白鳥沙羅のたわごと(自然に沿って生きていきたい)
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わら一本の革命 福岡正信






 






   わら一本の革命 / 福岡正信


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     ↓表題をクリック 「わら一本の革命」福岡正信著より
絶対絶命 11 教育もマッチポンプ
文明に真実なものは何一つない 12 自然は人の手を必要としていない
文明はすべて幻 13 自然に任せれば音楽だって不要
生と死は一つだった 14 何か自然なのかわかっていない
どっちが架空の世界 15 肉を止めれば‥食糧危機もなんのその
一切無用論を確かめるために 16 文明という幻を追いかけた人間の姿
結果‥何もしなくて良かった 17 人間は何一つ知ってはいない
何もしない農法を目指す 18 人の健康より経済優先
人間が先に悪いことをしている‥ 19 メガネを発明して有頂天になっているが‥
10 文明の知恵を否定する 20 これが畑???(うちの畑の写真)

「福岡正信さんの本を読んで感じたこと、思ったことなど」について書いています。枠内は福岡正信さんの文章。


┃自然につて感じたこと、思ったこと


1

絶体絶命

今まで自分が信頼していたものは何だったんだろう、何気なく安心していた安心というものは何だったんだろう。わたし(福岡正信)は、平凡な生活から急転直下、懐疑のどん底に落ち込んでしまいました。どうしても今、その解決をしなければならないというような、絶体絶命の感情に追い込まれてしまったんです。(P.11)

20代のころバイクにはねられて、右半身と頭を強く打ったことがあります。自転車に乗っていたので、自転車がクッションになって大きなけがにならずに済みました。しかし、その後体調がすぐれず‥頭痛や体の痛みに悩まされ…私も福岡正信さんと同じように「何気なく安心していた安心というものは何だったんだろう」…と、あっけなく失われていく日常の儚さを感じていました。
                                                   


2

文明に真実なものは何一つない

わたし(福岡正信)は、そのとき、ただ一つのことがわかったような気がしました。そのときに、思わず自分の口からでた言葉は、「この世には何もないじゃないか」と言う事だったんです。”ない”と言うことがわかったような気がしたんです。(p13)

今私たちが持っている全ての物‥。たとえば‥テレビ、冷蔵庫、机、箪笥、家、車‥そして、夫、妻、子ども、‥自分自身に至るまで‥。それは、文明が与えた「所有」という概念で捕えたもの。文明の知恵で自然に後付けされた「幻」‥。そう分かった。そんな時が確かに私にもありました。だから、死んで失うものは何もないんですね。本当は‥。もし失う物があるとするなら、文明で得た余分なものだけです‥。  
                        


3

文明は全て幻

自分の今までのものは、一切が虚像であり、幻であったのだ、そして、それを捨て去ってみれば、そこには実体というものが厳然としてあった、と言うことだったんです。(p.13)

文明が始まる以前に生きていたものにとってこの世界は想像もつかない世界。もし、人が文明に出会わなければあり得ない世界です。そう私も思います。最近動物園で生まれたパンダとかサルの話を聞くと、彼らもまた「幻の世界」を現実だって思い込んで生きているんだろうなって思うんです。
                                             



4

死と生は一つだった

(故郷に帰る桟橋で見送る人に向かって)…わたし(福岡正信)は、こんなふうにあいさつしたんです。「こちら側に桟橋があって、向こう側に第四埠頭がある。こちら側があると思うから、向こう側があるんだ。こちらに生があると思うから、向こうに死があると思うんだ。死をなくそうと思えば、こちら側に生があることをなくせばいいんだ。生死はひとつだ」と。こんなことを言いだしたもんだから、…頭が狂ったんとちがうか、と誰もが思ったんでしょうね。みんな気の毒そうな顔をして送ってくれた。私一人が喜んでさっさと出て行ったわけです。(p.15)

大きいと言う世界があると思うと、小さい世界があると思う。美しい世界があると思うと醜い世界があると思う。罰せられる世界があると思うと許される世界があると思う。悲しい世界があると思うと、喜びの世界があると思う。死ぬ世界があると思うから、生きる世界があると思う。つまり、こちら側があると思うから、向こう側があると思う。 / ということなんでしょうね。

文明は美しい醜いみたいに両極端なことを示す世界ですが‥。自然は、その中間の全ても含めた世界と言えます。うまく説明できませんが、死も生も区別のない世界が自然だとわたしは思っています。
                                        



5

どっちが架空の世界?

友達が心配して…「どうもお前は、架空の世界に住んでるんじゃないか、妄想の世界に住んでいるんじゃないか」という。「いや、お前こそ架空の世界に住んでいるんだ」と私が言い返す。(p.16)

福岡さんの本に出会うまでは、服を着て家に住んで、お金を使って…ものを買って、学校へ行って…。そんな生活が現実だって思っていたんです。でも、近所に飼ってある犬を見て、この犬は野生に住んで野生の生き物を食べて、大地の住処で寝て…生きていたんだろうな〜って思った時。この犬は‥本当を生きているんじゃないって思ったんです。そして、わたしも‥って。  



6

一切無用論を確かめるために

一切無用論を確かめるために
この一切無用論を説くことが、重大なことに思えてならなかった。それで実は…全国を…放浪して歩いたんです。結局は、どこへ行ってもまるで相手にされず、郷里の親の所へ帰ってきた。……私(福岡正信)はそこで、人間はなにもしなくていい、という考え方を百姓をして、ミカンを作り、米作りの上で実証してみようと思ったんです。実証すれば、私の一切無用論が正しいと言うことを自分で確かめてみたかった、というより、かたちの上にあらわして、やれる。

人間は何も知っているのではない。ものに価値があるのではない、ということを、かたちの上で示してみる自信にみちていたので、なんのためらいもなく始めたのが、わたしの自然農法なんです。昭和十三年の事です。(p.17)

文明が作り上げた社会が、幻であり、無駄なものであると言うこと。今の私には良く分かる。しかし、福岡さんの本に出会わなければ…やっぱりチンプンカンプンだったに違いないと思います。もし若い頃…福岡さんに直接会ってそんな話を突然されたら…。この人頭おかしいって思ったでしょうね。

なのに‥今のわたしは、福岡さんの言う自然農や宗教まで不自然だ〜って言っているのですから…。端から見ると、私は更に変な人になってしまうでしょうね。たぶん…。
  
      
                              



7

何もしなくて良かった

普通の考え方ですと、ああしたらいいんじゃないか、こうしたらいいんじゃないか、といって、ありったけの技術を寄せ集めた農法こそ、近代農法であり、最高の農法だとおもっているのですが、それではいそがしくなるばかりでしょう。

わたし(福岡正信)は、それとは逆なんです。普通行われている農業技術を一つ一つ否定していく。一つ一つ削っていって、本当にやらなきゃいけないものはどれだけか、という方向でやっていけば、百姓も楽になるだろうと、楽農、惰農を目ざしていきました。(p.19)

私も、ある意味こんな感じで‥文明の持ち込んだものを一つ一つ否定して、本当にどうなのか…検証してみたんです。自然農や宗教とかも、本当に必要なのかどうかと。そうすると、野生の生き方が一番楽で楽しい生き方だって分かったんです。そうしたら‥本当に福岡さんが言うように‥人は何にもしなくて良かったって‥結論になったんです。そうなると自然農も‥宗教も余計なもの‥だったって分かった‥。

今や福岡正信さんの人気は高く、自然農の創始者とか先生とか呼ばれています。しかし、福岡正信さんからすれば‥自然農の創始者とか先生と呼ばれるよりは‥全ての人が文明を否定し、自然に沿って生きていく生き方へ‥方向転換することを喜ぶに違いありません。

「文明によって助けられる命は、自然を破壊する命。
しかし、自然に沿って失う命は‥自然の命を豊かにする。」
だから、私は自然に沿って生き自然に沿って死んでいきたいって思っている‥




8

何もしない農法を目指す

それからの三十五年、私(福岡正信)はもう、全くのただの百姓で、現在まできたわけなんです。その間、一冊の本を読むわけでもなし、そとへ出て人と交際するでもない、ある意味で言いますと、まるっきり時代おくれの人間になってしまいました。だが、この三十五年の間に、私はただひとすじに、何もしない農法を目ざした。ああしなくてもいいのじゃないか、こうしなくてもいいのじゃないか、という考え方、これを米麦作りとミカン作りに徹底的に応用した。(p.19)

人は、文明の知恵など必要としていない完璧な自然を文明という知恵で、ここまで破壊してしまいました。そして、人はその破壊された自然を、自然に任せて回復させるのではなく、自分たちが学んだ文明の知恵でどうにかしようと思っています。

文明の知恵で作った鎌で草刈をしたとき、そのままほっとけば草は元の状態に戻ります。つまり、自然は、ほっておけばもとの状態に戻してくれるということです。私たちは、それを信じ自然に任せることが大切だと思うのです。私たちの至らなさでダメにした地球。自分たちの知恵でなんとかしようとせずに、自然を信じて任せてみてはどうでしょうか?

文明は自然災害の時だけ、自然は大きな力を持っていると言って紹介しますが、本当は、災害も含め自然は全てを修復しているのだと思います。自然を文明に合わせるのではなく、自然に私たちが合わせていける知恵を蘇らせる必要があると思いました。

福岡正信さんは、35年かけて、それを証明してくれたのだと思います。
      



9

人間が先に悪いことをしている

結局、田を鋤く必要はなかったんだ、と。堆肥をやる必要も、化学肥料をやる必要も、農薬をやる必要もなかったんだ、という結論になったわけです。

そういうものが必要だ、価値があることだと思い、効果があるように思うのは、結局、人間が先に悪いことをしているからなんです。価値があるような、効果が上がるような条件を、先につくっているということなんです。人間が医療が必要だ、薬が必要だ、というのも、人間が病弱になる環境をつくりだいしているから必要になってくるだけのことであって、病気のない人間にとっては、医学も医者も必要ではない、というのと同じ事です(p20)

畑を借りて実際にどうなるのか‥色んな条件の畑を借りて私も試してみました。一番良かったのは、ずっと畑として使われていなかった不耕起の畑で、自然農に適していました。春になると色んな種類の雑草がすぐに生えてきて、虫やヘビや鳥などの生き物がたくさん住みついて‥。土は柔らかいし、作物も順調に成長しました。

ところが、借りる直前まで誰かに使われていたという畑は大変でした。何が大変かって‥。土が石のように硬いのです。毎年石灰を多量に撒くのが原因だと思うのですが‥。耕運機を皆が欲しがるのに納得がいく硬さでした。とりあえず私は、その硬い畑にシャベルで種を植え‥。本来水など撒いたりしないのですが‥水を何度も撒きながら様子を見ました。肥料なしでどうなるのか?

かぼちゃとオクラを植えましたが、根が張れないのか全然大きくなれず。オクラはそれでも小さいなりに収穫できました。しかし、かぼちゃは途中で枯れてしまったのです。昨年までその土地を使っていた人が、いかに不自然な事をし続けていたかがよく分かる畑でした。福岡正信さんが言うように「結局、人間が先に悪いことをしている」と思いました。

農家の人は、土地が「酸性」という前提のもと「石灰」を毎年多量に撒きます。こんなに撒くと土は、酸性と言うより「強アルカリ」かもしれません。とにかく石灰をまくのは習慣化されているようです。石灰を毎年畑にまくので‥畑は石灰によって硬く硬くなっていました。だから耕運機が必要に。そして、土を耕すことでバランスのとれた自然を破壊し、肥料や農薬を無駄にまく。そして草のない乾燥した大地にはマルチ。弱くなった野菜には支柱。文明は、益々不自然になり支配者はそれで大儲け

植物には酸性の土地を好むものや、アルカリを好むものと様々です。しかし、自分の都合に合わせて土地を改良したりしません。自分の好みの土地に芽生えるだけです。そのことを思えば、農業がいかに不自然なものかよくわかると思います。

ちなみに、かつて日本のどこにでもあった土間。その土が硬いのは石灰を混ぜていたからです。

      



10

人間に与えられた文明の知恵を否定する

この30年かかって、やっと、何もしないで作る米作り、麦作りができて、しかも、収量が、一般の科学農法に比べて少しも遜色がない、と言うところまできた。と言うことは、人間の知恵の否定です。それが、今こそ実証できたことになる。これはもう一時が万事であって、他のあらゆる事にも応用できるはずなんです。(p20)

野生の生き物のように生きていくのが本来ですが‥。そこまで一気に行くことは不可能でしょう。しかし、自然農へまずは引き返し、少しずつ、野生を目指していけば‥。本当の生き方を取り戻せるのではないかと期待でき増す。
       



11

教育もマッチポンプ

たとえば、教育というものは、価値のあることだと思っている。ところが、それはその前に、教育に価値があるような条件を人間が作っているんだと言うことに問題がある、と私は言いたいんです。教育なんて、本来は無用なものだけれど、教育しなければならないような条件を、人間が、社会全体がつくっているから、教育しなければならなくなる。教育すれば価値が上がるように見えるだけにすぎないと言うことです。(p21)

わたしは、ブッシュマンという映画を見るまでは、人は働かなければ食べて行けないし、働いて当然と思っていました。ですから、ブッシュマンと言う映画はとても衝撃的な映画でした。お金なしで生活しているのですから‥。その時初めて、人間も本来お金なしで生活していたのだと気づかされたのです。

そこには、せわしく働いて、どんどん人と差を付けるという価値は何もないけれど‥ゆったりと流れる充実した生活があった。




12

自然は人の手を必要としていない

終戦後に一度ミカン山へ入って、自然農法を標榜したときに、私(福岡正信)は無剪定ということをやって、放任した。私ははじめ、「放任」ということと、「自然」ということを、ごっちゃにしていたんですね。ところが、枝は混乱する、病虫害にはやられるで、70アールばかりのミカン山を無茶苦茶にしてしまった。私は、その時から、自然型とは何ぞや、ということが、常に問題として頭にあって、これだということを確信するまでに、永い間模索してきました。そして、やっと自然型とは、これだな、という確信を持てるようになった。

自然型というものを作るようになってくると、病虫害の防除も必要なくなって、農薬がいらなくなった。剪定というような技術も必要なくなった。自然というものがわかれば、人間の知恵なんて必要ないんです。(p21)
                   


13

自然に任せれば音楽だって不要

たとえば、子供に音楽を教えることだって、不自然で、不必要なんです。子供の耳は、ちゃんと音楽をキャッチしている。川のせせらぎを聞いても、森のそよぎの音を聞いたって、それが音楽なんです。本当の音楽なんです。

ところがいろんな雑音を入れておいて、耳を混乱させておいて、つまり、まちがった道に子供を導いて、子供の純なる音感を堕落させてしまう。これでは不自然な状態、いわゆる放任状態になってくる。そして不自然な状態において放任しておくと、もう小鳥の声を聞いても、風の音を聞いても、それが歌にならないような頭になってしまう。

そんな頭にしておるから、今度は一生懸命で音階とか音符とかを教えて、歌が歌えるように、音楽が聞けるように、作曲ができるように教育しなければならなくなる。(p22)

ある人がこう言いました。「サイレンの音が音階で聞こえてくるの。その音が遠くから近づくにつれて音の高さも変わってくるのがわかるの。」と‥。例えば「ドレミ。ドレミ‥」みたいに‥。「全ての人がそう聞こえると思っていたけど、違ってたみたい」と‥。絶対音感を持っているらしく、私にはまったく理解できなかった。

だからと言って自分が自然そのものの音だけに触れてきたかと言うと‥そうでもない。小さい頃から‥ラジオやテレビから流れてくる音楽に接してきた。時には外の風の音や虫の声や鳥のさえずりを阻んでまで‥。

私が生まれた家は、すぐ前が海。波の音が子守唄。風の音が私の友達‥だったのに‥。今は、道を歩きながら風の音を‥小鳥のさえずりを‥虫の声を‥感じるようにしたいと思っている。
      
                                                          


14

何が自然なのか分かっていない

一般には、自然がいいぐらいのことは誰でも考えている。ただ、何が自然なのかがわかっていない(自然を不自然にする最初の出発点は何なのか、ということがはっきりつかめていないんです。

たとえば、木のような場合だと、あの出たばかりの新芽を、ほんの1センチでも、人間がハサミで摘むと、もうその木は、絶対とりかえしのつかない、不自然なものになってしまう。

自然は、人間がほんのちょっとした知恵を加える、ちょっとしたハサミを加える、ちょっとした技術を加えたときに、とたんに狂ってしまう。その木の全体が狂ってしまう。取り返しのつかない狂いを生じてしまう。

そうして狂わしておいて、そのまま放任しておけば、初めの自然の秩序と言うものが狂ったまま、バランスの崩れたまま成長するというのですから、枝と枝が衝突する。

人間の手がちょっと入ったがために、枝と枝が喧嘩する。交差したり、上下が重なってきて、もつれ合うようになってしまう。陽が当たらない部分は枯れてきたり、病虫害が発生したりする。庭の松なんかでも、植木屋さんが、ちょっとハサミを入れると曲がりくねってきて、もう翌年も剪定しなければ、すぐに枯枝が出てくる、あれと同じです。(p23)

家の生け垣の剪定を毎年2回ぐらい行っていたけど‥。この個所を読んで良くわかった。木は剪定不要だったってことが。私の家の庭は小さいから、木を植えっぱなしにできないから剪定していたけど‥剪定すると枝と枝がぶつかり合ったり、虫が付いたり‥だから、また次の年に剪定が必要になる‥。

なるほど〜。庭師の人にとってはリピーターが増えていいですよね。 (私の家では自分でしていましたが)人が土地を所有し、そこに家を建て、そこに自然から取ってきた木を植え、自分好みの姿に切りそろえ‥毎日毎日管理していく 「不自然な行為」。

植物だけではなく‥人間だって‥学校に入れて先生が管理するより、自然任せが一番いい。先生が管理すると。子供たちは不自然になって‥衝突が起きる。喧嘩や苛めなんかがいつも起きる。だから。お金のシステムから解放され。お互い所有を無くし。森が元の状態に回復すれば‥。みんな学校へ行くより、森で一日過ごす方がずっといい。森が、自然が‥私たちをはぐくんでくれる。優しく包むように‥。

          



15

肉をやめれば‥食料危機もなんのその

日本の国土は、狭い狭いといっておりますが、日本人がみんな穀物、菜食するようになったら、人口が二倍になろうが三倍になろうが、この国土の中で、充分養っていけるんです。(P.114)

文明に頼り過ぎて、いったい人は何を食べていたのかさえ分からない現代。しかし、少なくとも肉食ではなかったのではないでしょうか?少しの魚介類と菜食と玄米や玄麦があれば‥本当に人間は生きていけるのかもしれません。実は、わたしもここ数年肉を食べていません。魚をたま〜に食べて、あとは、雑穀と豆類を混ぜたご飯と野菜を入れた味噌汁ぐらいです。粗食なんですけど‥熟成した味噌だったり、肥料や農薬が使われてない野菜やお米ならば‥体に浸みわたって、ほんとうの御馳走って感じがします。



16

文明という幻を追いかけた人間の姿

結局、人間がその知恵と行為でもって、何か悪い事をする。悪い事をしておいて、それに気づかないままに放っておいて、その悪い結果が出てくると、それを懸命に訂正する。そして、その訂正したことが効果を上げると、いかにもそれが価値あるりっぱなもののように見えてくる、というようなことを、人間は秋もせずやっているわけです。まるで、自分で屋根瓦を踏んで割っておいて、水もりする、天井が腐る、といって、あわてて修繕して、立派なものができた、と喜んでいるのと同じです。

科学者にしたって、そうですね。
偉くなろうと思って、夜も昼も一生懸命本を読んで勉強して、近眼になって、いったい何のために勉強するんだと言えば、偉くなって良いメガネするためだ、と言うようなことなんです。勉強しすぎて近眼になって、メガネを発明して有頂天になっている、これが科学者の実態だと思います。

もう少し具体的に言うなら、ロケットをこしらえて、月の世界へ行くようになって、人間は偉い事をやったと喜んでいるけれども、そのロケットを何のために使うかというと、ロケットを打ち上げる燃料が足らんから、ウラン取りに行くんだ、という。ウランを持って帰って、ロケットを打ち上げる。そして打ち上げるロケットには、原子炉の火でできた、ウランを燃やしてできた廃棄物の死の灰を、地球では捨て場所がないから、結局、コンクリートづめにして宇宙の外まで発射するのだ、と石原さんが言っておりました。あのメガネの話と寸分ちがわないことが起こっている。

いくら、えらい科学者だ、教育者だ、芸術家だといっても、結局、究極の原点から見直してみると、人間は何をやったわけでもないんだ、ということです。それをこの一株の稲や麦が、そしてミカンが証明してくれたんです。人間の知恵というものを明らかに否定してくれたんです。(P.23〜24)

文明を信じ、文明が見せた幻を追いかけてここまで来ました。そして、自分たちが築き上げた文明社会に、私たちが有頂天になっているそばから自然が崩れ去っていく音が聞こえてくるのです。その音は初めは小さく。徐々に大きくなって‥遂にどさっと崩れ去っていく。そんな音が聞こえてきます。

もし、私に力があったら文明以前の世界にこの世界を戻したい。
でも…でも本当は‥そんな力なんて自然には要らない。なぜなら、みんなが野生の生き物のように自然に手を出さなければいい事ですから。そんなシンプルなことが今一番難しい時代になった‥。「無力になる事」が一番難しいとは!!!




17

人間は何一つ知ってはいない

この数年の間に、私の自然農法に興味を持つ人が非常に増えてきました。そして、ラジオ、テレビ、新聞、雑誌でも盛んに取り上げられるようになりました。私はただ、人間は何も知っているのではない、と言う事を確かめ裏付けたいために、こうして百姓をやってきたにすぎなかった。

ところが、今考えてみますと、世の中というのは、全くそれと反対の方向に、猛烈な勢いで進んでいたんですね。自然から離反する方向に向かって、どんどん進んでいた。そして、その極限が近付くにしたがって、それに疑問を持ち始めて、反省する時期がきた。ということが言えるでしょう。(P.25)

せっかく福岡正信さんが気づかせてくれた、文明の知恵の浅はかさ。しかし、文明を進めようとする大きな力はとどまる事を知らない。自然農をビジネスにしていこうという動きが‥私たちを絶望に追い込む。

本当は‥。本当は、人々がよけいに所有している土地を手放して‥まずは国から野生に土地を返していかなければならないって私は思っている。そうして、皆がお金の循環から少しずつ開放されて‥余った時間で、山や海に行って自由に食べ物をとる事ができるようにしなければならないと。

私の願いは、全ての人がビジネスから解放されて‥自由になること。野生の生き物のようにお金なしで、食料を得る事。




18

健康より経済優先

高知県の病虫の専門家の桐谷さんなどが来て、この田圃はウンカの消毒(殺虫剤などの農薬使用)をしないのに、なぜウンカが少ないんだろうか、というような調査をした。虫の生息状態とか密度、天敵と害虫との関係、クモの発生率なんかを調べると、試験場で消毒した田圃の発生密度と、ほとんど同じである。消毒もしないこの田圃の害虫の発生密度が、いろんな薬(農薬)を使って一生懸命消毒した田圃と、ほとんどちがわない。

さらに驚くことは、害虫は少ないが、天敵は、消毒(殺虫剤等の農薬使用)した田圃よりずっと多いから、結局、天敵のおかげで、これだけの状態を保っている事がわかった。高い薬(農薬)をかけて虫を殺すより、こう言う栽培法をとれば、全てが解決するんだ、ということを確認して、高知へ帰っていかれた。

(中略)

視察に来られた技術者や専門家が、このやり方はこう言う点で疑問がある。こう言う点が悪いというような判断をされた事は、今までほとんどなかった。どなたも、その専門の立場から見ると、これでさしつかえないと思う、と言われる。少なくとも、”さしつかえないように思う”ということばを残して帰っていかれる。にもかかわらず、帰られて5、6年の間に、その県で具合かされた例がない。

(中略)

そうは言っても、肥料も農薬も、さらに農機具も使わないなんていうと、現在の社会の中では、非常に当たりさわりが多いから、まあ時とばあによっては使ってもよかろうじゃないか、ということで、それらが推奨される場合がおおい。そうしますと、農家というものは、科学否定というところまではもちろんいかなくて、折衷したようなところでいこうとする。

(中略)

緩やかな一歩だけれども、本当の農業の源流に還ろうとるす気配はある。とはいえ、すぐ二歩、そこから離れるという結果も見えている。そういうことを繰り返していきますと、世の中は本当にどちらを向いて進んでいるのかわからなくなってくる。結果的に見たら、やっぱり一歩も自然農方に近付いているのではなくて、むしろやっぱり離反しているのではないかと思えてならないんです。

※ウンカ:写真←クリック

病虫の専門家桐谷さんが、「高い農薬を使って虫を殺すより、こういう栽培をとれば‥全てが解決するんだ」と確認して帰ったはずなのに‥。今もなお、農薬が撒かれているという事実。残念で仕方ありません。

わたしも、かつて自然農をした事がありますが、周りの人の畑の白菜はヨトウ虫により葉っぱがレースのようになっていたのに、うちの白菜は無害でした。私の畑には雑草も虫もたくさんいたから‥害がなかったんだと思いました。それでも、周りの人から変な目で見られ‥この事実を目の当たりにしながらも、家庭菜園をする皆さんは‥大変ながら、土を耕し、除草をし、肥料を施し、農薬も少しだったらいいかみたいな感じで、やっていました。

もし国が農薬や肥料や機械を売って儲けている農協に対し、しっかりした指導ができていたら‥今頃多くの人が無駄な病気で悩まずに済んだでしょう。(現在農薬により、鬱、胃腸障害、アレルギー、神経痛、難病、化学物質過敏症などの病気が引き起こされている)




19

メガネを発明して有頂天になっているが‥

結局、人間がその知恵と行為でもって、何か悪い事をする。悪い事をしておいて、それに気づかないままに放っておいて、その悪い結果が出てくると、それを懸命に訂正する。そして、その訂正したことが効果を上げると、いかにもそれが価値あるりっぱなもののように見えてくる、というようなことを、人間はあきもせずやっているわけです。まるで、自分で屋根瓦を踏んで割っておいて、水もりする、天井が腐る、といって、あわてて修繕して、立派なものができた、と喜んでいるのと同じです。

科学者にしたって、そうですね。
偉くなろうと思って、夜も昼も一生懸命本を読んで勉強して、近眼になって、いったい何のために勉強するんだと言えば、偉くなって良いメガネするためだ、と言うようなことなんです。勉強しすぎて近眼になって、メガネを発明して有頂天になっている、これが科学者の実態だと思います。

もう少し具体的に言うなら、ロケットをこしらえて、月の世界へ行くようになって、人間は偉い事をやったと喜んでいるけれども、そのロケットを何のために使うかというと、ロケットを打ち上げる燃料が足らんから、ウラン取りに行くんだ、という。ウランを持って帰って、ロケットを打ち上げる。そして打ち上げるロケットには、原子炉の火でできた、ウランを燃やしてできた廃棄物の死の灰を、地球では捨て場所がないから、結局、コンクリートづめにして宇宙の外まで発射するのだ、と石原さんが言っておりました。あのメガネの話と寸分ちがわないことが起こっている。

いくら、えらい科学者だ、教育者だ、芸術家だといっても、結局、究極の原点から見直してみると、人間は何をやったわけでもないんだ、ということです。それをこの一株の稲や麦が、そしてミカンが証明してくれたんです。人間の知恵というものを明らかに否定してくれたんです。(P.23〜24)

文明を信じ、文明が見せた幻を追いかけてここまで来ました。そして、自分たちが築き上げた文明社会に、私たちが有頂天になっているそばから自然が崩れ去っていく音が聞こえてくるのです。その音は初めは小さく。徐々に大きくなって‥遂にどさっと崩れ去っていく。そんな音が聞こえてきます。

もし、私に力があったら文明以前の世界にこの世界を戻したい。でも本当は‥力なんて要らない。なぜなら、みんなが野生の生き物のように自然に手を出さなければいい事ですから。そんなシンプルなことが今一番難しい時代になった‥。無力になる事が一番難しいとは!!!




20


これが畑??? / 自然農をしていた頃のうちの畑
粘土団子に種を入れてばら撒いたので、いろんなところから野菜の芽が出てきて‥ 「ここが畑〜?」 って言われるんです。雑草と一緒だから、みんなびっくりするんですが、ちゃんと収穫できたんですよ♪


↓これが‥うちの畑です


                                                            





自然は、区切りがない世界。無限に大きくもあるが、無限に小さくもある世界だった。

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