白鳥沙羅のたわごと(自然に沿って生きていきたい)
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     自然とは


 『自然とは』  ↓表題をクリック   
なぜ人は虫とりが好き 7
「なぜ?」が作る無駄な時間
「これでいいのだ〜」の世界 8 乗り物と時空
究極の希望 9 言葉を知って失ったもの
枯れた湧水 10 自然の世界に救いは要らない
5 壁を壊せ! 11 自由にすると調和する自然
6
人間牧場 12 ////////////////////////////

                                                     

1.


┃なぜ人は虫とりが好き






わたしは小さい頃。広い原っぱに行ってちょうちょやトンボを捕まえるのが好きだった。(しかも狭い籠に閉じ込めることまでして‥) でもどうしてこんなことが好きなのか分からなかった。

生き物を捕え籠に入れて遊ぶなんて、よく考えたら‥生き物の自由を奪っているのだから‥とても「残酷」に思える。 しかし、多くの子供たちがこの遊びにハマってしまう。

ある時、友達の家にお邪魔していたときのこと。友達が飼っている猫がトカゲを捕まえてきて、食べずにじゃれて遊んでいた‥。それを見てわたしは思った。 本来生き物は自然にいて‥食べ物を食べるために歩き、見つけたら追いかけ、捕まえて、それを食べて満足していたと‥。 しかし、空腹でない飼い猫は、じゃれるだけ。

自然の生き物を誰かが所有し、その生き物に食べ物を賄ってしまうと‥満腹がゆえに「追っかけて捕まえるけど、食べない」といったように、本来の本能が単なる遊びだけになってしまう。 そうなると捜して、追っかけて、捕まえたら食べて満足するという、とても単純で楽しい本来の生き方を失ってしまうことに。

そういえば、子供のころ鬼ごっこで追いかけられている時もなんだか楽しかった。 だから怖いかもしれないけど、自然の中にいて獣に襲われ食べられるのもそれほど苦痛でないのかもしれない。(ライオンが首を狙うのは獲物をほぼ即死、もしくは意識不明にするため。) むしろ、文明の作った刃物で首を切られる方が苦痛かもしれない。 (斧で首を切る死刑では、首を切断するのに何度も失敗しかなりの痛みを負わせるとか)

人も動物も本来、食べたり食べられたりする世界の中に生きていた。

(自然全体が一つの命で、食べることも食べられることも命であり、「死」ではない。 むしろこの命の循環を止めることが「自然全体」の死であり、私たち人間も含めた命の終わりだと私は思っている。)

ところで、生き物が「食べる」と言うシンプルな行動には、あらゆることが含まれている。 たとえば、かくれんぼや鬼ごっこや散歩やランニングやスポーツ‥。そして喜び や楽しみが‥。 だから生き物にとって、特別な遊び(鬼ごっこなど)はいらなかった。

一方文明には‥種をまいて育てる人、それを運ぶ人、それを陳列して売る人がいて。お金を儲けた人がそれを買って食べる。 食べると言う行動はシンプルだが、それを得るまで多くの人がかかわることになり、捜す、見つける、追いかける、捕まえる、食べるという楽しみを失った。

家畜にされた動物やペット、そして文明の中で生きる人間にとって、「捜して見つけて追いかけて捕まえ‥、そして食べる」と言う動物の本能を満たされない生活に追い込まれてしまっている。

わたしは、お店に行ってお金で簡単に食料を得てしまう。 だから、ちょうちょやとんぼを捜して見つけて追いかけて捕まえることで‥本能を満たし楽しんでいたのかもしれない。








2.


┃「これでいいのだ〜」の世界

   
           


自然は、余計なことを考えず本能に沿って生きていくだけで、調和していく不思議な世界。思いわずらうこともなく「これでいいのだ〜」という気楽な世界が「自然」である。本来、自然には「これでいいのだ〜」という言葉すらないわけだけれど‥。


 調和する自然

調和する自然は「これでいいのだ〜」でしっくりくる

たとえば、映画のブッシュマンのナレーションの言葉。

日が昇るから、目を覚ます。 目を覚ますから、腹が減る。
腹が減るから、狩りをする。 狩りをするから、飯食える。
飯食えるから、金(お金)要らない。 金いらないから、仕事しない。
仕事しないから、時間がある。 時間があるから、遊んでる。
遊んでるから、不満がない。 不満がないから喧嘩がない。
喧嘩がないから、気分がいい。 気分がいいから、眠くなる。
眠くなるから、日が沈む。 日が沈んだら、後知らない。

(映画ブッシュマンより)


「これでいいのだ〜!!」
本当にしっくり‥。

もし、「火や道具や言葉」を一切使わない文明以前の生活なら‥更にしっくりする。


 調和しない文明

文明の世界で「これでいいのだ」と言うとおかしくなる


たとえば‥。

「刃物で生き物殺す」: 「これでいいのだ〜!!」
「原爆で町を破壊する」: 「これでいいのだ〜!!」
「農薬を撒いて生き物を殺す」: 「これでいいのだ〜!!」
「洗剤で川や海を汚す」: 「これでいいのだ〜!!」


文明がもたらしたものは「これでは、困るのだ〜」のほうがしっくりいく。


 文明の頂点には

権力をもった支配者が生殺与奪の権利を持って座している。つまり、文明の頂点に座するものは、「法律(俺ルール)」と「お金のシステム」で私たちを支配し、ともすれば命を意図的に取ることもいとわない。このようなものに対して、人は「これでいいのだ〜」と同調することはできても「これでは困るのだ〜」と反論的な言葉は言えない。

もし、「農薬を撒いて生き物を殺す」と言う支配者のことばに対して、人々が「これでいいのだ〜」と同調する他ない。それでトラブルが避けられるのだから。しかし、体がいつまでもつかわからない。それで、「農薬を撒いて生き物を殺す」という言葉に対して「これでは困るのだ〜」と反論すると、上の者に対して立てつくこととなり、生殺与奪の権利を持った支配者から、精神と肉体を諸共に斬られる事に‥。

このように文明の世界は、自然の生き物(人間も含め)にとって「これでは困るのだ〜」の世界であるにも関わらず‥。それに対し反論することは許されず、改善することはもっての外で‥。「これでいいのだ〜」と同調する道しかない。どんなに気楽な言葉のように聞こえても、文明の中で発せられる「これでいいのだ〜」は、「自然に沿った世界」の中にいるような真の気楽さは感じられない。



 自然に任せてみては

あるがままを肯定し受け入れる自然に任せてみてはどうだろう

人工的なものに頼るのを止めてみる ‥

『あなた(赤塚不二夫さん)の考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、穏やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ!」と‥』(赤塚不二夫さんの葬儀、タモリさん弔辞より)

赤塚不二夫さんの生き方は、自然そのもののようです。確かに‥海も川も大空も大地も‥全てをあるがままに肯定し、受け入れています。自然は、排除するのではなく、全てを受け入れることで、修正、修復をするものだと私は思っています。しかし文明は、私たちを、競争をさせ、文字や数字で、判断し分別していきます。全てをあるがままに肯定しているとは思えない世界です。

だったら、ここまで私たちを肯定し受け入れてくれる自然に100%任せてみたらどうでしょうか。原発事故が起きて、水をペットボトルや浄水器や人工水に変えていく方向のようですが‥。自然の命の力。もっと信じて、信頼していいかもしれません。人工的なものに頼るのではなく、人工的なものを少しずつでも止めて自然に頼っていく工夫。最後には、元のように自然のみに頼る。他の生き物みたいに‥。

そして‥
川や井戸水や湧水ががきれいになって‥メダカが住めるようになって、いろんな生き物がよみがえって‥命豊かな自然になれば‥。今まで私たちが自然に負担を掛けていたものも、私たちの思いを遥かに超えて回復するのではないでしょうか?無限の世界の性質によって‥。

放射能だって、自然に任せた方が、ずっと早く解決できるかもしれません‥。



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(1〜5まで順を追って見てくださ)








3.


┃究極の希望




 



 絶望的な文明社会

地球破滅を思わせる戦争。
地球破滅を思わせる森林破壊。
地球破滅を思わせる大気汚染。
地球破滅を思わせる水質汚染。
地球破滅を思わせる土壌汚染‥etc。

自然が破壊されていくのを見て嘆いていると‥
文明はこう言って私たちを責め、更に絶望へと追いやります。

こんな世の中にしたのは誰のせい?
欲が深くてお金に目がくらんだのは誰?
自分たちが招いたのだから‥もう手遅れ‥



 真の希望

お金に完全に支配された現在。もう誰もこの状況をもとに戻すのは無理のように見えます。
しかし、私たちの手を休め、全てを自然に明け渡すなら‥自然は完全に回復すると私は思うのです。

例えば‥
不自然に作り変えられた種は、本来の種に戻ろうとしますし‥。
無理に還元されて作られた鉄は、酸化されて自然本来の酸化鉄に戻ろうとします。
また、無理矢理イオン化された銀イオンは‥強い力で銀に戻ろうとするのです‥。
自然は不自然にすればするほど、もとに戻ろうとする力も大きくなっていくようです。
つまり、自然が終わりに近づけば近づくほど、その力は大きくなり‥自然が終わった瞬間こそ、本来の自然に戻る時なのだろうと私は考えています。

ここに‥文明のもたらす架空の希望ではない「真の希望」が、あると思うのです。

私は、人間が住まなくなった建物の中に植物が茂り、建物の外を蔓植物が覆い‥どんどん自然と一体化していき‥建物が自然にのみ込まれ、どこかへ消えていったのを見ました‥。



 究極の希望

◇人はみな、他人と差をつけたがるものです。
でも、真実の世界、自然の世界、無限の世界は、残念なことに差別して選んだりしません‥。

自然は、だれでも入れるところ。分け隔てのない世界。
私たちが「選ばれた」とか「特別だ」とかいう言うことばに心惹かれるのは、人と差をつけたいと思っているからなのです。だから、ついだまされてしまう。(私自身の体験から考えてもよくわかります)

◇タモリさんが、赤塚不二夫さんの事を「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、穏やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます」と‥こう言っていますが‥。

◇自然はその通りで‥。
自然は、どんな人であろうとも、 あるがままを肯定し、数字で刻む時間や文字で記す法律から私たちを解き放ち、私たち全てのものを受け止めてくれています。

土の器(自然)は弱いと言うけど、弱いんじゃなくて、大きく受け止めてくれる存在なんですね‥。
自然は、自然を破壊しようとする文明(あるいは神)に対してさえ無抵抗でいるのですから。

※土の器(自然)は弱い?強い?:
土の器は鉄の棒で簡単に壊れてしまう。だから土の器は弱いと言われてもしょうがない。でも、土はその鉄を酸化させ、土に還してしまう力がある。じゃーどっちが強いの?‥って思うでしょ。つまり、自然の世界では、強いも弱いもない。同じってこと‥。だから、自然は大きく受け止めることはしても、決して戦ったりしない。

つまり、喧嘩している生き物を私たちは、どっちがいいとか、悪いとか考えるのですが‥。自然は決して責めたり、咎めたりしません。だから、自然において刑罰なんてありません。もちろん宗教が言うような「死後のさばき」も。(文明のもたらしたものは全て、宗教でさえも‥選んだり、ルールにのっとって裁いたりしますが。)

私たちは、そんな自然が大好き。だから自然に沿っていきていきたい。本当はみんなそう願っているはず。(お金に支配されていないなら‥特に)

だから、自分が死ぬ時、またはこの自然が終わるかもしれないと思えたときは、「安心」していいんです。心配しなくていいんです。私たちは、もともと自然の中にいたし、そこから漏れることは決してないのですから‥。



 お勧め動画

人々が心のよりどころとする宗教や政治には、決まりや法律があって、それによって人々は裁かれいきます。だから、多くの人は自然もまた自分を責めたり、咎めたりして、切り捨てていくのだと信じています。しかし、私が自然を見て分かったことは自然には、人を裁く法律や決まりはなく‥全てがありのまま受け入れられる世界であると‥。そのことを是非、皆さんに伝えたくてこの動画をUPしました。是非最後まで文字を追って読んでください。(注意:The rose の歌詞の訳ではありません。)



                       
↓画像をクリックすると動画「究極の希望」へ






4.


┃枯れた湧水






文明の洪水が皮肉にも湧水を枯らした

 美しい水は大地からの恵み

いろんな木がたくさん生えている森がある。
たくさんの木々は地下から毎日何トン、何十トン、何千トンと根から水を汲み上げ、葉っぱから蒸発させている。
そして、その蒸発した水はやがて雲となり…冷えて雨となって戻ってくる。

降り注ぐ雨は大地に浸透し地下に流れ、ところどころで湧水となって…私たちを活かす飲み水となる。
その水にはたくさんのミネラルが含まれ私たちを元気づける。

ところが…、かつてどこにでもあった湧水が、枯れてしまった…。
それは…、文明という知恵がもたらした機械が森を切り開き、そこに住宅を建て、道路を作って大地を塞いだからです。
地下から多くの水を吸い上げていた木々がなくなりました。
木の葉から蒸発していた水分ももちろんなくなりました。
雨も微々たる量の雨しか降りません。
もし雨が降っても、大地に滲みこむことなく側溝を流れ下水道を経由して川から海へ流れていくだけです。



 命の水よ、蘇れ

残った森をこれ以上切り開かない。
自動車に乗らない。
そうすれば、庭をコンクリートで覆って駐車場作らなくて済む。
道路のアスファルトも必要最小限に出来る。
草刈もなるべくしないような方向へ。
降った雨が、地面を伝って地下へ。途中いろんな生き物のお腹を通って…
ミネラルの多い美味しい水になって地下から水が湧いてくる。

もう水をペットボトルに入れて持ち歩く必要がなくなる。

ある人が言いました。スーパーカミオカンデの水が世界一美しい水だと。(理由は不純物を一切含まないから)
しかし私は、不純物を一切含まないのが美しいとは思わないし美味しいとも思わない。

本当に美味しくて美しい水は、必須ミネラルや微生物を豊富に含んだ湧水で、多くの木々や草や生き物たちが満ち溢れる場所の湧水ではないでしょうか?



 濁ってしまった池

東京の武蔵野市と三鷹市にまたがる公園と知られる「井の頭公園」。吉祥寺駅からすぐのところにあるこの公園の井の頭池は、かつて豊かな湧水によって江戸市民の飲み水となっていました。

この井の頭池、昭和30年代までは池の底が透き通って見えるほど美しい池でした。ところが、戦後市街都市化が進むにつれて地下水位が低下し、湧水が枯渇するようになりました。(「よみがえれ!!井の頭池」パンフレット参考)








5.


┃壁を壊せ!






壁を壊せばひとつになれる

混沌とした区切りのはっきりしない自然 (無限の世界:限りのない世界) を見ていると‥。
自然は、すべてがつながっていて一つなんだと思わされます。
しかしなぜかわたしは、いつも自然の外側にいるという錯覚を感じるのです。

少なくとも私は、そう感じるのです。

わたしの肉体は、自然と繋がっています。でも‥どうしてなのでしょう。思いはいつも自然の外側にいて自然(自分の体も含め)を眺めているのです。限りのない世界(無限の世界)には、内も外もないのに‥。

幼い頃は、海に住む魚や貝やイソギンチャクやカニたちと戯れ自由な時間を楽しく過ごしていました。なのに‥文明は、わたしを学校という、狭い空間に閉じ込め、文字と数字でわたしを「雁字搦め(がんじがらめ)」にしました。それでわたしは、文字や数字の中に‥昔あった無限で自由な世界が隠されているのかと探し求めました。

しかし、「1」と「2」は分かっても‥「1」と「2」の間に無限を見つけることができませんでした。
「はい」と「いいえ」が分かっても‥「はい」と「いいえ」の間にある無限を見つけることができませんでした。

だからわたしは、わたしと自然を区切っている文字と数字という壁を壊し無限で自由な世界へ戻ろうと考えました‥。もし、それができたら‥。きっと文字や数字が消えて、全てに付けられた名前も消えて‥。文明がもたらしたこの世の目標や計画も消え‥。そして、言葉や数字でイメージできる過去や未来が消え、そして‥そして、わたしの思いが、無限の世界の中へ消えていくと思ったのです。

そうなれば‥今まで、自然を外から眺めていた わたしの「思い」は‥もうどこにもなくなって、遂にわたしは、求めていた自然に戻り‥自然と一つになれると思ったのです。







6.


┃人間牧場




↑檻の中には変わりない(命の循環が閉ざされたライオンだけの世界)



私たちは捕らわれていた

 文明(飼い主)に利用されるために生まれた人間(家畜)

多くの人は、自然が破壊されていくのを見て、人間が悪いと言います。しかし、もし人間が自由意思で行っているのではなく、文明に捕らわれ、文明の意思(ことば)で操作されているとしたらどうでしょう?もし、そうなら…「人間が悪い」とひと言で片付けられないと思うのです。

@この文明社会が‥あらかじめ‥お金になびくような、いやなびかざるを得ないようなシステムに計画されていたら…。
A自然破壊することでお金儲けするように仕向けられていたら…。

「お前たちが苦しむのは、お前たちの欲深さのせい」というように責められるのは…酷ではありませんか!!もし、これが事実なら、切なすぎます。



 捕らわれていたことにさえ気づけない

サファリパークで生まれ、その環境しか知らずに育ったライオンを見て思いました。彼らはこのような不自然な世界を自然本来と信じています。つまり、シマウマもキリンもゾウもいない、自分と同じライオンだけの空間・食物連鎖と言う本来の自然のない世界が本来の自然だと‥信じているのです。そして、そこから逃げないように設置された柵。アスファルトの道路や時折見物人を乗せたバス。そして人の手によって賄ってもらう肉などを‥本来の自然だと信じています。

それと同じように‥私たちもまた、学校へ行って学んだり、会社に勤めてお金をもらって生活するという不自然な行為を、私たちは自然本来の姿と信じているのではないでしょうか‥

上の写真は、サファリパークのライオンです。 彼らは努力して獲物を見つけたり、追いかけたりする必要がありません。ですから、野生のライオンに比べると楽をして人生を楽しんでいると言えるかもしれません。しかし、自分で獲物を獲って食べるという本能を満たされない彼らには、野生のライオンのような生きる力を感じません。

また、写真とは別の場所にシマウマがいました。彼らは野生のシマウマに比べると、ライオンから狙われることがなく、安心して人生を送れて幸せと言えるかもしれません。しかし、彼らは狭い空間に同じ種類のシマウマだけという環境で、危険が来たら必死で逃げるという本能を満たすことができません。そのため、野生のシマウマが持っている生き生きとした生きる力のようなものを彼らから感じとることができません。

つまり、ライオンもシマウマも自然という空間で必死になって追いかけたり、追いかけられることが本来の姿であり、彼らの生きる力になっているのだと思いました。たとえ、獲物が取れず死にそうになっても。あるいは、逃げきれず食べられることがあっても‥。

人は、ライオンがシマウマを捕らえて食べるシーンを見て残酷だと言いますが、ライオンやシマウマを別々に分け、狭い空間に閉じ込め続けることこそ残酷と言えないでしょうか。



 人は家畜より先に拘束されていた

ところで、下の図を見てください。これを見ると‥なんと私たちがお金という柵の中に閉じ込められているのがわかります。野生の生き物より自由だと思っていた私たち。実はお金という柵の中に囚われた家畜だったのです。私たちが、生き物を家畜として育てているように、私たち自身がお金という檻の中で家畜として育てられていた‥。





 お金がなければ「死ぬ」世界

現在、私たちは、食料も水も‥お金がないと手に入れることができなくなっています。昔はタダで飲んでいた美味しい水も、今は何千円という値段がつけられる場合もあったり‥。(これが当たり前ではないはずです。つい50年ほど前まで水を買うなんて発想‥だれもできなかったことなのですから‥)しかし、川が汚染されてしまった今。塩素の入った水道水をお金で買って、更に塩素を除去する浄水器を買って飲まなければいけない。かつてタダで美味しかった水がどこにもないのです。ですから‥もし、お金がなくなったら?私たちは死ぬほかないのです。


 野生に戻る術がない

だから、わたしは‥リストラされても生きていけるように、まずタダでも生きていける環境を作らなければと考えるわけですが、みんな賛成してくれません。例えば、「環境と健康を破壊する農薬や肥料をやめましょう」と言っても、それに対し反対するものが必ずでてくるような仕組みになっています。なぜなら、農薬や肥料を製造しそれを売って生計を立てている人がいるからです。また、農薬と肥料がなければ生計が立てられない農家の人たちがいるからです。

つまり、お金に支配された私たちは、このシステムの矛盾に気がついても、絶対に動かすことができないようになっていることがわかります。雁字搦めという言葉がぴったりかもしれません。

また、こんなこともあります。
例えば、空気清浄機を売る会社や浄水器を売る会社。人を病気から守る医者や製薬会社。これらの会社は一見環境をよくするために、人々の健康をよくするためにあるように感じます。しかし、お金に支配されたシステムの中にとらわれれしまった場合。このような人たちは、環境がよくなることを心から願えなくなるのです。なぜなら、このような仕事をしている人たちは、環境が悪化してこそ成り立つ仕事に従事しているからです。

ここまで来ると‥自然にとっていいことが何一つできないという無力さに打ちのめされそうです。「そうか‥。お金に捕えられてしまっていたんだ‥」よく考えればすぐに分かることなのに‥。何故か、今まで気がつかなかったわけです。

本来車がない方が自然にとっていいのに‥「エコカー」を売り出すことで、いかにも自然にいいことをしているように見せかける商売ばかりが横行しています。結局、お金に支配された私たちは根本を解決できず、自然を破壊して儲けながら滅びていく道しかありません‥。



 神の計画通りの世界(人間牧場)

神(飼い主)の計画どおりの世界が今目の前に
@野生で生きる知恵を失わせる
A森を田畑、宅地などにして自然を壊す
Bお金がなければ死ぬ人生に導く
Cロボットの開発などにより、人件費削減と言う名のもとに解雇

森を失い、野生で生きる知恵を失い、職を失い、食を失う。
人は、飼い主なしには生きていけない家畜にされてしまった。


 相対的な考えを持つ神様(飼い主)

以下全て私の考えです。

自然は、全てで一つという存在。 だから、誰とも戦わない。たとえ、自然を破壊し、全てを支配しようと試みる支配者(飼い主)が出現しようとも、自然は決して戦おうとしません。

一方、相対的な存在である神は、「大きい。小さい。長い。短い。美しい。醜い。‥etc」 と他と比べる存在。だから、全てを比較した結果、一番素晴らしいという頂点に立つ世界を創ります。

そして、相対的な神は、比べない世界を比べる世界にするために、自然をバラバラにして名前をつけます。(参考:生き物は比べることを学べない。でも人間は言葉を習得し比べることができる⇒「NHK(動画):どっちが広い

実際、 「聖書の創世記一章」 を読むと‥神は、一つだった自然に、名前をつけてバラバラにしていきます。聖書は、名前をつけていくことを「創造」と呼びます。つまり、神にとって、分裂させることが創造と言えます。

そういえば、聖書に興味深い言葉があります。どんな言葉かと言うと‥
「あなたがたは、わたし (キリスト) が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ (ルカ12章51節) 」 と‥。つまりキリストの目的は平和ではなく分裂。つまり‥分裂させることで、頂点に自分が立てる世界を築いていると言えます。

更に興味深い言葉は‥ヨハネの福音書1章1節にある 「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」 ‥と。神はことばそのものであるというわけです。そしてこのことばはキリストを意味しているとも言われているのです。

そして更に更に興味深い言葉が聖書に‥それは、ヨハネの黙示録1章16節‥ 「(キリストの)口からは鋭い両刃の剣が出ており‥」 とあります。つまり、神の言葉であるキリストの口から両刃の剣が出ているのです。

つまり、神はこの自然の世界を分裂させに来たわけです。この世界を創造したと思っていた神。実は、一つだった本来の世界(自然)をバラバラにし、破壊しながら…神の支配する世界を創造していると分かってきます。



 競争はナンセンス

しかしながら‥どんなに分裂させても‥もともと同じものなら‥、 「勝負することはナンセンス」 。文明 (ことばという神的存在) が勝っても、文明が負けても、同じ体 (自然) の中の出来事なのだから、何も変わらないはず。つまり勝ちは負けでもあり、負けは勝ちでもある。だったらどちらも変わらないじゃないですか‥。

なのに‥ことばという存在(神)は、そんなナンセンスなことをやるという‥なんとも不思議な存在なのです。



 結局は、神の独り相撲(私の願い1)

勝ちが負けでもあり、負けが勝ちでもあるから、自然は 神(=文明・飼い主) に対して無反応だった。むしろ 、神(=文明・飼い主) が勝ったときが 神(=文明・飼い主)が負けという時でもあって‥。結局、 神(=文明・飼い主) の一人相撲だったってことに。(そうでなければ、希望はない)


 絶望と希望は同じ(私の願い2)

現在人類の頂点に立っているものは下の枠内の文章にあるようなことを考え計画しています。

@「金力という外套を我が物にするなら、人は金力を与えてくれる」
これは、ロスチャイルドが発見した経済学による、権力、影響力、人民に対するコントロールについての基本原理です。

Aこれからは、「個人の好みまでもコンピュータ管理下に置けるようになる」
現在クレジットカードによってそれを可能としているが、将来は自然光では識別できないが消えることのできない「入れ墨」をさせる計画。

静かなる戦争のための沈黙の兵器」を参考  (上記の文章は、若干私流に訳しています)

現にコンピュータを通してクレジットで買い物をすると‥今まで何を買ったかすぐにわかるように表示されます。一見便利に見えますが、それは自分が他人 (頂点に立つ神のような絶対的支配者) に管理されているということを示します。そのうち、クレジットカード化が進み、これがないと買い物ができないような社会になるでしょう。そして、その延長に、見えない入れ墨が‥。

聖書にも、こう書いてあります。

「その名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵がある。思慮あるものは、その獣の数字を数えなさい。その数字は人間を指しているからである。その数字は666である。
(ヨハネ黙示録13章17、18)」

その数字がないものは買うことも売ることもできないようにすると言うのです。考えてみてください。本来野生に売り買いはありませんでした。誰も所有しない自然の世界。誰でも自由にとって食べて泥棒になりませんでした。しかし、戻りたくても、その野生は失われ、お金がなければ食べられない状況に追い込まれたわたしたち。こんな決まりが作られると‥、みんなこの666を欲しがるでしょうね。他人を蹴落としてでも。

このように囚われ 管理された生活の どこに希望が あるでしょう。私たちの これから迎える世界は 絶望のほか何も見えない気がします。

しかし‥もし、文明の創造した世界の完成が、文明の終わりであるなら‥今の絶望は希望でもあるわけです。いま文明という仕業によって不調和になっているこの世界が、どんどん築き上げられれば築き上げられるほど‥私たちがいたもとの世界、つまり調和した自然の世界へ戻っているとも言えるのです。ここに希望があると言えます。



 追加

追加1)
宗教家たちは…神の裁き(仏教では閻魔大王)があるとか、またあるときは、悔い改めないなら地獄行きだとか、罪の償いとして捧げ物をしなさいとか言ってきます。しかし、もともと人類に罪などなく…罪があるかのように仕組まれていたとわかれば…迷うことはありません。 

追加2)
「 主は、私の羊飼い。 私は、乏しいことがありません。」とはダビデ王の言葉です。
ダビデは‥神(主)が羊飼いなら、絶対に乏しいことがないと確信しています。 もし、動物園の動物が飼い主がいるから大丈夫と言って野生に帰ろうとしなくなったら悲しいです‥。ダビデはきっと家畜(囚われた人間)の王様にされたことで、本来自分が帰るべきところをすっかり忘れてしまったのでしょう‥悲しいことですが‥。(現在の私たちにも言えます。本当に悲しいのは、帰ろうとしても、もう本来買えるべき自然がなくなったことです)

いつの世も、この文明社会を崩壊させ野生に戻すことに反対する人がいます。そう言う人は、多分ダビデのように文明によって高い地位を与えられたものではないでしょうか?








7.



┃「なぜ?」が作る無駄な時間






生き物には、動作を表す仕草や行動はあっても‥人間のようにはっきりと物事を表す言葉がありません。しかし、人間には行動を表す言葉(動詞)以外に、それぞれの物を表す言葉(名詞)や美しさや大きさを表す言葉(形容詞)などがあります。これらは、人間以外の生き物にとって理解できない不要な言葉です。

ところで、さらに不思議な言葉が人間にはあります。それは、「これな〜に」とか「どうして」とか「なぜ」という疑問を表す言葉です。人間以外の生き物でも、時々首をかしげて「なんだろう」という表情をすることがあります。しかし、人間以外の生き物は‥その場限りで、人間のように追求していくことをしないのです。その点から言うと‥人間は本当に不思議な生き物と言えるかもしれません。

子供がよく使う言葉に「これな〜に」というのがありますが‥。言葉を覚えたての子供は、何でもかんでも「これな〜に」と言って、名前を教えてもらっては、次々に言葉を覚えていきます。

不思議なのは、「これな〜に?」と訊ね、「これはりんごだよ」という答えに‥もう納得しているところです。つまり、子供は名前を知りたがっているだけということです。野生の生き物を見ていると、小さい子供が‥「これな〜に」と言って名前を覚えるのに時間を費やしたているのを見たことがありません。全て実践です。親は、野球の監督のように自分は動かずに指示だけ出すことをせず、自分が先に動いて子供たちを誘導し真似をさせます。そして文字からくる知識ではなく、体験でわかる知恵を習得させていきます。

それから、少し成長すると‥子供たちは「ねぇ〜どうして?」って言葉を連発します。
「どうして、お父さんは男なの?どうしてお母さんは女なの?」
「どうして、僕はここに生まれたの?」
「どうして、りんごは赤いの?」
「どうして、おじいさんは腰が曲がってるの?」とか‥

最初は丁寧に答えていても‥いつまでも質問してくると‥「いいかげんにしなさい!」みたいになってきます。
つまり‥「これな〜に」とか、「どうして?」とかいう言葉は、三面鏡の両側を狭めた時に正面の鏡に映された永遠に続く世界のようなものなのです。

例えば‥。
子供に「りんごはどうして赤いの?」って訊かれて‥
親が「それはね。アントシアニンという色素が入っているから赤く見えるんだよ」と答えると、
子供に「どうしてアントシアニンって色素は赤く見えるの」と訊かれ
親が「それはね、りんごに入っているアントニアシンという色素に光が当たって‥光が屈折して‥それでりんごが赤く見えるんだよ‥」と答える。すると子供が‥「どうして光が屈折するとりんごが赤く見えるの?」と聞いてくるのです。

親は今まで丁寧に答えていたのですが‥「いい加減に勘弁して〜忙しいんだから」と‥切れます。

子供のこんな言葉に対する、親の答えは‥よく考えると本当の答えになっていません。なぜなら、永遠に問答が終わることがないからです。しかし、なぜ‥人々がそれを大事にするか‥。

それは、自然の仕組みを真似て人工物を作るためです。そして‥それを商売にするため。ただ、それだけです。それ以上何の意味もありません。その無意味なことに人は長い年月を費やしたことで‥野生で生きる知恵を失い、自然を破壊してしまったのです。

今なお人々は、どのようにして地球はできたかという‥質問の答えを探すために「ニュートリノ」を捕らえようとしています。永遠に答えがでない「どうして?」のために‥(これもまた、何らかのビジネスのためなのです)






8.



┃乗り物と時空 /「無T神の革命 福岡正信著」参考






 自転車・自動車・列車・飛行機…etc

生き物は、文字や数字で考えて作った乗り物に乗って移動したりしません。しかし、人は自分を運ぶ乗り物を作り、それに乗って移動します。それが当たり前のように錯覚してしまいそうなぐらい普通になってしまいましたが、これは本来の姿ではないのです。

↓枠内の青い文字の文章は、福岡正信さんの書いた 『無T神の革命』 から要約・抜粋したものです。p.198〜

私の幼いとき、村にも初めて自転車というものが入ってきた。それは村人にとっては大きな事件であった。ピカピカ光る銀色の車体、柔らかいゴムの輪。走るにしたがって車輪はキラキラと反射し、乗っているものはいかにも得意気であった。人々は足をとめて道をゆずり、驚嘆の目をもって彼を見送った。それから間もなく村と街とを結ぶ街道に、勇ましく吹き鳴らされるラッパの音とともに乗合馬車が出現した。村の話題は乗合馬車の中からふりまかれていった。

だがまもなく、自動車が村の街道を走るときが来た。子供はこの巨大な怪物の疾走には驚嘆の歓声をあげてその跡を追い、老人は恐怖を感じて道を避けた。村の青年たちは世の中の急速な変わりを身近に感じて、身震いするような興奮を味わっていた。村の娘たちは自動車の運転手に賛歌と憧れの瞳を向けるようになった。その粋な伊達姿、理知にひらめく顔かたち、すばらしい文明の象徴として彼女たちは、村の若者たちの泥くさい体、のろのろとした仕事に憎悪を感じるようになった。

古いものは取り残され、新しいものがこれに代わっていった。自転車、自動車、汽車、飛行機へと、地上の交通機関はここ二、三十年の間に、まことに驚異的な発達を遂げた。人々のかすかな疑惑や反抗は、この急激な流れに対しはかないアワでしかなかった。

携帯が導入された時も同じような流れでした。手紙→電話→携帯(あるいは、電子メール)へと。(手紙だと相手に届くまでに数日かかっていました。しかし、メールだと‥世界の裏側にいる人とでも数秒も満たない速度で通信できるのですから‥。)

古いものは取り残され、新しいものに変わっていく‥。人々のかすかな疑惑や反抗は、この急激な流れに対して、はかないアワでしかなかった‥。私は、子供に「携帯は不要」と考えていましたが‥周りの親たちはどんどん携帯を買い与える方へ考えを変え‥持っていないものは貧乏人とまでレッテルを貼るような言動をして阻害してくるのです。結局わたしは、子供たちの強い要求に負けて買わなければならなくなったのです‥。それでも中学では買い与えませんでしたが。まるで‥自動車がこの世に入ってくるのと同じではありませんか?

余談になりますが‥。いまや、ツイッターやフェイスブックをするのが当たり前になり‥。多くの人が手軽に自分の思いをネットに載せて共感し合っています。しかし、共感できないものに対しては、よってたかって祭り上げ、意図的に炎上させ‥ひとりの人を陥れる。そんなことが横行しているのです。通信一つで、人を不幸のどん底まで陥れることができる世の中とは一体なんなのでしょう。

聖書にペンテコステ(聖霊降臨)というのがあって‥キリストの弟子たちの頭に二つに分かれた舌のような炎が灯されました。
これは、キリストが与えた聖霊。
ヨハネの福音書では、キリストのことを「ことば」といい‥
ヨハネの黙示録では、キリストは口から両刃の剣を出ており‥
このキリストが、福音書の中でこう言うのです。「私がこの世に来たのは、平和をもたらすためではなく、むしろ分裂だ」と。

言葉は‥優しい心温まる人たちの集まりに、火種となって燃え移り、やがて燃え盛る炎となり‥人々を切り裂く刃物のように人々を分裂させていくのです。このような時代を生きる私たちは、このことを知らなければ、‥言葉によって、ひとりの人を祭り上げ陥れるという‥とんでもない生きにくい世の中を造ることになってしまうのです。


 相対的な言葉は、曖昧でくだらない
↓枠内の青い文字の文章は、福岡正信さんの書いた 『無T神の革命』 から要約・抜粋したものです。p.201〜
速い自転車を造ったと人が言うとき、人間は人間を遅いものにした。速いができた時、遅いができた。人間が人間より速いものを知ったとき、人間はより遅いものを知らねばならぬ。人間が速い自動車を造って速いと喜んでいるとき、その裏面で人間の足は遅いものとなり、その遅さを嘆かなければならなくなっていることに気づかなければならない。人間が速いものを獲得したとき、同時に遅いものを獲得せねばならない‥

速いものを喜びとすれば、遅いものは悲しみとなる。遅いものを悲しむ心がなければ、速いものが喜びとなることはありえない‥‥人間が喜びを得たと思うとき、非常な悲しみの種をまいた時でもある。

速い遅い。美しい醜い。強い弱い。大きい小さい。
‥こんな言葉は、相対的で‥あいまいな言葉です。例えば、わたしの前にアリがいたら‥私はアリより大きい。しかし、私の前に、セコイヤの木があったら、わたしはセコイヤの木より小さい。私自身の大きさはそのままなのに、比べる対象によて‥私は大きくなったり小さくなったりするのです。つまり、私は大きくもなければ小さくもないというのが‥真実ではないでしょうか?

もし、それが本当なら‥子供の頃、白雪姫の物語で‥。「鏡よ。鏡。世界で一番美しいのはだあ〜れ?」と鏡に訊いたお妃の言葉はナンセンスということになります。この世界に美しいものも醜いもないというのが真実なら‥こんなくだらない物語を、幼い子供に読み聞かせする世の中は子供たちにいったい何を望んでいるのでしょう。

私たちが、比べることに意味がないということを知っていたなら‥。自分の足よりも速い乗り物を造り自然を破壊することはなかったと思います。

↓枠内の青い文字の文章は、福岡正信さんの書いた 『無T神の革命』 から要約・抜粋したものです。p.202〜

がんらい、遅速が自動車や汽車にあると考えるところに間違いがある。遅速は馬車にあって馬車にない。速いと思えば速く、遅いと思って乗れば遅い。悠々と乗れば渡船も速く、心がせいて乗れば、汽車、汽船も遅い。遅速は、相対的なものであって、人間の心でどうにでもなる。速いと思えば亀の歩みも速く、遅いと思えば飛行機も遅い‥。


自然の世界には、「○○時○○分までに〜をしなければならない。」という決まりはありません。ですから、生き物は無理をせず自分に合わせて生きればいいのです。しかし、人は、限りのなかった時間を小刻みにし、期限を作り‥それまでに間に合わないものに対し厳しくする支配者がいて‥。人々を急かすわけです。だから、少しでも速く物事を仕上げたいと思うから‥もっと早い乗り物、更に早い乗り物へと乗り移っていくのだと思います。ですから、真の問題は‥時間を小刻みにし期限を設けたことだと言えます

 乗り物で人は楽になったか

↓枠内の青い文字の文章は、福岡正信さんの書いた 『無T神の革命』 から要約・抜粋したものです。p.202〜
「乗り物の乗る方が楽と言うが‥(中略)…隣のお祖母さんは自動車に乗れば、無寝苦しくて吐きそうだという。祖父さんは車はとにかく、汽車に乗るとめまいがすると言う。裏の娘さんは飛行機から降りたときは死人のように蒼白であったと言う‥‥乗り物は本当に楽なのかな。」

(中略)

「時と場合によるかもしれない。歩きくたびれた時に乗り物に乗れば楽である。慣れない乗り物に乗れば苦しい。」‥(中略)‥「しかし、静かに考えるとき、高速度で走っている列車に肉体を乗せる、激しく動揺する飛行機に身体を縛って乗っている、その肉体ははたして楽か。」‥(中略)…いかにふかふかとした柔らかい座席でも半日高速度の乗り物に乗り続けておれば、半日ぶらぶら遊んで歩くより疲れるのが当然だ。

お盆に帰省するために自家用車で半日かけて帰りましたが‥。足を伸ばすことも、横になることもできず‥、ときどき休憩をしながら帰りましたが、とても疲れました。それなのに‥私たちは、長時間身動きができないように自らをベルトでシートにくくりつけなければ移動できない自動車を多額の借金をしてまで手に入れたがるのですから‥。

↓枠内の青い文字の文章は、福岡正信さんの書いた 『無T神の革命』 から要約・抜粋したものです。p.213〜
交通機関は人間を「時間と距離」から開放しないで、人間に「時と空間」を争う焦燥感をもたらしたにすぎない。人間はもはや文明という名の重い石を背負わされて身動きできない。人間がどんなに速い飛行機に乗ろうと、ロケットや銃弾のようなものに乗って、地球の外まで飛び交うときが来たとしても、人間の心が‥安まるときは永遠に来ないのである。

人間が得たものは、ただ焦燥の時間と争奪の空間(もの)以外のなにものでもなかった。人間は時空を超越せず、時空に拘束されて時空を失ったのである。人間は何ものも得たのではなかった。

↓枠内の青い文字の文章は、福岡正信さんの書いた 『無T神の革命』 から要約・抜粋したものです。p.214〜
宇宙船が月世界に行って月の石を持ち帰ったことは、ただ科学者の夢の実現ですまされない問題に発展する。…中略…すなわち月の一石は一石の採取にとどまらないで、無限の仕事の拡大を、人間が背負い込んだにすぎないのである。

第一回の月旅行は、冒険の興味で出発する。
第二回は、科学的要請による探険になる。
第三回目は、軍事的あるいは政治的任務になる。
第四回目は、経済的な仕事として遂行される。
第五回以降は、もはや単なる労働対策としての月があるだけである。

人間は月に出稼ぎし、土方人夫をしているに過ぎない。月に速く行けたと思うのは最初の内で、次には宇宙船の速度が遅い、月の石の価値に不満をもらす人間になっているのである。人間が月を仕事場にすることができて、得たものがウラン鉱石や宝石類であったとき‥、人は月の価値を半減せしめたというより月を殺してしまったのである。…中略…

今後月から得るもの、月から学べるもの、月を利用してできるもの、すべては科学的わく内のことであって、真実の世界に生きようとす者にとっては、すべてが無価値で無用なことである。人は月を知って月を失い、月に価値を求めて月の真値をけがし、月に行って、真に月への到達の道を閉ざしてしまったのである。…中略…

地上には、スピード200キロを誇る新幹線鉄道が開通し、あと数年で日本中は、一日で往復できる距離内になる勢いである。そのとき、人々は、便利になった、距離が近くなったと思うだろうが、そのとき、同時に一日中をかけめぐらねばならない事態にたちいたっていることに気がつくであろう。距離が近くなれば、(更に)遠くへ行かねばならず、時間が短縮されれば、さらに急がしく働かねばならなくなる。

かつて出張といえば、ホテルに泊まって帰ってきたのですが、電車の時速が早くなったことで、日帰りになり‥忙しくなったようです。速く移動することで、ゆったりした生活出来ると想像していたにもかかわらず、実際は奴隷のように休みなく働かされるようになったように感じます

↓枠内の青い文字の文章は、福岡正信さんの書いた 『無T神の革命』 から要約・抜粋したものです。p.218〜
人間は鉄道や飛行機で、時間や距離が短縮されるのではない。時間と空間を計るものさしは、乗り物や光ではない。人間の心がものさしになっていることを思うべきである。時間や距離は人間の心で、どうにでも短縮され、あるいは延ばされてしまう。

今年から、瀬戸内海に3本の横断橋が、一度に造られ始めた。二百キロの鉄道で、一瞬の間に瀬戸内海を渡り、あらにあっという間に九州まで海底トンネルで突っ走ったとき、人々はその速さを祝し、その距離の短縮を喜べるであろうか。バカバカしいほど忙しくなるだけである。

人工衛星に乗って、一日で世界の隅々までを見て回る観光客、月までを毎日征服して商用に出かける人、稼いや金星に燃料や食料をさがしに行く人、人間は速い乗り物を得て、ますますその遅速、遠近、優劣の渦巻の中にまきこまれ、目のまわる忙しさの中に、何を手にすることも、何を見る暇もなくなってゆくのである。

走っていなければ倒れる、飛んでいなければ落ちる。人々は他人に負けまいと必死になって全速力でかけまわる。この世はたたき独楽(こま)である。たたいてたたいて回転速度を速めておれば、独楽は倒れないで景気よくまわる。人々は独楽から振り落とされないようにしがみついているばかりである。独楽を一生懸命叩いているものが誰なのかに気づくまで、もうこのたたき独楽はとまらない。しかし、人間は何を得たのでも、何を為したのでもなかった。


無駄なエネルギーを使って、これだけのシステムを作り‥休みなく忙しく働かなければならなくなったのだったら‥一体何のためにこんなシステムを作ったのでしょう。人間は自然に反した知恵を身に付け、その知恵に苦しめられるとは‥。人間の得た知恵とは一体なんだったのでしょう。







9.



┃言葉を知って失ったもの






 言葉は本来を見失わせた

人間以外の生き物は、人間のように細かく表現する言葉がないので‥相手に自分の思いを行動で示したり、また相手の仕草からその思いを知ろうと努力します。しかし、人は自分たちが作った言葉で思いを示し、また相手の言葉からその思いを理解しようとします。その結果、人間だけが相手の思いを行動から理解しようとすることを忘れてしまったように思います。

しかも、言葉を知った人間は、相手の言葉からいかに理解しようとするかに重点を置かないで、相手にどれだけ正確な言葉で伝えられるかに重点をおきます。たとえば、学校で‥「I’m hungry.」を「I'm hangry.」と書いた場合。先生はその回答に容赦なく赤ペンで×(バツ)を書きます。先生は、この文字から相手が何を言いたいのか努力して読み取ろうとはしません。それは、言葉で‥どう表現するか、どれだけ正確に表現できるかを重視しているからです。それによって、先生は生徒に‥相手の思いを読み取る努力より、正確に言葉で表現することが大切であると身をもって教えたのです。



 言葉は一方通行

お名前は?
沙羅です。
どっから来たの?
森からきました。

このように、言葉は交互に話さなければ理解できず、同時にお互いが話すことはできません。
なぜなら、人間が話す言葉には一つ一つ意味のある単語が並べられているからです。これをイメージしながら相手を理解するため同時に話すことができないのです。しかし、ほかの生き物は違います。自由にいつでも声を出して表現していいのです。相手の言葉を最後まで聞かないと誤解するような言葉なんてないのですから‥。

そう考えると‥。人は、はっきりわかるような単語を並べて言葉を交わすことで‥。ほかの生き物のように‥一緒に声を出しながら共鳴し、共感するというシンプルな交わりを失ったのかもしれません。



 言葉は時空を超越している

文字も絵も記号も…時空を超越している

また、人間の言葉は、時空をも超えることができます。どういうことかというと‥。たとえば「私は昨日海で泳いだ」と言ったとします。言葉は昨日の海に自分を置かずして、頭の中では、海にいる自分をイメージできるのです。また、「私は明日、海で泳ぎます」と言ったとします。言葉は明日の海に自分を置かずして、頭の中では、あすの海にいる自分をイメージできるのです。つまり、言葉は時空を超えた存在と言えるのです。

また、紙に書いた文字はどうでしょうか?たとえば‥「お腹すいた」という言葉は‥本人がいなくても‥今そうでなくても‥相手に「お腹がすいた」と伝えるのです。人間は、言葉を文字にすることで‥今の思いを、時間を超えて、空間を超えて他人に伝えることができるようになったのです。 (現在では、録音、録画なども含まれます。) だから、私たちはタイムマシンを欲しがる必要はないのです。なぜなら、目に見えな、言葉という‥いすごいタイムマシンを脳の中に記憶して持っているのですから‥。

人は言葉を知り、過去を振り返ったり、未来に思いを馳せたりすることで‥本当の今を失ってしまった。



 記憶されたことが真実とは限らない

仕事から帰った母親が子供の書いた「お腹がすいた」という文字をみて、母親は (同じ空間に存在いない) 子供がお腹をすかしていると理解するわけですが‥。彼は今、おばあさんにおやつをもらって、お腹いっぱいかもしれないのです。言葉は、文字にすることで、時間を超えた存在になったかもしれません。しかし、そうすることで‥その人の今の真実がわからなくなったとも言えます。

生き物は、過去にどんなことをしたか、どう思ったか‥それを言葉にして記憶したり、残したりできません。
ですから、あの時君はこう言ったとか、そう言わなかったとか、もめることがありません。
人は、言葉を記憶することができ、それを取り出すこともできます。しかし、記憶が定かでなかったり‥いろんな記憶が混じり合って記憶されてしまったり‥しかもそれを真実と信じてしまったり‥。ややこしいわけです。



 言葉は、全てを表せない

言葉は、一気にひとつのことを言い表すことができません。
例えば、今私の目の前にある花。どんな花かわかりますか?
読者には見えていないので‥私の目の前にある花がどんな花かわかりません。
そこで、私が赤い花です。というのですが‥。わかったのは花の色だけ。
「百聞は一見に如かず。」と言いますが、言葉だけでは、その真意が十分伝えられないのです。

だから、人は‥意図的に都合が悪いところを隠すのだと思います。(言葉の世界が不真実になる理由)
たとえば‥聖書に、アブラハムが自分の妻サラを妻と言わず「妹」と言ったという箇所があります。
事実、妻のサラは異母妹だったというので嘘ではありません。しかし、この時は、妻という事実を隠し、「妹」という方が方がアブラハムにとって都合がよかったわけです。つまりことばは、断片的なものしか言い表せないため‥こんなことができるわけです。

人が、その場にいない人に対し‥何かを伝えようとすることで‥真実を見失ってしまったと言えます。私たちは食事の時、学校のこと会社のことを話題にして話すのですが‥ほかの生き物はそんなことをしなくても仲良く生きています。バラバラで行動して、一緒に体験しなかったことを話す生活が不自然で不真実な生き方なのかもしれません。



 言葉は‥改ざん可能

ところで、ある絵かきがこう言いました。「一番難しいのは、みんなが知っているものを描くことで、みんなが知らないものを描くのは簡単だ」と。それは、誰も知らないなら‥どう書いても‥相手に突っ込まれる心配がないので自由にかけるからだそうです‥。しかし、誰でも知っているものだったら、ここがおかしいとかここが違うとか突っ込まれてしまうため難しいのだと‥。

つまり、誰も知らないことだったら‥改ざん自由というのが言葉 (文字、絵、記号を含む) の性質と言えるのかもしれません。

以上から‥
人を騙そうと思う者にとっては、改ざんできる言葉はとても都合のいいアイテムと言えるのではないでしょうか。



 言葉は、分かりにくい

時々、人と話をしていて、もっとわかりやすく言ってくれればいいのにと思うことがよくあります。たとえば「ロコモコ」。ロコモコというのは、白いご飯の上にハンバーグと目玉焼きをのせソースをかけただけの料理なのですが‥ご飯と、ハンバーグと目玉焼きとソースがわかっている人でも、ロコモコという言葉を初めて聞いた場合、なんのことやら、まったくイメージができないのです。

このように複数のものを含むものに名前を付けると、言葉がさらに増えていくため‥更に言葉の世界がややこしくなっていきます。なのに‥食品添加物の中には、一括表示が認められているものがあり、消費者にとってわかりにくくなっています。

ですから‥わたしは、このような一括表示的表現をなるべく避けて話そうと思っていますが‥。文明社会では、一括表示という分かりにくい言葉を知っていれば知っている人ほど‥尊敬されるという不思議な世界なので、多くの人がこのような分かりにくい言葉を使いたがります。

余談)高校生の時、数学の時間煤iシグマ)というのを習いました。順番に並んだデータを何番目から何番目までを足した和を計算するものです。足し算なので簡単なわけですが‥。私はこのシグマという呼び方と狽ニいう記号に、頭が混乱し‥理解するまでに相当時間がかかってしまいました。ロコモコと同じような感じです。もし、ロコモコって言わずに普通ロコモコだったら‥ご飯の上にハンバーグと目玉焼き載せて‥と言ってくれれば分かるし、狽セったら‥にここからここまでを足してみてとか、言ってくれれば分かるのに‥。本当に言葉ってややこしいと思いました。



 言葉は裏腹

しかも、言葉には言葉と裏腹な使い方があり‥
例えば、相手を傷つけまいと、早く帰ってほしいのに「夕食どうですか」と誘ってみたり、自分がガサツなのを悟られまいと「結構です」と遠慮したり、自分の利益のために「お美しいですね」と相手を褒め称えたり、自分が褒められたいために、悲しくても無理をして「元気!」と答えたり‥

このように言葉とその使われ方が複雑であるため‥人は素直に相手の心を理解できません。また丁寧語や謙譲語や尊敬語が加わるともうお手上げです。同じ人間であるにもかかわらず人はお互い、差をつけお‥それにふさわしい言葉を設けた‥。それは、身分制度を前提とする人間社会には必要なことかもしれない。しかし、自分の部下の父親が自分の師匠だったりする場合‥微妙な混乱が頭に生じるのを感じるのです。



 言葉はなくても意思は伝えられる

子育てをしている時に思いました。人は言葉とともに生まれてこないのだということを。ですから‥親になった私は‥言葉を話せない赤ちゃんの思いを読み取る努力しなければなりませんでした。お腹すいているのか?それともおむつが濡れているのか?それとも眠たいのか?こんなに相手の思いを言葉なしに理解しようと努力したことはなかったのではないでしょうか?

現在、11歳になる愛犬がいますが、一緒に暮らしていると‥何を言いたいのかがよくわかります。例えば‥水がなくなったら、愛犬は食器のところまで行き、そこからこちらを見て吠えます。そこで私が行くと‥水を入れていた食器をチラッと見ます。それにつられて食器を見ると‥水が全くないのです。水がなくなったことを私に行動で知らせたのです。

あるとき、愛犬が脱走して何処かへ行ってしまったとき、数時間して知らない人と帰ってきました。その人に聞くと‥帰りたそうにしていたので一緒にきましたと‥。家に向かって帰ってくるようすを見ていたのですが‥。愛犬がその人の先を歩いて一緒に帰ってきたのです。言葉がなくてもちゃんと自分の意志が伝えられるということを愛犬を通して教えてもらいました。



 理解しようとする優しさ

オーストラリアに住んでいるという方から聞いたことがあるのですが、オーストラリアは日本人にとってとても住みやすいところではありますが、それでも反日感情のある地域では、ちゃんとした英語で話しても「あなたの発音はおかしい。何を言っているのか私には、わかりません」と言われたりすると言っていました。

わたしは、思いました。お互いに相手の思いを理解しようとすることは「優しさ」なのだと。
しかし、私たちは、その優しさを言葉を知ることで失ってしまったような気がします。



 人間もまた、他の動物同様言葉は不要だった

人間社会では、人間が作った複雑な言葉を話せない者は、「障害者」と位置づけられます‥。また、言葉を知らない生き物は、人間より低脳として扱われてしまいます。しかし、もし全ての人が言葉を知らなければ、きっとお互いの気持ちを行動でを示し、その行動からお互いの思いを理解しようと努力するに違いありません。しかも、今、同じ空間において。だから、分かり合える。本当の今を‥。だったら、言葉のない世界の方が優しい世界と言えそうです。

そんな優しい世界にいるものを、人は低脳と決め付けるのですから‥。しかし、もし言葉が真実を歪めお互いの意思の疎通を阻害しているのなら、むしろ言葉を話せることが逆に「障害」ではないでしょうか‥。

人は新たな言葉を作り、それをみんなで覚えて使うことに優越感を持つものです。しかしこれからは、今既にある言葉を少しでも減らし‥最終的には、ほかの動物と同じように言葉をなくしてしまえば‥。私たち人間は、いや人間だけでなく環境も、きっと自然本来の姿に戻れると思います。これが人間本来、自然本来の姿に戻れる、唯一の道かもしれません…







10.



┃自然の世界に救いは要らない






「苦しい時の神頼み。」とか‥、「oh! my god.」などと言う言葉があります。しかし、自然の生き物は、親や仲間に対して、助けを求めることはあっても‥神のように見えない存在に助けを求めたりしません。

数年前、カラスがつる植物に足を絡ませて羽をバタバタさせて、苦しい声で鳴いていました。すると、そこに住むカラスのほとんどと思われる数のカラスが集まってきて、つる植物に交互に体当たりしているのを見ました。みんな、できる限りの精一杯のことをみんなでやっているのが見て取れました。



 救われたんじゃない、足もとを掬われたんだ

洪水という自然の脅威から、救ったのが文明の知恵でできたノアの箱舟だったが…この船は、石油を運んでくるタンカーの型 (同じ比率 長:幅:高=30:5:3) そのもの。現在、タンカーは年間2億4000万キロリットルという膨大な量の原油を日本に運んでいます。これを365日で割ると一日に657500キロリットル使う計算。さらにこれをい1億2千万人で割ると…一日一人あたり5.5リットル使っているという計算になるのです。これが毎日なのですから…タンカーは片道約20日間、積み下ろしに5日間、合わせて約45日間かけて日本と中東を往復しています。

不要だった原油に頼って作り上げた現代文明。もし今、私たちが囚われている文明から、石油(原油)を突然とってしまったら?どうしたことでしょう。私たちは、生きていけないのです。まるで、体に必要な水のように。不要だった石油が、いつの間にかなくてはならないものに転じていました。 (多くの人が気づかないうちに)

文明はいつもそうですが、不自然で不要なものに頼るように誘い、全員が頼ったところで…その支えをなくすと脅した挙句。本当にそうするのです。もし、そうなら…救われたのではなく、掬われたのかもしれない。


 もし、「船」がなかったら?

もし、「船」がなかったら…

魚が乱獲されなかった
荷物が運べなかった
石油が運べなかった
人や生き物が運べなかった

もし、タンカーがなくて石油が運べなかったら…

自動車工場がない。
自動車がない。
アスファルトの道路がない。
石油エネルギーがないと作れない…農薬、肥料、食品添加物、合成洗剤、芳香剤…などがない。
電灯がともせず、24時間営業の仕事が存在しない。
原発を冷やす石油エネルギーがないため、原発すら存在しない。

もし、船もタンカーもなかったら…

文明が発達しないからみんな暇である。
山へ出かけたり、海え出かけたりしてゆったりと過ごせる。
金持ちもなければ、貧乏人もいない。

そして、洗剤などの化学物質がなかったら‥

川も海も美しく…生き物が豊かだった

そして、農薬などの生き物を殺す毒がなかったから‥

今も、後も…ずっとずっと生き物の命が豊かに満ちていただろう。



 ノアの箱舟の本当の意味(私説)

神を信じるノアとその家族を救ったノアの箱舟は数字と文字で計算尽くされた(文明の)乗り物でした。この箱舟は、一部の生き物と一部の人間を救っただけで、その他は全て救わず水の中に沈めてしまいました。つまり、ノアの箱舟の救いは、最初から一部の人の為だけのものだったと言えます。

現代、文明は‥様々な救いの舟を私たちに与えています。たとえば…
虫には、殺虫剤という救いの舟
雑菌には、殺菌剤という救いの舟
手軽な食品には、添加物という救いの舟
汚れには、合成洗剤という舟
病気には、医薬品舟…etc

これらの救いの舟は、世界の頂点で金儲けしている一部の支配者を経済的に救っているかもしれませんが、‥自然環境も、多くの人たちの健康も文明という洪水の中に沈めているように思えてなりません。

ですから‥わたしは、こう思うのです。文明は、近い将来、地球全体が文明の火によって燃やし、一部の支配者を宇宙船に乗せ…地球とそこに住む生きものと多くの人々を…沈めていくのではないかと考えています。そうでなければ、なぜ宇宙開発をしているのか意味が分かりません。



 石油を土台とした世界

石油を土台にした現代文明ですが‥実は、石油のことをラテン語でペテロリウムと言います。ペテロリウムのペテロは「岩」と言う意味で、リウムは「油」と言う意味です。

ペテロ=岩(石)   リウム=油

かつて、水上を歩くキリストの真似をしたのに、キリストのように水上を歩けなかったシモン(石ころと言う意味)という名のキリストの弟子がいました (新約聖書マタイ14章29、30節)。しかし、ペテロリウム(石油)となった彼はキリストのように水上を歩けるようになったのではないでしょうか。石油は、岩のように大きくなっても、石ころよりも軽いからです。(シモン:石ころ⇒ペテロ:岩)

聖書に興味深い言葉があります。 (以下、私の勝手な解釈ですが…)
「あなたはペテロ(岩)である。そして、わたし (キリスト) は、この岩の上に、私の教会を建てよう。黄泉もこれに打ち勝つことはできない。わたし (キリスト) は、あなた (ペテロ) に天国の鍵を授けよう。 (マタイ16章18節)」

この言葉を現代文明に当てはめると…キリストは、ペテロ (石) の上に自分の教会 (世界) を創り上げていくと言っているのです。つまり、石油を基礎にした文明社会を創り上げていくと(聖書でキリストは油注がれたものと言われている)。この石油を基礎にした世界に対し、黄泉は打ち勝てません…。

この「黄泉」とは、地下を指す言葉で、それが死者のいる所とか、地獄と言う意味になっています。たしかに、大地は死んだ木々や動物の集まった所と言えます。しかし、これらの死んだ体が、木々や虫や鳥や動物を生かす命ではないでしょうか?

その命の集まりである大地、つまり黄泉が、この石油の世界に打ち勝てないと言っているのではないでしょうか?

このまま、石油に頼った世界を創り続けるなら‥たぶんこの世界は、自然とは真逆の苦しく狭く追い詰められた世界になるでしょう。







11.



┃自由にすると調和する世界






自由にすると調和する自然。法律(文字や数字)で縛ると不調和になる自然。

誰からも指図されず自由に生きている生き物たち。それぞれが自由でめちゃくちゃに生きていたら自然は汚くて気持ち悪い世界なはず。ところがどっこい、自然は…見事に調和して美しくやさしく居心地がいい。逆に、、自然の生き物を束縛し外側からコントロールしだすと…自然の調和が崩れ破壊されていくのです。綿密に計画して、実行して、評価して…と文明は考えます。そして出来上がった文明社会。この社会が、みごとに自然を破壊しました…。もしかしたら、文明という存在の綿密な計画が実行されたということかもしれませんが。







自然は、区切りがない世界。無限に大きくもあるが、無限に小さくもある世界だった。
        
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