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過去の日記帳 2010年10月 〜 12月

写真ははずしました。



 2010年11月21日(日) 福光から阿部祥世さん一家が
 11月は楽しみにしていることがある。それは定期便のように毎年11月になると福光から阿部さんご一家に来てくださることだ。阿部さんの菩提所は偶然にも我が家から5分とかからないところにあるから、家に寄らないわけにはいくまい、と言わんばかりに誘うからきっと断りようもないのだろう。今回も私の大好物、福光の有名な「かぶら寿司」を前もって届けてくださった。なんと嬉しいこと!
 阿部さんとは2008年の3月に南砺市で演奏したときに知り合って以来のお付き合いである。演奏会に行ったとき、会場で忙しく動き回って我々を助けてくれた。お母さんは美声で会場のアナウンサーを務めていた。小学五年生のすず乃ちゃんは年齢差があってもせんちゃんとよく遊んでくれる。せんちゃんの嬉しそうな顔!すらっと身長が伸びたすず乃ちゃん、私の身長を追い越すのもすぐだろう。今回は私が白内障の手術直後と言うこともあり、アルコールは禁止期間になっていて残念ながらお茶菓子だけになってしまったが、阿部さん一家が来てくれると明るい雰囲気ではち切れそうになって楽しい楽しい。
 来年の3月には国際ソロプチミスト小松の主催で「青少年育成チャリティーコンサート」(仮)においてシュトゥットガルトゾリステンとの協演が決まっており、聴きにきてくれることになっているからそう間を開けずに会えるだろう。この時はヴィヴァルディのフルート協奏曲ニ長調『ごしきひわ』作品10-3、グルックのフルート協奏曲ト長調、モーツァルトのフルートと管弦楽のためのアンダンテKv.315、フルート四重奏曲第一番ニ長調Kv.285などを演奏することになっている。私は演奏が終わった翌日すぐには帰らにず金沢にホテルをとって一晩ゆっくり阿部夫妻と楽しくやろう、という約束になっている。(写真は11月21日に我が家で)



 2010年12月20日(月) 差間 秀夫さん
 9月に館山の差間 秀夫さんのお宅へ遊びに行った時の帰りに「今度は我が家で!」と約束していた日の9月16日、差間さんは弟子で画描きの八重樫理彦さんを連れてやってきた。約束の時間になろうとする午後2時頃「今大船駅で乗りかえるところなので、よろしく」と電話が入り、港南台駅へ飛んで行くと差間さんが弟子の八重樫さんを連れてニコニコ顔で現れた。「いらっしゃ〜い、ようこそ!」。差間さんは昨年亡くなられた奥さんと来たことがあるので2度目だが、八重樫さんは初めてだ。しかし20年くらい前に北海道で会ったことがあるので初対面ではなかった。彼は国際基督教大学在学中に差間さんのアイヌ舞踊を見てすっかり魅力の虜になり、アイヌの舞踊などを伝授してもらい、今では代役までこなせるようになった差間さんが信頼する愛弟子である。(八重樫さんの個展
 午後4時ころから鍋料理を始めた。酒は八海山の大吟醸!いや話した話した。いくら話しても話しても終わらない。話題の中で特に差間さんが熱っぽく語ったアイヌ民族が和人から受けた虐待の歴史の話しはもっと大勢の人にも聞いてもらいたいと思った。アイヌ民族は文字を持たない。長老が口伝で教えるわけであるが、その記憶力たるや凄いの一言だ。話は尽きなかったが夜中の12時ころになって無理矢理終えたのだった。誰が飲んだのか、一升瓶はからっぽになっていた。
 私がいつも思うことであるがどこの国でも先住民族が受けた侵略者からの虐待ほど非情なことはない。コロンブスだってアメリカ大陸の「発見者」としてまるで英雄のように語られているが、侵略者以外のなにものでもないではないか。先住民族を殺しまくって土地を奪って何が英雄だ、と言いたい。
 人間は人種によって、あるいは宗教によって殺し合う。同種が殺し合うのは人間だけではないか。
 差間さんとの話はつきない。翌日、また近いうちに会おうよ、と約束して別れた。
 「差間 秀夫さんとの20年」は近いうちに「写真館」にアップの予定。 (私が着ているの川村カ子ト記念館で働いていた間宮ワカさんの作品)



 2010年11月19日(金) 田中 あやさん
 11月7日に代官山のヒルサイドプラザホールで行われた弦楽四重奏とフルートによるコンサート「午後のひととき」は会場に満員の聴衆を迎えて盛会のうちに終わった。プログラムは前半がボロディンの弦楽四重奏曲 第二番二長調、後半は私が加わってモーツァルトのフルート四重奏イ長調 K.298、ノブロのメロディー、ビゼーのアルルの女からメヌエット、ジュナンのヴェ二スの謝肉祭変奏曲を演奏した。モーツァルト以外は編曲によるもので普段やっているピアノやハープの場合とは随分違った感じがしたが、ノブロなどはピアノの時とはまた違った雰囲気でけっこう面白かったと聞いて安心した。アンコールにはバッハの組曲第二番からポロネーズ、それにグルックの精霊の踊りを演奏した。「午後のひととき」への出演は二度目で、一回目は昨年の3月に目黒庭園美術館で催された時であった。メンバーは石井 志津子さん(ヴァイオリン)、荻野 照子さん(ヴァイオリン)、田中 あやさん(ヴィオラ)、勝田 聡一さん(チェロ)で、田中 あやさんと勝田 聡一さんは私が高校生だったころに桐朋オケで一緒だった仲間である。
 実はこのコンサートに誘ってくれたのはヴィオラの田中 あやさんだった。ところが昨年の1月にご主人の田中 千香士さんが亡くなった為、誘ってくれた田中 あやさんが演奏できなくなってしまったのである。あやさんとの共演には曰く因縁がある。今を去る五十数年前のことになるけれど(ここは古い話が多いのだ)、その頃私は鳴り物入りで新たに発足した日本フィルに入団していた。オケも楽しかったけれど室内楽もやりたくてウズウズしていたのである。それで気の合う仲間だったオーボエの吉水 洋さん、チェロの岩本 忠生さん、ヴィオラは日本フィルメンバーではなかったけれど竹前 則子さんを誘ってこのメンバーを主体にして練習を始めたのであった。竹前 則子さんと言っても分からないかもしれない、この人こそ今回共演が成就した田中 あやさんの旧姓である。このメンバーでは練習だけでコンサートを出来るところまではいかなかったから残念な思いをずっと持ち続けてきたが、今回は50年前からの望みがかなえられたコンサートでもあったのだ。
 終演後は恵比寿にある「ゆめの庵」で打ち上げ会をやった。その日のうちに帰る予定だったのだが、料理やお酒を前にして遂に我慢ならず、急遽恵比寿にホテルをとって泊まることとし、地元のヱビスビールの生から始まって日本酒を頂きながら美味しい料理に舌鼓を打った。とても幸せな一時であった。あーちゃん(あやさんの愛称)、ありがとう!(写真は右から田中あやさん、勝田 聡一さん、荻野 照子さん、石井 志津子さん、私)



 2010年11月14日(日) ピアニスト青木 礼子さん
 ピアニスト青木 礼子(旧姓難波 )さんのお宅で催されたホームコンサートに出演させていただいた。2年越しの企画が実ったわけである。礼子さんのお宅は世田谷区の閑静な住宅街にあり、ちょうど桜並木が赤く染まってとても美しく初冬の風情を醸し出していた。当日は三十数人が集い、礼子さんのソロや娘の裕子さんのソロ、教え子の新納 洋介さんとの連弾、それに私のソロを加えたプログラムで和やかな雰囲気のなかで行われた。
 青木 礼子さんは私がパリ留学中に作曲家の尾高 惇忠さんが紹介してくれた人で、当時は尾高さんや礼子さん、そして礼子さんと同じ下宿に住んでいたヴァイオリンの田島 まり子(旧姓高木)さん達と共に親しくお付き合いをしていた仲間である。このメンバーでよく会っては食事をしたりコンサートへ行ったりしていたが、車を借りて一週間ほどロワール地方の古城めぐりをしたことは特に素晴らしい思い出となっている。
 礼子さんと最初に演奏したのは留学中パリ14区のモンスーリ公園に隣接したパリ国際大学都市 Cité Internationale Universitaire du Paris の中にある Maison du Japon (日本館)に於いてであった。またモンブランで遭難死した林りり子門下生の先輩加藤恕彦の奥さんマーガレットのご両親はイギリス人だけどパリにお住まいで良く招かれて遊びに行ったものであるが、その時にもバッハのソナタなどを一緒に演奏してもらったことがあった。今回ホームコンサートのお誘いを受けたのは2年ほど前の事だったが、やっと実現でき、とっても嬉しかった。大曲は演奏しなかったけれど、小品を数曲、怪しげな解説付きで演奏した。パリ時代を思い出してとても懐かしく、良い気分で演奏できた。終わってからのパーティーも楽しかった。ふんだんに用意された料理や葡萄酒も美味しかった。青木さんご夫婦はさぞかし用意が大変だっただろう。ご主人が甲斐甲斐しく動き回って働く姿が印象的だった。
 我々はパーティーが終わってからもまだもの足りず、礼子さんのご主人の提案で上北沢駅からほど近い旗幟(きし)という礼子さんがお気に入りの蕎麦屋さんへ行ってざる蕎麦を食べながら更に飲んだ。礼子さんは終始笑顔で嬉しそうだった。私も嬉しい日であった。またやろうね、と約束して別れた。(写真は翌日の11月15日に青木さんのお宅で)



 2010年11月5日(金) 20年来の大親友 差間 秀夫さん!
 1991年のことだからもう20年くらい前の話しになるけれど、私は買うかも知れない14金のヘインズを携えて試し吹きと休養とをかねて北海道を旅していた。最後の2日間は層雲峡に泊まって湯に浸かりながらフルートを吹いていたのであるが、帰る日になって台風がまともに関東地方に来て飛行機が飛ばなくなった。私は急ぐ用事もなかったからホテルを延泊にして朝の散歩に出かけたわけである。層雲峡のメインストリートのゆるい下り坂を歩いていくうちに「カムイトラノ」という名の木彫りの店を見つけた。中に入ると奥さんらしき人が一心に彫り物をしているだけで、まだお客は居なかった。昔からアイヌの彫り物が好きな私は中に入って展示品の一つ一つに見入っていたが、しばらくするとこの店の主人が朝風呂から帰ってきた。上半身裸で肩からバスタオルを掛けた姿で現れたのである。彫りの深い顔で、目が光っていた。視線が合った時どきっとした。差間秀夫さんとの初対面の瞬間である。差間さんは私に話しかけてきた。「どこから来たの?」「横浜です」「遊びで?」「まあそんなものだけど、今日帰る予定だったのに台風で飛行機が飛ばなくなっちゃって、、」「奧でお茶でも飲んでいかない?」 私は誘われるままに彼の後についていった。いかにも日曜大工で作ったらしい石の錘で自動的に閉まる楽しい仕掛けのドアを入ったところでお茶をいただいた。私たちはお茶を飲みながらアイヌの歴史のことなどが話題になって次第に話が弾んでいった。彼は歴史の事実からシャモ(アイヌ人が和人を指していう言い方)があまり好きじゃないと言いながら「小出さんとは何でも話したくなるよ」と優しい目で言ってくれたのである。いつまで話しても話し足りなくて、結局その日は夜中まで盃を交わして大の仲良しになってしまった。
 その日以来私たちの親しい付き合いが始まった。この翌年、私は彼の魅力に惹かれて再び層雲峡へ会いに行ったのであるが、なんと彼は私の為に店の壁をぶち抜いて広くし、アイヌ民族が神事の儀式を行うための囲炉裏や飾り物などを作って歓迎してくれたのである。これには感激した。体が熱くなった。以後旭川で、札幌で、東京で、横浜で彼が演じるアイヌ民族古式舞踊「弓の舞」などを見せてもらったりしたが、10年くらい前から彼は千葉でも仕事をするようになり、現在は千葉の館山に居をかまえて休暇村で仕事をしている。
■層雲峡に会いに行った時に書いた書メモがある。(1991年6月15日登別温泉 「瀧乃屋旅館」 飛鳥の間で一人で夕食中に記したメモより)
 言葉では表現できない位いの幸せな気持ちに満ちている。今日、12時29分に上川発の特急に乗る僕を皆で入場券を買ってプラットホームまで見送りに来てくれたアイヌの人達。差間秀夫さんと弟さん、伊沢修一さんと息子さん。彼等は僕のあだ名を「コロポンクル」(一般的にはコロポックルと言われているが、アイヌの人達が言うコロポンクルが正しい)とつけて「小出さんにピッタリだよ!」と嬉しそうな顔をしてくれた。特急が発車し、皆の顔を思い浮かべていたら涙が込み上げてきて車窓の景色がぼやけてしまった。人生の半ばをすぎていままであまり経験出来なかった人間関係の純粋な形を、今、体いっぱいに感じている。今日、層雲峡を出発する直前、差間さんは僕のためにパンペ(冠)をつくってくれた。これは売っているものではない。アイヌの神聖な神事に使用されるものなのだ。囲炉裏を間にはさんで、差間さんはまず私たちの友情と、両家の親族の交流と幸せとをアイヌの儀式によって祈ってくれた。この出会いの為に2日間、差間さんと僕は嬉しくて仲良く不眠症になってしまった。今日、上川の伊沢さんと差間さんが僕のあだ名を「コロポンクル」とつけてくれたのだ。コロポンクル!これからの僕はコロポンクルと名乗ろう。“愛すべき(大切な)小さなもの”と言う意味だそうだ。(一般的には蕗の葉の下に居ると言われている小人の妖精) 差間さん、今晩も不眠症になってしまったのではないだろうか。有難う! アイヌの人達!!! 友情よ永遠なれ! 涙がこみあげてくる。上川の駅での一人一人の顔がまぶたにうかんでくる。あの純粋な目、笑顔、この世に一番欠けているものが、一番大切なものがあの人達の中に溢れている。若い人達の年長の人に対する尊敬の態度がビリビリと感じられた。礼儀正しいのだ。シャモ(日本人)はいったい何をしているのダろうか。アイヌの人達に対して心からの尊敬とうらやましさを感じる。ああ、今日は幸福感に溺れそうだ。
 差間さんは昨年の9月に最愛の奥さんを亡くした。訃報を聞いてすぐにでも駆けつけたかったのに延び延びになってたが、ようやく先月になって行くことが出来たのである。私は彼の奥さんが柳の皮を編んで作ってくれた「ポンパンペ」(小さな冠の意)をかぶり久里浜から金谷までのフェリーの中で差間さんとの出会いから今までのことを思い浮かべながら館山へ向かった。初めて行く館山の家を探し当てると、差間さんは家の前に出ていて嬉しそうに出迎えてくれた。今回は6年ぶりくらいであったろうか、いくら話しても尽きることがなかった。亡くなった奥さんの話も沢山聞かせてもらった。最初に行った病院で誤診がなかったら助かっていたんだ、と悔しそうに話す時、こらえていた悲しみがこみ上げてきた。(写真は館山の差間さんの家で 2010・9・18)


チリ鉱山落盤事故全員無事生還
 良く耐えましたね!
 良くやりましたね!
 おめでとう!!!
 おめでとう!!!!!!

 Bienvenidos!



 2010年10月13日(水) SWAROVSKIのピアノに見惚れるせんちゃん
 “欲しいものに出会うと無理をしてでも手に入れたくなるから困る事が多い”と「Musée」の初めに書いているけれど、このピアノもしかりだった。昨日から当ホームページのMuséeに出したスワロフスキーのきれいなピアノの置物に興味津々のせんちゃん。せんちゃんはかねてからこのピアノの置物を気に入っていて「テーブルの上に出してちょうだい」を毎日繰り返して言っては私を困らせているのである。その度に、もしも割れたりしたら、という恐怖が私を襲う。壊れやすいからそう頻繁に出すわけにはいかないのだ。でも「これは大事なピアノだから一日一回だけだよ」と言い聞かせて見せてあげることにしている。有り難いことにせんちゃんは決して触ろうとはしない。最近のせんちゃんは約束事はちゃんと守ってくれるのである。これはテレビのリモコンやパソコンも同じで、かつてはいじくり回すので困っていたが、今は「せんちゃんはまだ子供だから触っちゃいけないんだよ」という私の言葉を守り、「せんちゃんが大人になったら触っていいの」と自分に言い聞かせながらかたく守ってくれている。ところでこのピアノ、最近さっぱり見かけなくなったけれど今でも売っているのだろうか。
 何年か前、クリスタル・インプレションというもので、ガラスの中にオーケストラを立体的に彫刻したものが売り出されたが、これも無性に欲しくなって困った。これはイスラエルのU.C.レーザー社が製造したもので、レーザーの超短波波長でガラス内部にミクロン単位で傷を付けて、立体的な彫刻を施すものだ。でもこれは我慢しきった(と妻に言ってるが、本当はまだ欲しい)。これはあっという間に同じもののmade in chinaが出てびっくりしてしまった。



 2010年10月7日(木) 西照寺「なむなむ音楽会」
 西照寺は静岡県島田市金谷にある。ここで「なむなむ音楽会」をするようになってはや十数年が経った。西照寺とのご縁は深いお付き合いをさせて頂いていた故高坂制立師から始まる。富山県南砺市福光にある光徳寺の故高坂制立師が愛知県豊田市芳友町にある芳友寺の安藤源亮師を紹介して下さり、ここで「山寺コンサート」をするようになったのであるが、更にその芳友寺が親戚関係にある西照寺を紹介してくださった、というわけなのである。私の恩師クリスティアン・ラルデが高坂師と私との付き合い方を見て「ami du sake」(お酒の友達)だね、と笑いながら言うのがすごく可笑しかったが、その高坂師が取り持つご縁なのである。西照寺の木村敏住職の温厚な人柄は尊父である先代住職木村寛師から受け継いだものだ。今は亡き木村寛師の底抜けに明るいお人柄を忘れることはできない。お会いしているだけで幸せを沢山戴いた私である。
 西照寺本堂の響きはとても良く、吹いていて気持が良い。しかしご本尊に尻を向けての演奏になるから、これは非常に気が引けるのである。だから私は心の中で常にご本尊に対して合掌しながら吹くように心掛けている。
 木村住職には今年の3月に男の子の初孫が誕生した。いつもの笑顔が更にニコニコ顔になっている。木村住職ご夫妻から受け継いだ美男美女のDNAはお孫さんにもはっきり伝わっているようである。来年には大きくなったお孫さんに会えるのが楽しみだ。
 終わったあとは西照寺のお計らいで焼津グランドホテルに泊まった。贅沢なことに海側の富士山が見える部屋をとってくださるのに、未だかつて一度も見えたことがないのである。一度は見えて欲しい富士山、来年はその美しい姿を見せてくれるのだろうか。
(写真:左から妻、木村敏住職夫妻、先代住職故木村寛師夫人、ピアノの小林えりさん、私の右は長男夫妻、そして右端が長女夫妻とお孫さん)



 2010年10月1日(金) せんちゃんが3才になった
 3年まえの昨日、せんちゃんは生まれた。
夜中の2時過ぎに破水して駆けつけた横浜医療センターで、予定より12日早くその日の夕方に生まれた。あれから3年、早いな〜。
哲也の長男が生まれたのが2か月前だったから、せんちゃんは生まれる前から「叔父」だった。
せんちゃんはずっと前から誕生日を待ってゐた。
「あと三つねたら3才になるの」「あと二つねたら3才になるの」
「誕生日はお〜きなケーキとロウソクを3本買ってね」「ロウソクは自分で持って帰るから」
我が家は港南台駅前の高島屋の中にあるBIGOTのケーキがお気に入りだから、そこへ注文しておいたケーキを午前中に取りに行き、お昼に家でお祝いをした。
せんちゃんはお水で、我々はシャンパンで乾杯した。
せんちゃんはローソクに向かってふ〜っと息を吹いて上手に消した。
せんちゃんは終始嬉ニコニコ顔。
「今日はね、せんちゃん、ぜんぶ3才なの」待ちに待った誕生日だからか大人にはむつかしいことを繰り返し言うせんちゃん。
4才になるのは1年あとだよ、というと指を4本立てて、まじまじと見つめていた。
今まで大きな病気は何一つしないせんちゃん、来年も元気で誕生日を迎えようね!
(写真のローソクが4本なのは3の数字のローソクがあるから)



 2010年9月28日(火) Old New Faces Flutes Concert
 第7回Old NewFaces Flutes Concertが終わった。私はこの前夜珍しく寝付きが悪く、ずっと眠れないでいた。こんなことはここ数年無かったことである。このコンサートにかける思いが私を緊張させてしまったのか。やがて朝になった。前の日の私の唇は絶好調だったから、それをそのまま維持したかったから心配だった。妻に話すと「イビキをかいていたよ」と言うではないか。そうか、じゃ少しは眠れたんだ、と思うと少し気が楽になった。そっとフルートを出して小さな音を出してみる、、、まあまあかな、時間が経てば良くなってくるかな、という感じだった。
 会場で一通り通し練習、午後2時からと5時半からの2回公演、つまり休憩を入れて2時間プロを3回やったわけであるが、私の唇はバテることもなく、ほぼ忠実に思い通りに答えてくれたので良かった。演奏家は辛い。どんなに練習してあっても本番で体調が悪いと本も子もなくなってしまうのだから怖ろしい。ひとつ良いことは年と共に前にはみ出てきた前歯(下)を考えた末に2年前に抜いたのであるが、これが良い結果をもたらしてくれていることだ。それまで長く吹くと歯に当たるところの唇が赤く腫れて音がかすれ気味になっていたのだが、それが全く無くなっているのである。
 共演者の野勢善樹さんは高校生の最後のころから数年間私の所へレッスンに来ていた。今の彼の音は出会ったころとは全く異質のものになっている。フランスへ留学してクリスティアン・ラルデに師事したころから少しずつ変わってきたのだと思う。初めは唇の真ん中で吹いていたのが、ラルデ同様中央から左へずらしてしまったのである。それ程ラルデに心酔したからだろうけれど、私はこんなに恐ろしいことは絶対にできない。(フランス人は中央から少しずらせて吹く人が多いが、それは彼らの唇が薄く綺麗な形をしていて上唇の中央が少し尖っており息が左右に分かれてしまうので仕方なくずらして吹くのだと思う)彼は新しい音を探していたのだ。そしてコンサートの練習を始めて久し振りに彼の音を聴いたとき、とうとう探し当てたようだな、と思ったのである。軽く、明るい音だ。自分の音を意識的に変えてしまうということは並大抵のことではなかっただろう。足繁くボストンのヘインズに通ってマウスピースを作っては替え、作っては替え、を繰り返してきたのも、ひとえに音を探し求めたからなのだ。(私からの影響は飲み食い以外ほとんどない)
 コンサートは2回公演であったが、その両方共に林りり子先生のお弟子さんたちを始め沢山の人が聴きに来て下さった。嬉しかった。ピアノの小林えりさんは大変だっただろう、何しろ野勢と私はソロがあるから相手が吹く時には休めるからいいものの、全曲出っぱなしである。しかし少しも疲れた様子を見せないえりさんだった。彼女が弾くピアノの音はほんとうにきれいだ。5日後にも一緒にコンサートがあるので楽しみ!
 アンコールにはパリ在住の上林裕子さんが作曲した2本のフルートとピアノのための「街の灯」を演奏した。終演後「あのきれいな曲の譜面を欲しいのだけど出版されているのですか」と何人からも聞かれた。けれど残念ながら今のところは出版されていない。きっとそのうちに出版されるだろうと期待している。

 当日のプログラムの挨拶文をここにも掲載して残すことにした。
 林リリ子先生は僕の心の中で永遠に生き続けています。思い出は数えきれません。 1956年の第25回毎日音楽コンクールに初めて管楽器が加わった年のことです。先生から「落ちてもともと、通りゃ儲けもんだから受けてみなさいよ」と言われて受けたところ二位に入賞しました。この時の賞金は2万円でした。先生は「どうせあぶく銭じゃないか、こんど2万円持って家に来なさいよ」と言われて行ったその日は徹夜で行う賭け事の日だったのです。僕はポーカーできれいに全部負けてゼロになってしまいました。家にばれたら困るので月賦で机と椅子を買って、親には「賞金で買ったんだよ、良いでしょう!」と誤魔化しておきました。ところがある日、僕が留守の時に月賦の集金人が来て見事にばれました。  ちょっと恐い思い出もあります。林先生から買ったオットー・メーニッヒの木管にまつわるものです。日フィルに入りたてのころに1万円少々の給料から毎月9000円を3年間も差し引かれて死ぬ思いで払いました。ところが先生は「小出にフルートをあげたんだよ」と言っていたらしいのです。皆から「それが先生から貰ったフルートなの」と言われました。これにはおまけが付いています。日フィルからN響へ移籍してヘルムート・ハンミッヒにかわった時、先生から買ったフルートを自分で始末したら怒られるのではないかとドイツのゲブルダー・メーニッヒに送ってオーバーホールをしてから先生の所へ持って行きました。そうしたら先生は癇に障ったのか世間に対して「小出はね、私があげた楽器を高く売りつけにきたんだよ」と吹聴しているではありませんか。これには参りました。こんなこともありました。僕が日フィルを辞めて先生から離れたいと言いだしたとき、最初は「日本中で仕事ができなくしてやる」と言うのです。しかし実際に辞めてしまうと先生は本当に優しく心にしみる手紙を便箋に3枚も下さいました。それを読んであぁ、本当は先生は優しいんだ、と心から思いました。 先生は優しいときには底抜けに優しいのです。またよく御馳走をしてくださいました。それも高級な中華料理や高価なカニ料理などです。貧乏少年を見るに見かねてのことだったのでしょうが、もう感激ものでした。もしも先生に会っていなかったら、もしも先生が生きていたら、といろいろ頭に浮かびます。林先生が亡くなってから36年、なのに未だに頭から離れない先生は矢張り女傑で凄い人です。さて、2007年から始まったOld New Faces Flutes Concertも今回で7回目になりました。甲藤さちさんから僕に回ってきたこのコンサートは、僕から野勢善樹さんへとバトンタッチして引き継がれていきます。野勢さんは林リリ子先生のところから僕のところへ“回されて”来たやんちゃ坊主でした。軽井沢での講習会の時でしたが、まだ高校生だった彼は初々しく、とても好感の持てる少年でした。彼はお酒が好きだし、僕同様林先生ゆずりのシモネタも好きなところなど、どことなく似通ったところがあるので、それで共感がもてるのかもしれません。今日も林先生を偲んで心からフルートを奏でたいと思います。先生、15才で弟子入りした僕も今は72才になって元気に吹いています。聴いていてくださいね。 2010/09/23 小出信也
★写真は山下博央さんがとって下さったハイビジョン映像からのカットです。とても良い記念になりました。Danke schön!




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