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過去の日記帳 2006年1月 〜 3月

写真ははずしました。


 2006年3月25日(土) 青也
 中国で云うところの季節の色「青春、朱夏、白秋、玄冬」から新春の1月生まれなので青也と名付けた次男が京都から遊びにやってきた。今のところ頭髪に問題はなさそうだけど、当人は私を見てかなり気にしている風である。どっちを向いても血の流れは不安に満ちているから心配も当然だろう。ま、27歳の今日まで持ちこたえているのだから、もしかしたら大丈夫かも知れない、と言うような意味のことを云ったら嬉しそうに笑った。ロックバンドを主宰しているのだけれど色々と大変らしい(当ホームページからリンクしています)。何でも今は充電中とのこと。去年のこと、イタリアでリュートを勉強中の兄の明日也のところへ青也が遊びに行った。その時に聴いたバッハの音楽から夜も眠れなくなるほどのショックを受けたという。自分で作詞、作曲、演奏をやる青也のこれからに何らかの影響が現れるかもしれない、と思ったりする。一晩泊まる予定が急なスケジュールの変更で夕食を済ませるとさっさと東京へ行ってしまった。昨日在庵 今日不在 明日他行(浜田庄司)を思い出した。



 2006年3月19日(日) ヘルマン・ヘッセ
 ヘルマン・ヘッセが好きな私は中でもとりわけ「ナルティスとゴルトムント」(知と愛)が好きで1968年に初めて読んで以来数年間をおいては読み返している。特にこの小説が私を惹きつけるのはゴルトムントの言動である。ゴルトムントがニコラウス親方の下でヨハネの像を造る行は意味が深く、考えさせられる。この場面こそが哲学者マルティン・ブーバー(Martin Buber 1878-1965) が「我と汝」(原題 Ich und Du)で云っている“芸術とは”の行と重なるように思えるのである。以前に或る画家とヘッセの話をしたことがあった。話がゴルトムントの事になるとその画家は興奮気味に「ゴルトムントこそが芸術の根源である」と言い切った。ゴルトムントが好きな私は銀のフルートを吹いていた時代にもマウスピースだけは金にしていた。それはゴルトムントの直訳が“金の口”だからである。小説は「マリアブロン修道院の入口、二重の小さい柱にささえられているアーチ型の門の前に、すぐ道にそって、一本のカスターニエンの木が立っていた。」という文章で始まるのだが、嘗てマウルブロン修道院(小説ではマリアブロン)を訪れた時、入り口に小説の通りに栗の木が生えているのを見て感激した思い出がある。アーチをくぐって中に入っていくと美しい回廊があった。歩いていくうちに石棺が置いてあるところにでた。じっと見ているうちに急に入りたくなった私は中に入って横になり同行していた妹にシャッターを切ってくれと頼んだところ、驚いた妹が「信ちゃん、よしなよ〜!」と叫んだけど遅かった。私はゴルトムントが過ごした修道院に来たという実感に満たされてご満悦だった。「ナルティスとゴルトムント」そろそろ読み返す時期がきたようだ。マウルブロン修道院は1993年に世界遺産に登録された。 動画で見るマウルブロン修道院(要Quick Time-Player)



 2006年3月18日(土) アボ
 何故かアボカドのことをアボガドを書いている店が非常に多い。だから買い物に行った先々の店でアボドと書いてあるのを見つけると忙しそうに働いている店の人をつかまえては「これ、間違ってるよ」と言わずにいられないお節介な私である。行くたびに言うのでうるさいと思ってか、書き直してくれるとほっとする。ところがである、しばらくすると又アボドに戻してしまう店が多いのだけれど、どうして? 英語ではAvocadoと書くからアヴォキャドかな、これじゃ日本人には云いにくいからアボカドでいいんだろう。Googleで検索してみた。アボガド表記を検索すると1,290,000件で、アボカド表記では1,610,000件だった。ま、アボガドと書いても通じるのだからこれで良いのかもしれないし、別に命に関わる問題でもない。ついでながらスペイン語、アステカ語では何故かきんたまの意。



 2006年3月9日(木) Zum Tode Karheinz Zoellers
 ドイツのフルート奏者カールハインツ・ツェラーさんが亡くなられた。享年76歳であった。去年の7月29日のことである。当ホームページのTechnical adviser山下博央氏からの情報で知る事となったわけであるが、非常に驚いている。7月29日と言えばちょうど私がベルリン付近を歩き回っていた頃ではないか。ツェラーさんとの思い出は多い。パリ留学中にツェラーさんが木管アンサンブルでやって来た時、やっとの思いでコンタクトをとって念願のレッスンを受た時の嬉しさは忘れることができない。とにかく私が若い頃に一番憧れたフルーティストなのだから。彼の音はダイアモンドの様に硬質なものではなく、真珠が放つ暖かい光のような響きだった。春のそよ風が野原を駆けめぐるような音だった。かつてベルリンフィル時代にツェラーとオーボエのローター・コッホが並んで吹く時、二人の音と音楽がホール中に満ちて聴衆を魅了し、支配してしまう程だった。ベルリンフィルで南米旅行中に乗っていたタクシーが事故をおこして肋骨を数本折るという重傷を負ったことがあったが、この時には非常に心配した。数ヶ月後に怪我が治ってベルリンフィルの演奏会場のステージに彼が現れた時、聴衆は総立ちになって暖かい拍手で迎えたという。彼は常に家族や自分の若い頃の写真を大切に持ち歩いていた。それを嬉しそうに見せてくれた。また自分の教え子たちへも思いも深かく、誰がどこで活躍しているかを全て覚えていて、それを誇らしそうに話してくれた。ツェラーさんの訃報を載せたドイツの季刊誌TIBIA(写真)に「ソリストやオーケストラの首席奏者はもとより、室内楽奏者や教育者として も、20世紀後半におよんだツェラー氏の活躍は世界のフルート界に刻み込ま れた。氏の感情的に脈打つ響きは常に個性的で誰にも真似は出来ず、何世代に もわたる聴衆を驚かせ魅了し続けた」(山下博央氏訳)とある。心からツェラー氏のご冥福をお祈りする。



 2006年3月4日(土) 今日は記念日
 2002年の今日は当ホームページKOIDESSIMOがスタートした日で、今日でまる4年目になった。ちなみにKOIDESSIMOとは有名ブランドのクリスチャンディオールの中に香水史上に残る名香の一つに数えられるというDIORISSIMOと言うのがあるが、これを私なりに訳せば「一生懸命にディオール」となるので、よし、では自分がやること全てがコイデッシモにしようと1970年の初め頃に決めたことであった。この他にも私の造語には「我愛風流人」や「風便」など色々と多い。
さて当初は難解な解説書を読んでも読んでも理解できなくて大いに悩んだテキストやタグの使い方。でもある日、一つの大きな壁を越えたことがきっかけとなって、以後は案外スムーズにやってきたように思う。もちろん勉強(ちょっと大袈裟な表現)は今でも続けている。タグの使い方は奥が深くて到底理解しきれるものではなさそうだけれど、新しいアイデアでうまくいったときには本当に嬉しい。注意すべきは自分よがりで懲りすぎで遊びのタグはなるべく使わないようにすることだ。新聞や有名会社や個人のホームページでもよく見かける文字色が薄くて白っぽくて読みづらいもの、あれは困る。演劇ではないのだから紗幕の向こうに文字を持って行く必要はないだろうと思うのだけれど、それが非常に多いのは何故だろう。アクセシビリティ(Accessibility)という言葉を忘れないように見やすくて楽しいホームページしたいと願う。ウィキペディアで見る「今日は何の日」によると、当ホームページと誕生日が同じ人の中にアントニオ・ヴィヴァルディや理論物理学者のジョージ・ガモフや作曲家のポール・モーリアなどが居て嬉しい。また3月4日の誕生花は木苺で花言葉は愛情、深い後悔、だそうである。深い後悔、うむ、、、。



 2006年3月2日(木) チーズフォンデュ
 昨日は高校時代からの友人木田泰子さん(写真左端、仲間の親分役)が友達二人と共に大好物のチーズフォンデュの材料を抱えて遊びにやって来た。このメンバーは年に1〜2回の割合で我が家に集まっては賑やかに食べたり呑んだりする仲良しグループであるが、この会も5,6回目になった。材料持参というのは実に有り難い。こっちは少しの料理とサラダなどの用意だけで済んじゃうのだから妻は楽をさせてもらったわけである。チーズフォンデュという料理はもともとスイスの田舎料理だから、どっちかと云えば英語のcheese fondueよりもチーズをフランス語にして fondue au fromage(フォンデュ オ フロマージュ)と言った方が美味しそうに聞こえると思うのだけれど、何故か我が国ではチーズフォンデュという言い方しかしない。理屈はともかく、昨日は雨模様の鬱陶しい日だったけれど、昼からシャンパンを抜いて話が弾んだ。若い頃からの友達というのは遠慮がなくて気楽なものだ。なんでもずけずけとしゃべれるから肩が凝らなくて良い。泰子親分と私の会話などは端から見たらまるでけんかのように見えるかもしれないけれど、当人たちはそれでけっこう楽しんでいるのだ。年相応に健康上の話が多くなるのは当然だったが、しかし話題がダンナとの事になったりすると私は気後れして敵にも味方にもならず大人しく聞いている風にしていたと思う。そうこうしているうちにあっという間に夕方になってしまった。次回はタコしゃぶにしよう、と言うことにして解散した。



 2006年3月1日(水) ライカ
 スケジュールに余裕ができると常湿常温に設定したケースに鎮座ましているカメラたちを引っ張り出しては「お〜よしよし」と愛機を愛でる時間も出来るというわけである。長い期間使用しないでおく場合、時々カラシャッターを切ってやらないと粘ついてしまうから注意しなければならない。DIII、IIIF、M3、M6、R8などライカのカメラはシャッターを切ると実に良い音がする。精密機械が作動する音は何とも表現しがたいほどに心地よい。M3は1/4秒くらいから下の遅いシャッターを切るとジーと云う音が残るが、これが又たまらない。右の写真のカメラ(M3)に付けているレンズは、かの木村伊兵衛が「まるで古井戸をのぞき込んだような、」と形容した開放f値が1.0のノクティルックスである。十数年前、このレンズを買うためにどれだけ頑張ったことだろう。何ヶ月も思い焦がれて、やっとの思いで買った時には嬉しかった。ところで一昨日の新聞に松下電器が今年中に初のレンズ交換式デジタル一眼レフカメラを売り出すという記事が載っていた。このカメラに用意されるレンズは新しく設計された「ライカDバリオ・エルマリート14-50mm/F2.8-3.5」というものだそうだが、その価格が問題である。ライカは超高額路線を転換して、何とこのレンズを従来と比較して約半分の価格で供給するというのである。この話、本当だろうか。安くなるのは悪いことではないのだけれど、苦労して集めてきた私は複雑な気持ちになってくるのである。ライカの業績も最近は思わしくないと聞く。1810年の今日、フレデリック・ショパンが生まれた。



 2006年2月15日(水) 遠州灘の天然トラフグ
 こんなに嬉しく楽しい旅行があるものだろうか。大好物のフグ料理をいただきに静岡県の金谷町へ行ってきた。ここにある古刹西照寺は十数年前から毎年秋に「なむなむコンサート」を行っているお寺で、その西照寺住職木村敏師から金谷にフグが美味しいお店があるので是非一度、とのお誘いに持ち前の図々しさで出かけたと言う訳である。金谷にフグが美味しいところがあるとは思いもよらなかったけれど、遠州駿河湾で獲れるトラフグは知る人ぞ知るものだそうである。トラフグ全体の漁獲量は養殖ものをいれて約六千トンだそうだが、このうち天然トラフグはその1割の六百トンでしかないらしい。そしてこのうちの何と六割の三百六十トンが遠州灘で獲れると言うのだ。これは知らなかった。料理をしてくれたのは金谷駅からほど近いところにある「あさひ寿司」のご主人で、西照寺からの進言で五十を過ぎてからフグの調理師免許を取ったというこだわりの人である。最初に食べた刺身の一口の旨さよ!フグちりなどを戴きながらひれ酒をコップに二盃も呑んでしまった。往きも復りも富士山がキレイに見えて、まさにフグ旅行を祝福してくれているようだった。(写真左上から:木村住職ご夫妻と息子さん、あさひ寿司のご主人、刺身、東名高速富士川SAからの富士山)



 2006年2月7日(火) パナリ土器
 離れた島であることからパナリ(離れ島)と呼ばれた新城島(あらぐすくじま)は西表島の南端から6.3kmの距離にある定期便も通わない島だが、ここで焼かれていたというパナリ土器というものを石垣島の或る店で偶然に見つけた。見た瞬間から心を惹かれてしまった。詳しいことはよくわからないが、大阪在住の西念秋夫さんや、嘉陽(かよう)恵美子さんという人によって西表島で復元されているらしい。南蛮焼きと似ているようだけれど野焼きの低火度で焼成されるので柔らかく、扱いには気を遣う。これを知らないで行ったのはうかつだった。見つけたのが島を離れる寸前だったから余計に悔しさが募る。今すぐにでも西表島に引き返したい思いだ。パナリ土器は沖縄や離島でよく見かける屋根瓦の色と同じ赤い色をしている。私はかねがねこの赤い瓦が好きで興味を持っていた。今回の旅行で竹富島行った際に泊まった宿が屋根を修理していた。それで赤い瓦はどこで手に入れることができるのかを工事をしていた職人さんに聞いたところ、昭和初期に作られたもので現在では入手できなくてリサイクルで大切に使っていると言う。しかし私が余程欲しそうな顔をしていたと見え、良かったら持って行って良いよ、と気前よく一枚を手渡してくれた。おお、その時の嬉しさ!パナリ土器と赤い屋根瓦は今回の大収穫であった。瓦は食器として使うつもりだ。



 2006年2月6日(月) 琉球大学フィルハーモニー定期演奏会
 沖縄は春か初夏のような気候でとても過ごしやすかった。本番2日前の27日から行ってオケ合わせをやり、29日の演奏会を迎えた。当日会場はあたたかい聴衆で一杯になり、良い雰囲気の楽しいコンサートであった。琉大フィルのメンバーは大学に入ってから楽器を始めた人が殆どだと聞いたが、難しいプログラムをこなしてやってのけるのには感心した。サンサーンスのバッカナールでの管楽器のソロなど、奏者のキャラクターが惜しみなく表現されていて目を見張った。メンバーの努力もさることながら指揮の家田さんや音楽監督の庭野さんたちの苦労が実ったということだろう。終演後の打ち上げ会では長い準備期間の苦労や演奏の緊張からの開放感から、メンバー全員が盛り上がって底抜けに楽しい会だった。さて、私はまだ沖縄本島以外の島には行ったことがなかったから、ちょうど良いチャンスだったので演奏が終わってからは与那国島、竹富島、石垣島、西表島を巡ってきた。今回西表島で見つけたパナリ焼きは今までその存在さへ全く知らなかった焼き物だったので“発見”した時の嬉しさは大きかった。西表島から船で約10分の新城(あらぐすく)島で明治初期頃まで作られていたとされるパナリ焼を復元しようと、今は西念秋夫という人たちが研究しながら作っているらしい。焼き物の原点を見るようなこのパナリ焼きは魅力に満ちている。とにかく何もかもが珍しく、興味津々だった。これらの思い出は写真館にアップしたので見て下さい。



 2006年1月22日(日) 岩城宏之さんと
 昨日は上京(と我が家では東京へ行くことをこう云う)して、我がN響団友オケの演奏会が行われるオペラシティーへ行ってきた。といっても演奏をしに行ったのではなくて、実は写真を撮りに行ったのだ。団友オケが仕事上で使う写真が古くなったので新しい写真が必要になり、それで私が大役を仰せつかったわけであるが、こんな仕事は初めてのことだったから少なからず緊張の一日だった。大雪が降りしきるなかを7時半に家を出た。幸い通行止めの区間も無く無事初台のオペラシティーに着いたのは9時頃。早速ホールへ入ってどこから撮るか、持参したレンズのどれを使うか、どんな光線か、などを調べた。客席から見るオペラシティーはなんとも綺麗なホールである。10時からのリハーサル中、ニコンのD70を使ってRAWデータで撮った枚数は300枚ほどになった。健康が勝れないと聞いて心配していた指揮者の岩城さんとは久しぶりだった。もともとタフな人であるが、昨年の暮れにベートーベンのシンフォニー第一番から九番までを一人で振るという「振るマラソン」を“完走”して話題をまいたことは記憶に新しい。楽屋に訪ねるとピアニストのかおり夫人と共に大ニコニコ顔で迎えてくれた。元気そうだった。大事な写真を撮り終えてからは折角のチャンスとばかりに番外編で岩城さんやオーボエの川本さん、フルートの宮本さん、クラの浜中さん、ファゴットの霧生さん、ペットの北村さんなどのアップの写真を撮って遊んだ。



 2006年1月16日(月) 琉球大学フィルハーモニー管弦楽団
 今月の29日に行われる琉大フィルハーモニー管弦楽団第44回定期演奏会の練習のために沖縄へに行ってきた。出発した13日の朝、横浜はこの冬の最低気温まで冷え込んで非常に寒かった。今回乗ったのは双発の巨大機ボーイング777-300で、これは初めてだったからルンルン気分。窓のすぐ近くに大推力のエンジンが力強く見えていたので写真を撮った。(今日の空を見てください )初期トラブルがあったエンジンだが快音を発して快調そのもの。しかし冬季は時速210キロという猛烈なジェット気流の向かい風で対地速度は700キロ少々と伸びなかったが、逆に帰りには追い風となって何と時速1100キロにも達し、所要時間も40分短縮であった。さて、指揮者の家田厚志さんと一緒に那覇空港に降り立った時には出発時の寒さに比してあまりの暑さにびっくり。機中にてキャプテンからのアナウンスで那覇の気温は24度と聞いていたのだが、コートを脱ぎ、マフラーを取り、分厚いヴェストを脱いでも肌着は長袖なので暑いったらない。到着ロビーへ出ると人なつこい面々の琉フィルメンバー9人が出迎えに来ていて我々を見つけると一同揃って大きな声で“めんそーれ!”(いらっしゃいの意)とやってくれた。メンバー達とうち解けあうのに時間はかからなかった。実に楽しい沖縄練習旅行だった。本番が楽しみ!



 2006年1月13日(金) さようならニコン
 ふと思い立って防湿庫から50mmのf2.0のレンズを付けたNikon-Fを出してファインダーを覗いてみた。思わず「うわぁ!凄いっ!」と声を出してしまった。しばらく触っていなかったので忘れていたけれど、その見え方は明るく、大きくて圧倒的に見やすかった。これは驚愕に値する。そこでD70を出してこれに付けている18 - 70mm を約35ミリに設定して換算値をNikon-Fの50mmと大体同じにして覗いて見た。するとなんともこれが小さい。こんなのだったかな、と思うほど小さいのに改めて驚いてしまった。まぁ比較するのもどうかと思うが、デジタル一眼レフカメラのファインダーがもっと明るくて大きくなったらどんなに楽しくて使いやすいだろうかと思わずにはいられない。Nikon-Fを触っていると銀塩カメラとの長い付き合いの様々なシーンが思い出されたまらなく懐かしい。そんなことを思いながら今日の新聞を見ると、なんと「ニコンがフィルムカメラ撤退 」の記事が出て居るではないか。カメラ事業をデジタルカメラに集中するのだそうである。嗚呼、これが時代というものなのか。それでもF6とFM10はしばらく残すらしいが、それ以外は在庫が無くなるればおしまいだそうである。ジーンと胸にきた。



 2006年1月9日(月) 7日は父の命日
 私の父小出廣が79才で逝ったのは1984年1月7日だから今年で22年目になった。父は当時桜美林大学で教鞭をとっていた。どこの学校でも定期的に健康診断があるが、父はその結果があまり良くなかった時でも「まったく医者は嘘ばかりを云う」などと言っては本気で捉えようとはしない医者嫌いの困り者だったが、結果的にそういったことが死期を早めた原因のひとつになったと思われて仕方がない。父は涙もろかった。病気で寝込んで仕方なく休講した時など、学校から届けられた生徒たちからのお見舞いの寄せ書きを病床で読みながらボロボロと涙を流した。父は牧師時代に沢山の童話を書いている。特に英語で表現することに魅力を感じていた人だから、英文の詩や物語が多い。最後の日になった1984年1月7日の午前3時過ぎに英文のストーリー“The Tale of Hamako's Love”を書きながら腹部大動脈瘤破裂の発作を起こして倒れ、12時間後の午後3時過ぎに運ばれていた救急病院のベッドで両手を天にかざしてVサインをしたのを最後に息を引き取った。桜美林大学の講堂で催された学園葬の時には学校関係者や一般の人たちで講堂が一杯になった。先生方や父の教え子が印象に残るすばらしい弔辞を読んで下さった事は忘れられない。7日はそんな父のことを思い出しながら名古屋から母のところへ来ていた妹と一緒に母が弾くオルガンで賛美歌を歌って父を忍んだ。今年94才になる母の枯木のような指が鍵盤の上を動く様を見ていたら熱いものがこみ上げてきた。



 2006年1月7日(土) 自由が丘
 チェロ奏者のアンドレアス・ティムが来日中だったので、アンドレアスとは仲良しの姪のユリも誘って一緒に食事をしよう、と言うことになって自由が丘へ出かけた。前にも何回か当ホームページに登場したことがあるアンドレアスは、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のチェロ首席奏者ユルンヤコブ・ティムの次男で、現在ベルリン交響楽団で活躍しているチェロ奏者である。ところで響きの良い地名の自由が丘(もとは自由丘)は昭和初期に高級住宅地として開かれた頃に石井漠が命名したという。石井漠は私が十代のころ迄活躍していた有名な舞踊家で、桐朋時代にハーモニーを教えてくださった作曲家石井歓先生の父親である。その自由が丘だが、ちょっと残念なことがあった。ピッツァが美味しいと言われている目当てのイタリア料理店に着いたのは1時頃だった。あいにく満席だったので予約を申し入れたところ、予約の受付は12時でおしまい、でも1時間くらい待てば入れる、と言われてたので、時間をつぶしてから2時に戻った。ところがなんと信じられないことにCLOSEの看板が出てるではないか!何故だ?食い物の恨みは恐ろしいのだぞ。それで我々は別のレストランを探すはめになった。腹ぺこぺこで食べた中華料理は美味しかった。アンドレアスとは今度一緒に演奏しようよね、と約束して別れた。チェロとのアンサンブルはハイドンやウェーバーなどの名曲がある、ぜひ実現したいな。



 2006年1月5日(木) あけおめ ことよろ
 葉書が最初に発行されたのは明治6年(1873)だそうだが昭和11年(1936)に 年賀切手が発行され、昭和24年(1949)になって「お年玉つき郵便葉書」が発行されてからは年々新年の挨拶を葉書で行う習慣が盛んになってきたと言うことらしい。その年賀葉書、今年の印刷はほぼ順調だったけれど、問題もあった。インクジェットプリンター専用葉書を使うのだけれど、宛名書きの面が滑ってプリンターにうまく入っていかなくなるトラブルが度々あった。これにはまったくイライラさせられる。確かに宛名書きの面は触ってみてもツルツルしている。しかしうまくいかないのはプリンターのせいなのかもしれない。面白いのは毎年自分の名も住所も書いてないものが来ることだが、今年も一通あった。文章が面白いから誰からなのかを知りたいのに、スタンプも押してないから投函された場所も不明で、結局判らずじまいになっている。更に面白い話しもあった。随分昔のことになるけれどN響の友人の父親が山と積んだ年賀葉書の1枚目に丁寧な挨拶文を書き終えた後、二枚目からは「以下同文」として最後まで書いてしまったと言う、嘘のような本当の話。世の中には笑いを誘う楽しい御仁がいらっしゃるものである。年賀とは新年のお祝いの挨拶であるはずだけれど、中には全面に細かい字でぎっしりと予定などが印刷されたものもあるが、これは後で読もうと思っても殆どの場合は読まずじまいになってしまう。年賀葉書の受付は12月15日からだったそうだが、かねがね新年になってから「おめでとう、、」と書きたいと思っていたので、今年はそうした。





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