TBS旧友会

 TBS旧友会のつどい (2009年のブログより転載)

 3年ぶりに《TBS旧友会》の総会に出席した。いやなに別に会社ぐるみの小難しいセレモニーではない。旧ラジオ東京が1951年(昭和26年)の暮れに、民間放送として初の電波を流して以来、今日に至るこの約半世紀の期間に、かつてこの会社で定年を終えた社員が、時に応じて旧交をあっためる、いわば同じ釜の飯を食った連中の、ごくフリーな親睦会だと考えていい。それがこの月の17日に、今年最初の会合に当たる第47回定期総会を開いた。
 
 場所は赤坂にあるホテルニューオータニの一室。今回は全部で220名の旧社員が顔を見せた由。目下生存の会員数は1050名を数えるそうだから、ほぼ全体の2割強の出席になる。もちろんすでに亡くなったほぼ400人の旧会員はそこには含まれない。それを加えて1500人前後の団体といえば、これはもう立派に中堅企業として通用する人的規模だ。対するところの母体であるTBSの正規社員は、それより下まわって昨今では1000名ほどのはずだから、数だけからいえば、いったいどちらがメインの組織なのか、ちょっと面喰ってしまう。
 
 実際、この会合が進行する2時間ほどのあいだは、みんなけっこう楽しそうにはしゃいでいた。また集会の目玉行事として、毎回喜寿(77才)を迎えたメンバーにはお祝いの金一封を手渡す決まりがあり、これは誰が考案したか、当初からの心温まる気配りのセレモニーだ。その年の該当者はリボンをつけて正面のいす席に座らされ、少々気恥かしいがひとりずつ名前が読みあげられると、それと引き換えに白いお祝い袋を受け取る手順になっている。そのせいだろう、毎年それに該当する年次の会員だけは、ずばぬけて出席率が高いというから人間らしいというか、つい笑ってしまう。ちなみに今年は42名が該当者だったが、うち29名が顔を出した。
 
 しかし数の話しはともかく、この《旧友会》の顔ぶれも、よくみると少しづつ中身や質に微妙な変化が起こってきている。なんだかぜんたいの雰囲気が、近年急に老人臭くなってきた印象があるのだ。年々在籍者の年齢が1歳づつ上がっていくのだから、これは当たり前の話で、長寿の意味では結構なことともいえるが、10年ぐらい前までのこの団体には、いい意味で、本社に対する一種のご御意見番的なこわもての一面があった。本社からの役員や重鎮のあいさつにも、「先輩であるみなさんのご意見ご指導を、ひたすら心に受け止め努力を重ねていく所存
」などいう言葉がよく使われていたものだ。
 
 実際、90年代のはじめに、N証券会社を介した事前のウラ取引事件で、最後は引責辞任に追い込まれたT社長のケースなど、引き金はこの旧友会メンバーにあったように記憶する。病気や株の話よりも、まずジャーナリズムとしてのあるべき姿への厳しさが、旧社員にとってのもっとも強い関心事だったのである。その時は、パーティの酒食などそっちのけで、口角泡を飛ばして最後まで雰囲気が殺気立っていた。「TBSのメンツと信用にかけて、白黒だけはぜったいにつけなければ」と、強い結論を下して、社のトップにストレートな進言の段取りを企てたものだ。

 それ以後わたしも毎年出席しているわけではないが、そのころと比べ昨今はみんな足腰もたるんで歯切れが悪く、頭角や額にもきわだってシワが増えたことは争えない。加えてこの親睦グループは、母体である東京放送から
○○○万円かの資金援助を受けて発足、あとはその取り崩しと年会費だけで運営されている。近年は採用社員の制限で、加入者の数も目に見えて少なくなり、基金が使い果たされたあかつきには、いったいどうなってしまうのか。単なる囲碁やゴルフの仲良しグループで自足するのか。

 ともあれこういう機会に、思ってもみなかった昔の仲間に巡り合えるのは、この会ならではのうれしい発見であり楽しみである。今回の出席メンバーのスターは、たまたまつい先日8年にわたる行政の役割を終えたばかりの、前千葉県知事堂本暁子さんだった。参議院議員の2期をふくめ、十数年ぶりの里帰りといっていい。たまたま喜寿に当たる酉年生まれで、例の祝い金がでるからぜひにと、《旧友会》幹事からの連絡を受け、急きょ駆け付けたのだという。みんなに「知事さん」ではなく、昔の「ドウモッチャン」の呼び名で声をかけられながら、酒を酌み酌みいかにもたのしそうな交歓風景がみられた。

  

     ホームページ「二つの目―ダンスと社会―」“鵜飼宏明のジャーナルノート”より
        
 
* 私のTBS在籍時代は1953〜79で、上の写真はその期間に撮った可視資料の何枚かです。

 TBS旧友会はその名のとおり、かつて局に在籍した社員によって構成されているグループで、2013年10月現在の会員数は912名。毎年春の総会と秋に有料交信懇談会という年2回定期の集会がある。私は8割方出席しているが、年々新入会の数と並ぶぐらい人が他界しており、例えば今年1月に編集発行された「塔友」(会報誌)に投稿されている一文「仕事と重なってしまい、ざんねんですがけっせきさせていただきます。皆様によろしくお伝えください」は、アナウンサーであったあの文さんこと山本文郎氏の短信だが、その後体調を崩し、今はすでにこの世にはいない(2月26日肺胞出血で死亡)。
最近版の2014号にも、吉川季男さん、三輪俊道さん、忠隈昌さん、弟子丸千一郎さん、三浦啓次さん、近藤夏樹さんなど、懐かしい人たちの訃報が報ぜられている。みな私のせいぜい2、3年ぐらいの先輩だが、最近は年下の仲間も少なくない。遠からず私も彼らの仲間入りをして、会報に1行の告知が掲載されることになるだろう。
−October、 2013ー

 2015年の秋の懇親会に出てみた。春の総会は欠席したので1年ぶりである。会場は赤坂放送会館だが、先ず午前11時から11Fのセミナールームで1963年に放送された毎日マラソンの中継録画を上映してみせた。これは翌年の東京オリンピック開催を控え、同じコースを走る「毎日マラソン」をライブで移動生放送してみるという、当時としては大胆で野心的な番組。今は懐かしい泉大介や近江正俊アナウンサーらの顔も見えた。また番組そのものにもスタッフの高揚する意気込みが感じられ、民放王者時代のTBSの威力といったものを再確認した次第。そのあと場所を変えて13Fのホールへ移り、ここで交歓の会食パーティが行われる。明るい照明下に照らされた、100名を超す会員たちの頭は、どれも白髪か禿頭ばかり。それでも久々に声を掛け合う仲間たちと出会え、杖を突きながらでも、何とか参加できてよかったことを実感。同時に今年は顔の見えない誰彼を、どうしているのかと気遣う、それも話題の裡の老人たちの年次集会であった。−October,2015−

「塔友」124号に掲載された近況原稿


   わたしの三転人生、
        でもそれは一本の綱

 

「なんでまた急に会社を辞めるの?」「これから何をするつもり、いったい?」

その頃たまたま報道制作部長の席にあった私が、折から会社 の提示した優待退職の勧誘に乗って退社を申し出たとたん、いっせいに周辺から不審と質問の矢が飛んだ。TBS在社25年目、1978年秋の出来事である。ちょうどその少し前、私は「モダンダンス出航」という一冊の本を世に問うていた。著者名は日下四郎。それが実は私のペンネームだとわかり、これから私がその現代舞踊とやらの世界に跳び込むのだと知った時、驚きと不審の念は次に難詰に近い色彩に一転して、中には無謀な転身は今からでも撤回すべしと強く迫る知友などもいた。だが今では管理職の身、デスクにあって日々鬱積していた内心のエネルギーとモノ造りへの執着は、もはや私自身でどうしようにも抑えきれなくなっていたのである。

以来ほぼ40年、いつしか90歳の大台を目前に、ここ数年は心身の衰えを覚えるとともに脚を悪くし、やむなくダンス界からの引退を決意した。その間この世界との縁は様々な形をとって続いてきた。まずはDance Theater Cubicという舞踊グループを結成、新しいダンス空間の創造に専念した最初の13年間、次いで二つの大学を掛けもってもっぱら現代舞踊の何たるかを論じた教職時代の90年代、さらに今世紀に入ってからはいわゆる舞踊評論家として、舞台作品を追いかけ批評と関連事項の執筆に専念するここ10数年間であった。

振り返ってみて我ながらまことに好き勝手に自由を追い求めた人生だったと思う。いま内心かえりみて何らの後悔はない。人は私のことを二つの名前を使い分け、折角の人生をテレビとダンスなど水と油のような二つの世界を駆けずり回り、どちらも中途半端な道楽に始終した奴だと思うかもしれない。しかしそれは違う。私の中では立派に一本の筋が通っていて、それなりの必然的な流れであり、オルガニックとさえ言える結びつきのある一生だったと自負している。

具体的な一二の例で説明すると、私とダンスとの縁が生じたのはテレビ時代に「ロボッタン」という、ダンサーがぬいぐるみでストーリーを演じる児童番組を1年間作った時からである。また逆にダンスに関わってからは、過去の資料を映像で掘り起こし、放送時代の手法を借りて6巻に亘るビデオ版現代舞踊史を編纂した。その他「ダンスの窓から」のシリーズで、表現とコミュニケーションの問題を活字で論じるなど、両者を結ぶ底流と縁の深さには予想以上のものがあったことを、おわりに強調しておきたいと思う。 - April 2019-