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過去の日記帳 2008年7月 〜 9月

写真ははずしました。



 2008年9月21日(日) 川淵直樹さんの展覧会
 昨日は楽しみにしていた川淵直樹さんの作陶展を覧に西麻布にある「桃居」へ行ってきた。途中で目黒通りを通るが目黒通りの中程の碑文谷には「長縄」があるから素通りは出来ない。数ヶ月ぶりに寄ってみた。ちょうど備前の細川敬弘作陶展を覧ることが出来た。まだ若い作家である細川さんの初々しい作品が所狭しと展示してあった。店主はこういった若い作家にも目を掛けて育てているのである。とても好ましいことだと思った。
 さて、長縄を後にして西麻布の「桃居」へ向かった。チャイルドシートに固定されているせんちゃんもむずかることなく、ドライブ中は安心であった。南蛮焼きに大きな魅力を感じている私は特に川淵直樹さんの作品の虜になっているのである。その川淵さんの作陶展は昨日が最終日だった。ああ、やっと間に合ったという感じであった。実は仕事中も内心気になって仕方がなかった私である。桃居へ一歩入った瞬間から川淵さんの焼物が醸し出す暖かな空気が支配していて私の全身を包み込んでしまった。桃居の空間は川淵さんの作品にとても良く似合うのである。いつ見てもいいなぁ、川淵さんの焼物は。飾りっ気は全く無いのに存在感はとても大きいのでる。焼物は使うと育っていくものであるが、南蛮物は特に著しいから使う楽しみはとても大きい。
 ところで私は焼物は食器(酒器も含む)しか買わない事にしている。何となれば飾る物は例え気に入ったとしても、大体コンクリート造りの我が家には似合わないのである。焼物に合わせて家を造り直さなければならないのでは困る。それに引き替えて食器は常に身近にあって毎日でも使えるから楽しい。食器に全く凝らないひともいるけれど私には理解できない。一日三回の楽しい食事である。この大切で楽しい時間を演出する為に私が選んだ食器達に囲まれて私は嬉しい。精一杯の贅沢だ。生涯であと何回食事ができるのか、たった一回の食事でも疎かにはできるはずがないじゃないか。とか何とか言いつつ、妻が選んだ形が綺麗な三つ足の皿を買った(写真の右の方)。



 2008年9月17日(水) 陶芸家の今千春さん
 今回のコンサートが終わってからどうしても行きたいところがあった。それは信楽を焼く陶芸家の今千春さんのところである。住所が長岡だったので浦佐からは遠くない距離だ。無理なく行かれると思い、ネットで検索して場所は確認しておいた。初めてお会いするのに紹介もなく行くのはどうかと思っていたのであるが、幸運なことに池田記念美術館の館長井口優さんが知っていると言う。早速お願いして約束をとることができた。とても嬉しかった。電話をかけると向こうから優しい声が聞こえてきた。気難しい人ではない、ということは直ぐに察しがついた。作品は写真でしか見たことがなかったけれど、とにかく私が大好きな辻清明さんに師事した人なのである。作風にも共通する雰囲気があったので注目していた人だ。
 長岡インターからそう遠くはないところに彼の家はあった。彼は道路に出て私を待っていてくださったので直ぐに分かった。クルマの音など全く聞こえてこない静かな場所だった。お話しによると、さきの大地震で窯が二度も壊れてしまったという。二度目は再建したばかりの窯で焼き上がった作品が詰まったままの状態で壊れたそうであるから、なんともお気の毒な話しだ。更に震度五程度の地震が10回以上もあったそうであるが、その度に作品などが棚から落ちたと言うから本当に大変な目に遭われたものである。作品を見せてもらっている時には美しい奥様がお茶菓子を出してくださったり、せんちゃんに気をつかってくださったりでとても親切にしてくださった。嬉しかった。私は濃い緋色の信楽がすきだが、今回は福島の窯で焼いたという粉引のぐい呑みをひとつを買い求めた。明るく軽い感じでも存在感のある作品でとても気に入っている。
 私は今さんの所を辞してからも行くところを予定していた。それは長岡から遠くない栃尾の美味しい油揚げを買うことだった。こいつは本当に美味しいのである。絶対に買う予定であったけれど、運転しながらふと気がつくと連休最後の日だ。これは帰りの高速道路が大渋滞するのではないかと心配になって、残念ながら今回は諦めることにした。悔しかったがこれは大正解だった。帰宅後に道路情報を見ていたら、さっき通った関越道が大渋滞しているではないか。ほっと胸をなで下ろしたのであった。
 ぐい呑みは早速夕食の時に使ってみた。唇に心地よかった。(写真は今千春さんのお宅でぐい呑み、陶板などの作品を見せてもらっているところ)



 2008年9月16日(火) 池田記念美術館 八色の森コンサート
 今月14日に催された池田記念美術館主催による「 八色の森コンサート 中秋の名月に贈るフルート二重奏の夕べ」 は天候にも恵まれ、もと群響のフルート奏者関原博さんとの二重奏は定刻の6時に始まった。コンサートが始まってからまもなく越後駒ヶ岳や八海山が見える背景のなかに月齢14の中秋の名月が昇ってきた。これ以上の借景はないだろうと思われる。秋の夕暮れはロマンチックに満ち満ちて雰囲気は最高。間もなく一歳になる息子せんちゃん(千里・ちさと)の名付けの元となった平安初期の歌人大江千里が詠んだ「月みれば ちぢに物ものこそ かなしけれ 我が身みひとつの 秋にはあらねど」が頭の中をよぎるのだった。
 このコンサートは池田記念美術館館長の井口優さんや、文部科学大臣賞を受賞した農民画家の関正一さんや、地元の多くの人たちの情熱によって催されているものである。 事情で途中ぬけた年もあったけれど、とにかく三十年近くも続いているのだから凄いと思う。思えば第一回目は大崎小学校の体育館で行われたのであった。皆がススキなどを刈ってきて会場にかざり、秋を演出した、あの第一回目のコンサートは思い出深い。その後八海山の頂上近くにある千本檜小屋や浦佐駅近くのさわらびホール、トミオカホワイト美術館などで続けられてきたこのコンサートは、昨年から会場を池田記念美術館のエントランスホールに移したのである。
 コンサートの後もまた底抜けに楽しい時間が待っている。地元の八海醸造のご厚意で美酒が並ぶ卓を囲んでの宴は心が通じ合う場になっており、あたたかい雰囲気に満ちて底抜けに盛り上がるのだ。山菜が好きな私のために毎年山で採った山ウドを下さる親切なご婦人もいて、嬉しい嬉しい!いつまでも終わってほしくない宴だった。
 来年の中秋の名月は10月3日である。来年も中秋の名月コンサートは予定されている。
(写真はコンサートが始まった時で、向かって左側が関原 博さん。まだ月は昇っていない)



 2008年9月5日(金) 寄生虫
 我が家の台所は北側の窓に面しているが、七階の窓から見る山や竹藪などは中々よく気に入っている。夕焼けの写真もここから撮ることがある。この窓には網戸が付いていて、よくここへ虫が飛んでくるのであるが、最近はアブラゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシゼミなどが多い。たまに網戸の直ぐ近くに蚊柱が現れて数え切れないくらいの蚊がミーティングをやってるのを見かけることがある。なにもこんなに高いところで、と思うのだけれど何をしているのかな。あれは確か一匹の雌に無数の雄が群がっていると聞いたことがあるけど。でもこれは蚊とは云っても、いわゆる人を刺す蚊とは違うらしい。
 昨日はここにミンミンゼミが飛んできた。なにか様子がおかしいので近寄って良く見ると、両脇に大きな綿のようなモノをくっつけているのが見えた。急いでカメラを持ってきて撮った。この綿のようなものはセミヤドリガの幼虫に違いない。セミに寄生しているのだ。二匹ではなく、もっと沢山居るようにも見える。これでは重くて飛ぶのに大変だろうが重いばかりか体液を吸われるから命も危ないはずだ。寄生虫という奴らの根性は全く気に食わない。昔中学生の頃によく昆虫採集をやった私であるが、二匹も付いているのを見たことはなかった。嫌だろうな。くっつかれたままで平気な訳がないのに、どうすることも出来ないのだから。
 私は宿り木も嫌だ。どういう風に嫌なのかと云えば、それは蛔虫やサナダムシなんかの標本を見たり想像したりとた時と少しも変わることがないくらいに嫌なのだ。イギリスではこいつをクリスマスのときの飾りに使うそうだからクリスマスの頃にはイギリスへは行きたくない。ヨーロッパを旅行していると、こいつが一本の木に数十個も寄ってたかってくっついているのを見ることがある。木に同情して払い落としてしまいたい私である。
 ついでに嫌なモノを云うと、それは顔ダニだ。こいつの気持ち悪さったらない。こいつが赤ちゃん以外の殆どの人の皮膚深く毛根辺りの一カ所に複数匹、全身では数十万匹、あるいは数百万匹も住み着いている(主に顔)と知って発狂しそうになる私である。  平気だと思う人はどうぞ → YouTubeで見つけた [顔ダニ ]
(写真は台所の網戸にやってきたセミヤドリガに寄生されたミンミンゼミ♀)



 2008年8月26日(火) 三十違いの兄弟
 イタリアでの勉強を終えて今はフランスのストラスブールでリュートの勉強をしている息子の明日也が一時帰国して千里と初めて対面した。明日也という名は当時88才だった備前焼人間国宝の藤原啓さんが「ええ名前じゃのう」と気に入って下さり、親戚中に配れと色紙に何枚も“明日也”と書いてくださったのである。本当にやさしい啓さんだった。その明日也はとてもやさしく千里に接してくれたのに千里は人見知りが始まっているのでなかなか馴染まなくて明日也は戸惑っていた。これは時間を待つしかないだろう。絵本が大好きな千里はどんなにぐずっている時でも「絵本を読んであげようか」というとすぐに嬉しそうな笑顔で近寄ってくるから、明日也にも勿論そうしてもらった。いつ頃まで人見知りするのだろうか。
 ところで明日也の蕎麦好きは私同様相当なものである。小さい頃から一度も食べ残したことがないのは蕎麦だけだ。外国での生活が長い明日也を蕎麦屋へ連れて行ってあげたいのは当然で、今回も予定していた。そこで以前から気になっていた鎌倉へ行く途中の店へ行ってみることにした。朝比奈の切り通し(と言っても現代の)を越えて間もなくのところにある店に入ってみると昼時とあってけっこう混んでいた。メニューは豪華だったけれど蕎麦そのものを味あう「もり」か「ざる」が無かったのは残念。仕方なく薬膳そばというのを注文して盛り沢山の薬味は使わないで食べたが、やはり鎌倉の蕎麦屋と言えば私にとっては一茶庵しかないと思う結果となった。明日也が注文した“しそ茗荷蕎麦”には不思議なことに紫蘇が入っていなかったが、間違ったのかな。明日也には前々から云っていることだけれど、是が非でも山形の“あらきそば”に連れていかなくちゃ。
 夜になって我が家の夕食はこのあたりで美味しい金目鯛の煮付とサンマ(これは北海道もの)の刺身にした。金目鯛は私の大好物で我が家の食卓によくのぼるのであるが、明日也にも大いに気に入ってもらえたようで良かった。もちろんお酒も呑んだ。私は久し振りだったので程々にした。サンマの刺身の美味しかったこと!
 明日也は9月半ばにフランスへ帰っていく。(写真は明日也に絵本を読んでもらう千里)



 2008年8月19日(火) 藍染め 
 私は藍色が大好き。普段から藍で染めた綿、麻、絹などのハンカチ、手拭い、タオル、衣服、敷物など沢山のものを使っている。藍染めは乱反射するから一際色が美しく見えるのである。同じような色に見えても化学染料で染めたものと並んで写真を撮ると写真は正直なもので藍で染めたものの方が輝いて写るので差は歴然としているのである。
 藍染の不可思議な一連の作業は非常に神秘的である。真っ白な糸束がお世辞にも綺麗な色とは云えない藍亀の液のなかへ入れられ、引き上げてられると液の色をして出てくる。糸束の上下に竿を通して片方を両足で固定しておき、もう片方の竿を両手に渾身の力を込めて回転させて搾る。この時に現れる色も明るく輝く黄緑で非常にきれいであるが、この搾った糸を解いてぱらぱらと空気に触れさせるとぱぁ〜っと藍色に変化するのである。一回だけではいわゆる浅葱色で濃い紺ではない。これを繰り返すことによって次第に色が濃くなってくるのである。濃い藍色にするには十回も二十回も繰り返す。「青は藍より出でて藍より青し」という言葉があるけれど、光徳寺の故高坂制立師が爪まで藍に染まった手で糸束を染め上げてくれたたあの日、この言葉の意味を初めて理解することができた私である。染め手によって新しい命が生まれてくるのである。民芸運動の創始者柳宗悦の著書「心偈」にある「色ソメツ 心ソメツ」という深遠な言葉が生まれる所以である。僭越ながら私のフルートに対する気持をこれから戴いてCD KOIDESSIMO II のサブタイトルを「音カナデツ 心カナデツ」とさせていただいた。
 母が言うには昔は寺に行く時には藍を(草)持って行ったそうである。寺へ行くと甕が置いてあり、そこへ持参した藍(草)を投げ入れたそうである。寺ではその藍を使って僧衣などを染めたと云う。昔は藍で染めた服を着るのはごく普通のことだったのだ。しかし藍は一時期化学染料に押されて衰退し、存続さえ危ぶまれた時代があった事を思うと現在の流行とも云えそうな時代になって良かったと思っている私である。しかし一言で藍染めと云っても実は色々あるのだ。中には正藍染めと表記しておきながら、その実は正藍どころか殆ど科学染料で染めたものがあるのは残念なことである。目を肥やして見る必要があるだろう。藍で染めたものには一種独特の匂いがあるから、私は必ず嗅いでみることにしている。
 今年も新津の木下日出男さんがたくさん藍染めの作品をもって京急百貨店にやってきた。木下さんは呉服屋で、藍の魅力に取り憑かれて雅号を木下瑛風と称し自ら染め始めた人だ。私は贅沢で我儘なことをしている。白地のパンツを買ってきて木下さんにお願いして藍で染めてもらうのである。虫が付かないと云うひとも居るが、とにかく身体には良いそうである。(写真は木下日出男さんと奥様、妻と息子の千里。上大岡の京急百貨店の売り場で)



 2008年8月12日(火) 尊い命をなくされた520名の方々のご冥福をお祈りします。
 最悪で不可解な日航123便の事故から23年の月日が経ちました。
● 航空事故調査報告書
本事故は、事故機の後部圧力隔壁が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の損壊が生じ、飛行性の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたものと推定される。 飛行中に後部圧力隔壁が損壊したのは、同隔壁ウエブ接続部で進展していた疲労亀裂によって同隔壁の強度が低下し、飛行中の客室与圧に耐えられなくなったことによるものと推定される。 疲労亀裂の発生、進展は、昭和53年に行われた同隔壁の不適切な修理に起因しており、それが同隔壁の損壊に至るまでに進展したことには同亀裂が点検整備で発見されなかったことも関与しているものと推定される。

○ 今、この調査報告をまともに受け取る人がいるだろうか。圧力隔壁が壊れたら機内では急減圧によって会話もできなくなるのである。急減圧が無かったということは今や事実として誰でも知っている。これだけ多くを語られてきたと云うのに事故調はしらを切り続けている。何を隠しているのか。良識ある仕事をして欲しい。
著書「隠された証言―JAL123便墜落事故」などを著して問題を投げかけた故藤田日出男さん亡き今、遺志を継いでくださる方々を応援したい。



 2008年8月9日(土) 懐かしい人と音楽
 出会いとはほんとうに不思議なものである。吉田友子さんは先月の26日に清瀬で行われたコンサートを聴きに来てくださったが、なんと15年ぶりの再会だったのである。その友子さんとの初対面は新津市(現在新潟市秋葉区)在住の親友木下日出男さんが主催した二番館でのコンサートを聴きに来てくれた時である。友子さんは当時まだ小学生だった。その後新潟の高校ではピアノと声楽を勉強していたという友子さんとはその後はしばらくの間年賀状のやりとりをしていたが、それも途絶えていた。ところが今年の五月に私のホームページを見つけた友子さんから懐かしい見覚えのある字の手紙が届いたのである。それががきっかけになって先月の清瀬のコンサートにも聴きにきてくれることになったし、更には我が家へ遊びにきてくれることになった。考えてみればゆっくりと話しをしたことなどは一度も無いのだから今回は本当に不思議な気持である。数えてみれば彼女と会ったのは今回がたったの四回目でしかないのだから。長年会わなかった間に彼女は東京芸大に入学、卒業して更に現在も勉強中だという。それで今回遊びに来ると決まったとき、私は友子さんの声を聴きたくなったのである。ふと頭に浮かんだのは何故か作曲者の名前も覚えていないソプラノとフルートとピアノのための「昼の夢」という曲だった。この曲は私がまだ十代のころに大谷冽子(きよこ)さんと共演したことがあった。しかし何故この曲を思い出したのか自分でも分からない。友子さんにもお願いして昼の夢について色々調べてもらったところ、作曲は梁田貞と分かった。私もネットで検索したらヤフオクに「音楽の師 梁田貞」という本が出ているのを見つけ、そしてこれを落札することができた。貴重な本だ。当日はピアノの人も連れてきてと頼んでおいたが、芸大時代の友達である小林えりさんを誘ってきてくれたのである。えりさんは現在イタリアへ留学中で、ちょうど夏休みで帰国しているとのことで来てくれたそうである。私はこの日のために特に入念にピアノの調律をしておいた。当日、お茶を一服してから早速梁田貞作曲の「昼の夢」をやってみた。友子さんのソプラノとえりさんが奏でるピアノと私のフルートが懐かしいメロディーを奏で始めるとすごく嬉しい気持に満たされた。友子さんの声は明るくて可愛らしくとても好感が持てた。そしてえりさんが奏でるピアノのなんと美しかったことだろう。機会があったらこのメンバーで演奏したいね、と話し合った。是非とも実現したい。(写真の向かって左が吉田友子さんで右が小林えりさん)



 2008年8月4日(月) 大好きなホルスト・シュタインさんが亡くなられた
 訃報が続く。N響名誉指揮者のホルスト・シュタインさんが先月の27日にスイスの自宅で亡くなられたとの知らせに悲しみに浸っている。シュタインさんは1999年のプラハの春音楽祭で演奏中に倒れて以来演奏活動を休止している、と聞いていたので私はずっと健康を心配していたのであるが残念なことになってしまった。夫思いのご夫人の悲しみもお察しする。
 シュタインさんとの最初の出会いは1973年に初めてN響の指揮台に立った時であった。この時に演奏したラヴェルのダフニスとクロエ第2組曲は強烈に印象に残っている。シュタインさんが45才の時であった。以来私が定年退職するまでに計16回来日しているが、ワーグナー、リヒアルトシュトラウス、ブラームス、ベートーヴェン、シベリウス、ヤナチェックなど、彼の類い希な指揮に操られて演奏できた私は幸せであったと思っている。N響では1998年にもっとも得意なワーグナーの「パルジファル」第3幕をコンサート形式によって演奏したのが最後になった。
 シュタインご夫妻とは仕事以外でも親しくお付き合いをさせていただいた。お嬢さんのためのフルート選びに楽器店に行ったり、日本の伝統工芸、とりわけ焼き物に興味を持っておられたご夫妻を多摩の辻清明さん、益子の島岡達三さん、鎌倉の河村又二郎さんのところへお連れした事があった。この時の楽しかった思い出は忘れがたいものとなっている。
 今、それらの一つ一つ思い浮かべながら妻と二人でヨーロッパを旅行した1998年の11月、ウィーンでシュタインさんがWiener Symphonikerを指揮するコンサート聴きに行った時の写真を眺めている私である。この時に楽屋へお訪ねしたら満面に笑みを浮かべながらいつものテノールで「オー!コイデサン!」と大きな声をあげて嬉しそうにして下さった顔が忘れられない。大きな星がまた一つ消えてしまった。本当に残念である。享年80歳だった。心からご冥福を祈りする。合掌(写真:ウィーンのムジークフェラインザールの楽屋で。当夜最初のプログラム、エグモント序曲のスコアを手にした当時70才のシュタインさんと)



 2008年7月29日(火) ホルン奏者千葉馨さん「お別れの会」 
 皆からバーチの愛称で呼ばれていたホルン奏者千葉馨さんのお別れ会に行ってきた。バーチさんは自分の事を云うときにも僕などとは云わずバーチと云っていたから自他共にバーチであったわけである。そのバーチさんは長い闘病生活を送っていたが、今年の6月21日に80才で亡くなられた。お別れの会の会場になったサントリーホール ブルーローズ(小ホール)には沢山の人が集まった。遺影の周りには良く見る菊の花にかわってヒマワリなどの明るくて綺麗なお花が飾られているのも、いかにもバーチさんに似合っていた。指揮者の外山雄三さん、ヴァイオリン奏者の海野義雄さん、トランペット奏者の北村源三さんなどが生前の思い出を語ったが、外山さんが語った内容はとても興味深かった。
 私もバーチさんとの思い出は沢山あるが特に忘れることが出来ない思い出、それはN響に入団してまだそう間がないころであった。演奏旅行中の合間の休日に皆で行った海岸でのことだった。留学の問題で一人で考え事をしていた私の側に人知れずやってきて、「留学のことだろ?もしもお金のことだったら貸してあげるよ、何でも云ってごらん」と優しい笑顔で云ってくれたあの日のことは今でも忘れることができない。お借りすることはしかったけれど、バーチさんの気持が嬉しくて後で泣いた。
 また赤坂の家に御招ばれされたこともあった。バーチさんは普段から笑顔が絶えない人であったが、呑み会になると一際朗らかになってその場の雰囲気を盛り上げた。バーチさんの背後には常にバッカスが居座っていたものと思われる。およびさん(奥様のピアニスト本荘玲子さん)も交えての楽しい一夜を飲み語ったあの日、後片付けの時に名ホルン奏者が食器洗を手際よく手伝っているのをみて、何とも言えぬ微笑ましさを感じたものである。
 肩を揺すりながら全身で笑うときも、ものすごい剣幕で真っ赤になって怒る時も、失礼ながらいかにもかわいいバーチさんであった。バーチさんが亡くなったと言うことは、ひとつの区切りかもしれない。心からご冥福をお祈りする。



 2008年7月28日(月) 清瀬のコンサート 
 去年に続いて今年も清瀬のコンサートに出演した。これは石神井高校時代の同級生もメンバーになっている「創年・町づくりの会」が主催するコンサートである。会場には去年にも増して溢れそうなくらいの人が聴きにきてくださった。今年は邦人作品も交えてのプログラミングでドビュッシーの小舟にてに始まったあと平尾貴四男、外山雄三、尾高惇忠の作品を演奏した。またメインには昨年予定していたものの事情で出来なかったドップラーのハンガリー田園幻想曲を演奏した。会場のアミューホールは多目的につくられており、床には絨毯が敷き詰められているので音響はよくないけれど、そんなことよりも会場を埋めた人たちが発散する暖かい雰囲気が空間を支配して演奏にも情熱が入るのだった。演奏していると会場の雰囲気が伝わってきて道中の疲れも吹っ飛んでしまうのである。ピアノの山田京子さんとは初めてだったが、聴いて下さった人たちからとても良いアンサンブルだった、とお褒めの言葉を戴いたので嬉しく思っている。思い掛けず私が通っていた石神井中学の後輩という人も来て下さり、懐かしさと嬉しさで胸が熱くなった。時間がなかったのでゆっくりとお話しできなかったことが悔やまれる。会場には現清瀬市長の星野繁氏もお見えになった。息子の千里も連れて行ったけれどコンサートを聴かせるにはまだまだで、もちろん演奏会の間は他のところで過ごしてもらった。今回のコンサートは我がMacintoshの先生である山下博央さんが多忙中にもかかわらず来てくれて最新の器機を使ってハードディスクに録ってくれたのである。これをCDに起こしてくれるとのこと、聴きながら反省会をやらねば。
 清瀬と云えば私がフルートを始めた中学の頃に住んでいた石神井から直ぐ近くのところだからとても馴染みのある地名である。しかし今住んでいる横浜市の西はずれから行くとなるととんでもない時間がかかってしまう。距離は60キロしかないのに、とにかくどのコースを通っても混雑が激しく、行くたびにコースを変えてみるのだが、結局同じ事になるのである。勿論交通情報センターからの情報を見ながら決めるのだが、今回も3時間以上かかってしまった。到着するが否や、即会場練習、そして本番はきつかった。(写真は終演後に関係者が集まって撮った記念写真で私の向かって右隣が山田さん:撮影山下博央)



 2008年7月12日(土) 今月26日の清瀬の練習
 去年に続いて今年も清瀬で演奏することになっているので、合わせ練習をした(7月26日が本番)。昨日は二回目の練習だった。ピアニストの山田京子さんは清瀬のコンサートの仕掛け人である高校時代の友人の紹介で共演が決まった人だ。山田さんとのコンサートは今回が初めである。山田さんは東京藝術大学を卒業後、桐朋学園のソリストディプロマコースを経て渡仏、 パリ・エコールノルマル音楽院で演奏ディプロマを取得した。アルベール・ルーセル国際ピアノコンクールではショパン特別賞を受賞している人である。練習も二回目ともなるとお互いに初対面の堅苦しさからも解き放たれて和気藹々と進行した。私からの無遠慮な要求も嫌な顔もしないで同じ所を何回も繰り返し合わせてくれた。とても音が綺麗なピアニストだと思う。本番が楽しみだ。
 今回のコンサートの特徴は平尾貴四男、外山雄三、尾高惇忠という三人の邦人作品をとりあげたことだろうと思う。それぞれの異なる性格を余すところなく表現できたら、と思っている。平尾貴四男のソナチネは何度も演奏したことがあるし、尾高淳忠も今度が二度目であるが、外山雄三のフルートとピアノのためのファンタジーは全くの初めてだ。中間部にあるカデンツァは音のつながりが不思議と云うか独特で難しいけれど、吹き込んでくるとこれが中々面白くなってくるのである。しかし難しい。
 十ヶ月目に入ったせんちゃんはフルートに対して強い興味を示すので嬉しい私である。私が毎日練習していると這い這いしてやってきてフルートに触りたがる。強く握ろうとするので危ないが、私は足部管のHのキーを人差し指一本だけで触らせてあげる事にしている。何度も何度も触りたくて側にやってくる。その度に私は例によってモーツァルトの魔笛からと、フンパーディングのヘンゼルとグレーテルを聴かせてから触らせてあげる。昨日の練習は妻が抱いて直ぐ側で聴かせていたが、演奏中はほとんど大人しく聴いていた。(練習の合間に山田京子さんと)



 2008年7月9日(水) 秋のコンサートの練習
 長年群馬交響楽団で活躍してこられたフルート奏者の関原 博さんとのお付き合いは数十年にもなる長いものだ。その関原さんと9月14日に新潟の浦佐にある池田記念美術館で行われる「八色の森コンサート中秋の名月に贈るフルート二重奏の夕べ」の曲と、10月27日の高崎シティギャラリーで行われる「小出 信也 & 関原 博 Flute Duo Concert 」の練習をした。え、もう練習を?と思うかも知れないけれど、早めに1回やっておくと間をおいて居る間に頭の中でも熟成していくものなのである。何をやっていても演奏する曲のことを考えていない時は無いくらいだから。そう言うわけで次回の練習をする夏の終わりころの練習はぐっとはかどるのである。フルート二重奏だけのコンサートを魅力的にすることはそう易しくはない。8月下旬くらいから本格的な合わせ練習に入ると思うが、それまではたっぷり個人練習をやっておかなければなるまい。
 ところで関原さんの愛器はマテキフルートだ。今回のコンサートではモーツァルトの魔笛二重奏もあるから、なんと打って付けのコンサートではないか。マテキフルートと云えば1997年に惜しまれつつこの世を去った設立者で先代社長の渡辺茂氏を思い出す。忘れられないことがある。それはもう随分前のことになるけれど、岡山の西大寺の教会で演奏したときのことだった。ふと見ると会場に渡邊茂氏らしき人が居るではないか、初めは人違いかと思った。しかし間違いではなかった。ずっと以前に私がふと口に漏らした西大寺でのコンサートのことを覚えていてくださり、不便なところまで来て下さったのである。この時は本当に恐縮したけれど、たまらなく嬉しかった。彼の誠実な性格は誰しも認めるところである。彼には色々とお世話になった。笑顔が懐かしい。マテキフルートは渡辺茂氏が亡くなられてから夫人の渡辺栄子氏が継いおられる。
 さて練習の後は楽しい夕食となった。カニ好きの関原さんが持参してくれたタラバガニを肴に妻の手料理で話が弾んだ。しかしお互いにこの年齢になると、どうも話の内容が成人病のことになる場面が多いので困る。信じがたいことに私は最近古稀を迎えてしまった。出来ることなら断りたかったけれど、これは嫌だと云っても駄目で甘受するしかなかった。嗚呼。せんちゃんの為にも長生きしなくちゃならない私は健康の為にお酒を控えめにしているので、とことんお付き合いができなくて申し訳なかった。関原さんは我が家に泊まって、翌日も練習をして午後にお帰りになった。



 2008年7月1日(火) 金のフルート
 新宿のパウエル・フルート・ジャパンへ行った。私はパウエル・フルート・ジャパンの小林さんのフルートを調整する腕前は絶対的に信頼していから安心してお任せできるのである。今回は特に悪いところがあったわけでがなかったけれど、用事のついでに持って行って見ていただいたがどこにも問題はなかった。キーにオイルを挿していただいた。久し振りの小林さんは頭を綺麗さっぱり坊主頭にしていたのでビックリ。
 しかし何だろう、この金のフルートの多いこと!金は非常に高価な金属だが、こんなに沢山置いてあるのを見ると世の中も変わったものだとつくづく考え込んでしまう。私が初めてボストンのパウエルに金のフルート(No.3711)を注文した1970年代は7年も待たされたのである。これを思うとちょっと信じられないのである。今はお金さえあれば好きなときに買えるのだ。銀のフルートでさえ3年待ちだった。韓国でレッスンしたとき、中学生たちがほとんど金のフルートを持っていたのにも驚いたことがある。私などは最初は中古の真鍮製だったのに。
 写真の中央で嬉しそうにフルートを持っているのは梨響シニアオケでフルートパートを受け持つKさんである。昨年の11月に甲府で催された梨響シニアオケ第2回定期演奏会のときには大変にお世話になった方である。この日、新しいフルートとのお見合いに来られ、意気投合してめでたく結婚?成立となった。私はちょっぴり仲人役をさせていただいたのであるが、この笑顔を見ていると嬉しくなってしまった。これから自分なりに育てていくのは楽しみなことだろう。(写真中央がKさんで右端が小林さん)


 2008年6月25日(水) e-mailについて思うこと
 愛用しているMacintoshは普段から大いに働いてくれて有り難い存在になっている。電子メールは普通の郵便とはちょっと違って送った相手が見てくれるまでは伝わらないけれど、急がない時には非常に便利である。ところで便利な電子メールであるが意外と問題も多い。その中で私が困っていることがあるので書いてみたい。それは返信についてである。私から出したメールの返信に文章、果ては写真までをそっくりそのまま返して下さる人が実に多いのである。中にはえっ、こんな人までもが?と思うような場合もある。殆どがウィンドウズからのものだ。私はメールに署名をつけているが、堪りかねて数年前から失礼ながら「このメールへの返信をくださる場合には私からの文章、画像は削除してください。」という文章を加えたのである。しかしこれでも効果が無くてそっくり返ってくる場合が多い。一体どうすれば良いのだろう。ウィンドウズ同士でのやりとりでは何回もやっているうちに十メートルを超えることになってしまうのだろうか。勿論契約など、重要な用件についてはお互いの用件を確認する意味で引用符をつけて返すことはある。しかしごく普通のメールのやりとりで全てを返すことが必要だとは思わないのだけれど。ウィンドウズの人が殆ど使っていると思われるOutlook Expressに問題があるのだろうか。或いはマニュアルを良く理解しないまま使っているのだろうか。受信メールからマウスの右をクリックして「送信者へ返信」を選ぶと返信メールが開くらしいが、そのままだと自分が送ったメッセージの行頭に>が付いたものを再び見なくてはならないはめになる。長文では煩わしいことおびただしい。相手から来た文章を読みながら返事を書いた後は削除してくれれば良いのだけれど。私は何かよい解決方法はないものかといろいろ探してみたところ、非常に参考になるところを発見した。特にウィンドウズの人にはここをよく読んでもらいたいので紹介することにした。実はかく言う私だってなにをやらかしているか分かったものではないのだけれど。
 この他にもウィンドウズの人から時々来るMicrosoft社のOfficeなどによる書類添付の問題もある。わずか数行の文字をわざわざ添付で送って下さることもないだろうと思うのであるが。MacintoshにはMicrosoft社のOfficeのワープロソフトを持っていない人が居ることも知っていただきたいのである。世の中はOSが一種類だけではないことを知って、より良い環境をつくっていくことを心掛けたい。




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