白鳥沙羅のたわごと(自然に沿って生きていきたい)
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宗教とは‥結びつけるもの 宗教で幸せになれるか
宗教は目に見えない首輪、綱、杭で支配する 感謝も祈りも‥不要
宗教はお金で支配する 全てはカルトである
宗教は欲(本能)を否定する /////////////////
神は、人を罪に陥れる 10 /////////////////





1.



┃宗教とは…結びつけるもの



↑壬生寺 (にぶでら) 近藤勇・芹沢鴨 (新撰組) の墓がある


自然は、全てで一つの世界。 だから、相対的に上とか下がありません。 ですから、野生にいて誰にも支配されていない動物は、誰にもひれ伏したりしません。 人間以外に支配者にひれ伏す生き物は ‥ 人に飼われた家畜やペットだけです。


 宗教の本当の意味

ウィキペディアによると 『宗教 (しゅうきょう) とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設組織、などをそなえた社会集団のことである』だそうです。日本語の 「宗教」 という語は、幕末期に Religion の訳語が必要となって、今でいう 「宗教」 一般をさす語として採用され、明治初期に広まったとされています。

原語のほうの英語 Religion はラテン語 religio から派生したものです。 religio は 「ふたたび」 という意味の接頭辞 re と 「結びつける」という意味の ligare の組み合わせたもので 「再び結びつける」 という意味です。 そこから 「神と人を再び結びつけること」 と理解されていたそうです。


 神=主人、キリスト=羊飼い、宗教=ロープ、人=羊


辞書で Religion の 「lig」 を調べると 「ただで飲み食いする」 という意味があり 「ion」 はギリシャ語で 「行く」 という意味があります。 つまり Religion には 「ただで飲み食いするために行く」 という意味が隠されています。つまり Religion には 「神と人を再び結びつける」 と言う意味と 「ただで飲み食いするために行く」 という意味があるのです。

聖書では、神=主人、 キリスト=羊飼い、 人=羊、 宗教=神と人とを結ぶ教え

羊は、柵の中で羊飼いに見守られながら生きていますが、あるときロープでくくられて主人のもとへ連れられて行きます。 羊飼いによって羊は、飼い主に再び結びつけられるのです。 その後、羊は、主人にさばかれ、ただで飲み食いされます。旧約聖書ではアブラハムが、イサクを山に連れて行った話があります。 アブラハムは、神にイサクを捧げに行ったのです。 つまり、神に捧げるとは、神に人を食べさせるという意味で、それが素晴らしい信仰だと教えるのが宗教だといえます。

では、漢字の語源から調べてみます。 漢字の 「宗教」 の 「宗」 は 「宀」 が家を表し 、「示」 は祭壇を表します。 祭壇は、神への捧げものを表します。 ですから、羊飼いである神に羊である人を捧げるという意味になります。 そしてそのことを教えることが 「宗教」 ということになります。以上から宗教とは、 「神に人が自分自身の体を捧げることを教えること」 つまり、 「神の所有物に自ら進んでなることが信仰的だという教え。」 です。



 愛は腹いっぱい食べること / 愛=所有


愛を漢字源で調べてみます。 漢字の愛は、 「旡」 + 「夊」 + 「心」です。 「旡」 は、 「腹いっぱい食べること」 で、 「夊」 は、足のことで 「足りないとかもったいない」と 言う意味です。 「心」 は心臓のことで 「浸みわたる」 といった意味です。総合すると、 「愛とは、もったいないので腹いっぱい食べると、心に浸みわたる」 と言った意味になります。 つまり 「愛とは:お腹一杯になるまで食べて満足する」 と解釈できます。以上から考えると 「愛」 と言うことばは、 「所有」を 表しているとも言えます。

聖書のヨハネ第一の手紙4章7,8節に 「
愛する者たち、互いに愛し合いましよう。 愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからである。 愛することのない者は神を知りません。 神は愛だからです。」 とあります。このことばの愛を 「所有」 と置き換えて読んでみます。

 「
私のものである者たち、互いに所有しあいましょう。 所有することは、神から出ているもので、所有するものは皆、神から生まれ神を知っているからである。 所有することのない者は神を知りません。 神は所有するものだからです。」 このように読むとすんなりと理解できます。

自然の世界に所有者がいたでしょうか? 自然の世界は無限です。無限の世界は、全てで一つです。 自然の土地は、誰のものでもありません。 だからみんな自由に移動し自由に何でも取ってたべて誰からも咎められたりしません。 ですから、この自然を創ったとか、所有しているとかいう神は、無限の世界と一致しません。

自然の生き物は、誰かに所有されると言うことを知りません。 だから神を知らない存在と言えます。 人は神に所有され、人や自然を所有することを知っています。 だから、全ての人は、神から生まれたものと言えるでしょう。

人々に自然を所有させた本当の意味は‥
土地を所有し合うことで、森が消え、その代わりに村や町ができ、そして都市となり、自然の命がどんどん失われていくことに‥。これを神が食べていると想像してみてください。最後に自然がなくなった時が、完食ということになります。つまり、全てを食べ尽くすためだったのです。


 文明においてキリストは見習うべきお手本

羊飼いであるキリストは、飼い主である神に人々(迷えるこひつじ)を結びつけるために‥意図的に家畜小屋で生まれたと言われています。キリストを神の子であると信じたものは、それが事実であろうが、物語であろうが‥最高権威者である神に従ったキリストをお手本にし、神の家畜として生きる道を選ぶのではないでしょうか。

次にキリストはこの世のたくさんの知恵を学んだと言われています‥。これは、人々が、キリストに習って、この世の知恵を学ぶことで、自然の本能を失い、飼い主になしには生きられないようにするためではないでしょうか。言葉で学んだ知恵は、本能をわかりにくくするからです。

その後、キリストは、多くの人を神のもとにつれていったと言われていますが、これは、 神に従う従順な人(家畜)を増やすためでではないでしょうか。飼い主にとって、家畜(ある意味奴隷ですが)が増えることは喜びでしょうから‥。

最後にキリストは十字架に付けられるのですが、これは、人々が、無抵抗なキリストに習って、たとえ神に命を取られることがあっても無抵抗であるように導くためのものではないだろうかと思うのです。支配者にとっては、どんな時も抵抗されたくないですから‥。

キリストの生き方こそ、人々を神に結びつける宗教(ロープ)そのものだと思います。

自然において、人もまたほかの生き物のように、本能の赴くまま生きていれば、自然を破壊せず生きていたと思うと‥私たちが文明に誘われここまで従ってしまったことが残念で仕方ありません。





2.



┃見えない首輪などで支配する





宗教は、見えない首輪、綱、杭で支配する


家畜は、首輪、綱、杭で飼い主に支配されていますが、人は宗教という目に見えない「首輪、綱、杭」で支配されています。


 首輪 / collar(カラ)


もともと首輪は装飾品でしたが、呼吸をする部位を締めることから重要な部分を抑えているという意味があり、「束縛」の象徴とされています。つまり、首輪をされているということは自由意志を持たず支配されているわけです。

さて、collarということばには、「首輪」のほかに「襟」と言う意味もあります。では、漢字の「襟」とはどういう意味が隠されているか調べてみましょう。

漢字の
「襟 (えり)は、「衣」+「林」+「示」です。
まず「衣」という字は、語源から霊力を移す意味でだそうです。

霊力

聖書にもそれを示す個所があります。第二列王記2章9〜15節を読むと、エリヤが持っていた神の霊が、エリシャに伝えられたことが書かれています。どのようにエリヤが持っていた神の霊がエリシャに伝えられたかというと‥。エリヤが天に昇る直前、エリシャが求めた神の霊は、エリヤが乗った火の馬車(天に向かって言っている)から降りてきます。たぶんエリヤが外套を脱いで落としたのだと思います。そして、エリシャはそれを拾って自分の外套とし、その外套(神の霊)でエリヤがしたように、川を二つに分け、乾いたところを歩くことができたそうです。



次に「林」ですが、「林」は、木がたくさん生えていることを意味し、同じものが並んでいるという意味も含んでいます。つまり、森はたくさんの種類の木が密集している感じですが、林は同じ木がたくさん生えていると言ったイメージでしょうか。このことから、「林」とは、人間の手で不自然に同じ種類の木がたくさん植えられた場所を意味し、人の手でたくさんの同じ種類の物が並べられていること」と理解できます。

=祭壇

次に「示」ですが、これは「神の祭壇」を意味しています。それで祭壇の「祭」の字を調べてみます。「祭」という漢字の左上の「月」に似た部分は「肉」を表わしており、右上の「又」は「手」の意味を表しています。下の部分の「示」は「祭壇」を表わしています。つまり「祭」の文字は「肉のけがれを清めて神に供える」という意味だそうです。ここで考えさせられるのは…神に供えるのはやはり肉なんですね。羊飼いは、もちろん羊の肉を主人に持っていくでしょう。

そうであるなら…キリストが羊飼いで人が羊…。神に供える肉は…やっぱり人間の肉ということになるのでしょうか。


以上から「襟」とは、「あなたが祭壇にたくさんの人間の肉を並べて捧げるなら、その人は神の霊の力を受け継ぐことができる」と解釈してよさそうです。つまり「、首輪をかけて神のもとへたくさんの人を導きなさい。そうすれば見返りとして、霊の力を授けよう」と言っているのだと思います。そういえば… エリヤもエリシャも二人とも
「襟(えり)」という共通した発音を持っていて漢字の「襟」の意味のごとく、神に人々を導きしかも神の霊の力を受けていました。


 綱 / lead(リード)

前のページで、宗教とは「神と人を再び結びつけること」とありましたが、キリストが羊飼いで人が羊だとしたら、それを結びつけているのは綱(lead)です。


=lead

綱とは、植物の繊維を撚り合わせた太い綱のことです。では、leadをイギリス英語で「馬や犬を引くときに使う綱」のことです。ということはleadとは、束縛する道具といえます。つまり、リードとは、首輪と同様に飼い主に服従させるための道具なのです。

「宗教(religion)とは、神と人とを結びつけるもの」という意味でした。つまり、宗教は神と人の間を結ぶリード(綱)にあたります。ということは、宗教は、「私たちを束縛する目に見えない道具であり、私たちを神に服従させるための教え」と言えます。

ところでleadには、他に「案内する」とか「導く」という意味もあります。マタイの福音書4章19節を読むと、『イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。」』つまり、キリストイエスは、見えないことばで人々を信仰と言うリードで束縛したのち、人々を神のもと導いたと言えます。



 杭 / picket(ピケット)

杭とは、地中に打ち込んで目印や支柱にする棒のことです。

=picket

杭を英語で「picket」といいます。picketの「pick」は「摘み取る」「皮をさく」「肉をとる」「しゃぶり取る」という意味があります。「-et」は、「ちいさい」という意味だそうです。つまり、自然の世界を、ことばと言う杭で肉を裂くように小さくバラバラし、その肉をしゃぶるように自然を喰い尽すといったイメージでしょうか。

ところで、聖さん式で食べるパンは、小さく刻まれていますね。イエス様が十字架で肉が裂かれ神に捧げられたことを記念して、信じる者にその儀式を行わせています。神は、私たちの体を、イエス様のように小さく裂いて食べるのでしょうか。杭は、土地の名前を示し所有をあらわすのに使われています。と言うことは、「小さく裂いて」という意味は、「一人ひとりに名前を付ける」という意味で「食べる」と言う意味は「所有する」ということではないでしょうか。だとしたら、自分に名前が付けられていう時点で、もうすでに神の所有物と言うことかもしれません。

では、杭はどのように用いられていたのでしょうか。家畜にロープをかけた場合、自分の所有する家畜がどこかへ行ってしまっては困ります。そこで所有者は、家畜にロープをかけ杭につなぎます。また、自分の所有する船がどこかへ行かないように港にある杭に船のロープをつないだりします。その他、土地の境界を定めるために使ったりします。つまり、杭とは、「所有したものを手放さないようにする」という意味を含んでいるようです。

イエス様は、十字架に杭で磔にされました。イエス様は、神の子。つまり神の所有物なのです。かみは、イエス様をお手本にして、自然の中で誰にも所有されることのなかった人たちを、神の所有物とし、杭につなぐことで決して神のもとから逃げられないようにするということでしょう。以上から、神に所有された人々は目に見えない首輪、綱、杭という道具で神から決して離れられないようにされているのです。

自然は、無限の世界なので、このように首輪や綱や杭は必要ありません。なぜなら、無限の世界は、全てで一つなので逃げられないようにする必要がありません。神が本当に無限の存在なら、全てで一つであるわけですから…自然のなかで自由に生きている生き物を狭い空間に入れて飼育することを考えるはずがありませんし、それをたとえ話にしたりしないと思います。



 まとめ

ザヤ54章2節に「あなたの天幕(テント)の場所を広くし、あなたの住まいの幕を張り広げ惜しむことなくあなたの綱を長くしあなたの杭を強固にせよ。」とあります。自然の世界に天幕(テント)、綱、杭はありませんでした。これは、自然の生き物を捕え家畜にしたとき必要になった道具です。このことばが、信仰的に深い意味を持っていたにせよ…神が無限という自然の世界と一致した存在なら…このようなことばを使ったりしないでしょう。

しかも、この言葉通り、地上に天幕を広げた場合、森やそこに住む自然の生き物はどうなるのでしょうか?森に住んでいた人間が、家屋に住むようになりそれがどんどん広がったことにより、現在野生の生き物の住処はほんのわずかしか残っていません。しかもこの綱とは、神と自分をつないでいる綱ですか?もしそうなら、どんなに神から離れていても神から逃れられないということを意味しています。皮肉なのは、その綱を長くし、杭を強固にするのが自分自身と言うことです。

あなたに良心があるなら、家畜に対して「小屋の面積を広げ、綱を長くし、杭を強固にしなさい。」と言えますか?永遠に野生に戻れないと言うことを意味していませんか?これを神は私たち人間に命令しているのです。私たち人間も、神と出会って、家屋に住まわせられ神のしもべ(奴隷)にされて以来、もう二度と野生に戻れないと言うことを意味しているのだと思います。

自然は、無限(境界線のような限りがない)の世界です。広げる必要なんてありません。自然は無限ですから、どんな広い家に住んでいる人より広いのです。広げることを祝福と思ってしまうのは…家の中に住み土地を所有しているからではないですか?宗教によって神に不思議な霊的力を頂いても、本来自分がいるはずの場所を奪われ、本来あるべき生活を奪われて不自由にされては…悲しくはあっても喜んだりできません。




3.



┃宗教は…お金で支配する





自由意思で捧げてくださいって良く言われますが‥。お金は全く要りませんって言う宗教がありません。無職の人ほど助けが必要なのに‥もし神が私たちを本当に助けたいのであればまず、お金のシステムを破壊して私たちを助けるにちがいありません。(しかし神は、それを破壊するどころか推進しています)


 神もお金も同じ文明から生まれた

お金は、文字や数字が理解できないと使えません。 神も、文字や数字がなければ神のことが理解できません。 ですから、両者とも文字や数字の世界のもので、自然の世界とは一致しないといえます。なぜなら、自然の世界は、数字や文字で表せない世界だからです。 自然の世界は、ことばであれこれ考えなくても、本能に沿って生きていれば調和していく世界です。 なにも難しいことはありません。

野生の生き物のたちが、お金を用いたり、神に祈ったりしないのは、全てで一つという自然の世界で生きているからではないでしょうか。


 自然の世界にお金はいらない

文明のない時代。 空気はタダ。 水もタダ。 食糧もタダ。 しかも全て天然。‥ ところが、お金と物を交換して、利息を取って、大金持ちになれば何でもできるって ‥ そんな「思い込み」がお金に縛られた文明社会へ私たちを追い込んだ ‥ 。


 文明の世界は、たくさんのものが必要になる

例えば ‥
自然のままだと 「服」 は必要なかった。
ところが、 「服を着る」 ようになると‥。

@ 綿を栽培しなければならない。 ( 森を開拓する為の鋸や鎌や斧が必要に )
A 綿を紡ぐ知恵と糸紡ぎ機が必要。
B 布を作るために機織り機
C 布を切るハサミ
D 布を縫う糸と針
E 無のや糸や針や綿やハサミなど道具を運ぶ車

文明がなければ ‥ 服も、綿も、糸も、針も、ハサミも ‥ いらなかったのに ‥。 一つの文明的なものを必要とするだけでこんなに沢山のものが必要となるのです。



 物々交換から便利なお金に??

自然のままなら、森に行って食べるだけ。 服は要らないし、食器もいらない、家もいらないし、何もいらない。だから、別に物々交換も必要ない。 なぜって、物がないのだから ‥ 。

しかし、自然に要らなかった、服を着るようになったり、食器を使って食事をするようになったから ‥ 物が必要になり、それを欲しがる人がいて、食べ物と物を交換するようになった。 そして、お金を介して交換するように ‥ 。(このお金で、自然全てが破壊されていくとは!!


私たちは、こんな言葉に騙されたのかも‥
お金を交換の媒体にすれば‥
いつでも、どこでも、誰とでも‥そしてなんにでも、交換できる。


 素朴な生活に満足していた人々が…なぜお金の虜に??

例えばなしですが。

ある人が自給自足をしている20人の村へ行きました。 その人は、村人にお金で売り買いすることの素晴らしさを体験してもらうた、一人10万円ずつ渡して言いました。 このお金があれば 「いつでも、どこでも、だれとでも、なんにでも交換できるんです。」 と。ところが、自給自足をしていた村の人たちは、特別な技術を持っていなかったので、全員が同じタワシを売る商売をしたのです。

村人全員が同じタワシを売ることにしたため、 「いつでも、どこでも、だれとでも、なんにでも交換できる」 というお金の素晴らしさを体験できませんでした。 そして、村人たちは、渡された10万円はそのままにして元の自給自足の生活に戻っていったのです。つまり、このお金の利便性を体験できるためには、どうしても、分業しなければならないのです。 そのためには、文明の技術を身につけていないといけません。 ですから、お金の誕生が分業を生み出し、分業が文明を促進させたと言えます。

もし、その後この村で、タワシの原料であるココナツやしを栽培する仕事、ココナツやしを繊維にする仕事、ココナツやしの繊維を束ねる仕事、タワシを作る仕事、それをお店で売る人、それらの人たちの食事を作る仕事、服を売る仕事、などと分業したとします。 するとお金の循環ができて、 「いつでも、どこでも、だれとでも、なんにでも交換できる」 というお金の素晴らしさを体験できる社会ができました。これでやっと、自給自足してお金の不要だった人々をお金の虜にすることができました。

村人たちは、すこしでも効率を上げようと、ココナツやしを人工的に栽培しました。 すると、虫がつくため仕方なく、農薬を使うことにしました。 それで、タワシの大量生産ができ、利益を上げることができました。しかし、周辺住民から、農薬の被害が訴えられるようになりました。 しかし、この人々は、その農薬を止めることができませんでした。

なぜなら ‥ 「私は、ココナツやしを栽培して生きているんです。」 「わたしは、タワシを売って生きているんです。」 「わたしは、農薬を作って生きているんです。」 「わたしは、農薬を散布する仕事で生きているんです。」 と人々は口ぐちに言い訳をして、 「農薬」 を止めようと思っても止められない魔のスパイラルに陥ったからです。

ところで、聖書(使徒の働き6章)に「私たちが神の言葉をあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。… 私たちはもっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」とあります。これを読むと高尚で素晴らしいと思えるのですが … これは、れっきとした分業。

使徒たちは 、「神のことをあと回しにして食卓のことに仕えるのはよくありません。」 と言って、かれらは、自然の生き方に反した生き方をしています。今までのことから分かると思いますが … お金の誕生が分業を生み出し、分業が文明を促進させました。 そして、その文明の発達が自然を破壊しています。


 「勝ち組」と「負け組」に村民を分けた利子とは?

ある日、10人の村に銀行家がやってきて、お金を10万円ずつ貸し、1年後貸したお金の1割を上乗せして返済するように約束をしました。 1年後、村の太郎さんはは総資産が12万円になっていたので、11万を銀行に払いました。 与作さんは、2万円の損失がでて、8万円しか返済できませんでした。 次の年、太郎さんはもう一度銀行から10万円を借りました。 そして、与作さんは、その年の10万円に加え、昨年に返せなかった分の2万円をひとまず返済するため借りました。

つまり与作さんは2年目に12万円を銀行家から借りました。 村の中には太郎さんの様な人や与作さんの様な人がたくさんいました。 そして、同じことが毎年繰り返されていきました。 気がつくと村は太郎さんの様な勝ち組と与作さんの様な負け組のまっぷたつに別れていました。 そして、銀行家の手元には利子による働かずに手にした莫大なお金が転がり込んでいました。 どうしてこのようなことになってしまったのでしょう。

村全体で借りたお金は 100万円 なのに返すお金は 110万円 です。 10万円分 足りません。 村に出回っているお金は 100万円 しかないので、利子分の 10万円 は、どうやっても返すことができません。 これは最初から 返済不可能な取引 だったのです。

お金を借りてから1年後、太郎さんの手元には 10+2=12万円 があり、与作さんの手元には 10ー2=8万円 がありました。 太郎さんの +20万円 は、無から発生したわけではありません。 実は、与作さんから奪ったものだったのです。 なぜなら村に出回っているお金の量は、 100万円だけだった からです。 誰かの利益は誰かの損失なのです。 椅子取りゲームのようなものです。 人間の数よりも椅子の数の方が常に少ないのです。 誰かが椅子に座ると、必ず誰かがはじき出されてしまいます。

この村にお金が導入される以前、人々はお互いに助け合いながら生活していました。 しかし、お金が導入されてからは、お互いに「競争」するようになりました。 なぜなら、利子を返済するためには利益を得なければならないからです。

しかし、その利益を得るためには、業務を効率化して、他人との 「競争」 に勝たなければなりませんから、大変です。 どんなに疲れていても、休んでいる暇はないのです。 自分が休んでいる間に、ライバルに出し抜かれてしまうかもしれません。

利子を返済するためには、走り続けなければなりません。 決して歩いてはならないのです。 業務を効率化し続け、利益を上げ続け、事業を成長させ続けなければなりません。 止まることは決して許されません。 止まることは敗北を意味します。 人々の顔からは笑顔が消え、心からはゆとりが消えてしまいました。 この村では何かが間違っているようです。 しかし、何が間違っているのかは、誰も気がつきませんでした。 ただ一人、銀行家を除いては。

問題の本質は利子にあります。 利子付きの借金は、個人レベルでは返済可能でも、社会全体で見れば、絶対に返済不可能なのです。 利子とは実態のないお金です。 現実のお金は利子の分だけ常に足りません。 借金を返済することは、数学的に、物理的に、原理的に、絶対的に、不可能なのです。

最強なのは銀行です。 なぜなら、利子のおかげで何もせずに利益を得ることができるからです。

さらに、銀行には利子以外にも恐るべき力があります。 それは信用創造です。 信用創造とは、つまり、無からお金を生み出すことです。 銀行は個人又は企業に融資する場合、新たにお金を印刷する必要はありません。 ただ、債権者の銀行口座に、例えば 「1億円」 と記入するだけで、 実体のない1億円 というお金を 創造 することができるのです。

別に 1億円 である必要はありません。 100億円でも、1兆円でも、1京円でも 構いません。 好きな数字を銀行口座に記入するだけで、実態のないお金を創造できるのです。 そして、当然のことながら、その実態のないお金の融資にも、あの 恐怖の利子 が付いています。

信用創造の場合も、実際にお金を借りる時と同じです。 利子分を返済するためには、他人と競争して、他人から奪わなければなりません。 利子分が返せなかった場合は、利子分を返済するために、再び借金をしなければなりません。 競争に勝って他人からお金を奪うこと、又は、さらなる借金をすること、利子を返済するための方法は、この2つしかありません。 このようにして、利子が利子を生み、信用創造と組み合わさり、返済不可能なお金が無限に増殖していきます。

ところで、国家、企業(国民)、銀行の力関係はどうなっているのでしょうか。 答えは、強い順に、銀行、企業、国家です。国家の収入は税金に依存していて、それは企業 (国民) から支払われます。

ちなみに、銀行 (bank) の語源は、古ゲルマン語の banki (安楽椅子) です。 銀行は利子付きでお金を貸し付けた後は、何もせず、安楽椅子に座って、のんびりしていればいいわけですから、ピッタリの意味です。 ちなみに、借金につきものの抵当 (mortgage) はフランス語の mort (死) と gage (ギャンブル) が組み合わさってできています。 何かを抵当に入れるということは、 「死のギャンブル」 をすると解釈できそうです。

(参考ブログ:世界一周Zero-Gravity)


 勝ち組になろうと張り合った結果、自然がなくなった

たとえば、自給自足で魚を食べるとすると週に一回か2週間に一回ぐらい魚釣りに行けば十分です。 2〜3匹釣れば家族皆で食べて十分なぐらいです。魚を取りすぎることはありません。 しかし、魚を売って商売しようとした場合どうでしょうか。

魚を売って生計を立てるとしたら週一回行っていた魚釣りがほとんど毎日になり、しかも2〜3匹というわけにはいきません。 船にいっぱいになるほど取らないといけないのです。

その理由は、船を買うのに1000万円以上の借金をしなければならないからです。 その上燃料費もばかになりません。 ですから、漁師は、船のローン返済と燃料費と生活費(光熱費、通信費、家賃、食費、医療費など)のために相当な量の魚を水揚げをしなくてはなりません。 こうなると、自然の循環の調和が崩れ、破壊されていくのです。

ロシアのバイカル湖での例ですが … その湖畔の人々は紙幣がその地方に導入されるまではよい生活を送っていいたと言うのです。 日により漁の成果は異なるものの、魚を採り自宅や近所の人々の食卓に供していました。毎日売れるだけの漁を採っていたのです。

それが今日ではバイカル湖の、いわば最後の一匹まで採り尽くされてしまいました。 どうしてそうなったかと言うと、ある日、紙幣が導入されたからです。 それといっしょに銀行ローンもやってきて、漁師たちは、むろんローンでもっと大きな船を買い、さらに高価が高い漁法を採用しました。 冷凍倉庫が建てられ、採った魚はもっと遠くまで運搬できるようになりました。

そのために対岸の漁師たちも競って、さらに大きな船を買い、さらに効果が高い漁法を使い、魚を早く、たくさん採ることに努めたのです。ローンを利子付きで返すためだけでも、そうせざるをえませんでした。 そのため今日では、湖に魚がいなくなりました。競争に勝つためには、相手より、早く、より多く魚を採らなくてはなりません。 しかし、湖は誰のものでもありませんから、魚が一匹もいなくなっても、だれも責任を感じません。 これは一例にすぎませんが、近代経済、なかでも貨幣経済が自然資源を調和していないことが分かります

ミカン農家でも同じことが言えます。 月に1〜3個食べれば十分だったミカン。 野生に生えていたミカンをたまに取りに山へ行くだけ。しかし、そのミカンで生計を立てるとしたら…。 山に行ってわざわざ取るとなると効率が悪いので、畑にミカンの木ばかりを植えて栽培します。するとどうなるでしょう。

今まで森だったところが畑に開拓されますから、そこにあった木、草、苔、菌、ウイルス、動物、鳥、爬虫類、虫たちは、どうなったのでしょう。ミカンのために犠牲になったと言えます。 また、同じ植物ばかり植えるとミカンを食べる虫だけが寄ってきて、その天敵になる虫が来ないと言って農薬を散布しなければならなくなります。 そして、その農薬は土壌を汚し、水を汚し、海を汚しています。

また、石鹸会社にも同じことが言えます。 以前は動物や植物の油から石鹸を作りそれで商売をしていた石鹸会社は、石鹸は、何日か寝かせないといけないので効率が悪い。 それで、石油で洗剤を作る技術を開発しました。 石鹸と違い合成洗剤は原価が安く大量生産できるので多くの利益を上げることができます。 しかし、この合成洗剤は、石鹸と違い分解されないため、川や海を汚し自然を破壊しています。


 銀行家の中の銀行家

銀行家は、利子付きでお金を貸した後は、何もせずに安楽椅子に座っていれば勝手に利益を上げることができました。 しかし、利子つきで借金した人は、利子を返すために他人と競争して、他人から奪わなければなりません。 利子とは本当に酷いシステムだと思います。

ところで、聖書のマタイ25章14〜30節にタラントのたとえという話があります。 内容は、旅に出る主人がしもべ3人に、自分の財産を預けます。そして、その主人は旅から帰ると、しもべがどれだけ商売をしてお金をもうけたかチェックします。 3人のうちの2人は、商売でもうけた分を添えて返しました 。ところが3人目のしもべは預かったお金を地の中に隠しておきました。 それを知った主人はこう言います。 『悪いなまけ者のしもべだ。 … おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。 そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。 … 』 と 。

この聖書の個所は 「あなたの持っている才能を生かしなさいというような深い意味がある」 と言う人がいるかもしれません。 しかし、商売をして儲けたお金は、誰かのお金を奪って得た利益でした。 競争で誰かを蹴落として利益を得なければ儲けることはできない仕組みなのです。

また、銀行に預けてもらった利子も同じように、誰かから奪ったお金です。 この聖書の個所の主人とは、神様のことを意味するそうですが。 と言うことは神様は、儲けなかったしもべに対し 「二人のしもべは、頑張って人を蹴落としてお金を奪って儲けてきた。すごい良いしもべだ。 おまえは誰からも奪って儲けなかった。 悪いしもべた。」と言っていることになります。 なんだか変です。 しかも主人に持っていく儲けたお金とは教会でいう神に捧げる献金なのでしょうか。このようなたとえ話をするのも … 神が、無限ではなく文明の世界と一致するからではないでしょうか。

利子は、人を不幸にするシステムでした。 全知全能の神であるならこのことを知っていたでしょう。 知っていながらこのようなたとえ話をするとしたら、神自身が自然破壊をもくろんでいるとしか考えられません。もしそうなら、神は、何もしないで神の御座についていながら、実体のないお金で自分の計画を成し遂げることができるということではないでしょうか。

つまり、このたとえ話は 「与えられた才能を神のために生かしなさいという意味ですよ。」 と見せかけておいて、実際は銀行の利子のシステムで人々が奴隷のようになって文明を発達させ、それによって自然を破壊させることを … 暗に示しているのだと思います。そうでなければ、こんなたとえ話はしないでしょう。

神がこのたとえ話を使うことで、利子の制度が神のお墨付きだと人々は勘違いし、それがどんなに人間や自然に対し不利益かと分からないまま使うことになるでしょう。利子付きローンシステムは、人々が奴隷のように働き文明を発達させ、その結果自然を破壊します。 そして、実体のない神は、何もすることなく神の利益だけを上げていくことになります。 なぜなら、自然の生き物も、人間も苦しむからです。 神こそ、銀行家の中の銀行家なのです。



 神も宗教もお金を否定しない

以上から、お金が必要になった経緯が分かってきたと思います。 お金が必要になったのは、人間がことばや道具や火を使い、所有することを覚え、不自然に生きるようになったからです。 そして文明と言う不自然な世界に順応しようとした結果お金が必要になったのです。もし、神が文明と関係なく無限という存在なら … もともとの自然のままの生活に戻ることを人々に勧め、お金の生活を否定したはずです。 しかし、神自身がお金を否定しないのですから、宗教もまたお金を否定しません。 ですから、神も宗教もお金もみな文明の世界の存在と言えるのです。

以上から宗教もお金も文明も自然を破壊することがよく理解できたと思います。 そして、神がお金や文明を否定しないのであるなら … 自然破壊が神の目的であると理解できます。 とするなら、お金は神にとって大切なアイテムと言えます。もし、私たちが神にもお金にも支配されたくなかったら、お金のいらない生活に生き方を修正していかなければなりません。

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4.



┃宗教は 欲(本能)を否定する



↑野生では、調理をしないし、お茶碗も箸もない。お腹が空けばそのままかぶりつくだけ‥。


明では、お腹がすいても、調理が住むまで待たされて、食べ物に直接かぶりついてもいけなくて ‥。 「わたしは、お腹すいてませんよ〜。 余裕余裕 ‥。」 といった雰囲気を出して箸を上手く使って上品に食べなければならない。

 欲の本来の意味

欲とは一体何でしょうか? 辞書では、 「欲とは、ほしがること。 むさぼり求めること。」 とあります。で は、漢字源で 「欲」 を調べてみます。

「欲」 とは、 「谷」 + 「欠」 の二つの文字から成っています。 それぞれの意味を漢字源でさらに詳しく調べてみると …。 「谷」 とは、 「八印(分かれ出る) が二つ + 口 (あな)」 で、 『水源の穴から水がわかれ出る』 ことを示しています。 「欠」 とは、 『人が口をあけ、体をくぼませてかがんださまで、腹が空っぽでものがほしい』ことを示しています。

つまり欲とは、 「お腹が空いて、それを満たしたいという気持ち」と解釈できます。 宗教において 「欲」 はいけないことのようによく言われますが、本来の意味からするととっても大切なことではないでしょうか。 もし、お腹が空いた時、この「欲」がなかったらどうなるのでしょう。 よく考えてみください。


 体の欲求(本能)は、命の知らせ

ところで人間の三大欲求は、食欲・睡眠欲・性欲と言われています。 この三つは他の生き物にも備わっています。 それは自然にとって「全てで一つの大きな命の循環」が調和するために必要だからです。 自然の生き物で人間以外は、体の欲求に素直に沿って生きています。 それをだれも咎めたり軽蔑したりしません。 なぜなら、体の欲求は、命の知らせであり、その体の欲求は、自然が常に調和された状態を保つためにあるからです。


 本能をコントロールするのは究極の不自然

宗教的指導者はよくこのように言います。 「欲が悪いのではない。 欲に支配されそれに負けるのが悪いのです。」 と。

この 「食欲、睡眠欲、性欲」 についてですが … よく考えてみてください。 食欲が私たちを支配しようと考えていますか? そして、食欲が私たちと戦おうとしていますか? 睡眠もそうです。睡眠がいつ私たちを支配しますか? 睡眠がいつ私たちと戦おうとしていますか? 性欲もそうです。 性欲が人を支配しようと考えていますか。 性欲が人と戦おうとしているでしょうか。

イエスキリストは、40日間断食したことがありました。 (マタイ4章2節) それは、食欲に支配されず食欲を支配したと言うことでしょうか? そして、それを素晴らしいと思いますか? もし、すごいと思うのだったら、一年以上も食事をしない蛇はもっとすごいのではないでしょうか? この蛇は、食欲に支配されず逆に食欲を支配できたから、一年も食事をしなかったのでしょうか?そうではないですよね。 蛇は蛇の食欲に沿って生きているだけです。 無理はしていません。 イエスキリストはこれらのことから、自然に逆らった無理な生き方を私たちにさせようとしています。

これらの欲は、体が今何を求め何を必要としているかを知らせているのだけです。 ですから、人間以外の生き物は、その体の欲求に沿って生きているので人間のようにマニュアルがなくてもちゃんと生きていけます。問題なのは、食欲、睡眠欲、性欲という体の知らせを無視して人間がそれらを、コントロール (支配) しようとするところに問題があるのではないでしょうか?

ところで聖書 (ガラテヤ書5章16節〜17節) にこう書いてあります。 「御霊によって歩みなさい。 そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。 この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」 と。

自然の世界では、自由に食べて、自由に寝て、自由にカップルになって… 誰からも咎められず、誰からも軽蔑されたりしません。 自然は、誰かに対して、逆らったり、対立したりしません。 その自然を神という存在が否定しているだけなのです。 そして、肉体が逆らっているという言い方をしているのだと思います。

自然に沿って生きていく時、体の欲求は大切な声です。 その声を無視して我慢する必要はありません。 なぜなら、それで自然は豊かになっても破壊されることはないからです。 もし、人が神と出会ってなければ、人はだれからも咎められることなく自由に体の欲求を満足することができたでしょう。


 本能と戦う文明人

食事

明社会において、いつでも食事を自由に取ることできますか? できないですよね。保育所、幼稚園、学校、会社、老人ホーム … どこへ行っても食事の時間が決まっています。 生まれた時からずっとこんな生活をしているわけですから、それが当たり前と思ってだれも問題にしたりしません。

自然の生き物は、食べる時間を時計によって決めたりしません。 ですから、お腹が空いたときが食べる時間です。 たまに食べ物がない時もありますが … その間ずっと食べることを考え続けてOKですし、獲物を探し続けてOKなのです。

しかし、人には、食べる時間が決まっていますので、たくさん食べる人は、お昼御飯前にお腹が空いてしまいます。 そして空腹を我慢して食事と関係ない授業を受けたり仕事をしなければなりません。 寝坊して朝ご飯を食べそこなった人はなおさらです。 だからと言って、授業中、仕事中、食べ物のことばかり考えていてはいけませんし、食べ物を探しに行ったりしたらそれこそ持っての他、咎められたり辱めを受けなければならないでしょう。 ですから、このような状況にある人は、空腹と戦わなくてはいけないのです。


睡眠

では、文明社会において、いつでも睡眠を自由に取ることができますか? 睡眠も食事と同様自由がないですね。 自然の生き物は、寝る時間とか決まっていません。 体が眠気を感じたら眠ればいいわけですから。

文明が発達し、夜火が灯り、電気が灯り、人は夜も昼も起きています。 もし、長距離のトラック運転手だったら、それこそ眠気と戦わなくてはいけません。 受験生も、楽しいテレビを見ている人も … みんな眠気と戦わなくてはいけません。

性的欲求

性的欲求は、食事や睡眠と違って、成人になって出てくるものです。 これを年齢でいつから成人と分けたりできません。 体が成熟したのを教えるのは、文章や法律ではなく、体だと思います。ですから、早い人もいれば遅い人もいてOKのはずです。 それに何の規制もいらないはずです。しかし、文明社会において15歳のカップルがいても社会では認められません。 文明社会では、自然の生き物と違ってお金を稼げなければ家族を養っていけないようになっているからです。

また、家柄とか、稼ぎとか、ハンサムであるとか、美人であるとか … 自然の生き物には全く理解できないことを人間は考えます。ですから、家族の反対にあったり、自分のプライドが許さなかったりしてなかなか相手を決められません。

ある人は、周りに異性がいたにせよ、将来の夢のために熱中するものがあったり仕事が充実していた場合、結婚を先送りにすることもあります。しかし、自然の生き物は何も考えず本能に沿って生きていくだけでOKなのです。 それを妨げる者は何もありません。

自然の生き物が、本能に沿って生きているのをみて、 「汚れている」とはだれも思わないでしょうが …。 もし人が、この文明社会において、自然の生き物のように体の欲求に沿って生きたらどうしょうか。 周りの人たちから「汚れた人」という烙印を押されることでしょう。 ですから、この文明社会において人は性欲とも戦わなければならないのです。

以上から、体の欲求に問題があるのではなく … 体の欲求が悪いと言われるようなシステムになっているのが問題なのではないでしょうか。そして、さらに問題なのは、 「食欲がなければいいのに」 とか 「睡眠欲がなければいいのに」 とか、 「性欲がなければいいのに」 と思うことです。
そうなった場合、人間は文明に沿った考えで文明に沿った新しい体を持たなくてはならなくなるからです。 そうなると、人間の体だけでなく自然も同時に破壊してしまうことになるのです。



 体の欲求が悪いのではない

文明がもたらしたお金や名誉を求める生き方が問題.。

聖書 (ペテロの手紙第一2章11節) に 「たましいに戦いを挑む肉の欲を遠ざけなさい。」 とあります。 しかし、体が知らせることは次のようなことです。 遠ざけなければならないような問題でもあるでしょうか?

↓体はいつも良い状態に体を保とう(恒常性)と知らせている
空腹 ⇒食べたい
口渇⇒水を飲みたい
眠気 ⇒眠たい
尿意、便意 ⇒排せつしたい etc

これらの体の欲求を満足させることができれば、からだは元気になります。それを否定する理由など何もないはずです。 本来なら…。

↓文明は、「今よりもっと‥」を常に目指している
貧しさ ⇒金持ちになりたい
軽蔑、不名誉 ⇒偉くなりたい
支配される ⇒支配したい、トップになりたい
無視される ⇒特別な存在になりたい

文明がもたらしたお金の世界で貧しさを経験した者は、このような欲求を持ちます。そして、この欲求を満足させようとすると、競争が生まれます。 上位の座は少数しか用意されていないので、どんなに頑張っても底上げされるだけで、全員が満足することは決してありません。

それにより文明はどこまでも発達するでしょうが、自然は完全に破壊されます。 そして、人間は、その文明社会に沿って生きていける体に変換されなければならなくなります。それで本当に幸せなのでしょうか?

もし神が自然と一致しているなら、神は、 「体の欲求を遠ざけなさい」 などと言ったりしなかったでしょう。なぜなら、お金がもたらした貧しさと、貧しさゆえの欲求が、私たち人間を苦しめているのですから …。もし否定するならお金を否定するべきだったと思います。



 神は「名誉」というご褒美で、人々を競争させる

(そんな名誉なんて欲しくない。 こっちの方が慾深いような‥
名誉について調べてみました。


名誉 (めいよ、Honour) とは、自身の業績、功績、態度、姿、振る舞い、あり方、生き方を讃えられ、それをすぐれている、価値があると自他共に認め、それを自らの尊厳、誇りと見なすこと。 「何かを名誉に思うこと」 を誇りという。また、社会的地位が高く名声があることも名誉と考えられ、こうした名誉を望む欲求を名誉欲という。

と言うことだそうです。ところで、聖書の黙示録には、名誉欲をくすぐることばがたくさん出てきます。

「勝利を得る者に私は、神のパラダイスにある命の木の実を食べさせよう。 」 黙示録2:7
「死に至るまで忠実でありなさい。 そうすれば、私はあなたに命の冠を与えよう。 」 黙示録2:10
「勝利を得る者‥には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」黙示録2:26
「勝利を得る者を私とともに、私の座につかせよう。 」 黙示録 3:2 … etc

これらの言葉は、生きていた時の生き方を神に讃えられることにより自分に価値があると自他ともに認め、それを自らの尊厳、誇りとみなすことにつながると思います。 「この世で名誉を求める生き方も、天国における名誉を求める生き方も同じ名誉欲のような気がしますが … 」 そういうと、 「生きているときに求める名誉と天国で求める名誉は違います。」 と言われるかもしれません。 しかし … 少なくとも自然の世界の生き物は、生きているときも死んだ後にも、名誉を求めたりしないのです。 名誉を求めるのは文明社会を生きる人間だけです。 と言うことは、文明の延長上に天国の名誉があるということではないでしょうか。

聖書 (ヘブル12:1) に 「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」 とあります。

競争すると言うことは、少数しかない上位の座を多くの者たちで奪い合うと言うことです。 全ての人の座が用意されているのなら競争しなくていいわけですから。 自然の生き物で競争をして生きている生き物はいません。 私たちにも文明に出会う前、地位や名誉や財産には無関心だった時があったと思います。

「いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて」 という魅力的なことばに 「そうだそうだ」 とうなずいていると … いつの間にか … 今までと同じように名誉を求めて競争し、そして数少ない上位の座を互いに奪い合うのではないでしょうか。


このように神は巧妙です。
罪のない人間を罪にしたて、文明を発達させ‥自然を破壊していくのですから。


 自然は弱くない!

この語りかけを読んでいると‥人と差をつけて生きていかなくてもいいんだってことがよくわかります。

誰でもはいれる学校っていいよね。
でも、みんなそれを願ってるかな?
100人全員入れる大学と、100人のうち20人しか入れない大学 … どっちを選ぶ?

人はみな、他人と差をつけたがるよね。
真実の世界、自然の世界、無限の世界は、選んだりしないんだ。

自然はね、だれでも入れるんだよ。 分け隔てのない世界なんだよ。
皆が 「選ばれた」 とか 「特別だ」 とかいう言うことばに心惹かれるのは、人と差をつけたいと思っているからなんだよ。 だから、ついだまされてしまうんだね。

「誰でも」 「everyone」 ということばは、 「無限に大きくもあるし、無限に小さくもあるという意味」 のことばなんだね。

自然は、無限なんだよ。自然を破壊しようとする神にさえ無抵抗でいるのだから。土の器は弱いと言うけど、弱いんじゃなくて、大きく受け止めている存在なんだ。

聖書で、土の器は弱いと言いう。確かに土は鉄の棒で簡単に壊れてしまう。 だから土の器は弱いと言われてもしょうがない。 でも、土はその鉄を酸化させ、土に還してしまう力があるんだよ。 じゃーどっちが強いの? って思うでしょ?

実は … 土の色なんだけど、酸化鉄と有機物の混じった色なんだ。と言うことは … 鉄は土の成分の1つなんだ。 だから、鉄が強いとか土が弱いとか言うの … 変だというの分かるよね。 「自然の物はすべて、強くもあるけど弱くもある … 」 それが本当の答えなんだね。





5.



┃神は人を罪に陥れる



↑網 (罠にかけるという意味を含んでいる)


 罪とは、仕掛けられた罠のこと

罪とは、なんでしょう。  辞書を引いてみます。 罪とは:  「法律的、道徳的、宗教的な規範に反する行為」 と書かれています。  では、漢字源で 「罪 」という漢字を解字して考えてみましょう。

罪 ⇒ 「网 (あみ) + 非 (左右に払いのける)」 で成り立っています。
   
では 、「网 (網)」 とは何でしょう。 「网 (網)」 とは、 「魚や鳥を捕えるための物。」 「人や物を捕えるために張り巡らされたもの。」 と言う意味です。 では、英語で 「网(網)は、「net」 ですね。 では、 「net」 とは何でしょう。 辞書で調べてみます。 「net」 とは、 「罠、落とし穴、網」 だそうです。

では、「非」とは何でしょう。 「非」 とは、 「道理に合わないこと。」 「不利であること」 と言う意味です。 英語で「非」を 「fault」 といいます。 では、 「fault」 とはどういう意味でしょう。 「fault」 とは、 「完全さを損ねる本質的欠陥」 と言う意味で 「欠陥」 「不足」を 意味しています。 つまり、欠陥があり支配者の不利益になるものを左右に払いのけるという意味になります。


以上から、「罪」 とは、「支配者(神) が作った法の罠にかかったものを、支配者の独断で利益になるものと不利益なものを左右に振り分けること。」 と解釈できます。

次に、英語の罪 「sin」 について辞書で調べてみます。

「sin」 とは、 「神のおきてにそむくこと」 が本義で、 「宗教上、道徳上の罪」 「過失、違反」 「常識はずれ」 と書かれています。 では、 「sin」 を解字して、詳しく調べてみます。 「sin」⇒ 「S(歯) 」+ 「in (包囲、包含)」 です。 「S」 は象形文字で 「歯」 を表し 「食べる」 とか 「噛む」 と言う意味です。 また、アルファベットの 「S」 は、アルファベットの 「19番目の文字」で… 聖書では、 教理的正確さ」 を意味します。


以上から 「罪とは、神が作った、正確な教理に包囲され、神の鋭い歯で食べられていくこと。」 と解釈できます。

以外でした。 罪がなんと神の作った罠だとは …。 そして、その罠とは、神の教理だなんて …。 そして、最後はやっぱり鋭い歯で食べられるのですね。 聖書では、キリストは羊飼い、人は羊でした。羊飼いであるキリストは、羊である人々を天国の神のパーティーに連れて行ってくれるそうですが、それって料理されに行くってことでしょうか。


 神が仕掛けた罠

では、神はどんな罠で人を罪に陥れたのでしょうか? 聖書に登場するアダムとエバを参考に考えて見たいと思います。

創世記2章8節〜3章19節 のあらすじですが … 神が設けた園に神が創ったアダムとエバを置いたところから始まります。 そして神は、人にこう言います。 「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはいけない。 それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。」 と。

そして、創世記3章で一番狡猾な蛇が人のところへやってきます。 そして、人をだまし、その木の実を人が食べてしまいます。そ れで、神は、人と人をだました蛇を罰します。 どんな罰かと言うと、蛇は、 「一生腹ばいで歩きちりを食べなければならない。」 して、エバは、 「苦しんで産まなければならない。」 そして、アダムは、 「一生苦しんで食を得なければならない。
と言った内容です。

この内容だけだったら、どこに神の罠があるのか分かりません。 神の言いつけに背いたので人は悪いと言うことになりそうです。 やはり、納得して罪を認めざるを得ません。

しかし、よく考えてみると‥周りを垣で囲んだ園に最強の悪魔とと最弱な人間が …。 結果は、誰にでも分かると思います。 しかも、最悪なことに守ってくれる羊飼いがいないのです。 しかも、神は見ているだけで何もしてくれません。

私たちは、神が言う愛などないかもしれません。それでも、自分の大事な子供をを、狼がいる垣で囲まれた中に入れたりしません。子供が危ないですよね。 そして、大事な子供が、負けるのは当然のことなのですが … その子供を私たちは、咎めたりしないと思います。かと言って狼を咎めたりもしないと思います。 なにより、自分が囲いの中に狼と子供を入れたことを恥じると思います。

しかし、神は、この状況のなかで何をしたかというと‥。人と悪魔の両者を咎めたのです。 もし、咎めるのだったら、そんなことをした自分を咎めるか、あるいはそこで羊飼いをして羊を守るはずの息子を咎めたでしょう。 「忠実な息子よ。 おまえはどこへ行っていたのか?」 と。

以上から、このエデンの園での出来事は、 人を罪に陥れるための罠
だと言えるのではないでしょうか。


 救いとは…全てをかっさらうこと

は救いについて考えてみましょう。 まず辞書を引いてみます。 辞書によると「救いとは、救うこと、助けること」と書いてあります。 次に漢字源で「救」と言う字を解字して考えてみることにします。


⇒ 「求 (手足のついた動物の毛皮)」 + 「攴 (棒を手に持ってポンと叩くさま)」 から成っています。

つまり、「救いとは、獣を殺しそれを罪のためのいけにえとして 神に捧げること」 と解釈できます。

redeem

次に、英語の救い 「redeem」
について調べてみたいと思います。 「redeem」 とは、 「借りたお金を返す」 という意味だそうです。 また、 「贖う」 という意味もあります。


では、 「贖い」 とはどういう意味でしょうか。 辞書を引いてみますと、 「贖いとは、物々交換、お金を払って人の身柄を引き取る」 などの意味があります。 では、 「贖い」 を漢字源て詳しく見てみましょう。

「贖」 ⇒「貝」+「賣」 に分けることができます。 「貝は、お金や財を表す」 ことばで 「賣は、取引して儲けること」 だそうです。 では、 「賣」 を解字して漢字源で詳しく調べてみます。
「賣」 ⇒「网 (あみ)」 + 「貝 (財貨)」 で 「取引して利益をかっさらうこと」 を意味しています。

以上から、「救いとは、神が人間と取引をして、人間から利益をかっさらって儲けること」と解釈できます。


 神(=文明)に救われた結果、ひとは全てを失った

本当は、人間の生活をお金のある社会からお金のない自然の世界へ戻さないといけないのですが。もし神を信じ救われるためには、少なくとも … 「読み、書き、計算」 が必要になり、学校という建物の中に人々を押し込んで知識を教えないといけないのです。

たとえば、ブッシュマンは、ことばを話し、火を使い、道具を使う文明人です。 しかし、彼らは「読み、書き、計算」を知らず、お金も持っていませんでした。 かれらは、お金がなくても自然の中で十分生きていけたのです。で すから、彼らは、文明を発達させず、自然を破壊しない人々だったと言えます。

もし、そのことが分かっているなら … 現代の人々は、彼らからお金のいらない真の生き方を学ぶべきだったと思うのです。 しかし、結果は逆でした。 彼らが救われるために必要なのは、 「読み、書き、計算」 だったからです。

「読み書き計算」 ができなければ、救いの書である、聖書やコーランや仏教の経典が理解できないのです。 ですから、人々は、彼らに学校を与え、 「読み書き計算」 を教えました。 そして、服を着せ、パソコンを与え、お金の社会へ引き込んでしまったのです。 彼らもまた、現代人と同じように神に利益をかっさらって行かれたのです。 救われるために。


 魂とは

魂とは、何でしょう。 辞書を引いてみます。 辞書によると、 「魂とは、人の肉体にやどっている。肉体から離れても存在し、死後も不滅である。」 とあります。 では、漢字源で 「魂」 を解字して詳しく調べてみます。

魂 ⇒「鬼」 + 「云」 で成り立っています。

では、 「鬼 」とは、何でしょうか? 「鬼」 は象形文字で 、「大きな丸い頭をして足元の定かでない亡霊を描いたもの」 だそうです。 では、 「云」 とは何でしょう。 「云」 とは、 「口の中に息がとぐろを巻いて口ごもること。」 だそうです。つまり、 「魂とは、大きな丸い頭をして足元の定かでない亡霊が、とぐろを巻いた舌で口ごもること。」 と解釈できそうです。 亡霊が口ごもると言うのですから … 口が滑っては困ることを秘めているのでしょうか? しかも、とぐろを巻いた舌ということは … 蛇の二枚舌 … 本当と嘘を使い分ける舌と言うことでしょうか?

もし、神が人を罠にかけ罪人にでっち上げることで、救いを求めさせ … その結果、人も含め自然の生き物全てを破壊しようとしているとしたら … 神は、人に対して口が滑っては困ることを秘めていると言えるのではないでしょうか?ですから、神は、とぐろを巻いた舌を滑らないように巧みに使って人をだましたのではないでしょうか?そして、 「神のように、口が滑っては困ることを秘めながら、本当と嘘を使い分けることばを体に納められたのが人間」 と解釈できそうです。

以上から 「魂とは、本音と建前の両方を使い分けることば」 と言えそうです。

野生の生き物は、助けを求めたり、警告を発したり、空腹を伝えたり、怒りを伝えたりするボディーランゲージを持っています。 彼らは、体に起こったことや感じたままを表現しているので、それに嘘はありません。 彼らには、本音と建前を使い分ける魂を持っていないのです。


 魂は本能を否定する

かし、人は他の動物と違って、嘘をつきます。 それは、自分の感情や思いを隠して表現しなければならないような考えをお互いが持っているからです。

たとえば、友達の家で 「お昼はいかが?」 と尋ねられた時、お腹がすごく空いていてもほとんどの人が遠慮します。 素直に 「ありがとうございます。」 なんて言うと、しつけがなっていないとか、遠慮のない子だとか言われ軽蔑されます。 ですから、何度も断ってそれでも勧められたら 「では、遠慮なく」 と…。 なんとも ややこしいやり取りをしなければ、頂くことができません。

もっと大変なのはオナラです。 自然の生き物は、全く気にしないことですが … もし、人が公の場所でオナラをしてしまったら … ごまかすかまたは、失礼がないように謝らなければなりません。 人間も他の生き物と同じように自然の生き物です。

こんな考えをしていると、人が苦しむだけでなく自分自身を苦しめることにもなります。 それなのにどうして私たちは、人が失敗したら笑い、自分が失敗したら恥ずかしいと思いそれを隠すのでしょう。 もし、神が本能と一致していたなら、神のことばが私たちの中にあっても問題はないはずです。

別の言い方をすると … 「魂とは、本能を否定することば」 とも言えます。 ですから、本能を否定している魂である私は、 「自分のからだが、私の望まないことをする」 と思うようになります。そうなってしまった代表的な人がパウロです。 パウロは聖書 (ローマ7:15〜24) でこのように言っています。


私には、自分のしていることがわかりません。 私は、自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているのです。 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

私は、私のうち、すなわち、わたしの肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪をおこなっています。もし、私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはやわたしではなくて、私のうちに住む罪です。

そういうわけで、わたしは善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私の体の中には、異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見出すのです。 わたしは、ほんとうにみじめな人間です。 だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。


自然の生き物は、律法なんてありません。体の声に従っているだけです。頭で 「こうしなきゃ」 とか 「ああしなきゃ」 とか考える必要がないのです。 全ての生き物は、本能に沿って生きているので間違いというのがおこりません。決まりがあるのは、野生で罠にかけられ檻に入れられた家畜たちです。

彼らには、本能の声と飼い主の声の二つがあります。 そして、飼いならされた家畜は、飼い主の声こそが本当の声だと信じるようになるでしょう。なぜなら、本能の声に従うたびに飼い主に咎められるからです。本能は、家畜を支配したり、家畜に戦いを挑んだりしません。

しかし、本能に従うたびに飼い主に咎められる家畜は、「本能を敵」 だと錯覚してしまうのです。そして、家畜のように神に支配されていた人も、本能の声を 「悪」 とか 「罪」 と思うようになるのです。 そして、支配者に言うのです。 「私を罰しないでください。 私は、あなたの律法を認めています。 罰するなら私のうちに住む罪 (本能) を罰してください」 と。

パウロは完全に神の家畜となり、本能を否定し、神の声が本当の声だと思い込んだ一人だと思います。 実は、私もその一人だったのですが…。人も自然の生き物も本来誰かに指図されたりしません。 本能に沿って自由に生きてよかったのです。 ですから、野生の生き物は、いつでも、どこからでも自由に取って食べてよいのです。 自然の世界には、支配者もいなければ、所有するものもいません。 法律もそれを取り締まる警察もそれを裁く裁判所もないのですから。


 魂は一人ぼっち

ところで、 「人間」 と 「野生の動物」 がそれぞれ群れになったときの違いがわかりますか?まず野生の動物ですが、これらの動物は、本能という1つのことばに沿って生きているので相手の動きで、相手の考えが読み取れます。 ですから、余計な不安感がありません。

一方人間の場合ですが、お互い本能を否定することばをうちに秘めているため、本音と建前を使い分けて表現しています。 そのため、相手の考えが読み取れず、大きな不安を持つことになります。 ですから、学校や会社のように限られた空間に入れられると、グループを作って仲良くなろうとします。 しかし、相手がどう思っているか分からないため、グループを作って仲良くしても … 不安と孤独にさいなまれ続けます。

人は、神に本能を否定することばを授けられたことにより、この二つの矛盾する本音を抱えて生きていかなければなりません。 つまり口からでたもろ刃の剣で苦しまなければならなくなっています。

ですから、孤独で不安な人間同士が同じ空間のなかに入れられた場合、人はグループを作り、弱そうな人に向けて 「のろま」 「汚い」 「臭い」 となどと言って優越感に浸ります。その時、いじめる側の人たちは、自分の中にある本能的な部分を隠しています。まるで 「私には全くのろまな部分はありません」 とか 「私には、全く汚いところはありません」 とか 「私には、全く臭いところはありません」 とか言わんばかりにです。

同じグループの人たちは、敵がいることで結束が強くなります。 人々は、このようなややこしことを経てやっとクループの中で自分の居場所が見つけられるわけです。 居場所は、見つかりましたが、根本的に 「孤独」 がなくなったわけでは有りません。

ちなみに、英語で「たった一人」という意味に sole ということばがあります。 これは 「魂」 という意味の soul と同じ発音です。 sole とは 「唯一の」 「ただ一人の」 という意味があり、イタリア語で 「sole」 は 「太陽」 という意味だそうです。


”かつて一つの本能で結ばれていた人たちは、神に所有され名前を付けられることで、それぞれ太陽のように 唯一無二 (sole) の存在とされてしまった。 それが soule つまり魂のことで、 孤独の始まりである。”

魂を持った人間が、自殺をしてしまうほどに孤独を感じるのは、「わたし」という概念を持ちお互いを否定して本音を出せなくなったからだと言えます。

 参考: ( 黙示録1章16節を読むと 「…口からは鋭い両刃の剣が出ており…」 とあります。どう言うことかと言うと … キリストの口から両刃の剣が出ていると言っているのです。 キリストこそ、本能を否定することばを内に秘め本音と建前を使い分けて表現するものと言えないでしょうか )



 死とは

死とは何でしょう。辞書を引いてみます。 辞書によると 「死とは、生物の生命活動が終止すること。生物が命を失ってその機能や体が分解すること。」 「生命活動が止まった状態」 と書いてあります。 では、漢字源で 「死」 について調べてみましょう。 死 ⇒ 「歹 (骨の断片)」 + 人」 で 「死とは、人が死んで骨きれに分解されること。」 だそうです。

しかし、人間の体が終止しても生物の生命活動は終止してはいないのです。 私の体を燃やしたり埋葬しないで自然に任せれば分かります。 私を鳥や獣が食べます。 昆虫や菌が食べます。 いろんな生き物が食べます。 そして、土に分解されます。 それは、終わりでは有りません。 分解された命は、命豊かな土です。 そして、命豊かな土は、木や植物、昆虫や鳥や動物を育んでいきます。 ですから、死は、命を失っていないのがわかります。


 死を無くすことこそ…本当の命を失うこと

また、別の見方をして考えてみます。 たとえば、自分の体を見てください。 毎日私たちの体から垢が出てきます。 これは細胞の死です。 そして、その垢の下には、新しい細胞が生まれています。 人の体には常に生と死が存在します。 もし、この細胞の死を止めてしまうと、人は生きられないのです。


 死は罪と関係ない

そうだとしたら、死は罪の結果出てきたものではなく、もともと自然の世界には存在していたということになります。 そして、死があるから命があるというのなら、 「死」 をなくすことが逆に 「本当の死」 といえます。

と言うことは、神が人々に「永遠」を求めさせ、死を拒ませ医療などの文明を発達させました。 この医療も文明の遺産でお金がないと成り立たないような仕組みになっています。 そのため自然は破壊されています。 と言うことは、個々の命を救い生かすことで自然の命が破壊されていると言うことになります。 なんということでしょう。


 神は永遠かもしれない、しかし「無限」ではない

かつて、私は、神や仏は無限の世界と一致するものだと思っていました。しかし、詳しく調べる中で無限は、限りなく大きくもあり、限りなく小さい世界だと分かってきたのです。 と言うことは、無限の世界では、選ばれたり、はじき出されることがない世界であるはずです。 だれでも、どんな人でもOKの世界です。 地球も、そこに住む生き物も、その他の天体もみんなOK … それが無限の世界。頑張らなくていい世界が無限です。 意識して 「○○をしなきゃ」 といったことがない世界が無限の世界です。 本能に沿って自由に生きていい世界 … それが無限の世界です。

そして、無限はどこにも境目がなく、文字や数字で表せない世界なのです。 つまり、偉いとか愚かだとかいうのがありません。

ですから、支配者もいなければ、奴隷もしもべもいない世界なのです。 ですから無限の世界では、仕えるものがなく、へりくだる必要もありません。 みな同じ1つの命なのですから。 ( 私の言う無限は研究者が言う無限の定義とは違うかもしれませんのでよく読んでください )


 結論

以上からどの宗教も、読み書き計算という知恵がなければ魂の救いが理解できないような仕組みになっていて、それが自然を破壊し、結果私たちが苦しんでいると言うことが分かりました。

ですから、今私たちが苦しんでいるのは、神の仕組んだ罠にかかった結果です。
それなのに私たちは、私たちを罠にかけた神(あるいは宗教)に救いを求めているのです。 なんと皮肉なことでしょうか。





6.



┃宗教で本当に幸せになれるか





 幸せとは

幸せとは、何だと思いますか? 辞書によると 「巡りあわせがいい」 ことだそうです。 では、 「幸」 を解字して漢字源で詳しく見てみたいと思います。


「幸」 ⇒そのまま象形文字で、 「手にはめる手かせを描いたもの」 だそうです。 つまり 「幸せとは手かせをかけられること」 となります。
以外ですね。しかし、どうして手かせをかけられて幸せだというのかと言うと … 辞書によると 「運よくその手かせから逃れて幸い」 ということから来たとなっています。

happiness

英語で幸せを 「happiness」 といいますが、これを解字してもっと詳しく調べてみます。
happiness ⇒ 「hap (偶然、たまたま、運よく)」 + 「pi (混乱させる)」+ 「ness (形容詞名詞に付けて「状態」などを表す」 となります。 混乱の中、運よく逃れて幸せということのようです。日本語も英語も一致しているようです。幸せって、不幸せな状態がもともとないと、求めても与えられないと言うことでしょう。

聖書 (マタイ5:4)に 「悲しむものは幸いです。 その人は慰められるからです。」 とあります。 悲しむものは幸いって、不思議な言葉だと思ったことがありました。 しかし、本来の「幸」の意味からすると、悲しみがあるから … そこから逃れた時幸せになるんです。 悲しみがもともとなければこのことばは何の役にも立たないと言うことになります。

以上から考えると、幸いになるためには、lまず人は罪人でなくてはいけません。 そして、手かせを付けられなければいけません。そして、そこから運よく逃げられた時、幸せになれます。



 幸せのつく漢字

もう少し、理解を深めるために 「幸」 に関連することばを調べてみましょう。


まず、幸を□で囲んだ 「圉 (ギョ) 」 について調べてみます。 「 圉 」 とは、 「 獄 」、 「 国境 」、 「 苦しんでゆったりしないようす 」 という意味だそうです。

では、 「圉」 を解字して調べてみます。
圉 ⇒「口 (かこい) + 幸 (手かせ)」 で罪人に刑を加え、囲いの中に押し込めることをあらわす。 「ギョ」 という音は行動をおさえ取り締まる意を含むそうです。

神は、 「貧しいものは幸いです。 神の国はあなた方のものだから。」 と聖書 (ルカ6:20) で言っていますが、天国ってどんなところが知っていますか? 黙示録21章16節を見ると天国は、四角い立方体でできた内側です。 大きさは日本列島がすっぽり入るぐらいのところです。 天国とは四方を囲まれたところなのです。

この漢字そのもののようです。 ということは…罪に定められた人が囲いの中に押し込められ、神の言葉で行動を制限されている状態を表していると思いませんか。 しかも 「神の国は、あなた方のもの」 といっていますから、天国は 「所有」 という概念があるところです。

無限の世界では、区切りがありませんから全てで一つです。 そこに所有などありません。 神が無限なら、 「あなた方のもの」 という言い方はしないはずです。 しかも、無限は、数字や文字で表すことができない世界です。 それなのに天国は、一辺が1万2千スタディオンだそうです。 無限とかけ離れた世界です。 人も天体も含めた自然は、無限と一致しています。 ですから、神は、私たち無限の存在を、天国に閉じ込めようとしているのではないでしょうか? そういう意味で天国とは、 「天獄」 と書くのが本当かもしれません。

どんな獄かというと … 周囲を囲っている柵のようなものは、神のことばであり、法律です。それで、全てのものの行動に圧力をかけ取り締まるのです。 それが神のいる天獄です。
キリストは 「貧しいものは幸いです。 神の国はあなた方のものだから」 と言いました。 それを言い換えると 「手かせを付けられ全てを失った者たちよ。 天獄はあなた方のものだから」 ということになります。



「報」 とは、 「良いことあるいは悪いことをした結果として、身に受けるもの。」 「仕返し」 という意味です。

では、 「報」 を解字して詳しく調べてみます。
報 ⇒「手かせの形 + ひざまずいた人 + 手」 で、 「罪人を手で捕まえて座らせ、手かせをはめて、罪に相当する仕返しを与える意をあらすこと。」 で、ひとことで言うと 「お返し」 のことだそうです。

聖書 (マタイ5:38,39) にキリストが言ったことばでこう書いてあります。 「『目には目で、歯には歯で』 と言われたのを、あなただたは聞いています。 しかし、私はあなた方に言います。 悪いものに手向かってはいけません。 あたなの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」 と。

罪とは、前のページで神の罠だと分かりましたが、人は、神の罠で罪人にされました。 そして、神に捕えられ座らされ、手かせをはめられたわけです。 人は、その罪に相当する仕返しを与えられるということでしょう。 もちろん最強の神に歯向かうことはできないでしょう。 できることなら叩き返したいでしょうが。 でも、さらに叩いてくださいなんて言えますか? 人はマゾでは有りません。

また、聖書 (ローマ12章17〜21節) にこうあります。 「『復讐は私のすることである。 私が報いをする。 と主は言われる。 』 もし、あなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。 渇いたなら、飲ませなさい。 そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。 悪に負けてはいけません。 かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。 」

無限の世界は、限りがない世界なので、一つ一つに名前がつけられない世界です。 つまり、無限とは、全てが1つの世界です。 ですから、復讐したりされたりすることがありません。 それらが成立するには、みんながバラバラの関係でないとあり得ないからです。

神が復讐する神だと言うところで、神は無限の存在でないことが分かります。 また、 「敵である人が飢えたとき食べさせ、渇いたら飲ませなさい。」 と言っていますが … 。 心に復讐心をもってやった行為は、どんなに見た目に良いことのように映っても善では有りません。 ただ、復讐をごまかしただけだと思います。 しかも敵が弱ったとき恩を着せて自分が利益を得るという巧妙な知恵を感じさせます。



 束縛からの解放

尾崎豊の歌に 「卒業」 というのがあります。 この歌詞に多くの方が共感したことと思います。 それは、私たちの文明社会が、この歌詞の通り仕組まれた世界だからです。 自由になりたい、幸せになりたい … そう思って次のステップに進みます。 しか し、気がつくと同じ支配の中に入れられているのです。 どうすれば本当の自由を手にできるのでしょうか?

↓尾崎豊 「卒業」 (抜粋)
行儀よくまじめなんて クソくらえと思った  夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
逆らい続け  あがき続けた  早く自由になりたかった

信じらねぬ大人との争いの中で  許しあい いったい何 解りあえただろう
卒業して   いったい何解ると言うのか  思い出のほかに  何が残ると言うのか

人は誰も縛られた  かよわき羊ならば  先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか
俺たちの怒り どこへ向かうべきなのか  これからは 何が俺を縛りつけるだろう

あと何度自分自身  卒業すれば 本当の自分にたどりつけるだろう
仕組まれた自由に  誰も気づかずに あがいた日々も 終わる
この支配からの卒業  闘いからの卒業

(尾崎豊「卒業」より)


エデンの園での出来事を思い出してみると‥。
エデンの園は 周りが垣で囲まれた庭でした。
悪魔は生き物の中で最強に神が創ったものだった。
そして、人は … 子羊のように弱かった。

垣でかこまれた同じ空間に最強の悪魔と羊のようにかよわい人間が入れられたことになります。 これを神自身が行ったのです。 しかも、人間を守る羊飼いのキリストは不在。もうここで人間に何の落ち度もないと言うことが分かると思います。

神は、十字架にキリストを付けたことで慈悲深いかのように見せていますが … 創世記のエデンの園ですでに私たちは神にだまされていたのです。 エデンの園の出来事は、人を罪に陥れる罠だったのです。そして、そこで人は、神に捕えられ座らされ、手かせをはめられたわけです。 人は、その罪に相当する仕返しを与えられるのです。それは、神のことば、つまり法律です。 それですべての人たちの行動を取り締まるのです。

かつて人は本能という声に沿って森の中で自由に生きていました。 しかし、神はエデンの園で人をだまし束縛したのです。 そして、人はエデンから罰という名目で追い出されたのですが … やはり、神は人につきまとい … 法律で私たちを縛り続けているのです。

今私たちの置かれている環境を見ればわかります。 法律に束縛された人々は、幼稚園から解放されたはずなのに、小学校で束縛され、小学校から解放されたのに中学校で束縛され … 大学から解放されたのに会社に束縛され、会社から解放されたのに老人ホームに束縛され、死んで解放されたのに棺桶に入れられ、棺桶から解放されたのに四角い骨壷に束縛され、そのまま解放されることなく頑丈な四角い石の墓に束縛されてしまうのです。 すべて法律によって行われました。この法律を誰が打ち破れますか?

自由になるために学校の窓ガラスを割っても、会社の壁を壊しても … 法律によって裁かれ … 鍵の掛った獄に入れられるだけなのです。 だから、大人になるってことは、 「自由になれないとあきらめること」 「束縛を受け入れること」 です。 このようになった大人たちを世間では成長した人と賞賛します。 それは、支配者である神にとって都合がいいことだからです。 しかし、大人たちは、自由になったから落ち着いたのではありません。 あきらめたから大人しくなっただけです。 ですから、どんな年齢の人も、自由になりたいのです。 本当は。

なのに … 、キリストはこのように言います。 「私が来たのは、律法や予言者を廃棄するためだと思ってはなりません。 廃棄するためにではなく、成就するためにきたのです。 まことに、あなた方に告げます。 天地が滅びない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。 」 と。 法によってどこまでも私たちを縛り続けるつもりです。 それが 「天獄」 なのでしょう。

★ 宗教で本当に幸せになれるか? という質問の答えは: 「幸せ=手かせ」 とするなら、答えは YES になる。 しかし、皆がイメージしている幸せとは程遠いと言えるのではないでしょうか?


 生きもの(人も含む)は無限の中に存在する

無限の世界は限りがなく全てで一つの世界だった。 かつて私は、そこにいたのに … 。 「早く自由になりたい」 「この怒りをどこへぶつけるべきなのか?」 「いつ私は、本当の自分にたどりつけるのだろう?」 … 。

でも無限は、永遠と違う! 無限は、限りなく大きいけ ど… 限りなく小さい。 限りなく強いけど、限りなく弱い。 だから無限は、分け隔てなどしない。ゆったりとした空間なんだ。

永遠は、点や線でできた光のようで一方方向にいつまでも続く世界。 だから、永遠は無限に包まれているといっていい。

どんなに、ことばが私たちを束縛しても、私たちが無限という空間にいることに変わりがない。 無限にはスタートもなければ終わりもない。 だから、 「あと何度卒業すれば、本当の自分にいつたどりつけるのだろう」 なんて思わなくても大丈夫。 本当の私は、無限に存在するのだから。

無限の世界には私たちを縛る法律なんかない。 全てが一つだから、当然だよね。 これが私たちが生きている本当の世界。 無限の世界に私たちを裁けるものなんてなにもない。 だって法律がないんだから。


※永遠とは: (ことばという神 = わたしは世の光 )

「本当の私は、無限という世界」 に存在する。 しかし、無限という世界にはに 「わたし」 という概念はない。 だったら 「わたし」 は、どこにあるのか?

わたし、それはもともとなかったもの。 文字で置き換えられる言葉が創ったものにすぎない。 たとえば、犬がそこにいる。 だが犬は自分を 「わたし」 と思っていない。 でもちゃんと存在している。

「 私とは 」、神が私たちを所有し支配し苦しめるために創った魂 (言葉の世界で生きてきたわたしと言う記憶) のこと。 無限の世界は、自分さえも所有しない世界である。 だから、本当の自分 … そんなものはない。 でもあえて言うなら、 「全てで一つとなった命」 である。



7.



┃「感謝」も「祈り」も不要



↑自然農法の畑で採れたジャガイモに「感謝!」。ところで、感謝の意味は?


 感謝とは

多くの人は感謝すると、幸せを感じるといいます。 宗教者だけでなく、ごく一般の人もほとんどの人がそう信じています。 「ありがたいな〜」 と思って過ごすと幸せを感じますし 、「ありがとう」 と周りの人に言うことで周りの人も幸せにしてあげることができるからです。

では、感謝とは、どういう意味でしょうか。 辞書を引いてみます。 辞書によると、 「感謝とは、ありがたいと思うこと」 だそうです。 では、感謝を詳しく調べてみたいと思います。




まず、感についてですが 「感とは強く心にこたえるもの。」 という意味です。 では、解字して詳しく見てみましょう。
咸 = 「 口 + ー印 + 戊 (まさかり) 」
   口 ⇒人間の口を描いたもの。 空中に穴のあいた意。
  −印 ⇒1つ。 ひとまとめにする意。
   戊 ⇒武器の一つ。 伐木用大形の斧(おの)。 古くは武器・刑具にも用いられた。

心=心臓の象形文字。

つまり 「感」 とは、 「剣で相手に強いショックを与え口を封じること。」 と解釈できます。



謝とは、 「あやまること。 お礼またはお詫びの気持ち。 また、それを表すための金品」 という意味です。 では、解字して詳しく見てみましょう。
言=「辛」+「口」
   「辛」 ⇒鋭い刃物を描いたもの。 刃物でピリッと刺すこと。 転じて刺すような痛みのこと。
   「口」 ⇒人間の口を描いたもの。 空中に穴のあいた意。
身=女性が、身ごもったさまを描いたもの。 充実する、いっぱい詰まるの意。
寸= 「手の形 + ー印」 で手の指一本の幅。 手をちょっと置く、手をつける意。

つまり 「謝」 とは、 「充実したものを、ちょっとだけ、刃物で刺す」 と解釈できます。


感謝

漢字源で調べた結果、意外だったのは、 「感」 という文字も 「謝」 という文字も両方とも武器となる刃物を持っていることです。 感は心を刺し、謝は、身を刺します。

つまり、感謝とは、誰かに心を刺されるようなショックを与えられた場合、自分の身を削って相手にお礼またはお詫びをすること」と解釈できます。

文明社会において、お礼やお詫びを全くしなかったらどうなるのでしょうか? もし、自分が誰かを助けた時 「ありがとう」 がなかったらどうですか? もし、誰かを助けた時 「ありがとうの言葉に添えてたくさんの金品」 が届いたらどうですか? 「ありがとう」 の一言がなければもう二度と人助けはしたくないと思うでしょうし、 「ありがとう」 のひとことで、 「人助けして良かった」 と思うでしょうし 「金品」 のお礼があれば、これからもっと進んで人助けに貢献したいと思うでしょう。

つまり、一言で言うとこの文明社会は、見返りを求める社会であると言えます。 ですから、この文明社会で気持ちよく生きるためには、最低限 「ありがとう」 「ごめんなさい」 の一言が必要です。 そしてベストなのが金品を 「お詫び」 または 「お礼」 のしるしとして送ることだと思います。



 「ありがとう」さえ求めない野生の生き方

ある日、木に巻きついた蔓植物に足をからませ宙ぶらりんになったカラスがいました。 カラスは助けを求めるような声で激しく鳴いていました。 するとそこにたくさんのカラスがどんどん集まってきて、次々に蔓植物に体当たりし始めました。 カラスは、もし助けられても金品をお礼に渡さないでしょうし、 「ありがとう」 のひとことすらないでしょう。 しかし、たくさんのカラスが集まったのです。 わたしは、思いました。 全てが1つだったら、 「ありがとう」 のことばも 「金品」 のお礼も、要らないはずだと。 右手が左手にお礼を言ったり、感謝のしるしとして金品を渡したりしません。 同じ体なのですから当然だと思います。

無限は、全てで一つの世界でした。 ですから、 「ありがとう」 とか 「ごめんなさい」 という必要がありません。 ですから、自然の世界こそ無限の世界と言えます。



 神と人は永遠に一つになれない

聖書のルカによる福音書 (17:11−19) にらい病をキリストに癒してもらった10人の人たちのことが書かれています。 道の途中で癒された一人がかイエスキリストに感謝しに戻ってきたのですが … あとの9人は、感謝するために戻ってきませんでした。 ここでは、神に感謝することの大切さを信仰者に示しているのだと思います。 では、下記の文 (ルカ17:11〜19) を読んでみてください。

イエスは…ある村に入ると … 重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 (声を張り上げて、 「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」 と言った。

イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、 「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」 と言われた。 彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。

…そこで、イエスは言われた。 「清くされたのは十人ではなかったか。 ほかの九人はどこにいるのか。」 …  それから、イエスはその人に言われた。 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

ここで、神と人との関係がよく解ります。神と人は、「ありがとう」「ごめんなさい」という言葉が必要な関係だと言うことです。つまり、神と人は、全てで1つの関係ではないと言うことです。もともと人間は、森にいて、文字も無く、道具もなく両手両足でできることで過ごしていました。ですから、他の生き物と同様に全てで一つの無限という世界に住んでいたと言えます。そこでは、全てで一つなので「ありがとう」も「ごめんなさい」も必要ないのです。

しかし、神と人は、「ありがとう」「ごめんなさい」が必要な関係です。そうしないと神と人との関係はうまくいかなくなるのです。もし、神と私たちが一つならば、人は神に感謝する必要もなければ、祈ったり、求めたりする必要もないのです。

しかし、ある人は、こう言うかもしれません。「神を信じて救われると人と神は1つになれます」と…。では、聖書(ヨハネ15:1〜11)を読んでみましょう。これは、イエスキリストが弟子たちに言ったことばです。以下の聖書の個所を読んで神と人が一つかどうか考えてください。


「わたしはまことのぶどうの木、私の父は農夫である。 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。 しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 わたしにつながっていなさい。 わたしもあなたがたにつながっている。 ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。 そして、集められ、火に投げられて焼かれてしまう。


あなたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。 そうすればかなえられる。 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。 わたしの愛にとどまりなさい。 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

◆神は、何にたとえられていますか?  神⇒農夫
◆キリストは、何にたとえられていますか? キリスト⇒ぶどうの木
◆弟子たちは、何にたとえられていますか? 弟子⇒枝

▲神は、何をしますか? 実を結ぶために手入れをする。実を結ばない枝を取り除き…枯れたら集めて火に投げて焼く。
▲キリストは、何をしますか? 神の掟を守らせ、弟子たちに実を結ばせる。
▲弟子たちは、何をしますか? 神の掟を守り、実を結ぶ。

無限の世界は、全てで一つの世界です。 なぜなら、限りがない世界だからです。 無限の世界は、無限に大きく無限に小さい世界です。 ですから、無限は、分け隔てがありません。 無限は、全てで一つの世界ですから、上下関係がありません。 また、全てで一つの世界なので、外から手入れするものを必要としません。 掟なるものも存在しません。

結論:神を信じると、キリストと一体になれます、しかし神と一体になっていないことがわかります。 しかも、キリストと人は1つの木になったのに、 「枝である弟子は、実を結ばなきゃ」 と必死にならないといけない状況です。 ということは、見た目は1つだが、本当はバラバラの関係と言えます。 ですから、神を信じて弟子になっても神にもキリストにも 「ありがとう」 「ごめんなさい」 を言わなければならない関係に変わりありません。

また、ある人は言うでしょう。 「神を信じて天国へ行ったら神と一つになって感謝したり、祈ったり、求めたりしなくてもいい関係になるのではないか」 と。

では、黙示録4章: 9〜10節 を読んでみましょう。 これは、天国での礼拝の様子です。


また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いておられる方に、栄光、誉れ、感謝とささげるとき、24人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み‥

◆生き物は、御座についておられる神に何をしていますか? ⇒栄光、誉れ、感謝をささげています。
◆長老は、御座についておられる神に何をしていますか? ⇒ひれ伏し、拝んでいます。

結論:天国へ行っても、地上といる時と同じ関係が続いています。 つまり、天国においても、 「感謝」 や 「ひれ伏して拝む」 ことが必要なくらい神と人はバラバラの関係と言えます。 そんな関係である神がいつもがそばにいると緊張してくつろぐことなどできないでしょう。 永遠に。



 祈りとは

「祈り」 に反対する人はいますか? 祈っている姿をみてどう思いますか? 多くの人は、 「祈り」 は素敵で、 「祈る行為」 は素晴らしいと信じています。 それは、自分が病気になったとき、 「祈っています」 の言葉に励まされたり、災害で苦しんでいる人たちのために祈ったりして人々を 「励ましたり」 できるからです。

では、 「祈り」 とは、どういう意味でしょうか。 辞書を引いてみます。 辞書によると 「神仏に加護・救済を請い願うこと」 だそうです。では、 「祈り」 について詳しく調べていましょう。



では、「祈」という字を解字してみましょう。
祈 = 「示」 + 「斤」
    「示」 ⇒祭壇
    「斤」 ⇒斧のこと。 斧の刃を近づけて切ろうとするさまを描いたもの。 石おのをはかりの分銅に用いたことから重さの         単位に使われた。 (パンのひと固まりを一斤と言ったりします)

祈りと聞いて、 「手を合わせひざまずく姿」 をイメージします。 しかし、漢字の 「祈り」 は、祭壇と斧が関係しています。 生臭い感じがして少し怖い印象ですね。 ここから思いだすのがアブラハムがイサクを捧げるシーンです。 では、聖書を読んでみましょう。 創世記22章1〜19節の抜粋です。

神は彼 (アブラハム) に仰せられた。 「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。 そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。
:
翌朝早く、アブラハムは … イサクを連れて行った。 彼 (アブラハム) は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。

アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取りそれをイサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り二人は進んでいった。 イサクは、父アブラハムに話しかけて言った。 「お父さん。 … 火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」 アブラハムは答えた。 「イサク。 神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」 こうしてふたりは歩き続けた。

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。 そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

主の使いは仰せられた。
 「あなたの手を、その子に下してはならない。 その子に何もしてはならない。 今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。 あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでささげた。」

アブラハムが目を上げてみると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。

主の御使いは … アブラハムを呼んで仰せられた。 「これは、主の御告げである。 わたしは、自分にかけて誓う。 あなたがこのことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。 そして、あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。

◆神は何を求めていますか? ⇒全焼のいけにえとしてアブラハムの子どもイサクを捧げることを求めています。
◆アブラハムは、イサクに真実を伝えましたか? ⇒言葉を濁して 「全焼のいけにえは神が供えてくれる」 と嘘を言いました。

◆アブラハムは、どうしましたか? ⇒いけにえのためのたきぎを割ってそれをイサクに負わせました。そして、たきぎを並べ、イサクを縛りました。そして、祭壇の上のたきぎの上にイサクを置き刀をとってほふろうとしました。
◆誰が 賞賛されましたか? ⇒ 「自分のひとり子さえ惜しまなかった」 と神にアブラハムが賞賛されました。
◆神は誰を祝福しましたか? ⇒父アブラハム
◆神はアブラハムにどんな約束をしましたか? ⇒子孫を増し加える。アブラハムの子孫が敵の門を勝ち取ること。
◆イサクはどんな立場だったでしょうか? ⇒父の賞賛と祝福の犠牲

ここまでを読んでどう思いましたか? アブラハムの自分のひとり子さえ惜しまない信仰に感動しましたか? イサクは、アブラハムの所有物なのでしょうか? 自分の願いや祝福のため、また神からの賞賛のためにアブラハムは自分の子さえ犠牲にでる人ということにならないでしょうか? あなたがイサクだとして、このような体験をした場合、父を信頼できますか? また、信仰深い人と尊敬できますか? 再び同じような神の御告げが父アブラハムにあるのではないかとトラウマになりませんか?

以上から祈りとは、神にそれなりの価値あるものを捧げ、神からの祝福や願いを頂くと言う取引のことではないでしょうか。 しかも神が人々に求めるものは、刃物で血を流し、何も残らないように燃やしつくすことですから …。 そこまでして神の祝福がほしいのでしょうか?

何度も言っていますが、無限の世界は、限りなく大きいだけでなく限りな小さい世界でもあります。 ですから、無限の世界から漏れる人はいません。 無限の世界には、所有という概念はありません。 全てで一つの世界ですから当然です。 ですから、すべてが只です。 つまりお金やそれに値するものを支払うことはないと言うことです。 ですから神は永遠であっても無限とは関係のない存在だと言えます。 誰かを蹴落とし、犠牲にして祝福を受ける永遠の世界より、だれも漏れることのない無限の世界がいいと思いませんか?

一つの体なのに右手が左手に何かしてもらうたびに 「ありがとう」 と言ったり「お礼」をしたりしたら、ややこしいだけと思いませんか。 そんなのはなくていいと思いますが。 もしひとつなら…。



 まとめ

感謝も祈りも、全てが1つの世界なら必要ないはずです。 神はこの世においても、天国でも感謝と祈りを求めています。 人と人との関係も神と人との関係もみんな 「感謝」 や 「お詫び」 がないと成り立ちません。 しかし、感謝すればするほど、お詫びすればするほど、他人と自分がバラバラで孤独を感じるのではないでしょうか。 そして神と自分との距離も一つになるどころか遠くなるばかりです。 (もともと遠い関係だったのかもしれません)




8.



┃全てはカルトである




↑自然を食べつくす文明


近年、カルト集団による事件の報道をよく耳にします。 いったいカルトとは何なのでしょうか?
カルトを辞書で引くと、 「既成社会から正統とみなされない宗教集団」 とあります。 もともとカルトには 「儀式、祭儀:宗派」 という意味がありますので、どの宗教もカルトといってもいいと思うのですが、そうはいかないようです。 問題は、既成社会から、どう評価されるかだそうです。

既成社会から、 「正統である」 とされれば、 「カルトではない宗教」 となり、既成社会から、 「正統でない」 とされれば 「カルト集団」 ということになってしまうのです。



 既成社会とは

では、この絶対的評価をする既成社会とは何でしょう?
既成社会の 「既成」 とは、 「既に出来上がっている」 という意味です。 これは 「既成」 という文字の表の意味です。

では、この 「既成」 という文字について調べてい見たいと思います。
まず、 「既成」 の 「既」 という文字についてですが…。

「既」
「既」 を辞書で引くと、 「すでに、つくす、尽きる、食べつくす」 という意味です。
では、 「既」 を解字して詳しく調べてみます。


「既」 の左側の  という文字ですが、これには 「ごちそう」 という意味があります。
「既」 の右側の  は、
「おくびが出るほど腹いっぱいになっている状態」 を表す意味です。

つまり、既成の 「既 」の意味は、 「ごちそうを食べておくびが出るほど腹いっぱい食べつくした状態」 と言えます。

次に 「既成」 の 「成」 という意味を調べてみます。

「成」
「成」 を辞書で調べると、「しようとしたことが立派に仕上がる」 とあります。

では、漢字源で詳しく調べることにします。

「成」 を解字してみます。 すると 「成」 →「戈 ほこ)」 + 「「丁 (くぎ)」 からできています。 「戈 (ほこ)」 とは、柄が長く、両刃の剣でできた (もともとはギザギザの刃をした) 武器です。 そして 、「丁(くぎ)」 とは、固定するもののことです。 これらのことから、キリストが十字架に釘で固定され、柄が長く、両刃の剣がついた武器で、胸を刺された事をイメージする人もいるかもしれません。

そして、子羊をほふり、それを召し上がる神を …。 (イメージしたくありませんが … )

では、もう少し考えてみましょう。 聖書にキリストの職業は、大工の息子で大工をしていたことが書かれています。 では、大工が使うノコギリという道具は、どんな刃をしていますか? そうです。ギザギザの両刃の剣ですね。 大工は家を建てるのに必要な木を切り倒すことで、間接的に森を食べていく職業と言えないでしょうか?

もし、神が文明という道具を使って自然を食べ尽そうという思いがあるとするなら … 大工という職業も、納得がいきます。
西洋では、肉を食べる時、ナイフとフォークを使います。 フォークで固定し、ナイフで切る …。 そして、食べる…。
( ナイフ=戈  フォーク=釘 )

また、キリストは、羊飼いでした。 今やキリストの家畜である人間と人間の家畜が地球を覆い、森と自然の生き物が破壊されています。 以上から、 「既成社会」 の意味が分かったでしょうか?

「既成社会とは、神が既に料理して、おくびがでるほどお腹いっぱいに食べ尽くした結果 …。 立派に仕上がった社会のこと。」 と言えるのではないでしょうか。ですから、既成社会とはすでに神が創った文明社会のことだと言えそうです。 そこには、神の作った法律に基づいて生きていく時、神は自然の捧げものを食べつくし、結果自然が破壊されていきます。 それが神にとって立派に仕上がった社会ということだと思います。

★ 「既成社会」 とは、絶対的神が創った文明社会だからこそ
権威があります。 ですからその 「既成社会」 が認める宗教が、本当の宗教となり、そうでないものは 「カルト」 と言う事になります。 法律を創る権威のある神にとって都合のいいものを合法、そうでないものを違法にすると言うことだと思います。


 カルト・崇拝について

次にカルトについて辞書で調べてみたいと思います。

cult
カルトとは、英語で 「cult」 書き 「賞賛、崇拝」 という意味です。

◆ 「cult」 の
「cul」 の意味 ⇒「そびえ立つ、卓越した、」 という意味があります。
◆ 「cult」 の
「t」 の意味 ⇒「T」という文字には、 「ぴったり、きっちり、完全、正確」 という意味があります。
◆どうして、 「T」 という文字が 「ぴったり、きっちり、完全、正確」 という意味なのか? ⇒アルファペットの
「T] は釘の形に似ており、釘で 「一点に固定する」 と意味するからです。

以上から
cult の文字から、分かったこと ⇒「 cultとは、ことばという法律できっちり正確に釘で一点に固定する卓越したものを賞賛すること とだと分かります。

ちなみに、よく似た文字で 「cull」 とは、どういう意味かというと‥ ⇒「よりぬいて、殺す。弱いものを殺す。淘汰する。」 という意味だそうです。 つまり、 cull とは、神の作る法律に沿って生きていくことのできない弱いものは、死刑にするということだと理解できます。



 カルトの語源は、「崇拝」あるいは「礼拝」

また、カルトの語源は
ラテン語の cultus 「崇拝」 や 「儀礼」 という意味だそうです。
では、 崇拝 について詳しく調べてみましょう。


崇拝=カルト
崇拝とは ⇒「崇め敬うこと。 神、仏を崇め信仰する。」 という意味があります。 では、 「崇拝」 と言う文字の意味を詳しく見てみましょう。 まず、崇拝を漢字源でそれぞれ詳しく調べることにします。

崇とは ⇒「山が縦に高くそびえているさま。 転じて、気高いと言う意味で、高くそびえる者をあがめる。 また高く持ち上げる。」 などの意味があり、 「御霊屋。先祖をまつるところ。」 とか、 「一族の中心または主となる考え。」とあります。

では、崇を解字して詳しく調べてみましょう。
崇⇒「山」+「宀(やね)」+「示(祭壇)」
   
          ↓
       
( 祭壇を設けた神の霊を祀った建物。 転じて「一族の集団」を意味する )

以上から、崇とは「一族の集団の中心に高くそびえる者を高く持ち上げあがめる」 と解釈できます。

拝とは ⇒「頭を下げて拝むこと。 敬意を表すという意味。 漢字としては頭を下げる。 礼をする。 感謝の意を表する (偉い人に) 会う。 (偉い人から) もらう・受ける。 (草花を)抜く。 」 という意味があり、また 「行為を表す語の前について謙譲の意」 を表します。
拝(拜) ⇒「手」 + 「地面に頭をつけて草を抜いている姿」 で、 「両手をついて頭を地面につけて礼ををする」 と解釈できます。



 カルトとは、集団の中心に崇拝されるものがいる

以上から 「崇拝」 とは ⇒「一族の集団の中心に高くそびえる気高いお方に感謝の気持ちを込めて両手をついて頭を地面につけて自らの身を低くして礼をする集団」 と解釈できます。

飼い主は、家畜に自分の前で頭を伏せさせる訓練をします。 それは、どういう意味かと言うと 「絶対服従」 を意味します。 人間の場合に置き換えると、カルトとは、集団の中心にいる者を崇め感謝をこめて、両手をついて頭を地面につけて絶対服従をする関係になった集団のことだと言えます。

ということは、長であるお父さんを中心とする家族という集団はカルトといえますし、社長さんを中心とする会社という集団もカルトと言えます。 また委員長を中心とする学級もカルトで、校長先生を中心とする学校もカルトと言えます。 また、お坊さんを中心とするお寺や牧師を中心をする教会もカルトと言えます。 ですから、神や仏という存在こそ、カルトの中のカルトと言えないでしょうか? 神や仏は、人間に自由意思があると言うかもしれません。

しかし、神 (仏) に従えば、よい報いを与え、従わないなら罰を与えるという選択しかないのなら、究極の絶対服従と言っていいと思います。 なぜなら、どちらを選んでも罰がないというのでなければ自由意思と言えないからです。 (誰も罰のある方を選べないからです)

また、お父さんや、学校の先生は、絶対服従を求めていないと言う人もいるかもしれません。 しかし、自分が1つの集団のリーダーになった場合、自分に従わないものには怒りを覚えたり、従う者には喜びを覚えたりします。 と言うことは、自分が集団の中心に置かれれば誰でもがカルト的感情を持っていると言えます。


 カルト=反社会的宗教集団=破壊的カルト

T 現代では 「カルト」 と言えば、 「熱狂的な信仰宗教」 のことを指して言ったり、 「反社会的な宗教集団」 のことを指して使われるようになりました。
U さらに、指導者に絶対服従させ、信者の自主性を著しく阻害し、犯罪行為を繰り返すような宗教集団のことを 「破壊的カルト」 と呼ぶようにもなったといわれています。



 まとめ

@既成社会が認める宗教」 も、 「破壊的カルト」 もどちらも 「破壊的なこと」 に変わりはない
A破壊的カルトは、何を破壊しているでしょう? ⇒@法律を破っている。 A社会の秩序を乱している。 B人々の精神や肉体を直接的に傷つけている。
B 既成社会は、何を破壊しているでしょう? ⇒法律に基づいて、自然のものを所有し売り買いする。その結果、間接的に時間をかけてゆっくりと自然を破壊していく。
C既成社会が自然を破壊するとき、法で罰せられるでしょうか? ⇒法を守って行った結果、自然が破壊されているわけですから、どんな悲惨な状態になっても法を守っている限り罰せられることはありません。
D 既成社会が認める宗教が、なぜ自然破壊していると言えるのでしょうか? ⇒法律に基づいて出来上がった文明社会で、自然を所有し売り買いして儲けた人々から、法律に基づいてお布施や献金という形でお金を集めています。 どんなに法に従って、法に裁かれることがなくても、間接的に自らの命の源である自然を破壊していくことに変わりはありません。( お金と自然破壊の繋がりがわからない方は、「宗教はお金で支配する」を参照してください。 )

以上から、破壊的カルトは、法を破り直接人を傷つけるため、社会の人々から、反社会的だと非難されかつ人々に深い恐怖感をあたえたりします。 逆に、既成社会や既成社会が認める宗教は、法律にちゃんと従い、社会の秩序を守っているため、社会の人々は既成社会が認める宗教にとても深い安心感を持つことができます。

しかし、破壊的カルトが悲惨であるように、長い目で見ると既成社会が認める宗教も、私たちが生きるために必要な自然を全て持ち去って行ってしまいます。

本当は、両方とも破壊的なのですが、人々は、破壊的カルトでない宗教が安心だと信じ求めていくでしょう。 そして、既成社会を乱さないよう法を守って一生懸命に働き、そのお金を既成社会が認める宗教に捧げ尽すのでしょう。 自然を全て失ってまでも…。






自然は、区切りがない世界。無限に大きくもあるが、無限に小さくもある世界だった。
        
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