白鳥沙羅のたわごと(自然に沿って生きていきたい)
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家畜とは 7 畜にされていく人々
囲いの中にお置かれた人間 8 人間の最後と家畜の最後
3 家畜として新しく生まれ変わる 9 家畜にされた私の人生
4 管理される人間 10 家畜にされた人間
5 戦う家畜たち@ 11 聖書における家畜とは
6 戦うかちくたちA


1.



┃家畜とは



世界を支配するものがいるこの文明社会。 彼らは、自分たち以外の人々を 「家畜」 と言っている‥。


 文字でみる家畜とは

「家畜」という漢字から

辞書によると 「家畜」 とは 「人間が生活に役立てるために飼育する動物。」 なのだそうです。 聖書では、神が 「羊の飼い主」 でキリストは 「羊飼い」 そして、人間が 「羊」 と言う風に ‥ 例えられています。…と言うことは、 「人間は、神の役に立つように、飼育された生き物」 ってことになります。

ちなみに家畜の 家 は、 「宀(やね)」 + 「豕(ぶた)」 で 「大切な家畜に屋根をかぶせたさま」 だそうです。

それから、家畜の 畜 は、 「玄 (つやのない黒色) 」 + 「田」 で 「作物を育てる黒い土を四角く区切った耕地」 と、言う意味だそうです。 つまり、自然の大地を四角く区切った場所ってことなんですね ‥。

私の予想では…「畜」 は、動物の事だと思っていたのですが、四角く区切られた大地だったとは!! 確かにグーグルで上空から大地を見ると ‥ 人々が住んでいる家のほとんどが大地を四角く区切った場所に建ててあるのが分かります。

「かつては、この大都会も ‥木や草が生えた自然本来の大地で‥ 区切られた所なんて何処にもなかったんだな〜」 とか、 「菌類を含め虫や鳥や動物たちの命溢れる場所だったんだな〜」 って思う と‥人が家に住むようになったことがどれだけ自然を破壊しているんだろうと思い‥ 悲しくなってきます。



「domestic」という英語から

英語では、 「家畜」 を domestic と言います。domestic の dome は 「ドーム型、丸天井、丸屋根」 と言う意味で、 domestic の stic は 「体罰用の鞭」 とか 「厳しい処置」 という意味だそうです。 逃げ場のない限られた場所に閉じ込められて、痛みや苦しみを与えられ続ける ‥ そんな光景が浮かんできて ‥ 悲しくなります。

数年前から、農薬や洗剤、芳香剤などに反応するようになりました。 それで良く調べてみると ‥ 私の体が病気と言うより ‥ 化学物質自体に毒性があって、それが皮膚から浸透し様々な病気になることが分かってきたのです。 だから、これらの毒は、山や田んぼに撒いてはいけないし、海や川に流してもいけない。もちろん人に使ってもいけない。 そんな代物だったんです。

それで、身近な人や役場や市役所、県庁、農協など ‥ あらゆる人々に説明をしました。 しかし、多くの人がバカにすることはあっても、真剣に話を聞いて取り組んでくれる人はいませんでした。広い家に住んでいた私ですが、今は狭い狭い部屋にいて ‥ 近所の洗濯の洗剤の揮撥成分によって苦しめられ ‥ 逃げ場のない家畜のようです。 文字通り domestic って感じです。 ( どんなに広い所に住んでいても建物の中に住んでいるという時点で家畜ということでしたが )

その他に英語で家畜を 「stock (ストック)」 と言います。 その意味は 「在庫品、仕入品、蓄え」 などです。まるで 「商品」 といった感じですね ‥。 自然の生き物にも、食べ物を巣に蓄える生き物がいますが ‥ 少なくとも売り買いして儲けるって考えはないって思います。

さっきの続きですが ‥。 どうにか化学物質を止める方向へ皆が取り組んでくれたらと考えたのですが ‥。 どうしてもみんなが協力してくれません。 このままでは、自然そのものがなくなってしまうというのに ‥。

わたしが、洗剤メーカーや芳香剤のメーカーに 「生活ができないから製造しないでほしい」 と言ったとしても、多分答えは 「そうすれば私たちが生活できなくなる」 と答えるに決まっている…。 文明社会が与えたお金のシステムに縛られると ‥ 健康にも環境にも悪影響があると分かっていながらなくせないのです。 それは、商売というシステムがあり、全ての人がこの商売に捕えられてしまったからに他ならないからだと思います。

家畜が狭い所にいれられ、苦しめられるのも商売のため。 私が狭い所に追い込まれ、苦しめられるのも商売のため。 ストックという意味の通りなのです ‥。家畜は誰かの所有物として管理される生き物です。 運のいいものは比較的広い牧場で飼われますが、運の悪い家畜は、身動きがとれないほど狭い空間に入れられ ‥ 飼い主の商売のためだけに生かされます。 ( 今の私と同じ運の悪い家畜。しかし、運のいい者も家畜。ただ家畜だって気づけないだけ )

人は、ライオンやヒョウなど野生の生き物を 「残酷」 といいますが ‥、野生の生き物で自分の食糧をストックし売り買いして富とともに地位や名誉を得るものはいません。 言葉の知恵を持った人間だけなのです。



 家畜は不自然な存在

自然の世界ではは、それぞれの生き物が‥「食べること」以外あれこれ考えなくてもいい世界です。つまり、多種多様の生き物が互いに食べたり食べられたりすることで‥見事に調和する世界なのです。だから、誰からも管理される必要がありません。病気になることはめったにないし、病気になっても、自然治癒力が働き勝手に治ったりもします。もし、それで死ぬようなことがあったとしても、死体は生き物たちの食べ物となり、自然全体の命として生かされていきます。

自然は、個人のための自然ではなく、自然のための個人、いや自然も個人も区別がない世界‥つまり全てで一つの世界と言えます。

しかし、家畜はちがいます。

家畜は、多種多様に生きている自然界(互いに食べたり食べられたり)から隔離され、同じ種類だけが柵の中に入れられた状態になっています。だから、糞尿をすると‥人がそれを始末しなければなりません。なぜなら、もしそれを怠ると‥家畜小屋が不潔になり‥家畜が病気になるからです。

自然界だったら、尿は土に吸い込まれ、植物の栄養になります。糞は小動物や微生物の食べ物になっていく中で、これまた植物を育てる栄養になるり豊かな命に満ちた自然界になっていきます。生き物が…それぞれ「食べる」というシンプルな行動だけで‥全てが完成されているのですから‥自然というこれほど素晴らしい世界はどこにもありません。

しかし、自然から閉ざされた家畜小屋では、豊かな命になるはずの糞尿が、皮肉にも病気の原因になるのです。

それから考えると‥、私たち人間も家畜と同様‥食物連鎖から隔離され、人間だけの社会を作り上げたわけですから‥自らを家畜にしたようなものです。糞尿も、自然任せなら‥下水道も不要で、災害時トイレ難民になることもなかったでしょう。森を伐採し、そこを宅地にし、生き物を追い出し、そして出来上がった人間社会は、糞尿の始末も自分たち人間で行わなければなりません。

食べることだけを優先して考えるだけで良かった素晴らしい自然社会を捨てた私たちは、食べること以外に、ひん尿の始末まで考えないといけなくなったのです。 そのため、糞尿をたい肥に変える細菌たちが…病気の原因となり、体を蝕む殺菌剤を大量に使わなければならないのですから‥。

養殖の魚に、殺菌剤を多量に使ったり、畑の野菜に殺虫剤を多量に使うのと同じです。


 神は家畜をつくった?

今まで、家畜が不自然であるものと‥述べてきましたが、旧約聖書を読むと、神が天地創造第6日目、「神は家畜を創造した」と言っています。と言うことは‥神は家畜を繋ぐ綱、家畜を囲う柵、家畜を住まわせる家畜小屋‥これらの知恵の素であり、文明そのものと言えます。神が自然とま逆の存在であるなら、納得がいきます。







2.


┃囲いの中に置かれた人間




↑野生で自由に飛んでいたこともあった。しかし、今は上野動物園の檻の中。


聖書では、神が羊の飼い主で、キリストは羊飼い、人間は羊‥と例えています。羊は家畜。だったら、わたしたち人間は‥神の家畜ってことです。現在、世界の頂点で支配している一部の人たちが6000年も前から‥聖書を道として、それに沿って文明を進めてきたように思われてなりません。聖書が、人々の事を「家畜」に例えているのですから‥。

神(支配者、銀行家) ⇒ 飼い主
キリスト (政治家、宗教家)⇒ 羊飼い
人 (国民、庶民))⇒ 羊


 文明のスタートが囲いだった

神はかつて 東の方のエデンに園を設けそこに主の形造った人を置かれたそうです ( 創世記2章8節 )神はどうして最初の人アダムをエデンの園という囲いの中に人間を置いたのでしょう? 囲いなんていらないと思うのですが … 。

ちなみに は、 「 周りを垣で囲んだ畑や庭 」

園の中の は、 「 ゆったりした服をまとった 」 と言う意味。

園の外側のは、囲い。

漢字から見ても ‥ 囲いの中にいるのは服を着せられ不自然にされた生き物。 つまり 「服」 をまとった人間と分かります。現在は裸で生活する人を見て驚きますが、文明が始まった頃は ‥ 逆に服を着た人をみて驚いたに違いありません。

ところで ‥ 聖書には、 「主イエス・キリストを着なさい (ローマ書13:14) とあるのですが ‥。 意味不明な言葉ですね。キリストを服のように着なさいだなんて。 服だけでもうっとうしいのに ‥ 神の子を着るなんて、いったいどういうことでしょう。 ( 信仰深い人は別として )。多分体が 「お腹すいた〜」 って言っているのに ‥ 着ている神の子は 「食べちゃダメ。」 っていちいち耳元で言うのかもしれません。 あ〜。体の声( 自然の声)と文明の声 、どっちに従えばいいのか迷ってしまう〜。

人は裸 (自然の声) にキリスト (文明の声) を着たから 迷うようになって、 自然に沿って生きる知恵を失ってしまったのではないでしょうか。

文明に沿ってここまで生きてきた私。 自分が裸で生きるにはどうすればいいのか、道具なしで作る住処をどうやって作るのか、野生から直接食べる食べ物は何だったのか … さっぱり分からないのです ‥ 。

以上から考えると、エデンの園って、自然から隔離された人々が文明の知恵で育てられる訓練場のようなものではないかって思います。 自然を否定し文明に沿って生きる知恵を新たに学ぶ訓練場。周りを見渡せば ‥ 家庭も幼稚園も学校も会社も ‥ みんな文明の知恵で育てる訓練場のように思えてきます。
では、自然から隔離されエデンの園に入れられたアダムは、神にどんな訓練を受けたのでしょうか。

下の枠内を読んでみてください。


「あなた(アダム)は、園のどこの木からでも思いのまま食べてもよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時必ず死ぬ。(創世記2章26節)」

人は今まで‥森で自由になんでも取って食べて良かったはずなんです ‥ 。 自然は、生と死があって大きな命となっています。だから、「死」を怖がらせなくても良かったはずです。もし、シマウマに、ライオンに近づくと必ず死ぬと教えて、ライオンから遠くシマウマが離れてしまうと、ライオンは絶滅するのですから‥。

しかし、狭い檻の中に入れられたアダムは、怖くなったのです。なんにも考えずに本能にだけ沿って生きていたのアダムに対し、急に別の声が聞こえてくるようになったのですから。ついに、アダムは 「それ (善悪の知識の実) をとってたべるその時必ず死ぬ」 という言葉に恐れをなし不自由になってしまいました。 新しい神のルール ‥ 新しい神の法律によって。



 自然は全てを咎めない

「それ (善悪の知識の実) をとってたべるその時必ず死ぬ」 ということば、ほんとうに気になります 。 なぜなら、毒が入っているから ‥ 死ぬのか? それとも ‥ 神に従わなかった罰として死ぬのか?わからないからです。

もし食べると必ず死ぬような食べ物だとしたら ‥ 子供の手の届くところに普通置くでしょうか。 もし言うことを聞かないで食べたから罰で殺されるのだとしたら ‥ 神は絶対的支配者 だと言うことになります。

かつて自然にはとって食べてはいけない物はなかったし、従わなければならない絶対的支配者はいませんでした。 みんな本能に沿ってそれぞれが無意識に生きていればそれで良かったのですから ‥ 。しかしエデンの園にいる人々は、本能の赴くままにいきることはもう許されないのです。 神の声に従うという新たな訓練に耐えなければ殺されるのですから ‥ 。



 神(頂点に立つ者)の大切な家畜

神は、人間のことを「羊」とたとえています。 羊って古くから家畜として飼われていた生き物で、人懐っこくて飼いやすい生き物だそうです。 毛、皮、肉が利用できる無駄のない動物で家計の経済を豊かにするものであったらしいのです。 その羊に人間が例えられているのです。
                 
人は他の生き物と違って、文字や数字を習得し、神のことばのいいなり (奴隷のように) になれたから、神にとって人はどんな生き物よりも大切なものだったのかもしれません。



 家畜(羊)の運命

神は人を羊に例えているんですが ‥ 実際羊ってがどのように扱われていたか気になりますね。
( 羊にたとえられている人間にとって無関心ではいられません )


創世記9章「羊はほふられその血を家の左右の門柱と鴨居に塗られる。」
レビ記1章「(羊は)全焼のいけにえとして捧げられる。」
レビ記4章「(羊は)罪のためのいけにえとして捧げられる。」
レビ記22章「(羊は)和解のいけにえとして捧げられる。」

人々を許すためとは言え、どうして羊は神からこんな仕打ちを受けなければならないのでしょう。

羊は血を門と柱に血を塗るためにだけ殺されたり、灰になるまで燃やされるために殺されたり、誰かの罪の身代わりのために殺されたり、神と誰かが仲良くなるために殺されたり ‥ 。

以前ブッシュマンという映画を見たのですが ‥ その時ブッシュマンが家畜を盗むシーンがあります。 そしてブッシュマンは捕えられ牢屋に入れられるのです。 実を言うとブッシュマンは、所有を知らない人たちで、その動物が誰かの所有物だなんて想像することさえできなかったのです。 だから牢屋に入れられたブッシュマンは戸惑ったのです。 野生のカラスなんかも良く畑の作物を荒らすのですが ‥ 野生の生き物はブッシュマンと同じで 「所有」 ってことを知らないんです。 野生は皆そうです。 だから所有を知らなかった人に罪はなかったと思います。もし人に罪がなかったとするなら罪の身代わりに殺された羊ははいったい何だったのでしょう。 (「罠にかけられ罪人にされた人々」を参照。)

現在、どこもかしこも ‥ 誰かの所有地で ‥ そこへ勝手に入ってもいけないし、そこから何かを取ってもいけません。 私たちは、ちゃんとした教育を受けているので ‥ 「人の物をとってはいけない」 ってことを当たり前だと思っていますが ‥ 「所有」 という不自然な行為がなければ ‥ 自由にそこからとったことが 「盗み」 になることはありませんでした。

羊を全焼のいけにえにして … 全てを灰にするって ‥ 不自然です。 たとえば、羊が死んで ‥ 動物や鳥がその肉を食べ ‥ その残りを虫や爬虫類がその残りの肉を食べ ‥ そのあと菌やウイルスがその肉を食べ ‥ 命溢れた土になり ‥ その土が生き物の命となっていく ‥ 。本来私たちの体も自然と一つ。 だから人間の体も他の生き物に食べられて土に還ることが一番自然だったと思います。それなのに 「最近は人間だけでなく家畜やペット、残飯までもが焼却されています。」

※エデンの園のエデン (Eden) とは、ヘブライ語で 「喜び」 という意味です。エデンで喜んでいるのは、野生で自由気ままに生きていた生活を奪われた人間でしょうか? それとも、野生から人間を捕え所有し家畜 (奴隷) のように扱って自分好みに育て利益を得ている神なのでしょうか?


 補足

わたしはこう思うのです。 人はもともと自然の中で生活をしていたのですが ‥ (突然変異などで) 自然に沿っていくと生き伸びれそうにないアダムが文明という存在と出会ったのではないでしょうか。

そして (突然変異などで) 自然に沿っていくと生き伸びれそうにないアダムは、自然の声ではなく、文明の声を聞くようになって‥。 つまり自然から隔離された状態にアダムは置かれたのでしょう。 まるで自然から隔離され檻に入れられた家畜のように。 アダムこそ現在の文明をここまでリードしてきた人 (一部の白人たち) ‥ つまり世界の頂点に現在立っている人だと思います。

自然に沿って生きていけないアダムが神と出会ったことで … 自然に沿って生きていた人まで文明がないと生きていけないようにされ、そしてその人たちの頂点に立ったのですから ‥ 。

もし、 (アダムを含め) 全てが自然に沿っていくなら ‥ 自然の沿って生きる者たちが虐げられて生きることはなかったでしょう ‥ 。





3.




┃人は家畜として生まれ変わる




家畜は野生の本能に沿って生きる生き方を捨てて、飼い主に素直に従う生き物に新しく生まれ変わる必要があります。


私たち人間も、飼い主(神あるいは文明) に捕えられ家畜にされたのなら‥自然に沿った生き方を捨て、飼い主 (神あるいは文明) の考えに沿った生き方に生まれ変わらなければなりません。


 所有され財産にされた生きもの

自然の生き物は、誰かを所有したり所有されたりすることのない自由な世界で生きています。 ですから、狭い空間で誰かに所有され管理されることを嫌がります。 そして、それが長期になるとストレスを感じ仲間同士でも喧嘩が起り最悪の場合死んでしまう事 に… 。 なので、飼い主は、家畜が長期間狭いところでもストレスなく過ごせるよう新たなルールを教えなければなりません。 なぜなら ‥ 家畜は、飼い主の大切な財産だからです。

そこで飼い主は、囲いのある広い牧場につれて行き、牧草を食べさせ、水を飲ませ、そして運動させたり水浴びさせたりします。 それでも、他のものに噛みついたり傷つけたりするものには、鞭をもって教え飼い主の言う事をよく聞く者には、たくさんほめることで 「良い」 と言う事を教えます。 また、取り合いにならないよう 「待て」 ができるようしつけます。

このように本能を抑え、飼い主の新たなルールに従えるようしつけることが家畜を飼う場合必要なのです。 そのうえで一番大切なことは、飼い主が 「絶対的存在である」 という事を理解させ飼い主に 「絶対服従させる」よ うにしつけることが重要です。 家畜化された人間の誕生といえます。


 本能を文明のルールにすり替える/ モーセの十戒

ところで、神は囲いの中に捕えた私たち人間にどのようなルールを与え 「しつけ」 したのでしょう?神が与えたという律法(十戒 / 出エジプト20章)を参考に考えて見たいと思います。

1.わたしのほかに神があってはならない。

これは、支配者に対する疑いや迷いを禁止し … もし、それに従わなかった場合は、父の咎を子に報いると脅しています。 しかし、命令を守るものには恵みを千代まで施すと約束しています。 (アメと鞭のことばで人を縛りつけたのです。)

2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

これは、支配者になれなれしくしてはいけないことを命令しています。もし、そうした場合は、 「罰せずにはおかない」 と脅しています。

3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

これは、飼い主のお陰で生かされていることを覚え感謝することを強制され、仕事をするにも休むにも自由がありません。

4.あなたの父母を敬え。

両親を敬う事さえ強制されています。 しかも、従わない場合は、必ず殺されるとなっており、これでは心から敬っているのか、恐れで敬っているのか分かりません。

5.殺してはならない。

飼い主は、時が満ち家畜を殺すことがあっても … 飼い主にとって大切な財産である家畜を内輪もめで死なせるわけにはいかないということでしょうか。 もし、相手を死なせることがなくても、相手を傷つけた場合は、やはり罰せられなければなりません。

6.姦淫してはならない。

本能を完全に抑え込み神にのみ従う事を示しています。 性的なことは、自然の世界では、本能に沿って行われておりとやかく他人に言われるものではなかったはずです。 しかも、自然の生き物は 「姦淫」 という意味さえわからないのです。

7.盗んではならない。

盗むも何も、自然は全てで一つの世界で、人間もその自然の中にいました。 ですから、だれも所有していないのですから、いつでも、どこでも、どれだけでも好きなだけ取って良かったのです。 自然は全てで一つの命なのですから 「盗んだ」 という概念さえありません。 自然の生き物は皆そうです。 しかし、誰かに支配された家畜や人間は例外です。 もし、神が自然から人間を盗み家畜同様に扱かっているとしたら … 神こそドロボーと言うことにならないでしょうか?

8.隣人に関して偽証してはならない。

自然には法律がありませんでした。 ですから、罪もなければ嘘の証言などあるはずもありません。 しかし、ことばの世界は別です。 法律があり、それによって裁かれます。 法律のない自然の世界のほうがホッとできる世界だと思います。もし、神が罪のない人間を罠にかけ罪人扱いをしたのであれば、神こそ嘘の証言をしたと言えないでしょうか。

9.隣人の妻を欲してはならない。 10.隣人の財産を欲してはならない。

もし、神が自然から全てを盗んだとしたら …。 こんなこと人間に言えるのでしょうか?
「十戒」 は、羊のためと言うより、神にとって都合のいいルールと言えます。


 ルール(法)に則って戦う生きものにされた

補足として、 「法」 という漢字の意味をしらべてみました。 「法」 とは、 『池の中の島に馬のような鹿のような珍獣 (馬鹿) を押しこめ外に出れないようにしさま。』 で 『珍獣は、その枠の中では自由だが、その枠の外には出られない。』 という意味だそうです。

「馬のような鹿のような珍獣」 = 「馬鹿(バカ)」 とは
”馬のように負けん気を持って帝位 (鹿) を求める生物のこと” で 「人間のこと」 ‥だそうです。

ちなみに、帝位とは、皇帝の位ことで 、「諸王を超越する王の称号」 のことです。 つまり 「法」 とは、 「帝位のために張り合う馬鹿な人間を池の中の島に押し込めて出れないようにしたさま。」 と解釈できます。 神の家畜である人間に与えられた 「法(ルール)」 は、こんな意味があったのですね。


「法(ルール)」=「帝位のために張り合う馬鹿な人間を押し込こんだ島」

私たちは、自然から隔離された生活を送り、それがすっかり当たり前のようになっていますが。 改めて私たちの生活を振り返ってみると ‥ スポーツも芸術も政治も経済も、そして仕事も遊びも宗教までもが競争だと気づかされます。たとえば受験。 どんなに勉強をしても必ず落とされる人が ‥。 それは、全ての人を入れるスペースがないからです。 この世は全てイス取りゲームのような仕組になっています。 ですから、ほとんどの人がその椅子をめがけ躍起になります。

しかし、その一方で、競争に無関心な少数派の人々もいます。 このような人たちを競争心の激しい人たちは、たいてい馬鹿にしたり見下したりします。そして、馬鹿にされた人はその人たちを見返そうとして、彼らも本当の意味の 「馬鹿」 の仲間になってしまいます。 そうなると、飼い主 (神あるいは文明) の望みである文明を発達させるのに役立つ家畜へと成長していくのです。

ところで宗教は、競争なんかして張り合ったりしていないと思っている方もいらっしゃるでしょう。 しかしそうでもありません。下記を読んでもらえば分かります。

T 聖書にも帝位を求めている個所があります。 下記の聖書の個所を読んでみてください。
パウロのことば
わたしは…この一事に励んでいます。後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリストイエスにおいて上に召してくださる 神の栄冠 を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。 (新約聖書ピリピ3章13〜14節)

この聖書のことばから、帝位を目指しているのがわかります。

U 聖書は競争を勧めていまる個所があります。 下記の聖書を読んでみてください。
パウロのことば
私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

この聖書のことばから、負けん気を出すように勧められています。
また、黙示録を見てください。

勝利を得るものに、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。(黙示録2:7)

勝利を得るものは、決して第二の死によって損なわれることはない。 (黙示録2:11)

このように、 勝利 した人にご褒美が用意されています。聖書の中にはモチベーションを上げるためのことばが続いています。また、その他の聖書の個所を読んでみても、使徒たちがお互い競争しているのがわかります。 たとえば、ヨハネの福音書を読むといたるところでヨハネが自分のことを 「もっとも愛された弟子」 と何度も言っています。

また、イエス様がよみがえった日の朝ヨハネは、ペテロと墓まで競争しました。 走りが早かったヨハネは墓に先につきました。 墓の中に入るのは後から来たペテロでした。 そんなどうでもいい記事がさりげなく書かれているのです。 そして、神の右の座を求めていたヨハネは、最後の晩餐のとき 「イエス様の右隣りに座っていた」 というどうでもいい記事を書きくわえているのです。

無限の世界は、数字や文字であらわせない世界です。 ですから無限の世界には 「もっとも」 とか 「すぐれた」 とかいう相対的なことばも当然ありません。 すべてが無限で等しいので競う必要がありません。

神の世界が、無限の世界と一致していないから、相対的なことばかり言って競わせるのです。 自然の生き物で、勝ち負けを気にする生き物はいません。 気にするのは誰かに支配された家畜だけです。 なぜなら勝利したものを優遇するからです。



                                                  


4.


┃管理される人間



↑ディズニーシー: 文明の知恵でできたものは、文明の知恵で管理せねばならない


有名な 「迷える子羊のたとえばなし」 。 この物語を通して、生き物が管理されたり支配されることが自然に沿っているのかどうか考えてみたいと思います。

もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しにでかけないでしょうか。 そして、もしいたとなれば、まことに、あなた方に告げます。 その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。 ( 聖書:マタイ18章12、13節 )

上記の聖書のたとえ話は … 迷い出た羊を、神が九十九匹を山に置いてでも必死に捜し出して… 安全な柵に入れて守り、日ごとの糧を与えてくださる … という内容の感動的なたとえ話です。


 人間は羊、神は私たちの飼い主。なぜ?

しかし、よくよく読んでみると、府に落ちないことがあります。 それは、どうしてたとえが … 「神=羊飼い」 で 「わたしが=羊」 なのでしょうか?

羊だって、品種改良されていなければ、人の手で飼われるより自由に自然の中で生きるほうがいいと思うのです。 もし、神が自然そのものなら、私たち人間を不自然にされた家畜である羊にたとえないと思います。 しかし、神はあえて家畜にされた羊をたとえにしています。 普通、羊飼いは、羊の毛を刈り、最後にはその肉を食べます。 また、羊の毛や肉を売って商売した場合、飼い主の儲けや財産になるのではないでしょうか?

羊がどんなに羊飼いに大切にされていても … 羊飼いが愛しているのは羊ではなく羊の価値そのものではないでしょうか?

旧約聖書 (イザヤ43:4) で … 神が人間に対して「あなたは高価で尊い。」 (イザヤ43:4) と言ったことばを思い出します。 自然の世界は、無限で全てで一つの命でした。 だから、価値が高いとか低いがありません。 それなのに、神は、それぞれに価値を持たせ…その上で人に 「高価で尊い」 と言うのですから … 。 羊飼いにとって羊がどの生き物よりも利用価値があるように、神にとって人がどの生き物よりも利用価値があったということなのではないでしょうか。


 守るためではなく、逃がさないため

もし神と自然が一つであるなら … 家畜にされた羊をよしとして平気で家畜としての羊を 「たとえ話」 に使うでしょうか? 羊を柵の中に入れるのはオオカミなどから守るためと説明していますが … 。 本当はどうでしょうか?

自然では、生き物は「生と死」があって初めて、全てで一つになった自然の命があります。 なのに、野生から生き物囲いの中に入れて他の生き物から隔離することは、野生の生き物から食べ物を奪うことになるし、隔離された生き物にとっては自由を奪われたことになるのです。 神は、羊をオオカミから守っていると言いながら自然を破壊しているのです。 なんてことでしょうか!!

今の文明と同じでは有りませんか。 「洗剤」 も 「農薬」 も 「ワクチン」 もみんな私たちを守ると言いながら、自然を不自然に変え破壊しているのですから … 。

柵は、家畜を外敵から守る他に、家畜が逃げないためのものでもあるはずです。 そうだとしたら、飼い主は迷った羊を連れ戻しに行ったのではなく逃げ出した羊を連れ戻したに行ったのではないでしょうか? 羊飼いが羊が帰って来たのを喜ぶのは、羊を愛していたからではなく高価で貴い財産だからではないでしょうか?


 数を数える

なぜ、飼い主は羊の数を数えるのか?それは、羊飼いが羊を管理しているからです。 今でも家畜は、名前をつけられたり、体に番号や記号を書かれたりします。 しかし自然の生き物には、名前もなく記号も番号などの数字もありません。 だれも所有したり管理しないからです。

神が私たちを羊にたとえるのだとするなら … やはり私たち人間も、家畜同様数字で管理りされているのでは … ないでしょうか? 私たちが、国籍や戸籍で管理されていますがこれこそ、神と言う文明 … つまり … 文明社会から逃げられないためのものではないでしょうか? 私たち人間は、神ということばに所有され管理されていると言えると思います。



 生態系を崩す家畜制度

もし、羊飼いが羊を飼っていのちを守るというのが正しいのであるなら … 愛ある神は、虫を鳥から守るため柵に入れないといけないし、鳥もその他の生き物から守るため柵にいれないといけません。 もし神が、全ての生き物を愛しているのなら … 種類ごとに柵の中にいれ守らなければならないでしょう。 そうした場合生き物の食料には何を与えるのでしょうか? 神の加工した食品を与えるのでしょうか?

聖書 (イザヤ11章) では、将来 「ライオンも草を食べるようになる」 と書いてありますが … 。 もしかしたら近い将来、文明の発達により、すべての生き物が草を食べるように創り変えることができるかもしれません。 しかし、それは、さらに不調和な世界を展開していっただけにすぎないと思います。



 管理は自然破壊である

創世記1章26節に 「神は 、『 …彼ら (人) に、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。 』 と仰せられた。 」 とあります。

自然は、無限の世界でした。文字や数字で表せない世界です。 そして、全てで一つの世界でした。 その世界は、だれからも管理される必要がありません。 本能という無限の声に沿って生きているだけで全てが調和します。だから、自然の世界は誰かが管理することで生態系は崩れていきます。

それなのに神は、こんなわかりきったことを、人にさせたのです。神の言葉通り、人が自然を所有し管理した結果海が川が土が汚染され森が破壊され、生き物の環境の調和が保てなくなっています。そのため人は、生き物を増やしたり駆除したり数字で計算して調節しています。

生き物を管理する数字!!! 神の与える数字っていったい何なんでしょう? 調和した自然を破壊するだけではありませんか? 飼い主は、時が来ると … 家畜を食べます。 神はこのようにして自然そのものを食べ尽くすつもりでしょうか。



brand:ブランドとは
これは「商標、銘柄」という意味です。もともとは家畜の牛に焼印をおして、牛見分けるための印として使っていたものです。






5.


┃戦う家畜たち@



↑自由に‥大空を飛ぶとんび


昔から戦うための家畜がいました。 闘鶏、闘犬、闘牛たち … です。飼い主は、 「家畜たちは、戦う事で日ごろのストレスを発散しているんです。 だから良いんですよ。」 って言うかもしれません。 しかし … 自然の生き物を柵の中に閉じ込めて、ストレスをためさせて、そしてそれを利用して戦わせるとはどう言うことでしょうか!!闘鶏などの家畜がやりたくもない戦いを必死で戦おうとするのは ‥。 思いっきり体を動かすことを許されず、唯一体を動かす時が 戦う時だからです。しかも逃げ場がない状況で戦わなければなりません。必死に戦わざるを得ない状況とも言えます。

飼い主は家畜をどう扱うか?
1. 動物を自然から隔離し ‥ 手塩にかけて大切に育てる。
2. にもかかわらず、人々にお金を賭けさせて、家畜を血みどろになるまで戦わせることもいとわない。
3. その光景を見て喜ぶ観客。その観客をみて、喜ぶ飼い主。 ( 生活がそれで潤うのだから‥ )

さて、聖書でも戦いを勧めていることを知っていますか? 次の聖書の個所を読んでみてください。


悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。 私たちの格闘は、血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように神のすべての武具をとりなさい。 ( エペソ6章10〜13節 )

このように、家畜にされた生き物はいつの間にか兵士にされ戦うようにされていくのです。 弱く造られた人間が、どうして悪魔と戦わなくはならないのでしょう? 神は悪魔を最強に造ったのではなかったでしょうか? ヨブ記41章33,34節 に悪魔のことをこう書いてあります。

「地の上には、これと似たものはなく、恐れを知らないものとして造られた。 それは、すべて高いものを見おろし、それは、すべての誇り高い獣の王である。」 ( ヨブ記41章33,34節 )

そして、神が私たちのために調達した武具は … 何だと思いますか? 新約聖書 エペソ6章14節 には 「真理の帯。 正義の胸当て。 平和という履物。 信仰の大盾。 救いの兜。 神の言葉という剣。 」 と言うふうに書いてあります。

よく考えてみてください。 全ての武具が目に見えません。 敵も見えなければ武具も見えません。見えない武具を着けて、見えない敵と戦う。 それも、誇り高い獣の王と。 これが、命をかけて人々を守ると約束した神のすることでしょうか?

敵は本当にいるのか? いないのか? それさえ確認できない。 そんな戦いを戦えって‥?
( アメリカのニューヨークで起きた9.11の際、当時大統領だったブッシュ大統領はしきりに 「見えない敵と戦う」 というようなことを言っていました。 )

盲滅法で戦えなんて‥!? そんな理不尽なことに私たちは、少しの疑問も持つことなく、素直に戦おうとします。 それは、私たちが自然から隔離され文明 (あるいは神) に頼り切って歩んできたからだと思います。 文明に頼った結果 ‥ 野生で生きる知恵を全く失ってしまい ‥ 自然で生きていけないから ‥ ( 例え戦いたくなくても ) 飼い主の言うことを信頼する他ないのかもしれません。


もし、自然が無限なら ‥ 生も死も同じ命の中の出来事に過ぎず、救われる必要さえありません。 なぜなら、内も外もない無限の世界にいて何一つ失われるものなんて何もないのですから。 だから命を賭けて闘う意味もないと言えます。 野生の生き物は、戦う時は戦う ‥ でも逃げたい時は逃げます。

しかし、神は逃げ場をなくしたうえで敢えてそうさせるのですから、神が自然と一致していないのは明らかではないでしょうか?


↓「戦う家畜たちA」に続く




6.


┃戦う家畜たちA



↑野生では、無駄に戦ったりしない ( 戦うこともあるが、戦い続ける必要はない。 逃げたければ、逃げてもいい )

戦うための家畜は飼い主のために頑張って最後まで「敵」と戦わなければなりません。 「逃げる」 という選択肢はないのです。なのに‥どうして家畜は喜んで飼い主のために戦うようになるのでしょうか? それは勝利した時に、ご褒美があるからです。 このご褒美でモチベーションを上げていると言っていいと思います。 ( 飼い主は、家畜の食糧や水を全て支配しているため、ご褒美の効果は抜群 )

聖書にも、最後まで耐え忍び勝利をしたものにご褒美があります。 それは、次のようなものです。



 勝利する者への報酬

戦いに勝利すると神からご褒美が送られます。そのご褒美とは、いったいどんなものなのでしょう。神から与えられるご褒美には次のようなものがあります。

@命の木の実が食べられる
A人々支配する権威が与えられる
B第二の死で損なわれない
C神の聖所の柱とされ、決して外に出られない
D隠れたマナを与えられる
E命の書から名前を消されることがない
F父(神)の座につかせる
G土の器を打ち砕く鉄の杖を与える‥などです。(黙示録2章、3章を読んでみてください)

だから多くの人は、褒美のために頑張って戦うのでしょう。 しかし、当初神の約束は、羊を休ませると言っていなかったでしょうか?

事実聖書には、 「疲れたもの重荷を負うものは、誰でも私のもとに来なさい。 休ませてあげよう。
( マタイ11:28 )」 と言う言葉があるのです。しかし、その言葉に甘えて休んでいたら、たぶん戦いに勝利できないし、ご褒美がもらえません。つまり「休ませてあげよう」という言葉は、気休め程度の言葉で、本心から出た言葉ではないのです。もし、本当に休ませてあげたいのなら、ご褒美など与えないで自由にさせておけばいいのですから。しかし、人々はこのご褒美のために、生きている間戦い続けなければならないのです。 ( 無条件に神の恵みに預かることなんてありません。 )しかも、ご褒美が … 聖所の柱。 そして外には決して出れない なんて、 身動きのできない家畜以上に厳しい。

それから
土の器を打ち砕く鉄の杖 ???? 他の生き物をこれで叩くのでしょうか? いや ‥ 土でできた自然そのものを破壊していくのではないでしょうか?

以前、ピクミンというゲームの主題歌で 「 愛のうた 」 というのがありました。 下記にピクミンの歌詞を書いておきますので参考にしてください。


♪ 引っこ抜かれて、あなただけについて行く … 今日も運ぶ、戦う、増える、そして食べられる。 ほったかされて、また会って、投げられて … でも私たちあたなに従い尽くします。 そろそろ遊んじゃおうかな … そっと出かけてみようかなーんて … あーあーあの空 に… 恋とかしながら …。 いろんな生命が生きているこの星で、今日も運ぶ、戦う、増える、そして食べられる。 ♪

戦士となった家畜にとって、最後まで忍耐しご褒美をもらうまでは、重荷をおろして憩えるときはなさそうです。 しかも、家畜の最後は 「食べられる〜♪ 」 なのですから…。 ( 私たちすべてのものを支配するこの世界の頂点に立たされた者も結局、文明に食べられるって事でしょうか? ) それなのに‥それを喜びながら歌っているのですから ‥ 切ないです。 今わたしは ‥ 地球上の生き物が全て家畜化され自然が全滅することがないように願っています。

◆たとえ文明 (神という存在) が無限である自然を破壊尽しても、 「無限である自然は決して失われることはない」と確信していますが‥。






7.


┃家畜にされていく人々



↑ソメイヨシノ ( 花と葉を一緒につけてしまい花見に向かない自然の桜を 品種改良。 種で増える事が出来ない桜。 )


8千年以上も昔から、家畜とされた羊。 人間に飼われる前は、季節ごとに自ら毛が生え変わっていた。 人間によって家畜化されてからは、より多くの羊毛がとれるように品種改良をされ、その結果 ‥ 毛が季節ごとに生え変わるという生態が失われてしまった。現在、羊の毛は人の手を借りて毛を刈り取らないと際限なく毛が伸び続けます。 今や、羊は人間なしに生きていけない動物と言えます。



 伸び続ける髪の毛

人は、裸でも、火がなくても、ことばがなくても、アフリカの森だったら、生きていけるのではないかって思います。しかし、私が疑問に思うのは、伸び続ける髪の毛です。わたしは、自分もアフリカのような野生で生活したい。そんな憧れを持つのですが、どうしても伸び続ける髪の毛に疑問を感じるのです。

こんな髪の毛だったら…野生でどのように生きていけばよいのだろうかと … 。ハサミがないのに。まるで、品種改良された羊のようです。もしかして??? 人間も、羊と同じように長い歴史の中で作り変えられたのでしょうか?多分、人間の原種もきっと、髪の毛を切る必要などなかったのだと思います。そこで、人間で髪を切らなくても済む人たちはいるのか調べてみました … 。

調べてみたところ「黒人」の人たちは、髪の毛を切らなくて済むということが分かってきました。 それで続けて人間の優性遺伝を調べてみました。それで分かったことは … 目の色は、黒が優性で、青が劣性。 髪の色は、黒が優性で、金が劣性。 耳垢は湿っているのが優性で、乾燥しているのが劣性。 瞼は、二重が優性で、一重は劣性。 髪の毛は、カールが優性で、直毛は劣性。と いう事だそうです。



↑動画:野生で生きる知恵


以上から、 「黒人」 こそ私たち人間の本来の体ということにならないでしょうか? ブッシュマンが、20世紀後半まで自然のままの生き方ができたのも人間の本来の姿にもっとも近かったからだと言えます。もし、私たちの生活から文明を取り去っても、彼らは野生の中でしっかりと生きていけるのではないかと思われます。

たとえば、服がなくても、電気や水道がなくても、火や道具がなくても、もちろんお金がなくても … 。(しかし、ブッシュマンが一度文明に取り込まれ、文明の中で育ったブッシュマン2世となると‥話は全然違いますが‥)



 文明の助けは自然を不調和にする

たとえば、白い肌の人が突然、黒人から生まれたとします。 そして、この白い肌の人が黒人と結婚すれば …。当然優勢遺伝の黒い肌の子が生まれます。ですから自然の世界では、白色の肌の固定種である白人を作ることは不可能だったのではないでしょうか? ( 劣性遺伝は隠れて伝えられるのですが ) 現在、白人は世界人口の3割を占めるとか! ( はっきりしたデーターは分かりませんが ) 文明がなければ絶対あり得ない数字だと言えます。

白人と言うあり得ない突然変異の固定種ができた背景には …

( 多分、6000年から10000年まえごろ ) 白い肌の人たちに文明の知恵と思われる存在との接触があって … そして、固定種になるような何らかの出来事があったのではないでしょうか? 彼らが、文明と出会って文明の知恵に助けられたことが自然を不自然にしてしまったと言えます。今や、原種である黒人はお金をかけて縮れた髪の毛をストレートにするパーマをあてたりしています。 なんてことでしょうか。

「 ブッシュマン」 という呼び名が、差別用語と言うことで映画の名前が 「コイサンマン」 と途中で変更されたいきさつがありました。

「ブッシュマン」 という題名を途中で変更させたのは、その題名で記憶した人々に混乱を起こさせ、なるべくブッシュマンを思い出させないようにしようとしたのではないでしょうか? なぜなら、
お金で支配している人々にとって、一番怖いのは ‥ 全ての人が野生に還ってしまうことだからです。 お金に頂点に立った人々は、野生に還った人々をお金で縛ることはできないからです。 ( 野生では、お金が要らないのですから‥ )

劣勢遺伝子を持った人々は、文明の助けなしに生きていけません。 髪の毛が伸びるから、ハサミがいる。皮膚が光に弱いから、服が必要。 彼らがもし、自然に沿って生きていたら一代限りで終わっていたはずです。

しかし、彼らは文明と出会うことで ‥ 自然の営みから外れても文明に助けられ生きながらえることを選んだのです。 それは、地球に火を投じたいと願う神にとって都合が良かったのです。 ( 聖書に神は地上に火を投じるために来たと言っているのです。 )

彼らは、地球の命を全て失っても自分たちの命を永らえるなら良しと考えたのです。そして、文明なしに生きていける人々 ( 原種:黒人 ) まで、文明なしでは生きていけないようにしたのです。それは ‥ 彼ら (黒人) をお金の虜にし、自然を破壊する道具にすることによって ‥。 彼らは自然の中でお金なしに自由に生きていたのに ‥。 彼らは、 「自由」 と 「自由を与えてくれた自然」 の両方を失ってしまったのです。

それは、神と手を組んだ人々により、劣性遺伝子を持った人々を 「人種差別」 したり 「戦争」 や 「暴動」 や 「略奪」 などにより ‥ 執拗に迫害し続けたからです。

ここまで自然破壊が進み、優勢遺伝子を持たない人々ばかりになり ‥ ほとんどの人が、文明なしに生きていくことができません。少数の劣性遺伝を持った人が文明の虜にされてから 6000年 以上たって ‥ 今や何と ‥ 地球に住む全ての人が文明の虜にされてしまったのです。

なんてことでしょう。 今や優勢遺伝子を持っている人も、持っていない人も 「差」 がなくなりました。 なぜなら、還るべき野生はどこにもないのですから ‥。

( もしかしたら ‥ 「まだ、森はある。」 と言う方がいるかもしれません。 しかし、そのほとんどが 〜 国立公園とか 〜 保護区となっていて、誰かの所有物になっているのです。つまり、地球全体が家畜小屋になったと言えるのかもしれません。

( もし、私たちが自然をほったらかしにできたら ‥ 自分という存在も含めてそうできたら ‥ 自然は勝手にもとの姿に戻ることでしょう。それが自然であり、無限なのですから ‥ )

黒人の夫婦から白い肌の子どもが生まれた←クリック





8.


┃人間の最後と家畜の最後




↑牛舎ではなく広々とした原っぱ。 でも牛にはロープ。 最後は処刑。なんてことでしょう。 自然のままに生き自然のままに死ぬ牛は全くいなくなったのですから‥。

家畜農家が愛した家畜は最後 ‥ 売られ、殺され ‥ 料理されます。たとえば、英語では、チョコレートが好きという時に「LOVE(愛している)」という言葉を使います。つまり、チョコレートを食べたときに美味しいから「LOVE」を使うんだと思います。事実、家畜農家の人が、家畜を家族のように愛していますというのをよく聞きます。家畜農家の人にとって、たとえば牛を飼っても、0円の価値しかなかったら、家族のように育てたりしないと思います。高く売れて、その儲けたお金で、美味しいものが食べられるから「愛している」んだと思います。

結局、愛は所有を意味し、所有されることは、食べられる事と同じだとわたしは思います‥。では、これらを踏まえて以下を読んでみたください。


 囲い

家畜は、外敵から守ると同時に、逃げ出すことがないように囲いの中に入れられます。 人間も家畜と同じように家庭、学校、会社、病院、老人ホームという囲いの中に入れられ … 死んだら骨は、お墓と言う囲いの中に …。 そして魂は天国や地獄という囲いの中へ。


 園(その)

( 前回も園について書いたので、どうしようかと迷いながら ‥ おさらいの意味も込めて ‥ 園について書きました。 )

エデンの園も同じように、外敵から人間を守ると同時に逃げないように周りを囲っていたのではないかと私は思うのです。 なぜなら 「園」 という意味が 「周りを垣などで囲った畑や家」 と言う意味だからです。

では、エデンを囲う柵とはいったい何だったのでしょうか?… あくまでも、私の考えですが …。 「神のことば (法律・決まり) 」 ではないかと思っています。なぜなら 「園」 と言う字には 「ゆったりと体を囲む衣」 という意味があるからです。 (漢字源)
な 「 衣 = 言葉 」 と訳したかと言う と…。 キリストは自分を 「 言葉 」 といい、自分自身のことを 「 神の義の衣 」 とも言っているからです。つまり、人類が言葉に出会った初めのころは …、 比較的ゆるやかな決まりや法律で囲われていたのではないでしょうか?


しかし、初めはゆったりとした法律 ( 神の義の衣 ) も、時代とともに … だんだんと厳しくなってきていると思いませんか? 戦前や戦後直後ぐらいまでは、自由に山や川や海で食べ物を取っていました。 しかし、文明は海や川や大地を汚染して、絶滅する生き物を増やしたうえで … 自然を守るためという口実を作り私たちを海や山に行って自由に食べ物を取ることを禁じています。 ( 期限付きで許されていますが )

もし、自然を元の状態にしたいのであれば ‥ 。 生き物 (植物も含め) を売り買いを止める方向へ持っていかなくてはならないと思います。 そして、直接野や山や海に行って食べ物を自分で取って食べるようにしないといけないと思います。

しかし、私たちが進めてきた文明は、進めることはできても‥後戻りができないほど、複雑になってしまいました。戦後直後は、土地のない人は ‥ その辺の空き地に小屋を作り、野菜を植えて生きていけました。 しかし、今は ‥ その辺の空き地に小屋なんかを作ると 法律違反 とか言って 撤去 されるでしょうし、その辺の空き地に野菜なんか植えると、ここは ○○ の土地だからダメだって言われるでしょう。

現代の人々は、お金を持っていれば自由に食べ物を得られますが … お金がなければ、たとえ元気であっても死ぬ他ありません。今や私たちは、文明の知恵で作った法律によって完全に身動きできなくなったのではないでしょうか?このようにことばで、がんじがらめになった状態を英語で
スペルバンド と言うそうです。

キリストの十字架が、地面に垂直に建てられたのは、地球を言葉 (スペル) という法律で縦と横とに張り巡らし、人々を 「がんじがらめ (バンド) 」 にするという 象徴 だと、わたしは考えています。現に人は 「本能」 と 「それに反する文明の法律」 の二つで 身動き が取れなくなっています。


魚が網に捕えられ地上にすくわれるように、地球の全てが 神の愛のことば という網に捕えられすくわれると言うことなのかもしれません。 魚の最後。 家畜の最後。 そして ‥ 人間の最後 ‥。



 名前は常に孤独な一人称

アダム ( Adam ) は 「 Ad ( 完成、開始、変化 ) 」 + 「 am ( 一人称 ) 」 ⇒つまり、アダムは名前を付けられ「わたしを意識した人の始まり 」または、「自然から隔離された孤独な生きものの完成品」 と言えます。 そして ”アダム” と名前で呼ばれるたびにアダムは、孤立と孤独感を味わったのではないでしょうか? なぜなら名前は常に、 一人を意識 させるからです。 神は名前のない人々に名前をつけさせ 孤独なものに変えたのではないかと思います。


 名前は所有を表す

名前は 所有者が自分のものであるということを示すために付ける烙印 ( マーク ) のようなもの。 野生の生き物は言葉がないため 「所有」 という概念さえありません。 だから全てで一つという自然の世界には、支配者は存在しないし、名前で呼ぶ者もいないのだと思います。

名前で呼ばれたアダムは孤独でした。 そして、その後名前を付けられた人々は、やはり孤独です。 ですからどんなに沢山人がいても、名前を付けられた人々は、孤独の塊でしかありません。 ですから、人は、一人の時も、沢山の人がいるところでも … 常にことばを話し ‥ 文字を書き ‥ お互いその孤独を埋めあっているのではないかと思います。 しかし 「人を孤独に導く他ない言葉」 で、私たちの孤独を埋めるなんて … 不可能。



 愛とは腹いっぱいたべること

そこで 「愛」 という漢字を漢字源で調べてみました: すると愛は … 「 心 + 夂 + 旡 」 になります。
そして、それぞれの意味ですが …。
心は 「 心臓のことで体の隅々までいきわたらせるという意味 」
夂は 「 足を描いたもので、行き悩んで足が遅れるという意味 」
旡は 「 腹がいっぱいになって、ため息をつくさまを描いたもので食べつくすという意味 」 です。
つまり、愛とは: 食べて栄養がからだの隅々までいきわたり、歩けないほど腹いっぱいになっている状態と分かります。

一言で言うと … 。
愛とは = 腹いっぱいたべる … という意味だと言えませんか?   

★「腹いっぱい」と言うのが、愛の本当の意味だとしたら…神の前夜祭に招かれた私たちの行く末がどうなるのでしょうか?

ちなみに … 英語で、 「チョコレートが好き」 と言う時 「love」 を使います。 I love chocolate. というように。 つまり英語でもlove (愛) は 「 (食べるのが) 好き 」 という意味で 「食べる」 ことと関係しています。



 前夜祭(Eve イブ)に食べられる生きもの

イブ (Eve) .それは、前夜祭。 前日と言う意味。 お祝いの前日、私たちは家畜を食べます。 つまり、イブは私たち人間を神の大切な日の前夜祭に招くためアダムと出会ったのかもしれません。 ダビデ王は 「主は、私の羊飼い … 」 と自分を羊 (家畜) と表現しています。 人は神の大切な日の前夜祭に家畜として招かれているのではないでしょうか? もしそうだとしたら、私たちは、その前夜祭のテーブルの椅子につくのでしょうか、それともテーブルの上の皿に載せられるのでしょうか?

騙された国民

@金の卵ともてはやされたのに…
A鶏小屋なみの狭い団地に住まわせられ
Bお金で縛られ
C忠実に働かされ
D絶対に首は切らないという当初の約束を忘れられ
Eあっけなく首を切られた

http://www.j-cast.com/2012/07/09138732.html?p=all%20%E2%80%A6

つまり…
国民はお金を産むたまご大切に育て会社で働かせ不要になったら処分



 神は全ての生き物を草食動物に造った??

聖書(下記の枠内)には‥人間と全ての生きものが草だけを食べるように神によって造られたと書いています。

神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空の全ての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える。」(神がそう言うと‥)そのようになった。(創世記11章29〜30節

確かに、人間も含め生き物全てが草を食べていたなら‥猛獣に食べられる恐怖心もなければ、食べるときの心の痛みもありません。しかし、シマウマを食べて満足するライオンはいても、シマウマを食べて罪にさいなまれるライオンはいません。死体を食べて満足する小動物や微生物はいても、その行為に悩む小動物や微生物はいません。悩むのは、「言葉」を知った人間だけです。なぜなら、言葉は、本能を軽蔑し、時には法で取り締まり罰を与え、自由を与えないからです。

自然は、本能に沿って生きるものを否定しません。もちろん人間が本能に沿って生きてOKな場所です。なのに、人間は100%安心して本能に従うことができません。それは、人間だけが、本能を否定する言葉に従っているからです。なぜなら、本能に任せに生きると‥罰せられてしまう仕組みを文明の知恵によって作ってしまったからです。

例えば、おしっこは、したい時にどこにしても良かったはずです。しかし、今では‥おしっこができる茂みはなく‥それを吸いこんでくれる大地やそれを養分として育つ植物がありません。だから、その辺におしっこをすると‥臭いがするし、近所迷惑となり‥取り締まる必要が出てくるわけです。

木々を伐採して宅地にして、生き物を排除して‥生きて生きにくくなったら、法律を作って取り締まる。こんなことをするから、自然はどんどん破壊されていくし、法によって自由が奪われていくのだと思います。

つまり‥き物は全て、丸い地球の大地にいて誰にも管理されず、本能任せに生きています。食べたいものを食べたいだけ何も考えず本能任せに食べていいのです。そうすれば、フィットネスクラブに通わなくても体型はスマートだし、学校に行かなくても‥一人前になれます。また、文明で焼かれる死体やゴミ。これらも生き物がそれぞれ、食べると言うだけで、きれいになります。文明がなく自然本来なら‥食べたり食べられたり‥これだけで、自然は見事に調和しているのです。すごいと思いませんか。

これは、死も生も命であり、その命が全体の命になっているからではないでしょうか。なのに‥神は、これを見て失敗と考えたり、罪の結果と考えるのですから…不思議で仕方ありません。



 将来、生き物は同じ食い物を共にする

聖書(下記の枠内)には、将来‥生き物は同じものを食べるようになると書いてあります。

オオカミは子羊とともにやどり、ヒョウは子ヤギと共に伏し、子牛、若獅子、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、獅子は牛のように藁を食らい、乳飲み子は毒へびのほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らは我が聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、破ることがない。水が海を覆っているように、主を知る知識が地に満ちるからである。(イザヤ11章6節〜9節)

確かに、犬はドックフード、猫はキャットフード‥と生きものたちは、人間が造った加工食品を食べるようになってきました。そして、種を超えた生き物たちが同じ室内で飼われ‥仲良く遊んでいるのをテレビなどで見ることが多くなってきました。聖書に書かれてある通りの世界が造りあげられていっているようです。

先日は、ライオンが飼い主と楽しそうにボール遊びをしているのをテレビで見ました。それは、まるで文明に捕らわれた人間が、自然から直接食料を得る方法を忘れ、ボール遊びに興じているのに似ていると複雑な思いになりました。

一見楽しそうにも見えましたが‥、自然を忘れ、本能を忘れ‥飼い主が与える食べ物を食べなければ生きていけない世界です。飼い主が餌をやり忘れたり、機嫌を損ねて餌を上げ無くなったら、死活問題です。つまり、飼い主の機嫌を損ねないように生きていかなければなりません。なぜなら、飼い主なしに生きてはいけない世界に追い込まれたからです。

こらが、私たちが本当に求めていた世界なのでしょうか?



 まとめ

自然は食べたり、食べれたり。 それで調和し ‥ 自然そのものの命が保たれています。 しかし、一つの枠 (家畜小屋) の中に生き物を閉じ込めるとどうなるでしょう?

たとえば 「牛」。

牛のウンチを食べる生きもの。 牛の血を吸う生き物。 牛につく虫を食べる生き物。 牛そのものを食べる生き物。 牛の死がいを食べる生き物。 牛一頭と関わる生き物は無限なのです。だから自然の世界の生き物を、家畜として飼育することが多くの生き物と引き離してしまい、どれほど自然の調和を乱すかが分かります。

聖書を大ざっぱに解釈すると ‥。 神が人間を家畜に置き換えて考え展開していく内容だと思うのです。

もし野生しか知らない人間に ‥神が突然 「私はあなたの羊飼い」 と言ってもチンプンカンプンなのです。 文明にしかない 「家畜制度」 を知ってやっと理解できるのですから ‥。 聖書は文明の基本。 つまり文明の土台の本と言えると思います。

★神が自然の創世者といいつつ家畜制度を肯定するのであれ ‥。 神は、自然の調和を乱しに来たと言ってもいいのではないでしょうか?







9.


┃家畜にされた私の人生



          ↑家畜になった鶏もきっとこのように生きていく方が幸せだって思います。 /木に止まった鶏)


学校を批判しながら勉強をする。会社を批判しながら会社からサラリーを受け取る。メディアを批判しながらテレビを見る。文明を批判しながら服を着、金槌や鋸を持って家を建て、鉛筆や消しゴムをもって学校へ行き、卒業したら会社勤め‥etc。(矛盾しているかも‥)

文明を批判するなら‥火を使わず、ことばを使わず、道具を使わず、服を着ず、車に乗らず、電車に乗らず、飛行機に乗らず‥カメラや電話やパソコンを使わず「野生で生きるべき‥」と人は言う。

子供のころから勉強嫌いだった私は、毎日外で遊び呆けていた。家の前が海。玄関から何メートルか歩けばそのまま海へドボンって感じ。空にはトンビが舞っているし、海には魚や貝が‥。家の裏は藪みたいな感じで‥。楽しかったな、自由で。小さかったけど良く歩けた。5歳にもなっていないのに、海にある岩をずっと歩いて‥。一人でも海へ行ったり山へ行ったり‥。きのこなんかも小さいながら毒とそうでないものの見わけが出来て‥。たくさんきのこ取ってきてそれが夕食になったり‥。友達と 「空のお弁当箱(グミを入れるため)」 をもって山にグミ採りに行ったり‥。今はビタミンCにはレモンって言うけど、私は小さい頃山に行ってグミを食べてビタミンを取っていた‥。ビタミンなんていう知識はなかったが‥。私はずっと‥そのままの生活がしたかった。海や山に行って‥食べ物をとったりするという‥。

ある日母がランドセルを買ってきて「学校は良いところだよ」って私に言い聞かせ‥学校へ入学させた‥。どんなにいいところかと思ったら‥授業中は自由にトイレにも行けないところだった。隣で女の子がおもらしをして泣いていた。一々先生にトイレに行っていいですかってきかないとトイレにも行けないのか‥。嫌なところに来てしまった。

ある日、学校から逃げたわたし。担任の先生が「捕まえてくださ〜い」と私の前方にいる先生に叫んで‥。私は御用。時々、動物園から逃げた猿が‥網で捕獲され…また檻に入れられるのを見ると、あのときの私とダブって思い出される‥。

結局、わたしは、学校という見えない檻に閉じ込められる羽目に。勉強の苦手な私は、先生の話は全然頭に入らないし‥「早く終わんないかな〜」みたいな感じで時間を過ごすだけ。時々テスト用紙が配られるけど‥。テストの質問の意味が分からない。だから、ここでも暇。みんなすらすら書いているのに私はぼーっとしているだけ。高学年になって‥分数が全く分からず‥。居残りさせられたり‥先生が我が家まで訪問して分数を教える。もう逃げ場がない。先生に「分数っていつの時代につくられたの?だれが考えたの?なんで分母を下に書かないといけないの?‥」と先生を質問攻め。すると先生が切れて‥「いい加減、覚えなさい!!」って怒鳴った。

私にとって学校は地獄。自然のもとに戻りたくても‥戻してくれなかった学校。あの学校で暇にしている時間‥自然と戯れていたら‥どれだけの事を自然から学んでいたでしょう?勉強も分からず、自然の知恵も得ることができず‥狭い所にずっと押し込まれ…本当に不幸としか言いようがありません。

だから、福岡正信さんの本を読んだ時‥良くわかったんです。新しい内容って言うより‥私がずっと前から思っていた事をうまく書いているって感じで。

それでたびたび、海に行って‥砂浜を歩き、潮に浸かり‥イソギンチャクやヒトデや貝や魚と戯れ‥、山に行き木々のざわめきと鳥のさえずりに耳を傾け‥分け隔てのない自然を感じていました。わたしも皆の命の中に、皆の命は私の中に‥私とかあなたとかいう区別のない世界を感じたりしていました。

わたしが、学校で学んだ事。それは、人を蹴落としても自分だけは上になること。先生は40番以内になれって100人いるこども全員に言っていた。100人もいるのに‥全ての人が40番以内になれない。それくらい分かってよ。そんな無理な事を言って皆を苦しめる。それが文明。だれが好きでこんなところに行く?騙されたんだ‥。あの日からずっと。今も。

私は、自然農って形でも良いから‥少しでも自然に近付きたかった。そんなささやかな願いが‥。農薬や野焼きで断念せざる負えなかった。どうして今こんな形(文明の利器パソコンを用いて)で‥人々に訴えなければならないんでしょう?本当に文明が真実で正しいのだったら‥本当に生き物と環境を守りたいのだったら‥どうして私はこんな苦しみに遭っているのでしょう?

中国の大気に敏感に反応し調査し注意喚起してくれる環境省。どうして日本にある工場や車の排気ガスや田畑に撒かれる農薬に沈黙しているのでしょう。どうして悪い物を悪いって言って排除してくれないのでしょう。私は、自然に沿って生きていきたかった。そのささやかな願いを、小さい頃から踏みにじられた。

自然は自由にどっからでも取って食べてもよかった。でも、文明は誰かが力づくで良い土地を独り占めにする社会。もし私が誰かが所有している場所に行って水を飲もうとしたり、そこにある食べ物を食べようとしたら「泥棒」と言って捕えられる。「もし欲しかったら、お前の持っているものと交換するか、それに見合うだけのお金を持ってこい」と‥。

今世界を支配している文明の頂点に居る者は、全ての土地を自分のものにするでしょう。そして多くの国々は一つの国にまとめられる。私が望んでいた国境のない世界ではない。私が望んでいない国境のない文明の世界が出来上がる。

常に誰かの許可がないと何もできない世界。常に誰かに見張られる世界。罪と罰のある世界。これが‥自然とはま逆の世界。これが文明に沿った世界の行きつくところだと私は思っている‥。

私は、文明に絶望し自然本来を求めている。しかし、この絶望的な文字を使うことなしに自分の思いを人々に伝える術を知らない。これこそが文明の与えた最大の「皮肉」なのかもしれない!!






10.


┃家畜にされた人間




世界を支配するものがいるこの文明社会。 彼らは、自分たち以外の人々を 「家畜」 と言っている‥。


 白人は人類初の家畜??(飼い主はもちろん文明)

多くの人は知っています。生き物の中で、人間だけが文明を発達させ、自然を破壊していると‥。しかし、人間を観察してみると、もし、世界に黒人しかいなかったと仮定したら、文明はこんなに発達しなかったのではないかと思うのです。なぜなら、彼らの体が自然にマッチしているからです。たとえば髪の毛‥、これは、とても縮れていて短いのです。引っ張って伸ばすと10センチぐらいになりますが、手を離すと再び縮れて元の姿に‥。彼らの縮れた髪の毛は、ほっといても自然と抜けていくので、ハサミがなくても不自由はありません。

また、肌の色が黒いため、密林の中でも目立たず生き延びることが可能です。視力、体力など全てにおいてどの人種より優っています。ですから、彼らに文明の利器など不要だったと言えます。

白人は、森ではその肌の色が目立つため、それを覆う布や銃などの道具がなければすぐにほかの生き物に襲われたでしょうし、伸び続ける頭髪はハサミのような道具がなければ、生活しにくかったに違いありません。つまり、文明という存在にとって白人は文明をすすめるために 「
最も都合がよかった人種 」 だったと言えます。現在、世界の頂点で全ての人々を支配している一部の白人がいます。彼らこそ文明に騙され、文明の家畜にされた、最初の人種と言えるのではないでしょうか。


 白人は人工的制作物

ところで‥下記の文章を読むと、白人は文明の知恵によって人工的に製作されたものだと書かれています。とても興味深い記事なので読んでみてください。

「阿修羅・近代史/白人はなぜ白人か」より一部転載  http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html

白人は人工的製作物 

そもそも彼ら自身が(理性による)人工的な製作物なのだ。彼らの「血統」と「伝統文化」と「容貌」のコングロマリットに関する強烈な意識は、たとえばトーマスマンの「ブッデンブローク家の人びと」のような小説にもその率直な表現を見ることができると思う。

彼らの先祖はイラン高原(またはロシア南部)を出てヨーロッパに広まったといわれる。またインドにも侵入し先住民の文明を滅ぼした。彼らはヨーロッパにおいては先住民の文化を消滅させ、人口稠密であったインドにおいてはカースト制度を考案し、これを先住民に課して苛烈な支配収奪を行なった。

このようにヨーロッパ白人は、「征服して根絶やしにする」こと、すなわち「ホロコースト」「民族浄化」によって自らを確立した人種なのである。

すなわち白人は、その人種としての成立においてすでに、「ホロコースト」の刻印をもつ。

白人はその遺伝的な貪欲さ、攻撃性、粗暴さ、征服欲の強さ、そして他者を顧慮しないで平気でいられる傍若無人な特性によって、その覇権を拡大したのである。

白人はこのような遺伝的素質によって人種的な版図を拡大した後、彼らのうちの特権層・貴族階級が、自らの眷族の中において、牧畜経営で覚えたとおりの人工的な交配を繰り返すことによってその血統的なアイデンティティおよびある種のブランド価値を確立していくのであるが、白人「市民」革命は、この特権貴族層の血統的アイデンティティ即ち身分的「優越」の意識を、「白色人種」の人種的アイデンティティ即ち人種的「優越」の意識へと移行・拡散させ、これを全白人に平等に共有せしめたのである。


聖書(創世記31章8〜9節)を読むと、アブラハムの孫にあたるヤコブが、一目ぼれしたラケルという女性に、交配技術の知恵を持ちあわせていることをほのめかす場面があります。それは‥

「あなた(ラケル)の父が、『家畜に”ぶち”があるものを産んだら、それはあなた(ヤコブ)のものだ』と言えば、家畜の群れは‥『ぶち』のものを産むし、もしあなたの父が『家畜に”縞”があるものを産んだら、それはあなたのものだ』と言えば、群れは皆『縞』あるものを産みました。このようにして神はあなたの父の家畜を取ってわたしに与えたのです。」と言った内容の場面です。

つまり、ヤコブは、神(文明)が与えた知恵により‥生まれてくる家畜の模様を自由自在に操り、利益を得ていたのです。これは、今から約5000年前の話ではないかと思いますが‥。
このように文明に捕らわれた一部の人は、長年家畜に行った交配の知恵を用い、自らを白人というブランド人種に創り上げていったのかもしれません。

ちなみにブランドとは、焼印のことで‥所有者を明確にするためにロゴを焼印していたと言われています。

野生の生き物は、所有を明確にするため‥自らを交配したりしません。しかし、白人は、自分たちの所有者が神であることを明確にするために「白人ブランド」を、文明の知恵により意図的に造ったのではないでしょうか。もし、最初に神(文明)に捕らわれた人類が…白人というブランド人種を創ったのだったら‥白人こそ文明(神)に捕らわれた最初の家畜と言えます。

自然そのものに「家畜」なんてないのに。
自然は‥だれにも所有されない世界なのに。

だから、この世界を自らが創造し、全てを自分の所有物と言う神の子キリスト(文明そのもの)が家畜小屋で生まれたと言うことも‥納得できます。



 人に服を着せた神

最近では犬に服を着せるのが当然のようになってきましたが、文明の知恵なしに…生きものは服など着ないものだと思います。しかし、創世記3章21節を読むと「神は人(アダム)とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」とあります。神と自然が一致しているなら‥こんなに不自然なことを神がするでしょうか?こんな不自然なことを神がすると言うのであれば‥神と言う存在そのものが、文明であり、自然に反する存在と言えると思うのです。

なぜなら‥服を作るには、ハサミや針などの道具が必要になります。ハサミや針を作るには鉄が必要になります。鉄を作るには、酸化鉄を還元するための火が必要です。火を起し燃やし続けるには、木や木炭や石炭や石油などの原料が必要になります。更に、服の材料が生きものの皮から造ったのであるなら‥生きものの体が、本来不要だった服のために必要になります。

神は、本来服などを着なかった生きものに着物を着せて‥それを愛というのです。何か変な感じがします。自然破壊する事で、その愛は成り立つのですから‥。



 キリストを着なさい (キリスト=ことば)

人生を振り返ると‥いつ言葉を話せるようになったのだろうと不思議に思うことがあります。生まれてから毎日毎日周りの人たちが、私に話しかけてくるわけですから‥当然と言えば当然かもしれないのですが。

ところで、新約聖書 (ローマ13章14節)を読むと‥パウロが 人々に対し、「キリストを着なさい」と勧めている個所があります。服を生きものに着せると言うのだけでも不自然極まりないのに‥。「キリストを着なさい」って、いったいはどういうことなのでしょうか?服ではないのに、どう着ろと言うのでしょう。

まずは、キリストが何ものなのか聖書を調べてみることにします。
聖書を読んでみると‥「ヨハネの福音書1章1〜3節」にこのように書いてあります。

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。全てのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と‥。

つまり「キリストとは神の『ことば』」そのものなのです。この神の言葉そのものであるキリストを、パウロは、人々に「着なさい」と勧めているのです。最高権威者(神)の語ることばを身につけなさいと言っているのです。体の内側から湧いてくる本能にではなく、天からきた文明の声(神)に聞き従いなさいと言っているのです。

言葉とは、二次元。点や線でできたイメージという実態を持たない存在です。これがキリストであり、神の言葉(意志)なのです。この神の言葉が、私たちの脳に刷り込まれ‥私たちは文明の声に否応なしに支配されていると言えます。キリストを信じるか、信じないか‥そんなのは問題ではありません。もうすでに言葉によってイメージし行動しているのですから。



 全焼のいけにえ / 骨と灰にされた父

幼い頃父が亡くなりました。私の人生で初めて死を体験したのが父の死でした。朝はいつも通りに話したのに‥。無くなった父の体は冷たくなり、無念にも火葬場に運ばれ、燃やされ‥そして、骨と灰になってしまいました。まるで、全焼のいけにえのように。

わたしは、思います。

私たちの体は‥燃やされるために生まれてきたのではない‥。私たちの体は、他の生き物と同様に、動物や鳥や虫に食べられ、菌やウイルスによって‥命の詰まった土になるはずだったのではないかと。命の詰まった生きた土は草や木を育て‥木や草は森となり、生き物を育てるのです。そんな生きた土になるために、私たちは生まれて、生きて死んでいくのではないでしょうか。

それなのに、文明に捕らわれた私たちは‥

火で鉄を作り‥それで造った斧や鋸で木を切って森を壊しながら‥家や船を作りました。
そして、古くなったら、今まで使っていた木製の家や船を燃やし尽くします。
森は私たちの住処。そして、古くなった木は、きのこやカビや虫などの食べ物だったのに。
私たちは、火を使って‥食べ残したものを‥燃やしました。
私たちは、火を使って‥死んだ体を燃やし尽くしました。
食べ残したものも、私たち自身の体も‥他の生きものの食べ物だったのに。

私たちは、土の命に育てられた生きものを土に還さないで、燃やし灰にする事で、土の命を弱らせています。この土は‥あなたや私の命であり、木々や動物や鳥や虫や菌やウイルスの命であり、自然と言う大きな一つの命であるのです。だから自然に沿って生きていくなら、私たちは何一つ所有しなくても生きていけるし‥例え死んでも‥何も失うものはありませんでした。

しかし、もし私たちが文明に捕らわれて生きるなら、例え地位や名誉や財産を所有できても‥全て失ってしまうのです。なぜなら‥死んで後火で燃やされて灰と骨にされるのですから。

所有することは失うこと』
足の裏一つ分の土地を人が所有するということは、200万もの生き物の命を奪うことになる。だとしたら…家を建てたら?学校を建てたら?工場を作ったら?畑を作ったら?公園を作ったら?お店を作ったら?どれだけの命を奪うことになるのだろう?


確かに‥道具や火を使う言葉の知恵をもたらした神が自然を所有したら‥自然が失われていく‥


 神の望み‥それは、「全てを焼き尽くす」こと

以上から私は、「全焼とは、全ての生き物の食べ物を‥全て灰にし、生き物を飢え死にさせる行為」と解釈しています。 聖書に神がアブラハムの一人子イサクを全焼のいけにえとして捧げるように命じた場面がありましたが‥、神はイサクを通して人間に…自分の望みを暗示したのではないでしょうか?この地球の全ての生き物を燃やし尽くしてしまうという神の望みを‥

そうでなければ‥自然に反しお金を出してまで‥自分の家族を燃やし骨と灰にするという火葬が習慣化されるはずがありません。

創世記22章2節を読んでみてください。
”神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」(創世記22章2節)。” と書いてあります。

燔祭(ハンサイ )とは「全焼のいけにえ」と言う意味で、全てを燃やし尽くし全てを神に捧げると言うことを意味します。ここで神は神に忠実なアブラハムに、愛する一人子を剣で殺し、焼き尽くしなさいと命じているのです。聖書を読み進めると、アブラハムは祭壇を築きそこに愛する一人子イサクを横にし刃物を振り上げ殺そうとするシーンがあります。まさに、イサクを殺そうとするその瞬間神は、アブラハムに…アブラハムの愛する一人子のイサクの代わりに雄羊を用意していました。それにより‥イサクは九死に一生を得ます。そういうことから‥、「主の山にそなえあり」と言うそうですが。

しかし、よく考えてください。

もし、人が火を使えなかったら‥鉄を作れなません。もし、ひとが鉄を作れなかったら、斧や剣がありません。斧がなければ、木を切って祭壇を築けませんし、剣がなければ生き物を殺せません。もし、人が火を使えないなら‥祭壇の上の生き物を燃やせない‥のです。つまり、文明の知恵がなければ‥神の望みを何一つかなえることができないのです。

私たちの人生って何なのでしょう?神が望むこと‥つまり「全てを燃やし尽くす(全焼のいけにえ)」ということのために利用される家畜として生まれ、灰にされる人生です。あまりにも悲しすぎます。

以上で神は文明を基礎として成り立つ者で‥自然そのものではなく、自然と異質な文明という世界そのものであることが分かります。(どの宗教も、文明の性質である「文字、火、道具」がなければ成り立ちません。一度検証してみてください。



 火のバプテスマ (地球全体を火に沈める)

ノアの洪水をご存知でしょうか?創世記(6〜9章)によると‥このときの洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくしたと言うものです。水は150日の間、地上で勢いを失わなかったそうです。このときノアとその家族を救ったのが、神(文明)の知恵で造られた船でした。つまり、この地球は、文明に救われなければ存在できない世界が始まったということではないでしょうか?(このノアの洪水は地球を全て水の中に沈めたので「水のバプテスマ」と呼ばれています。バプテスマとは沈めると言う意味です。)

また‥2000年前に現れたキリストは火のバプテスマを私たちに授けることが記されています。これは、神を信じたものに与えられる神の霊の事ですが‥実際は、この地球を火で包み込み‥地上に生きていたものを滅ぼし尽くすと言うことではないでしょうか?


『火のバプテスマ』マタイ3章11節
私は、あなた方が悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私の後から来れれる方(キリスト)は、‥中略‥あなた方に聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

現在、地球滅亡に備え人類を含めた生物種の宇宙脱出計画が立てられています。(詳しくは「ノアの箱舟計画宇宙ステーションで実施」http://thepage.jp/detail/20131006-00000004-wordleafを参考。)

たぶん‥地球に住む全ての生き物が火によるバプテスマにより滅ぼし尽くされたあと、冷凍受精卵が現代箱舟である宇宙ステーションに持って行かれ、人間にではなく人工知能を持ったロボットによって育てられることになるでしょう。そこで生まれた生きものたちは、地球を全く知らない生きものたち。それを本来の環境と信じ宇宙ステーションで、文明という存在に完全に管理されて生かされることになるのではないでしょうか。


これこそが、死後の世界「天国」と言えます。なぜなら‥生きものが本来住むべき地球が死んだ後の世界だからです。



 人間牧場のグローバル化

ところで、コンピューターが普及し始めた頃から、さかんに「グローバル」という言葉を耳にするようになりました。このグローバルという言葉の意味は「地球規模」という意味です。人が、言葉を使い、火を使い、鉄を作り‥その鉄から道具を作ることで‥文明が始まりました。これは、ごく小さなところから始まりました。野生の中のちっちゃな牧場として。それ(文明と言う牧場)が…今や地球を覆い尽くそうとしているのです。

まるで、野生の中に作られたちっぽけな動物園が、いつの間にか…地球全体を覆って、一つの動物園になったのような凄さなんです。(野生が文明に追い込まれゼロになっていく‥)

globalの”glob”は「丸いかたまり」と言う意味で、globalの”al”は「〜にする」と言う意味。つまり、文明と言う目に見えないイメージの存在が、地球全体を文明という「丸い一つのかたまりにする」ということでしょう。

自然は、全てで一つでした。それは本能という声をもとに。生きもの(植物も含む)は、お金や、法律を必要とせず‥自由に生き、死んだら‥植物を生かす土になっていました。文明の知恵がなくても、本来の自然は豊かでした。文明と言う存在から見て、どんなに混沌とした世界に見えたとしても‥命の素晴らしさがそこにはありました。

しかし、今は違う意味で世界は一つにされていっています。お金で一つ。通信で一つ。法律で一つ。私たちは、法律に縛られ‥お金に縛られ‥ご飯を食べるにも、トイレに行くにも誰かの許可がなくては行動に移せず、引っ越しや冠婚葬祭には多くの書類がなければ、実行することすらできないのです。

文明と言う存在は、6000年以上の時間を費やして‥誰からも管理されることのなかった全てで一つの無限に広がる自然を、自らが完全に管理し支配できる世界になるように人間に作らせたのです。

私たち人間は、神(文明)の家畜となり、将来自分たちが支配されるための世界を作らされたわけです。それが、もうすぐ完成しようとしているのです。神の望みは、何だったか‥?それは全てが燃え尽きること。つまり、地球が燃え尽きることが願いでもあるわけです。


 神の命令は「天幕を広げなさい」

ちなみに聖書には‥神がイザヤに次のように言う場面があります。

あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄の杭を強固にせよ。』(旧約聖書:イザヤ54章2節)

つまり神は、イザヤが住まう場所を広げなさいと言っているのです。どう言う場所かと言うと‥、自然にない天幕、自然にはない綱、自然にない鉄の杭を使った場所を‥と言うことです。神は不自然な世界を、自然の世界に持ち込み、それを広げることを望んでいるわけです。

自然の世界に、わざわざ道具を使って天幕を作り、その中で過ごすものは居ません。なぜなら、生き物はみな、大空のもと森や草むらに住んで十分に生きていけるからです。

しかし、神は敢えて、不自然極まりない「天幕」を広げるようイザヤに命じているのです。その結果、自然から隔離された世界(文明)が地球をどんどん占領し、私たちが本来住処としていた森や草むらは破壊されました。今や自然から私たちを隔離した隔離された天幕(文明)が地球全体を覆ってしまったのです。もう誰も、本当の自然を知る由もないのです。

※天幕の材料は、動物の皮。つまり、天幕をどんどん広げると言うことは、動物を犠牲にするということだったのです。新約の時代、信徒のリーダーだったパウロの職業が天幕づくりだったと言うのも、うなづけます。信徒のリーダーは文明のリーダでもあったわけです。

神自身が、文明であるなら‥当然です。



 いつまでも残るもの

聖書を読むと、「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です」とありますが‥。これらは全て実態のないイメージだけの言葉です。つまり、なにも残らないと言うことになります。私たちを愛しているという神を信じ希望をもって天幕を広げたのに‥

結果は、実態のない「信仰と希望と愛」のために…本来私たちを育んでいた実態ある自然を失ったのですから‥

たぶん‥私たちがいた地球は、最後燃やされ神の全焼のいけにえになるのでしょう。そして、宇宙船(現代版ノアの箱舟)に乗せられるのは、冷凍保存された地球の生き物(植物のタネも含め)たちの受精卵。(事実そのような改計画が立てられています)

つまり、宗教が教えた死後の世界。その本当の意味は‥個人個人が死んだ後の世界ではなく、地球が死んだ(滅んだ)後、宇宙ステーションで過ごすことを言っているのでしょう。

地球が滅んだ後の宇宙ステーションと言う、死後の世界では、大地も、太陽の光も、海も空も知らない生きものたちが‥解凍され‥文明の知恵によって育てられます。そして、文字や数字で完全に管理されて生かされるのだと思います。これが、私たちが、愛だと信じ、希望をもった世界だと私は考えています。

※愛ある神を伝えるために私たちは、木や草を‥鋸で切り倒します。そして、そこに住んでいた虫や獣や鳥たちを追いだして神殿や宮を作るのです。神が私たを救うために犠牲になったと言いますが‥実際に犠牲になったのは「草や木やそこに住む生きものたちではなかったでしょうか?」







11.


┃聖書における家畜とは




世界を支配するものがいるこの文明社会。 彼らは、自分たち以外の人々を 「家畜」 と言っている‥。


 飼い主に忠実な羊

以下の詩は、「エレファントマン」 や 「風が吹く時」 などの映画で使われた有名なダビデ王の詩です。
詩篇23篇
A: 主は、私の羊飼い。 私は、乏しいことがありません。
B: 主は、私を緑の牧場に付させ、いこいの水のほとりに伴われます。
C: 主は、私のたましいを生き返らせ、御名のために私を義の道に導かれます。
D: たとい死の影の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
E: あなたのむちとあなたの杖。それが私の慰めです。
F: 私の敵の前であなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます私の杯はあふれています。
G: まことに、私の命の日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。
H: 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

結構人気があり、好きな人も多いと思います。 また、慰められたと言う方も ‥。 しかし、今回私は、その素晴らしい詩を野生から囚われた羊になったつもりで解釈してみました。


A: 主は、私の羊飼い。 私は、乏しいことがありません。

家畜は飼い主がいる限り、絶対に乏しいことがないと安心するものです。 確かに家畜は、一日に数回決まった時間に必ず食べられるわけですから、乏しくはないです。

しかし、自分がほしい時に食べたり飲んだりできるのではなく、飼い主が連れて行ってくれたときにのみ ‥ 食べたり飲んだりできると言うことです。 ですから、家畜は、飼い主に食糧や水を支配されており、飼い主なしでは生きられない状態にされています。

親が既に家畜であった場合、家畜小屋で生まれた子供は、自分が家畜であると言うことに疑問すら持たない。不自然な状態に置かれているにも関わらず、自分が家畜であることにすら気づけないでいる。

B: 主は、私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

家畜は飼い主に従って行くなら、ゆっくりと休息がとれて楽だと思っています。それほど信頼しているわけです。しかし、家畜は主人から離れ自由に自分勝手に生きることは許されません。 ですからどんなに憩うことができても、本当の自由はありません。


C: 主は、私のたましいを生き返らせ、御名のために私を義の道に導かれます。

家畜は、自然の中で自由に生きていくことが許されません。よく、高速道路で横転したトラックから逃げ出した家畜を追いかけて捕らえる映像を見たりしますが、一頭残らず捕獲され、もとの檻の中に入れられます。 ですから、家畜にされた生き物は、野生での自由な生き方から、家畜としての生き方に生まれ変わる必要があります。 それをうまく表現したのが … 「生き返らせ」 ということばではないでしょうか。

そして家畜にされたものは、不自由な生き方に慣れるため新たな決まりを受け入れなければなりません。 それをうまく表現したのが 「義の道に導かれ」 ということばではないでしょうか。 ダビデは野生の生き方 (本能) を間違いだと考え ‥ 新しい飼い主の教えを正しいと信じて疑っていないようです。

確かに、家畜小屋で生まれた野生を知らない動物は、野生で生きる知恵を知らないのですから ‥ ダビデがそう考えるのは当たり前かもしれません。


D : たとい死の影の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。

家畜になった羊は、羊飼いが連れて行くところなら 「わざわい」 と思われるところへも行くほかありません。 たとえば、所有の印として家畜は皮膚に非常に熱くなった焼きゴテで印をつけられることがあるでしょう。 また、体を押さえつけられ毛を刈られることもあるでしょう。 また、肉にされるため家畜は体を切り裂かれることもあるでしょう。

これらの全てを家畜は受け入れなくてはならないのです。 それをダビデは、決して恐れないと言っているのです。 飼い主を絶対に疑わないと言う強い信仰を持っています。 野生の生き物がこうなったら ‥ 飼い主にとって可愛くてしょうがないでしょうが、やっている事は自然から離れた行為としか言うほかないと思います。


E : あなたのむちとあなたの杖。それが私の慰めです。

自然の中を自由に生きている生き物は、鞭や杖で叩かれたり打たれたりしません。 しかし、家畜は鞭や杖で叩かれます。 それを「慰め」と思う家畜がいるでしょうか? マゾでない限りいないと思います。 しかし、ダビデは「慰め」とまで言うのです。 自然の中で自由に生きた記憶がないものは、自然に戻されても野生で生きるすべがありません。

つまり、野生で生きる知恵を失ってしまったダビデにとって、食べ物を賄ってくれる飼い主が唯一の頼りであるため、たとえ鞭で打たれることがあっても、「慰め」だと自分に言い聞かせるほかないと言うことだと思います。 そうでなければ ‥ あまりにも切ない。 (支配者が一番恐れている事は、自然に戻って野生で生きる知恵を持つこと )


F : 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
   私の頭に油を注いでくださいます。

「私のために食事をととのえ‥」 ってどう言うことでしょうか ‥ 。 普通飼い主は、羊に食べさせたり飲ませたりするため緑の牧場に連れて行くのでは ‥? それが 「食事をととのえ ‥ 」 と不自然ない方をしています。 そこは調理場ではないでしょうか? でなければ頭に油を注いだりしないでしょう。 料理には油がつきものです。

実は、聖書には 「神に選ばれたものに油を注ぐ」 という儀式がありました。 当然ダビデもイスラエルの王に選ばれた時油注ぎの儀式を受けました。 常々、選ばれたものに対して ‥ 油を注ぐという儀式を行えば ‥ いざという時 (ほふられる時) も、選ばれたという優越感に満足するのかもしれません。



G: 「私の杯はあふれています。」

テーブルの上に美味しそうな料理。 そして、美味しそうなぶどう酒。そしてその杯が溢れている ‥。 自分は家畜として育てられたにも関わらず、そのテーブルの椅子に座って料理にあずかれるなら ‥ いいですよね。 でもパーティーの前夜 (前夜祭) ‥ 家畜はどうなるのでしょうか? 私たちが家畜という立場だったら? それでも飼い主は、家畜に美味しい料理と飲み物を準備してくれるのでしょうか?

聖さん式というキリスト教の儀式では、キリストが自分たちの罪のために十字架で血を流したのを忘れないために、杯に注がれたぶどう酒を飲みます。もしそうなら、ここでいう 「私の杯」 に溢れているものは ‥ ほふられるときに流された自分の血かもしれません。実は、旧約時代 ‥ 神に選ばれたものは、自分の罪のために生贄を神に捧げなければなりませんでした。 ( 今回は、自分が誰かの罪のための生贄として捧げられるために選ばれたのかもしれません ‥ )

家畜は、自分が料理にありつけると思って喜んでいいのか、それとも飼い主のためにほふられて血を流せる自分は光栄であると喜んでいいいのか‥私には分かりません 。

私は思います。家畜として育てられたのなら ‥ テーブルの椅子に座って食事にありつけるなんてありえないと。羊が飼い主のパーティーの椅子に座り食事にありつけたとしても、あるいは家畜としてほふられても ‥ どちらにしても ‥ 不自然極まりない行為に変わりはありません。



H: まことに、私の命の日の限り、いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう。
   私はいつまでも、主の家に住まいましょう。

ダビデがこんなことが言えるのは、同じ家畜でも、牧羊犬のように家畜を誘導する家畜だったからではないでしょうか?他の家畜より差がつけられていて、優遇されています。現にダビデはイスラエルの民を治める王でした。 今でも 「王」 のような高い地位を与えられた人々は、こんな不自然な世界にいながらでも、この世界が一番いいと本気でそう信じています。

私は、家畜を見て思うのですが ‥ 牛は野生で牛らしく、馬も野生で馬らしく、羊も野生で羊らしく自由に野生の中で生きて行くのが自然に沿った生き方ではないかと ‥。 生き物はみな、だれからも所有されずに自由でいたいはずです。 人間も ‥。

昨年 (2011年) 津波により原発が爆発し、その周辺の人々が避難した際多くの家畜が餓死してしまいました。 しかし、福島第一原発20キロ軽快区域内の牛1000頭以上が野生化しているというニュースを見たのです。 建物から出た牛は何とか生きていたのです。 ( なんかうれしかったです。生きてたってことが ) 事故は悲惨だったけど、こんな形でしか彼らに自由は与えられないんだと思いました。 しかし、国は何と彼ら全てを殺処分したのです。 彼らには野生で生きるほんのわずかな時も用意されていなかったのです。 ( 私たち人間も彼らと同じなのかもしれません。 )


聖書では、神が「家畜の飼い主」に例えられているのですが、本当に神が自然と一致しているのなら ‥ こんな苦しみだらけの家畜制度を良しとするわけがありません。少なくとも私はそう思っています。








自然は、区切りがない世界。無限に大きくもあるが、無限に小さくもある世界だった。
        
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