Diary

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Diary with Photograph
人壽百歳蘭香四時
躅飛山光徳寺所蔵の掛軸「人壽百歳蘭香四時」この大らかな泰山文字は中国山東省泰安市の岩山の中腹に刻された金剛般若経の経文から一文字ずつ拓本にとったものである。それをこの軸のように組み合わせて好きな言葉につくって遊ぶ。人壽百歳蘭香四時とは「長生をして常に存在感があるように」であろうか。あやかりたいと思いながら、私の生き様をここに記していきたい。私も昔北京に行った際に骨董屋に赴き20枚ほど買い求めて所有しているがそのままになっている。 躅飛山光徳寺所蔵の掛軸と故高坂制立師



 闘 病 日 記 - 脳内出血との闘い 
(関連記事だけに直行)


 2019年5月11日(土)小出信也式エクササイズ

パウエルとヘインズ
バッハの譜面上のパウエルとヘインズ
 今日は私が昔から毎日行っているエクササイズのやり方を書いてみようかな。別に企業秘密でもないし、僕だけにしか通用しない事かも知れないし。まずフルートを組み立てる前に必ず頭部管だけを吹いてみることから始めるんだよね。これは私にとってとても重要なこと。鏡で自分の口を見ながら、注意深く、調子が良い時と同じように響くところを探す。日によっては予想もしていなかった口になっていて驚くこともある。唇の形や角度や穴の大きさや息の強さを変えつつ、音を出しながら最良のところを探すんだよね。絶対に強くは吹かない。これは頭部管の下を右手でを塞いだり開いたりしながら行う。良い所が見つかってこれが終わったら、今度は胴部管も繋いで吹いてみる。これでよし、となって全部を組み立ててからロングトーンでの仕上げになる、とまあこんな具合。響きのモトをこしらえておいてから、楽器を効率よく響かせて(鳴らせてとは云わない)「その場の空間を振動させる」ような響きを得ようとするわけ。これ、強さじゃないんだよね。人間は機械じゃない、生身の生き物だから体調はいつも同じじゃない。毎日微妙に頬の柔らかさや唇の状態などが異なるから、これをやらないと、せっかくこれだ!と思って喜んでいた口も壊れちゃう。その日の自分の状態が分からないまま無理をしないことなんだ。頭部管だけで吹いてみるのはオーボエ奏者が先ずリードだけを吹いているのと似ている。私の口は昔からとても神経質で日によって変わりやすいから慎重ならざるを得ないんだ。こんなことをやってるは私だけかもしれない。
 ところで病後の私は最良の状態とは言いがたい。良くないところを細かく書き出すときりが無いくらいだ。でも、でも、吹きたくてたまらない。吹かないと病気になっちゃう(もうなってる)。私の可愛いフルートよ、なんて素晴らしいフルートだろう! 我ながら見惚れるよ。こうしてみていると最上級の響きを導き出してやりたいと思わずにはいられない。待っててくれよ。




 2019年5月8日(水) 脳内出血-5・ICUから一般病棟へ

マクレラン牧子さん
マクレラン牧子さん
マクレラン牧子さん(上中央)と愛器ヘインズ
(10月5日の続き)
 福井県の小浜市にある杉田玄白記念公立小浜病院に緊急入院したのは2017年10月4日の午後8時過ぎだった。
ICUのベッドに横になると背中がでこぼこして非常に居心地が悪く、最初はベッドが変形しているのではないかと思ったが、シーツを交換するときに見ても普通だったので不思議だった。しかしどうやらその原因は私の背中の神経がやられていたのが原因らしいと分かったのだった。どう見てもベッドは平らだったから。磯崎医師の8日の見回りの際に「お腹が空いた」と訴えたら、「じゃ食事を出しましょう」ということになって、久し振りに食事と摂ることができるようになった。5日ぶりの食事は普通常食というものでメニューは200ml入りの牛乳パック、ワカメと昆布が入った味噌汁、絞り納豆のステーキ、ササゲのごま和え、かつおみりんのふりかけにご飯だった。これで1500キロカロリー。
 入院してから5日目の10月9日になって、私は一般病棟へ移動することを告げられた。これは危機を脱したという事なのだろうと思った。看護師のSさんが8階の801号室へ案内をしてくれた。今度は個室だった。外部とは閉ざされていたICUと違って部屋は大きく窓が開いて明るく、若狭湾も見えていた。しかし淋しげな景色だった。夕方になると赤く染まる空を眺めながら家に飾ってある斉藤真一の絵を思い出し、水上勉の小説を思い出していた。そうだ、10月10日はオーボエの小島葉子さんの誕生日だから電話をかけてあげよう、と思っていた。
 妻は初めの頃にはお見舞いに来た人が休憩するための場所の片隅で仮眠をとっているような状態だったが、個室になってからはソファーベッドがあったから部屋で寝泊まりができるようになった。ICUでのお見舞いは親族に限られていたけれど一般病棟になってからは決められた時間内であれば誰でもOKになった。沢山の方がお見舞いに来て下さった。地元からはステージで倒れたときに一緒に演奏していたソプラノ歌手の野原広子さんが毎日のように来て下さったし、野原さんの友人で私の友人でもある永井凉子さんも頻繁にきてくださった。 地元で捕れた魚の刺身や寿司や手作りのサンドイッチなども持ってきてくださった。新潟県の浦佐からはマクレラン牧子さんが500キロの距離をベンツをとばして駆けつけてくださった(上の写真)。お土産には綺麗なお花と八海山の甘酒(ノンアルコール)をくださった。牧子さんとこんな所で会うなんて! 南砺市の光徳寺からは住職の高坂道人さんと妹の京子さん、お二人のお母さんの高坂千鶴子さんが来て下さった。また龍角散の藤井隆太社長、島田市からは「なむなむ音楽会」の西照寺木村賢住職、京都からはチェンバロ制作者の春山直岳さん夫妻、山崎からは息子のOp.2-1と2-2とがお見舞いに来てくれた。皆から沢山の差入れを戴いた。
 15日になって、初めて私は気になっていたフルートを見よう思った。この日まではそれどころではなかったから。ステージで発作を起こした時には落とすまいと必死で握りしめていた愛器ヘインズは一体どうなっているのだろうか。身の回り品など全て持ち込み禁止のICUに特別に持ち込みを許可してもらって添い寝をしてきたヘインズ。ケースを恐る恐る開けてみると、果たしてそこには無傷のままヘインズは微笑んでいた。キズも全くなかった。私は愛おしくて時間を掛けて丁寧に拭いてあげた。その時の私の状態では吹いてみることはできなかったけれど、愛おしくてたまらなかった。
 入院中には色々と不思議なことが起こったが、このころになっても同じであった。例の棒で雨戸を叩くような音が変わったリズムで一日中聞こえていたり(十六分の五拍子で休止符が入る複雑なリズム)、まるでシューベルトの魔王のように恐ろしく唸るような風の音が聞こえたり、聞いたこともないメロディーがエンドレスで聞こえてきたりした。脳幹がショックを受けて騒いでいるのだ。
 高浜へ行く時には毎回非常に楽しみにしているところがある。それは私が尊敬している水上勉が昭和60年に創立した若州一滴文庫だが、今回も楽しみにしていた。ああ、しかしとんでもない事になって行かれなくなってしまったのは非常に残念だった。学芸員の下森さんと時岡さんはお元気だろうか。
 私は歩くことが出来なくなったので車椅子で移動していたが、このまま車椅子の生活になってしまうのだろうか、という不安でいっぱいだった。車椅子は19年前の心筋梗塞の時にも使ったから慣れてはいた。しかし今回はダメージが大きかったから再び歩けるようになるのか、非常に不安である。痺れに関しては担当の磯崎医師が、一年経っても残っていたら、それは生涯とれないかもしれない、と言ったのが気になった。(闘病日記 INDEXへ



 2019年5月5日(日)甦ったテレビ!

テレビのお掃除
テレビの裏蓋を開けたところ
 電力を少し多めに食うけれど、テレビは液晶よりもプラズマの方が好きだ。色や立体感が自然で気持ち良いから。テレビを見ると云っても私が見るのはニュース、ドキュメント番組、自然もの、ノンフィクションなどがほとんどで騒がしい番組は一切見ない。我が家のテレビは2010年に買った日立のWoooというプラズマテレビだが、数ヶ月前から丁度画面の中央辺りに幅約10センチくらいの縦帯が現れて日を追う毎に緑ぽい色が濃くなり見づらくなってきた。煩わしいことおびただしい。もう寿命なのかと思った。日立から修理に来てもらおうかとも考えたけれど、自分でなんとかできないものかと色々と調べてみたら、ウェブ上に同じ症状で困った人が、自分で直した、という情報を出していたのを見つけて、ダメモトで真似をしてやってみることにした。スクリーンを下にして裏蓋を上に向けた状態にしておき、20数本のネジを外して裏蓋を開いた。外すべきネジには矢印マークがあるので分かりやすい。そこには猛烈に細かい配線などがあったので注意をしてホコリをはらった。どこかが原因になっているはずであるが、しかし明らかにここだ、と思えるようなところは素人の私には全くわからなかった。工事に際しては裏蓋を外す際も、元に戻す際にもドライバーがネジに対して斜めにならないように持ち、締める時には強すぎないように注意した。ネジは全部を緩めに入れておいてから、全体的を対角線の順に締めるようにした。これはクルマのタイヤを取り付ける時と同じだろう。
 さて組み立て終えてからドキドキしながらスイッチを入れた。可能性は半々だと思いながらも、ああ、どうか直ってますように、、 そして結果は、、おお!疫病神のようだった帯が見事になくなっている! 万々歳であった。やったことはホコリを払っただけであったが。しばらくはこのまま綺麗に映ってくださいね。《参考にしたところ




 2019年4月27日(土)何年ぶりかで謝甜記のお粥にありついてきた

横浜の中華街にて
中華街は修学旅行生がいっぱいだった
 中華街に行ったのは一体何年ぶりだったのかな。もちろん病後は初めてだったから4、5年ぶりだったのだろうか、謝甜記のお粥を食べたくなったのだ。中華街はなんとまあ修学旅行の子供達でいっぱいだった。いいよなあ、最近の修学旅行は中華街で旨い者を食べることができるのか。謝甜記の大将は久し振りなのに私を覚えていてくれた。ニコニコ顔が嬉しかったなあ。頭を坊主にして少し太っていたけど、こちらからもすぐにわかった。私はエビ粥と大好きな梅みそ付き鳥の唐揚げを食べた。思わず妻と顔を見合わせて「うまいね!」」というほど美味しかった。いつもは行列ができているが、今日は早めに行ったからすぐに座れた。なるべく早くまた行きたい。
 中華街も久し振りに行くと見慣れた店がなくなって他の店に変わっていたりして、やはり年月を感じた。次ぎは謝甜記の弐号店の方へいってみよう。こちらには楽しいお昼のメニューがたくさんあるから。



 2019年4月2日(火)楽しかった夕餉

藤井隆太小出陽子
藤井隆太さんと小出陽子さん
 一昨日は教え子2人小出陽子さんと藤井隆太さんが遊びにきてくれた。お陰で楽しい夕食と程よいアルコールをいただくことができた。陽子さんは同じ小出姓だけど血縁はない。いま板橋でピアノ・フルート教室を開いて後進の指導に精を出している。陽子さんは時々電話をかけてくれる。受話器から優しい声で「先生、お元気ですか?」と聞こえてくる時には本当に嬉しい。息子さんが21才になると聞いて時間の経過の早さに驚いてしまう。藤井さんは言わずと知れた龍角散の社長であるが、今回フルート吹きでもある彼がうちにやってきたのは近々バルカン室内管弦楽団と協演する尾高尚忠のフルート協奏曲についてのアドヴァイスが欲しかったから。1968年頃にフルートとピアノ版の出版にあたって私がフルートパートの編集をやったのを知ってのことだろう(ピアノパートは尾高惇忠さん)。かなり演奏が難しい尾高のコンチェルトはイベールのコンチェルトとどっちの方が難しいだろう、といわれるくらいの難物だが、大変に美しい曲である。コンクールの審査の折に聞くことがあるが、たいがいの場合は事も無げにすらすらとは吹くが著しく情緒が不足していることが多いから、この点をアドヴァイスしてあげた。藤井さんは昔の音源を持ってきて聞かせてくれた。私が知っているのは吉田雅夫先生が岩城宏之の指揮でN響と録音した演奏だけだが、これは初めて聴く演奏で誰の演奏であるのか不明。昔から私は新たな曲の練習に際しては絶対に他の人の演奏を聴いてはいけないと思っている。何故ならば先入観が邪魔になってろくな事が無いからだが、もちろん今もこの考えに何ら変わりが無いので「聞かなくてもいいんじゃない?」と言っておいたけれど。それにしても一時は数十億という負債を抱えて経営が危ういと言われた龍角散だったが藤井隆太は今や年商203億円超という凄さまで持ち上げた凄腕。ボーナスが8ヶ月というのもすごい。自分のようにせいぜい数十万円の世界の住人には想像もつかない話である。そう言えば私がまだ高校生で17才の時の思い出がある。横浜の県立音楽堂で樋口一葉のたけくらべの映画音楽(1955年芥川也寸志作曲)を徹夜で録音して4千円稼いだことがあった(空ひばり、岸恵子、山田五十鈴などが出演)。そのころ新聞の朝夕刊を配達して貰っていたのが1500円だったから、初めて手にする大金に涙がでるほど嬉しかった。




 2019年3月30日(土)ヤマザクラが咲いたよ

明日也
台所から見えるヤマザクラ
我が家の台所からの眺めにも春が来た。
ヤマザクラが咲いて、今日はウグイスの初鳴きも聞こえた。
春だよ!
四季の変化があると言う事は我々日本人にとっては当たり前のことだが、世界を見れば気温が一年中同じようなところだってある。なんか刺激が無くてつまらないような気がするが、この冬の様に寒いと年中寒くないところも良いなと思ってしまった。
トシなんだ。
愛用のカメラ二台には予め設定がしてある。方や近所の散歩用に花の接写などに便利な設定に、方や朝焼けや夕焼けの設定に。
朝焼けや夕焼けは秒単位で変化するから、慌てて設定をしようとしても間に合わないから。
普段見慣れていても気がつかないものや、接写で撮ってみて初めて気がつく被写体を撮り続けていきたいと思っている。デジカメ初期は画素が数百万くらいだったが、今の数千万画素を思えば信じられないほどの進歩だろう。しかし多ければ多いほど良いと思っている人がいるが、そういうものでも無い。LeicaQ-Pは2400万画素だからこそ単焦点28mm1本のレンズでマクロ、28、35、50mmの全てで綺麗な画像を撮ることができるのだ。うまくやっている。



 2019年2月12日(火) 病後最初のコンサートを行いました!

明日也
上郷地区センターに来て下さった人達
 ああ、2月9日の地区センターバレンタインコンサートが終わった、体力も集中力も使い果たした。
動きにくくなった指をこの野郎とばかりに叱咤しながら闘ってきた。
吸っても吸っても十分ではない息も、なんとかなったようだった。
立ったままで約一時間の演奏に耐えられるような練習もやってきた。
一旦バランスを失ったら後ろへ倒れてしまう体も大丈夫だった。
歌口に吹き込んだ息が心地よい響きとなって口腔が膨らむような気がして幸せだった。
この日のために頑張ってきたことは報われたと思う。自分を褒めてやろう。
天気予報では大雪だったこの日、奇蹟が起こった。雪がやんだのだ。
定員の倍の応募から聴いて下さった人達に対しては感謝の気持ちで一杯だ。
ピアノの長島伸子さんとこの日の演奏を記録してくださった山下博央さん、ありがとう。
上郷地区センターのスタッフの方々にには大変お世話になりました。
京都からはOp.2-2も夫婦揃ってきてくれたしね。
アンコールでエンターティナーを共演してくれたせんちゃん、楽しんじゃったね。
演奏3日後になって、やっとDiaryを書くことが出来た。
6月には名古屋の五反城教会で吉田文さんのオルガンとバッハのトリオソナタ第七番「幻」の初演(Thomas Meyer-Fiebig版)、秋には金谷の西照寺で、岡崎ではチェロのユルンヤコブ・ティムと或いはドレスデンフィル・弦楽三重奏団との共演が待っている。更に鍛えていかなければならない。
→演奏記録よりClaude Bolling フルートとジャズピアノのための組曲より



 2019年2月3日(日) 田中の健ちゃんと会いました!

明日也
小学校時代の同級生田中健ちゃん
 昨日は並木まで買い物にでかけた。ちょっと離れているけれど、ここに行くとビアレ横浜というショッピングモールがあって衣類でも食品でも何でも豊富に揃っているから便利なのである。我が家が日頃の買い物をするところは、まず近いところで「生協」、そして港南台駅の「ローゼン」と「高島屋」、ちょっと離れて上大岡の「京急百貨店」、小一時間かけて新横浜の「ららぽーと横浜」や「トレッサ横浜」内にあるスーパーマーケットの「SANWA」なども良く行く、と行動半径は広い。つまりは買い物を楽しんでいるというわけだ。
 私と息子の2人は妻が買い物をしている間、近くの長浜公園に行って写真を撮ったりして遊んでいた。お花は殆ど咲いてはいなかったけれど、梅が蕾を膨らませていた。
 並木と言えば私が100日あまりの入院生活を送ったなみきリハビリテーション病院があるところだし、田浦小学校で4年生から6年生までを一緒に過ごした田中健ちゃんが住んでいるところである。その健ちゃんにメールで「いま長浜公園に来てるんだよ!」「おっ、すぐに行く!どこにいるの?」「長浜公園の観察小屋にいるよ!」となって、入院中にはしょっちゅう会いに来てくれた健ちゃんと久し振りに会うことが出来た。いつものダンディーな姿だった。傘寿を迎えるトシになっていろいろと問題をかかえている2人だけれど、会う度にお互いに励まし合って(禿増しあって、でなはい!)いるのである。元気な姿であえることの悦び。健ちゃんとは、思い出多き病院のエントランスに行き、丸テーブルに陣取って一時間くらいを過ごした。入院中にお世話になった療法士のSさんにも連絡したが、会えなくて残念だった。



 2019年1月28日(月) 明日也が来てくれた

明日也
OP.2-1の明日也
 OP.2-1の明日也が約2ヶ月間イタリア、イングランド、スイス、ドイツ、アメリカ、中国を旅行した帰り道の1月26日に最後の訪問地北京から直行してやってきた。カリフォルニアワインのお土産をを携えて!明日也は四十路に突入している。かく言う私は今年傘寿を迎えてしまった。到底受け入れがたい。親子共々確実に年を重ねていく。80才と云えば、今風に言うなら「ぶっちゃけマジでめっちゃきもいジジイ」となるのかな?あはは。一切使わない言葉だからよくわからないが。ついでながら私はあの語尾上げが苦手で体質的に話せない。使ったらなんか病気になりそう。明日也も嬉しい事にこの類の言葉は使わない。細かいことをくどくどと喋るのではなく、少ない言葉で奥まで伝える、と言ったような感じで話する事が多い。場合によっては目の表情だけで意思を通じさせることがある。これで充分に通じ合えるのだ。
 明日也と命名をした時のことは良く覚えている。私は1977年の秋、予定日を間近に控えたある日、夜中にクルマで長野県の国道158号の安房峠を富山県に向かって走っていた。今では難工事の末トンネルが完成して随分楽になっているが、当時はまだ道幅も狭くて舗装も完成していない危険な場所も多くあった安房峠越えだった。何て名前にしようかな、と考えながら運転をしていたが、突然「明日也」という名前が閃いたのだった。絶対にこれだ!と思った。明日也には色んな意味が込められている。そのころに親しくお付き合いをさせて頂いていた優しくて大好きだった備前焼きの人間国宝藤原啓さんが「ええ名前をつけたのう、これを親戚に配ってあげて」と言って毛筆で色紙に味のある太い字で明日也と十枚くらい書いて下さったのが嬉しかった。サインには「啓 喜寿」と書いてあった。
 今度明日也と会えるのはいつかなあ。その前にOP.2-2の青也が遊びにきてくれるのかな。いまから待ち遠しい。



 2019年1月18日(金) 長島伸子さんと練習

Leica Q-P
ピアニストの長島伸子さんと
 病後初めての演奏会で緊張している。2月9日迄あと1か月を切った。
今日おなじみの長島伸子さんと二回目の練習をした。
体が硬いな。本番までにもっとほぐさなくちゃ。日によってムラがあるのが怖い。
あと2回の練習で良くならなくちゃ。
それにしても我が2本の配偶フルートの良く響くこと。甲乙付けがたい。
響かないとしたら原因は100パーセント自分にある。
毎日2,3時間は吹いているが、これで限界だろう。
病気の前は毎日5,6時間吹いても平気だったけど。
ああ、2月9日はいい演奏をしたい。



 2019年1月6日(日) 佐々野 道さんと会いました

Leica Q-P
スキューバダイビングインストラクター佐々野 道さん
 八丈島でダイビングライセンスの講習を受け、ハワイで資格を取得した佐々野 道さんとのお付き合いは長い。かれこれ30年くらいになるだろうか。私がN響定期公演の為に渋谷のNHKホールへ通っていた頃、午前10時からお昼過ぎまで会場リハーサルを終えてから渋谷の街に出て昼食、というのが習慣だったが、食事の後はデパートへ行くのが好きだった。渋谷のデパートと言えば東急デパートだが、ここは比較的空いていて落ち着いた雰囲気が好きだった。その中で良く行ったのがCALVIN KLEINの売り場で、そこで働いていたのが佐々野さんだったと言うわけである。とても物静かで口数の少ない落ち着いた雰囲気に好感をもっていたが、何回か行くうちに話をするようになって、やがて定期公演にお誘いしたと言うわけである。その時のプログラムは何だったかなあ。その後佐々野さんとは沢山お会いした訳ではなかったが、いつの間にか居なくなって、どうしたのかなと思っていたら沖縄でスキューバダイビングのインストラクターをやっている、との連絡にビックリしたことを覚えている。失礼ながら私としては売り場での印象とスキューバダイビングとのイメージが繋がらない佐々野さんだったが、しかし佐々野さんは東急に勤めているころからスキューバダイビングのインストラクターになる為に情熱的に着々と準備をしていたらしい。それから沖縄には2度行ったが、その時はまったく別人のように活発な人だった。本性を現した佐々野さんを見たのだ。現在は”Mint Cruise” ミント・クルーズ のオーナーである。今回は昨年からの約束で東京へ行くついでに港南台の駅まで来てくれるという事になっていたが、会うのは14年目だったかな、しかしそんな期間は全く感じなかった。話が弾んでやめたくなかった。海中で撮った写真を沢山見せてもらったが、それはそれは綺麗だった。若くて健康だったら沖縄に潜りに行くだろう。健康で元気いっぱいの佐々野さんと会っているだけでエネルギーを分けてもらったように感じた。嬉しかったなぁ。次はいつ会えるのかなぁ。14年も空けたら私は生きていないよ〜!



 2019年1月5日(土) Leica Q-Pが来たぞ!

Leica Q-P
惚れ込んで入手したLeica Q-P
 昔から腹が立つほど値段が高いライカ(語源はライツ社のカメラ)。バルナックライカのころは「カメラ一台家一軒」と言われたらしい。それでも自分のものにしたいと思う多くのカメラファンを悩ませてきたカメラ、こんなカメラも珍しいだろう。その後波瀾万丈の時期があったがそれを書くのは面倒だから書かないが、日本のミノルタとの提携などを経て現在はすこぶる健在といったところだろう。私のライカ史を書くとDIII、3F、M3、M6、minilux、R8、そして今回のLeica Q-Pとなる(Q-PはQの派生型)。このなかで1966年に外国で買ったM3は特に忘れることが出来ない。当時給料が3万円なにがしのころに日本ではボディーだけで36万円もしていたM3である。それをSUMMICRON-M 1:2 / 50mmとペアで買った。この事で一冊の本が書けそうである。20数年前に買ったR8以後はライカ病も収まって平和な時期を過ごしていたが、災いは忘れた頃に突然やってきた。ライカウィルスは私の体内のどこかで潜伏していたのである(カメラウィルスのワクチンはまだ無い)。Q-Pは私としてはライカ初めてのデジタルカメラだ。ちなみに私のデジタルカメラ史は富士フイルムFinePix、NikonD70、NikonD300、Sonyα7、Sonyα7II、Sonyα7III、そして今回のLeica Q-P。Q-Pはライカのコンパクトカメラに属するが、過去に買ってきた高価なライカのレンズ群を使わなくても充分に気に入る写真が撮れるのである(特に私のようなジジイには楽だ)。Q-Pはズミルックス f1.7/28mm ASPH.の固定焦点である。これを28mm、35mm、50mm、MACROと使い分けることができる機構が大いに気に入った。固定焦点だから買った後からレンズ買いの泥沼にはまり込むこともない。Q-Pを讃美する記事はネットに溢れている。まだ試しに少し撮ってみただけだけれど、色と云い空気感と云いその写りの素晴らしさはゾッとするくらいだ。ライカのレンズはこれなんだよね。これじゃ益々ウィルスが増殖するだろう。早速Leica Q-Pを粋なストラップで肩からぶら下げて、どこかに撮影に出かけるとするかな。否、取説を熟読し、経験を積んで理解を深めてからにしよう。






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