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過去の日記帳 2014年7月 〜 9月

写真ははずしました。



 2014年9月18日(木) 高坂制立師絵付けのコーヒーカップ
 高坂制立師とは全国各地でほんとうによく遊んだ。N響で東北を旅行中、終演後に一杯やっているときに富山県の福光に居る彼に電話をかけると「小出さん、今からすぐに行く!」と云って飛んでくるのであった。そうしてどこでもよく飲んだ。こんな事が一回や二回では無いのである。山形県の喜多方では面白かった。沢山のラーメン屋さんがあるのが有名だが、その中の一軒の店先に「本日はN響関係者の方には無料サービスいたします」と書いてあるではないか。もちろん二人と共タダでいただいた。おいしかったなあ。
 彼の書はどこでも見たことがない独特の味があった。彼が私に良く云ったのに「小出さん、字なんて習ったら駄目だよ」というのがあった。字はその人だけにしかないものだと云うのが彼の持論であった。自由に書いているうちに自分だけの字ができてくるものだ、と言うのである。彼は韓国の金海窯へもよく行ったが、行くと「壽」という字を書体を変えながら湯飲みやぐい呑みに楽しそうに書きまくった。字なんて自分でもつくるものだよ、と云いながら自分で作った壽の字も沢山書いた。楽しい器がじゃんじゃん生まれた。写真のカップは四国の砥部にある梅野精陶所(梅山庵窯といって沢山有る砥部の窯のなかで私が1番気好きなところ)で遊んだときのものである。我が家でも沢山食器を使っている。ここへ行くと、2階が絵付けをさせてくれるようになっており、遊べるようになっているのである。何と味のある書体であることよ。このコーヒーカップには光徳寺の山号である躅飛山(ちょくひざん)と書いてあるが、躅(つつじのこと)の字が特にすきだ。光徳寺に行くたびに良いなあ、と思ってきたが、今回思い切って「どうしても欲しい、一つください」とお願いして頂いてきちゃいました。毎朝が楽しみ!



 2014年9月16日(火)  光徳寺「りんどうコンサート」と高坂道人さん
 光徳寺第20世住職の高坂道人さんとの最初の出会いは今を去ること40年になろうとする、彼がまだ小学校に通っているころであった。私がまだ30代になったばかりのころだ。彼の御尊父である高坂制立とのお付き合いは途中10年間のブランクもあったけれど親交が復活し、前にも増して表現し難き仲の親友に戻ったのであった。その制立師も今を去る9年前に亡くなられた。その後を継いだ現住職の高坂道人さんは偉大な父の志を次ぎ、先代、先々代が残した多大な功績を理解し、大切にしている非常に頼もしい人になっていることがとても嬉しい。
 私はかつて制立師が元気な頃、光徳寺で毎年夏に「せみしぐれ音楽会」と称してコンサートを行っていた。そのきっかけは、輪島の塗師、故奥田達朗に連れられて初めて光徳寺を訪れた時、砺波平野を見下ろす高台にある素晴らしいロケーション、そしてそこに住む高坂家の人達のお人柄に惚れ込んだ私が盃を交わしながら「ここでコンサートをやりましょうよ!」と云ったのが始まりであった。
 光徳寺の名を有名にしていることに戦時中に国際的な版画家である棟方志功が疎開していたということがある。毎日見学者が多く訪れている名刹である。志功の最高傑作と云われている6枚の襖に描いた「華厳松」は特に有名で見る人を感動させずにはいられない。ある年、一人の若い女性がこの華厳松を前にして感動のあまり嗚咽する姿を見たことが有った。
 光徳寺では毎年志功の命日である9月13日に法要を行っているが、今年は特別にこの日に私が演奏をする、という機会を与えて下さった。ピアニストは幅田詠里子さんにお願いした。幅田さんのお父さんは光徳寺のある福光のご出身である。現住職夫人の同級生のお嬢さんである桐朋高校でチェロを学んでいる覚本あかりさんも参加をしてくださることになった。前日の夕方4時からから3人揃っての練習をする約束になっていたが、私だけ20分ほど送れての到着となってしまった。クルマで安房峠超えの強行軍だったが、それでも着くなり練習を始めた。
 コンサートの会場は本堂だけでは足らず、襖をはずして三部屋を通しての広い会場だった。そこに溢れんばかりの人達が来て下さったのである。光徳寺のピアノは制立師と知り合ったときには既に本堂に置いてあった。昭和10年代の作という年代物の特別に大きなグランドピアノで足が1箇所に2本づつ付いている珍しいものである。音は年代物なのでグランドピアノと言っても大きい割りには古楽器のフォルテピアノの様な音がしていた。ピアノは本堂の畳の上に置いてあったが数年前にピアノが置いてある部分だけ床をオーク材に張り替えたところ、驚くほどに響きが良くなったので私もビックリしたのである。そんな経緯もあって幅田さんにはアンサンブル以外にも是非ソロで私の大好きなドビュッシーの「沈める寺」を弾いて欲しいとお願いしたわけであった。(素晴らしい音と演奏であった。)
 翌日本番の朝、私は5時前に目が覚めたのでそっとカーテンを開けてみると東の空が色付きそうな気配になっているではないか。飛び起きて山に囲まれて空が見えにくい泊まっていた法輪寺温泉から歩いて30分以上はかかる光徳寺の方へ歩き出した。その時に光徳寺の門前から撮った写真を「Sky」に出した。
 演奏会は心に残った。嬉しかった。演奏中は制立師との思い出がこみ上げてきた。幅田詠里子さん、そして覚本あかりさん、有り難う! 翌日は後ろ髪を引かれる思いで光徳寺を後にした。クルマから見えなくなるまで寺の前で揃って手を振ってくださった。そういえば、最初に光徳寺を訪れたときにもこうだった!又来る日まで、みんな、元気でね!



 2014年9月9日(火) 『留学生の母親』運動 サロンコンサート 2014
 代官山にある「代官山ヒルサイドテラス プラザホール」は非常に音響がよいので大好きなホールでる。7日にここで「留学生の母親運動 サロンコンサート 2014」と言う演奏会があって、前々から楽しみにしてきた。このホールではいままでにも数回アルスノヴァ弦楽四重奏団とのコンサートでやってきたから、音響に関しては慣れ親しんでいる。今まではホールのコーナーをバックにしての演奏であったが、今回は初めて正面の壁を背にしての演奏であった。それも弦楽アンサンブルではなく初めてピアノとである。結果はどこで演奏をしても良い響きに変わりは無く、とても吹きやすかった。ピアノは何と私が1番好きなベーゼンドルファーのフルコンではないか!(私はインペリアルよりもフルコンやセミコンの方が好き)。ピアノは幅田詠里子さん。幅田さんはここでのピアノを客席で聴いたことがあって、このホールでの弾き方に関しては自分なりに考えていたと言う。この日も幅田さんの綺麗な音は聴く人を魅了してやまなかったのであった。いつも書くことであるが、今回のようなコンサートでは「良循環」が生まれる。共演者と温かくて雰囲気の良い聴衆と(これはステージに立つとひしひしと感じることである)、そして素晴らしい音響に支えられてどんどん吹きやすくなってくるのである。私は5月頃からちょっと体調を崩していたので、この日に向けて身体的にも精神的にも相当に苦労してきた経緯があったが、そんなことは全く忘れて吹いていた。演奏とは戦いである。でもいいなぁ、音楽は。やめるわけにはいかない。終演後の打ち上げ会は、主催の東京YWCA『留学生の母親運動』を支える会のメンバーである岸貴美子さんが恵比寿で経営するゆめの庵で行われた。楽しかった〜!料理も美味しかったし久し振りのビールも旨かった。メンバーの中には有名なカメラメーカーの人や、ジェット旅客機のエンジンのメンテナンスの仕事をしている人も居て、カメラも飛行機も好きな私は話に夢中になって興奮状態であった。幅田さんとは来る13日に富山県の福光でも一緒に演奏することになっている。もうすぐだ。(写真:終演後にピアニストの幅田詠里子さんと)



 2014年9月5日(金) 神奈川県立音楽堂でN響団友オケの本番
 今から60年前の1954年(昭和29年)に開館した神奈川県立音楽堂、開館当時はその音響効果が良いホールができた、と話題になったホールである。有名なイギリスのロイヤル・フェスティバル・ホールを参考して作られた。東京文化会館や京都会館など、数々の公共建築を手がけた前川國男が設計を行ったホールである。
 ここが私には忘れがたい思い出がある。寄せ集めオケで樋口一葉の名作「たけくらべ」を映画化した際に芥川也寸志さんの作曲と指揮で録音をしたのだ。大先輩達に混ざって高校生の私が演奏をした、と言う訳である。このホールが出来て間もない時だった。なんと徹夜の録音だったから睡魔との戦いでもあった。もらったギャラは4000円!今の4万円くらいだろうか。高校生がこんなに稼いだのだ。そのころはお金が無かったから(今も同様)本当に嬉しく有り難いお金だったことが忘れられない。当時は練馬の石神井に住んでいたから近所の人とタクシーに相乗りして夜明けに帰宅した。
 そのホールでの団友オケの仕事は、終始特別な思い出が心に浮かんでくるのであった。家田厚志さんの指揮で一緒に演奏してくれた浅見克江さん。根っから明るく、楽しい人なのでいつも気持ちよく演奏ができる。今後も何度か団友オケの仕事をお願いしている、お気に入りで信頼の置ける奏者なである。音楽は楽しくなくちゃ。ね! (写真は浅見克江さんとホールの前で:iPhone 4sで撮影)



 2014年8月31日(日) アンサンブルの練習
 アンサンブルは楽しい!
今日は間もなく本番を迎える9月7日に代官山で行われる『留学生の母親』運動 サロンコンサート2014 の練習と、13日に福光での光徳寺で行われるコンサートの練習をした。
 午後一時に港南台の駅で集合して、家まで来て貰っての練習だった。まだ17歳のチェロの覚本あかりさんはなんと私との年齢差は60歳!その中間がピアノの幅田詠里子さんかな?
 13日に演奏をする光徳寺の第20世現住職高坂道人さんの奥さんと覚本さんのお母さんは若いときからのお友達だそうである。そんなご縁でこのメンバーが決まった、と言うわけ。偶然は重なるものでピアノの幅田さんのお母さんは金沢の出身、そうしてお父さんは、なんと光徳寺がある福光の出身だった!
 戦時中に志功が疎開していた光徳寺では毎年この日に法要を行っている。光徳寺の所蔵に志功の版画がある。その版画にに記された詩。
 桑山も 躅飛(ちょくひ)の院も秋ならむ その裾やまの龍胆(りんどう)咲けるや
 先代住職の高坂制立師とは勝った負けたで呑みまくった仲であった。 二人だけで一晩で一升瓶を四本空にしたのが最高記録である。その彼が亡くなってはや九年が経った。
今回の光徳寺での演奏では様々な想いが甦ってくるだろう。



 2014年8月28日(木) Sonyα7
 Sonyのα7 ILCE-7K ズームレンズキットを買った。フルサイズセンサーの素晴らしさに圧倒されている。
 かつて我が家ではオーディオ、ビデオカメラ、その他Sonyが好きだったので色々と沢山買っていた時代があったけれど、その全てが三年くらいで壊れてしまう。パスポートサイズのビデオカメラなどは何回か修理にだしたけれど、結局壊れてばかりで新品に取り替えてくれた。それでも故障は相変わらずで腹が立って結局使わなくなってしまった。修理にもお金がかかる。わざわざ桜木町駅近くのソニーサービスステーション横浜に修理に持って行っても応対の態度も気に入らなかった。それでSonyの製品は乾電池一本も買うまいと決めていた私である。本気で三年で壊れるセンサーでも入っているのか、と思ったくらいである。
 それがこのカメラの存在を知ってからは何ヶ月も考え抜いた末、すっかり惚れ込んでしまって、心に決めていたSony製品不買の決心も緩んでしまった、と言うわけである。
 まだ完全には使いこなせないけれど、今のところ色々と試しながら慣れているところ。キットのレンズ:FE 28-70mm F3.5-5.6 OSSも可成り良くて気に入っている。とにかくミラーレスは軽いのも選んだ理由だ。これはジイイにとっては有り難いことこの上ない。
 Leicaやニコンレンズも沢山持っているので、アダプターを買って大いに楽しもうと思っているところである。
私にとっては多分最後のカメラになるだろう。壊れませんように。



 2014年8月20日(水) Michael Joseph Jackson (1958年8月29日〜2009年6月25日)
 昨年のいつ頃だっただろうか、気がついたらマイケルジャクソンを聴き始めていた。それまでは名前は知っていたけれど、殆ど聴いたことも無かったのに。最初に引き込まれたのはブルネイで行われたコンサートのアースソングを偶然にYouTubeで見たときであった。まず会場を埋め尽くした溢れんばかりのマイケルファンが熱狂する様に驚いた。マイケルも凄い。全身全霊を込めて身体全体で歌っている。私はこんなに自分を表現できる人を見たことが無い。それに何て云う曲だろう、不思議な魅力だ。曲中で環境破壊を嘆くところで絶叫を繰り返し歌うところがあるが、なんと32回もだ。歌い終わってからステージを去るときも印象的だ。自分をこれだけ表現できるなんて、凄いことだと思った。知れば知るほどに彼の魅力に引き込まれていく。心に訴える歌唱力は何度聞いても素晴らしい。自分もこのように自己を表現できたら、と思わずにはいられない。ブカレストで、ミュンヘンで、ブルネイでの公演で熱狂する何万人の人達を見てマイケル・ジャクソンとは一体何者だろう!これだけ沢山の人を感動させるなんてすごい!失神する人もいるではないか!
 それが何と云うことだろう、2009年6月25日に突然殺されてしまったのだ。何故?いよいよ謎に包まれてきた。単行本で出ている「ムーンウォーク --- マイケル・ジャクソン自伝」マイケル・ジャクソン (著)田中 康夫 (翻訳)や、大野和基著「マイケル・ジャクソン死の真相」を買って貪るように読んだ。知れば知るほど天才マイケル・ジャクソンに関する謎は深まるばかりだ。今までに買ったCDはまだ3枚だけれど、これは増えていきそうである。普段全くと云っても良いくらいCDを聞くことが無い私がクルマでは、特に長距離のときにはマイケル・ジャクソンを聴きっぱなしだ。
肩書きを見ると、シンガーソングライター、ダンサー、音楽家、実業家、慈善活動家、音楽プロデューサー、「ポップ・ロック・ソウルの真の王者」、または「ポップ界の王」とある。
写真はマイケル・ジャクソンが1991年に発表したアルバム「Dangerous」から「Will You Be There」のを歌い終わってから最後のところで涙ながらに自作の詩を語る感動的な場面。
    私を抱きしめてください
    ヨルダン川のように
    そうしたら私はあなたを
    友と呼ぶでしょう

    僕を運んで下さい
    兄弟のように
    愛して下さい、母のように
    そしていつも側にいてくれますか?

    疲れた時には
    抱きしめてくれますか
    間違ったときには、諭してくれますか
    道に迷ったときには、探し出してくれますか?

    だけど僕は言われる
    信念を貫かねばならないと
    力尽きても歩み続け
    最後まで闘うのだと
    でも僕はただの人間なのだ

    誰もが僕を支配しようとする

    決められた枠に押し込めたいらしい
    僕は混乱してしまう、だから示して欲しいんだ
    いつも側にいてくれると
    愛して支えてくれると

    (抱きしめてください)見せてください
    (始めはおずおずと)
    (優しくそして大胆に)(そこに運んでください)僕だって人間なんだ

    (僕を解き放って)抱きしめてください
    (愛してください、糧を与えてください)
    (キスをして、そして自由を与えてください)
    (すべてに感謝します)僕はただの人間なんだ

    (運んで)運んでください
    (大胆に連れて行ってください)連れて行って
    (ゆっくりと抱き上げて)
    (そこに連れて行ってください)僕も人間だから

    (僕を救って)僕を満たして
    (僕を癒して清めてください)僕の心を満たして、励まして
    (優しく言ってください)
    (優しく言ってください)
    (「私はいつも側にいるわ」と)僕もあなたの側にいます

    (抱き上げてください)
    (ゆくりと抱き上げてください)
    (恐れずに連れて行ってください)
    (愛していると言ってください)

    (抱きしめてください)(始めはおずおずと)しばらくはおずおずと
    (優しくそして次第に大胆に)(そこに連れて行ってください)

    (僕を必要としてください)
    (愛してそして糧を与えてください)心を満たし、高みへと運んでください

    (キスをして僕を解き放ってください)(すべてに感謝します)

    一番辛いときにも
    深く絶望したときにも
    僕のことを愛してくれますか?
    側にいてくれますか?

    試練と苦難のときに
    疑いと憤り苛まれていても

    怒りに包まれ
    心がかき乱されたときに
    僕の恐れと弱さを認めながら

    苦悩と痛みを感じたときにも
    喜びと悲しみをともにし
    明日を今日より輝かせると誓い
    決して僕はあなたと離れることは無い
    あなたはいつも僕の心の中にいるのだから




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