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過去の日記帳 2005年7月 〜 9月

写真ははずしました。



 2005年9月30日(金) 藤田日出男著書第2弾!
 2003年12月11日の日記に取り上げた著書「隠された証言 日航123便墜落事故」(藤田日出男著 新潮社)の第2弾「あの航空機事故はこうして起きた」が同じ新潮社から出版された。現代の社会において航空機のお世話にならないことはあり得ないのだから、人ごとではない本である。航空機事故は何故なくならないのだろうか。それは確かに自動車事故が起きる割合と比べたら比較にならないほど少ないかもしれないが、しかしゼロにはならない。しかも航空機事故は悲惨である。普段から感じていることだが、こと航空機に関しては不可解な事が多いように思う。自衛隊が次期戦闘機を決める場合や、日航や全日空などが新しい旅客機を購入する場合など、どういうプロセスで決まるのだろうか。事故に関しては更に不可思議なことが多いように思える。真相が見えない場合が多い。この本はそういった我々の疑問に答えてくれようとしている貴重な本なのだ。今回の内容は日航機123便・ジャンボ墜落事故、コメット機事故調査に学ぶ安全、世界最大の死者 ロス・ディオス空港ジャンボ衝突事故、名古屋空港、中華航空エアバスA300墜落事故、羽田沖、全日空ボーイング727墜落事故他である。私は藤田氏にはこれからも更に徹底的に追求して欲しく思う一人である。[ こちらから購入できます ]


 2005年9月29日(木) 高坂制立師を悼む
 富山県南砺市法林寺(旧西礪波郡福光町)にある躅飛山光徳寺の第十九世住職高坂制立師は私がヨーロッパへ行っていた7月に亡くなった。帰国後なかなか時間がとれなかったが、ようやく御参りに行くことができた。師とは30年の長きにわたる親交だった。師は浄土真宗の僧侶としてばかりではなく、先代第十八世住職高坂貫昭師の志を継いで日本民藝協会の理事として、また地元の礪波民藝協会々長として民藝運動と深く関わってきた人である。「道具好き」の固まりのような人で光徳寺には彼が収集した世界中の民藝品が寺中に所狭しと陳列されている。一方飲み食いも凄かった。良く言えばグルメ(美食家)だが、そんなに生易しいものではなく凄まじいばかりの食欲であった。全国の旨い物はたいがい知っていたからよく一緒に「飲み食い+道具買い」の旅を楽しんだものである。飲み相手として、また時としては喧嘩相手として深く付き合わせていただいたのであるが、それら全ては過去のものになってしまったのが淋しい。ともすれば音楽だけの世界に偏りがちな演奏家という人種にとって、様々な別世界の素晴らしさを教えてくれた得難い人であった。毎年寺の本堂で行ってきた夏の「せみしぐれコンサート」も20回ほどを数えたが、来年の命日には師を忍んで追悼の演奏会を計画している。享年65歳であった。合掌。



 2005年9月25日(日) 曼珠沙華
 今年もお彼岸がきて曼珠沙華が咲いている。我が家のすぐ近くでは毎年白い花が咲く。昨年埼玉県の巾着田へ写真を撮りに行った9月17日は満開だったから、今年は少し遅れているようだ。現在の巾着田はまだ約3〜4割程度らしい。曼珠沙華と言う名は天上に咲く花という意味だそうだが、純白の花を見る者は黒い悪業を離れると言う。きっと私は毎年御利益にあずかっていると思われるので、これは有り難いと思わねばなるまい。有毒植物のこの花の色々な言われ方を例によって羅列すると、彼岸花、カミソリバナ、シビトバナ、トウロウバナ、キツネバナ、捨子花、天蓋花、などだ。やはりなにやら私にとっては恐ろしい花だ。巾着田の曼珠沙華はまだでもコスモスは咲いているそうである。 [巾着田の最新開花状況 ]



 2005年9月24日(土) ツマグロヒョウモン
 昨日は母のところへ行った。最近テレビで里山歩き、という番組を見たからと言うわけでもないけど、久しぶりに歩きで出かけた。県道から少しはずれた駅まで4キロの山道をいくわけだが、その途中できれいな蝶に出会った。マイクロレンズを持参していなかったことが悔やまれたが、なんと20- 30mmの広角レンズでこのようにうまく撮れた。帰ってから昆虫図鑑を見ても似ているのが多くて中々はっきりしなかったが、どうやらタテハチョウ科に属するツマグロヒョウモンのメスらしいとわかった。漢字で褄黒豹紋と書くように、確かにヒョウの模様と似ているように見える。本州南西部、四国、九州、南西諸島に居る蝶とあるが、御多分に洩れず地球の温暖化の影響で横浜でも普通に見られるようになったものなのだろう、よく見かける蝶である。蝶も種類によっては何千キロも海を渡るのがいたり、人間の目には同じように見えて雄雌の区別がつきにくいモンシロチョウなどは短い波長の光が見えるのでお互いが違う色に見えて雄雌を判別できたり、と不思議な昆虫である。蝶と言うと4年前に亡くなったN響の先輩、オーボエ奏者の丸山盛三さんを思い出す。彼は蝶に夢中だった。家にはたくさん標本を飾っていた。



 2005年9月23日(金) お墓参り
 父が眠る鎌倉霊園まで家からクルマで10分くらいだ。その鎌倉霊園へ母と名古屋から来た妹とその息子と妻と私の五人でお墓参りに行った。毎年春秋の彼岸の頃に窓から見ていると鎌倉方面の墓地に向かうクルマが数珠繋ぎになるので、少し時期をずらしたり、うまく渋滞をかわしてお参りするようにしているわけだが、今年行った20日は帰りが少々混んだだけでうまくいった。広大な霊園の中心にある見晴らしの良い墓を父が初めて見たとき、「良いところだね、ここに入るんだったらいつ死んでもいいなぁ」と言ったのを思い出す。父は晩年桜美林大学で英語の教鞭をとっていたが、79才の時に急逝して早21年になった。赤い花崗岩の墓石には父の同志社大学の先輩で桜美林大学の創設者でもあられる清水安三先生(1892〜1988)の筆になる「愛」の文字が刻まれている。



 2005年9月18日(日) 宇宙線
 近代科学の粋が結晶したような航空機は昔から憧れの的だ。機能を追求した結果があのような美しいスタイルになるのだろう、見ているだけで惚れ惚れする。その航空機だが、昔から気になっていることがある。現代の亜成層圏を飛行するジェット機に乗っていると地上よりも多量の宇宙からの放射線を被曝するはずである。私はこと電磁波に関しては神経質で昔から寝室にもクルマにも効果の程は不明だが電磁波除けのグッズを取り付けているくらいである。携帯電話もイヤーホーンを使って身から遠ざけないと気分的に安心できない。この件に関する記事が昨日の新聞に出ていた。今頃になって出るとは私に言わせれば遅すぎたのだが。友人のパイロット達とも度々話したことがあるが、案外気にしていない風であったのが不思議だった。パイロット達の年間被曝量は平均で3〜4ミリシーベルトと推定される、とあった。これがどういうことなのか分からないが、記事になるくらいだから体にとって良くないことに違いないだろう。特に我々旅行者と違ってパイロットや乗務員は年がら年中乗っているのだから累積する被曝の量は大きいだろうと思われる。☆ 宇宙線 =星が末期を迎えたときに起こる超新星の大爆発の祭に大放出されるニュートリノ(小柴教授で有名になった)や陽子、中性子、パイ中間子、ミュ−粒子などのこと。→ 被曝計算



 2005年9月16日(金) 松食い虫
 恐いもの見たさと言うか、或いは私が普段からよく使う臭いもの匂いたさ(フツウは恐いモノ見たさというらしい 小出語)と言うのか、昔から寄生虫の類が気になって仕方がない。それで寄生虫に関する本を見つけては貪るように読んでいる。世の中で何が一番気持ちが悪いか、と聞かれたら躊躇せずに「寄生虫」と答える私であるのだが。ところでこの写真は先日訪れた鳥取で写したものだが、松食い虫にやられて枯れてしまった松である。私は全山真っ赤に枯れた松林を何度も見たことがある。特に中国地方でよく見かけるが、北海道、青森を除く各府県で発生するそうである。何とも無惨ではないか。松食い虫とはマツ類の樹皮を食い荒らして枯死させる害虫の総称だそうだが、マツノザイセンチュウ(松材線虫)の事を言う場合がほとんどだという。こいつが侵入すると爆発的に増殖するので松は生理障害を起こし、樹液の流動が止まって数週間で枯死する。マツノザイセンチュウの運び屋は悪名高きマツノマダラカミキリだ。松の樹皮や枝をかじるときに気管内に入っていた大量のマツノザイセンチュウが木に移り、それがあっという間に樹木全体に広がる。もちろん様々な研究も行われている。マツノザイセンチュウの媒介昆虫であるマツノマダラカミキリの天敵として鳥類のアカゲラや昆虫糸状菌の効果試験を行っているそうだし、松食い虫抵抗性マツなどの研究も行われていると聞く。この厄介者で気持の悪いマツノザイセンチュウが北アメリカから我が国に侵入したのは1905年(明治38年)のことと言われており、輸入木材に付着していた可能性が指摘されている。長さが1mmくらいのこいつが松の木の体内で所狭しとウジャウジャしているところを想像すると全身に虫酸が走って悪寒に襲われる。とにかく一日も早い根絶が待たれるが、残念ながら今のところはは無理のように思える。見るからに臭そうなものを匂ってみて、うん、確かに臭いと納得すること。



 2005年9月13日(火) ハイドンのオペラ「月の世界」
 オペラ団獅子座の星第六回公演ハイドンのオペラ「月の世界」は実に楽しかった! 初めてメイクを施して短いながらセリフを語っての出演だから私としては大役だった。本来は素顔のままだったのを希望して厚塗りのメイクにしてもらった。第二幕の緞帳が上がってすぐに私が一人で登場すると会場から笑い声があがった(しめしめ)。ちなみに私の役はコイデッシモというオリジナルの台本には無い月の番人の神様。私のために家田さんが考えてくれたものだ。しずしずとステージの前方に歩んでオーケストラの伴奏でニ長調アダージョの美しいメロディーを吹く(暗譜)。吹き終えてから神様らしく威厳の面持ちで一時退場するが、すぐに再登場して次はセリフだ。「ここは月の入り口です、魂を清めなさい、、」などと喋ってから調子に乗って今度は変ロ長調アレグレットを吹く(同)。と、まぁすっかりはまりこんでしまった。あまりにも楽しかったのでクセになりそう。終演後の打ち上げ会では指揮者の家田厚志さんを囲んで一同盛り上がり、乾杯のあとは成功を祝って会場が割れそうな騒ぎになった。どの顔も歓びに溢れていた。(写真は左からエルネスト役の佐々木純さん、ボナフェーデ役の佐藤真規さん、私、エックリーティコ役の川口寛記さん 開幕前の楽屋で11日三鷹市公会堂)



 2005年9月11日(日) 手仕事フォーラム
 今回の手仕事フォーラムはゲストに民俗研究家の結城登美雄氏と今年度の倉敷民芸館賞を受賞したアケビ蔓細工の中川原信一氏(秋田)を招いて鳥取市青谷町の願正寺で行われた。(前回は主宰者の久野恵一氏が受賞している)日本民芸協会常任理事の久野恵一氏が主宰する手仕事フォーラムは、その活発な活動から注目されている。生活環境や材料となる天然資源の枯渇や職人の減少などによって日常の道具類が姿を消していくなかで、今も昔ながらの職人によって素晴らしい手仕事が残っている。そうした優れた手仕事を全国から集めて皆と語り合おう、という企画は非常に有意義だと思った。これは普段から道具類に凝っている私にとっても興味がある問題である。アケビ蔓細工の中川原信一氏の実演を見ながらの公開シンポジウムは参加した人々に感銘を与えたようだった。作る側からの参加者の中に大ベテランに混じって若い人たちも多かったことが嬉しく、また久野氏を甲斐甲斐しく支える手仕事フォーラムスタッフ一同のチームワークも情熱的で、見ていて頼もしかった。私は息抜きとでも言うのだろうか、シンポジウムの後で1時間少々フルートの小品を演奏した。☆ 手仕事フォーラム



 2005年9月5日(月) ハイドンのオペラ「月の世界」
 来る11日に行われるオペラ団獅子座の星の練習に三鷹市公会堂まで出かけてきた。古典派を代表するオーストリアの作曲家ハイドンのオペラ月の世界のことはよく知らなかったが、実に美しい音楽である。私の役は「月の案内人」だが吹くだけではなくて短いセリフもあるので緊張気味。1999年に指揮者家田厚志氏の呼びかけで生まれた「オペラ団獅子座の星」は、ソロを歌う歌手もオケも合唱団もメンバーの職業が会社員、会社経営者、デザイナー、県警職員、学生、主婦等であるというグループである。好き者が手弁当で集う異色的な団体だ。家田 厚志さんの情熱の下に練習にも熱が入った。なお脚本、演出は家田 淳さん(家田 厚志氏夫人)。帰宅後のニュースによると三鷹市で夜の9時20分ころから1時間に105ミリの豪雨を記録して浸水した家屋もあったという。早めに帰ってきて良かった。



 2005年9月2日(金) 三浦半島の三崎港
 三崎港へは寿司を食べに通った時期があったが、目当ての店の味が落ちてすっかり遠のいてしまっていた。ヨーロッパ旅行では仕方がなく肉食に偏ってしまい、魚に飢えていたので昨日はクルマで小1時間をかけて魚を買いに行ってきた。(でも帰ってきてからの健康診断では心配した総コレステロール値も176でまったく上がっておらず、これは毎日1万歩から2万歩も歩いていたからだと思われる) 港には「うらり」という市場があって、たいがいはそこで買う。三崎の魚は肌の色がまるで違う。生き生きとして光っており、実に新鮮でしかも安い。名物の冷凍マグロや金目鯛、鯖、サンマ、イサキなどが沢山並んでいたが、昨日は冷凍マグロと鰺を六枚買ってきた。魚以外にも野菜(冬の三浦大根はうまい!)や干物などもあって、楽しい買い物ができるところなので気に入っている。 → うらり



 2005年8月31日(水) 日本フィルハーモニー交響楽団の同窓会
 日本フィルハーモニー交響楽団は1956年秋、渡辺暁雄の指揮のもとに披露演奏会を行って華々しく楽壇にデビューした。以来時は流れ、12年間の争議などを経て現在は日本フィルと新日本フィルに分かれているが、昨日は発足当時のメンバーが集まって旧交をあたためあった。私は名誉なことに恩師林りりこ先生の推薦で18才の若さで発足メンバーに加わったわけである(以後3年間在籍の後N響に移籍した)。昨日は46年ぶりに会った人も居て本当に懐かしく、嬉しかった。当時のメンバーはまるで家族のように仲が良く、練習が終わってからも別れ難くてアイススケートやボーリングなどをして遊んだものである。だからこそこんなに大勢集まっただと思う。長い年月の間には亡くなった友人も居た。楽しかった反面、何とも淋しかった。



 2005年8月29日(月) ドイツのレストランで
 今回の旅行ではアイゼナハなどで道路標識が日本語で書いてあったのに驚いたことは前にも書いたけれど、どこの町のツーリスト・インフォメーションに行っても日本語の案内パンフレットが用意してあったのはありがたかった。ほとんどの町では日本人よりも台湾や韓国からの旅行者を多く見かけるのだが、それらの言語のパンフレットは無くても日本語のは必ず置いてあった。土産店に入った時に応対に出た女性が漢字で「牛」と書いたペンダントを下げていたこともあった。この写真はドイツのある町でレストランに入った時のウェートレス。これにはびっくりした。思わず一枚撮らせて、とお願いしたら嬉しそうに応じてくれた。鍋もの記念、晩、大募集って、一体なんだろう? おもしろいことになってきたものだ。



 2005年8月20日(土) ディランちゃん!
 7月19日、ザルツブルグからウィーンに帰る3時間あまりの列車のなかで同じボックスに居合わせたディランちゃんは一人旅の11才の可愛らしい少女だった。ウィーンからザルツブルグのお祖母ちゃんを訪ねての帰りだそうで、サンドイッチやお菓子などを袋一杯に持たせてもらっていた。そのお菓子や手製のパンなどを我々にも振る舞ってくれたりする彼女の仕草がじつに可愛らしいく、我々の気を引いた。列車がウィーンの西駅に着くとお母さんが出迎えにきていた。お別れの時には列車の中で一度だけ教えた「サヨウナラ」を言ってくれたディランちゃんは賢い少女である。お別れして一ヶ月とはなんと早いものだろう。今度会える日がきたら、、一体どんなになっているのだろうか。今は可愛いメール友達だ。



 2005年8月19日(金) 母の誕生会
 娘や息子や孫やひ孫たちに囲まれて嬉しそうな母だった。日本人の平均寿命を大きく乗り越えてなお元気な母である。アメリカの民間人口研究所マウンテンビュー・リサーチ社が発表した予測によると、日本人の平均寿命が2050年には90歳を超えるそうだが、すでにそれさへもオーバーしている。日本人女性の平均寿命は20年以上も連続して世界一らしい。
母は昔から私の写真はピントを合いすぎる、と言って嫌がる。ま、写真とは「真を写す」と書くのであるから、、なんて言ってないで少しは考えて撮らねばなるまい。とにかく女性を撮るときには「露出補正」を半絞りほどプラス側に振って肌を白く、などと気を遣う。私は何事も自然主義のつもりだけど、しかし93才になった母はまだまだ若いと思うのだが、、。もっともっと長生きしてくださいよ!



 2005年8月17日(水) アイゼナハ
 ここは日本ではない、バッハが生まれたドイツのアイゼナハの街角だ。この標識を見たとき、えっ?と思ってしまった。外国で日本語の標識をみるなんて、世もかわったものである。(しかしこの町に滞在した3日間、いちども日本人に会わなかった)バッハハウスへ行くのは今回の旅行でも大いに楽しみにしていたことだった。十数年まえに一度前を通ったことがあるけど夜だったし、時間の余裕もなくて今回が初めてとなった。ここで念願のメダル(バッハの印章)を購入することができた。カードで支払うときに係の女性は私が出したJCBカードをみて「これはヨハン・クリスティアン・バッハのカードですね!」と言ってくれて嬉しくなってしまった。街はずれの山頂にあるヴァルトブルグ城は凄かった。城の名前をとったヴァルトブルクという車を生産していた街でもあるのだ。



 2005年8月15日(月) アウトバーン
 ライプツィッヒからバイロイトへ向かってアウトバーンを走るチェロ奏者ユルンヤコブ・ティム氏が運転するBMW700シリーズの速度計。(時速210キロを指している)私は早いのが大好きだが日本では出来ないことなのでこれは実に快感だった。日本でディーゼル車は環境問題で敬遠されるが、ドイツでは過半数がディーゼルのようだ。ティム氏のBMWもディーゼル車であるが、しかし少しもうるさくはなくガソリン車と全く変わらない。ドイツでの軽油1リッターあたりの値段は日本とは違ってガソリンとかわらないのだが、燃費が良いから彼らはディーゼルを好むのだ。とにかく走る量が桁外れにすごいから。日本の車も多く見かけた。思わず心の中で「頑張れよ!」と叫んでしまう。外国で見る日本車はなかなかカッコが良く見えた。(帰国したらガソリンがまたまた上がっていた)
1945年の今日、小学校一年生の私は岡山県西大寺町(現在市)で終戦を迎えた。



 2005年8月14日(日) 大道芸
 ヨーロッパは約2年ぶりだったけど、なんだか変わってしまったな。何故こんなにもお行儀が悪くなってしまったのだろう?残念でしかたがない。参ったのはタバコと携帯電話だ。タバコはどこで吸おうがお構いなしの喫煙者優先で、これはオーストリアでもドイツでも同様だった。携帯電話は乗り物の中でも大声でやってる。乗り合わせた列車の真ん前の席でも大声で平気の平左だ。この点では我が国の方がぐっと進んで居ると思った。数年前にウィーンに行ったときには周りに気遣って聞き取れない程の小声でやってたのがまるで嘘のように思える。
そんなウィーンだったけど、この写真の大道芸人には笑わせてもらった。あまりにも楽しかったので小銭を入れに行き、ついでに操り人形君と握手をした。ウィーンの中心グラーベン通りにて。



 2005年8月12日(金) バイロイト
 約一ヶ月間のヨーロッパ旅行から帰ってきた。今回の主たる目的はかねてから憧れてきたバイロイトでワーグナーを鑑賞することである。幸せなことに30年来の友人、ライプツィッヒゲヴァントハウスオケのチェロ首席奏者、ユルンヤコブ・ティム氏の計らいで普通7年以上待たなければ入手できないという入場券をお世話してもらうことができたのである。ピエール・ブーレーズ指揮のパルジファルは歌手、オケともに素晴らしかったけれどもブーレーズの音楽は冷たい、と言う声も聞かれた。ティム氏が言うには演奏時間についても第一幕はジェームス・レバインの時よりも30分ちかく短かったそうである。しかし、とにかく残念だったのは演出であった。N響では嘗てヴィーラント・ワーグナーの忘れがたいほどに素晴らしい演出でワルキューレとトリスタンとイゾルデを経験しているから余計に認めがたいのだ。ワーグナーのイメージが壊れてしまいそうになるので気になった時には目をつぶっていた。(写真:バイロイト祝祭劇場の前で)
今日は1985年に日航機が群馬県山中に墜落して死者520名を出すという大惨事の日から数えて20年目の日だ。遺族の方々の為にも国民のためにも真実の原因究明が望まれる。合掌  2003年12月11日に書いた日記は[こちら]から



 2005年7月12日(火) 
 あちこち飛び回っていたので母のところへ行ったのは久しぶりだった。母が好きな寿司を食べに行ったり買い物をしたりして楽しく過ごした。26才の時に私を生んだ母も間もなく93才になる。私がいくつになっても自分の子供は子供にしか見えないらしく、こっちが照れるような事も言うので困っちゃうことがある。母は結婚して間もなく、一足先に岩手県の水沢教会に赴任した父のもとに遙か遠い宮崎から女の一人旅で鈍行の汽車を乗り継ぎながら三日もかかって辿り着いたという。今でもオルガンを弾く母、まだまだまだ元気でいてもらわなくちゃ!



 2005年7月10日(日) 栄ゾリステン弦楽アンサンブル
 昨日は “ 栄ゾリステン弦楽アンサンブル” のお披露目コンサートが栄区民文化センター「リリスホール」で行われた。皆それぞれが仕事を持っていたり主婦であったりする条件のなかで迎えた今回のコンサートは準備も大変だったと思うけど大成功だった。会場一杯になった暖かい聴衆に見守られながらメンバー達が演奏する時の顔は幸せそうに生き生きと輝いていた。地元でのこういったコンサートに参加できて私も幸せである。これからも大いに盛り上げてほしい。



 2005年7月8日(金) リハーサル
 最終仕上げのリハーサルを本番で使うホール、リリスで行った。このホールは過去に何度も吹いて響きも知っているし、慣れているから安心だ。とにかくすばらしいホールである。栄ゾリステン弦楽アンサンブルの一同も張り切っている。私も十分に睡眠をとって万全を期すべし。



 2005年7月7日(木) N響練習所
昨日は久しぶりにN響の練習所へ行った。旅行用楽器ケースなどの大きな荷物が所狭しと置いてあり、まるで巣のような状態は変わっていなかった。団員と団友の懇親会だったのだけど、出席者が双方で約30名と少なかった(フルートは一人も居なかった)。 嬉しかったのは11月の定期公演にマエストロSawalischの来日が決まったことを知らせる張り紙があったことだ。去年はどうしても都合がつかなくて聴かれなかったので絶対に聴きたい、すごく嬉しい。11月の2,3日(Aプロ)と12,13日(Bプロ)だ。楽しみ!!



 2005年7月1日(金) 信也の酒
 先日の青森でのコンサートでピアノを弾いてくれた岡田さんの知人から頂いたお酒で、なんと「信也の酒」というラベルが貼ってある。岡田さんが特別に注文してくれたらしい。これ、楽しいなぁ! ぐい飲みは自作で備前の緋襷だ。こういう写真を見るといかにも飲んべえに見えるかもしれないけど、実際は可愛いものでこれに二盃くらいで満足している(その前に缶ビールを二本空けているけど)。我が家の夕食はたいがい五時から六時くらいの間に始まるのが常だから、この写真のように外はまだ明るい(その後は寝るまでの間絶対になにも食べないことにしている)。
ところで漢字は実にうまく作ったものだと感心することが多いが、米が異なって「糞・くそ」となるのは納得できない。主食の米が異なって芳醇な酒になることを思うと「糞」と書いて「さけ」と読みたくなる。




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