白鳥沙羅のたわごと(自然に沿って生きていきたい)
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自然こそ無限の世界である 5 自然の声(本能)に沿って生きる
自然の世界は気楽な世界 6 鶏だって高い木に止まれます
3 文字や数字がない自然界 7 /////////////////
4 天国ってどんなところ? 8 /////////////////




1.



┃自然こそ無限の世界




       〜 自然は、限り(仕切りや区切り)ある世界ではなく 、限りのない‥つまり無限の世界だった


 無理矢理区切る世界=文明

多くの人は、点の世界を0次元、線の世界を1次元、面の世界を2次元、そして立体的な世界を3次元だと考えています。 文明の考え方で、それは間違っていないかもしれません。 しかし、自然は3次元なんかではないと思います。 ( 数字で表せる立方体なんかでできていません。 )最近3Dのテレビなんかを見ても分かります。 自然とは全く違うイミテーションにしか過ぎないと。 もしかしたら、みんな気づいていたことかもしれません。

しかし、わたしは今まで、自然が無限(文字や数字で区切ることができない世界)であることに気づくことができず、最近やっと気づけたのです。どう言うことかと言うと‥、私たちが…自然に対し「鳥、動物、虫‥」と名前を付けたとき‥無限の世界を無理矢理区切って不自然(嘘の世界)にしている‥つまり、文字や数字によって名前をつけた世界はニセモノであると‥。

※文明は、田畑、果樹園、学校(会社なども含む)、水族館、動物園、堤防、側溝、墓と言った具合に自然に境界線をつけていく。



 無限の世界では時を刻んでも意味がない

木枯らしの吹く頃、落ち葉が、一瞬のうちに遠くへ飛ばされて行きました。 散歩をしていた私は、ふと考えました。 「 あの落ち葉は、一秒間に何コマで飛んでいったのだろう? 」 と … 。 普段考えたこともないようなことでした … 。 でも、ふとそんな考えが頭をよぎったのです。あの落ち葉は24コマで移動したのだろうか … それとも30コマだろうか? 映画なら24コマかもしれない。 テレビなら30コマかもしれない。 でも … 自然の世界の出来事は、どうなのだろう? 1000コマ? 10000コマ? それとも一億コマ? いや。 … もっと、もっと … もっと … !!!。

そう思うとすぐに過ぎ去っていく一秒間がとても長いものに感じられました。 その時はじめて、私には一秒間は無限コマでできているとわかりました。 つまり、無限にはコマという区切りなんてないと分かったんです。「一秒間って本当は無限だったんだ。 という事は? … 1000年も … 無限 !? 」 今まで長いとか短いとか感じていた時間が本当は、私の勘違いで…同じ無限という時空の中を生きていたのだという事がはっきりとわかったのです。 ということは、一秒も一分も千年も皆同じ無限だったんです。

だったら無限の時を刻むなんて無意味なことではないでしょうか。 私は4000年生きる木を長生きだと思ったり、たった数日で死んでしまうカゲロウをはかなく思ったりしたものでした。 それは、無限を刻んだ時間という概念で考えてた結果の思い込みだったのです … 。 じつは、1000年前も1000年後も … 無限の世界では同じことだったんです。

人間がもし、自然の世界に不自然な道具を使って手を加えることをしなかったら … いつも同じ自然の世界が目の前に広がっていたのでしょうから。もし、人間が文明の利器を持たず、ただ10本の指でできることだけで生活していたなら、この無限である自然の世界を有限だなんて思ったりしなかったのではないでしょうか?

今わたしは、過去や現在や未来という時間の概念では考えられない、無限という時間の広がりの中に存在し動いているのだと…そう思いました。


 生きもの(命)は無限である

秋になり、庭の柿の実をみていてふと思いました。 「あの柿の実は…どうだろう?」 と。 あの柿の実の中にある種が土に落ちると成長して多くの実を結ぶ … 。 そして、多くの実った柿の実の中の … たくさんの種が … さらに多くの実を結んでいく。 そして、もっと、さらにもっと … たくさんの実が …。あの1個の柿の実を、一個とつい思ってしまいますが。 本当は、一個なんかじゃなくて、無限だった …。 なぜなら、無限の命が詰まっているからです。

ということは … 。 キリンもライオンもクジラやサメも … そして、トカゲやゴキブリも みんな みんな 無限の命を持った無限の生き物なのですね。 だったら … このわたしも無限なんだ!!もし、みんな 同じ無限の存在なら … ウイルスや菌と私は?みんな同じ無限なんだから … やっぱり菌やウイルスとわたしも … 同じ存在ってことになる … 。 菌やウイルスもわたしも無限の中では … 何のわけ隔てもないと言うことになります。

そういえば、微生物も植物も動物も遺伝子はみな同じだときいたことがあります。 究極的に言えば、みな素材が土と同じ成分なのだから同じで当たり前かもしれません。 自然はわけ隔てする境界線のない … 混沌とした世界と言うことが分かってきました。



 音も無限である

またある時私は、ピアノの鍵盤をみてふと思いました。 「 鍵盤のドとレの間には、半音が 一 個しかないけど … 」 自然の世界にはドとレの音の間にはどのくらいの音があるのでしょう。 10音? 100音 … 1000音 … 一億音? と言うことは、やっぱり、音も時間と同じで無限と言うことになります。

私は、ピアノの音色が好きでその奏でる音楽にとてもこころ癒されたものでした。しかし、このことが分かって考えが変わってきました。 自然こそ本物だと … 。 文化会館で奏でられる最高のピアニストの音楽に耳を傾けるより、川のせせらぎや風のざわめき小鳥のさえずりこそが本当の音、真実の音だと。音楽は、自然を模倣したイミテーションにすぎなかったのです。



 生と死は一つ。だから分けてはいけな!

またある時私は、自然を見ていてふと 「 死 」 について考えました。 今まで色々と考えたことから、自然の世界は、無限の世界だとわかってきました。 「 しかし、どうして自然の世界は無限であるにもかかわらず 『 生 』 だけでなく 『 死 』 もあるのだろう? 」 と疑問がわいてきました。 「 神は、 『 死 』 を私たちの最大の敵と言っているが … 。 『 死 』 は、本当に私たちの敵なのだろうか … 。 」

そのことを考えている時、私は人間の細胞のことを思い出しました。確か人間の細胞は60兆個あり … 3ヶ月で全てが入れ替わるとかいっていました。 3ヶ月で60兆個の細胞が生まれ … そして、60兆個の細胞が死んだことに … 。 そして、1秒間では、7800万個の細胞が生まれ、そして死ぬことになります。

体には … 常に 『 生 』 と 『 死 』 が存在します。 ですから、生き物の体は 『 生 』 と 『 死 』 の両方があって 『 命がある 』 ってことではないでしょうか。 それだけでなく、自然の循環にも同じことが言えると思います。 生き物が死に、それを動物が鳥が魚が菌がウイルスが食べて生きている … 。 自然そのものの命は生き物の 『 生 』 と 『 死 』 の両方があって それが自然の『命』なのでは … 。

ということは … 無限の世界では、 『 死 』 とか 『 生 』 とか区別がなく、 『 死 』 と 『 生 』 の両方がひとつで 「 命 」 で、自然は、既に不老不死の命だったということになります。 そしてこの命は無限の広がりの中に存在するのではないでしょうか。


[自然は、無限]
自然は、無限。だから、生き物は全て何のわけ隔てもなく受け入れられている…。大きさや色や形が違っても、自然ではなんら変わらない存在として。

参考:「新陳代謝が生命を作る」http://www.livekkk.com/shinchin.html


 自然は混とんとした世界

夏真っ盛りのある日、実家が所有する山に行ってみました。かつて、お風呂の焚き木として植えられていた沢山の松がそこにありました。しかし‥長年だれも入ることのなかった山は、松の木ではなく‥私の知らない木々や草で覆われ境界線がなくなり‥1つになっていました。結局わたしは、実家が所有する山がどこなのか分からずたどり着くことができませんでした。

このことから、わたしは「自然は本来境界線などなく、混沌とした世界だったんだ」と確信しました。

ところで‥聖書(創世記1章)にも‥
初めに、神は天地を創造された。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神 の霊が水の面を動いていた。

自然は、菌やウイルスや微生物、虫や鳥や動物、そして木々や草花、そして光や風や音が…境界線なく入り乱れていますが…、全てが一つとなって見事に調和している世界です。つまり、本来の自然は‥数字や文字で表せるような秩序は不要なのです。しかも、誰にも管理される必要なんてありません。しかし、文字や数字でキチッと表現したい神(文明そのもの)にとって‥境界線がはっきりしない本来の自然は、「混沌とした世界で」‥「形がなくむなしい」…つまり何もない世界と解釈したのでしょう。命が詰まった充実した世界なのに‥

現在、文字や数字をつかさどる文明の神の知恵(神の霊)が全世界を覆ってしまいました。その結果、混沌とした自然のあらゆるものに名前がつけられ仕分けされました。数字で測られ、文字で設計されてできた世界は、一見きれいになったように見えます。しかし、かつていた多くの生きものが住んでいた森は、文明の知恵で造られた重機で破壊され‥沢山の家屋やビルが建てられました。空には、鳥ではなく、ジェット機やヘリコプターや旅客機が飛んでいます。

先日も、よく行っていた森が、わずか一日で更地になっていました。桑の実や柿の実などが自然に生えていて、多くの鳥たちや虫たちの住処になっていたのに‥。たった一日で‥全てが失われてしまったのです。長さがきちんと測られて造った家や道路で大地を覆うために失われてしまった命。

わたしは、いつも行っていた森に重機の音が響いている傍らに、しばらく呆然と立ちつくし見守るほかありませんでした。‥涙‥

神(文明そのもの)は、「充実した命の詰まった自然」を、「混沌とした世界で、形がなく空しい」と言い。自然本来の世界を文字や数字によって、ぐちゃぐちゃに破壊し、命のない空しい世界にしています。これを神は「創造」というのですから‥。

私たちは、神のイメージした世界(数字や文字による)を創造する手伝をするとき、大切な命(自然そのもの)を破壊していることに気づかなければならないのではないでしょうか?


「混沌」の意味を調べると‥「入り混じって区別がつかず、はっきりしないさま。」あるいは、「物事が無秩序でまとまっていない状態を意味する語」とあります。






2.



┃自然の世界は気楽な世界





 自然に合わせる方が楽しい♪

自然を見てると … キチキチしてなくていいですよね〜。 アリの行列を見ていると、獲物をみんなで運んでいるんですが、その獲物の上に乗っているアリもいたりするんですね。 自然ではそれもOK。 だれも咎めません。 それでいて、獲物はちゃんと巣の中に運ばれて行きました。私たちの目から見て不効率でも、一番自然に沿った生き方なんだな〜。 それが一番気楽なんだな〜って思いました。


 ブッシュマンの生活

文明を寄せ付けないカラハリでのブッシュマンの生活は、文明に全く染まっていない自然の世界に住んでいた人々の生活を垣間見ることができます。 無限の世界である自然がどんなに素晴らしいか考えてみてください。

彼ら(ブッシュマン)は、どこを掘れば木の根や球根があるとか、どの木や草の実が食べられるかを知っているのだ。 飲み水も手に入れられる。 朝早く、朝露を集めるのだ。この草の葉は、前の晩にきれいに並べて置いたものだ。 草の穂は、水瓶になるし小さな茂みは、どこを掘れば球根があるのかを教えてくれる …

彼らには、法律も刑罰もなく支配者も奴隷もいませんでした。 彼らには、毎日が火曜でも水曜でも、日曜でも好きな日でいい。 時計もカレンダーもないのだから。
 
文明人は、自分を環境に合わせる。 逆に、環境の方を自分に合わせて来た。 町を作り、道路、車、機械、そして労働しなくて済むための電力を送る設備もつくった。 文明人はとどまることを知らず、生活は便利にすればするほど複雑になった。それで今や文明人の子どもたちはこの世界で生き残るすべを学ぶために10年も20年も学校に閉じ込められる。

また、彼らは、自然の環境に順応するのを拒否したのに ( 文明の知恵で作りだした ) 人工の環境の秒刻みの変化に合わせなければならなくなった。 たとえば今日が月曜日という日で 7:30 が来ると家族という環境から離れ全く違う環境へ出て行かなければならない。

8:00 文明人は忙しくしなければならない。 10:30忙しそうにするのは15分だけ止められる。 それからまた忙しくなる。こうして時間は細切れにされ、1コマ1コマの環境に自分を合わせなければならい。

( 映画 「ブッシュマン」 から一部引用)
※ のちに映画の題名が 「コイサンマン」 と改名されました。

ブッシュマンは神という概念があります。 しかも、道具も火も使っています。 ですから文明を発達させなかった文明人といえます。 同じ文明人でも時間やお金がないだけで、彼らの生活はとてもゆとりが感じられます。

文明の築く世界は、知恵が豊かでとても便利に見えます。 逆に自然と言う無限の世界は、愚かでとても不便に見えるかもしれません。 しかし、お金や時間で支配されるよりずっと気楽な世界ではないでしょうか。

空を自由に飛ぶトンビやカラスは愚かに見えるでしょうが彼らは、お金や時間、宗教にさえ支配されず、しかも道具や機械がなくても … ちゃんと自分の食べ物を見つけて自然のなかで生きていけるのです。

数字で不思議な技をする者 (文明・神ともいえる存在) にではなく、自然に沿って生きている生き物に学び野生に戻れたら、人はどんなに自由で気楽に生きていけるでしょう。


 野生で生きる知恵(動画)

ブッシュマンという映画の中で使われたことばが使われています。お勧めなので是非見てください。


               ↓画像をクリックするとyoutubeにジャンプします




 ブッシュマンについて

◇ブッシュマンは正確には 「サンの人」 というカラハリ砂漠にすむ狩猟採集民族。
( 砂漠と言ってもこのカラハリ砂漠には、茂みはたくさんある )
◇一部の白人の迫害や略奪がなければ、彼らは今も平和に過ごしていただろう。
◇彼らは、現代に至るまで文明の利器に頼ることなく生きてこれた。




出典:「だいず日本生活」 ブッシュマン

◇現在のブッシュマンは、文明の中でお金に頼りながら生きている。 ( 残念 )
◇「Bee happy in 南アフリカ」より一部抜粋↓
サン族(ブッシュマン)は、アフリカ最古の種族で、狩猟採集を糧として、農耕や牧畜は行わず、土器や布さえも作らない。いわゆる石器時代の暮らしを続ける世界でも類をみない部族です。もともと「ブッシュマン」とはヨーロッパ人がつけた軽蔑した言い方で、今では「サン族」と呼びます。(それでも実際は「ブッシュマン」の方が通りが良いみたいです)。彼らは50人単位くらいの集団で移動生活をします。集団をまとめるリーダーはおらず、職業や身分、地位の差もありません。みんな対等なのです。

彼らは争うことをしなかったため、武力抗争にはきわめて抵抗力がありませんでした。そして侵入してきた白人から逃れるために、白人が捨てた土地カラハリ沙漠で暮らすことを余儀なくされました。今現在もサン族(ブッシュマン)は生存していますが激減しています。近代化の影響で生活も大きく変わり、彼らの多くは貨幣経済生活になじめず、失業、伝統文化の消失等が社会問題化しているようです。


                                                                  


3.



┃文字や数字がない自然界


自然を文字や数字で表してはいけない



自然を文字や数字で表すとは、簡単に言うと…「自然のものに名前をつけて、言い表すこと」と言えます…。これだったら普段、当たり前のようにしていることなので、だれもこのことを不思議がったり、不信に思ったりすることはありません。私自身も、自然(自分の体も含め)に対し名前をつけることになんら疑問を持っていませんでした。

しかし、最近…自然は、本来文字や数字で表す世界ではなかったということに気がついたのです。このことについて、下記を読んでみてください。(うまく説明できていないかもしれませんが)



 自然をバラバラにする文字や数字(ことば)

自然は、混沌として曖昧な世界だからこそ、名前を付ける必要がないと言えます。たとえば、人は「朝」「昼」「夜」と、ことばで一日を名前で分けるわけですが。しかし、どこからどこまでが朝で、どこからどこまでが昼で、どこからどこまでが夜か‥誰もはっきり区切ることはできません。なぜなら、自然は無限(仕切りや区切りがない)で曖昧な世界だからです‥。

聖書の中で神は、この世界を「混沌とした世界」と言っているのですが。まるで、何もないかのように言っています。多分、何もなかったのではなく、ただ名前をつけていなかったから、把握できない世界と言いたいだけの話だと思います。文明は、言葉です。文明は、自然に対し名前を付けることから始まった世界と言えます。まだ続いています。どこまでも名前をつけています。望遠鏡を作ったり、顕微鏡を作ったりしてまで、名前をつけています。文明は一体何をしようというのでしょう。こんなことをしていたら、自然が終わってしまうこと…わからないのでしょうか?

次の文章を読んでみてください。そうすれば、名前をつけて行くことがどんなに不自然で恐ろしいことかわかります。

ある日、人は、自然のなかのあるものに「牛」と名前をつけました。そして「角」。そして「頭」。そして「目・鼻・口・歯・食道・胃・腸…そして、脳・神経・骨・血管…」と、次々と名前をつけていきました。そして、人は牛をバラバラにしてこう言いました。「解った」と。

生きて動いていた牛。部分ごとに名前をつけられた事で、バラバラにされて死んでしまいました。

同じように、人が自然を見て「解った」と言う時は、…「自然がバラバラにされ時」ではないでしょうか。私たちは、混沌とした一見無秩序に見える自然の世界を文字や数字で表し、キチンと分別していくことで、自然を破壊しているのではないでしょうか?だから、「解った」と言う漢字は牛を角を刃物で‥バラバラにすると書くのでしょう。

現在、人々が自然につけた名前は覚えきれないくらいの量です。それで、やむなく辞書をつくるわけですが‥。人々は、辞書を調べ、そのことばが何であるかイメージできたら…それを「解った」と言います。もはや言葉があれば、実際に見る必要はないのです。

つまり、目の前の花にチューリップと名付け、その名前を聞いた人がチューリップが何か分からなかった人が、辞書を調べイメージできれば、「解った」と言うわけです。

文明という存在は、人々が実際を見ずにことばだけでイメージできる世界を造るために…見事に調和した自然をバラバラにしたと言えます



 限りなく大きく、そして限りなく小さい世界

自然は、文字や数字で表せない世界です。 それは、自然の世界が、文字や数字で区切ることのできない無限に広がる 空間だからです。ですから、自然の世界には、基準となるものがなく、始まりもなく終わりもありません。 自然には中心がないので… もちろん、東西南北という方角もありません。

中心を勝手にここだって決めるのであれば、方角ができるでしょう。 しかし、もともと中心がないのに勝手にそこを中心にしただけだったら … 全く 参考にもならない基準 であることは明らかです。



 割り切れないものは切り捨てる文明

文字や数字で表す世界を一言で 「文明」 と言ったりもしますが…。わたしにとって文明というイメージは 『(文明にとって)余計なものは 容赦なく 切り捨て、一つの限られたものの枠の中に 無理やり 押し込む世界』 と言った感じでしょうか。
 
たとえば ‥ わたしを数字で表した場合 「1.123456789101112 …」 となったとします。 すると文明の世界では、少数点以下切り捨てとか言って 「1」 のグループの中に入れたりします。 ですから、 「1」 のグループの中には、 「1.111…」 の人もいれば 「1.222…」 の人もいます。 でも、みんな 「1」 というグループに数えられてしまうのです。 なんだか文明の世界は「無理やり感」があります。

ですから、 「1」 や 「2」 という数は、中途半端な者たちの割り切れない部分を 無理やり 切り捨て、一つの限られたものの枠の中に無理やり押し込んだ感じがするのです。 そしてこの限られた枠の一つ一つが重なり永遠に続く世界 … それが 「文字や数字で表せる世界」 だと思うのです。学校などはまさにそんな感じがします。 無限の存在である一人一人を、 無理やり 一つの枠の中に押し込め続けるのです… 。

文明はこうやって、人々を無理矢理一つの枠の中に入れ‥、その後また、文明の基準によって人々を切り捨てていくのです。例えば、成績、見た目の美しさ、技術の高さなどによって‥。例えば↓

地域から集められた子供たちが一つの学校、一つのクラスに集められ、成績で5段階に振り分けられる。そして、高校や大学入試では‥点数が足りないものは、容赦なく切り捨てられていく。

時間も同じ考え方で無限に広がる時空の世界を数字で 無理やり 、一つの枠の中に1秒、2秒と刻んでいき … その限られた枠の一つ一つが … 1年、10年、1000年と永遠に続くのです。絵も同じことが言えます。 一枚の限られた枠の中に絵や写真として入れられています。 そして、それが連続して行く時動画となります。 しかし、自然の世界には、枠がありませんし、静止画を連続させた世界でもありません。 ドラマやアニメがどんなに現実に近づいても無限の世界とは「似て非なるもの」といえます。

今ここに広がる文明社会。たとえ、それが現実に見えても‥文明という存在が自然の世界を数字や文字で無理やり表した結果の世界であるなら、それは ‥ 偽りでイミテーションの世界でしかありません。


 ことばは全てを表せない平面な世界

たとえば‥言葉を発するまでは、イメージの中では更地。そこに、「大地」ということばを発すると、イメージの中には大地しか存在しません。次に「川」と言うと「大地」に「川」が追加された世界がイメージされます。そして、そこに「朝」という言葉を発すると‥朝と大地と川がイメージとして存在します。つまり、言葉と言うのは‥平面で‥それを重ねる事で奥行きを表現していくものでしかありません。ことばを発しなかったら、たとえそこに…鳥がいようと、ヘビがいようといなかったことになります。言葉は、全てを排除した一つ一つで、そのことばが重なって奥行きを表したものに過ぎず、現実とは違います。

ある意味嘘でもいいわけです。だから、文明の世界には「物語」が存在するわけです。読む方も、別に事実であることにこだわらず、それによって心が揺さぶられるなら、喜んで読みます。

創世記1章を読むと‥神が「光よ。あれ〜」と言って世界を創造したとありますが。神は「光よ。あれ〜」と言った時、そこにある全てのものを閉めだしたといえます。光と一体であった影さえも閉めだして‥光だけにしたのです。つまり、「光よあれ〜」と言う言葉は‥自然の中にある全てを閉めだし光だけにしたので‥、私たちの頭の中のイメージの世界では‥神が光を創造したように錯覚するわけです。

言葉は全てを表せないという性質をもっています。だから‥、ことばという存在(文明)は‥人々の頭の中に「ことば」によるイメージを造り、そのイメージによって人々を操作することできるのだと思います。ことばという存在の都合のいい世界を創造するために…。


 自然はどんな世界?

境界線のない世界
自然は、境界線がない=植物は縦横無人に伸びていく=全ての生き物は隔てなくそこで生きる=混とんとしている=数字や文字できっちり表せるような秩序がない=分け隔てしない=自他がない=全てで一つである (文明は境界線を作りバラバラにする)

始まりのない世界(よって終わりもない)
もし、自然が無限の世界なら、「始まり」も「終わり」がない。限りがない世界のどこにも始まりをみつけることはできない。しかし、文明がもたらした言葉には「始まり」と「終わり」がある。だから、人はこの世界に始まりと終わりがあると勘違いをしてしまった。

国もなければ支配者もいない世界
現在、地球は個人・法人・国という名のもとに、小刻みにされ境界線が設けられ代価によって所有されている。
(自然は、支配者もなく、…検問もなければ、パスポートもいらなかった。)

名前のない世界
自然の世界は、全てで一つ。 だから ‥ 言葉でひとくくりに 「名前」 をつけられない世界。 だから、自然には、もともと名前がなかった。

自然は数字で表せない
月の公転周期は、約27.32日を言われる。 この割り切れない数字が、この無限の世界を数字で表せないことを意味している。

比べない世界
わたしは、アリを見て自分はとてつもなく大きいと思った。なのに…キリンを見た時、自分の小ささに驚いた。 そして、セコイアの木を見上げて気がついた … 。 今まで大きかったキリンがとてつもなく小さいと。 私は、思った。みんな大きいけど、みんな小さい … 。だから、みんな同じだって。 比べる必要なんてないと…。

無限の方向全てに無限
自然は、大きい方向にも、小さい方向にも限りがない世界。限りなく強く。 限りなく弱く。 限りなく大きく。 限りなく小さく。 それが、自然だと … 。だから ‥ 「大きすぎてもいいし、小さすぎてもいい」 そこに何の違いもない。 「すごい」 って褒められることもなければ、 「な〜んだ」 って卑下されることもない。

もともとあった世界
新たな生き物発見とか、新たなミネラル発見とか、新たな星を発見とか … 誇らしげに言うが、人が発見しても、そうでなくても前からそれは、そこにあった。

自然こそ無限の存在である←クリック
( 「自然が無限である」 ことに気づかされた時の事を記しています。)



 文明の世界

文明社会は名前をつけてニセモノを作る世界
人は、新たに発見されたものに名前をつけ、そして … イミテーションを作って 自分が創造したと優越になっているのではないでしょうか。



  
                                                                


4.



┃天国ってどんなところ?



                                                                  

 天国の具体的なイメージ

多くの人は ‥ 天国を、「生きる苦しみがなく、老いることがなく、病気がなく、死のない世界が永遠に続くところ」だとイメージしています。そして、そのような世界がもしあれば、本当に幸せだと信じています。しかし、本当にそうでしょうか?

それでは、聖書の黙示録を参考に考えてみたいと思います。



1.天国には、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。 ( 黙示録21:4 )

この箇所を読むと…多くの人がイメージする天国と一致しています。 確かに、小さい頃父を亡くした私は、死がこの世になければいいのにと思いました。それは、死が私たちの生きる世界を暗くしている原因だと思ったからです。だから、死がこの世界からなくなればみんな幸せになれるのにと‥考えたのです。

しかし、良く考えると‥「死の無い世界」という‥これほど不自然な考え方はありません。なぜなら…自然は、生と死と両方合わせて、ひとつの命だからです。自然は、生き物が、 食べたり食べられたりしても 見事に調和し命に満ちあふれている世界です 。

もし、生きものが食べたり食べられたりすることがなく、また死ぬことがなくなったら‥生きものはどんどん増えていきます。

だから‥自然においては、 「死も命」なのです。具体的に言うと‥動物が死ぬから、鳥が、虫が、菌が、ウイルスがそれを食べて生きられます。 そして、それぞれの排泄物がさらに他の生きものが食べて‥生きた土となり‥木々や草々を生かします。つまり、自然では死ぬことは生きることなのです。

不思議ですが、自然の世界では、生と死に境界線なんてないんです。一つなのですから。

自然には、生も死も、悲しみも喜びも、苦しみも楽しみもあります。自然において、どちらが良いとか、どちらに価値があるとかと言うことはありません。それを分けて片方に価値を持たせたのは、文明(ことばと言う存在)です。

文明は、生には価値があるが、死には価値がない。喜びには価値があるが、悲しみには価値がない。と言うように‥ひとつのもの、同じものを、2つにし比べ、善し悪しをつけたのだと思います。

多くの人は、これらの考えを受け入れ、死がなければいいのにとか、苦しみがなければいいのにとか考え‥不老不死の薬を求めたりします。しかし、もし天国が「死にたくても死ねない、悲しくても悲しめない、叫びたくても叫べない、苦しくても苦しみを表現できない … 。 」と言うところだったらどうしますか?


  ↓こんな事、よくあります‥
  
       
イメージと現実は違っていた


「ここは‥飢えや乾きで苦しむことがない。温暖な気候。争いがない。追いかけることも、追われることもない世界です。さていったいここはどこでしょう?」といわれ‥思いつくと言えば‥「一生寝て暮らせる夢の楽園」ではないでしょうか?しかし、本当は?

「一生寝て暮らす他ない狭いスペース。床・壁・天井がコンクリート。正面が檻。(つまり、動物園)」だったりするのです。

事実、戦後「地上の楽園」という言葉を信じて行った北朝鮮やブラジル。楽園とは一体どういう意味なのだろうと…思わせるほどの「だまし」でしかなかったのです。だったら「天国」についても同じことが起こりえるのでははないでしょうか?なんせ、誰も天国を知らないし、誰も体験したことがないのですから。ですから、天国がいいところだと信じ期待しないほうがいいと、わたしは思っています(個人的に)。

よく…「信じるものは救われる」と言いますが。多分、「救う」=「掬う(すくう)」と言っているのだと思います。つまり、「信じるものは救われる」ということばの本当の意味は、「信じるものは捕らえられる」だと…少なくともわたしはそう解釈しています。

ちなみに、キリストは漁師に対し「私についてきなさい。あなた方を人間とる漁師にしてあげよう」と言って自分の弟子にしました。魚は網ですくわれ、料理され、食べられます。人も、神という網ですくわれ、言葉という刃物で料理され、文明に食べられ‥完全に分解、破壊されてしまうのではないでしょうか?キリストの弟子たちは、この世の人々を救うと言う名のもとに捕えるのだと思います。

(※ヨハネの福音書1章で、キリストは言葉と言われ、黙示録1章では、キリストの口から両刃の剣が出ていると書かれてい
ます。)


自然は「生と死」の両方があるのに全てが調和し命が満ち溢れています。 このように調和している自然が目の前に広がっているのに、それを無視して文明は人々を自然とは全く反対の世界へ導き進ませてきました。 なのに、更にまだ見ぬ宇宙だの天国だのに期待させる文明ほど信用できないと思うのです。

ディズニーランドがどんなに素晴らしくても、命の循環がない世界は、沢山のお金と人手が必要です。 しかし、本当の自然は、命 (生と死) の循環があるだけで、お金や人手は全く不要なのです(管理不要の世界)。 色々と考えなくて、任せっきりでいい世界 ‥ のほほんとしていていい世界なんです。 ( 人が手を加えなければ )



2.天国は、一辺が一万二千スタディオン(2200キロメートル)のサイコロのような正立方体。(黙21:16)

一辺が2200キロメートルとは、日本列島が入るくらい大きさで、しかも、サイコロ状の立方体。 これが天国の形なのです。なんだか‥限られた枠の中というのがいかにも文明の世界って感じがします。 無限の広がりである自然とは全く違った世界のようです。 しかも数字で表せる国なのです。つまり、 天国は文明の延長でしかありません。

現在、人は、四角い建物の中に拘束されたものばかりです。 保育器。 ベッド。 幼稚園。 学校。 会社。病院。 老人ホーム。 棺桶。 お墓。 死んでからも四角い枠に入れられているなんて。 しかも、聖書には「天国に入ったら出ることができない」とも書いています。 まるで「独房(獄)」。今まで進めてきた文明と同じだと思いませんか?文明のなかった自然本来の世界へ帰りたくても帰れません… 。天国が文明の延長で、終点だとするなら「納得」です。

家族を仕切る壁、学年を仕切る壁、職業を仕切る壁、年齢を仕切る壁、死体を仕切る壁 …。「点のように限られたスペースの獄」。つまり、狭く限られたスーペースという意味の「点獄」。 ( 自然は、仕切るものがなく自由な空間がどこまでもあるのに‥)



 3.天国には、地や海がない ( 黙21:1 )

大地や海がないという世界。死んだ後の世界だから「要らない」とも言えますが‥。

生き物が息づく大地や海や大空。死んだ後には、大地も海もないわけです。四角いサイコロ状の空間の中だけで永遠に暮らさなければならないなんて!自然から隔離された、動物園の動物か、あるいは家畜ではありませんか!

私たちが自然から隔離された学校や会社に行くことで…海も大地も遠くなりました。それなのに、天国は遠いというのではなく、「大地も海もない」という世界なのですから…。多くの生き物が生まれて死んで、そして生きる…。この命が満ちあふれる大地や海。私は…生きても死んでも…海と大地のあるこの地球にとどまっていたい。できることなら…



 4.天国は、絢爛豪華( 黙21:11〜21)

わたしは、天国は絢爛豪華ではなく‥質素だけど生きものが満ち溢れているところだと子供の頃からそう思っていました。しかし聖書を読むとそうでもありません。

聖書(黙示録21章)によると‥「天国は絢爛豪華」で‥「都(天国)には、大きな高い城壁と12の門があり、それぞれの門は真珠でできていて、天国の大通りはガラスのような純金で城壁は碧玉で城壁の土台石は、あらゆる宝石でできている」と書いてあるのです。

確かに絢爛豪華では、ありますが …真珠は自然のままでは存在しないものです。

もし、神が自然そのものであるなら‥真珠のように不自然なもので天国を飾ったりしないと思うのです。
このように、天国を絢爛豪華にするのでしたら‥神自身が不自然な存在だと思うのです。



  
   
真珠も純金も城壁も全て文明がもたらしたもの


真珠は、アコヤ貝という貝の卵巣に傷をつけ、そこに他のアコヤ貝の外套膜を刻んだものをいれ、続いてドブ貝を丸くしたものを入れて‥半年待ってやっと取れるものだからです。また、純金というのも不自然なものです。なぜなら、金は火がなければ純度を高められないからです。(真珠も金も文明の知恵で作られた不自然な物。つまり、その延長にある天国もまた不自然なものということになります。

※神社仏閣においても、建物を見る限り同じようにきらびやかさを求めていると思われます)

しかも‥天国へ行っても「城壁」で囲まなければいけないとは … 。 襲ってくる敵がいるのでしょうか。 それとも、中のものが逃げられなくするためでしょうか。 黙示録3章12節を読むと 『 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼は、もはや決して外に出ていくことはない。 』 とあります。 なんだか不自由にさせられた気持ちになりますが … 。



自然の世界で育った獣たちは、宝石みたいにキラキラしたものを好みません。 というか、その価値がわかりません。だから、野生の生き物は豪華絢爛で安全な場所で家畜のように生きることより自由を選ぶのではないでしょうか。私たちは、文明に囚われていつの間にか食べ物よりも … 光輝く純金や真珠などの宝石を好むようになってそれに価値をつけ、大切な食べ物を後回しにしたように思います。 それで、それぞれの生き物が食べると言うだけで満たされていくと言うシンプルな知恵を失ってしまったのではないでしょうか。

それなのに、なぜ神は、大切な野生の知恵を失わせてしまった真珠や純金を天国の飾りにするのでしょう。



 5.天国には、月も太陽もなく…そして…夜もない。(黙21:23〜25)

天国には「月と太陽」の代わりに「神の栄光」があるのだそうです。 一日中神の光が都を照らすので天国には夜がないそうです。自然では、昼間を太陽が、そして夜には月が地上を照らすことで … 生き物はそれぞれ休息が取れます 。しかも、太陽や月は…権威を振りかざして、人々に拝めなんて言いません。しかし、 天国には、建物の内側に最高権威者である神がいて、人々を照らします。それも一日中。 これでは、休息のない街のようです。一日中失礼なことがないようにと気を使って、心から憩うことができません。

これを家の子どもたちに話すと … 「まるで24時間営業コンビニだね。」 と。その通りかもしれません。 コンビニは昼も夜も太陽の代わりに照らす明かりがあります。 だから、太陽も月も不要。もしかして … 聖書に書いてある天国がまさか … 死んだ後ではなく、今のコンビニみたいに四角い建物の中 のことを言っているかもしれません。良く考えると、終末 (今) … 人々のほとんどが建物の中で生活し、森で生活している人がほとんどいません。 人は、もうすでに太陽の光も月の光も必要としていない天国に捕らわれているのかもしれません。

自然本来の生き方を失った人間は、もはや死んだのも同然。だから、今の私たちの生活こそが神の言う天国かも‥。


6.天国は、「命の書」に書かれたものだけが入れる。 ( 黙21:27 )

傷もシミもない純粋なものだけが選ばれて 「命の書」 に名前が記され、その限られたものだけが入れるところが天国だそうです。 全員もれなく入れないんですね〜。 自然の世界では、シミがあろうと傷があろうと … 皆もれなく土になれるのに ‥ 。

天国に入れるものって…「まるで、傷やシミのない選ばれた品物に商品名が付けられ限られたパックという狭い空間に詰められて、代価をつけて高価に売られていく商品」のようです … 。 天国では、良いものを選び、そうでないものを切り捨てる。 天国のやり方と文明のやり方のどこに違いがあるのかわかりません。

自然の素晴らしいところは、無限という余裕です。 限りのない余裕があるので、選んだり、落としたりしません。 みんながいて良い場所なんです。 落ちこぼれがいません。 なぜなら、無限である自然には生き物を捌く刃物や人間を裁く言葉 (法律) などどこにもないからです…。

しかしながら、言葉を知った人々は‥「多くの人の中から選ばれることに価値がある」と信じ、多くの人を蹴落としてでもそこ(選ばれた者だけが行ける場所)へ入りたがります。



7.天国にある「いのちの木」が毎月実をつける。そして、その葉は民を癒す。
( 黙22:2 )

天国の中央を流れる川の両側にある 「いのちの木」 が毎月毎月、12種類の実をつけます。 そして、一本の木に12種類の実がなるそうです。 「いのちの木」 とはイエス様のことですが…。自然の世界は、毎月毎月きっちりと、12種類がなる木など存在しません。 あったら、気持ち悪いですね…。 遺伝子組み換えされた不自然な植物ならありえそうですが‥。 やっぱり天国ってキチキチした所みたいですね。 今の文明社会の延長上にあるようです。 数字や文字でできた世界。法律でキチキチした世界…。


8.天国に入ることができた神のしもべたちは、その顔に神の名がついている。
( 黙22:4)

わたしの鉛筆や消しゴム靴やかばんに自分の名前がついているのは、「私のものですよ〜」という印。 だから、神の名が付けられていると言うことは、「これは、神のものですよ〜」という「印」です。 印と言うのですから … 「所有を表すマーク」ということです。自然本来の世界には「所有」という概念がないので、印やマークや名前がありません。 自然は境界線がない全てで一つの世界です。 だから、もともと一つだから ‥ 所有することを表す名前もマークも印もいらないのです。


  名前が必要な世界には、所有するものがいる

名前とはマークの事。
マークとは印。
印とは所有をあらわす記号。

所有されるとは、管理されること。
管理されるとは、所有者から家畜や奴隷のように、命も含め全ての自由を握られていということ。

所有の概念がある、文明社会と天国。それよりも、所有の概念がない、自然本来の世界が、私たちの住む本当の世界ではないでしょうか?


9.天国に入ることができた神のしもべたちは、永遠に王である。 ( 黙22:5 )

よくライオンの事を「百獣の王」と言ったりしますが ‥ 。 実際は、そうではないことぐらい皆知っています。 この自然を支配しているのはライオンではないからです。 ライオンはシマウマを檻に入れて飼育して管理して料理して食べたりしません。むしろ、生き物を檻に入れて管理して最後に料理をして食べるという人間こそが、百獣の王と言えるのではないでしょうか。 そして人間に、自然の生き物を所有し管理することを教えた文明という存在こそが 「真の百獣の王」 と言えるのかもしれません。

もし、人間が道具を持たなければ、人間だけがこんなに増えすぎることはなかったでしょう。自然のバランスが崩れたのは、人が道具を使い自然の循環の外に抜け出し、全てを支配する王になったからです。永遠の王に…。これでは、自然が破壊されて当然ではないでしょうか?

ところで‥ここに「数字の 1と20と1000と王と神 」があるとします。これらを神(文明)の知恵で考えると、 「1<20<1000<王<神」 となります。 つまり、神の世界は相対的な世界といえます。 しかし、全てで一つとなった自然の世界で考えると … 「 1=20=1000=王=神=無限(限りや仕切りがない) 」 となります。 ですから、上下関係がありません。

もし天国が無限の世界なら 「動物=植物=さかな=人間=王=神=無限」 となるはずです。全てが無限で同じなら、名前も、言葉も不要。神も王も不要。だから、自然には言葉がないのだと思います。 しかし、天国は、あきらかに上下関係があり下のものが上のものに従わないといけない関係があります。とくに神に対しては絶対服従であるわけです。その点で天国は、絶対支配の社会であると言えます。

わたしたち自然の生きものにとっては、支配される世界より、自然のなかで自由に生きられる世界の方がずっと良かったと言えます。



 まとめ

以上から天国というのが文字や数字で表せる世界であり、文明社会こそ天国(狭い限られた空間)へ向かう世界ではないかと思います。文明が始まって6000年以上が経っていると言われていますが、今現在周りを見渡すと … 立方体の建物がたくさん立ち並んでおり、窓がなく、塀で囲まれ、24時間電気が点けられたオフィスやお店がたくさんあります。 文明が始まる以前人は、太陽や月の下で森や野に住んで … 一日を過ごしていたでしょう。 しかし、今は、多くの人が建物の中で過ごしています。 聖書の天国が文明社会の行きつくところであるなら … ますます人々は、四角い建物の中‥つまり同じ天国でも‥真実は「点獄」というところかもしれません。

質問:もし今こんな広告があったら、どうしますか?


   
   
ゴージャスで広い空間の中で‥永遠に過ごしませんか?

広さは日本とほぼ同じ面積です。とても広い空間です。城壁や12の門があるのですが‥そはとても高価な石や真珠で飾られ、とてもゴージャスです。そこに住む人たちは、選ばれた人たちなので‥とても安心です。夜も昼も関係なく照らす光があり、選ばれたものが行けるのにふさわしい場所です。そこへ入ったものは、管理人を神と仰ぎつつ、自分は王として永遠に過ごせます。もし、今選ばれたなら‥死んで後ではなく今すぐ、入れます。是非ご検討ください。たくさんの応募お待ちしています。

多くの人々は「地獄より天国」って言いますが。わたしは‥「点獄(てんごく)より地国(じごく)」がいいです。わたしは‥質素でもいいから、仕切りのない大地の上で、支配する者がなく…自由に生きていく方を望むからです。


 参考 /聖書

黙示録21章

1.また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
4.彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。
11.都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。
12.都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。
13.東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14.また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
15.また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
16.都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さもおなじであった。
17.また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。
18.その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
19.都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、

20.第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は、黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21.また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
23.都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、子羊が都のあかりだからである。
24.諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
25.都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。


黙示録22章

2.都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
4.神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
5.もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼にはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。


マタイ9章12節

.医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。






5.



┃自然の声に沿って生きる





 自然の声(本能)に沿って生きる

これは「ブッシュマン」という映画の最後のシーンでのナレーションです。 私たちの生活と比べてどうでしょうか? これが本来の私たちの生き方だったのではないでしょうか? なぜ、私たちは、このシンプルで楽しい生活を見失ってしまったのでしょう。

日が昇るから目を覚ます    目を覚ますから腹が減る

腹が減るから狩りをする    狩りをするから飯食える

飯食えるから金要らない    金要らないから仕事しない

仕事しないから時間がある   時間があるから遊んでる

遊んでるから不満がない    不満がないから喧嘩がない

喧嘩がないから気分がいい   気分がいいから眠くなる

眠くなるから日が沈む      日が沈んだら後知らない

だから ブッシュマン平和です



映画「ブッシュマン」より

ブッシュマンは、道具を使い火を使いことばを使い神を信じているので、れっきとした文明人です。 発達した文明社会の基礎が彼らの中にすでに作られています。 それでも、彼らの生活から自然の声に沿って生きる生き方のすばらしさが伝わってきます。 文明の終わりに近い私たちの生活はどうでしょうか? 今の生活に満足できていますか?

たとえば、朝日とともに目を覚ましたくても、夜勤だったらどうでしょう。 朝日が出たのに、寝なくてはいけません。 腹が減っても、自然から調達できるものがありません。 山に山菜や果物があっても誰かの所有物だったり、海へ行ってもいつでも自由に魚を採るわけにはいけません。 勝手に魚を採ると密漁といって逮捕される場合もあります。

だから、お金が必要です。 お金が必要だから仕事しないといけません。 仕事をするから時間がありません。 時間がないので遊べません。遊べないので、不満が出ます。 不満が出るので喧嘩します。 喧嘩するから、眠れません。

それでも、人は文明の遅れている人を見ると優越感に浸り、自分の文化的生活を誇ったりします。



 体の声に聞く

先ほどのブッシュマンのナレーションで、腹が減るから食べる。 眠くなるから寝る。とありましたが … 私たちは、自分の体の声を聞いてそれに沿って生きているでしょうか?

お腹が空いていても、痩せるためにとか、まだその時間でないからとか理由を付けて食事を制限したり、先延ばしにしたりしていないでしょうか。 また、体に疲れを感じても「仕事を休むと周りの人に迷惑がかかる」といって、体の声より、自分の声を優先していないでしょうか ‥?

文明がなければ、人は、なにも考えず体の声を素直に聞けたはずです。 また、宗教活動で疲れていても休まないのは ‥? 神や仏の声 (教理) が体の声と違うからじゃないでしょうか。



 光より足

文明が発達し、かつて二本の足だけが頼りだった人間 … 今や自動車や新幹線、飛行機が当たり前という時代になりました。 こんなに早く移動することが、本当に真実な生き方なのでしょうか? アインシュタインは、光の速さで移動できれば 『永遠』 と言っています。 しかし、光と同じ速さになるには、質量がゼロでないといけません。

それだったら ‥ 私たちが肉体なしにならないと無理です。 だから、宗教などでは ‥ 「死んだら永遠の天国へいける」 とか言うのかもしれません。 (キリストは自分の事を 「光」 、 「ことば」 と言っていました。 「光」 や 「ことば」 は質量0の存在です。 でも、自然の生き物は、そうでは有りません。)

だからわたしは、光は光の速さがあり、地球には地球の速さがあり、人間には人間の速さがあっていいと思うのです。 それで、全てが調和しているのですから。 もうこれ以上文明を発達させてこの世界を不自然にしないでほしいです。


 文明に頼らない生活

暑すぎるところ、寒すぎるところに住めるのは … 文明に頼っているせいです。 もし、暖房、冷房設備がなかったら、もし、火がなかったら、もし、服がなかったら、もし、家がなかったら ‥。 そしてもし、5本の指でできることでまかなっていたら …。 おのずと住む場所は決まってきます。文明がなければ ‥ 服がなく裸の生活になるわけですから、現代のように豪雪地帯や砂漠地帯に人は住めなかったでしょう。 文明に頼らなければ自分の住む場所も分かってきます。 他の生き物が住むところを迷ったりしないのは、文明に頼らないからです。

人が穀物を食べたり、動物を食べたりできるのは … 鎌があり、包丁があり、火があるからです。 もし、道具がなければ、5本指でとって食べれる物を食べていたでしょう。 文明がなければ、私たちは、自分たちの真の食べ物が何か知っていたはずです。 それか言うと、現在主食とされている ‥ お米、麦 ‥ 肉や魚も ‥ 真の食べ物でないかもしれません。

また、人が死んだら火葬したり埋葬したりしますが … このことを人は、自然の生き物にない知的人間が行える素晴らしいことと思っています。 しかし本来、死体は、鳥や動物が食べ、それを菌やウイルスが食べ最後に、命ある土となります。死体を燃やすということは、自然の生き物から食料を奪うことになり、命を育むはずの土の命を奪うことになります。 確かに少しの灰は、植物の栄養になるかもしれません、でも灰を食べる生き物はいませんし、もしこの地球が灰だらけになったら生き物の命を育むことは不可能になります。 ですから、火葬するより、他の生き物に食べられて命ある土に還るほうが本来自然なことです。

残飯を燃やすことも同じです。 食べ残しは、他の生き物の食べ物であるのです。 他の生き物は、死体を燃やしたり残飯を燃やしたりしません。 自分の食べた残りも自分の体も他の生き物の食糧としています。 自然と言う無限の世界では、生きることも死ぬことも同じ命なのです。 なぜなら、無限は全てで1つの命だからです。

また人は、トイレを作って他の動物より清潔になったと思っています。 しかし、一か所に排せつ物を溜めて、肥料にしたり、浄化するのは大変です。 しかも、清潔というより、悪臭がして気持ち悪いです。 自然の生き物は、排せつ物をしたいときにしたい場所にします。 それは、はしたないし、不潔な感じがします。

しかし、動物のした排せつ物には必ずその排泄物を必要とする生き物がきてそれを食べます。 そして、それを食べた生き物の糞が、大地の肥料となります。 とても衛生的です。 人は苦労して肥料を作ったり浄化しますが自然に沿って生きていれば、こんなややこしいことは何も必要ないのです。

また人は、木が弱ると虫にやられるからと言って木に殺虫剤をかけ木を守ったりします。 そして人は、大変よいことをしていると思っています。 しかし、弱った木は、虫やキノコやコケ類、菌類の食糧です。 それなのに、不自然に生き物の命の循環を奪っているのです。 しかも、これらの生き物は、元気な若い木を枯らしたりはしません。

ところが、人は、都市計画のためだったら…無残にも森ごと消滅させたりします。 そのことに対して人は自らを咎めたりしません。 しかし、自分たちが都市計画で、動物の住処を奪っておきながら、クマが住宅街へ現れたとか、イノシシが現れたとか言って彼らを駆除します。 駆除を何度もしていると、その動物が激減し、今度は絶滅危惧種だと言いだして保護したりするのです。人が頭で考えて自然を不自然にすればするほどややこしくなってしまいます。

文明を人々は謳歌していますが …。 文明があることで、人は、本来住む場所も、本来食べていた食べ物も見失い、迷ってしまったと言えます。他の生き物が、人間のように迷わないのは、文字や数字などのことばという知恵を知らないからです。 彼らこそ文明に頼らない真の生活をしているといえます。私たち人間もこの文明に惑わされていなければ、無意識の中で食べ物や住むところを理解し、だれからも咎められることなく無意識の世界を自由に行動していたに違いありません。

◇映画を見て印象に残ったのは、ブッシュマン役のニカウさんが、家畜を野生の生き物と間違えて獲ったとことから、裁判にかけられ罪を言い渡される場面です。 「所有」 という概念がない彼らには 「罪」 という概念もない。これが … 本当の世界だって、わかった瞬間でした。 それまで私は、決まりを守って生きていく世界こそ秩序正しくて私が理想とする社会だって思っていたのですから‥。

◇ブッシュマンという言葉は軽蔑が込められた呼び方だそうです。
わたしは、彼らを尊敬しています。 まさか、ブッシュマンと言う言葉自体にそんな意味が込められているなんて …!!

◇文明人 (文明という存在にリードされる人々) こそ卑劣
・1810年:ブッシュマン (女性) がロンドンに連れてこられ、類人猿と人間をつなぐものとして動物学者が注目。 ロンドンでサーカスの見世物に、パリでは動物興行主の手で展示。
・1850年 : 男女の子どもが英国で展示。 死後解剖され、頭蓋骨はロンドン自然史博物館に保管。

文明に沿って生きることを恥じないで、自然に沿って生きる者に恥をかかせる。 それが文明のようです。 そんな文明社会でそんな生き方しかできない私たちこそ ‥ 本当に恥ずかしい。

◇「Bee happy in 南アフリカ」より一部抜粋
サン族(ブッシュマン)は、アフリカ最古の種族で、狩猟採集を糧として、農耕や牧畜は行わず、土器や布さえも作らない。いわゆる石器時代の暮らしを続ける世界でも類をみない部族です。もともと「ブッシュマン」とはヨーロッパ人がつけた軽蔑した言い方で、今では「サン族」と呼びます。(それでも実際は「ブッシュマン」の方が通りが良いみたいです)。彼らは50人単位くらいの集団で移動生活をします。集団をまとめるリーダーはおらず、職業や身分、地位の差もありません。みんな対等なのです。

彼らは争うことをしなかったため、武力抗争にはきわめて抵抗力がありませんでした。そして侵入してきた白人から逃れるために、白人が捨てた土地カラハリ沙漠で暮らすことを余儀なくされました。今現在もサン族(ブッシュマン)は生存していますが激減しています。近代化の影響で生活も大きく変わり、彼らの多くは貨幣経済生活になじめず、失業、伝統文化の消失等が社会問題化しているようです。



                                                                  





┃鶏だって高い木に止まれます




私たちは、文明が昔からあったから、特別疑問にも思わないわけですが。でもよく考えると‥文明がなかった時もあって‥むしろその方が長かった。だから、本来の生き方は、文明に沿って生きていくのではなく、自然に沿って生きていく事ではないか。もしかしたら‥私たちは、文明に騙されてここまで来てしまったのではないかと、最近はそう思うようになったのです。

↓アニメ「地球少女アルジュナ」に出てくる、シード国際本部の支部長が言った言葉より
「人類が到達した文明の姿。それが何によって支えられているか分かっているのかね。‥‥‥石油だ。石油がこの町を動かし‥動脈となって流れ文明を支えている。これが一夜にしてなくなってみたまえ。我々は‥夜の闇に脅え、動物のように生きねばならない。有史以前の生活に後戻りだ。」

この文章を読んで分かることは‥。
◇石油が支える世界は文明の到達した姿。
文明がなくなったら、夜の闇に脅え動物のように生きねばならない。

つまり、火や道具やことば(読み、書き、計算に通じることば)に導かれて到達した世界が、石油に支えられる世界ってこと。ある人は、「いや‥原発だって」と言うかもしれません。しかし原発も、石油を電気エネルギーに変えて冷やしているからこそメルトダウンを起こすことなく使えている。つまり、原発もまた石油に支えられていると言える‥。



 文明に頼らないニワトリ

シード国際本部支部長のことばで‥「これが一夜にして無くなってみたまえ。我々は‥夜の闇に脅え、動物のように生きねばならない。有史以前の生活に逆戻りだ。」とありますが、これこそ、私たち人類に与えられた文明の嘘だと思うのです。

暗闇で目が見えなくなる鶏。多くの人は、鶏を庭鳥と思っていますが‥彼らは、木がないから庭を歩くのです。しかし、木があれば、羽で木の枝に止まって寝ることができるのです。それも脅えてではなく‥安心して。ゲージなんが不要なんです。それでも他の生き物に食べられることもある‥。むしろ、食べたり食べられたりするから、自然の生き物はバランスが取れているとも言えるのです。

↓高い木の枝にとまる鶏





文明は、鶏を他の生き物から隔離して守っているというかもしれないが‥、文明がやっていることは、鶏をゲージの中に閉じ込めて‥足腰を弱らせ、自らエサを採るという本能を消し、自然環境から木をなくした後に‥「これ(文明)が一夜にして無くなってみたまえ。鶏は、夜の闇に脅え野生の動物のように脅えなければならない。」と脅すわけです。

つまり、文明は、野生の本能を持った生き物の本能を消し去り、文明に頼らせながら‥野生の生き物が住む環境を破壊させるのです。そして文明は文明なしに生きていけないようにした後に‥「この文明が一夜にして無くなったらどうする?」と脅すのです。私たちがなくてはならないと擁護する文明は‥本当は酷い存在なのです。

本当の死とは: 生き物の死ではなく文明の知恵によって、自然のバランスが崩されていく事だと私は思っています‥。



 本当の死に追いやるもの

◇生を良しとし、死を敵とする考え: 人が異常に増えたのは、他の生き物から食べられて死ぬ事を拒否し文明に頼ったから
◇常在細菌を殺す殺菌剤、除菌剤、抗菌剤: 体に住む常在細菌のバランスが崩れ、日和見感染をおこすことに
◇虫を殺す除草剤: 草があれば虫が来て、虫がいれば鳥が来て‥命豊かな土となるのに‥
◇自然の植物や生き物を隔離し、保護管理する事: 畑、森林、家畜、動物園は、自然の循環を破壊する
◇人々所有させ売り買いさせる: 自然破壊を加速する


 帳尻を合わせる文明

不自然にして、都合が悪くなると‥うまくごまかす文明。
例)畑を作る⇒木を伐採する⇒森がなくなる⇒生き物が減る。
すると文明は「絶滅危惧種」が増えたと言いだし保護を始める。
(本来は保護しなくても生き物が絶滅しないような環境に戻さなければならないのに)
そして、保護した生き物だけが増えてくると‥、文明は増えすぎた生き物が「自然のバランスを崩すと言いだし、増えすぎた生き物を駆除する事に‥。根本を解決しようとしないから‥どんどんややこしくなって‥自然のバランスはどんどん崩れていく事に‥。

私は思う。誤魔化すのではなく、人の手を少しでも加えなくて済む自然本来の生き方に戻る必要があるのではないかと‥。



 自然に沿って生きるなら、文明は不要

生き物はウンチを汚いと思わない。だからトイレを作って一か所に集めない。だから臭わない。臭わないから、消臭剤がいらない。消臭剤がいらないから、腸内細菌のバランスが取れて調子が良い。腸内細菌のバランスが取れていると、整腸剤が要らない。人は文明に与えられた知恵を絞った結果、もともとあった自然のバランスを崩し‥その崩れたものを文明の知恵でつじつまを合わせようとした結果さらに自然のバランスを崩してしまうことに‥。それも、お金という魔物の為に‥。

だから人は、知らなければならない。自然そのものがどれほど良かったか。そして、文明は自然破壊そのものであるということを。そして、人々が自然に沿って‥自然に任せている限りは‥文明に頼る必要などない‥無限の世界(限りのない世界)は人の手など要らない。それを信じ任せられれば‥自然は自ずと回復していく。



 お勧め動画

研究者は善玉菌とか悪玉菌とか呼ぶが、彼らは日夜戦っているのではなく、全体でバランスを取りながら‥一つの命となっている。悪玉菌がいないと‥善玉菌は働けない。しかし、悪玉菌が多すぎると悪い影響が出てくる‥。大切なのはどの菌が悪い菌かというのではなく‥いかに菌のバランスがとれているかどうか。

菌がなければ生き物は、線維を消化する事が出来ないし、ビタミンを合成する事さえできない。そして菌がなければ免疫力もつかない‥。

↓腸内細菌の働き「善玉悪玉ではない」 藤田紘一郎






                                                        



自然は、区切りがない世界。無限に大きくもあるが、無限に小さくもある世界だった。
        
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