。 朝仕込めばその日のうちでも食べられるが、翌日まで煮込むと更に美味しくなる。 塩の量が多すぎないように(ウィーンのは塩が多い)。いみじくも料理人で陶芸家でもあった北大路魯山人が「塩は隠し味として使うもので、使っていることがちょっとでも分かったら、それは入れすぎている」と云っていたそうであるが、塩使いの天才と言われた魯山人らしい言葉である。この言葉を肝に銘じて料っている。


 2018年10月9日(火) 藤井隆太さんと前崎亜美さんが遊びに来てくれました。

隆太さんと亜美さん
藤井隆太さんと前崎亜美さん
 最近になって少しフルートが吹けるようになってきている。但し首が痛いから右に傾けることが辛くて長時間は無理だけれど、、ヘインズもパウエルも大喜びをして待ってたよ〜!と云わんばかりにばかりに響いてくれるから嬉しいね!譜面台の上には昨年の発病の後に演奏をするはずだったクーラウの三重奏の譜面がずっと置いてあって、それを吹くのだけれど、少し吹いては休み、また少し吹いては休み、といった状態だが、とにかく吹けるのが何より嬉しい。右手が痺れているが、これは本当に不思議なのだけれどもちゃんと指が動いてくれるし!ただ息が足りない感じがして以前のように長いフレーズを吹くのは無理だが、練習を続けていくうちに少しずつ改善してくれることを期待している。とにかくフルートを吹く、ということが物凄くリハビリになっていることは確かのようである。私からフルートを取り上げようと思ってもそうはさせない。好きで好きで堪らないフルートを取り上げる何て、できるもんか!
 3日前の10月6日に桐朋時代の教え子だった二人が遊びに来てくれた。一人はお馴染み?の龍角散社長の藤井隆太さんと、もう一人は前崎亜美(つぐみ)さん。この二人とは7月27日に教え子達が横浜で傘寿のお祝いをしてくれた時にも会っているから、そう間があいた訳ではなかったけれど、嬉しいよ。こうして人と会うことが今の私にはすごく嬉しくて楽しいんだ。藤井さんは社長でありながら沢山のコンサートで活躍している。そしてコンサートが終わる毎に私に報告に来る、というのが慣例になっているのだけれど、この人も相当なフルート好きだね。社長としての仕事は忙しいだろうに良く時間があるものだと思うが、これは先代から受け継いだ遺伝子が騒いでそうさせているのに間違い無い。(先代:名物社長であった藤井康男氏は龍角散オケでフルート、ピアノを演奏されていた)藤井さんはコンサートが終わると報告に来てくれるのが習慣になっていて、私も楽しみにしているのだが、間もなく来る12月9日に新宿のパウエルジャパン内の アーティストサロン“Dolce”東京で 「The Old New Faces Flute Concer vol.15」というコンサートを同じく私の教え子である姫田大さんと行うことが決まっていると言う多忙さ。え?どっちが本職なんだよ?と云いたくなるではないか。とにかく頼もしい藤井さんだ。先代が残した多額の負債を乗り越えて現在年商170億にまで持ち上げた経営者としても凄腕の隆太である。
 亜美さんは中学生のころから博多で教えていたが、桐朋音大の入試に受かった時には私も嬉しくなって「受かって良かったね!」の一言を言いたくて、当時多摩ニュータウンに住んでいた亜美さんの家までクルマを飛ばして行った思い出がある。亜美さんは優しさのカタマリのような人だ。お酒はあまり飲めいないけれど。お二人とも又来てね。


 2018年10月5日(金) 脳内出血-4・入院生活

日記帳
痺れた右手で書いた日記。
(10月3日の続き) 
 ICUに入ってやや落ち着いてから横浜の妻に脳出血で倒れたことを伝えた。妻は驚いてすぐに青森の実家へ連絡して妻の母を横浜へ呼び、小学生の息子を頼んで発作の翌日には私の所へ来られることになった。横浜から京都まで新幹線に乗り、あとはバスで小浜まで来るという。新横浜から京都までの時間よりも、京都から小浜までの方が距離が短いのに時間がかかるのだ。遠回りでもこの来かたが一番早くこられるそうである。若狭は遠い。妻からは夕方の5時過ぎに病院に着くと連絡があった。待ち遠しかった。何十回時計を見ただろう。針が動くのが遅かった。やっと病院に来てくれた妻に私が最初に云った言葉は「あだってまった」だった。私は津軽弁で云ったのだ(正しいイントネーションで)。「あだる」とは、あたるのことで津軽で脳卒中、くも膜下出血、脳内出血等で倒れる事である。憖っか(なまじっか)な言葉でくどくど言うよりも津軽弁の一言で云った方が通じるのだ。妻は私が会話ができなくなっていると思ってきたらしく、話せることを知って喜んでくれた。私は口が痺れてきてから発音練習をしていた。特に「ま行」を口を大きく開きながら何度も何度も練習していた。だからこわばった口がいくらか解れていたのかもしれない。妻が日記帳とボールペンを買ってきてくれたので日記を書くことができるようになった。翌日には息子も京都から駆けつけてくれた。
 入院中には色々と不思議なことが起こった。例えば規則正しく割り箸で雨戸を叩くような音が途中に休止符が入る八分の五拍子の複雑なリズムで聞こえていたり、獣が恐ろしい声で吠えるような風の音がずっと聞こえていたり、聞いたこともないメロディーが延々と鳴っていたりした。きっとやられた脳が騒いでいたのだろう。
 入院4日目になって例の若くて美しい看護師さんが暖かいタオルを持ってやってきた。身体を拭いてくれるという。ずっと風呂に入ってなかったからもう最高に嬉しかった。しかし、全身なんだ、全身。全身だよ!前も後ろも上も下も。細かく丁寧に。ああ、有り難き屈辱(恥ずかしいよぉ〜!)。。。。看護師さんは特に何てことも無く相手が誰であろうが手慣れた様子で淡々と仕事をこなしているだけなのだけれど。でもよくできるなぁ。いろんなものが見えるだろうし、臭いだって気になるだろうし。そう言えば昔遠藤周作が老人だって女性に裸を見られるのは嫌なのだから考えて欲しい、といったようなことを書いておられたことを思い出した。
 私は普段から便通は良い。しかし脳をやられたためか入院してから五日間も途絶えていたから堪らずに下剤を所望した。下剤には錠剤と座薬があるという。どっちが早く効くのかと聞いたら錠剤は翌朝に、座薬は数時間後に、と云うことであった。一刻も早く解決をしたかったので座薬をお願いした。しかし云ってしまってから、しまった!と思った。今の寝たきりの状態では自分で座薬を入れることは出来ないぞ!。。。結果は、なんともサマにならない格好をして。。。ああ、有り難くも凄まじい屈辱であった。
 そうだ、聞きたいことがあった。私は看護師さんに「ウ〇コの時には力んでも大丈夫ですか?脳の血管が切れないでしょうか?」と質問した。すると看護師さんは事も無げに「万有引力の法則に従っていれば大丈夫じゃないですか」と笑いながら答えてくれた。これ、気に入っちゃったからどこかで使おうっと。
 さて数時間後のはずが四分後くらいから下腹がキューっとなってきた。云われたとおりできるだけ我慢したけれど、限界がきたので看護師さんを呼んだ。当然トイレでと思っていたのに、まだ歩けないからベッドで横になったままでやると云うではないか! おいおい!
 ああ、もうこの後のことは書くまい、否書けないよ。。。。いつの日にか絶対にカッコ良いところも充分に見てもらわなくちゃ!
 久々の開通で晴れ晴れとした気分になった私は凹んだ腹をなでながら弾んだ声で炭坑節の替え歌を口ずさむのだった。クソガ デタデータ クソガーデタ アヨイヨイ。あはは。
 リハビリは入院の翌日から始まったが、こんなに早くからとは思ってもいなかった。まだ出血したところが完全に塞がっていないような気がして怖かったが、リハビリはなるべく早く始めた方が良いそうである(状態にもよるが)。病院の一階にあるリハビリ室まで毎回理学療法士のKさんが車椅子を押して連れて行ってくれた。いつも明るく接してくれたKさんが懐かしい。リハビリ室の手前にここの病院の名前になっている小浜藩の医師であった 杉田玄白に関する資料が展示してある場所があった。ここはいつかゆっくり見にこなくちゃ。
 こうして椅子から立ち上がるのもやっとという状態からリハビリが始まったのである。(以下次回へ)


 2018年10月3日(水) 脳内出血-3・杉田玄白記念公立小浜病院

高浜町文化協会
妻が息子と駆けつけてくれた。
 (9月30日の続き) 救急車が病院に到着してからまもなく、その後は特に何事も起きていなかった私の身体に新たに変化が現れはじめていた。上唇の左側が針先でチクチクと刺されたような感じとともに強ばってきたのだ。あ、これは鎮痛剤にやられた時と似ている!バックステージで服用したのはニトロに間違いなかったのか?慌てていたから間違えて鎮痛剤を渡してくれたのではなかったのか?私の鎮痛剤に対する酷い副作用は若い頃からのもので普段から特に注意していることである。最近ではロキソニンに酷い目に遭った。だからロキソニンと聞いただけでもおかしくなってくるくらいだ。粘膜が糜爛し、唇もやられるからフルートも吹けなくなって治るのに半月もかかってしまう。クスリはリスクとは良くいったものである。私は慌てて妹を呼び、楽屋でもらったクスリがニトロに間違い無かったかを確かめてもらった。結果はニトロに間違い無かった。キリキリは止まらなくて範囲は次第に上方に広がっていく。結局これはやられた脳が原因だと思うようになった。やがて唇から歯ぐきのほうへも広がっていき、結局わたしの顔の左側の上半分が痺れて固まってきた。これが発作後一時間くらい経ったころであったが、更にこの後にやってくる痺れやめまいなどの酷い後遺症の始まりであった。
 若狭地方で唯一脳神経外科があるというのが杉田玄白記念公立小浜病院である。到着後医師からいくつか質問されてからICU(集中治療室)に運ばれるときに一悶着があった。ICUは無菌状態を保つためにフルートなど、荷物などの持ち込みは禁止だと言われた。それは困る!それはないよ!しかし私は熱心に医師を説き伏せて、特例としてフルートを持って入っても良いという許可を得たのである。万々歳であった。きっと私が熱心に嘆願する表情をみてほだされてしまったのに間違い無い。嬉しかった。おかげで以後ずっと添い寝ができたのだから。
 ICUのベッドに横になると19年前に心筋梗塞を患った時のことを思い出した。自慢にならないがICUは二度目だったから。自分はどうなんだろう?助かるのかな。確かに怖いのだけれど不思議なことに私には悲壮感とか恐怖感というものがない。心筋梗塞の時には目の前のモニターに写る自分の心臓に入っていくカテーテルを他人事のように眺めながら好奇心旺盛な私は色々と質問をしないではいられなかったが、あまりのしつこさに「危ないから黙っていてください」とたしなめられてしまった。その時手術が終わってから「このカテーテル、持って帰りたいので僕に下さい」と云ったら、カテーテルが欲しいと言ったのは小出さんが初めてだ、と云われた。命の恩人を捨てられてたまるか。さてCTで原因が分かったので出血が起きないようにしなければならない訳だが、やっかいなことに私は心筋梗塞をやったので普段から血液をサラサラにするワーファリンを服用しているのである。ところでこのワーファリンだが、良い薬である反面怖いクスリでもある。効能書きの副作用の項には重大な副作用として脳出血等の臓器内出血等を生じることがある、と書いてある。嫌な気持ちで服用していたが、真っ先にこいつが原因じゃないかと疑った(今でも疑っている)。しかし今回の処方としては血液がさらさら過ぎては危険なので直ちにワーファリンの効きを無効にするための点滴が行われた。相反する治療をしなければならないという二つの病気を持った、なんと厄介な患者であろうか。医者泣かせとでも云おうか。しかし泣きたいのは私の方である。点滴で困るのは排尿の時だ。水分も補給されるから普段よりも催す回数は当然多くなる。小浜病院のICUで働く若い看護師のIさんもSさんもTさんもすごい美人だった!その美人がわたしのアソコを引っ張り出して、つまんで、用がすんだら優しく丁寧にチョンチョンとノックして etc. 。。。その時の何とも言えぬ屈辱感は計り知れないものであったことは想像できるだろう。(以下次回へ)


 2018年9月30日(日) 脳内出血-2・出血したのは脳幹だった。

バロックザール
フルートの富久田 治彦さんと。
(9月22日の続き) 私は脳内出血を起こす前の月の9月12日(名古屋)、9月15日(東京)、9月20日(京都)の三日間名古屋フィルフルート奏者の富久田治彦さんと意欲的なデュオコンサートを行っていた(ピアノ浜野範子さん)。これは2016年10月14日に私が岡崎宇野病院さくらホールで演奏をした時に聴きにきてくれた富久田治彦さんと終演後の打ち上げ会の席で意気投合して「こんど一緒にやろよ」と約束していたコンサートである。それぞれのソロと2人とピアノのトリオで文字通り吹きまくって・・・・楽しかったけれど、色々とあったコンサートでもあった。
 クルマで家から高浜までの距離は約500キロだから普通だったら一気に行く距離だけれど、疲れていたから途中愛知県の小牧で一泊してから行った。ああ、でもやられてしまった。こんなことになろうとは予想もしてなかった。もっとトシを考えて行動するべきであったか。
 高浜文化会館で演奏中に脳内出血にやられた私は両腕を抱えられて足を引きずりながらバックステージまでたどり着き、一番近いところにあった椅子におろされるともうそこからは一歩も動けなかった。なにしろ足が全く云うことを聞かない。若い男性が私の側に来てくれて「僕は多少医学の心得がありますから」と云うと私の腕を取って脈を診てくれたが、その男性は「脈がないです、はっきりと分かりません」と言う。自分でも左手首の静脈を押さえてみたが、脈を感じられなかった。何故だ?私は1999年の暮れに心筋梗塞にやられてステントも入っているので、これはてっきりまた心臓がやられてしまったのかと思った。それで「どなたかニトロを持っていませんか」と聞くと「持ってます!」という人が居てくれたのですがるような気持ちで戴いて即服用したが、残念ながら私の状態には全く変化がない。一方私はごたごたしながらも裸のままで持っていた金のフルートが心配で堪らなかった。普段から配偶フルートとまで言って気に入っていたフルートである。力が無いので落としてしまいそうでこわかった。それで名古屋から同行していた妹に頼んで楽屋からケースを持ってきてもらい、しっかりとケースに収めてから初めてほっすることができたのである。しかし楽器の扱いに慣れていない妹にこのままフルートを預けてしまうことは到底できないから、抱きしめるようにしてしっかり持っていた。もうひとつ気になっていた事があった。お気に入りのミラーレス一眼カメラα7IIであるが、これは妹に持って貰うことにした(心配だったが)。やがて救急車が到着して救急隊員がやってきた。私を見るなり「これは一歩も動ける状態ではない、急ぎましょう」というなり私を担架に乗せ、会場の表で待っていた救急車まで運んでくれた。生まれて初めて救急車に乗った。妹も同行した。小浜市にある杉田玄白記念公立小浜病院までは遠かった。約40キロの車中ではずっと救急救命士と会話をしていたが30分も走ったころだったろうか、隊員の人が「最初の頃よりも言葉がはっきりしてきたようですね」と言ってくれた。その言葉を聞いて私は幾分安心した。もしかしたらこのまま良くなっていくのかもしれないと思ったから。病院に着くと急患を迎える準備ができており、看護師さんもてきぱきと処置をしてくれる。この看護師さんがとても明るい人で優しい笑顔で色々と対応をしてくれるのがとっても嬉しかったから、何と私はこの看護師さんに名刺を渡してしまったのである!(命が危ないかもしれない患者のすることか!) すぐにCT検査を実施した。その結果担当の磯崎医師が「小出さん、脳に出血がありました。場所は脳幹です。ここは非常に危険な場所なので手術はできません」「。。。。」これは凄いことになった。脳幹とは中枢神経系を構成する重要な部位が集まる器官というところで、自律機能を制御し、多数の生命維持機能を含んでいるという肝心要のようなところだそうであるが、そこに出血したのだという。聞いていて怖くなってしまった。(以下次回へ)


 2018年9月22日(土) 脳内出血-1・高浜町文化会館で演奏中に

高浜町文化協会
この数秒後に、(写真=福井新聞社)
 今年も9月になった。昨年の10月4日に高浜文化会館で演奏中の私に突然に起こった悪夢のようなゾッとする出来事から間もなく一年になろうとしている。運命なのか運なのか、今こうして生きていられるのは奇跡的なのだ。本当に幸だと思わなきゃいけない。治療、リハビリの長い生活は初めてのことでもあり、自由にならなくなった身体で悶々とした毎日であったから、今回のことをDiaryで書くなんてことは出来るわけが無い。しかし一年も経つうちに少しづつ落ち着いてきて、そろそろ文章にしてみようかな、と云う気になってきた。それは今の自分の状態をやっと受け入ることが出来るようになってきたからではないだろうか。私は右半身のしびれと、ひどい目眩という後遺症に悩まされて滅入り、経験したことが無い無情で且つ悪性のストレスとの闘いの毎日であったから書こうなんて気は全くおきなかったのである。辛い毎日。生きていく自信が無くなってしまったことも一回や二回ではなかった。しかしやっと最近になってから、自分は脳内出血にやられたんだ、それも脳幹という手術もできない危ないところなんだ。だから痺れや目まいや、その他様々の不快な後遺症は有って当然のことなんだ、命が助かった事に感謝しなければ、と思えるようになってきた。これは悟ったからか、諦めたからか、或いは慣れたからということなのだろうか、自分でもよくわからない。
 昨年の10月4日に福井県の高浜にある高浜文化会館においてソプラノの野原広子、チェロのユルンヤーコブ・ティム、ピアノの川村文雄さんたちと4人でのコンサート“〜夢の共演〜”で演奏していた時のことだった。コンサートが午後7時に始まってから20分経過した頃、梁田貞作曲「昼の夢」を演奏していた私に突然の異変が襲ったのである。胸の辺りから頭にかけて熱いものが一瞬のうちに猛烈な勢いで押し上げてきて目がかすんで見えなくなり、耳も塞がったようにきこえなくなり、まるで異次元の世界に連れて行かれたような状態になってしまったのだ。ああ! どうしたんだ! 何だこれは! ああ、ああ。 曲はまだ終わっていない、困った、と思ったが、不思議な力が湧いてきて何と絞り出すように曲の最後まで吹いてしまったのである。これは奇蹟と云ってもいいだろう。今になって思いだしても信じられない。吹き終えてからはひたすらに倒れないように譜面台にしがみついていた。左手に持った愛器ヘインズのゴールドが心配だった。野原広子さんに「歩けない」と伝えると、野原さんと川村さんが両腕を抱えてくれて足をひきずりながらステージから下がった。(以下次回へ)



 2018年9月14日(金) 酒器達

お気に入りの酒器達
淋しそうな酒器たち

長年かかって集めた酒器たちには一つ一つにぎっしり思い出が詰まっている。
これ、一部分だよ、贅沢だなあ。

親しくお付き合いしてた陶芸家達は皆良い人だった。
人間国宝の人達はみな亡くなってもう会うことができない。
ぐい呑みを持つと作者の笑顔が浮かんでくる。

私は疾うに一生分呑んじゃったから頻繁に使うことはなくなっているので、みな淋しそうにしてるよ。
私が死んだら、この焼き物達はどうなるのかな。
そう言えばあるギャラリーの主人が「値段を書いた紙を入れておくと良いですよ」と言ってくれたことがあった。あははは、、。
夕食の時に、その日に使いたいぐい呑みを決めて、八海山の大吟醸を一杯だけ呑んでいるんだ。
ああ、うめえこと。



 2018年8月25日(土) 月夜

長年の願望が叶った!
月明かり


夜中に部屋が明るくて目が覚めた。
一瞬電気を消し忘れて寝ていたのかと思ったら、西の空にかかった月の光が差し込んでいた。
心地よい風が吹いていたので網戸にして寝ていたのだ。
2時20分。
夕べは池江選手の六冠達成を見て8時過ぎにベッドインしたから6時間は寝ている。
これを書いたらあと2時間くらい寝よう。
今日は月齢13.7だ。随分と明るいものだな。
はやコオロギが一匹だけ啼いていた。










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