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過去の日記帳 2009年1月 〜 3月

写真ははずしました。



 2009年2月22日(日) 8ヶ月ぶりで母と会った
 母が成瀬に住んでいた頃は小一時間で会いに行かれたのに、名古屋へ移ってからは頻繁に会えなくて淋しくなってしまった。今回は三島高等学校吹奏楽部との練習の後、良いチャンスだったので足を伸ばして名古屋へ母に会いに行った。8ヶ月ぶりの母はとても96才とは見えない程若返っていた。体重も最近数キロ増えたという。今までは一人暮らしだったけれど妹と住むようになって会話も多くなり、何かと刺激が多くなって健康を保っているのかもしれない。妹の家で揃っての食事に母は大喜びだった。
 せんちゃんはまだ人見知りが終わってないから二日間とも母に甘えることをしなかったのがとても残念だった。母は淋しそうだった。少しは母に慕っている風にも見えるのだけれど、直に合うと引っ込み思案になってしまう。きっと恥ずかしいのだろうと思う。
 2日目は天気が良かったのでせんちゃんを連れて東山動物園へ行った。せんちゃんにとって動物園は初めてである。絵本でお馴染みのゴリラやキリン、カバ、ゾウに直に対面することができた。でも動物よりも園内の坂道を私と手を繋いで登ったり降ったりする事の方が楽しそうだったから、まだちょっと早かったのかな。
 2日目の昼食は近くのミャンマー料理店マンダレー(mandalay)に行って食べた。ここの料理の美味しさよ!南方料理が大好きな私にとってたまらない味だった。こんなに美味しいレストランは鶴岡のアルケッチャーノ以来である。値段も安いから云うこと無しだ。早速当ホームページからリンクを貼ろうと思っている。名古屋へ行くのは母と妹に会える他にミャンマー料理を食べられる楽しみが増えたわけである。
 今度母に会えるのはいつだろう、と思いながら帰途についた。浜松西インターで下りてウナギを食べてから帰って来た。手元には浜松のうなぎ屋さんが27軒載っているチラシがある。順に試していこう。うな久に勝るところがあるとは思えないが。



 2009年2月21日(土) 日本大学三島高等学校吹奏楽部との練習
 4月26日に行われるコンサートの練習のために三島へ行って来た。吹奏楽部は通信仲間のハンドルネーム和尚さんこと押尾正久さんの指導で練習を重ねてきたが、初めて私も参加しての練習だった。押尾さんは会社勤めの合間にフルート吹いているのか、或いはフルート吹いている合間に会社へ行っている人なのか分からないほど根っからの音楽好き人間である。吹奏楽との関わりも深いという押尾さんが日大三島高等学校吹奏楽部の指導を初めてから1年少々になった。穏やかな人柄は高校生の指導には最適だと思われる。
 練習は午前9時からだから当日行くのにはちょっと遠い。ということで前日は沼津へ泊まった。もちろんただ泊まるわけがない。押尾さんが良い店を探しておいてくれて、そこで待ち合わせて軽く一杯、というわけである。二人とも好きだから。ホテルから店に行く時の風は普通じゃなかった。飛ばされそうになったくらいで多分風速20メートル以上はあったと思われる。すごく怖かった。
 さて今回は初めての練習ということもあってか幾分緊張気味に始まったが、進行していくほどにほぐれてきたようだった。メンバーは総勢四十数名だが男子は四名しかいなくて女子が圧倒している(男子頑張れ!)。練習中にアドヴァイスを云う度に総勢四十数名全員が「はいっ!」と元気な声で声て答えるのにはちょっと驚いたけど、これはきっと習慣なのだろう。たまには「本当にわかったのかな?」と思うこともあったけれど、でも元気な声は悪くはない。サンサーンスのアダージョと変奏曲は ソロだけど(写真)アルルの女第二組曲では中に入ってみんなと一緒にメンバーとして吹くので、これはとても楽しい。70のジジイが高校生に混じって吹くなんて、そうどこにでもある事ではなさそうである。本番が楽しみだ。
 高校生との共演で一番大きな問題、それは一緒に呑めないことじゃないかな。



 2009年2月16日(月) 石神井高校が縁で行われたコンサート
 私は石神井に住んでいたので練馬区立石神井中学校へ通っていた。それで高校は都立石神井高校へ進学したわけである。私がフルートを始めたばかりの頃であった。石神井高校へ通ったと云ってもわずかに一学期だけですぐに桐朋へ転校してしまったのだけれど、短い期間だったにもかかわらず石神井高校の同級生たちとは非常に親しい関係が続いている。それで今回のバレンタイン・コンサートは同級生の音楽好きなk君の計らいで実現することとなったのだ。2月14日にコンサートが行われた「レストランあおしま青山店」のオーナーも同じ石神井高校の同窓生ということで、今回は石神井高校一色と云っていいほどのコンサートになったわけである。同級生も6人聴きに来てくれて久し振りに会うことができたし、幸せなコンサートだった。
 演奏した場所は普段は食事をするところだけれど、一段高くなったステージがあったので演奏しやすかった。床には絨毯は敷いてなかったから響きも悪くなかった。ここに満員のお客さんを集めて山田京子さんのピアノと共にシューベルトやドップラーを演奏したわけであるが、小さな空間がひとつにまとまり、お客さんとステージには一体感ができてとても良い雰囲気であった。演奏会のあと演奏者を囲んでのワイン・ダイニングパーティーも楽しかった。普段肉を食べない私であるが、頬肉のシチューとローストビーフを堪能した。とても美味しかった。
 1歳と4ヶ月になったせんちゃんも連れていき、同級生たちにお披露目した。なにしろ同級生のなかには「どう考えたって今頃小出に子供ができるわけがないじゃないか」何て云う輩もいるから「ほら!息子だぞ!」と云いたかったのであるが、残念なことにこの発言をした同級生は用事で来られなかった。従業員のmさんがとても可愛がってくれて私も嬉しかった。
 この日の気温は普通じゃなかった。なにしろ2月中旬だというにの20度を超えてしまったのである。今が夏のオーストラリアでは先日46度を超えた。恐ろしいことである。日本の今年の夏は一体どうなるのだろうか。(写真はリハーサルの時のもの)



 2009年2月15日(日) N響団友会
 去る11日に青山にあるNHK青山荘で第27回N響団友会の総会と懇親会が楽員、事務職員の卒業生約40名と、それに現n響理事をお招きして行われた。8名の指揮者にも招待状を出したそうだけれど、多忙とみえて1人も出席はなかった。
 会は平成20年度に亡くなられた小川昂前事務長、ホルンの千葉馨さん、ヴィオラの永野雄三さん、フルートの木下芳丸さん、ヴァイオリンの田中千香士さんへの黙祷から始まった。一緒に演奏をしてきた仲間が減るということは、なんとも淋しいことである。心からご冥福をお祈りする。
 細かい議事の後に米寿、傘寿、喜寿になられた方々へのお祝いの贈呈があった。それから懇親会となった。私はクルマで行ったためにアルコールは飲まなかった。 仲間達は皆トシよりもずっと若く見える。年を聞いてびっくりするほど若い。私もあやかりたいと思った。
 私がN響へ入団したのは1959年で、翌60年には岩城宏之さんと外山雄三さんの指揮で83日間に及ぶn響世界一周旅行に参加した(イギリスとアメリカではw・シュヒターも振った)わけであるが、この日集まった仲間達のほとんどがこの旅行に参加した人たちなので、当時を懐かしく思いだした。また当時数年にわたって行われた「イタリアオペラ」では絶頂期のマリオ・デル・モナコやジュリエッタ・シミオナートたちと共演できたことは生涯の思い出となっているのであるが、それらのシーンが甦ってきて懐かしさもひとしおであった。アイーダで団友会会長の川本守人さんが第三幕の夜のナイル河畔の場面で奏でるオーボエの音が今でもまだ私の耳元で鳴っている。
 団友の方達の末永きの健康を願う。



 2009年2月5日(木) 今年も神奈川県立鎌倉養護学校 
 ピアニストの泉玲子さんと2人で神奈川県立鎌倉養護学校で演奏させていただくようになってから今年は26年目になった。と思っていたら校長先生が27年目ですよ、と仰った。どこから数え間違ったのだろう?とにかく月日の経つのは早いものである。毎年鎌倉養護学校の子供達の前で演奏するのは今や私のライフスタイルになっている。
 今年はソプラノ歌手の吉田友子さんに協力をお願いして生徒さん達に美声を聴いてもらった。吉田さんはまだ小学生のころに新津で行われた私の演奏会を聴きにきてださった時に知り合った人なのである。縁とは本当に不思議なものだと思う。吉田さんが歌って下さったプッチーニや中田喜直の歌曲は小学校から高校までの生徒達に感銘を与えたようだった。歌は良い!とにかく心がストレートに聴き手に伝わるのが良く分かるのである。
 今年のハイライトはこの春に卒業する高校三年生のoさんがシューベルトのセレナーデとメンデルスゾーンの歌の翼を歌ったことだったろう。実はoさんは昨年の演奏が終わった後に控え室に訪ねてこられ、来年は是非とも大好きなシューベルトのセレナーデを演奏して欲しいと強く希望されたのである。私はok!必ず演奏するからねと約束をしていた。それで吉田さんにお願いしていたわけであった。ところが昨年の11月になって急に学校からの連絡で本人が歌いたいそうだから、と云ってきた。最初はどうしようかと思った。せっかく吉田さんにもお願いして来てくれることになっていたのだから。しかし落ち着いていろいろと考えた結果、これは歌ってもらおう、それが一番に良い、きっと良い思い出になるに違いない、ということになって昨日を迎えたわけである。oさんは声楽を習っていたわけではないけれど、最近になって歌い始めたところとても綺麗な声が出ることがわかったそうである。先生達が熱い思いで彼女の力になってあげて毎朝練習を重ねてきたという。生まれて初めて人の前で歌ったというoさんの姿はすてきだった。お世辞抜きにしてほんとうにきれいな声だった。仲間の前で挨拶をするマイクを持ったoさんの手は緊張のあまりこまかく震えていたけれど、実にしっかりと話していた。そしてとても嬉しそうだった。oさんは演奏が終わってから控え室に来て封書を手渡してくれた。たった今書いたという手紙には「今日という日は私にとって忘れられない一生の思い出になりました」と書いてあった。私にとってもoさんと同様に忘れることができない思い出になった日であった。
(写真:私の隣がoさん、後ろは左からコンサートの係の先生、吉田友子さん、泉玲子さん、校長先生、oさんの担任の先生)



 2009年1月26日(月) 外山雄三さん
 ワールド航空サービス主催によるn響団友オーケストラのコンサート「2009 新年会ニューイヤーコンサート」は会場のオペラシティーに満員の聴衆を集めて行われた。久し振りに外山雄三さんの指揮で演奏した。信州の標高1800メートルの別天地に建つ作曲小屋でお会いする時とはまた違った、オケという緊張感のある場での外山さんは文字通りマエストロといった感じであった。一日前の練習の時に絃楽器に対して、普通ならば「遅れないで」、と云うであろうところを「ここを前の休止符から振るのには意味がある」と言う風な表現をされていたが、芯を突いていて良い表現だな、と思った。 とにかく一番感じたことは、久し振りの外山さんがとても新鮮だった、と言うことである。
 プログラムはj.シュトラウス喜歌劇「こうもり」序曲に続いてソプラノの山田英津子さんのソロが三曲、それからj.シュトラウスの春の声、ヴォーン・ウィリアムズ のグリーンスリーブス、シベリウスの交響詩フィンランディア、チャイコフスキーの交響曲第4番であったが、フルート吹きとしては吹き甲斐があるものが多かった。ソプラノの山田英津子さんがレハールのメリーウィドーからヴィリアの歌 、山田耕筰のからたちの花、そして御尊父の指揮者山田一雄作曲の「もうじき春になるだろう」を歌った。きれいな声だった。初めて聴くこの曲からは不思議な美しさを感じ、私の頭に焼き付いていた山田一雄のイメージが一変するような気がした。
 余談だが休憩の時に楽器のタンポの具合がおかしくなり、gから下の音がどうも出にくい。詳しく見てもバックステージのあまり明るくはないところで見てもよく分からなかった。原因不明のまま後半のステージにあがったが、明るい照明でよくみると、なんとa-a#キーの連絡を調整する紙が前にずれているではないか!そこから下の音が出にくいわけだ。後半の演奏中は常に左の中指を強く押さえて吹かなければならなかった。はずれて落ちなかっただけでも不幸中の幸いだった。キーオイルを補給するときにはこういう事がないように、まず微量のオイルを縫い針につけ、それをつけるようにしているのだが、それでも事故はおこる。怖いことである。
 終演後は同じ建物の中にある居酒屋で打ち上げ会があった。とても楽しい一時を過ごしたが私はクルマだったので残念ながら呑めなかった。(写真は打ち上げ会で右から外山雄三さん、ヴァイオリンの梅沢さん、外山夫人、私)



 2009年1月21日(水) 田中千香士さんが逝く
 また訃報、、、バイオリニストで桐朋同級生の田中千香士さんが肝不全のため19日に東京都文京区の病院で亡くなった。69歳という若さで。
 正月になってすぐに入院したとの知らせを夫人のあやさんから聞いていたので、ずっと案じていた。
 彼は京響のコンサートマスターを務めていたが、そのころに輸血をしたのが原因でc型肝炎に罹ってしまったのである。数年前に会ったとき、体調は?ときいたら「もう良くなることはないんだ、これ以上悪くならないようにするのが精一杯」と云った時の彼の顔色を見てずっと心配していた。
 最後に会ったのは昨年の2月に紀尾井ホールで催された久山恵子指揮のアンサンブル多摩の演奏会の時だった。夫人の田中あやさんが出演しているので聴きに来たのである。今思えばあの日、もっともっと沢山彼と話しをしておけば良かった。
 姉の天才ピアニスト田中希代子さんも難病で逝ってしまったが、なんと淋しいことであろうか。二人とももっともっと活躍して欲しかった人なのに。
 今、桐朋時代に二人で授業をさぼって新宿に映画を見に行った時のことなどを思い出しながら書いた。合掌



 2009年1月20日(火) 今日は林りり子先生の命日
 1974年の今日、林りり子先生が亡くなられた。はや35年になった。私は人嫌いになって誰にも会いたがらなかった先生を、ふいにお見舞いに行った。その時先生は非常に困ったような顔をされ、とまどっておられた。しかし後になってから「小出が東京中の病院を探し回って私を見つけてお見舞いに来てくれたんだよ」と例によって大袈裟な表現で嬉しそうに言っておられたと聞き、行って良かった、と思った。その数日後、先生は私に手紙をくださった。レポート用紙に鉛筆で書かれた字はかなり乱れており、つらいのを我慢しながら書いたことは明白だった。この手紙を書いてから9ケ月後に、先生はかえらぬ人となった。

小出信也 様
小出君此の間はお見まいありがとう、ジョノカにもよろしくいっておいて下さい。 当時は私も、部屋もわるかったし、ぜつぼう的だったので、すっかり「人ギライ」になっていました。でも君にきてもらったのはウレシカッタ。(今は一人部屋です) 何しろ入院して10日の間に4人べやの2人が死んじゃったら、いつもそうとうズーズーしいと思っていても、我々音楽家の神経では持ちません。又うちの息子くらいの孫のいるオバアサン達が、一日でもいいから長いきしたい、という気持も、「昔から早死したい」私には、ドウシテモワカリマセン。土、日とうちに帰って30分から1時間フルートを吹いてよい、とおゆるしがでて、やっといくらか、気がメイラナクなりました。でもこの間迄は二号さんの金のflしかなくてパウエルがタンポ調整に出してあったので笛欲がおこりませんでした。「欲というものは、スベテ」自発的にするものと思います。治療のケッカどんどんよくなっています。4月末に退院することになって、(最高にしつこくウタガッテいた)私もやっと直るかなという気がして来ました。40代で「笛が吹けないなら」本当に生きていてもしょうがないと思っていますから。  原稿はずい分かけましたよ!! 100話書こうと思ってますが今40話迄出来ました。こんなことでもかいて、休養をしろ、と言う、神様の方からのメイレイだとも考えました。5月20日は章のナコウドたのまれてます。教会でカンタンにするそうですので引うけました。(カサカサのサンドイッチとジュースで何百人もよんで、みんなに祝福してもらったと感ちがいしている人もいるけど)何事も「ウスクヒロク」などというのは私はキライですので。要するに2人が仲がいいのが結婚の根本です。 私はヒネクレものですので、お医者に「ガンバリナサイ」などといわれると。お産のときならいざしらず「1年もつとこを1年半気力でもてというのか」などとうたがいます。でも病院でいろいろ勉強しました。今回は一応助かりそうですので私が死んだら、葬式なんかしないで、音楽会してくれよ、とたのもうと思ってたんだけど、そのたのみをもう少し先にのばします。どうやらガンのうたがい、今んとこは、晴れたようです。私は自分のflをあるていどギセイにしても笛吹きをそだてるのがすきでした。(それが特技だし)「君たちはそうならないこと。」どうせ人間100迄生きれないんだぞ。私はフルート界のクロマクですから。(エンノ下の力モチで結構) ではまた 2月に福島でうつしたしゃしんおくります 彼女にも上げて下 さい(原文のまま)
1966年代の写真(旭孝さんのホームページより。左から旭さん、私、先生、坂部さん、相馬さん、村松さん、峰岸さん、倉辻さん、野口さん、蔦井さん、石橋さん)



 2009年1月2日(金) 木下芳丸さんが亡くなられました
 大晦日の朝、n響時代の仲間フルート奏者の木下芳丸さんが静かに息を引き取った。享年78才であった。
テコでも動かないような所がある反面、温厚そのものの人柄だった。
あだ名を決める天才n響の大先輩オーボエの川本さんが彼につけたあだ名は「大人物」。
長年糖尿病を患っていた彼が呑み会で「今日は糖尿お休み」とにこやかに言って美味しそうに好きなお酒を飲む姿が思い浮かぶ。
n響で南米一周旅行をした時、機中で隣り合わせになった私に「ねぇ小出君、離陸と着陸の時は肛門が開いたり閉じたりしないかい」と言った言葉が懐かしい。
入院中はお見舞いに行かれなかったので、今月は行こう、と思っていた矢先の訃報だった。こんなに早く逝ってしまうとは思いもしなかった、、、、
仲間がいなくなるという事はとても淋しい。
彼が32才の時に演奏した貴重な演奏、モーツァルトの協奏曲ニ長調は[ここ]から聴くことができる。若々しさに溢れた好演で元日から何回も何回も聴いている。
当ホームページを見た人から感想が寄せられた。
《リンクにあったモーツァルトの演奏ですが、なんと柔らかい音色でしょうか・・・・録音がアナログだということもあるでしょうが、最近は何だかどんどんぎすぎすとしたデジタル的な音を発するフルーティストが多いことか。あと10年したら、フルートの音とは似つかないカミソリのような音色の奏者ばかりになってしまうかも・・・と思わずにはいられません。》全く同感である。
心からご冥福をお祈りする。合掌(写真は2006年の9月にn響団友オケで水沢へ行ったのもの)



 2009年1月1日(木) 新年
年末の大掃除。
せんちゃんも手伝ってくれた。やめるときには道具をちゃんと元の場所に戻してくれるから泣けてくる。
2時を過ぎてもまだ近くの寺から除夜の鐘が響いてくる。ちゃんと108回なのだろうか?いや108の煩悩と言うけれど8万4千の煩悩とも言うらしい、では私にはいくつ?
数え年だと2007年生まれのせんちゃんは今日で3才になった。1912年生まれの母は何と98才! とまれ国民が揃って同じ日に年を取るのも悪くなかった。
ちょっと調べてみた。なんと年齢が増えるのは誕生日からではないらしい。「年齢計算に関する法律」というものがあり、そのなかの民法143条では「誕生日の前日午後12時に1歳年齢が加算される」ということなのだそうだ。前日の午後12時と、当日の午前0時とどう違うのかと思えば、4月1日生まれの人は早生まれになると言うことだ。

さて、悪い材料ばかりが目に付くが今年は一体どんな年になるのだろうか。

表紙にも書いたけれど、もう一度
je vous souhaite une trés bonne année !
(皆様にとって、すばらしい年となりますように!)




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