白鳥沙羅のたわごと(自然に沿って生きていきたい)
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寄せ集め記事

わら一本の革命 福岡正信







 






   寄せ集め記事



     カテゴリーにわけられない自分の書いた記事を寄せ集めしたものです。

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「おもてなし」には裏がある 8 天然ゴムよお前もか!/加硫促進剤・放射線
油を売る(怠ける)者ほど金儲け 9 特別秘密保護法
勝利して得るもの。それは幻の大金だった 10 映画「かぐや姫の物語」/ 解説とまとめ
特許/デザイナーベビーに応用できる技術 11 かぐや姫の物語/ 姫の犯した罪と罰について
ハロウィンと聞いてインディアンを思う 12 始まっているのに…「始まっていない世界」
お金を必要としない人々をお金で縛れない 13 厄介者は缶詰に/野生のシカ(奈良県)
薬がないならヨモギを探せ 14 ビジネスチャンス/ 人の不幸は金儲け

「日ごろ感じたこと、思ったことなど‥」を書いていこうと思っています。あとメモしておきたい事など‥。


┃感じたこと、思ったこと



「おもてなし」には裏がある

今流行している「お・も・て・な・し」ということば。この「おもてなし」について辞書を調べると…「表裏なし」が語源で、表裏のない心でお客を迎える意味とあります。なるほど…。しかし、実際はそうでもないことが多いと思いませんか。お金でつながった社会。表はなくても、裏はあるように思うのですが。


■本当の油は手間暇かかる
わたしは、かつて、菜種を圧搾機を買って、自分で種を潰し油を搾り取ろうと考えたことがあります。しかし、圧搾機自体、高価な値段。しかも菜種5kgを一生懸命時間をかけて潰して採れる油は、たった1.4kgなのです。昔、油が高級品だったという意味がわかります。


↓家庭用油絞り機/圧搾機(詳しくは、画像をクリック)
¥148,000 ← こんなに高価です。


こんなに大変な作業をしてとった油。なぜかスーパーに行くと1.5リットル300円程度で売られているのですから不思議です。もし、私が一生懸命自分の手で苦労して得た油だとしたら、1.5リットルの油を300円程度で譲るなんてことは考えません。少しずつ、大切に使うでしょうし、天ぷらにして一気に使うなんてことは絶対にしないと思います。(自然食品などでは、家庭用の圧搾機より大きな圧搾機を使う為、玉締め圧搾法で1.5リットル1400円くらいで売られています。自分で絞ることを思うと安いかなと思います。しかし、市場の5倍ぐらい高い値段です。)


■おもてなし油
こんなことでは、この美味しい油を庶民の人は存分に味わえない。だから、お金のない人にも、美味しい油を毎日食べてもらって、みんなを笑顔にしたい。そんな思いから、この世がやってくれた「お・も・て・な・し」が、これです⇒


油=菜種+ヘキサン+苛性ソーダ+シュウ酸


つまり、たくさんの人に喜んでもらおうと、毒を盛ったのです。ヘキサン、苛性ソーダ、シュウ酸を。ヘキサンは、油を抽出するため、苛性ソーダは消泡剤として、シュウ酸は、脱臭剤として使ったのです。表向きは、みんなのためと言いつつ、実は金儲けのため。なぜなら、ヘキサン抽出だと1日1500トン採れる油が、圧搾法だと、たった、2トン。玉締めだと、わずか800kgがやっとだからです。


毒(ヘキサンなど)を使うと、圧搾法の750倍、玉締めの1883倍も多く油が取れる。


これだと、安く売っても、大儲けできるのです。しかも、これらの毒(ヘキサン、苛性ソーダ、シュウ酸)は、最終食品に残留しない加工助剤として(残留する可能性は無きにしも非ずなのに)、表示義務がないのです。つまり、堂々と「皆さんを喜ばせるために、たくさんの油をご用意しました」と言えるのです。


■「裏がある」と暗に示したことばが…「おもてなし」
「油を絞るには、時間はかかるし、絞れる量はわずか。だから安全と言われる(?)ヘキサンを使って大量に油を抽出し多くの人に安い油を提供したい。」…これは、表向きのことば。裏に秘めた言葉は、「労力をかけず、時間をかけず、大量生産して、安く売って大儲けしたい。」です。だって、お金でつながった世界なんですから…当たり前です。

もし私たちが、生産者に「私たちの為にって言いますが、金儲けのために毒を盛って大量生産したんじゃないですか!!」と詰め寄ったとします。すると彼らはこう答えるでしょう。「だから、暗に言っていたでしょう。『お・も・て・な・し』って。つまり『裏があるよ』って。わかりやすかったと思ったんだけどな〜」と…。


■自分のことは自分で
人に「おもてなし」してもらうと、裏でどんな道具を使っているのか、どんな薬品を使っているのか、わかりません。だから、自分で自分のことをするのが一番ということに最近気づきました。

だから、食用油も自分で賄おうって思ったのです。そう思ったから、油を絞る大変さもわかったし、油が高級だったということも分かった…。今は食用油について思うことは、種から、油だけを取るためにタンパク質や糖質や繊維を捨てるという作業は、バカバカしい作業だということに気がつきました。油をとる労力があるなら、種をそのまま食べればいいという結論に。現在は、油を使わない料理を目指し、ごまや大豆などをそのまま食べるように工夫しています。


■モノを持って事を成し遂げる

「おもてなし」には、「モノを持って事を成し遂げる」という意味があるそうです。なるほど…。油って、それから言うと、おもてなしの中のおもてなしって感じですね。だって、油のなる木はないし、土を手で掘っても、食用油は見つかりません。つまり道具を使って始めて、成し遂げられるモノだと思います。でも…。一体何を成し遂げたんでしょう?

大切な種から、タンパク質や糖質や繊維を捨て、油をとること。つまり、そのまま食べればいいものを、道具を使って無駄な労力と時間を費やし、油を作った。何のために。



表向きの答え⇒貧しい人にも安く油を提供するため
秘められた答え⇒お金儲けをして裕福な暮らしをしたいため



つまり、おもてなしとは、裏に秘められた声で…。「金儲け」だったんですね。これを成し遂げることが、「お・も・て・な・し」。


■まとめ
おもてなしって言うと、とてもいい言葉に感じますが…。たとえば、自分がお友達を大勢呼んでおもてなしをする方になったとします。たとえば100人。でも予算が10万円しかなかったら、結局質を下げることになってしまいます。それをごまかすために、色とりどりに飾ったり、器で演出をしたり…。

私は思います。パーティーなどは不要かなって。シンプルだけど、自分の食べ物は常に自分で賄う。ご馳走しないし、ご馳走もされない。そんな生き方チョット寂しいって思われそうだけど…。これが一番楽でいいと思いました。いいものを必要なだけ食べれば元気でいられるし、元気だったら、なんだか毎日を楽しく過ごせるのですから…。









油を売る(怠ける)ものほど金儲け

お客さんと立ち話していると「もう、油売ってんじゃないよ!」って注意されるわけですが。なんで油?なんで売ってる?って、もう意味わかりませんね。そこで辞書を調べてみるとこう書いてありました。


油をうるとは
仕事の最中に人目を盗んで怠けること。または無駄話をすること。


と。これは、
江戸時代の油売りが客のところへ油を届けに行った際、客の枡に油が垂れ終わるまでの時間を客との雑談でつないでいたことから、そう言われるようになったとか…。なるほど、油売りがお客と雑談していたことからそう言われるようになったんですね。


■ゴミ以下から最高の価値になった油(ガソリン)
捨てられていたガソリン
ガソリン留分の一部はストーブ燃料に使われていたものの、爆発的な燃焼を伴うガソリン留分のほとんどは、くず以下の評価しか与えられず、川に捨てられてしばしば火災などが発生した。(1800年代後半)


すぐに爆発を伴うゴミ以下の価値しかないガソリン。それが1886年。ドイツのカール・ベンツとゴットリーブ・ダイムラーがほぼ同時に自動車を発明。捨てられていたガソリンが皮肉にももっとも価値あるものになったというのです。


■どんな事故がおきても大丈夫

少しの火種でも爆発を起こすガソリン。こんなものが最高の価値だなんて、私たちは本当におかしな時代を生きていると思います。

ところで、知り合いから聞いた話ですが。寒い冬。約10人の人と小さな小屋で暖をとっていたときのこと、ひとりの人が、薪に灯油をかけたそうです。すると灯油をかけるやいなや小屋は一瞬で火の海に。知り合いは、運良く爆風で開いたドアから外に放り出され無事。しかし、中にいた者たちはみな大やけどをおってしまったというのです。

原因は、灯油だと思ってかけられた液体が、実はガソリンだったのです。

先日、京都でも花火大会の際、ガソリンに火が引火して大爆発を起こし、死者・重軽傷者を多数出すという事故がありました。それで、30代の男性が逮捕されましたが…。わたしは、思いました。すぐに引火して爆発する可能性のある調理器具を人がたくさん集まるところで使うなんて!と。ガソリンを燃料にしない調理器具はたくさんあるでしょうに。なぜ、一歩間違うと大爆発を起こす道具を使っているのでしょうか?

ひとりの男の人を逮捕することで、これからもこの恐ろしい機械が使い続けられるのなら、また同じような事故は起こってしまうのではないかと心配でなりません…。

ガソリンは、すぐに爆発する代物だったから、ゴミ以下の価値だった…。なのに、これが早く移動できる自動車の燃料になったり、調理するための燃料になったりすると、これで何人死者が出ても、ガソリンを使うのを止めようとしないのですから。頂点に座する支配者にとっては、使い方を誤った人を逮捕させればいいわけで、彼ら(支配者)は何の損失も被害も受けることはないのです。彼らにとっては、もう笑いが止まらないシステムでしょうね。



■油を売る(油を売るなら怠けてOK)
今、ピラミッドの頂点に座している、この世の支配者は、「油(原油)を売って、油を売って(怠けて)いる」のです。つまり、怠けながら大儲けしている…。なんてことでしょう。









勝利して得るものは、なんと幻の大金だった

日本の借金、一体いくらあるのでしょう。調べてみると、とんでもないことに。なんと、国の借金は1000兆円を超え、国民一人あたり792万円なのだそうです。本当に驚きです。

私たちは、文明社会がもたらした厳しい競争をしてお金を稼ぎ生きています。人はみな人数より少ない職をめがけて走って行って座る。まるでイスとりゲームのように。しかも命を賭けた真剣なゲーム。だから、余計に必死になってしまうのです。

このゲームから蹴落とされたら、同じ大地にいながら餓死するという世界が待っている。空いた土地に家を建て、種を植えてなんとか生きていこうとしても、その空いた土地は、既に個人の土地あるいは国の土地。自由に使える土地がなく、食べ物も飲み物もお金なしには調達できない。だから、落ちこぼれたものは人知れず消えていく運命になっている。

そして以下私の作りばなし…。


2013年過酷な競争に打ち勝ち運良く生き残った100人。その人々にお祝いの言葉が国の指導者から述べられました。「おめでとう。あなたがたは、厳しい競争に打ち勝ち今日まで耐え忍んできました。それで、あなたがたに今日(2013年8月10日)、そのお祝いとして渡したいものがあります。」

100人はわくわく心躍らせました。いったいどんなご褒美がもらえるのだろうと…。
そして、一人一人に渡された封筒をそれぞれ開けてみました。

すると、こんな金額が書かれていました。


 どこにもない幻の「10兆円」

100人は、こんなに多額のお金をご褒美としてもらっていいものかと、ためらっていました。すると…国の指導者からこう言われたのです。

「現在、我が国には、見えない幻のお金(借金)が1000兆円もあります。その幻のお金を勝利した皆さん100人で分けてご褒美としてお渡しします。勝ち抜くだけの力があるからこそ渡せるものです。つまり、一人10兆円という幻のお金をご褒美としてお渡しします。ぜひ受け取ってください。受け取ってくれなければ、みなさんは、この国の国民ではなくなり、他国の捕虜(奴隷)として生きていくほかないのです。多くの人は、競争に負け消えていきました。しかし、あなたがたはまだまだ元気です!。これからも、幻のお金は増えていくでしょうが、それを誇りにこれからも頑張ってください。以上で、私のお祝いの言葉に代えさせていただきます。」と…

見えない幻のお金、こんなものたくさんもらって、嬉しくもなんともありあません。こんなものをもらうために私たちは、多くの人を蹴落としてきたのでしょうか?



私が言いたいこと。それは、競争に打ち勝てば打ち勝つほど…生き残れる。しかし、生き残れば生き残るほど、辛くて苦しい社会が待っているような気がしてならないということです。借金がどんなに増えても大丈夫という声をよく聞きます。海外へ行って外貨を稼いで借金返せばいいよって…。イスとりゲームを違うグループでやるわけですね。でもやっぱり少ない椅子を取り合うのですから、結局同じことを海外で繰り返すだけだと思うのです。

これから、我が国の人口は減り続け、借金は増えていくことでしょう。こんな世の中にあってどんな希望があるというのでしょう。本当に辛すぎます。(現在、一人792万円でも返済不能なのに…。このまま競争に打ち勝ってもなんの意味もありません。ただ砂を噛むように虚しいばかりです。結局覚悟しておかなければならないのでしょうか。経済社会の恐ろしさを!!)




SankeiBiz 2013.8.10現在 「国の借金」(↓詳しくは画像をクリック)
http://www.sankeibiz.jp/macro/news/130810/mca1308100601000-n1.htm


 


 
↓日本の国の借金 /  画像をクリックすると借金カウンターへ



■お勧めリンク
学校でも教えてくれないお金の仕組み。これを知らなければ何もわからないというくらい大切なことが書いてあります。ぜひ参考にしてください。
「地球を破滅に導く利子の恐怖」←クリック








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特許/ デザイナーベビーに応用できる技術(遺伝子予測)

2013年10月20の産経ニュースの記事に「子供の遺伝子予測に米企業特許」というニュースがありました。人の命や外観が企業の手に握られる時代になるなんて嫌ですよね。まずは下記を読んでください。




親から「五体満足に生んであげたんだから、感謝しなさい」とよく言われました。まるで、意図的に仕組んで生んだみたいに言うので、なんだか不愉快になったことが…。しかし、これからは、本当に親の意志が反映された子供を意図的に作り上げていける時代になりそうで、それがとても怖いと思いました。 なぜなら、文明はいつも…最初は、私たちに便利に見せかけてある技術を提供し、後にはそうせざるを得ないような状況に追い込み、最後は、その苦しみから逃れたいのに、そうできないようにするのが常だからです。


           遺伝子予測技術の特許が認められたことで…これから起こること(私の勝手な考え)。

@メディアは、お互い外観で差別するように仕向ける。
Aお金持ちは、優れた外観を手に入れることができ優遇されるようになる。
Bお金を出して遺伝子を操作すればなんでも解決できると、誤った考え方が横行する。


        これらの技術が特許を取得したということは、いずれ金儲けの道具になるということを意味しています。

益々、私たちが外見でお互いを差別するようになり、生まれてくる我が子に不自然な手を加えざるを得ない世の中になっていくようで残念です。



↓その点自然はいいですね。どんな形であっても、お互い区別したり、差別したりしないのですから…。

 大きさ・形、色々あるけど…自然は選んだりしない。みんな同じ土になるんだよ。







5

ハロウィンと聞いてインディアンを思う

もうすぐハロウィン。みんなワクワクして楽しそうです。しかし、わたしは、ハロウィンという言葉を聞くと…なぜかインディアンのことが思い出されて、深く考えさせられるのです。その理由は、下記を読んでもらったらわかると思います。

ハロウィンを英語でHALLOWEENと書きますが…。この文字を解字して、ハロウィンについて考えてみようと思います。まず、ハロウィンを解字すると…「HALLOWEEN =Hall (ホール・玄関の広間)+ow(痛い)+een(まさに)」…となります。

これを私流に解釈すると…「玄関先で、子供たちが『trick or treat』という、まさに痛い言葉を言ってキャンディーを奪っていく。」とまさに文字通りの意味になりました。

もうひとつの分け方で考えてみると…。
「HALLOWEEN=hallow(神聖なものとして、崇める)+wen-(winの由来で…勝ち取ること)」となります。これらを私流に解釈すると「強引に奪ったものであるのに…神のものであると崇めることで、悪い行為も良い行為になってしまう」ということをいっているような気がしてなりません。


                    ↓画像をクリックすると「ハロウィンの基礎知識」の動画へ
                   


小さな子ども達が、衣装をきて楽しんでいるのに…水を差すわけではないのですが…。子ども達が近所の人を訪ね玄関先で言う「trick or treat /お菓子をくれないといたずらするぞ」のセリフ、ちょっと気になります。これって「〜をしないと、…するぞ」と言っているわけですから、立派な「脅し文句」。この脅し文句を楽しそうに言わせるのがハロウィンという行事。これが秋の収穫祭、あるいは感謝祭???ある意味めちゃくちゃだと思います。

trick or treat という言葉を聞くと…わたしは、かつて白人たちがアメリカに住むインディアンに対し行ったことを思い出してしまうのです。つまり、「この土地くれなきゃ、命を取るぞ。」という交渉の言葉を…。なのに、白人たちは、インディアンの土地を奪うだけでなく命も奪ってしまったのです。にもかかわらず、彼らは必ず聖書に手を置き神に誓って宣誓します。多くの血を流して得た大地にいて、それがさもいいことであるかのように…。

                       

                
↓画像をクリックすると「インディアン迫害の歴史」へ
                
                         画像出典:米建国初の黒人大統領誕生の瞬間






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お金を必要としない人々をお金で縛れない

お金があれば、どこにでも好きなところへ自由に行ける。みんなそう思って一生懸命働いてお金をためて遠いところへ旅行したりします。しかし、時々変だなって思うのです。「本当に、お金があればどこにでも好きなところへ行けるのか?」と…。

日曜日の夜、決まって会社員がこう言います(言わない人もいるでしょうが)。「嫌だな〜。明日から仕事だ〜。行きたくないな〜」と…。それに対し「行きたくないんだね。じゃー行かなければ…。」と誰かが答えます。すると、その人はこう言うのです。「行かないわけには行かないんだ。そうしなければ、お金がもらえないからね。」と…

つまり、お金は、「お金があればどこでも好きなところへ連れていく」というキャッチコピーで人を惹きつけ、日々嫌なところ(会社)へ連れて行っているわけです。なんか騙された感じがしますね。なぜって、お金がない時代。人は遠いところへお金を出して行くことはなかったが、毎日自由に出かけていたではありませんか!朝何時から夜の何時までなんて決まりがなく、自由で良かったわけです。

人は、遠くへ出かけほんの少しの間を楽しむために(多額のお金を払って)…、長いこと拘束されることを余儀なくされています。私たちは、文字や数字に長け、素晴らしい生き物と言われていますが…、ある意味文字や数字に騙された馬鹿ないきものと言えます。



    ↓画像をクリックすると「ブッシュマンの定住の問題点 / インターネット連続講座(田中次郎)」へ
              画像出典 /2nieces ボツワナのブッシュマン」より


 
白人の巧妙な騙しが全く通用しないブッシュマン
ブッシュマンが暮らす土地に白人が牧場を作りにやってきます。そして広大な土地をフェンスで仕切ろうとブッシュマンにこう声をかけます。「牧場の仕事を手伝ってくれたら給料を払う」と。

ブッシュマンは白人に尋ねます。「給料というのはどういうものなのだ。」

「お金で好きなものが買える」と白人は答えました。

「でも、好きなものは自分で手に入れるからお金はいらない。」とブッシュマン。

「車や服や大きな家が買える」と、(白人の方も)あきらめません。「それに、たくさんの仕事をすれば休暇やバカンスまである」と、付け加えます。

「バカンスっていったい何だ。」とブッシュマン。

「仕事をしないで、好きなときに、好きなことをして、好きなものが食べられること。」と白人。

「それならいつでもやっている」とブッシュマンは去って行ったそうです。

            「
岩合光昭写真展 / fu-raku」より
  (注 /確かに世界の支配者は白人。しかし、白人であっても、自然に沿って生きていきたいと望む人もいる…。)








薬がないならヨモギを探せ

小さい頃、友達が、漫画本やテレビに夢中になって家の中で遊んでいるというのに、私はもっぱら海や山で遊ぶ。だから、私の足は、いつも切り傷や擦り傷が絶えなかった。そんな私にとってどこにでも生えているというヨモギは、いつも一緒にいてくれる医者さんみたいなものでした。絆創膏も、薬もない、そんな時いつもそばにあったヨモギ。少し手で揉んですり込むだけで、すぐに血が止まって…また遊びの続きができた。ちょっと深い傷だったら、少しもんだヨモギをバンドエードにつけて傷に4・5日貼っておきます。すると傷はすっかり治っています。

↓画像をクリックすると「よもぎ研究所へ」

ヨモギ

よもぎは抜かないで
ヨモギの素晴らしさ。みんな忘れていませんか?もし、家の庭に生えたら抜いて燃やさないでくださいね。お団子や天ぷらにもできるし、その葉っぱを干してヨモギ茶にだってできるんですから。最近は、お金を出して買う人まで。そんなの悲しい。だってどこにでも生える草が、もう無いって言われているようなものじゃないですか!!

病院へ行けばいいやって思わないで、タダで簡単に治るお薬が足元にあるのですから、今日探してみましょう。今日の晩御飯のおかずになるし、美味しいお茶にもなる。決して売り買いされることがありませんようにと願うばかりです。


蜂に刺された時もよもぎは活躍
↓蚊だけではなく蜂に刺されても効くとは!!(いいこと教えてもらいました)
足元の蜂の巣を踏んでしまったようで、踝のあたりに何とも言えぬ衝撃!!
何が起こったのかと思いつつ、まずは大好きな花をカメラに収めて来た道を引き返そうとすると、蜂が大騒ぎ。ここに至ってこの強烈な痛みは、蜂に刺されたのだと知り、愕然。これ以上刺激しないように回り道して引き返す。

こんな事態を想定する訳もなく、薬などもっていない。そうだ、ヨモギが虫刺されに効いたと思い出し、きょろきょろと見回して見つけた。葉っぱを充分揉んで、汁が出る状態になったら、蜂の針と思しきものを絞り出した患部にたっぷりと貼る。ズキン、ズキン、踝に心臓が移動したかと思われるような痛み・・。

去年刺された時は・・よく蜂に刺されるのです・・・長い間痛みと痒みが引かずに悩まされた。
今回もきっと同じだろうなと思いつつ、しばらく歩くうちに・・もしかしたら痛みが少し引いたような。もしかして窮余の策が効いた?効くのならとまた新しいヨモギを摘んで患部に貼りなおす。

薬を持たないためにとりあえず試した方法だったが、帰宅してからもそれほど痛みがぶり返すこともなく、それほど腫れあがることもなく数日で治まった。以前から色々な症状に効くとは思っていたが、これほどの効果を発揮するとは思わなかったので、感動した。蜂刺されには是非!と人様に推奨するものではないけれど、薬もなにもない時には心強い野草薬になりそう。


           枠内の文章 「
つれづれに / ヨモギ」より転写








天然ゴムよ。お前もか! /加硫促進剤・放射線


■天然ゴムに加硫促進剤
わたしが、「天然のゴム手袋なのに手荒れする人がいるんだって」と言うと…。主人が「ゴムの樹液を採る方法知っている?実は、ゴムの樹液を採るときに、ゴムの木に傷をつけるわけ、それがゴムの木にストレスになって、ゴムの中に毒となる蛋白質が混じってアレルギー(ラテックスアレルギー)を起こすらしいよ。」と言うのです。私は、もしかしたら、ゴム手袋を製造過程で何らかの石油系化学物質(以下化学物質)が使われていて、アレルギーを起こしているに違いないと思っていたので…意外な答えに驚きました。しかし、不自然な方法でゴムの樹液が集められていると思うと、当然と言えば当然だと納得しました。


  ↓「ラテックスアレルギー」について詳しく知りたい方は、画像をクリック


画嬢出典:不明


■加硫促進剤にもアレルギー
ところが、さらに調べてみると…。それだけが原因ではありませんでした。ゴム手袋の製造過程に化学物質が使われていたのです。その化学物質とは…「加硫促進剤」というものでした。やっぱり…。化学物質が入っていたんだ。この加硫促進剤、接触性皮膚炎が多くあらわれ、まれにアナフィラキシーを起こすとあると言われているのです。


     ↓画像をクリックすると、天然ゴム手袋ができるまでを詳しく知ることができます。


画嬢出典:
三輿化学の天然ゴム手袋ができるまで


■加硫の必要性

天然ゴム手袋を作る工程で、加硫促進剤という化学物質を使うのですが、なぜそれらが必要かというと…。加硫促進剤をつかうことによって天然ゴムの強さが増しよく伸びるようになるからです。しかし、加硫促進剤(チウラム、メルカプトベンゾチアゾール、ジチオカルバメートなど)は、、アレルギーの原因になっているのです。


加硫とは
架橋反応の一種で、ゴム系の原材料(生ゴムなど)を加工する際に、弾性や強度を確保するために、硫黄などを加える工程のこと。1839年、アメリカの発明家チャールズ・グッドイヤーにより発見され、1843年にイギリスの発明家トーマス・ハンコックにより、反応の仕組みが解明された。/Wikipedeia「加硫」より


■ベールに包む
製造過程に化学物質を一切使っていないのなら、アレルギーの原因が天然の成分と言われても納得がいきます。しかし、製造過程に化学物質を使っていながら、これらの情報を伏せ、アレルギーの原因が天然ゴムの出す生体防御タンパク質の可能性のみというのでは、何か意図的なようなものを感じるのです。


■放射線加硫法でアレルギー解決 / 新たな不安
ところで、天然ゴムに対するアレルギーで死者まで出していることから、放射線加硫法というのが開発されました。これは、放射線にタンパク質を変性させる作用があることことから、それを利用したものです。つまり、アレルギーの原因となっているタンパク質(抗原)を変性させることで、アレルギーを起こさないという理由のようです。たしかに…、これで天然ゴムに対するアレルギーはなくなるかもしれません。しかし、放射線による悪影響が出るかもしれません。なぜなら…いつも最初は、「安全」という国のお墨付きでデビューしていたのですから。PCBしかり。DDTしかり。最初は全て安全だった…。


            ↓ある会社の「放射線加硫法ゴム手袋のキャッチコピー」
本技術は、接触皮膚炎やタンパク質アレルギーのおそれがない安全なゴム手袋の原料となる高度に精製した加硫天然ゴムラテックスの製造技術です。加硫を放射線化学的架橋で行うため、接触皮膚炎原因物質である化学薬品を必要としません。また、天然ゴムラテックス中のタンパク質が放射線照射で分解するので、容易に除去できます。さらに、放射線化学的架橋が低エネルギー電子加速器によるので、製造システムは低価格で、運転コストも低いという特徴があります。


■日常使われる天然ゴム製品はこんなに!
日常生活のなかで、よく使われるゴム製品こんなにたくさんあるのです。私たちはいつゴムに対してアレルギーを起こすようになり、またいつアナフィラキシーを起こし重篤な症状になるのかわからないのですから不安は尽きません。
      

            ↓日常に使われるゴム製品(医療用も含む)
手術ゴム手袋(炊事用なども含む)、手袋用パウダー、ラテックスカテーテル(導尿チューブ・点滴チューブ)、採血時の駆血チューブ、絆創膏、歯科用デンタルダム、ゴム風船、ゴム製のおもちゃ、ゴムボール、ゴム人形、おしゃぶり、チューインガム、ゴムのついた衣類、コンドーム、輪ゴムなど…


ゴム手袋を長時間使用する仕事に従事するものやゴム製造業に従事する方は特に注意が必要です。しかし、その解決策として…天然ゴムが放射線処理されたものになったとするなら、それもまた不安です。このように、国民に知らせることもなく水面下で話がどんどん進められていくのが何よりも怖いと言えます。


■ラテックス(天然生ゴム)アレルギーの謎(果物と農薬とアレルギー)/私説

ラテックスアレルギーについてウィキペディアで調べるとこう書いてあります。


ラテックスアレルギーとは
医療用手袋などに使われている天然ゴム成分によってアレルギー反応を起こす病態。メロンや桃、クリなどの果物に含まれる成分と交叉反応を起こすことがあり、フルーツアレルギーを合併するため、ラテックス・フルーツ症候群と呼ばれることがある。


これを読んで、なるほど…と私は思ったのです。それはあることを思い出したからです。そのあることとは…。

「離乳食を早くした子供は、腸管の発育が十分でなく、本来なら入ることのない食物タンパク質が腸壁から血液内に吸収され、それを体は異物とみなし、抗体を作り、結果アレルギー反応を起こす」ということを思い出したからです。つまり、果物に対してアレルギーを起こすことを…その原理で考えると少し納得がいきます。どういうことかと言うと…。果物の成分はほとんどが水分と糖分と繊維。タンパク質は豆類や卵に比べぐんと低いと言えます。ところがこの果物にアレルギーを起こすというのです。ごくごく微量のタンパク質がそれも腸壁から吸収されて異物とみなされアレルギーを起こすほどに。信じられないことです。しかし、事実果物アレルギーは増えているのです。その理由に私は「農薬」が原因ではないかと考えています。


 
福岡県が2009年に調査・報告した農薬使用回数(↓詳しくは画像をクリック)


これによると、農薬使用回数が、いちご63回、メロン22回、カキ21回、ぶどう25回、なし31回、もも19回、キューイフルーツ10回、マンゴー14回…となっています。(この農薬使用回数は慣行レベルなので、大規模な商業ベースでの使用回数は更に多いと推測されているそうです。)

つまり、わたしが言いたいのは…。虫を殺すような農薬のついた果物を食べると、腸内の細菌が殺され…その結果、腸内細菌のバランスが崩れ、腸壁が荒れ果てます。そこへ本来入るはずのない果物に含まれるタンパク質が血液中へ侵入し、それを異物とみなした体は、果物のタンパク質にアレルギーを起こすようになるわけです。

では、なぜ、果物に含まれる成分にアレルギーがあると天然ゴムにアレルギーを起こすかのメカニズムですが。

例えばスズメバチとアシナガバチの毒の成分はよく似ています。ですから、アシナガバチに一度刺されたことがあり、それに対し体が抗体を作っていたとします。そして、しばらくして…スズメバチに刺されたとします。その人は思います。スズメバチに刺されたのは初めてだから、アナフィラキシーにはならないと…。しかし、体の方は、この毒を二回目とカウントします。つまり、スズメバチに刺されたのは初めてなのに、体の方では二回目として捉え、激しい防御反応(アナフィラキシー)を起こす可能性を持つというのです。
          
つまり、農薬づけの果物をよく食べることで、ある果物にアレルギーを持った場合…。その果物の成分が天然ゴムの成分とよく似ていたら?天然ゴムにもアレルギーを起こすのではないかと私は考えるわけです。そして、ひどい時にはアナフィラキシーを起こすのだと…。


         ↓一回目でも二回目とみなされる毒について詳しくは画像をクリック

画像出典:「虫の毒 二度目は危険の意味/名医を探すドクターズガイド」より


■まとめ / (以下私説)
以下は、いろいろと調べたことをもとに素人である私がゴムアレルギーに対する説を立てました。以下を読んで参考にしてください。

@農薬散布された果物を食べる(果物以外でも農薬のかかったものを食べ続けるとアレルギーを起こす可能性が高くなる)
A腸内細菌のバランスが崩れ、腸壁に炎症が起きる
B果物のタンパク質が血液に入り抗原となり、それに対し抗体が作られる。
Cそこにアレルギーを起こしたことのある果物に含まれる成分とよく似た、天然ゴムの成分に接触すると…体は、果物の成分と同じとみなし、天然ゴムに対してもアレルギーを起こすようになる。

Dそのうえ、天然ゴムには、加硫促進剤というアレルギーを起こしやすい化学物質が使用されており、それによってもアレルギーを起こす。

Eそれらを解決するために放射線を天然ゴムに当てるという解決策が取られるようになった。

確かに、放射線を当てることで、天然ゴムに対するアレルギーはなくなるかもしれない。しかし、農薬をやめてくれなければ、果物(そのほかのあらゆる食品)に対するアレルギーは増え続けるだろう。そして本当に問題なのは、ひとつの食品にアレルギーを持つということは、それに似た成分をもった食品や加工品にもアレルギーを持つということで…いろんなところで原因不明のアナフィラキシーを起こす可能性が増えてくるということです。

まずは、農薬をなくす方向に持っていかなければ、いろんな不具合が私たちの体に起こり、もはやなんでそうなっているのかわからなくなると思います。


              ↓空から撒かれる農薬について知りたい方は画像をクリック







9.

特別秘密保護法案

■国民を守るための秘密を作り、その秘密を保護するために国民を罰する
とにかく‥私も周りの人も震え上がり、そして不安になっている。なぜって‥

文明はいつも‥
「便利だよ。」と言って不便にし、
「安全だよ。」と言って危険にし、
「君たちを守る法律を作ったよ。」と言って、私たち国民を容赦なく法で裁いていくのだから‥



         ↓時事ドットコム(画像をクリックすると実際のページへ)


今の日本は、目の前の氷山に気づいた船客が、いち早く船長に知らせたのにもかかわらず、船長は舵を切ろうとせず、どんどん氷山へ向かって船を進めていくのに似ている。このままでは、手遅れになっていまう。しかし、「日本とい名の船」の船長の耳には、日本を滅亡させる方向へ導く声しか聞こえていないようです。


■その他  / 人々を監視するシステム???
急速にインターネットやケータイが普及したのは、多分こんな目的があったからでしょうね。多くの人が利用している「Skype」や「フェイスブック」が人々を監視しやすくしているそうです。

詳しくは画像をクリック↓

もはや、お互いの信頼関係は崩れてしまったと言えるかもしれません。(スカイプで交わされる会話がマイクロソフト社によって閲覧⇒http://gigazine.net/news/20130515-microsoft-read-messages-on-skype/)






10.

映画「かぐや姫の物語」/ 独自の解説とまとめ / ネタバレ注意


┃感想

先日高畑勲監督の作品、「かぐや姫の物語」を見てきました。とても素晴らしい映画でした。映画での物語の流れは、原作に沿ってはいました。しかし、原作には描かれていない「かぐや姫の幼少期」を加えたり…原作の内容を変えたりして、高畑監督の思い、あるいは世界感があふれるストーリーになっていました。

画像をクリック↓
ジブリかぐや姫プロローグ序章

ちなみに、高畑勲監督が原作の内容を変えたところについてですが…

原作では…
「竹から生まれ、庶民として育てられた娘 (月で何らかの罪を犯し、その罰として地球に下ろされた) が、竹から出てきた黄金によって、貴族となり‥。まるで、タケノコのように類を見ない速さで背丈も出世も急成長。かぐや姫の他に類を見ない美しさに、多くの権力者が寄ってくるも、姫はそれを拒否し…。そして、その美しさを武器に、最高権威者である御門(みかど)と相思相愛になる…。しかし、かぐや姫自身が月に帰る身であると悟っていたがゆえに、無礼ということは承知の上で、それを頑なに断った」という内容になっています。結果、御門とかぐや姫は、結ばれることはなかったのですが、かぐや姫が月に帰るまでの3年間は、御門と互いに和歌をやり取りして心を慰め合っていました。

つまり原作では、「女が男に求める最高権威をもった御門」と「男が女に求める他に類を見ない美しさを持ったかぐや姫」が、相思相愛だったのに…結ばれないまま別れていく(物語の定番)という内容で‥。まとめると‥「かぐや姫は、美を求め自分の価値を高めようと寄ってくる男たちと、黄金を得て出世することに躍起になった翁を翻弄させるだけ翻弄させ、あっけなく月へ帰ったという物語」でした。ある意味、「より美しいほうがいい」、「より身分が高ほうがいい」と思い込めば…どんな馬鹿げたことでも人間はやってしまうんだという皮肉が込められた物語 (あくまでも私の勝手な解釈)。

美しい(その他の相対的な言葉も含む)」という概念は、言葉によって生まれたもので、自然の世界には存在しません。なぜなら、自然には「美しいもの」というものが存在しないからです。たとえば、野生の生き物は、水を求めて集まることをしても、美しさを求めて集まったりしません。食べ物を求めて集まることをしても、美しさを求めて集まることをしません。つまり、美しいものとは、もともと自然に存在しないものなのです…。それを、人はことばのトリックによって、ないはずの「美しさ」をあると信じ…それを追い求めることで、翻弄された人生を送ってしまうのではないでしょうか?(例:「一ヶ月の化粧品代○〜○○万円」とか…)


ところが映画「かぐや姫の物語」では…
御門の申し入れを頑なに断った理由が、自分を不自由にする権威ある者と結ばれるより、幼少期一緒に野を駆け回って遊んでいた身分の低い「捨丸兄ちゃん(原作にはない人物)」と結ばれたいから、という理由に変更されていました。

それは、高畑勲監督が映画を見る人々に「人は身分という隔てを作り、出世することで他人を見下すのが常で…。人はそれを生きる喜び(優越感)として求めるものである。しかし、本当の喜びは、身分を脱ぎ捨て裸になり、みんなと同じ身分になって生きていくことでしか味わえない…」ということを、伝えたかったのだと思います(わたしの勝手な解釈ですが)。これによって、映画「かぐや姫の物語」は、竹取り物語の原作の流れに沿ってはいるものの、内容は原作と異なる「高畑流かぐや姫物語」といった感じになっていました。そして、その内容は、上目線の皮肉的なものではなく、私たちのあるがままの目線に立った心の叫びが込められていて…今まで見たどの映画よりも素晴らしく感動的なものになっていました。本当に、心が震えました。

長い歳月をかけて作った大作映画ということに頷けました。


┃映画で印象に残った箇所(感想を含む)

 庶民的な幼少時代(1)
原作・映画とも、竹の中から見つけられた時のかぐや姫は、貴族が着るような立派な着物を着て、体の大きさは約10センチでした。しかし、かぐや姫は、タケノコのようにどんどん成長し数日でこんなに大きくなりました。原作では、幼少期どんな服を着ていたか記述はありませんが、映画ではこんなにラフな格好で本当に庶民的!
原作を読むと、かぐや姫は、箱入り娘として大事に育てられていましたが…
映画では、みんなに「たけのこ」と呼ばれ自由奔放に野山を駆け回る活発な少女として描かれていました。かぐや姫が住む家の中には、クモがいたり、かえるがぴょんぴょんはねたり。昔住んでいた我が家とおんなじでした。つまり、映画でのかぐや姫は、幼少期を姫というより庶民として育てられたのです。

昭和の中期頃までは、日本のどこに行ってもこんな風景があり、家の中と外の差が今より少なく、生き物が自由に出入りしていた良き時代だったと思います。今は、生き物を一切寄せ付けない作りの家になってしまい残念。

 
庶民的な幼少時代(2)
「タ〜ケノコッ、タ〜ケノコッ」とはやし立てる子供の方へ歩き出すかぐや姫。するとお爺さんが「ひ〜め、ひ〜め」と言ってかぐや姫を呼び返す。でも、こんな出会いからかぐや姫は飾らない子供達と一緒に野や山に出かけて行き伸び伸びと自由に、そして楽しく過ごすようになっていきました。
映画では、子供たちが野や山を走り回っている姿が生き生きと描かれていて、わたしの幼い頃とダブって熱いものがこみ上げてきました。また、子供たちが山で木の実や果物を頬張っているシーンを見ると…かつて、近所の子ども達(少し年上の人も混ざって)と一緒に山にきのこを取りに行ったり、グミや野いちごを取りに行った時のことを思い出しました。藪の中に入って出れなくなったとき、一緒に行った近所のお姉ちゃんが手を差し伸べてわたしを助けてくれたことや、高いところを登るときは、みんなが協力してわたしを引き上げてくれたことなど…。先生もいないし、親もいない。だから弱い人を助けてあげなさいと教えてくれる人もいない。でも、みんな知っていた、どうすればいいかぐらい。自由ならみんな仲良し。学校に閉じ込めて成績で人を評価して競争させる大人には理解できないでしょうが…。

映画では、このように子供たちが自由奔放に遊ぶ姿が描かれていて、私もそこ(映画に描かれている幼かった子供時代)へ行くなら、小さい頃一緒に遊んだ友達とあの時のままの姿で会えて、いつものようにまた一緒に野や山を自由にかけ回って遊べるのではないかと思い、涙が出てきました。

庶民から貴族への仲間入り (1出発)
原作にはない、都へ行くという出発の日のシーン。
一日楽しく過ごして帰ってきたかぐや姫。籠にはみんなで集めたきのこと、捨丸兄ちゃんが捕まえたキジが入っていました。明日みんなでキジ鍋をするという約束をし、楽しさ絶頂の時にあったかぐや姫。なのに、なぜか突然都へ行くと告げられ…。お爺さんとお婆さんが家の前で旅の仕度をして待っていたのです。かぐや姫は、みんなにお別れの挨拶をすることもできず、またキジ鍋を作るという約束も果たせないまま旅立たなければならなかったのです。それが、とても切なく悲しく、そして残酷に思えました。

庶民から貴族への仲間入り (2新しお屋敷で)
野や山で自由に生きてきたかぐや姫。持ち前の明るさで、友達との別れの悲しみからも立ち直り、引越し先の立派なお屋敷で美しい着物をまとって子供らしい自由で伸び伸びとした様子ではしゃぎ、お屋敷を所狭しと走り回ります。着物は、身分を分けて自由を奪うもの。しかし、それにまだ気づいけていない「かぐや姫」…
このシーンを見ながら、幼少のころ我が家に蛍光灯がやってきた日のことを思い出しました。夜、家族が集まるなか父が電気のスイッチを入れて点灯したとき、一斉に拍手が沸き起こりました。そして、この時のかぐや姫のように、明るく照らされる部屋を私はかけ回って喜びました。それは、この明るい光が、明るい未来を約束しているように見えたからです。しかしこの光は後に、私たちを24時間仕事に拘束し、夜ふとんでゆっくり寝るという当たり前の習慣を奪ってしまいました。文明が与えるものはいつも、最初は素晴らしく見えますが、あとになって私たちの自由を奪い苦しめるものであることに気づかされます。(法律しかり、お金しかり、蛍光灯しかり…そして、私たちの着る衣装も…)

庶民から貴族への仲間入り (3教育)
光る竹の筒から黄金や着物を見つけて以来、お爺さんは、かぐや姫を立派な姫君に育てることが天からの使命と解釈。そして、立派な貴族に成長するようにと、相模という養育係をつけました。お爺さんは、教育という名のもとに自然の中で自由に伸び伸び育ったかぐや姫を部屋に閉じ込めたのです。自然から隔離された空間。いくら優しいお爺さんのいいつけであっても、それがどんなに辛かったことでしょう。
鳥は、自然の中で親に食べ物の取り方を学んで育って自立していきます。それなのに、どうして人は、自然から離れ、学校という狭い空間に入れられ、椅子に座り文字や数字を学ばなければ自立できないのでしょう?

子供時代…テストのプリントを渡されても、質問内容が全く分からない私。だから、授業中暇を持て余す毎日でした…。先生が、どんなに丁寧に教えても、「どうして分母は下なの?誰が数字考えたの?どうして、勉強しなきゃいけないの?…」と質問攻めの私。そういう私に先生は切れて「とにかく!どうでもいいから覚えなさい」と怒鳴った。そして、頭がいいと自負するこの先生は、誰が見ても無理と分かる計算ができないのか…「100人いる生徒全員に40番以内に入りなさい」と平気で言うのです。つまり、先生は、「学校というところは、人を蹴飛ばしてでも勝ち残るものが褒められる場所である」ということを教えたのです。

私は幼い頃、どこに行けば、きのこや山菜や果物が採れるか?どこへ行けば魚や貝が取れるか…そんなことを体験でよくわかっていたのに。学校へ行くことで、自然で生きていく知恵を失うこととなり。また、数字や文字で生きる知恵も身につかず…。結局、私の場合、学校へ行くことで…みんなから、置いてきぼりをくらっただけだったのです。

庶民から貴族への仲間入り (4田舎に見立てた庭)
自然で伸び伸びと自由奔放に遊んだ子供時代があったのに。いまは狭い部屋に入り厳しい稽古の毎日。だから、お屋敷の片隅に小屋と裏庭を作った。これが、子供時代の自由で伸び伸びとしていた頃を思い起こすものとなり、かぐや姫にとっては、ひと時の癒しの空間になっていました。
なぜ、人は壁に窓を作るのか?なぜ、人は風景画を壁に飾るのか?なぜ、人は部屋に花を生けるのか?なぜ、人は犬や猫(ぺっと)を飼うのか?それは、お屋敷の片隅に作った小屋や裏庭と同じ理由だと思います。つまり、自然と隔離された文明という枠の中に閉じ込められた私たちは、少しでも自然に近づきたいと、無意識に切望しているからだと思います。

だから、この映画を見た多くの人の目に、言葉にならない涙が溢れてきたのではないでしょうか?わたしたちは、文明を捨て自然へ戻りたいと無意識に切望していますが、同時にその思いを無意識に抑えています…。なぜなら、人はその解決方法が分からず、耐えるほかないからです。

庶民から貴族への仲間入り (5髪結いの儀)
髪結いの儀:
いやいやながらも、儀式を受けいれるかぐや姫。私たちは、「大人」という響きに騙されて、少しずつ自由を奪われていくのかも…
髪を結い、歯を黒く塗り、眉を抜いて墨で書く。そして、重たい着物を着る。それがどうして大人になったというお祝いなのか?自然の中をこの格好で、自由に動き回れるだろうか?この格好で、今までの友達と会ってなんのわだかまりもなく一緒に楽しめるだろうか?身動きすら自由にできない格好。これを、大人として立派に成長した証しだと多くの人が認めなければ、堂々と外にも出られません。だったら貴族にとって「不自然で不自由になることが立派な大人になる」ということなのでしょうか?

たぶん、多くの人が求める文明の頂点とは、山のてっぺんのように狭くて身動きができない不自由な場所ではないかと思うのです。憧れて競争して奪い合う価値はないかもしれません。登っても狭すぎで、誰かがほんの少し押しただけでも、バランスを崩し、落ちてしまうでしょうから…

かぐや姫の名付けを祝う宴会
「斎部のあきた」に「なよたけのかぐや姫」と名前を付けられ、それを祝う宴会が3日間も続く…。自分のことを祝う宴会。なのに‥そこに自分もいなければ、楽しく過ごせる友達もいない。一体何のための宴会なのか?
その間、習わしに従い、帳台(寝室)で過ごしていたかぐや姫に、突き刺さった心無い言葉 (自分を隔てる仕切りの向こうでお爺さんに向けられたことば)。 「どうせそんなに美しくもないんだろう…」 「本物の高貴な姫君でもない癖に…」 「名付けの儀式にいくら出したんだ‥」など。 それを聞くやいなや‥かぐや姫は、「そのまま家を飛び出し服を脱ぎ…、身分の差など気にせず伸び伸びと過ごせた故郷に帰ります(それも駆け抜けるように)。しかし、懐かしい家には知らない人。大好きだった捨丸ももういない。そして歩き疲れ…雪の中に倒れる…」これは夢(?)だったのですが…

この箇所は、映画のどのシーンよりも印象に残ったところです。特に、”美しさや珍しさを競うのに使う「貝合わせ」を、かぐや姫が指で割り、勢いよく家を駆け抜け、次々に身分の高さを表す着物(十二単)を脱ぎ捨てていくシーン” には、グッと来るものがありました。相対的で曖昧な美しさや身分の高さを競って一体何になるのか?お互いの心がバラバラになっていくだけではないか!そんな切実な思いが、わたしの心を鋭く刺したからです…

貴族から始まったと言われる宴会。それが(子供の頃)一般庶民である我が家でも、毎年2回は盛大に行われていました。多くの人が集まって酒を飲み交わし、大声で歌ったり踊ったり…。つまらなそうにしていると、あれを食べろこれを食べろと皿に盛られ…。学校はどこだ。何年生だ。成績はどうだ。学校は楽しいか?どうでもいいことをいろいろ質問され…うんざりしたものでした。

いったい宴会ってなんなんだ?子供心によく考えました。わたしが観察したところによると…
宴会を催すものは、自分の家族を自慢するために行う。すると、周りの人がそれを心にもない言葉で褒めちぎる。そして宴会から帰宅すると「最低な宴会だったな。」とか言ってけなす。そして、自分が宴会を開くときは、相手よりもっと盛大ですごいものにする…。なんだか、嘘を言って褒め合い、本心は相手より常に上に立ちたいと思いつつも、顔では笑顔で応対する…。

だから、こんな嘘つきの集会なんてしなければいいのにと、どんなに願ったことでしょう。

普段、GパンやTシャツしか着ない私にとって、最も似つかわしくない姿(花嫁)にされて大勢の前に出された結婚式。まるで見世物のように大勢の人に注目された…。こんな恥ずかしい儀式を経なければ私たちの結婚は、許されないのですから!だから、今でも私は、冠婚葬祭などの儀式なんて、なくなればいいのにと心から思っています。

かぐや姫を見ずしてプロポーズする5人の貴公子(画像では3人ですが)
この5人は、一度もかぐや姫に会ったことがないのに、「かぐや姫は美しい(らしい)」と大勢の人が言ったその評判だけで、結婚を決意してプロポーズします。美しいものには価値があるという、そんな相対的で曖昧な価値観を信じ、美しい姫を手に入れ所有することで、この価値ある姫を落とせた私は、更に価値があるみたいなことを自慢したい。ただそれだけのことで集まった愚かな5人と言えます。
この5人の貴公子は、まだ見たこともないかぐや姫と結婚したいと思っています。よく宗教で、「見ないで信じるものは幸いです」と言うのを聞きますが…。これで本当にいいのでしょうか?かつてブラジルに渡った日本人は、国からブラジルに行けば素晴らしい待遇を受け、しかも高賃金をもらえると説明されていたのです。しかし、彼らが体験した実生活は奴隷と大差ないものであったそうです。

つまり、言葉を聞いて、まだ見ぬものをイメージした場合、「イメージと決して一致することはない」ということではないでしょうか?

つまり、彼らにとって、本当のかぐや姫とは、それぞれがイメージしたかぐや姫であって、そこにいるかぐや姫ではないということになります。ですから、どんな難題をクリアしてかぐや姫を自分の手中に収めても、自分のイメージしたかぐや姫には決して会えないということになります。

しかも、かぐや姫が5人に出した難題は、この世に存在しない伝説のものを見つけて持ってくるというもの。彼らはみんな諦めて帰るのですが、三年経って、再びそれぞれ姫の出した難題をクリアしようと伝説のもの(この世にはない)を持ってきます。持ってきたものは当然全て偽物。

彼らは、イメージのかぐや姫(この世にない)を得るために、伝説のもの(この世にはない)を命懸けで見つけに行ったことになります。そして、それがないとわかると…偽物を作って姫をなんとか得ようと考えたのです。なんと愚かなことでしょう。(現代の私たちにも当てはまると思います…)

同じように、天国や極楽は目に見えません。だから人は、その内容を聞いて自分の都合のいい天国や極楽をイメージします。そして、人々は自分のイメージした天国や極楽へ入ろうと、しのぎを削るわけですが、残念ながら、決して自分のイメージした天国や極楽には行くことができないのです。なぜならそれは、見たこともない天国や極楽を自分が勝手にイメージしたという世界だからです。

現実とイメージとは違っていた‥…/ @飢えや乾きで苦しむことがない。A温暖な気候B追いかけることも、追われることもない。:イメージ⇒一生寝て暮らせる楽園(天国):実際は⇒一生寝て暮らすほかない狭いスペース。床・壁・天井がコンクリート。正面が檻。なんとそこは、動物園だった。天国ではなく点のように狭い獄。つまり点獄だった。(聖書の黙示録に書かれてある天国も1辺が2220kmのサイコロみたいな立方体の限られた空間の内側。天国というより点獄。)

ちなみに、塩を舐めたことがことのない人に「塩味」を言葉で伝えることは難しい…。なぜなら、舐めたことがない人に、わたしがその体験を伝えても…それぞれ違ったイメージをし、塩を舐めてみるまでは絶対に真実は分からないからです。言葉を知らない生き物は、事前に言葉で説明されることがないので、常に今という真実の世界を生きていると言えます。(つまり、言葉では、何ひとつ正確に言い表せないということです)

わたしのせいでみんな不幸になった…
5人の貴公子の一人「石上中納言」が、燕(つばめ)の子安貝を取る祭、壺に落ち腰を打って死んでしまいます。それを知ったかぐや姫は、自責の念に駆られ苦しみ…「こんなもの偽物よ。」「偽物の私でみんな不幸になった。」と言いながら…裏庭に作った田舎の風景を、壊し始めます。そんな姫を見たお婆さんは、「あなたのせいじゃないのよ」と言って慰めます。
お婆さんが、かぐや姫の息抜きのために与えた裏庭。かぐや姫は、ここに田舎の家や水車小屋を本物さながらに作っていました。今まで、不自由な自分を慰めたこれらの庭を、かぐや姫は今、「ニセモノ。ニセモノ。」と言って壊すのです。(この箱庭もニセモノ。地位のない素朴な人たちが好きで自分もそうありたいのに、十二単を着て偉そうに姫として生きようとしている私もニセモノ。そんな生き方がみんなを傷つけている…。) そんな、かぐや姫の辛い思いが伝わってきて…見ている私も本当に辛かったです。でも、お婆さんはそれを咎めたりせず、大きく受け止め抱き寄せてくれたのです。全身の血に暖かいものが流れていくような感じがしました。

ちなみに、原作「竹取り物語」では、「石上中納言は、燕(つばめ)の子安貝を取るとき、壺に落ち腰の骨を折る…。その時は気を失っていただけ。気がついて手に持っていたはずの燕の子安貝を見ると、それはなんと、燕の糞(映画では、糞ではなくヒナでした)。石上中納言は、それを恥と思い世間に知られないように隠そうとし気疲れし病気が悪化。ついには、燕の子安貝が取れなかったことよりも、人に笑われることを気にするようになる。そして、病気で死ぬよりも恥ずかしいことをしてしまったと思い悩む。そんな時、話を聞いたかぐや姫は、石神の中納言にお見舞いの歌を送る。そして、石上中納言は、かぐや姫の歌の返事を書き終わると同時に亡くなる。それを知ったかぐや姫は、少し可哀想だと思った。」そうです。原作と映画との温度差を感じます。(参考/竹取り物語の原文・現代語訳15

お花見で楽しもうと思ったのに…
貴公子たちが去って、屋敷の周りに集まっていた人達もいなくなり、かぐや姫は、お婆さんと女童(めのわらわ)の三人でお花見に…。でも、お爺さんは姫の縁談が全て壊れ、相模(さがみ/ かぐや姫の教育係)にも見捨てられ、ショックで花見どころではなく欠席。
この場面も、とても印象的でした。やっと外の空気に触れたかぐや姫。解放された気分になり、つい大きな桜の木の下で子供のようにくるくると舞ってしまったのです。すると小さな子供にぶつかって子供が倒れてしまうのですが…。そのお母さんと子供は、すぐに姫にひれ伏しひたすら謝り続けるのです。身分を忘れ、気さくに誰とでも交わりたいと思っているかぐや姫にとって…身分が違うということがどういうことなのか…痛いほど知らされた瞬間でした。着ている服1枚で、そこにいる子供と自分の間に大きな隔たりのようなものがあり、決して同じにはなれないということがわかったのですから…。

御門の求婚と死の決意
五人の貴公子が去ってやれやれ…というところへ。最高権威をもった御門に求婚の意があることを知った、お爺さん。うまくいけば、位を貰えると喜び、こっそり帝をかぐや姫の部屋へ通してしまうのです(そっと部屋を覗く御門。かなり…気持ち悪いですね)。そんなお爺さんに対しお婆さんは「あなたは、まだわからないのですか」とたしなめます。
幼少期を自然の中で自由に楽しく過ごしたかぐや姫。「姫は自ら、都へ行こうと思ったわけではない…。自ら、相模(姫の教育係)について教育を受けようと思ったわけではない…。自ら身分の高い貴公子たちと縁談をしたいと望んだわけでもない…。」それらは全て、嫌なことではあったのですが、お爺さんの考えに従って行われたことでした。

お爺さんは、身分は低いけれど、讃岐地方の宮廷に仕える家来であったので、田舎で竹を取りながらも自分は田舎のみんなとは身分が違うと思っていたのでしょう。だから、竹の筒の中にかぐや姫や、黄金や着物が与えられたとき、出世するチャンスと思ったのではないでしょうか。だから、お爺さんは、都へ出て大きな屋敷を建て、教育係である相模にかぐや姫を託し…、「かぐや姫と結婚できたら、それ相当の官位を約束しよう」という国の最高権威を持つ御門の言葉に心が踊ったのだと思います。

それに対しかぐや姫は、「私は、誰とも結婚する気はありません。しかし、御門と結婚することでお爺さんが幸せになるのなら、お爺さんが位を得たあとに私は死にます」とお爺さんに真剣に訴えます。もうこれ以上、操り人形のような嘘を演じたくないという切実な思いがあったのだと思います。しかし、その切実な思いはお爺さんに伝わらなかったのか、お爺さんは姫に内緒で御門をかぐや姫の部屋に通してしまったのです。

かぐや姫の必死の願いを退けてまで、価値のある地位や名誉とは一体なんなのでしょう?周りの人と差を付けて、自分より下のものを見下して喜んでいるだけではありませんか!自然の中で…虫も鳥も獣も風も太陽もそして人もみな同じ身分で大差なく、お金もなく、法律もなく、所有もない…無限に広がる世界でみんな一緒に生きる価値に、勝るものはありません。

それを体験で理解していたかぐや姫は、地位や名誉ばかりを求め、かぐや姫の人生を束縛するお爺さんの生き方に我慢できなくなったのだと思います。なぜなら、お爺さんが御門を部屋に通した日以来、かぐや姫は、「死にたい」と思うようになったのですから…。それが、月のお迎えが来るというSOSになってしまったわけですが…。

(『かぐや姫が、「死にたい」と言った時点で地球が穢れた世界であることを姫みずからが認めたのだから、罪の償いが終わったものとして、直ちに迎えを差し向けること。その段階で姫は月との交信によってそのことを知らされること。』とかぐや姫の物語のパンフレットにあります。) ちなみに御門の求婚の原文はこちら⇒
:「参考 /竹取り物語・原文・現代語訳16

昇天前に捨丸兄ちゃんと夢(?)で会う

ポストカード
昇天する前に、かぐや姫が、子供の時に一緒に過ごした捨丸兄ちゃん(原作には登場しない人物)に会いに行きます。そして、かぐや姫は、こう言います。「捨丸兄ちゃんとだったら…幸せになれたかもしれない」と。
子供の頃、地位がどうのとか名誉がどうのとか、そんなの全く考えないで…山や野原を駆け回って遊んだ日々を二人で思い出すかのようなシーンです。

映画では、画面の端に奥さんと子供の姿がチラッと描かれ、捨丸兄ちゃんが不倫していることを、暗示していました。わたしは、倫理的に考え、このシーンは要らなかったのではなかったのかと思っていました。それは、夫がわたしと子供の存在をすっかり忘れ私の目の前で幼馴染の人と…手を繋いで楽しんでほしくないからです。(たとえ夢だとしても)

しかし、高畑勲さんの追悼金曜ロードショーを見ている時 「なぜ高畑勲さんが、不倫ともとれるこのシーンを入れたのか」が、急に分かったのです。

つまり…
私たちが「自然」という言葉をイメージする時は、「空気や水がきれいで緑の木々が多くあること」だと思ってしまいます。しかし、高畑勲さんが伝えたい自然は、‥文明が全くなかった自然本来の自然のことだったのではないでしょうか。具体的に言うと、大地が誰にも所有されなかった時代であり、人もまた他の動物のように (法律にではなく) 本能に沿って生きていた時代のことだと…。

文明社会では、妻子のある他の女性と手をつないだ場合、不倫と言われます。しかし、法がない自然本来の世界なら、本能のまま生きていいのですから、「不倫」でもなんでもないのです。

また、映画の中に捨丸兄ちゃんがウリや鶏を盗むシーンがありましたが、文明社会では誰かが所有するウリや鶏を取った場合、それは「泥棒」と言われます。しかし、土地や生き物が誰も所有しない自然本来の世界なら、食べ物をどこからとっても「泥棒」ではありません。

文明は人を法で縛り、それに従わない者を罰します。しかし、自然には法がないので、自然本来の世界は誰をも法で縛ったり、罰したりしません。高畑勲さんは、そんな自然本来の素晴らしさを私たちに伝えたかったのではないでしょうか?(わたしは、法は自然本来の世界より後から出てきたものなのに、自然本来の世界ではなく「法」を絶対的なものと間違えていたことに気づきました。)

私たちは、「本能に従うことは、みだらなこと」と思いますが、私たち人間が文明にではなくずっと本能だけに従い続けていたとしたら‥地球はたくさんの種類の生き物や植物でバランスよく満たされ、人口爆発とか高齢少子化などという言葉もなかったし、ロボット開発や宇宙開発や武器などの開発もなかったことでしょう。

映画の中でかぐや姫は「喜びも悲しみもない清い月ではなく、お爺さんおばあさんの元 (つまり自然本来の自由の世界) にいたい。」と訴えるのですが、かぐや姫は月へ帰るという決まりに従うしかありませんでした。

わたしは、「月の掟に縛られそれに従うしかないかぐや姫」を見て、「文明の法に縛られそれに従うしかない自分」とが重なり、涙が出てきました。このような悲しい状況の中にわたしたちが生きていることも高畑勲さんが伝えいことだったかもしれません。

月へのお迎え
↓画像をクリックすると陽気な音楽へ

出典:夢かよふ/ 月の都へ
月へ帰りたくないというかぐや姫。帰って欲しくないと泣きながら弓や槍で抵抗するお爺さんや御門たち。そこへ、陽気な音楽とともに、王と天人が雲に乗ってお迎えに来るのです。罪を犯し地球に落とされた姫が今日刑期を終え帰ってくるわけですから…王にとっては娘の出所祝い気分。悲しい場面に…陽気すぎる音楽。この音楽が月と地球の温度さを感じさせ、さらに残酷さを醸し出していました。左の画像は、映画のシーンではありませんが、映画もこれとほぼ同じような光景でした。
都に出て以来、ずっとお爺さんの操り人形のように自分の意志を殺して生きてきたかぐや姫。たとえ、それが嫌であったとしても、幼少期を自然の中で自由に過ごした楽しさを忘れることはできません。だから、月からのお迎えが来た時に、思わずお爺さんとお婆さんに抱きついてしまいます…。天人は、容赦なく「かぐや姫」を引き上げ月へ連れて帰ろうとします。ここでも、かぐや姫の自由意思は全く許されません。つまり、かぐや姫は地球においても月においても、自由に自分の意志を通すことが許されなかったということになります。ただ許されたのは、地球において、自然の中で自由に生きた幼少期だけだったのです。

私も学校に行くまでは、数字も文字もほとんど知らず野生児のように外で遊び呆けていました。だから、私にとって…ダンゴムシやアリ。トカゲやヘビ。スズメやキジやヒヨドリ…みんな私と区別がなく同じ世界の仲間でした。

今も思い出します。川に行って友達とバシャバシャ遊んだことや、山に木の実を採りに行ってはしゃいだことを…。そこには、いつも嘘のない賑やかな笑いが響いていました。もし、学校も会社もなく、そのまま自然の中で人々が動物と同じように成長できたとしたら…今と違った自由と優しさがこの世界に満ち溢れていたのではないでしょうか?

               ↑画像は、「かぐや姫の物語/CAED COLLECTION PREMIUM」より


┃その他

下心丸出しだった自分に最後まで気づけなかったお爺さん

ポストカード
身分は低いけれど、讃岐地方の宮廷に仕える家来であったお爺さん。竹取りの仕事をしていても、田舎の人たちと自分は身分が違うという思いがあって…(竹筒に入っていた黄金によって)…都に大きな屋敷を建て、このような格好をすることで、自分が立派であることを多くの人に知らしめました。これは、お爺さんの心に秘めた夢が現実になった瞬間だったと思います。
「立身出世のため」という裏に秘めたものがあっても、表向きには「姫の幸せのため」という理由があって…。結局、その表向きの理由のために、最後までお爺さんは、自分の本心に気づけませんでした。私たちが職場において働く場合でも、それは言えることで…。裏に秘めているものが金儲けであっても、表向きには「お客様のために」と理由付けするために、自分の本心になかなか気づくことができません。

文明社会は、自然から隔離された社会なので、自然本来から考えると「嘘の世界」と言えます。ですから、そこを根本から変えない限りいつまでも…この問題は解決しないのだと思います。つまり、木や草やその他の生き物が誰にも管理されず自由に生きられる世界。そんな調和された世界に戻し、文明に頼らないで生きる知恵を身につけた私たちが、他の生き物と共に住むようにならなければ…


女童(めのわらわ)も本当の友とは言えない????

ポストカード
自然から隔離され、野を一緒に駆け回っていた友達とも引き離され…文明のしきたり(不自然なこと)を、厳しく叩き込まれるかぐや姫。どんなに不安で、孤独だったことでしょう。そんなとき、いつも一緒だったのは女童(原作では、登場しない人物)でした。外に出れないかぐや姫のために桜の枝を折ってきたところなど、さりげない優しさに心が和みました。
5人の貴公子が急いで屋敷に訪れたときも、乱れた貴公子の着物の裾をひとつひとつ丁寧に整えて上げるなど…とても気が利く女童。なんだか…とても可愛くていいこだな〜という印象が強かったです。

しかし、よく考えて見てください。このおもてなしには裏があるのです。
なぜ、ホテルの従業員が丁寧すぎるくらいの言葉をかけて手荷物を運んでくれるのか?なぜ、病院の先生が親身になって話を聞いてくれるのか?なぜ、お店の店員が満面の笑みで接してくれるのか?それは、…。お金を運んでくれるお得意さんだからです。そうでなければ、だれがこんな親切をしてくれるでしょう?もし、そうでないと思う方は一度一文無しで行ってみてください。きっと玄関で追い出されるでしょうから。

映画の中の女童がかぐや姫に親切だったのも、かぐや姫と友達だからではなく、将来上流階級婦人に仕えて雑用や身の回りの世話をする人(単なる家政婦ではない)に成長するという目標があったからです。ただ単に友達だからという理由ではないのです。もし、かぐや姫が身分を捨て、田舎のお転婆娘に戻った場合、この女童が今までと同じようにかぐや姫に対し接してくれることはないでしょう。女童にとって、身分の高いものに仕えているというプライドがあるでしょうから、身分の低いタダのお転婆娘になったら、見向きもしてもらえなくなると思います。かぐや姫と女童を結びつけていたのは、「身分の高さ」だけです。つまり、文明が与える友情というものは、本当にもろいものだと言えます。

ですから…、私たちが求めなければならないのは…自然の中で、虫も鳥も獣も風も太陽も(そして、人も)みな同じ身分になり、お金もなく、法律もなく、所有もない…無限に広がる世界でみんな一緒に生きる世界ではないでしょうか?なぜなら…そこには、お金がなくても、身分がなくても、友となってくれる友(自然そのもの)が必ずいるからです。

感謝や尊敬よりも道具を捨て同じ身分に…
↓クリックすると生涯学習センター「土壌環境から見た森」へ

森の土の中1gには、数十万から数十億匹のバクテリアが、足の裏(約200cm2)には何万という生き物(ミミズ・ダニ・ムカデ・センチュウなど)がいます。もし、森を壊し、そこに畑を作ったら?家を建てたら?学校を建てたら?工場を作ったら?公園を作ったら?お店を作ったら?どれだけの命を奪うことになるのだろう?
調和した自然が破壊されていく様子を見て、多くの人は、「人間に自然を敬う気持ちが足りないせいだ」と言います。確かに、 私たち人間の多くは、野生的な生き方を「野蛮」 と言ったり、泥がつくと 「 汚い 」 と言ったり、 菌を 「単細胞 」 と言ったり、虫を 「 虫けら 」 と言ったりして自然を軽蔑しているように思います。 ですから、「自然を敬いなさい」という考えは、当然といえば当然のような気がします。

しかし、「自然を敬う」ということばの裏には、「自然が自分より身分が高いから、そのような態度で望むのが当然」という(身分の差から出た)考え方が、見え隠れするのです。つまり、文明が与えた「身分の差という不自然な考え方」はそのままにして、今まで敬っていた「文明」を、「自然」に変えただけのような気がするのです。

人は、お金儲け(これは隠された動機)のため、そこにいた虫や鳥や獣を追い出し、人間だけのための畑を作り収穫します。つまり、多くの生き物の命を奪うという不自然なことをしながら、自然を敬い感謝しているというのです。まるで、「敬うという行為」によって、自分の至らなさを正当化するかのように…。(食事の前に必ず手を合わせ「いただきます」と言ったり、感謝の祈りを捧げたり…)

私たちがもし、「自然が全てでひとつ。同じ身分である。」と理解できたなら…。感謝したり、敬ったりするのではなく…、まず文明の知恵で作った道具を捨てるのではないでしょうか。自然の生き物は、どんな生き物も素手で生きています…。だから、他の生き物と同じ身分になるには自分たちも素手にならなければ、同じ身分とは言えません。

もし、道具を捨て同じ身分になることが大事と考えるなら、道具を捨て…「生き物たちと同じ身分」になろうではありませんか!!そうすれば、木を切る道具がなくなり…。家を建てる道具がなくなり…。道を作る道具も、自動車を作る道具もなくなり…自然本来の世界(本物の世界)へ戻ります。なんて、素晴らしい世界でしょう。しかし…もし、もしそれを許してくれない世の中であるのなら、私たちは、もっと素直に…呻き、嘆き、悲しんでいいと思います。ニセモノの世界に閉じ込められたままなのですから…

記憶を消した天の羽衣について
かぐや姫が地球に下ろされるときは、月の記憶が消され、また月に戻る時には地球の記憶が消され‥。この物語を読むと‥一体記憶って何なのだろうと考えさせられます。しかしながら、大雑把に記憶を考えるなら、記憶は、2つに分けることができます(私説ですが‥)。 どういうふうに記憶をふたつに分けるかというと‥。「野生で生きる真の記憶」と「文明で生きる嘘の記憶」との2つにです。

たとえば‥、空を飛べない鶏がいて、猫にやられると可哀想だからと‥人は鶏を小屋に入れて大切に飼います。しかし、野生で生まれ育った鶏にとっては、猫から守る小屋はいりません。なぜなら、鶏は野生でちゃんと生きていく知恵を記憶しているからです。この「野生で生きる真の記憶」を消してしまったのは、‥「文明で生きる嘘の知恵(記憶)」で作った鶏小屋です。文明は、鶏を他の生き物から隔離して守っているというかもしれませんが‥、文明がやってきたことは、鶏をゲージの中に閉じ込め‥足腰を弱らせ…「自らエサを採って自然に沿って生きる真の記憶」を消しただけです。

つまり‥、竹取物語に出てくる、「天の羽衣」は、「文明という偽りの知恵(記憶)」の象徴で‥。この知恵を人に着せることで、人が覚えていた「野生で生きる真の記憶」を忘れさせたと言えます。なぜなら、衣は、自然の中に存在しないし、これを着たことで、人は裸を忘れ‥人とのふれあい方も住む場所も、森や川や海で自由に生きる素晴らしさも‥何もかもがわからなくなり、生き方そのものが変わってしまったからです。
   野生で生きる真の記憶を持った鶏です

志村動物園という番組を見ていると‥動物の赤ちゃんが、人間の住む建物の中で‥人間が遊ぶ道具に囲まれて生活しているところを映していました。この動物の赤ちゃんたちは、自然に沿って生きていくというとても大切な生き方(本当の記憶)を失っているのです。本来なら‥、私たち人間が野生で生きる動物に学び、野生で生きる生き方(本当の記憶)に戻る必要があるのに‥。現実は逆で‥、人間だけにとどまらず、野生の動物にまで「嘘の記憶」を着せ、文明でしか生きられないようにしているのです。(それが文明の完全支配です。文明に頼った人間は水道、電気、ガス…がなくなっただけでも死んでしまう。)

私たちは、生まれてから死ぬまでの記憶(人格とか魂)を、体が死んで後も失いたくないと考えます。しかし、これらの記憶は生きている時に必要な記憶であって、死んだ後は、不要です。むしろ失っていけないのは、「自然に沿って生きる生き方(本当の記憶)」の方です。

煙になった不死の薬/(映画でカットされた場面)
これは、原作のみで、映画ではカットされた部分です。その内容は…
類をみない美しさを持ったかぐや姫は、最高権威者である御門に「不死の薬と手紙」を残し月に帰る。しかし、姫がいないのに、不死になっても意味がないと、最も天に近いと言われる山の頂でそれらを燃やすように「つきの岩笠」に命じ、それらは、そこで燃やされ煙にされたというもの。(このことから、この山を不死山…現在の富士山になったということらしいのですが…)

この部分を読むと…(以下、私の勝手な解釈)
「美しさを競って頂点に立ったかぐや姫と、地位を競って頂点に立った御門との思い(いつまでもそうあり続けたかった=不死)が…(天に届きそうだけど届かない最も高い山で…)全て焼かれ煙(幻)になった」という…意味深なものに感じられるのです。つまり、相対的で曖昧な「美しさや地位」を求め頂点に立とうとした場合、全ての人がその頂点に立つことは不可能。もし、運良くそこに立てた人がいたとしても…そこは狭い頂点、すぐに誰かと入れ替わってしまう儚い場所。

わかりやすく言うと…
「人生をかけ、競争して得た『美しさ』や『地位』の頂点なのだから…いつまでも、頂点にとどまって生き続けたい。そう思って、天に一番近い山の頂上から天を見上げるが、決して失うことのない頂点(不死の世界である月)には、届きそうで届くことはない。結局、一瞬燃えて煙となるような幻に過ぎない…。」という虚しさが感じられるのです。

私たちは、相対的なことばの世界(文明)で日々競争を迫られています。人と比べ、より上を目指し、ついには頂点に立てるようにと…。しかし、頂点に立っても、すぐに誰かが入れ替わってそこに立つ…、なんとも儚い運命。こんな儚いもののために私たちは、日々他人と比べ競っているのです。

私たちが…トップを競うために建てられたスポーツ施設。私たちがトップを競うために建てたれた、音楽ホール。私たちがトップを競うために建てられた学校…etc。これらの建物が建っている大地には、たくさんの木が生い茂り、そこには、菌やウイルス。ミミズやヘビやモグラやねずみ。虫や鳥たちがいました。それが…トップを競って求めることで、失われているのです。

つまり、山頂で燃やされたかぐや姫の手紙は‥
「相対的なことばで成り立つ「文明」を意味し、山の頂点で燃やされるその火は、人々の希望。それを人々は、競って求めていく…。しかし、人々が求めれば求めるほど、その火は…自然を焼き尽くし、煙(幻)にする」ということだと思います。このように、幻(美しさや地位など)を求めさせることで、実態ある自然を煙(幻)にしてしまうという文明(相対的な世界)の罠にかかってしまった言えるのではないでしょうか?(ちなみに、「かぐや姫」の「かぐ」には、「火の神」。「かがようふ」で「光輝く、火、燃える」という意味がある。


参考)「竹取物語の原文」現代語訳23:http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan4/taketori023.html

お勧め動画
映画「かぐや姫の物語」には、自由で伸び伸びとした自然が描かれていて…。それで、皆さんにどうしても紹介したくなったアニメがあります。それは、「地球少女アルジュナ」です。ご存知の方も多いと思いますが…。是非、このアニメを見て自然の素晴らしさを知って頂ければと思います。
画像↓をクリックするとyoutubeへ

地球少女アルジュナ


ホームページで使った画像について
このページに載せた、映画「かぐや姫の物語」の画像は、youtubeにUpされた「ジブリかぐや姫 プロローグ序章」からスクリーンショットしたものです。


「かぐや姫の犯した罪と罰」については、そのまま下↓の記事を読んでください。







11.

映画「かぐや姫の物語」 / 「姫の犯した罪と罰」について/ネタバレ注意

この映画の副題が「姫の犯した罪と罰」となっていますが、映画を見て思ったのはこの副題は無理があると思いました。なぜなら、この副題と内容が一致していないからです。内容は、地位や名誉や財産を捨てでも、みんなが同じ身分になって一つになる方が幸せではないか…、そんな内容であったからです。映画では「どんな罪をかぐや姫が犯したか」について、かぐや姫自身が語っている部分がありましたが、見逃してしまうくらいの内容でした。(私の場合、映画を二度見ましたが、最初は見逃してしまい、二度目の時はそれに気づきました。)ですから、映画をこれから見る方がいましたら、あまり副題を気にしないで物語に集中したほうがいいと思います。

また、映画は、原作に忠実に作られていると言っていますが、実際は原作の流れに沿っているだけで、内容は原作とは違っています。しかし、私個人としては、「あまりの感動に心が震える…」そんな作品でした。



┃原作において、かぐや姫の罪と罰とは…

原作を読むと、かぐや姫の罪については…詳しく述べていません。ただ、…かぐや姫をお迎えに来た王が造麻呂(みやつこまろ/お爺さんの名前)に、次のような内容のことを言います。「愚か者よ。ちょっとした善行があったから、お前の助けにと、わずかな間ということでかぐや姫を地上に降ろしたのに、多くの年月、多くの黄金を得て、自分の出世のためにそれを使ってしまうとは!かぐや姫は罪をおつくりになったために、このように卑しいお前のところに、しばらくいらっしゃったのだ。今は罪を償う期限も終わったのでこのように迎えにきているのに…(現代語訳を少しアレンジ)」と。

原作を読んでも、かぐや姫がどんな罪を犯したかわかりませんが、罪を犯した罰として地球へ来させられ、そして、罪を償う期限が終わったことから月へ帰ることになったということがわかります。

しかし、かぐや姫にとっては、一緒に過ごした年老いたお爺さんやお婆さんを残し、好きな人(御門)とも結ばれず…無理やり月に還されるのですから、このことのほうが「罰」のように思えたでしょう。



┃映画でのかぐや姫の罪と罰とは…

━ 高畑勲監督の設定 ━

かぐや姫は、清浄な光に満ちあふれる月の王の娘である。姫は地球から帰還した女(羽衣伝説の一人)から、地上のことを聞いて彼の地に憧れる。

女によると、輝きに満ち、清浄だが色のない月とちがい、地球は色彩に満ち、青い海があり、魚が泳ぎ、地上には草木が茂り、水が垂れ、花が咲き、雨が降り注ぐ。人の子供も、ほかの生きものと同じように、愛らしく、楽しく、それはそれは、すばらしい。けれども、清らかで美しく、年をとることもなく心配事もない月の人々と違い地上の人は喜怒哀楽に身を焦がして、愛別離苦の情に振り回されている。不老不死どころか、彼らの限りある命でさえ、生老病死に苦しめられている。さらに人は、しばしば醜く意地悪く嫉妬深く、争いを好み、さかんに他人をだまし、裏切るという。

このように、人間に関しては被知的に語られたにもかかわらず、かぐや姫には地球が酷く魅力的なところに思えただけでなく、女がほのめかす人間の「喜・楽」や「愛」どころか、「哀」にさえ心惹かれ、どうしても行ってみたくなる。

禁を破って(地球から月へ)帰還した女性の記憶を呼び覚ましたことが発覚し、姫は、地上の思い出によって女を苦しめた罪を問われる。そして罰として、姫は地球に下ろされることになる。自らもその穢(けが)れた世界で苦しむようにと。

だがそれはかぐや姫にとって願ってもいないことだった。
姫はいさんで地球に旅立つ気になっている。

そんな姫を心配した父王は、姫の地球行きに条件をつける。
地球では地球人として生まれなければならないこと。
そのとき、月での記憶は消えること。
不自由なく暮らしていけるように、仕送りをすること。
もし、姫の身に危機があれば…それは必ずあるに決まっていることなのだから…無意識に姫が発するSOSをキャッチして、最小限そこから抜け出させてやること。

そんな保護にもかかわらず、もし、姫が一度でも「帰りたいー」とか「死んでしまいたい」「こんなところにいたくない」とかのテレパシーを送ってきたならば、その時点で地球が穢れた世界であることを姫みずからが認めたのだから、罪の償いが終わったものとして、直ちに迎えを差し向けること。その段階で姫は月との交信によってそのことを知らされること。


               ━ 映画「かぐや姫の物語」のパンフレットより ━

かぐや姫の罪と罰について
上記を読むと、かぐや姫の罪とは、「地球から帰還した女性の記憶を呼び覚ましたこと」にありました。そして、その罰により、姫は地球に下ろされるというもの。姫にとっては願ってもない罰。その罰には、なんと「仕送り」と「苦しい時はすぐに月へ帰還するという保護」付き。こんな罪と罰があるだろうか?これは、「可愛い子には旅をさせよ。」的教育の訓練の一つではありませんか。なぜかというと…、「フランスへ行きたい行きたい」という子供に、「では、罰として仕送りと保護付きで、フランスに行かせよう。」と言っているのと大差がないからです。つまり、子供の願いを叶えるために、「○○の罰」と言って許しただけ。

なんだか、お偉い方のおままごとのようで、庶民とかけ離れたエリートゆえの、なんとも過保護な「罪と罰」としか言いようがありません。映画の内容から、かぐや姫にとっては、行きたくてしょうがない地球に下ろされることは罰というよりご褒美で、「子供の頃、無邪気に遊んだ友達や自分を育ててくれたお爺さんやお婆さん」と別れ月へ帰らなければならなかったことが辛かったわけですから、むしろ月へ帰還することのほうが「保護という名の罰」だったように思えました。


┃そもそも罪と罰とは何か…/わたしの勝手な解釈

法(決まり)のない自然に戻ろうとすることが罪???
何からも束縛されず、いつも自由に過ごしていた幼少期。そんなわたしの生活を一変させたのは…「学校」…でした。

まず、明日が何曜日であるか確認しなければならない。そして、時間割通りに教科書をカバンに入れて学校の準備をしなければならない。朝は、まだ眠たいのに、母に起こされ、慌ただしく食事をして授業の開始時間に間に合うように家を出なければならない。学校では、授業が始まったら終わるまで、じっと椅子に座っていなければならない。授業中トイレに行きたくなったら、先生に許可をもらわなければならない。学校では、お腹がすいても、勝手に食べてはいけない。授業中騒いでもいけない。廊下を走ってもいけない…。

決まりの多さにうんざりし、それについていけない私…。曜日を忘れる。教科書を忘れる。時にはカバンも。学校はダメなこと(禁止事項)が多く、野生児の私は怒られてばかり…。学校へ何のために行っているのか、何のために勉強をしているのかもわからず…。ついに、学校を逃げ出すことに。しかし、すぐに先生に見つかり御用。「一体私がどんな悪いことをしたというの???どうして、悪いことをした人みたいに捕まえるの?」といった感じで…悲しかった。

動物園のサルが檻から逃げ出し、網をもった人に追いかけられ、ついには捕まって、結局元の檻に入れられるみたいに。どうして、自由でなんの決まりもなかった自然に戻っちゃいけないんだろう?どうしてそこから逃げると、罰せられるのだろう?

ちなみに、法が無い者と書いて「無法者」と呼びます。これ(無法者)を辞書で引くと「社会秩序を乱す乱暴者」とあります。だったら、自然の生き物は全て法のない世界で生きているのだから「無法者」で社会秩序を乱す乱暴者ということになります。自然の中で自由に生きる彼らは、畑の食べ物は横取りするし、残飯は食い散らかすし、電線に巣を作るし…ほんと、迷惑な生き物です(一般的な人の声)。確かに彼らは、人間の作った社会秩序を乱すものかもしれません。しかし、自然から隔離されて育った「有法者(人間)」は、自然本来の調和を乱すものとなっていないでしょうか。海を汚し、空気を汚し、大地を汚し、生き物の調和を崩し、自然を破壊しているのですから…。

だったら、人間も自然の生き物と同じように無法者となり、自然と調和する生き方をしたほうがいいのではないでしょうか?本来自然には、法も罰もありません。自由で伸び伸びして、なのに見事に調和する世界。こんな素晴らしい世界、どうして私たち人間だけが見失ってしまったのでしょう。
映画では、かぐや姫が籠に囚われた小鳥や家の中に入ってきたバッタを外に逃がしてあげるシーンがいくつかありました。まるで、自然の中で自由に生きていきたいという自分のかなわぬ夢を実現させるかのように…。

自然のままを行っても罪
本来、どこからでも自由にとって食べてよかった大地。でも、捨丸兄ちゃんが、喉の渇いた子供たちのためにウリを畑から盗むシーンを見ると、やはり泥棒と私たちは思います。それは、私たちが、もう自然本来の世界に住んでいないからです。自然本来と違った法の中に閉じ込められ、その法に従って生きていかなければ罰せられる世界にいるからだと思います。

たとえば…。もともと誰のものでもなかった土地があったとします。そこには、ミミズやモグラ、ダンゴムシやヘビやカエル、鳥や獣たちがいて、その土地を自由に使っていました。ところがある日、その土地を勝手に所有した人がいました。その人は、その土地を畑にし、大地に住んでいた先住民(虫や蛇や鳥たち)を追い出し、お金と交換できる者だけに収穫物を分けてあげるのです。

そこに、お金を持たない虫や鳥や獣(人間も含む)がやってきて、畑の野菜や果物をタダで持っていくと、「泥棒」と言って罰せられるのです。現に法の意味を理解できない自然のままの生き物は、「泥棒」ということで、殺処分されます。映画の中で捨丸兄ちゃんが、鶏を泥棒してボコボコにされるシーンがありましたが‥。文明が与えたお金というシステムが、自然本来の生き方を否定する法を作り裁いていると言えます。つまり、文明優先の世界では、文明に沿って自然を不自然にする人間が優遇され、文明を受け入れず自然そのままで有り続けようとする生きものは罪人として罰せられるのです。

余談ですが、文明は、自然に沿ったまま生きていける黒人を軽蔑し、文明がなければ生きていけない白人を尊んでいます。そして、文明に囚われた白人は黒人を捕え、奴隷として苦しめました。まるで罪人のように‥


同等(同じ身分)と思うことも罪
身分の差がない自然の生き物は…身分が高いとか低いとか理解できません。ですから、みな同等と考えます。だから、食べ物を力いっぱい取り合ったりします。(相手が偉い人だからという理由で食べ物を譲ったりしません) もし、相手が強いと思えば逃げますし…。弱いと思えば奪ったり…。つまり、自然には…身分が高いというだけで…頭をたれてひれ伏すものなどないのです。

もし身分の高いものに対し頭を垂れることが、「自然本来」の生き方であるなら…わざわざ「王または神」が誰であるか、言葉で説明されなくても、野の獣も、田舎の世間知らずの人も、みんなその人を心から敬い、頭を垂れるでしょう。しかし、人間の作った身分の差は、言葉によってそれ(身分の差)を教えられなければ、だれも理解できないのです。だから、「それに従わない場合、厳しく体罰する」という決まりを設け、人に強制するのだと思います。

もし、世間知らずの田舎のおじいちゃんが、王様(神的存在)に対し「おじいちゃん」と呼んで自分と同じ身分に扱ったら…。この行為(自然本来の振る舞い)は、身分の差を重んじるものから「頭が高い。高慢だ。」と言われ厳しく罰せられます。映画の中で、かぐや姫が桜の下でクルクル回っている時に、小さい子供とぶつかるシーンがありました。普通だったら、親の方から「危ないじゃない。気をつけて!」とかぐや姫が咎めらたでしょう。しかし、かぐや姫の着ている衣装から「身分の高さ」を察知した母親は、かぐや姫にひざまづき、ひたすら許しを請うていました。そこには、「身分の高いものを自分と同等に扱った場合、酷しい罰が与えられる」ということが、徹底されていたからではないでしょうか。

自然本来からすると、「他と差をつけ自分を高くするという不自然な行為こそ改めなければならない」のですが‥。一度高い地位を得たものは、面目が潰れることを恐れ、なかなかその地位を捨てることができません。それは、文明自身が与えた身分の差という考え方が、「自然本来の生き方を力づくでも否定するように仕向けている」からだと思います。


所有と法律と絶対権威があるのなら、月であろうが地球であろうが同じ…
かぐや姫は地球から月へ帰ったわけですが。かぐや姫は、王の子供ですから…。大変な地位があり、何不自由ない生活のはずです。しかし、月にも「所有と法律と絶対権威(者)」があるのなら、「所有も法律も絶対権威もない大自然」で味わった自由で伸び伸びとした喜びは味わえないと思います。ですから、家族に、学校に、会社に、国に、宗教に…所有と法律と絶対権威があるなら…そこには身分の差があり、優越感・劣等感がうずまき、権威者への絶対服従が横行し、感謝やひれ伏すことを求められる…世界なのです。

生老病死や愛別離苦が本当の苦しみではない
文明は私たちに人間の苦しみは「生老病死」や「愛別離苦」であると教えますが、私はそうは思いません。どうしてそう思うかというと…。野生の生き物にも、文明に囚われた動物園の生き物にも同じように「生老病死」や「愛別離苦」があるのに…、野生の生き物は、たとえ「生老病死」「愛別離苦」があったにせよ、元気で生き生きと生きているからです。

そこは、虫も、鳥も、獣も…なんの差別も区別ない世界。また自然において、死ぬことは、次の世代が生きる命。だから、死は命でもあり…自然では生と死の区別すらないのです。だから、自然の世界は全てで一つ。支配者もなければ奴隷もありません。みんな、無意識に自然に沿って生きているだけ。それで、みんな楽しく幸せ。誰からも咎められたり、裁かれたりしないのですから…。

しかし、動物園の生き物は、文明の作った柵で敵から守られ安全であるにもかかわらず、自然から隔離された空間にいるため、野生で生きる生きもののように生き生きした命の力が感じられません。体は生きているのに、まるで、死んでいるかのようです。彼らを、私たちは生きているというのかもしれない。でも、自然から隔離された彼らは、もはや生きていても死んでいると…私は思います。

本当の苦しみは、竹筒の中に…
お爺さんが、竹の中に見つけたもの。これらは、自然本来の世界にはなかったもの。これらが、私たちを苦しめているのではないでしょうか?

竹筒にいれられて月から地上に送られたもの3つ…。
@相対的で曖昧な美しさを表す「かぐや姫
相対的なものは流動的であるため、ある意味「ない」と言ってもいいと私は思っています。しかし、多くの人は、ことばのトリックによって、これらないものをあると信じ苦労して追い求めています。絶対手に入らないのに…。美しさしかり、高さしかり、賢さしかり…そして、金持ち、身分の高さも…です。

月から来た天人が地球のことを、穢(けが)れていると言っていましたが…、そうやって自分を高い位置において他を差別し見下すその考えこそが苦しみの原因なのではないでしょうか?相対的な世界では、常に嫉妬や優越感が交差し、競争が生まれ、それを追い求めれば追い求めるほど…骨折り損のくたびれ儲けだからです。

A偽りの価値をもたらした「お金
自然の世界では全てがタダ。これが自然本来であり、真実です。しかし文明は、全てで一つの世界を言葉でバラバラにし、それぞれを比べ価値をつけました。(例:バットでボールを遠くへ飛ばすだけで、高級マンションに住める人。昼も夜も働き続けているのにパン一個を買うのがやっとの人)。今、待遇のいい位置にいても、いつ落ちるかわからないのがお金の世界。お金は自然を破壊するもの。だから、自然が破壊された後、無収入になったら…、飲む水も、食べ物も得られなくなる…。

B身分で差をつける「
裸の人。普段着の人。制服を着ている人。冠をかぶっている人。同じ身分だった人たちが…服によって差がつけられ頂点に座するものに支配されるようになりました。本能を無視した新たな法律によって支配する支配が…。

これら月からもたらされたものが、、私たち人間を苦しめる最大なものではないでしょうか?

地球にある高い山々(身分の高い人々)を、もっと高いところから見下ろす月の人々(世界最高権威者)…。どこが清くて美しいのでしょう?そこには、絶対権威者がおり、法があって、それに照らされて人々は裁かれていくのではないでしょうか?今まで同じ仲間だと思っていた者たちが、法によってバラバラにされていくという苦しみの世界…

法で規制されると…/ 「俺はちゃんと規則を守っているのに、こいつはルールを守りません。」とか、「お前、チクったな〜。お前のせいで罰せられたんだぞ。」…など。…囚われた者同士が争うようになる。

自然の世界は、私たちを決して咎めたり裁いたりしない
もし、全裸で外を歩いても…自然は、それを咎めません。もし、畑のスイカを取って食べても…自然は、それを咎めません。私たちを責めたり、咎めたりするのは、自然ではなく…常に文明であることがわかります。なぜなら、本来の自然には、…生き物を捌く刃物や人間を裁く言葉 ( 法律 ) などどこにもありませんが… 、文明には生き物を捌く刃物や人間を裁く言葉 (法律) があるからです。

また、自然は境界線のない世界で…全てで一つ(同じ身分)の世界です。だから、それぞれが相対的に比べる必要がありません。比べる必要がないから、世界の頂点に立つもの(神のような絶対的支配者)がいません。世界の頂点に立つものがいないので、他を咎めたり、裁いたりするもの(神のような存在)がいないのです。
自然に沿った生き物の世界では、「本能の赴くままに生き…それをいかなるものも咎めません。」
つまり…絶対的支配者のいない自然本来の世界では、選ばれたり、落とされたりすることがありません。 みんながいて良い場所です。光も闇も、生も死も、すべて無限という世界の中の出来事。だれがこの世界から落ちることができるでしょう。生きても死んでも、明るみにいても闇にいても…私たちは常に無限という自然の中に存在しているのですから。
人を縛る法律も、罪も罰も、そして許しもない世界。これこそが…本物の世界。
自然の世界には法がないので、生き物はいつも、現場にいる者同士で解決します。一方、文明の世界では、現場にいない者(特権のある裁判官)たちが、話を聞いて、法(権威者のことば)に照らし人々を裁いていきます。ある意味盲滅法な裁きと言えます。 もし、私たち人間が、他の生き物と同じように自然に沿って生きていたなら、誰からも、罪に定められることも、罰せられることもなかったでしょう。

自然は常に元の姿に戻ろうとする
不自然に作り変えられた種は、本来の種に戻ろうとしますし‥。不自然に還元されて作られた鉄は、酸化されて自然本来の酸化鉄に戻ろうとします(※自然には、酸化鉄しか存在しない)。また、無理矢理イオン化された銀イオンは‥強い力で銀に戻ろうとします‥。つまり、自然は不自然にされた場合、自然本来に戻ろうとするわけです。それは、日常生活でも言えます… 

例えば、風邪をひいて熱が出たりしますが、これは発熱することで、体に溜まった毒を汗と一緒に出しているのです。つまり、自然本来の元気な姿に戻そうとしているのです。しかし、多くの人は、その苦しさのゆえに、こう思ったりします。「日頃の行いが悪いから、きっと自然が(自分に対し)しっぺ返しをしているんだ」と…

他にも…、長い間、石灰・肥料・農薬を大地に投入し続けた大地を、ほったらかしにすると…不毛な時期が10年近くも続いたり…、アトピーの子供を海に入れると、真っ赤になって一時的に悪化したりします。それは、自然がしっぺ返ししているのではなく、自然本来の姿に戻すのにそれだけの時間が必要だということです。

なのに…、多くの人は、自然が本来の姿に戻る過程に起こる様々な不具合に…「自然が人間に罰を与えている」とか、「しっぺ返ししている」と理由付けするのです…。法を持たない自然は、人に対し決して罰を与えることをしません。ただひたすら、自然本来の姿に戻そうとしているのです。(つまり、支配者も、法も、罪も罰も、所有も、お金も、道具もない…自然本来の世界に戻そうと) ですから、私たちは、次のように考えてみたいものです。「しっぺ返しを喰らうから物事を改めよう」というのではなく、「しっぺ返しをしたり、罰を与えたりしない真実な世界(自然)だからこそ、不自然なことを改め、自然に全てを任せてみよう」と…


┃その他

映画をとったから2013年完成。もし高畑監督をとれば完成は2020年だった!
┃映画監督・高畑勲との8年                プロジューサー 西村義明
今から8年前、ぼくは高畑家へ通い始めた。本当に色々なことを話した。音楽、絵画、歴史に言語、最近のテレビ番組に至るまで、高畑さんはなんでも知っていた。高畑さんと過ごす日々は知的興奮に満ちていた。

しかし、高畑さんとの映画製作は困難に満ちていた。「映画を作ってほしい」と何度頼んでも首を縦に振ってはくれない。「かぐや姫を作るべきだとは言ったが、わたしが作るとは言っていない」。そう言う高畑さんと、週6日、毎日12時間を共にした。高畑さんが監督を引き受けてくれたときには、すでに一年半が経過していた。…省略…

絵コンテ作業のペースは月に2分。絵コンテが30分出来るころには、企画開始から5年がたっていたという。選択肢は二つしかない。「高畑勲を選ぶか。映画を選ぶか。」高畑さんを選べば映画は完成しない。鈴木さんとぼくは、いつも本気で話し合っていた。このままいくと完成は2020年を超える。

その前にスタッフは疲弊し、現場が崩壊するだろう。…省略…僕は高畑さんの意向に背いて絵描きたちを増員し、完成を急いだ。しかし、高畑さんの作品の執着は凄まじい。そこからの粘りこそ、高畑勲を”伝説”たらめるものだった。…省略…7年が経過した。…省略…「風立ちぬ」と同時公開こそ実現できないが、高畑さんが夢見た映画は実現できる。…省略…大変なことばかりの現場だったが、あと一週間で映画は完成する。

「映画できちゃいますね。」と言うぼくに「寂しいもんですね」と高畑さんが呟いた。企画から完成までの8年。映画監督・高畑勲との「夢と理想」の8年間が幕を閉じる。


                    ━ 映画「かぐや姫の物語」のパンフレットより(抜粋) ━

最初、赤字を出すかもしれない「かぐや姫」の映画製作に、高畑監督は躊躇していたようです。しかし、氏家斉一郎氏(日本テレビ放送網代表取締役会長)が「赤字を出しても構わない。金は全て俺が出す。死に土産だ。」と言うことで、かぐや姫の企画が決まったそうです。(途中、氏家氏は死去。その後、日本テレビ社長大久保好男氏が追加予算を出してくれる。)

上の文章にあるように…西村プロジューサーが高畑監督に「映画を作って欲しい」と何度頼んでも、高畑監督は「かぐや姫を作るべきだとは言ったが、わたしが作るとは言っていない」と、なかなか首を縦に振ってくれません。結局、引き受けてくれるまでに1年半もかかったそうです。しかし、作業に入ると…今度は、なかなか完成しないと言うことで…。西村プロジューサーは、高畑監督の意向に背いて絵描きたちを増員したしたというのです。

つまり、映画製作を始めるのも、製作を終わらせるのも、高畑勲監督の自由意思ではなかったということになります。まるで、翁に支配されていたかぐや姫のように (お金に支配された世の中においては、全てがこんな感じで進んでいきます)。だから…映画の中で、かぐや姫が貝合わせを指で折り、疾走して行ったのではないでしょうか?これこそ、「自由になりたい」という高畑監督自身の心の叫びを暗示したものだったのではないでしょうか?(私の勝手な解釈)

無理に急かされて、7年以上も短縮して完成した作品ですから…2020年以降になっていたはずの「かぐや姫の物語」とは、違ったものと言えるかもしれません。高畑勲監督が納得いく本当の「かぐや姫の物語」とは一体どういうものだったのでしょう。残念ですが、今となっては知るすべもありません…

バラバラに捌かれ、そして売り捌かれていく月 (moon)
余談ですが、かぐや姫が帰った月。その月が、現在地球のみんなに売り出されています。http://www.lunarembassy.jp/
私たちは知っているはずです。自然の世界は誰からも所有されない世界であると。なのに今や地球は、海も空も大地も境界線ができて、全て誰かのものです。そして、今、月(moon)までが、このように売り出されているのです。この月を売り出している人っていったい誰なんでしょう?どうやって月を所有できたんでしょうか?そしてその権利をどうやって得たのでしょう?文明(頂点に立つもの)はこのように、誰のものでもなかった自然を、勝手にどんどん所有し、バラバラにして後、それに値段をつけ、売り買いさせ…自然を取り返しがつかないくらい破壊していきます。


高畑勲監督の思いは、こちら
⇒ http://kaguyahime-monogatari.jp/message.html


お勧めリンク
ある日学校から逃げたわたし」:担任の先生が「捕まえてくださ〜い」と…

http://w01.tp1.jp/~a790432858/kaminikawaretakachiku.html#9

ジブリ・映画「かぐや姫の物語」の印象に残った箇所と感想
ジブリ映画「かぐや姫の物語」の印象に残った箇所と感想については、この記事のひとつ前を見てください。⇒

http://w01.tp1.jp/~a790432858/memojournal4.html#10

ホームページで使った画像について
このページに載せた、映画「かぐや姫の物語」の画像は、youtubeにUpされた「ジブリかぐや姫 プロローグ序章」からスクリーンショットしたものです。







12


始まっているのに…「始まっていない世界」/ そんな世界あるんでしょうか?

私たちに「始まり」や「終わり」という誤った概念を与えたのは文明です。なぜなら…、無限(限りがない)である宇宙空間を含む自然の世界には、どこを探しても…「始まり」という地点も「終わり」という地点もないからです。つまり、人が無限(境界線がない)を刻んで、時間やカレンダーを不自然に作ったから、始まりと終りができたと言えます。これもタダのイメージに過ぎないのですが…。

自然と文明の違い
自然は境界線がない。=植物は縦横無尽に伸びていく。=全ての生き物は隔てなくそこで生きる。=混沌としている。=秩序がない。=分け隔てしない。=自他がない。=全てで一つである。

文明は境界線がある。=縦横無尽に伸びる植物は刃物で切りそろえる。=全ての生き物に隔てを作る=きっちりしている=秩序を重んじる=分け隔てする=自他がはっきりしている=全てがバラバラである


┃自然に「始まり」と「終わり」を示す数字(時計やカレンダー)がない
もし、時を刻む時計もカレンダーもなければ…。記念日がありません。歴史がありません。スケジュールがありません。労働がありません。約束がありません。期限がありません。指定日(指定時間)がありません。予報がありません。予告がありません。だから、未来を考えることもないし、過去を振り返ることもなく、今という無限に広がる時間の中を生きるということになります。

重複しますが…自然は、数字で刻めない世界。だから…カウントダウンがないありません。例えば、あと何年とか、あと何日とか数えたりする期限がありません。期限がないから「期限切れ」もありません。よく学校や会社に遅刻したという経験があると思いますが、自然に沿って生きるなら、そんな不自然な経験をするものは一人もいないことになります。このような不自然な日常を送るなか、人は疑うことなく「物事には必ず始まりと終わりがある」と信じます。ですから…「死が終わり」という考えを簡単に信じてしまうわけです。

┃自然においては、生も死も一つの命
ところで、人間の細胞は約60兆個あり … 約3ヶ月ですべてが入れ替わるということがわかっています。つまり、約 3ヶ月で約60兆個の細胞が生まれ … そして、約60兆個の細胞が死んだことに … 。 つまり、1秒間に7800万個の細胞が生まれ、そして死ぬことになります。と言うことは…、体には 常に 『 生 』 と 『 死 』 が存在しているということになります。 ですから、生き物の体は 『 生 』 と 『 死 』 の両方があって 『 命がある 』 ってことではないでしょうか。

自然の循環も同じで…。 生き物が死に、それを動物が鳥が魚が菌がウイルスが食べて生きている … (それぞれが食べ、それぞれが食べられる自然の循環)。 つまり、「自然そのものの命」とは、生き物の 『 生 』 と 『 死 』 の両方があって それが自然の『命』なのでは … 。ということは … 無限の世界では、 『 死 』 とか 『 生 』 とかの区別がなく、 『 死 』 と 『 生 』 の両方がひとつで 「 命 」 。この命は無限の広がりの中に存在する命で…、「死」があるにもかかわらず…「不老不死の命(自然そのもの)」と言えます。


細胞の入れ替わり…3ヶ月で60兆個。つまり…
90日…………60兆
30日…………20兆
3日 …………2兆
日 ……………0.66兆(約6700億)
時 ……………279億
分 ……………46億5千万
秒 ……………0.775億(約7800万)
参考:「新陳代謝が生命を作る」http://www.livekkk.com/shinchin.html


┃天国は期間限商品のようなもので、無限の世界(自然)には存在しない
人が、「死が肉体の終わりで、魂だけが残る」と信じた結果…。「神を信じた者は、死後魂は素晴らしい天国へ。」「神を信じなかった者は、死後魂は火で焼かれ苦しみ続ける地獄へ」という宗教におけるキャッチコピーを簡単に受け入れてしまいます。死ぬ日が決められていない以上、決心するなら「未来と過去に挟まれた今という瞬間」しかありません。つまり、天国が 「売り切れ迫る」とキャッチコピーされた商品と同じように焦って決断しなければならないものとなります。つまり、ゆっくり考える余地を与えないで決心させる商法のように…。

しかし、もし、自然が無限で始めも終わりもない世界と分かるなら…。「期間限定」で信じなければならないものなどどこにもないのです。しかも、無限に広がる世界には、「自然と神」とか「自然と人間」とか「神と人間」というふうに対峙するものがありません。

なのに人がなぜ、神・自然・人間…と捉えて考えるかというと…。
@もともと、一つだった自然に名前をつけて、バラバラにした…
A(数字や文字による相対的な考えによって)それぞれを比較し、価値をつけた…
Bそれぞれを、文字や数字で比較した結果…頂点になったものを「絶対権威者(神)」と位置づけた…
からです。

全てで一つの世界を数字でも文字でも表せないなら…文明は、単なる偽りのイメージだけの世界と言えます。まるで、目の前に映る鏡の世界のように。そっくりなのに、でも「違う」…、あるようで、でも「ない」…

┃真の世界には、法がない/ 「罪も罰も許しも…」ありえない世界
多くの人は、自然を破壊したのが人間なので、人間は必ず罰せられると考えます。しかし、よく考えて見てください。本来の自然の生き物である人間が、自分の本当の住処(森)を進んで壊すでしょうか?頭が狂ったから、そうなったと言えませんか?つまり、私たちの頭の中に入った異物( ことば・神・イメージ)が、そうさせたのではないでしょうか?もし、私たちの頭に入った、異物( ことば・神・イメージ)が、そうさせたのであれば、私たちに罪はないはずです。

それなのに…、私たちの住処である森を壊すように仕向けた文明 「異物(ことば・神・イメージ)」は、自然を不自然にさせたのは自分であるにも関わらず…。それに従った結果苦しむ人間に対し…、「神が罰を与えている」とか「自然がしっぺ返ししている」とか「罪の報い」だと言うような表現をしてくるのです。

クモは、設計図を作らずに巣を見事に作ります。鳥は羅針盤がないのに、自由に空を飛んでいきます。なのに、私たち人間だけが、計画や設計を事前に作り、そのイメージに沿って物事を進めていくのです。私たちの体(自然)とイメージ(文明の知恵)が別々のものだから…、そういうことになっているのだと思います。だから私たちは、「人間が罰せられればいい」という考えに立つのではなく、「文明というイメージ(文字や数字)を排除していかなければならない」という考えに立たなければならないと思うのです。

自然には法律がないので、文明を罪に定め罰することはしません。しかし、自然は、この不自然になった自然を…文明を罰することなしに、見事に蘇らせてくれます。なぜなら、自然本来が真の世界だからです。


┃無限の世界から文明を見ればタダの幻
文明の知恵でスタートした文明社会。だから、文明には、かならず「終わり」がある。そう思えてならないし、そうでなければ困ります。しかし…、これを「始まり」や「終わり」という概念のない自然の世界から見ると、文明社会は…「始まっている」にも関わらず「始まっていない」に等しく、文明社会が…「今まさにある」にも関わらず「なかったもの」に等しいと言えます。それは…、自然に始まりも終わりもないからです。そういうことから…、この文明社会は幻であり、その幻の世界を私たちは生きていると言えます。
この景色をよく見てください。ここは、かつて海だったところを埋め立て、そして作り上げた世界です。ほっといて自然ににょきにょき生えてきたものではありません。道具なしにありえない「文明の知恵」で作られた幻の世界です。

┃幻によって奴隷にされる人間
自然から隔離され、幻(嘘)の世界に閉じ込めれらた私たち。そこから脱出し本来の自然の世界に戻れないのなら、完全な文明(イメージという存在)の奴隷にされたと言えます。もしかしたら…地球を破滅させ宇宙をも歪めてしまおうとする文明の奴隷として使われるかもしれません。とても悲惨で耐え難いことですが、これは文明という幻が、人間を使って自分の求める世界をいたずらに作っているからだとしか言い様がありません。文明という謎の存在に、弄(もてあそ)ばれている私たちは、本当に迷惑であり…早くこの文明という幻の存在から解放されたいものです。

┃文明が幻なら、文明こそ「夢オチ」
よく物語の手法に「夢オチ」というのがあります。具体的にどういうものかというと…読者や視聴者に、物語の内容が現実だと思わせておいて実は夢でしたよというもの。わたしは、この文明社会もまた、最後に「全て幻だった」あるいは、この世界は「全部嘘だった」と最後に今まで構築してきたものを一気に崩す「夢オチ」で終わると思っています。事実、自然本来とは全く違う「嘘の世界」なのですから…。


夢オチとは…物語の最後に「それまでの出来事は実は全て夢だった」という結末を明かして終わることですが、夢でなくとも、それまで構築していた物語や世界観・前提を最後で一気に崩すことも含まれる場合も…(Wikipedia「夢オチ」参考。)


┃文明が終われば、文明の記録も記憶も消える
文明が終わると…。
文明の正体である、文字が消え…数字が消え…道具が消えます。
そして、その道具で作った「幻の世界」が消えていきます。
そうなると…、もうそこには、文明を記憶するものは、誰一人いなくなるでしょう。そして、思い出すものも…
つまり、文明は…自然の世界では「なかった」ということになるわけです。

┃そこには、元の自然が
文明が終わるということは、今まで構築してきたものを一気に崩す「夢オチ」だけど…それさえ誰も知る由のない。
そこには…自然本来の「無限に広がる世界」がただ存在するだけです。
生も死も一つの命という自然が…

(人はもう、自然を外側から観察したり、実験したり、研究したりしません。なぜなら、自然と一つだからです)




13.

厄介者は缶詰に / 野生のシカ(奈良県)

先日、野生のシカが森林を破壊しているという理由から、缶詰にされるというニュースを読みました。森林を破壊しているのは、文明を進めている人間に原因があるのですが、そこにはちっとも触れず、どうやったらシカを退治できるかといった内容で終わっていたことから…それがとても残念で…、見過ごすことができず、ここに記事としてUPすることにしました。

↓画像をクリックすると記事の内容へ

出典:MSN産経WEST
2013年12月21日「缶詰にされる奈良のシカのとんだ”厄介者”ぶり」(産経ニュース)より

奈良県天川村などで捕獲されたシカを食肉加工した缶詰

なぜ、シカの生息密度が高くなったのか?その原因の根本を正すことなく、シカを駆除するという解決方法で本当にいいのでしょうか?
新聞の記事の内容をまとめながら、自分のコメントを書かせていただきましたので、是非参考にしてください。


┃現状
■奈良県の調査によると、県内全域では約4万7千頭のシカが生息している。
■年間5千頭前後が駆除されている。しかし年間目標の8千頭には到底及んでいない。
■天川村の場合、駆除頭数は23年が369頭、24年が238頭だったが、25年は9月末時点でわずか37頭に過ぎない。

こんなに駆除しているんですね。本当に驚きです。森が減っているのだから、実際の生き物の数も減っているはず。それなのに、駆除するという方法が一番に取られるのですから呆れます…。まずは、私たちが所有した大地を少しずつでも森に返し、大地が本来の森になって行くようにしなければ…私たちは、本来の森と本来の生き方を完全に失ってしまうのではないでしょうか?


┃弥山周辺に生息するシカの推定密度(奈良教育大の松井淳教授の調査)
■平成24年は環境省が指導する適正密度(1キロ四方あたり5頭程度)の2倍程度の11頭
■平成25年に入ってから急増。8月には過去最多の81頭を記録し、適正密度の16倍を超えた。

生き物には、お互い適当な距離を置く性質があるので、森の面積が十分あり多種多様の生き物のバランスが取れているならば、生息密度が異常に高くなることはないはずです。しかし、たった一年で、シカの生息密度がこんなに高くなるのですから…、自然破壊がかなり進んでいることを意味し危惧しなければならないと思います。


┃シカが厄介者である理由
■良県天川村周辺に深刻な農林業被害
■山岳資源を食い荒らす
■立ち枯れ異変20年前から弥山周辺では、シカが山林の針葉樹シラビソの樹皮を剥(は)いで食べ続けた結果
■稲の苗やトウモロコシ、大豆など農作物に食害が出ている
■車との衝突事故


千葉県東金市付近
左の写真を見ると…。
かつてあった森が、ゴルフ場・田畑(果樹園を含む)、家や店などの建物や道路などを作ることで破壊されたことがわかります。

これほどの森林破壊を一体だれがしたのでしょう?カラスですか?イノシシですか?それともシカでしょうか?彼らは、森林を破壊し人間に被害を与えた加害者ではありません。むしろ、自分たちの生活の場であった森を(文明の奴隷となった)人間によって奪われた被害者なのです。

森の土の中1gには、数十万から数十億匹のバクテリアが、足の裏(約200cm2)には何万という生き物(ミミズ・ダニ・ムカデ・センチュウなど)がいます。もし、森を壊し、そこに畑を作ったら?家を建てたら?学校を建てたら?工場を作ったら?公園を作ったら?お店を作ったら?どれだけの命を奪うことになるのだろう?

森には、虫がいるから、その虫を食べる鳥がいる。鳥がいるから、その鳥を食べる生き物がいたりする。だから、自然の命が‥どんどん豊かになっていく。それがわかっていたら…森を壊すことが、生き物の住処と食べ物を奪うことであるとわかったはずです。それなのに人は、森を壊すことで、生き物から食べ物を奪い住処を奪ったのです。ですから、奈良のシカは、森の面積が減っていくなか…食料が減り…飢えをしのぐために樹木の皮を食べたのだと思います。決して、自然を破壊しようと思ってしたことではありません。(シカの主食は、木の葉、果物、笹など野生の食べ物。樹皮を食べるときは食料が乏しいという証拠)


┃シカ対策
■被害拡大を受け、県は22年度からシカの捕獲奨励金制度を導入。駆除目的の狩猟者登録をしたハンターに対し、雌のシカ1頭に対し、季節に応じて5千〜8千円を支給している。
■天川村の場合、さらに上乗せし、計1万〜1万3千円を捕獲奨励金として手渡している。ただし、雄の場合は県からの補助はなく、村からの奨励金5千円のみとなっている。
■その一方で、県内の狩猟者は1215人(24年度登録数)と、ピーク時(昭和45年)の3分の1以下にまで減少。約7割が60歳以上と高齢化が進んでいる。
■このため県では、狩猟免許の新規申請手数料や講習会への助成、鳥獣被害防止活動のリーダーやアドバイザーの育成講座を開設するなど、支援に努めている。
■大型捕獲網「ドロップネット」を導入。(エサを仕掛けておびきよせ、頭上から網を落として一網打尽にする
■捕獲したシカを食肉用の缶詰にする。捕獲した後は缶詰用に食肉加工し、「鹿肉」のブランドで売り出すなど、地産地消にもつなげようと躍起だ。捕らえたシカ肉を加工する猟師の男性(56)は「シカ肉は低脂肪で鉄分が多く、健康食品としてもPRしたい」と話す。

森を破壊したのが人間で、そこを元に戻さなければならないのに…。的外れの解決策に呆れるばかりです。国にはたくさんの研究者がいるでしょうに、どうしてこの真実が伏せられているのでしょう?


┃今後の対策
奈良県森林整備課の担当者は「有害鳥獣が減らない背景には、猟師の高齢化、人手不足といった構造的な問題が横たわる。行政として捕獲奨励金を出すだけではなく、優秀なハンターを過疎化地域にコーディネートするなどの工夫を進めていきたい」としている。

有害鳥獣って…何?被害者(野生の生き物)をこう呼ぶことで罪に定めて、殺していく世の中の恐ろしさ。奨励金まで出して被害者を追い詰めるやり方に呆れるばかり…。しかも、有害鳥獣が減らない背景が猟師の高齢化と人手不足というのだから…。


森は私たち生き物のお母さん。カラスやイノシシやシカたちは、私たちの兄弟。文明は私たちにとって見知らぬ怖いおじさん。ある日、このおじさんが、不思議な知恵を私たちに与えて、それに魅了させ誘拐した。そして、このおじさんは、私たちの親のように振舞った。人は、いつしかおじさんを本当の親と思い始め、おじさんのいうことだったらなんでも信じ従っていくようになった。そしておじさんは、自分の知恵で斧やのこぎりを私たちに作らせ、実のお母さん(森)を破壊させたのです。もう二度と私たちがお母さん(森)のもとに戻れぬように…。

本当のお母さん(森)。お母さんのところに戻りたいよ〜。私は、おじさん(文明)から逃げて、本当のお母さん(森)のもとへ帰りたい…。そして、お母さん(森)を本来の姿に戻して‥わたしも、ずっとそこに住みたい。







14

ビジネスチャンス /人の不幸は金儲け(コートジボワール)

人の不幸は金儲けのチャンス
雨が降って巣が壊れると…、天気になるやいなや、アリたちはその壊れた巣を直すために集まってきます。人間も同じように、災害で、物が壊れたり、家が壊れたりすると‥、それを修復しようと人々が集まってきます。しかし、アリ(自然の生き物)はみな素手で修復するのに…人は、金の力で重機などを使って壊れた家や街を立て直します。だから、人間社会では、自然災害で家が壊れたり、街が壊れたりすると‥多くの企業が儲けるチャンスとばかりに集まってきます。(時には、お金儲けのために、意図的に戦争を起こし街を壊すことまでします) 

お金が関わると‥人の不幸が、儲けるチャンス。支援する喜びが金儲けする喜びになり‥、そのために不幸な人を探し求めることに。つまり、金儲けするために、不幸な人がなくてはならない。なんだか複雑な気持ちです…。ところで、ちょうど一年前(2013年)、JETROの記事に以下のような文章がありました。


【コートジボワール】西アフリカの”像”が歩み出す 2013年1月17日 
西アフリカ仏語圏の拠点となるコートジボワールを取り込もうと、先進国のみならず、新興国が動き始めた。石油、架橋、火力発電所増設、通信など、企業は投資計画を発表。外資に限らず地場中小企業も徐々に事業を広げる。内戦の爪痕が残るこの地で、ビジネス機会を狙う企業の動きが活発だ。
http://www.jetro.go.jp/world/africa/ci/reports/07001173


かつて、日本においても…戦争で家が壊れ、街が壊れ、国が壊れました。しかも、原爆が投下され、長崎や広島は絶望的なほどの打撃を受けました。もし、これら(戦争)が「復興ビジネス」になるということで、予め計画されているとしたら‥。3.11の地震や津波、西アフリカの内戦も‥。みんな計画通りだとしたら‥。(そんなことは決してないと信じたいですが、お金が絡むとありえそうで怖いです)

戦後我が国は、アメリカの支援により、ビルが建てられ、道路が作られ、送電線や電柱が建てられ、上水道が作られ、ガス管や下水道が地下を通り‥以前の日本の姿と全く違った、都市集中の「近代国家」が出来上がりました。気がつくと、海も川も空も大地も汚れ、ひとたび、ライフラインが途絶えると飲み水も食べ物も得られない‥餓死するしかないそんな環境に追い込まれていたのです。

そんな私たちが、改めないといけないことは、文明に頼らなくても、自然の中で自由に生きていける環境を取り戻すことだと思うのです。経済優先ではなく、自然環境優先で‥。そうでなければ、そしてお金儲けのため‥お互いが街を潰し合い、お互い壊れた街の復興をすることで助け合うという‥変なシステムの中で生きていかなければならなくなるわけです。

ビジネスの助けは本当の助けではなかった
戦争で焼け野原になった日本。それでも、美しい川や海や空に戻してくれる自然がそこにあった。しかし、アメリカの支援は違っていた。
@道路をアスファルトで覆い、車社会にした
早くて、楽に移動できると思っていた車社会。実際は、短い時間でたくさんのことをしなければならなくなり‥忙しくなっただけだった。しかも、空気を汚すことで、喘息などの病気が増え、交通事故など新たな問題が起こった。
A高層ビルを建てた
木も草もない殺風景な大地。お金という魔物に頼って生きていかなければ、食料一つ手に入れられない環境だった。
B送電線を作って電気中心の生活にした
電気が灯って、夜遅くまで、勉強したり、テレビが見れるようになった。しかし、その光は、私たちを24時間仕事に拘束し、夜寝るという当たり前の習慣を奪った。
C井戸を塞ぎ、上水道にした
塩素の入ったまずくて不健康になる水。しかも、災害時断水したら‥トイレにも行けず、水も飲めず‥死んでいくほかないという環境に追い込まれる
D化学肥料や農薬を大地(田畑・果樹園)にぶちまけた
虫も蛇も鳥も寄せ付けない大地。生産者、消費者ともに、農薬による健康障害を起こすことに‥


上げればきりがありませんが‥。どれもこれも、支援してもらわない方がよかったような支援ばかりで‥。結局、アメリカの利益になっただけ。アメリカが、実験(表向きは、戦争を終わらせ日本人を救うため)として原爆を落とし‥戦争が終わると、日本を支援して金儲け。それで、「私たち(アメリカ)のお陰で、豊かな日本になれてよかったね」と言われてもね‥。まるで、スケールの大きい「マッチポンプ商法」を見せられているみたいで呆れるばかり‥。(失った自然。どうしてくれるんでしょう?でも‥「もともと自然は、我々の所有物」、そう思っているだろうから‥なんともないんでしょうね。)

法と経済で支配された日本
多くの人は、日本は戦争に負けたが、自分たちの手でこのように復興させたと思っています。しかし、本当は‥アメリカの手の中で思惑通りに進められてきたと言えます。法律だって、日本国民の考えで作られたものではなく、アメリカの都合のいい法律を押し付けられただけ。経済だって‥、大量生産大量消費という、アメリカにとって都合のいいやり方。戦前は、捨ててはいけないゴミはなく、大地に返せばみな土に還るものばかりだった。しかし、彼らが作らせる安物の製品は、大地に返しても、土に還ることがなく、いつまでも形を止め、大地を海を川を汚染していったのですから‥(どの生き物も食べたくないという不自然なものだった)

金儲けのための開発支援
2013年1月。JETROの記事に「内戦の爪痕が残るこの地(コートジボワール)で、ビジネス機会を狙う企業の動きが活発だ。」とありましたが‥。ちょうど1年後、安倍総理が、このコートジボワールの地の開発支援(ビジネスチャンスとばかりに狙っているということ)を表明したのです。以下、2014年1月11日のNHKニュースにあった記事です。



首相 西アフリカの開発支援表明 2014年1月11日11時55分

コートジボワールを訪れている安倍総理大臣は、「西アフリカ諸国経済共同体」に加盟する11か国の首脳と会談し、日本企業が投資しやすい環境を整えるため、インフラ整備や人材育成などを支援していく考えを示しました。中東・アフリカ諸国を歴訪中の安倍総理大臣は、日本時間の11日未明、コートジボワールで、「西アフリカ諸国経済共同体」に加盟するコートジボワール、ナイジェリア、ガーナなど11か国の首脳と会談しました。

この中で、各国の首脳からは高速道路や発電所などのインフラ整備や、雇用の創出につながる産業の育成に向けて、日本からの積極的な投資を求める意見が相次ぎました。これに対し安倍総理大臣は、「日本は、去年、横浜市で開かれたTICAD=アフリカ開発会議で打ち出した支援策にすでに着手している」と述べ、日本企業が投資しやすい環境を整えるため、インフラ整備や人材育成などを支援していく考えを示しました。

また、安倍総理大臣は、「世界では紛争や対立が後を絶たず、われわれは西アフリカの友人と共に、平和で繁栄した世界、力ではなく法の支配する世界を作っていきたい」と述べました。
このあと、日本と各国の政府や企業関係者などおよそ500人が参加して晩さん会が開かれ、安倍総理大臣は、西アフリカの開発に日本が積極的な役割を担っていく考えを強調しました。


NHKニュース:http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140111/k10014427421000.html


支配のない世界を求めたい
もし、「力と法とどちらに支配されたいですか?」と質問されたら、‥。「できれば、力にも法にも支配されず自由でありたい」と答えたいですよね。多くの人が、自由を求めているのですから当然といえば当然です。ちなみに「支配」とは‥「ある者の意思が相手の思考や行動を規制すること」という意味。つまり、「支配がある限り、国民に真の自由はない」と言えます。

だから、上の記事にあるように「力ではなく、法の支配する世界へ」と言う安倍総理のことばが虚しく響いてくるのです。アフリカは、かつて力づくで、資源も労力も搾取された歴史があります。彼らを奴隷として扱った非情な者たちは、それによって、世界の頂点に上り詰めたわけです。そして今度は、力ではなく法によって、彼らから搾取しよう‥ということなのでしょうか。法には罪と罰が伴います。世界の頂点に立つものが、自分たちの都合のいいように作った法律で、この国の人たちを都合よく裁いていくようになるのではないでしょうか。なのに…安倍総理は、「法の支配する世界を作りたい」と言うのですから‥


文明なしに生きていけない文明の奴隷が、世界中の人々を文明の奴隷にする
文明は、「文明なしでは生きていけない人種(多分白人)」をことばで捕え、文明に対し忠実な世界最大の奴隷へと成長させました。その奴隷にされた人種が更に、多くの人を文明の奴隷にしていく‥。人々は文明の都合のいい奴隷。だから、人々は、自然破壊につながる経済を何よりも最優先するのだと思います。(もし、この世界に文明がなかったら、白人がアンバランスに増えることもなかったし、人類だけがこんなに増えすぎることもなかったし、文明がなくても野生で十分生きていける黒人がこんなに迫害されることもなかったでしょう。)

まさに「悲しむものは幸いです」
聖書に「悲しむものは幸いです。」とあるのですが‥。「幸」という文字を漢字源で調べると‥。「象形文字で、手かせを描いたもの」とあります。つまり、災害(あるいは戦争)で家を失い、街を失って悲しむものを、支援し助けることで金儲けになる‥。だから、多くの企業が彼らを捕え逃げないように、力あるいは法という手かせをつけて支配するのではないでしょうか?金儲けをする者にとって、悲しむものが多くなればなるほど、ビジネスチャンス‥。まさに「悲しむものは(企業の)幸いです。」


コートジボワール(象牙海岸)と呼ばれた訳
15世紀。ポルトガル、イギリス、オランダなど西欧の貿易船が奴隷と象牙の売買に来航したことから‥。

西アフリカ/コートジボワールの歴史
14世紀以前:ギリシャボ、ベチュ、アンデニュなどの王国が混在
15世紀:ポルトガル、イギリスなどの西欧の貿易船が奴隷と象牙の売買のため来航
17世紀:半ば フランスが西アフリカ経営
1893年:フランスの植民地となる
1917年:フランスに全土が制圧される
1958年:9月フランス共同体加盟
1958年:12月4日 フランス共同体自治国

1960年:フランスから独立
独立後:親仏政策の下で「イボワールの軌跡」と呼ばれる高度経済成長を達成
1990年代:政治不安
2002年:「第1次コートジボワール内戦」が勃発
2010年:4ヶ月以上にわたり大統領が二人存在する異常事態となり、事実上の内戦状態となった。「第2次コートジボワール内戦」
現在:世界全体の生産量の3分の1以上を占めるカカオ、石油の輸出などで経済成長を遂げる。人口2100万人。フランス語を公用語とし、通貨は、CFAフラン(フランス植民地を中心とする多くの国で用いられる共同通貨)を使用。コートジボワールを含む西アフリカの15か国は、「西アフリカ諸国経済共同体」に加盟して経済統合などを目指している。15か国を合わせると人口が3億人を超える巨大な市場となる。コートジボワールは共同体の中で中心的な役割の一端を担っていおり、西アフリカの「玄関口」となっている。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140111/k10014424831000.html









自然は、区切りがない世界。無限に大きくもあるが、無限に小さくもある世界だった。

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