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過去の日記帳 2011年10月 〜 12月

写真ははずしました。


 2011年12月21日(水) 今年も感動を貰った韮崎の「武田の里音楽祭」
 さる18日に韮崎で武田の里文化振興協会主催の「第17回武田の里音楽祭」が行われ、私はN響団友オーケストラのメンバーとして参加してきた。(指揮:江上孝則、管弦楽:N響団友オーケストラ、合唱:武田の里音楽祭合唱団、司会:ウーロン亭ちゃ太郎) 毎年会場となっている東京エレクトロン韮崎文化ホールはこの音楽祭を盛り上げてくれる聴衆でほぼ満席になった。今年のテーマは「シネマの音楽パート2」である。曲は「カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲」「運命の力序曲」、「月光仮面」「ウルトラマン」、「八十日間世界一周」「ひまわり」などなど。この音楽祭の素晴らしいところは何と云ってもコーラスだろう。地元の小中学生と住民約150人が歌うのであるが、音大を出た人など音楽を専門に勉強した人が一人も居ないと聴いて信じがたい思いがするのである。これはひとえに合唱指導をしている芦沢 ひろ子さんの力に違いない。大人のコーラスは底力のある混声合唱である。私の友人で度々当日記にも登場していただいている梨響シニアオケでフルートを吹く小池 英男さんも歌っている。彼は本職が土木建築であるが、彼の音楽好は会う度にあきれてしまう程だ。そして大人のコーラスに勝とも劣らない子供達のコーラスがこれまた素晴らしかった。子供達は1人1人が積極的に歌い、その可愛らしい声はとてもよく響く。アンコールの時に子供達がステージの最先端に横一列になって左右に揺れながら歌う「夕焼け小焼け」を聴いていたら涙が溢れてきた。また韮崎高吹奏楽部からは管楽器など19人が参加して、そのうちのフルートの大谷萌乃さんと内藤有紗さんが私と一緒に並んで演奏した。楽しかったね!
 終演後は同じホール内にある広い部屋で反省会があった。お酒無しの会だった。地元の出演者だけの会なのに小池さんに誘われて私も参加させていただいたのである。ここではコーラスのメンバーと話しをすることができて楽しかった。約一時間の反省会のあとは小池さんの友人で私とも旧知の間柄の主人が経営する L a ' S o b a という店で本格的な?打ち上げ会となった。武田の里文化振興協会代表の林 紘子さんや(この音楽祭は林さんの情熱から生まれた)、合唱を指導した芦沢 ひろ子さん、先月の27日に梨響シニアオケでライネッケを協演した時の指揮者七澤 秀人さん、それに小池 英男さんご夫妻と息子さんの7人で楽しい夕食だった。来年の「武田の里音楽祭」は12月16日だそうである。



 2011年12月17日(土) 辰巳館にある山下 清の大壁画「大峰沼と谷川岳」
 月夜野上牧温泉の辰巳館は大好きな温泉宿の一つである(当ホームページからリンクしている)。ここで親しい友人達と一行5人で楽しい一時を過ごしてきた。山下清はここへ師の式場 隆三郎先生と共に何度となく訪れたそうである。その山 下清によって1961年に完成された「はにわ風呂」にある大壁画「大峰沼と谷川岳」(モザイク)は山下 清晩年の傑作と云われている。この壁画を眺めながら時を忘れて掛け流しの湯に浸る幸せは何にも勝るものだ。この壁画、やさしいなあ、あたたかいなあ。夕食時の地ビールも美味しかったし、竹筒の徳利から注ぐ酒も美味しかった。皆いい顔色になって会話が弾んだ。駄洒落が飛び交った。29種類も出た料理は美味しかった。こういう息抜きは何にも勝る延命の妙薬のようなものだ。
 翌朝、最上階にある食堂で真っ白に輝く谷川連峰を遠望しながら朝食をとった。おかずに地元の大粒納豆がでた。私はこれの旨さを知っている。しかし服用しているクスリとの相性で禁じられているのだったけれど、この時は我慢するのを止めた。12年ぶりの納豆は胃にしみわたった。こんなに美味しいものを食べられないなんて! そのあと、壁画の写真を撮りたくて風呂場へ行ったのだが残念なことに掃除が始まっていた。一旦は諦めたけれど、仲間の1人が「写真を撮を撮ってもいいでしょうか」とお願いすると、OKが出たのである。そればかりか大きな戸を開放してくれたので最初は湯気で曇っていた壁画もはっきりと見えるようになってきた。お陰でこんなに鮮明な写真を撮ることができたのである。興奮気味になってシャッターを切りまくった。動画も撮った。
楽しかったこの旅もあっという間にお別れの時が来た。「次は尾瀬に行こう」「その次は北海道にしよう」とこれから先に思いを馳せながら解散した。(写真はiPhone 4sで撮影)
 [辰巳館のホームページより]
 『はにわ風呂』の大壁画、「大峰沼と谷川岳」は、その貼絵の原画をもとに特殊ガラスを使い、清さんが式場先生、美術工芸家の手塚先生らと共に作成した本邦唯一の作品であり、ヨーロッパ留学を前にして自らの視力の低下と戦いながら情熱を傾けて完成させた晩年の傑作です。清さんの作品は、どこかほのぼのとしていて、私たちに安らぎを与えてくれます。今でも、あの頃の楽しかった清さんとの語らいが想い出され、清さんはみんなの心に生きています。上牧の想い出と共に、心洗われる清さんの作品に親しんで頂ければ幸いです。大正11年3月10日 東京浅草生まれ。本名は大橋清治。本籍は佐渡。日本のゴッホ、放浪の画家として知られその特異な画風と貼絵に見られる天才的な手法は他に類を見ない。昭和46年7月12日、みんなの心に生きて忽然と永眠した。享年49歳。



 2011年12月12日(月) 外山 雄三作曲「管弦楽のためのラプソディー」を吹く小出 信也
 昨日の朝、私はネット上で色々と検索していた。その時に六弦音曲覗機関というサイトでラプソディーを吹く私を発見したのである。前々から欲しかったものの一つだったのでビックリしたり嬉しかったり!これはどうやら1983年(昭和58年)頃にキングレコードから出たものらしかった。30年以上も前の演奏と云うことだ。つまり私が40を少し過ぎたころである。この動画を入手したかったので即管理人にメールを送った。
 この時代に吹いているフルートは管体が銀でマウスピースが金のパウエルフレンチモデルである。私はこのころヘルマンヘッセの小説を片っ端から読みまくっていた。そのなかで一番心を惹かれたのが「知と愛」(原題“ナルティスとゴルトムント”)である。この小説の中でのゴルトムントの生き様が今の私の生き方にも強く影響しているくらいで、だからこの頃吹いていたフルートはマウスピースを金にしていたのだった。金の口、つまりゴルトムントと言うわけである。第790回N響定期公演でハープのスーザン・マクドナルドとモーツァルトのフルートとハープのための協奏曲KV299を共演したのもこの頃であった。
 この録画を見ていると、ああ、当時はこんな音だったんだな、と懐かしい。ヒゲも黒いし頭髪もまだそうやられていない時代だ。このラプソディー、いったい何回吹いたことだろう。最初に吹いたのは1960年のN響世界一周旅行の時だったが、まだ入団間もなくだったのでピッコロを吹いていた。今や有名になった追分節のソロ、当時の首席吉田雅夫先生の演奏が今でも耳の中に聞こえている。世界旅行の時、どこの国であったか現地の人から「フルートのソロが非常に日本的だった」と云われた吉田先生がとても喜んでいたのが印象に残っている。私がこのソロを吹き始めたのは吉田先生が定年退職された1970年の頃からだった。動画が手元に届いたら嬉しい。
 この動画がでていた「六弦音曲覗機関」というサイトで見る外山雄三作曲のラプソディー



 2011年12月9日(金) あの日から12年
 私にとって忘れがたい1999年の12月9日、この日に私は死んでいたのかもしれなかった。しかしあれから12年が経って私はすこぶる元気である。演奏活動もじゃんじゃんこなしているし「余生なんて、とんでもない、俺の人生に余りなんか無い!」などとうそぶき、「人壽百歳蘭香四時」を目標に掲げて体調に気をつけながらウォーキングにも精を出し、体重計に乗って体年齢表示に現れる55才なんて数字を見て喜びながら過ごしている毎日である。
 その日の夕方の5時頃、私は自宅で横浜市栄区民文化センターリリスで行う自作の焼き物と信州で撮った枝垂れ桜の写真展の用意をしていた。その時じわじわと胃を締め付けるような今までに味わったのこが無い嫌な感じの痛みが襲ってきた(心臓ではなかった)。最初は胃痙攣かと思った。私の顔は蒼白になり、額からは冷たい脂汗が流れ、ベッドに海老のように横たわった。苦しみは益々強くなってくる。これはただ事じゃない!近所のかかりつけの開業医の先生に電話を掛けた。症状を話すと「急いで大きな病院に行きなさい!」。すぐに妻の運転で栄共済病院に向かった(救急車は呼ばなかった)。行く途中妻は助手席で前屈みになって苦しむ私に「大丈夫?意識はある?」を何度も繰り返すのだった。
 病院に着いたら直ちに救急室へ。担当医はこの時当直をしていた梅田 研医師であった。すぐに心電図をとる。部屋の外で待っていた妻には私が身につけていた腕時計や眼鏡などが渡され、何とも言えない気分だったそうである。心電図の結果は「間違いなく心筋梗塞、すぐに手術」ということになって、私はベッドに仰向けに寝かされたまま手術室へと向かった。下から天上を眺めながら移動するのは変な気分で、どこをどう通ったのかまったく分からなかった。
 手術室では一段高いベッドに横になり、早速カテーテル手術にとりかかる。冠動脈造影検査で詰まったところを見つけて、そこをバルーンで拡げるのだ。目の前にはテレビの画面があって私の心臓の冠動脈が映しだされており、1本が完全に詰まっているのが見えていた。私が度々画面を見ながら質問を繰り返しているうちに、梅田医師から「危険だから静かにしているように」と釘を刺されてしまった。それで私は訊きたいのを我慢して黙ってスクリーンを眺めるしかなかった。バルーンを膨らませる時には胸の圧迫感と共にぎゅ〜と熱くなるのを感じた。ちょっと苦しかった。
 2時間以上にわたった手術が終わってベッドから下りながら私は「今晩は軽く飲む程度にしておこう」などと考えていたのだが、梅田医師から出た言葉は「今日から2週間入院です」だった。ハッと我に返った。大変危険な状態だったのだ。数日前に妻と「一度で良いから入院してみたいなあ」などと不謹慎な冗談を云っていたのを思い出した。しかし何故だろう、このあと私に悲壮感は全く無く、終始「楽観的」であったのだ。今思い出しても不思議だ。この時以後お世話になった梅田医師は非常に信頼できる医師だった。一挙一動が信頼感に満ちていた。いくら感謝しても足りない。現在は金沢市で医療に携わっておられる。
 それからの入院生活はこんな事を云うと顰蹙を買うかもしれないけれど、とっても楽しかった。看護婦さん(当時はまだ看護師とは云わなかった)も皆優しくて親切だったし、楽しい出来事がたくさんあって一冊の本が書けそうである。看護婦さん逹の働きぶりには非常に感銘を受けた。感動した。ICU(集中治療室)から個室に移った日に看護婦さんの1人が色紙を持ってきてサインを求められた時にはさすがにエッと思った。このころ梅田医師から「危険な状態は過ぎました」と告げられて、またドキッとした。術後の危ない状態が続いていたのだ。入院してから何日目かにトイレから返って来るとベッドの上に蒸しタオルのセットが置いてあった。風呂はまだ許可がでていなかったからこれは本当に嬉しかった。私は飛びつくようにして何枚かのうちの中から黄色のタオルを選んで顔を拭き始めた。あ〜ぁ良い気持!と思ったその時看護婦さんがやってきて「あらっ、小出さんっ!それはシモを吹くタオルですよ!」と云うではないか。なんだい、今頃教えてくれたって、もう遅いよ!さも大事そうに一枚だけ色がついていたから顔用だと思ったのに!これは大失敗だった。また入院中にはメモ用紙を渡されて何時に小用、何時に大便、などと書き込むように云われていたのだが、それはちょうど1週間目だった。朝目覚めるとアソコが「起立っ、キヲツケ〜!」をしているではないか。私は嬉しくなってその時刻の所に上向きの太い矢印を書き込んだ。やがて看護婦さんが見回りにやってきて表を見ると「なんですか?この矢印は?」と訊くので訳を話すと「あらまぁ、そんなことまで書いちゃって、、」と笑われてしまった。どこに居ても退屈とは無縁の私である。その看護婦さんが隣の部屋に小出さんを知ってる人が入院されていますよ、と教えてくれた。私は初対面だったが私と同じ病気で入院されていた家の近所にお住まいの音楽好きのDさんだった。Dさんは看護婦さんに「今日はリリスでフルートの小出さんのコンサートがあるけど、聴きに行かれないのが残念だ」と云ったところ、「大丈夫ですよ、その小出さんだったら隣の部屋に居ますから、演奏会は延期になるでしょう」と教えてくれたのだそうである。Dさんは入院中に新聞をくださったり自動販売機から(まだ許可がでていない)ジュースを買ってきてくださったりとても親切にしてくださった。そのDさんは悲しいかな、他界されて今はもういない。
 入院中には沢山の友人達がお見舞いに来てくれた。皆長居をしてくれた。きれいなお花を届けてくれた友人もいた。やっぱり入院はいいなぁ!誰も居なくなった時には届いたばかりのiBook G4をいじりまわしていた。
 退院の時には手術に使ったカテーテルを貰った。だって命の恩人じゃないか。そのカテーテルをポイと捨てられてはたまらない。ちなみにカテーテルを欲しいと云った人は私が初めてだそうであるが、私には欲しがらない人の気持ちが理解できない。退院して数日後に栄フィルの定期公演でモーツァルトのフルートとハープのための協奏曲を横浜みなとみらいの大ホールで演奏した。ハープは早川りさこさんだった。思い出のコンサートになった。(写真:右手はカテーテルを入れたところ、左手に持っているのがカテーテル・・太ってるなあ)



 2011年12月6日(火) 鎌倉交響楽団フルートセクションのメンバー逹と
 11月5日に鎌倉の芸術館で行われた鎌倉交響楽団第98回定期演奏会の時以来、モーツァルトが取り持つ縁ですっかり仲良しになったフルートパートの人たちが我が家へ遊びにきてくれた。コンサートが終わった後の打ち上げ会の時に12月4日に我が家で一杯やりましょう、と誘っていたのだ。打ち上げ会の時にも明るい人たちだと思ったけれど、その時にも増して終始笑い声が絶えない、底抜けに楽しい夕餉となった。この日は2007年の10月以来指揮者の家田厚志さんからの紹介で私の所にレッスンに来ているパートリーダーの曽根 美樹さん、それから高橋 弘子さん、高畑 裕恵さん、横山 かおりさん、それに千葉からはフルート制作者の柳沢 智郷さんが加わって、いかにも楽しそうな面々が揃った。
 先ずは飲み食いの前に柳沢さんが持参した彼にとって三本目になるという金のフルートを皆で見たり吹いたりした。マウスピースには世界初というブレイジングライザーと云う仕掛けが取り付けられていて、これは飛躍的にその響きを高めるためのものだという。頭部管のコルクの反射板に天然水晶を組み込んだクリスタルトーンも柳沢さんの特許だけれど、これらは彼が限りなく“良く響くフルート”を追求する結果生まれてきたものなのだろう。私の場合は何日もじっくり吹かないと結果がでない人なので安易な評はできないけれど、鎌響の人たちは皆気に入っていた。
 この日は久し振りに私が得意としている料理グーラッシュ(ハンガリー語でグヤーシュという)を作った。3日前からバラ肉(本来はスネ肉だが、なかったためバラ肉になった)と玉ねぎなどを煮込んで用意しておいたのである。この料理で一番辛いのは大量の玉ねぎのみじん切りである。以前買ってあったスウィミングゴーグル(スイミングと書くと睡眠具になるんだ)が見当たらず、大泣きで目を腫らしての作業だったが、出来具合の程はけっこう評判が良かったので嬉しかった。又運良く前日に新潟のフルート界の大御所、須貝 和気三さんから「塩引き鮭」が届いていたのでこれを「酒浸し」にし、丹波焼きの粉引き四方皿に乗せていただいた。なんという美味しさ!この旨さには参った。八海山の純米吟醸酒にとことんよく合った。須貝さん、有り難うございました!
 ところで曽根さんがまとっている一見ドキッとするエプロン、これは以前私がイタリアに行ったときにローマの露店で見つけて買ったものである。グーラッシュを出すときにこれをまとう予定であったが楽しさに紛れてすっかり忘れてしまい、帰る頃になってご披露することになった。これ、変なものじゃないのだ! これはかの有名なミケランジェロの傑作ピエタと並ぶ代表作「ダビデ像」の部分なのだ! 一同お腹が痛くなるほど笑ってっしまった。このエプロンがこの日の夕餉を締めてくれた訳である。イタリア人のセンスって面白いな、大好きな国だ。→本物のダビデ像
 鎌響は年末恒例の大工仕事(ベートーベンの第九のこと)の練習中だそうである。チケットはすでに完売となっている。コンサートの成功をお祈りします。



 2011年12月1日(木) 表紙に使ったアイゼナハのヴァルトブルク城で出会ったキリストを抱く聖母マリア像
 2005年に旧東ドイツを旅行した。まだせんちゃんは生まれて居なかったので妻と2人旅だった。
成田 → ウィーン → ザルツブルグ → ウィーン → ライプツィッヒ → バイロイト → ポツダム → ベルリン → エアフルト → ナウムブルク → イエナ → ワイマール → アイゼナハ → エアフルト → ドレスデン → マイセン → ライプツィッヒ → ウィーン → 帰国
 この旅行の主たる目的はゲヴァントハウス管弦楽団の首席チェロ奏者、ユルンヤコブ・ティム氏の計らいで長年の念願だったバイロイト祝祭劇場に於けるパルシファルを観ることだったが、ついでに十数カ所の街を巡って多くの貴重な体験をすることができた旅行でもあった。
 今日から当ホームページの表紙に登場した聖母マリア像は1999年12月にユネスコの世界遺産に登録されたアイゼナハのヴァルトブルク城で撮ったものである。2人の視線は同じ方向を見ている。幼いキリストの右手が母の胸に入っているのが微笑ましい。地味なこの彫刻からは言葉に出来ない何かが伝わってきて離れがたかった。この城にはマルティン・ルターが旧約聖書と新約聖書をヘブライ語及からドイツ語に翻訳した部屋があった。ワーグナーの楽劇“タンホイザー”で歌合戦の舞台となったところもあった。
 アイゼナハは言わずと知れたバッハが生まれた街である。有名なバッハハウスへも行った。バッハが洗礼を受けた聖ゲオルグ教会へも行った。
 いつの日にか、また訪れたいところである。



 2011年11月30日(水) 山梨交響楽団シニアオーケストラ
 指揮者の七澤 秀人さん!フルートの小池 英男さん!そして梨響の皆さん!第6回 梨響シニアオーケストラ定期演奏会の成功、おめでとうございます!ご苦労様でした!私も終わってホッとしております。良好なコンディションで吹くことが出来て嬉しいです。皆さんと共に音楽をする歓びを堪能せていただきました。甲府市総合市民会館は音響がとても良いホールで吹いた音が自分に戻って来るのでとても気持ちが良かったです。響きの良いホールは“良循環”を生み出してくれました。コンチェルトが終わって後半のプログラムではチャイコフスキの「白鳥の湖」から情景とワルツ、ワルトトイフェルのスケーターズワルツ、ローザスの「波濤を越えて」、ヨゼフ・シュトラウスの鍛冶屋のポルカ、ヨハン・シュトラウスIIの狩りのポルカ、とプログラムが進むほどにオケの音がどんどん良くなっていくのがわかりました。 
 終演後に市民会館の中にあるレストランで行われた打ち上げ会ではアルコール無しでしたが、これは殆どの人がクルマで来るのでいつもの習慣なのだと聞いて真面目さに驚きました。皆楽しそうに盛り上がっていましたが、しかしこれで済むわけはありません。二次会は県立美術館の向かいにある「小作」に場所をかえました。指揮の七澤 秀人さん、それにフルートセクションの小池 英男さん、山縣 仁美さん、関 よしみさん、勝村 直喜さん、オーボエの沖田 宏則さん、コンミスの清水 こずゑさんと同じくヴァイオリンの日原 早織さんと私の9人で大いに盛り上がりました。ここでは勿論お酒もいただきました。演奏を終えた開放感からか特別に美味しかったです。馬刺しも小料理も全部美味しかったのですが、最後に出たほうとう鍋、これがモ〜レツに美味しかったです(イノシシほうとうでしたね!)。
 今回は合わせ練習があったので本番の前々日から行きました。宿は本物の掛け流しの温泉付きのホテルです。温泉は身体をほぐしてくれて充分な睡眠もとることができ、お陰でベストの体調で臨むことができました。しあわせ〜!
 梨響との協演は2007年のモーツァルトのニ長調のコンチェルト以来二度目でしたが、前回と同じくフルートの小池さんからのお誘いでした。彼とはフルートが取り持つご縁でもう20年以上のお付き合いです。今回の仕事がらみでも何度かご一緒して盃を交わすことができました。小池さんのご家族の皆さんとも親しくさせていただき、楽しい時間を過ごさせていただきました。merci beaucoup!
 私の今年のソロの仕事はこれが最後だったので、本当にほっとしています。山梨交響楽団シニアオーケストラとのご縁はこれでお仕舞いにしたくないです。またの機会を楽しみにしています、また一緒に音楽を楽しみましょう!梨響の益々のご発展をお祈りします。(コンチェルトが終わってから撮った写真です。携帯のシャッター音は消せないようなので、照明室のガラスの中から撮りました。)



 2011年11月25日(金) 便利なものには必ずリスクが
 これまでのiPhone3GにかわってiPhone 4Sにかえた。理由は3Gよりもきれいな写真が撮れるようになったから、と単純である。データの移植もiTuneを使って行う過程がちょっと面倒だったけれど面白かった。
 それで朝のウォーキングの時に持って出て撮ってみたのが左の写真である。これならいけるか、と思う。結構きれいに撮れるから日記用だったら旅行などで荷物が多いときなど、重い一眼レフを持ち歩かなくてもよさそうである(私もトシをとったのだ)。サイズは3,264X2,448ピクセルと大きいけれど解像度はさすがに72ピクセルと小さい。しかしパソコン用ということでならばこれでよさそうである。
 私が使う携帯電話の頻度はそう多くはない。買い物に出かけたときの妻との連絡や、旅行先で少し使うくらいである。でも本当に便利なものだと思ってる。しかし注意しなければならない点もある。私が特に気にするのは電磁波だ。800〜900メガヘルツのマイクロ波らしいが、これが脳腫瘍や白内障になりやくすなるのでは、と云われているから怖いのだ。今年の6月に世界保健機関(WHO)の国際がん研究機関(IARC)が携帯電話の電磁波リスクに「脳腫瘍など限定的な証拠が認められる」と指摘しているのである。イヤホンを使用するべきだし、絶対に胸のポケットに入れたりはしないことにしている。
 便利なものにはリスクがつきまとうのが常だ。病気を治す薬にしたって副作用の無い薬は無いと云われているが、私の場合は時によって本体の病気よりも副作用の方が酷くなってしまうこともあるから怖いのである。なかでも鎮痛剤は一番ひどい。粘膜が爛れて見るも無惨な状態になってしまうから使うことができない。クスリ→リスクとはうまく云ったものである。



 2011年11月17日(木) 久野 恵一さんと民藝
 久野 恵一さんが「手仕事フォーラム」を立ち上げてから10年になったそうである。また彼が民藝と関わってからは40年になるという。当ホームページからもリンクしている鎌倉の佐助に「もやい工藝」が出来てから25年になって、その記念の祝賀会が「KKR鎌倉わかみや」で行われたのでお祝いに行った。出席者は全国から民藝の大御所たちと、それに続く若者たちが集まって100人を超えた。私が尊敬している出西の多々納 弘光さんと隣の席で嬉しかった。
 会場に着いて渡された「久野恵一の民藝40年」という小冊子にあった挨拶文には、のっけから「いつの間にかこの仕事に入って40年、手仕事フォーラムを結成して10年。逆に25年も民藝運動を支えてきた日本民藝協会指名理事の役割を解かれ、今年度の日本民藝館展運営委員にもどうやら選ばれなかったようです。」とあったのでびっくりしてしまった。久野さんは誰に対しても云いたいことをはっきり云うので、そんな事が原因になったのだろうか。それを嫌がる人もいることは想像できる。しかし私はそれで良いと思っている。言いたいことが有るのに云わないのは久野さんらしくない。深い見識と愛情に裏付けされた言葉のはずである。挨拶文の続きに「まるで今年は、私に“新たな展開をせよ”という運命的な年なのかもしれません。(中略)“手仕事フォーラムは、新たな潮流として社会に定着する方向に向かえ!”ということでしょうか」とあった。
 多々納さんの祝辞は素晴らしかった。わたしは未だかつてこんなに愛情に溢れた祝辞を聞いたことが無かったので感動に震えながら聴いてた。久野さんが羨ましかった。
 私はよく作り手と売り手の事を考えることがある。クルマにしても宝石にしても、そして焼き物にしても。作り手に対しては尊敬、あるいは憧れのような感情をもっているが、しかし作品を売る立場の人に対してはすこし厳しい。売る物に対する愛情よりも売れれば良いと思っている態度を感じてしまうからだ。しかし久野さんの場合には全く当てはまらない。珍しいことだと思うけれど、作り手に細かい注文をだすそうである。怖ろしいことにも思えるが、それは久野さんが勝れた見識を持っているから出来ることだろうと思う。これを皆がを認めているのである。こういうタイプの人を私は見たことが無い。手仕事フォーラムの若手メンバー達が全国を回って情報を集め、久野さんの力になっている。この人たちの甲斐甲斐しい態度を私はいつも凄いな、と思って見ている。手仕事フォーラムのメンバーが日々発見した事や物を書いている「手仕事フォーラムのブログ」。
 彼は頭の回転が速いから「う〜ん」と考える間もなく瞬間的に判断を下す。そんな久野さんが1人になった時、どうしているのだろうか、とふと思うことがある。好きな器を抱いて愛おしくそっと頬ずりすることがあるのだろうか、と。そんな面も持っていて欲しいと思う私である。(写真:祝賀会に集まった人たち/はめ込み画像は久野さん・さて私はどこに?)



 2011年11月7日(月) 鎌倉交響楽団第98回定期演奏会 
鎌倉交響楽団第98回定期演奏会が終わってほっとしている。鎌倉交響楽団とは何と良いネーミングであろう。創立以来40年というから歴史的な重みもある。今回のモーツァルトのフルート&ハープのための協奏曲は何回も演奏してきたけれど、曲がものすごく綺麗だから笛吹きにとっては極上の幸せを思いっきり味わえるものだ。しかし良い演奏をするめには体調のコントロールや睡眠や唇の荒れなどに神経を使うことおびただしい。アルコールも悩ましい問題である。一切やめたほうが良いのか、或いは少しだったら良いのか、これは未だに分からない。いや沢山飲みたいのではない、これから美味しい食事をいただきます、という時に食欲を増進するApéritifを飲まないで我慢することが精神的にも肉体的にも良いのか悪いのか分からない、と云うことだ。こんな“不健康”なことはやめた方がいいのかもしれないが、とにかくやめていた。色々で神経が磨り減ってしまいそうである。終わってから翌日に吹いてみると本番よりもずっとずっと良く鳴るではないか。打ち上げ会では久し振りにお酒も呑んだというのに、こうである。いつもこんなものだ。普段通りにしていれば良いと言う事なのだろうが、コンディションつくりは本当に難しいむつかしい。指揮の三原 明人さんとハープの杉山 敦子さんとは初めてだった。
 この希に見る美しい曲は音階と分散和音からだけで出来ている。曲の出だしからして、これから美しい音楽が始まりますよ!という生き生きとした分散和音で始まる。音階は音楽の基本だろう。エチュードではメトロノームで機械的に練習するけど、これは音楽では無い。しかしモーツァルトの演奏ではメトロノームから離れて、生きた音階を演奏することになる。一つ一つの音階に思いを込める。そうしないではいられない。アルペジオが得意なハープもこの曲では鍵盤楽器的な音楽を演奏しなければならないから大変だろう。1500人入る鎌倉芸術館であるが、大勢きてくださった。フルート制作者の柳沢 智郷さんも来てくださった。
 終演後の打ち上げ会は楽しかった。それまでゆっくりと話しもしていなかったフルートセクションの人たちと親しくお話しをすることができた。おもいっきり明るい人たちだった。場所を変えて二次会も賑やかに盛り上がる。実はフルートのメンバーの1人、曽根 美樹さんは数年前から私の所へレッスンに来ているのであるが今回の協演も曽根さんから頼まれたのであった。
 鎌響はお世辞抜きにして上手だ。特にオーボエ、トランペット、ホルンなどはすごいな、と思った。レ・プレリュードの最初のイントネーションもきれいだった。アマオケでこれだけの演奏ができたら凄いと思う。コンサートマスターの五味 俊哉さんは銀行員だそうだけれど、銀行員にしておくのは勿体ない人だ(失礼!)。(写真は鎌倉芸術館で本番前のリハーサル)



 2011年10月30日(日) 東日本大震災チャリティコンサート
「自然塾いろり」は本郷台駅から歩いて15分くらいのところにある。小菅ヶ谷の赤坂交差点のところだ。ここは私が大好きな木造建築で音響も素晴らしく、昨日催されたチャリティーコンサートでは会場に一杯の聴衆の前で実に気持ちよく吹くことができた。予約は二十数名と聞いていたのだけれど開場後には次から次へと多くの人たちが来て下さり、用意していた椅子の数だけでは足りなくなって係の人たちは大慌てだった。
 自然塾いろりに関しては地元のタウンニュースに以下のように載っている。
小菅ヶ谷の赤坂交差点前に3月20日、「自然塾いろり」がオープンした。西谷戸町内会の10周年に合わせて同町内会長の三橋清二さんが開所したもので、地域の憩いの場として、趣味や文化活動、ミニコンサートなどに利用できる。 敷地内には、窯やバーベキュー用コンロ、井戸、ミニ農園などがあり、「火・水・土を楽しめる。地域活動団体などと連携して、今後まちづくりの拠点になれば」と三橋さん。約2ヵ月間は地域の人を対象にした施設の体験会を開催し、その後は登録利用制にする予定。来場の際は事前に電話で確認を。詳細は三橋さん【電話】045・895・1566へ。
 今回のコンサートは数ヶ月前からピアノの元永けいこさんと「なにか私たちにできることはないだろうか」と云うところから始まった。色々な案がでたなかで、自然塾いろりで出来たら、という事になってオーナーの三橋清二さんに相談したところ快く会場を提供してくださることになったのである。初めて自然塾いろりに行った時、玄関を入るなりぷ〜んと気持ちの良い木の香りがしたのが気に入ってしまった。音を出してみるとこれがまた実に素晴らしい響きであった。本当に三橋さんには細かい事までひとかたならぬお世話になった。コンサートでは三橋さんのお嬢さん千鶴さんの歌も加わって「昼の夢」などを歌ってくださった。
 ピアノの調律は前日に私が行った(例によってヴェルクマイスターの第3番)。私ができるのは調律だけで整音やアクションの調整などはやらないから左手の部分でいくつかの音が出にくくなっているのを色々試してみたけれど直すことができなかったので元永さんには気の毒であった。今回の収益は全額を東日本大震災で孤児となった人たちへおくる事となっている。※ご報告:59名の方々がご来場くださり寄付金が9万円集まりました。 遺児のケアを目的とした「東北レインボーハウス」(仮称)建設のために全額を贈ることにして準備をしております。有り難うございました。



 2011年10月29日(土) 小山清茂作曲「羽衣」
 塩尻の志学館高校創立100周年記念演奏会で小山清茂の「羽衣」を演奏した。共演の箏の友渕さんと打楽器の有賀誠門さんは志学館高校の卒業生である。箏(歌付き)、フルート、打楽器という一風かわった編成のこの曲は友渕さんの第6回リサイタルのために1980に故小山清茂によって作曲されたものである。友渕のりえさん(写真中央)は平成17年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞、平成18年度 芸術選奨文部科学大臣賞受賞、平成21年度紫綬褒章受章というすごい肩書きの持ち主である。この曲で友渕さんは、いわゆる弾き語りをする。箏をひきながら天人と漁師の二役の声を使い分けながら歌うのである。その声の美しくも不思議な響きに深く聴き入ってしまった。この曲は2009年の12月2日に紀尾井小ホールで催された「友渕のりえ紫綬褒章受章記念リサイタル」(紀尾井小ホール)でも演奏したことがあるから、私としては二回目の演奏であった。私の心の中では曲中何度も箏の響きにのって奏でた悲しげなメロディー(写真下部に貼り付けた譜面)が今でも聞こえている。このように素晴らしい曲を外国でも紹介したいものである。小山清茂さんは私がまだ十代のころに在籍していた日本フィルハーモニー交響楽団で度々演奏した「木挽き歌」で知った人であった。第二楽章の盆踊りでは5拍子にのって奏でるメロディーがとても印象に残っていて今でも暗譜で吹くことができるくらいだが、小山清茂さんは惜しくも2010年に亡くなられてしまった。いつも笑顔を絶やさなかったお顔が懐かしく思い出される。
 終演後に催された記念式典では友渕のりえさんと故小山清茂夫人淑子さんと同席だった(有賀誠門さんは都合で早々と退席された)。小山夫人はテーブルの前に何か四角いものを置いておられたが、1人おいて向こう側だったので初めはそれが何なのかわからなかったが、小山さんの遺影と知った時には感動して泣きそうになった。奥様、どうぞいつまでもお元気で!(写真は終演後に友渕のりえさん、小山淑子さんと私。:有賀茂幸氏撮影)



 2011年10月1日(土) せんちゃんの誕生日
 2007年9月30日の午後7時47分に横浜医療センターで生まれたせんちゃんが満4才になった。体重2,572グラム、身長47センチの小柄なあかちゃんだったけれど、今も小さめみたいだ。でも元気!足も強く、何キロでも平気で歩く。階段が大好きで散歩の途中にある10段のところへ来ると私を待たせておいて10回も20回も登ったり降ったりを繰り返すのが習慣になっている。
 今年の夏は沢山の昆虫を見た。蝉の羽化は特に興味が強かったようだ。草花の名前も沢山覚えた。せんちゃんはお花が大好きだから雑草でも花を見つけると必ず「これ、何て云うお花なの?」と訊く。
 今のところ正式に音楽を勉強しているわけでなはいけれど、いつも何かの曲を歌っているし、私の練習やテレビで何かやっていると良く見ていて音楽は大好きのようである。YouTubeで見つけたシューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」が大好きで毎日見ている。「大人になったらなんの楽器をやりたい?」ときくと必ず「フルート!」と答えてくれる。ここで親バカはでれでれとなってしまう。せんちゃんにとってミュージックがミュージッ苦になりませんように。せんちゃんは今近くの幼稚園の年少組に通っている。集団に馴染めないところは全く私からの遺伝だが、最近は少しづつ慣れてきているようだ。
 天災や人災など、これから先も心配で仕方が無い。特に今放射性物質に神経質になっている。小さい子は影響を受けやすいのだ。できれば原発の影響がないところに引越したいと思って何度か地図を拡げてみたが、そんなところは無いに等しい。よく放射性物質について「半減期」という言葉を聞くが、一体何だろうか。半減期だから放射する量が半分になることは分かるが、かといって倍の時間が経っても消えるものではないらしい。目に見えない極小の世界で何が起きているのか想像もできない。不気味だ。ウラン238の半減期は45億年でプルトニウム239の半減期は2万4千年だ。半減期は500万分の一秒という短いものから、長いのは1000兆年の200倍という天文学的数字のものまであるというから驚く。最近よく聞くセシウム137の半減期は30年である。核実験や原発事故によって飛散した放射性物質からの被曝によって人類は計り知れない被害を受けている。人間は自らがつくり出したもので自らが滅んでいくのである。せんちゃんの将来のことを考えると居ても立ってもいられない。




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