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過去の日記帳 2006年7月 〜 9月

写真ははずしました。


 2006年9月30日(土) 団友オケで水沢へ行ってきた
 豊田の芳友寺コンサートや金谷の西照寺コンサートに続いて休む間もなく岩手県の水沢へ四日間、N響団友オケの仕事で行ってきた。ご多分に漏れず水沢も合併によって奥州市水沢区となってなんだか勝手が悪いが、これは慣れるしかないだろう。今回は奥州市文化会館などを会場として水沢高校、水沢第一高校、金ヶ崎高校、胆沢高校、水沢商業高校、前沢高校、岩屋堂農林高校、水沢農業高校、水沢工業高校の生徒達を対象とした、いわゆる音楽教室コンサートであった。ソリストは二胡奏者の劉鋒(りゅうほう)さん。彼女の演奏はいつ聴いても実に素晴らしい。超絶技巧に目を見張る「競馬」や切ない心を歌い上げる「もらい泣き」などを堪能させてもらった。彼女がステージに現れると彼女の美貌もさることながら、身体にぴったりフィットし、そして何よりも長いスリット(私が破れていると言ったら、違うと言われてしまったが)が特長のチャイナドレスが高校生にとっては珍しいのであろうか、会場が異常なざわめきを見せるのが常であった(然もありなん)。さて、団友オケには常に若い演奏家達もエキストラとして参加するので、その人たちとの交流もまた楽しみの一つになっている。毎夕食時には連れだって出かける。飲み食いは好きな連中ばかりだから初対面でも一気にとけ合ってしまう。気が合うこと、おびただしい。幅広い話題に花が咲いた。(写真は左からクラリネットの大和田さん・12月にリサイタルがあります、オーボエのさん、クラリネットの斎藤さん:広角レンズで撮る時に他よりもカメラ側に近づくと一人大きく写ってしまうので要注意なのは知っているのに)。



 2006年9月19日(火) 軽井沢追分教会 敬老の日讃美礼拝
 17日に軽井沢の追分教会において当教会の稲垣壬午(じんご)牧師の司式の下で「Worship Concert 敬老の日讃美礼拝」が催され、演奏してきた。この日は八十才以上になられた八人が祝福されたが、最高齢はまもなく九十五才になられる当協会の名誉牧師、稲垣壬午牧師の御尊父稲垣守臣牧師であった。稲垣守臣牧師は私の父の後輩にあたり、私を赤ん坊の頃からご存じなので頭が上がらないのであるが、今も優しい眼差しで見守ってくださっている。ご高齢にもかかわらず、最近もお一人で神戸まで友人を訪ねに行かれたというから驚きである。この日祝福されたなかには若い頃に夢中で読んだ「風立ちぬ」の著者である堀辰雄の夫人、小説家堀多恵子さんも居られて感激した。九十三才になられたそうであるが、とてもお元気そうであった。(これらの写真は近いうちに写真館に出す予定)当教会のオルガニスト、木村協子さんとは既に数回演奏してきた仲であるからとてもスムーズにできたと思う。今回の演奏曲目中モーツァルトのファンタジーヘ短調KV594と小オルガンのためのアンダンテ KV616は共に大好きな曲である。昔からオルガンと一緒に演奏してみたかった願いが実現できてすごく嬉しかった。前日に行ってストップ(音栓)を決めたりするのも楽しい作業であった。



 2006年9月9日(土) 「隠された証言日航123便墜落事故」 の著者 藤田日出男さんと
 藤田日出男さんと私が最初に出逢ったのは実は四十年以上もまえのことだ。藤田さんが日本航空へ入社して副操縦士、機長と、とんとん拍子で出世していた時代である。私はと言えばまだN響へ入団するよりも前のことであった。彼がDC-4やDC-6B、コンベア880やDC-8を操っていたころで、飛行機が大好きな私はそんな彼の経験談を聞くのが何よりの楽しみだった。何故飛行機が浮かび、飛ぶのか、という流体力学(と言えば大袈裟だが)に強い興味を持っようになったのもこの頃の下地があったからだ。その藤田さんと今回保養に行った伊豆で会う約束をしていた。彼とは今回会うまで随分長い間途中が抜けてしまっていたので非常に楽しみにして行ったわけである。藤田さんは間違ったことや嘘がまかり通ることを許さない。日航123便墜落事故の原因追及も持ち前の強靱な精神力が支えになって闘ってきた。信念を貫くその生き様は凄まじいばかりである。自分の青春時代の全てを、否、人生全てをかけて闘っているわけである。一時その顔から笑みが消えてしまったように感じられた時期もあったが、今回久しぶりに会ったら昔のように持ち前の優しく和やかな表情が見えて嬉しかった。これはある程度は先が見えてきたということなのであろうか、そうならば非常に喜ばしいことである。話は弾んだ。私が好きな飛行機の話もはずんだ。そうしているうちに言葉にできない熱いものがこみ上げてきて胸が一杯になった。私が力になれることが何もないだけに歯がゆいのであるが、せめて出来ることはここに彼の著書を紹介をすることくらいである。身も心もくつろげる時代が来て欲しいと心から思った。★2006年8月12日(土)の項も参照してください。(写真はタカアシガニとアカムツを目の前にして再会を喜ぶ二人・戸田港で)■藤田日出男氏は2008年6月5日に亡くなられました。



 2006年9月4日(月) N響(尾高尚忠の交響曲第1番第2楽章の初演によせて)
 昨日は渋谷のNHKホールへ第1574回N響定期公演を聴きに出かけた。実はN響を聴くのは定年退団してから初めてのことである。8年目にして初めて聴きに行ったわけであるが、行かなかったのには特に理由があったわけでもない。よく友人などから「何故聴きに行かないの?」なんて言われることも多々あったが、そんな時には「だって、せっかくやめたんだから、」と心にもないことを云っては煙に巻いてきた私であるが、多分39年間の緊張から解き放たれていたかったのだろう。昨日は外山雄三さんの指揮も見たかったし、それに新たに発見された尾高尚忠の交響曲第1番(と言っても交響曲は1曲しかない)の第2楽章の初演に興味があったからである。この楽章は昨年の11月に尾高尚忠の長男で我が親友惇忠(あつただ)さんが自宅で発見したものだという。新発見の第2楽章は美しいフルート協奏曲の生みの親である尾高尚忠のエスプリが色濃く漂って非常にきれいな響きの曲だった。終演後、外山さんに会いに指揮者室に行って部屋のドアを開けたとたん、外山さんは僕に向かって「尾高さんはどうだった?」と声を弾ませて聞くので「良かったです!すごくきれいな響きだった」とお答えしたら「そうでしょう!」顔を紅潮させてすごく嬉しそうに笑っておられたのが印象的だった。その譜面が入っていた箱というのを帰宅後にN響アワーで見ることができたが、漆塗りに見えたその箱には紋が入っており、まるで“宝箱”のようだった。他にもたくさん譜面が入っているように見えたが、未発見はもうないのだろうか、第3楽章などの更なる新発見はないのだろうか。テレビで見たところによると第2楽章の最後にAttacca!の文字が書いてあったのだから。



 2006年8月30日(水) 電車
 たまに電車に乗るとあまりにもストレスが多いために私はしばらく体に変調を来すのが常である。まずホームに着くと我が国独特の大音声アナウンスに神経をやられるところから始まる。発車間際になると追い打ちをかけるように耳をつんざくようなやかましい音楽が響き渡って急(せ)き立てられる。中に入ると椅子に浅く腰を掛け、大股を広げて無遠慮に脚を投げ出している輩が多く、混んでいる時には邪魔になって腹が立つ。みっともない姿勢だが、これは人間の先祖返りか類人猿化だろう。やがて車内アナウンスで携帯電話についての注意がある。にもかかわらず目の前で大きな呼び出し音が鳴って会話がはじまる。何ら躊躇しないことろが恐ろしい。中年のおばさんや女子高校生達によく見かける辺り構わずの無神経な大声にも腹が立つ。子供が走り回ったり大声で騒ぐのも我慢ができない。たいがいの場合親は知らん顔をしているが、公衆道徳教育のチャンスであるはずだが。さらに驚くべきは目の前に座っていた十代と思しき女性が鏡を出して化粧を始めるではないか。まわりのひんしゅくの眼差しも一向に気にすることなく延々とやっているがとても正視できるものではない。公私の区別がつかないばかりか羞恥心さえ微塵も無いらしい。極みは途中から乗ってきた若い男達だ。なんと大きなリュックを扉の真ん前にどさっと置くではないか(写真)。あんた、これじゃ邪魔で通れないよ!この無神経さは一体どこからくるものなのだろう、我が目を疑うほど信じがたいことである。通勤などで毎日乗る人たちはどう思っているのだろう。平気なのだろうか。いちいち反応していたのでは生きていけないのかも知れないな。でも無神経を装って許していたのでは益々悪化の一途だろう。目的地に着いて下車するとストレスから解放されてしばらくの間放心状態になってしまう私である。これじゃ神経がすり減っちゃうよ。最近とみに頭(髪)が涼しくなってきたのも多分これらのストレスが原因だろうな。(電車の次はいつかクルマ編も書きたい)



 2006年8月22日(火) 母の誕生会
 すごいな、母はなんと94才になったのだ。父方と母方で今までの長寿記録は86才だったから母はチャンピオンである。これから先も記録を重ねてほしいと願う。この日母の家に集まったのは兄夫婦、名古屋から妹とその息子、それに我々夫婦の6人だった。フロリダに居る下の妹は来られなかった。御馳走を食べながら楽しく賑やかに数時間を過ごしたが、食後には子供達から花束やプレゼントを貰いながら母は満面の笑みで本当に嬉しそうだった。私はプレゼントのカードに「あと100年は生きてね」と書いたけど、とにかくいつまでも元気でいてほしい母である。久しぶりに母が弾くオルガンで賛美歌を歌った。父が一番好きだった「うるわしの白百合」ほか数曲を弾きながら、母は嬉しそうだった。
今日は1862年に私の大好きなクロード・ドビュッシーが生まれた日だ。



 2006年8月14日(月) アブラゼミ
 中学校時代は夏になると昆虫採集に夢中になっていた私である。その頃に住んでいた石神井にはカブトムシやクワガタムシや玉虫やセミ、トンボ、ハンミョウなど、沢山の昆虫がいのでいくらでも捕ることができた。セミの顔は剣道のお面をかぶったように見えて可愛らしくて好きだったが、とりわけ顔の真ん中にある私の誕生石ルビーのように透き通ったきれいな赤い丸いものに惹かれていた。今日、ゴミを出しに外に出たら弱ったアブラゼミが地面に横たわっていたのでチャンスとばかりに持ち帰り、しばらくじっとしていてくれよ、と頼みながら三脚を立てて至近距離から105ミリの等倍マイクロレンズを使って写した。金粉のファンデーションで化粧したような顔が撮れた。赤い三つの印は複眼と複眼の間にある単眼というもので、三角形に配置された3個からなっているが、そのうちのやや大きい1個は2個が融合したものだという。明暗に反応する器官だそうである。ところで最近夜中の二時過ぎにミンミンゼミが鳴き始めて驚いたことがあった。かなりやかましかったのであるが、考えてみれば街灯につられ、昼間と勘違いして鳴きだしたわけだから迷惑したのはセミのほうだろう。寝不足になって弱るなんてこともあるだろうにと、同情しないわけにはいかなかった。



 2006年8月12日(土) 日航ジャンボ機事故から21年
 1985年の今日は日本の航空機事故史上最悪の事故が起きた日である。ウェブサイトを検索したら沢山の関連記事があった。そのなかで「日航123便 鎮魂の賦」というところでは奇跡的に 生き残ったスチュワーデス落合恵子さんの証言や、コックピットと管制官とのボイスレコーダー音声があった。また事故調査委員会の発表を元にした飛行跡略図というのもあって、点滅するしるしが時間と共に動き、事故の生々しさを伝えていた。実際に交わした声を聴くことができるし、会話に出てくる専門用語についての解説もある。ボイスレコーダー音声は報道で今までに何度か聴いたことがあったけれど、今改めて聴くと当時の悪夢が甦ってくる。この事故についての著作物は沢山でているが、それらのほとんが事故調査委員会の報告書に疑問を抱いている。例えば「疑惑」という著書(早稲田出版)のなかで角田 四郎氏は、事故調査委員会について「事故 調査委員会は何故、隔壁説をデッチ上げなければならなかったのであろう。私は委員や調査官個人にその理由があったとは思えない。むしろ、その矛盾に気ずき、心を痛めながらも彼らに及んだ大きな力に抗しきれなか った姿を感じてならない。」と書いているのだ。乗客・乗員520人の尊いの命と遺族の方々のためにも真実が解き明かされる日が待たれる。心からご冥福をお祈りしたい。



 2006年8月6日(日) 帰宅
 昨日11日間の旅行から帰ってきた。新津の友人を訪ねることから始まって、富山では故高坂制立師の追悼演奏、そして各務原市(かかみがはら)では私としては初めてのヴィラ=ローボスのジェット・ホイッスルに挑戦してきた。ファゴットとのブラジル風バッハの第六番は昔から何回もやってきたけれど、ジェット・ホイッスルは今回が初めてだった。どっちも良い勝負の難曲だ。譜面は昔から持っていたけれど今回の演奏が決まった4月23日から練習を始めた。三ヶ月間でもなんとかやれたと思う。何と言っても相手が三十年来の友人ユルンヤーコブ ティムと言う超一流のチェリストだったことが非常に嬉しく、素晴らしい思い出の演奏になった。もちろん演奏以外でもいろいろと楽しんできた。今回行った各務原は第二次世界大戦当時日本が世界に誇る零式戦闘機が昭和 14 年 ( 1937 年 )の4 月に初飛行した地である。私は各務原航空宇宙科学博物館へ行くことを楽しみにしていた。そこには残念ながら零戦は展示していなかったが、航空宇宙技術研究所が設計製作した低騒音STOL実験機(短距離離着陸機)「飛鳥」を見ることができて嬉しかった。これらはまもなく写真館に出す予定。(写真はユルンヤーコブ ティム氏とお別れの時に・・もちろん私は彼よりも一段上に立っている)



 2006年7月21日(金) 母を囲んで
 母が生まれた宮崎から私の従姉妹たちが母に会いに来てくれた(写真手前右の二人)。この二人は遠いのによく会いに来てくれるので母は嬉しそうだ。母は間もなく94才だが、従姉妹たちは85才と80才、そして兄も古希を過ぎ、私もあと数年で古希、、、う〜ん、皆年をとったなぁ。でも母を初めとして皆若い。どう見ても年には見えない(ひいき目かな)。周りを見ても最近は確かにトシには見えない人が多い。最近よく童謡「船頭さん」の歌詞を思い浮かべる。
 村の渡しの 船頭さんは
 今年六十の おじいさん
 年はとっても お船をこぐときは
 元気いっぱい 櫓がしなる
 それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

私が子供の頃の六十才と言えば確かに腰が曲がって、いかにもおじいさんという感じの人が多かった。だからこの曲ができた1930年代に作詞家の武内俊子が今年六十のおじいさんと言ったのも判るような気がする。おじいさんを辞書で調べみると、お爺さん→老人→年寄り→老人と、堂々巡りで決定的な言葉は出てこない。(この言葉の響きは好きじゃないな)これだけ地球環境の悪化や食品添加物、農薬の害、騒音などのストレスが渦巻くなかで日本人の平均寿命が延びるのは何故だろう?これ以上の不思議はないと言って良い。ともあれ私が「日々是好日」の標語にしている「人寿百歳蘭香四時」を座右の銘にして生きてゆこうと思っている。



 2006年7月18日(火) ゲヴァントハウス・バッハ・オーケストラ
 横浜のみなとみらいホールでゲヴァントハウス・バッハ・オーケストラを聴いてきた。ヴァイオリンの Hiltrud Ilg (イルク)さん(写真中央)は去年私たちがドイツへ行った際にワイマールやナウムブルグなどを車で案内してくれたりでとてもお世話をしてくださった人である。その時に来年は日本へ行くけれど、間もなく定年になるから日本へ行くのも最後になるのよ、言っていたので特に待っていた人であった。他に会ったのはチェロのGünther Stephan(シュテファン後ろ右)さん、ヴァイオリンの Roald Reinecke(ライネッケ後ろ左)さんなど、みんな初対面から数えて30年以上になる親しい人たちだ。ヴィオラのBernd Jäcklin(ヤックリン)さんも来ているのだが、残念なことに会えなかった。この日はJ.S.バッハのブランデンブルク協奏曲全6曲を立って演奏するという大変なものだった。指揮(と言っても動作による)とソロ ヴァイオリンはProf.Christian Funke(クリスティアン・フンケ)が大活躍。演奏した順序は第1番、第5番、第4番、休憩後に第3番、第6番、第2番。4番と5番でフルートを吹いていたのは女性(チェコ人)だった。余計なビブラートをかけない素直な演奏は好感がもてた。最後の第2番ではリコーダーのパートをフルートで演奏していたが、これはあまり聞こえなかった。トランペットのパートはホルン(小さな)で吹いていたが、この人の演奏は素晴らしいの一言に尽きる。難しい高音域も自由に鮮やかに操り、清々しい快感を覚えた。さて終演後には一緒に食事を、と思っていたのに残念なことに彼らには時間がなかった。明日は韓国へ旅立つと言う。せっかく会えたのにゆっくりできなかったのはとても残念で淋しい思いがした。でもイルクさんにはいつの日にかきっとまた会える、これで終わりじゃないさ。Auf Wiedersehenと言ってお別れした。(間違ってもLeben Sie wohlなんて言わないよ!) なおイルクの息子Edwin Ilgさんは第二ヴァイオリンで活躍している。



 2006年7月14日(金) ノウゼンカズラ
 毎年のことだけれど、この花を見るととても懐かしい思いに駆られる。この花を初めて見た光徳寺を思い出すからだ。庭に咲き乱れていたこの花を見て「これ、何て云う花ですか」との問いに「のうぜんかずら」とぶっきらぼうに教えてくれた高坂制立師であった。しかしその彼も今故人となってしまった。(命日の今月28日に光徳寺で追悼コンサートが行われる)彼に何かを聞くと(彼にとって)聞かなくとも良いような簡単な問いに対してはいつもぶききらぼうな答えがかえってきた。それがいかにも彼らしかった。いつのことだったか寺でのコンサートが終わった翌日、仲間と連れだって能登へ泳ぎに行ったことがあった。それは芝垣海岸というところだったが、初めて聞く地名だったので往き道の途中で「しばがきって、どう書くのですか」との問いに、いかにも面倒だという顔をあらわにして「しば と言う字に かき と言う字」と、書きもせずに答えたことがあった。こんな時に私はなにか悪いことをしたような気持ちになるのだった。でも今思えばこういった面も含めて実に面白い人であったと思う。何を言われても憎めなかったのは彼の人徳だろう。
さて、このノウゼンカズラであるがきれいな色をしている。しかし樹液には毒があって目にはいると失明すると言うが本当だろうか。
今日はフランス革命記念日である。1789年の今日、パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃し、これがきっかけとなってフランス革命が起こった。 ちなみに日本ではパリ祭と言うが、本国のフランスでは単に le Quatorze Juillet(7月14日)と言う。



 2006年7月12日(水) 楽しい食事会
 私の誕生日は年に二回ある、と言っても戸籍上と実際の日のことだけれど、どっちが本当なのか、 こればかりは記憶がないので親の言うことを信じるしかない。三島由紀夫のように誕生のとき母親の産道を通った記憶がある人は別として、ほとんどのひとは覚えているわけがない。しかし二度有ってもその分倍年をとるわけでもないし、なにか得をしたような気分である。それで今回は 二度目の日に山、音楽、お酒が好き、という共通の趣味を持つ仲間ご夫妻を三組お招きして賑やかな一時を過ごした。やってて思ったことは、健康の有り難さである。健康じゃないと山へ登れないし、音楽を聴きにいく気分にもなれないし、ましてお酒を呑みたいなどと思えるはずがないから。若い頃には人見知りが激しかった私であるが、今では人との出逢いをなによりも有り難く思うのである。底抜けに楽しい日だった。(写真は食べ疲れ、喋り疲れてからお土産のバースデーケーキをいただく時)



 2006年7月4日(火) 誕生日は母の日
 来月94才になる母はとても元気だ。しかし私が子供の頃は弱かったように覚えている。嬉しいことに最近はいたって元気で特にここ数年間は風邪ひとつひかない。丈夫だなぁと思う。大正、激動の昭和、そして平成へと生き抜いてきた道、それは今の若い人たちには想像もできないような険しいものであっただろう。その母が私を生んでくれたのが68年前の昨日だった。26才の時である。その日名古屋地方は大雨で近くの川も溢れそうだったという。当時のお産は産院ではなく、産婆さんの手を借りて自宅でするものだったらしいが、出産を目前にして自由に歩き回れない母は布団のなかから天井を眺めながら節穴を数えたり、近所からピアノを練習している音が聞こえてくるが、何回繰り返して弾いても同じところで同じ間違いをするを聴きながらイライラしていたそうである。そんな思い出話を聞きながら思った。誕生日、それは生まれた当人を祝うよりも生んだ母親に感謝をする日にしたほうが良いのではないかと。母を心から労ってあげたい。



 2006年7月1日(土) 今年も石榴が咲いている
 去年も今頃の日記に書いた覚えがあるけれど、毎年この時期のザクロの花を楽しみにしている私であるが、今年もきれいに咲いている。濃い緑の葉の中に咲く花の色が好きだ。あちこちで見かけるが、見つけると側によってしばらく見とれてしまうのもいつものことである。ざくろと言うとどうしても鬼子母神にまつわる逸話を思い出してしまう。それにしても人の肉に味が似ているなんて、全く信じられない。もしかしたら味のことではなく、ぱっくりと実を割ったときに見える果肉のことではないだろうか、などと余計なことを思ったりする。しかしそんなことを思っていたら、これからは食べられなくなってしまいそうだ。変なことは考えないで、花の色を愛でていよう。




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