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過去の日記帳 2006年10月 〜 12月

写真ははずしました。


 2006年12月31日(日) 新しいフルートとの出逢い
 今年も実に色々なことがあった。その中でも最も大きな出来事は何と言っても新しいフルートと出会いだろう。それも12月になってからだった。不思議なことだけれど、今吹いているフルートを気に入って もうこれしかない という気持で吹いているのに予期しない出逢いはあるものなのだ。今月の10日には那須でソロを、18日はN響団友オケと王子ホールでモーツァルトのコンチェルトを、22日にはみなとみらいで矢張りソロを、そして28日には上野の文化会館でシティフィルの第九公演で使ったのは絶対に良いと確信したからだった。私が理想とする奏法、それはフェンシングの選手の言葉が非常に参考になっているのである。剣を小鳥だと思えと言うもので強く握れば死んでしまうし、軽く握れば飛んでいってしまうということだ。同じく吹きかたにも絶妙な力が要求される。強く吹けば大きな音がでるとは限らない。力ではない。どんなに小さな音でも大ホールの一番遠い席まで届かなければならないのだから。だから私は鳴らすと云うよりも響かせる、と思って吹いている。これはフィラデルフィア管弦楽団で活躍していた名手ウィリアム・キンケイドが書いていたことでもある。そう言えばフルートの音を生で初めて聴いた中学のころ、その暖かい音に堪らない魅力を感じたことは忘れることができない。その時に聴いた音、それは空気の柱が心地よく響いているような音だった。それが最近では金属板が鳴っているような音が多いと感じるのだが。自分が探し求めている音、今度のフルートが叶えてくれそうに思っている。新しいフルートを吹けば吹くほど響きが増してくるのを実感して興奮している。(Powell Grenadilla14K Rose Gold Mechanism No.12771)



 2006年12月27日(水) ロッジ長蔵クリスマスコンサート
 今年のロッジ長蔵でのコンサートを終えて25日に帰ってきた。今年の尾瀬戸倉にはほとんど雪が無く、豪雪だった去年とは対照的だった。しかし演奏の前夜から小雪が舞いはじめ、朝には辺り一面の銀世界でホワイトクリスマスになったのは嬉しかった。今回のようなフルートとクラリネットだけのコンサートと言うのは珍しいのではないだろうか。選曲にはそうとう苦労したけれど、この顔合わせだとどうしても新しい曲になる。しかし現代音楽とは云っても心が伝わってくるよう魅力的な曲を選んだつもりである。このトシになって初めての曲に挑戦して難しいフィンガリングに苦労すると言うことは脳細胞を大いに刺激し、ぼけ防止になりそうに思われた。共演者の齊藤郁穂さんもきっと苦労したと思う。全曲の演奏が終わった時にお互いによくやったね、という感じでにっこり笑った齊藤さんの笑顔が印象的だった。コンサート後の夕食時には山や音楽好きで共通している仲間達の間で賑やか語り合いがはじまる。これがまた底抜けに楽しい時間なのだ。今回使った新しく購入したパウエルの木管はまだ若い音だと思うけれど、先の可能性がびりびりと伝わってきて将来が非常に楽しみなフルートである。新しい音作りにファイトが湧いてくる。うまく育てていこう。(写真は終演後に齊藤郁穂さんと)



 2006年12月20日(水) カフェ・モーツァルト
 モーツァルト生誕250年記念の年にニ長調のコンチェルトを二回も演奏できたことは実に幸せなことであった。一度目は10月に地元の栄フィル20周年記念コンサートで、そして二度目は 今月の18日にN響団友オケとカフェ・モーツァルトが催したモーツァルト生誕250周年記念コンサートで。なんと美しい曲であろうか。思えば毎コン(日本音楽コンクール)に管楽器が初めて加えられた1956年の第25回の本選で演奏したのが最初である。現在第75回を数えると言うことは何と50年も前のことになってしまった。モーツァルトの演奏に際しては音階、分散和音、アーティキュレーションなど全ての奏法が完璧でないと美しい演奏は成り立たない。何度演奏しても悔いは色濃く残るものである。自分はキカイではないのだから、と慰めてみても始まらない。しかし終楽章の出始めのところなどはトラヴェルソで演奏すれば何でもないことを思うとE - Fの動きに改良の余地はないものかという思いはある。この運指のために我々フルート吹きはどれだけ悩まされることであろうか。愚痴を言っても始まらない。小出の法則、重ねたトシと練習量は正比例する、を実践するしかない。(写真は王子ホールでのリハーサル・指揮は田中一嘉 さん)



 2006年12月15日(土) フルート遍歴
 1953年の中三の時にフルートを吹き始めてから何と53年の月日が経った。今日までの間に何本のフルートを吹いてきたのだろうか、と考えてみた。たいがいはナンバーを覚えているのだけれど、吹く期間が短かったものなどはどうしても思い出せないものもある。一本目はフルートを始めた中学3年の時で、これは無名の真鍮製だった。次に村松の洋銀(銅と亜鉛の合金)にかわった。これはアレルギー体質の私の唇が洋銀の緑青にやられて痛くて吹けなくなって実に困った覚えがある。そのつぎは日本フィルに入団してからで恩師林りり子先生が自分が使っていた楽器オットー・メーニッヒ(木管・頭部管は銀)をゆずってくれたものだった。即金では無理だったから団から借金して買ったわけであるが約三年間という長い間安い給料の殆どを差し引かれて辛かった。1959年にN響入団と同時にヘルムート・ハンミッヒになった。最初は団から貸与のNo.152だったが、やがて自分で買ったNo.274を長く使っていた。多くのLP録音に使ったフルートである。そのつぎは1970年代の初めの頃に当時ハワイシンフォニーオーケストラの首席フルート奏者だったジーン・ハーリングさん(今もご健在)から、自分が註文していたパウエルの順番がまわってきたのでそれを譲っても良いとの連絡があり、持ってきて貰ったものだ。リングキーを初めて使ったわけであるが響きがとても気に入った。当時はパウエルを買おうと思ったら最低でも三年は待たなければならなかった。現在はパウエル・フルート・ジャパンに所狭しと並んでいるフルートを見ると隔世の感がある。銀のパウエルは三本くらい使ってきたがヘルマンヘッセの小説「知と愛」が好きな私はマウスピースだけを金にして「ゴルトムント」と命名して使っていたこともあった。パウエルを使っているうちに金のフルートが欲しくなり註文した。これがなんと七年待ち。忘れた頃に順番が来たから入金せよ、との連絡があった。これがNo.3711で約十年間使ったフルートである。それが1991年にヘインズの14金にかわった。これは後に頭部管を取り替えて吹いているが、今も使っているフルートの一本で、これがCD KOIDESSIMO I の時のフルートである。N響を定年退職した1998年にパウエルの木管を買った。もともと木の音がすきな私の好みにぴったりで、CD KOIDESSIMO I I の録音に使ったフルートだ。これを八年間使っていたわけだが、最近同じパウエルの木管でもマウスピースが今までのBostonとは異なるPhilharmonyがついたフルートをたまらなく気に入ってしまったのである。キーの部分が14金でできているから少し重いけれど、響きが素晴らしい。私は新式?のタンポが苦手で今までのもそうであるが、フェルトのタンポに入れ替えて使っているが、これもそうしてもらった。間もなく18日のコンサートはこの新しい木管で吹く。N響入団の時に吹き始めたハンミッヒ以後は使っているフルートが気に入らなくなって変えた事は一度もない。それはまるで交通事故のように予期しないとき、突然そうなってしまうのであるから不思議なものである。これは私が良く言う Erstrebe noch schöneren Klang なるが故なのか、はたまた単なる好奇心からなのか、多分両方だろうと思う。(写真はパウエル・フルート・ジャパンの小林さんに調整してもらっているところ)



 2006年12月12日(火) 那須第九コンサート
 那須から沢山の素晴らしい想い出をかかえて帰ってきた。10日に那須文化センター大ホールで催された 那須第九を歌う会 の第一部 フルートの調べ で演奏してきたわけである。那須第九を歌う会のメンバーの人たちは第九を歌う歓びに充ち満ちていた。一人一人の歌っている表情が素晴らしく情熱が伝わってきて非常に感動した。もちろん技術的な問題はあるけれども、しかし感動を与え得るのである。素晴らしい演奏だった。音楽の素晴らしさはプロが独占しているわけではない事を改めて実感した。さて私は田中麻紀さんのピアノでドビュッシーの牧神の午後への前奏曲やドップラーのファンタジー(バラキア地方の民謡による幻想曲)など9曲を演奏したのであるが、ドップラーはハ短調版で、これは今では入手できない譜面らしい。今回はパウエル・フルート・ジャパンで気に入ったフルートを見つけてそれで演奏した。とても良い結果が得られたので是非買いたいと思うのだけれど、さて先立つものが、、。那須では三百年の歴史を持つという鰻屋で美味しいウナギを御馳走になったり、メチャメチャに美味しいイタリア料理を御馳走になったりと良いことずくめの旅であった(イタリア料理は「好きなお店」にリンクを設けました)。今回のコンサートのことで色々とお世話をしてくださったH.H氏ご夫妻、連絡係として働いてくださったTさん始め「わたぼうし」「那須第九を歌う会」の皆様に心から感謝している。Moltissimo Grazie!(写真は演奏直前の楽屋で田中麻紀さんと)



 2006年12月4日(月) 9年ぶりの第九
 ベートーベンの第九は定年退職する前の年1997年の暮にN響で演奏して以来、実に9年ぶりであった。広上淳一さんの指揮によるシティフィル(Tokyo City Philharmonic Orchestra )のエキストラとして出演したわけである。浜松フロイデ合唱団恒例のコンサートでソリストに三縄みどり、田中奈美子、持木弘、小川裕二さんを迎えてのコンサートであった。(場所はアクトシティ浜松)。東京での最初の練習の日、広上さんがフルートのメロディーのところで私の方を見て、えっ?と言うような顔をしたが、休憩の時に側にやって来て「小出さんが来ていてびっくりした」と云いながら、お互いを見つめ合い、進化する「ハゲマス会」を笑いあった。それにしても第九は矢張りすごい曲である。第一楽章の始まりからして緊張感の極みのような雰囲気に飲み込まれないようにしないといけない。しかし広上さんの指揮は緊張感を煽るようなものではないから安心である。第九は一体何度演奏したか数え切れないので演奏していて実に様々なシーンがまぶたに浮かんできた。今回は初めてベーレンライター版で演奏したのだけれど、N響で使っていたのはブライトコップ版だったから思わぬところで音、スラーなどが数カ所違うので注意しないと前の習慣が出そうなので気をつかった。でも何と吹きがいのある曲であろうか。シティフィル団員のフルート奏者海治さんは私が使う木管に合わせて、普段使っている金属管に代わって自分の木管をタンポ交換までして使うという気の使いようだった(感謝!)。オケには桐朋時代の旧友でチェロ奏者の千本博愛(ひろちか)君がやはりエキストラメンバーとして参加していて久しぶりに会った。私のことを「コイデ!」と呼んでくれるのは小学校時代か石神井高校時代か桐朋時代の仲間しか居ないが、千本君もそう呼んでくれる数少ない嬉しい人である。第九は年末にやるのでボーナスの時期と重なるわけであるが、私の頭の中でも未だにこの曲とボーナスが連鎖しているようで困った。



 2006年11月29日(水) ロッジ長蔵プログラムの練習
 クラリネット奏者の齊藤郁穂さんが来てくださり12月24日に行われるロッジ長蔵 クリスマスコンサートの練習をした。齊藤さんはN響団友オケに手伝いに来た時、その音を聴いて一緒に演奏していただく気になった人である。長い演奏活動をしてきた私であるがフルートとクラリネットだけのコンサートは初めて。N響OB仲間の浜中浩一さんとは今までに何度かリヴィエのフルートとクラリネットのための二重奏曲とジョリヴェのフルートとクラリネットのためのソナチネは演奏してきたことがあるけれど、あとは初めての曲ばかりだ。もちろん全てオリジナルである。若手の齊藤さんもコンサートでの演奏はほとんどが初めての曲だという。どれもなかなかの難曲である。しかし練習も三回目になると次第に曲想もつかめてきて輪郭がはっきりしてきた。クンマー のフルートとクラリネットのための二重奏曲以外は言わば現代音楽だが、これらからは個性的で不思議な魅力を感じる。その魅力を目一杯に表現しなければなるまい。とにかくフルートとクラリネットの二人だけであるから良い演奏をしなければ飽きられてしまうからこわい。じっくり時間を掛けて作り上げていこうと思っている。二人の異なる個性がぶつかり合い、あるいは解け合ってひとつのものを作り上げるというアンサンブルの楽しさを表現できればと思っている。後ろの壁に掛けてある水墨画の巨匠岩崎巴人の筆になる「未在」の二文字が殊更目に沁みる。(未在は禅の言葉で「未だ在らず」「まだまだ」の意)



 2006年11月25日(土) 藤田日出男さんと
 当KOIDESSIMOの日々是好日にもよく登場してもらう 隠された証言JAL123便墜落事故 の著者藤田日出男さんを伊東に訪ね、美味しいものを食べてきた。これは去る9月7日に戸田でタカアシガニを食べた時にまた美味しいものを食べよう、と約束していたから言わば「第二回藤田氏と旨いものを食べる会」とでも言うべき一時だったわけである。伊東と言えば大好きな画家齊藤真一が無名のころに県立伊東高等学校で教鞭をとっていたところだ。23日は祝日で車も混んでいるだろうと珍しく電車で行くことにした。昼に伊東駅で落ち合い、桐生から元群馬大学教授で工学博士の五十嵐高さんも加わって四人での会となった。五十嵐さんは昔から趣味でフルートを吹いておられるそうである。さて我々は藤田さんの車で県道12号を松川湖方面へ向かった。奥野ダムの手前に冷川トンネルがあるが、そのすぐ手前の右側にある「福也」と言ううなぎ屋に到着。ここはこだわりおやじのうなぎ、と言った感じの店で山椒の粉ではなくワサビで食べるというところ。天然物と養殖物をとって妻と半分づつ食べたがいずれもすごく美味しかった。食後は大室山の山麓へ案内してもらった。すると何と桜が咲いているではないか。ここは9月から翌年6月までの間、桜が咲き続けると言うから珍しいところだ。そう言えば伊東に着く前の宇佐見駅のホームでも桜が咲いていた。夕食までの時間は相模湾を見下ろす絶景の位置に建つ藤田さんのお宅へ行き、航空機関係のものを沢山見せてもらった。ここでもと機長の藤田さんと工学博士の五十嵐さんが交わす会話は実に興味津々であった。専門家の話は難解ではあるけれど深く大きなものを感じる。さて夕方になったので出かけようと言うことになり、藤田さんがよく来るという料理店「割烹きよ仲」での夕食と相成った。女将が付きっきりで面倒を見てくれる金目鯛のしゃぶしゃぶをいただいた。寿司、刺身では食べたことがあってもしゃぶしゃぶは初めてだったが、これがまた実に美味しかった。ここでついに25日ぶりに熱燗で一盃やることに、、と言っても後悔なんかしていない。こんなに美味しいものを25日間も休んでいたのかと思いつつ、あぁ美味しい!の連発だった(藤田さんと五十嵐さんは飲まない)。日頃の多忙な生活の合間にこういった美味しいものを食べたりすることが藤田さんの活動の源になっているように思った。さて、身も心も胃袋も満たされてから宿泊先の大和館へと向かった。ネットで細かいところまでチェックしながら探した大和館は狙い違わず素晴らしい宿だった。全ての湯船は掛け流しで循環濾過は一切無しの本物中の本物。これは当ホームページの「好 き な お 宿」でも紹介したいと思う。滅茶滅茶楽しくて幸せな一時であった。(藤田さんの家で左から五十嵐さん、藤田さん、私、妻)
□藤田日出男の著書
この飛行機が安全だ!
あの航空機事故はこうして起きた
隠された証言日航123便墜落事故
うなぎ福也の大体の位置 □割烹きよ仲のホームページ



 2006年11月23日(木) N響創立八十周年記念
 N響創立80周年記念 感謝の集いが虎ノ門のホテルで盛大に催された。広い会場が招待者で溢れそうだった。今年80年と聞いて考えてみると私が在籍した39年間は1998年の定年退職当時発足以来の半分以上いたことになる。祝賀の演奏をする面々を見ると新陳代謝もすすんで、知らない顔の方が多かった。現在メンバーは109名だそうである。ところでこれからは個性的な音を目指す、と言っていたけれど大いに期待したい。音楽は聴く人の心にしみこんでいくものだから演奏者に心がなくては伝わらない。これからも聴く人に幸せを与えてくれるような魅力的なオケに発展していって欲しいと願う。(祝賀演奏をするN響と外山雄三氏)休酒25日目。



 2006年11月19日(日) 湘南アルス室内オーケストラ
 昨日は逗子文化プラザなぎさホールにおいて逗子サロンコンサートの主催によるモーツァルト生誕250年記念名曲コンサートが行われ、湘南アルス室内オーケストラがセレナード No.13番アイネ・クライネ・ナハトムジーク、ピアノ協奏曲No.23番イ長調、交響曲第40盤ト短調を演奏した。湘南アルス室内オーケストラはヴァイオリン奏者N響OBの前沢均さんが教え子を迎えて1987年に結成したグループで主に地元で活躍している。そこに私も仲間にいれてもらって演奏してきたわけである。指揮者無しというのは一人一人の自発性が期待できるから面白いのであるが、これは勿論指揮者にもよるけれど、善し悪しで嬉しくもあり、同時に不便も少し感じた。と言ってもメンバーは活き活きとして嬉しそうに演奏するので、なぎさホールの心地良い音響もあいまって気持ちが良く演奏することができた。オケの弦楽器郡は音大生や卒業したての若い人たちばかりである。ソリストは葉山出身の現在パリに本拠地をおく若手のピアニストダヴィット・カンピニオンさんで、軟らかい音のモーツァルトは好感が持てた。これから大いに期待できる人である。前沢均さんとは36年間もN響で一緒に演奏してきた間柄だ。また機会があったら呼んでくれるそうだから楽しみに待っていよう。(終演後打ち上げの会場で満足顔の前沢さんと)今日で休酒21日目



 2006年11月13日(月) 1685日目
 当ホームページを公開してから今日で1685日目になりました。1685、良い数字だなぁ。西暦1685年はJ.S.バッハが生まれた年だから。当ホームページを発表したのが2002年3月4日で、それから数えて今日2006年11月13日が1685日目という、ただそれだけの事なのだけれど、表紙に設定してあるカウンターの1685を見て嬉しくなってしまうのである。始めた当初契約していたプロバイダはベッコアメというところだった。それが住んでいるマンションの組合の決定でUSENに変わったのが2004年12月27日であるが、以後カウントも新たにゼロから数え直しということになり、この合計が今朝でなんと147057カウントになった。ベッコアメ時代のカウントUSENになってからのカウント 勿論データをアップした時などの確認作業もカウントされるからこその分差し引かないといけないのだけれど、それにしても有り難い数字である。Merci mille fois !  最近になってもほぼ毎日タグの間違い直しや変更を行っているが、これからもここkoidessimoを見やすく楽しいものにしていきたいと願っている。ちなみにバッハと同じ年にヘンデルが生まれている。バッハが65歳で亡くなったのに対して、ヘンデルは74歳まで生きた。この二人は生涯出会うことはなかった。



 2006年11月10日(金) 明日の練習
 激しかった痛無風の痛みもほとんどなくなり、今日のリハーサルは滞りなく出来てよかった。 激しい副作用のために薬も飲めなかったから一時はどうなることかと心配したけれど、結局は時間が解決してくれた。日本基督教団鎌倉雪の下教会の礼拝堂は良く響くから楽だった。野畑さんと約3時間ほどの練習をした。気になるところは納得がいくまで練習した。鎌倉は東京や横浜の時とは違って家から近いので楽ちんである。朝比奈峠を越えて少し行ったらもう八幡宮だから。帰りにはもちろん一茶庵で鴨南蛮ソバを食べた。いや、いつ食べても美味しいな。一茶庵のソバだったら毎日でも食べても飽きないだろう。そうだ、旨いものと言えばイタリアに居る息子からの知らせでベネツィアのフォンタネッラが店を閉めたことを知った。これはがっかりだ。つぎに行く日を楽しみにしていたと言うのにショックだ。息子も大いに嘆いている。さて旨いものはともかく、明日に備えて今夜はたっぷり睡眠をとろう。今日で休酒13日目。



 2006年11月6日(月) 笛吹人形の集合
 笛を吹いている人形を見つけると欲しくなってしまう私である。特にヨーロッパを旅行していると目に付いて困る。良いものは私にとってそう安くはないので買うのにはかなりの勇気が要る。コレクションは今や相当の数になった。家のあちこちに置いて楽しんでいるのだけれど、ふと思い立って一部分をピアノの上に並べてみた。そうしたらけっこう面白かった。この中には私のLPレコードのジャケットに出演したものもいくつかある。一つ一つ眺めていると買ったときのことが思い出されて懐かしい。私は左利っぽいところがあるが実はフルートもそうだ。もしもフルートが左利用に作られたものだったらもっともっと指がまわったかもしれないと思うことがよくある。この人形のなかにもいくつか左利がいるので親しみが湧く。いくら欲しくてもさすがに古いマイセンの人形には手がでない。高いのではなく、高すぎるから。でもきっとこれからも仲間は増えていくことだろう。痛無風の痛みがまだ完全にとれていない足を引きずりながら動き回る私を呆れ顔で見ている妻を尻目にじっとしていられないクセは直らない私である。(人形を乗せてあるのは新木場で見つけた木管を作るのに用いるグレナディラの板)



 2006年11月1日(水) 「痛無風」
 もうかれこれ20年ちかく前のことになるけれど、十和田の奥入瀬渓流に沿って快適なドライブをしていた時に突然左足の膝に激しい痛みを感じて息もできなくなってしまった。顔から血の気が引いて青ざめ、額からは冷や汗が流れた。私は車を止めたまま、そこから数時間動けなくなってしまったのである。このあと病院で緊急治療を施してもらい、やっとのことで帰ってくることができたのだけれど、これが私が初めて痛風もちの仲間入りをした時だ。帰ってから数日後にN響の練習所へ出かけたとき、私のことを伝え聞いたヴァイオリンのHさんが笑みを浮かべながら側に寄ってきて「小出さんもなったんだってね!」と嬉しそうに言うではないか。Hさんも痛風もちだったので仲間が増えて嬉しいかったらしいのだけれど、私は複雑な気持だった。2度目の発作は4年まえだった。翌日から旅行へ出るという日の夜中に今度は右足の親指の付け根が激痛に襲われて目が覚めた。見ると紫根で染めた布のような色になって腫れているではないか(痛みに似合わぬきれいな色だった)。耐え難い激痛が襲ってくる。その痛い事と言ったらなかった。しかしこの後が更に悪かった。よせばよいのに痛みに堪えかねて数年前に医者から貰った古い鎮痛剤を夢中で探し出して服用してしまった。ところが以前は大丈夫だったこの鎮痛剤のためにひどい副作用にやられてしまったのである。この時のことは2002年8月22日 薬の副作用に書いた通りである。「風が吹いただけでも痛い」から痛風と言うそうだけれど、とんでもない。風が吹かなくても十分痛いのである。これは「痛無風」と言うべきだろう。で、今回は3回目になるのだけれど一昨日から始まってしまった。痛い痛い。血液が高尿酸値になる原因は食生活など色々と言われているけれど、どうも私の場合は体質ではないだろうかと言う気がしている。尿酸値がたかくても発症しない人が居ることを思うと紫根色に腫れた右足の親指を見つめながら大損をしたような気分になるのである。高尿酸値を放っておくとろくな事が無いらしいので、今回のが治ったら前にも増してよく歩き、食事にも注意しよう、と思う。
今日から11月だ。10月の平均気温はずいぶん高めだったらしいけれど、今年の冬はどういうことになるのだろうか。去年はとても寒くて北国は大雪だった。同じような天候は3年続くと言う人も居る。だとするともしかしたら今年も寒いのかもしれない。



 2006年10月30日(月) 項目から「どこに居るの?」と「壺中天地」を削除した
 岡山時代など、子供の頃の友人に会いたい一心で「どこに居るの?」の項目を設けて長年呼びかけてきた。この呼びかけを見た岡山在住の見ず知らずの方まで色々と協力してくださったのだけれど、残念なことに全く情報が無かった。私くらいの年齢ではインターネットをやっている人は少ないのかもしれない。昔岡山へ演奏に行ったときに山陽新聞の記者が私の呼びかけの記事を書いてくれた事があったけれど、その時にもまったく反応が無かった。でも諦めきれない思いがする。残念。悔しい。
 我が愛すべき岩崎巴人の水墨画「壺中天地」は簡単な額縁にいれただけだったので、夏に富山県福光の光徳寺へ行った際に近くの福野で静寿堂を営んでいる表具師、長岡達雄氏へ本格的な表装お願いした。これが間もなく表装も新たに戻ってくる予定である。長岡氏は日本工芸会正会員で卓越した技能者表彰(現代の名工)受賞者にも選ばれた名表具師である。どんなになって帰ってくるのか楽しみだ。戻ってきたら「蒐集癖」に出す予定。



 2006年10月23日(月) 栄フィルハーモニー交響楽団
 昨日、横浜のみなとみらいホールで栄フィルハーモニー交響楽団創立二十周年コンサートが栄区在住の松村正春さんの指揮、ゲスト コンサート・ミストレスに同じく栄区在住で東京芸大卒、同大学院修了の栗原尚子さんを迎えて開かれた。モーツァルトの協奏曲は何回吹いても難しい曲だと痛感する。音階と分散和音でできているモーツァルトの音楽は余程基礎ができていないと上手な演奏が望めない。基礎を超越し、その上に音楽が開くような演奏は並大抵じゃない。まだまだだ。さて、いつもアマチュアオケと協演する時には団員の音楽に対する情熱を強く感じるけれど、もちろん栄フィルも例外ではない。音楽が好きでたまらないメンバーの集まりである。演奏中の緊張した顔が終演後の打ち上げ会の時には幸せに満ちた表情にかわるのを見るとき、それを強く感じる。もちろんこれからの課題も多いから栄フィルを支えてくださる地元音楽愛好家の方々の期待に答えるためにも更に一歩ずつ階段を登っていって行くことを期待する。栄フィル創立二十周年へのお祝いの言葉として書いた文章をここに再掲載します。
 「栄フィルハーモニー交響楽団創立二十周年を心からお祝い申し上げます。1986年の栄区誕生とともに区民オーケストラとして発足した栄フィルが今年で創立二十周年を迎えたことは非常に喜ばしいことです。同じ栄区の住民としてこんなに嬉しいことはありません。今までに数回協演させていただきましたが、その都度団員の皆様の音楽に対する情熱を強く感じて感動を与えられてきました。オーケストラの運営がどれほど大変なものであるかを考えるとき、成人式を迎えたことに大きな歓びを感じます。今後も地元が誇る栄フィルが益々栄えて行くことを心からお祈り申し上げます。2006年10月」
(写真は本番前のリハーサル)



 2006年10月20日(金) ジョリヴェとヘルムート・ハンミッヒの想い出
 ジョリヴェのフルートと打楽器のための演奏会用組曲(フルート協奏曲第二番)が入っているCD JOLIVET CONDUCTS JOLVET ジョリヴェ・コンダクツ・ジョリヴェをオンラインで注文していたが18日に発売になり、昨日届いた。このCDには懐かしい思い出がいっぱい詰まっている。我が家のLPプレーヤーは20年も前から壊れっぱなしで聴くことができなかったから焦るようにしてCDプレーヤーにセットして聴いた。お気に入りのスピーカーBOSE 901から懐かしいヘルムート・ハンミッヒの音が聞こえてきた。録音した当時使っていたフルートはN響に入団した時から使い始めていた銀管のヘルムート・ハンミッヒHelmut Hammig No.274で(最初のハンミッヒは団所有のNo.152で2本目は個人で買ったNo.274)、故吉田雅夫先生も使っておられた名器である。(関西に本拠がある貿易会社神栄生糸の鈴木智之氏が輸入)録音したのはジョリヴェが夫人同伴で二度目の来日をした1970年の秋で、彼の指揮はとても分かりやすいものであった。また録音以外でも東京近郊数カ所でこの演奏会用組曲を演奏した。ジョリヴェ夫人が色々と親切にしてくださったことも懐かしい想い出となっている。ジョリヴェの音楽からは人間の深遠なる秘めた情熱のようなものを感じるが、この曲もしかりである。ピエール・ブーレーズとの不仲は有名であったが、どちらかと言えば冷静沈着なブーレーズとは対照的なジョリヴェであったから何となく頷けるのである。ジョリヴェはこの録音をした4年後の1974年にインフルエンザをこじらせて僅か69才という若さで世を去ってしまった。改めてご冥福をお祈りしたい。 JOLIVET CONDUCTS JOLVETの情報は→こちらです。



 2006年10月17日(火) オータム フルートコンサート イン 韮崎
 韮崎の河童こと小池英男さんと知り合ってから十数年になる。小池さんは工務店を経営する人であるが、地元では知る人ぞ知る音楽好きで通っている人だ。小池さんはとても上手にフルートを吹く。しかしそれがほとんど独学で勉強したと聞いて驚いてしまう。とにかくフルートを好きで好きでたまらない人なのだ。その小池さんが主催する“オータム フルートコンサート イン 韮崎”を無事終えて帰ってきた。今回は韮崎出身で現在東京芸大の院生であるフルートの岩下奈未さん、過去に数回共演して気心知れた神足幸子さんのピアノというメンバーでの演奏だった。アンコールは当然用意してあるものだけれど、当日の朝になって小池さんにも吹いて貰おうと思いついて急遽出演してもらったが、急な事であったにもかかわらず綺麗な音で私との二重奏を吹いて喝采をあびていた。こんなこともあってコンサートは非常に暖かい雰囲気のうちに無事終わった。小池さんのまわりにはいつも朗らかで音楽好きな仲間達がいて笑いが絶えない。素晴らしい韮崎の河童達であった。帰りには3年ぶりで仙石原のお気に入り温泉ロッジ富士見苑で一泊し、翌日は御殿場プレミアムアウトレットに寄って数年間履きずめでくたびれている普段履きの靴の代わりを見つけて買った。どこからも富士山がよく見えていた。(写真:地元の高校生から花束を受ける左から神足さん、私、岩下さん。



 2006年10月12日(木) 野畑潤子さんと練習
 昨日は千駄ヶ谷にある青山ハープというところで来る11月11日の鎌倉の雪の下教会で行われるハープの野畑潤子さんとのコンサートの練習だった。曲は全て野畑さんが決めたが、私にとっては珍しい曲が多いのでなかなか大変。野畑さんとは私がN響へ入団する少し前の1958年に、先日無くなられた岩城さんの指揮による京響の定期公演でモーツァルトのフルートとハープのコンチェルトを演奏したことがある仲である。まだ当時は京都会館などの立派なホールがなくて祇園にあった八坂会館というところだったが、今もあるのだろうか。そんな思い出のある野畑さんと共演できるのがとても嬉しい。実は野畑さんは外国のスキー場まで出かけていくほどのスキー好きで知られている。私も何度か志賀高原などへ一緒に滑りにいったことがあるが、黙々と楽しんでいる野畑さんの姿が印象的だった。話は変わるが、練習をした青山ハープのすぐ近くを首都高速が通っている。そこを走っている車から青山ハープのショールームに並んでいるハープが見えるそうだが、それを見た人が買いにきたと言うから面白い話だ。



 2006年10月9日(月) 栄フィルとの練習
 今年はモーツァルトの生誕250年にちなんで、私もN響団友オケと地元の栄フィルとの間でコンチェルトを二回演奏する。ニ長調KV.314である。毎日練習していて改めてモーツァルトの素晴らしさを思い知る。地元のオーケストラと協演できると言うことは非常に嬉しいことである。増してや今年は栄フィル創立20周年の記念の年なのだ。ホルン奏者の松村正春さんが昔から指揮、指導を行っているが、メンバーとはまるで家族の様な間柄のように見えてとても微笑ましい。名コンビというところだろう。モーツァルトの演奏に際しては十六分音符が四つのうち、初めの二つにスラーがかかる、いわゆるモーツァルト・アーティキュレーション奏法非常が難しい。初めの二つのスラーが詰まってしまったり、二つめの音が短くなったりすればもうきれいなモーツァルトは望めない。この練習方法は昔ザルツブルグの講習会で今は亡きカールハインツ・ツェラーのクラスでレッスンを受けたことがある。知的な練習をしなければならないのだ。練習、練習! 1835年の今日私が大好きなサン=サーンスが生まれた日で、こちらは生誕171年だ。(写真は栄区民会館で練習が始まる前に) →栄フィルのホームページ



 2006年10月3日(火) モーツァルトのフルート協奏曲ニ長調の練習
 12月18日に銀座の王子ホールで行われるN響団友オーケストラのコンサートの練習のためにN響の練習所へ行ってきた。古巣へ戻ったような感じがした。曲はモーツァルトのフルート協奏曲ニ長調である。この曲は毎日音楽コンク-ル(現日本音楽コンクール)に初めて管楽器部門が新設された1956年(第25回)に私が18才で受けた時の本選の課題曲であったが、何と今から50年も前のことである。以来一体何回演奏してきたことだろう。譜面にしても当時はBreitkopf版しかなかった。今はSyrinx-VerlagやAmadeusやBärenreiter、Rudall Carte、Henle Verlag版など全てを持っているけれど今回使用するのはHenle Verlag版である。頭にインプットされているのは最初のBreitkopf版が濃厚であるから音やスラー、タイなどを覚え直さなければならない。ここで私が良く言う小出の法則「重ねたトシと練習量は正比例する」をしつこく実践しなければならないことになる。しかし結局は様々な版を参考にしながら自分なりの譜面になっているようである。練習が終わってからN響時代によく行った練習所となりのレストラン樫の木で夕食を済ませてから帰宅した。美味しかった。(写真はN響練習所で。指揮は田中一嘉さん)




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