「塔友」124号に掲載された近況原稿
わたしの三転人生、 でもそれは一本の綱
「なんでまた急に会社を辞めるの?」「これから何をするつもり、いったい?」
その頃たまたま報道制作部長の席にあった私が、折から会社 の提示した優待退職の勧誘に乗って退社を申し出たとたん、いっせいに周辺から不審と質問の矢が飛んだ。TBS在社25年目、1978年秋の出来事である。ちょうどその少し前、私は「モダンダンス出航」という一冊の本を世に問うていた。著者名は日下四郎。それが実は私のペンネームだとわかり、これから私がその現代舞踊とやらの世界に跳び込むのだと知った時、驚きと不審の念は次に難詰に近い色彩に一転して、中には無謀な転身は今からでも撤回すべしと強く迫る知友などもいた。だが今では管理職の身、デスクにあって日々鬱積していた内心のエネルギーとモノ造りへの執着は、もはや私自身でどうしようにも抑えきれなくなっていたのである。
以来ほぼ40年、いつしか90歳の大台を目前に、ここ数年は心身の衰えを覚えるとともに脚を悪くし、やむなくダンス界からの引退を決意した。その間この世界との縁は様々な形をとって続いてきた。まずはDance Theater Cubicという舞踊グループを結成、新しいダンス空間の創造に専念した最初の13年間、次いで二つの大学を掛けもってもっぱら現代舞踊の何たるかを論じた教職時代の90年代、さらに今世紀に入ってからはいわゆる舞踊評論家として、舞台作品を追いかけ批評と関連事項の執筆に専念するここ10数年間であった。
振り返ってみて我ながらまことに好き勝手に自由を追い求めた人生だったと思う。いま内心かえりみて何らの後悔はない。人は私のことを二つの名前を使い分け、折角の人生をテレビとダンスなど水と油のような二つの世界を駆けずり回り、どちらも中途半端な道楽に始終した奴だと思うかもしれない。しかしそれは違う。私の中では立派に一本の筋が通っていて、それなりの必然的な流れであり、オルガニックとさえ言える結びつきのある一生だったと自負している。
具体的な一二の例で説明すると、私とダンスとの縁が生じたのはテレビ時代に「ロボッタン」という、ダンサーがぬいぐるみでストーリーを演じる児童番組を1年間作った時からである。また逆にダンスに関わってからは、過去の資料を映像で掘り起こし、放送時代の手法を借りて6巻に亘るビデオ版現代舞踊史を編纂した。その他「ダンスの窓から」のシリーズで、表現とコミュニケーションの問題を活字で論じるなど、両者を結ぶ底流と縁の深さには予想以上のものがあったことを、おわりに強調しておきたいと思う。 - April 2019-
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