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時評とメモさまざまな話題を追って             
2014
アベさんの脳みそ
 今日はもはや1月7日。9連休という長い年末年始の休日が終わって、昨日の月曜日から、世の中一斉にあわただしい動きを取り戻した気配。そんな中を先ず目立つのは、お山の大将ことわれらがアベさまの、記者たちを前にしての所信表明。談話中例の靖国参拝の真意を、時間をかけてよく説明すれば、世界中にわかってもらえる筈だと、いけシャーシャーと述べている。一日本人の心情がそのまま外国でも通用すると、本気で考えているのか。一国の代表者の行動が、外から見た場合どう映るものか。更に政治というやつは、それを巧みに利用し転用する怪物だ。そんなこともわからない単細胞頭のアタマでは、いかにも島国サイズの二流の政治家というほかはない。地球は日本を中心に回っているのではないのだ。(1/7)

白熱化してきた都知事選
 皮肉な某テレビ出演者の曰く:「前知事の唯一の業績は、思いがけない今回の都知事選を準備したこと」だとか。きついと言えばきついが、今日の新聞によれば問題の5000万円は(手数料として)1割にあたる500万円が、仲介者である〔一水会〕の某氏に渡されていたことも判明。これまでの都議における同氏の証言が、いいかげんであったことがまたしてもバレた。政界に出て文人のイメージを著しく傷つけた、と芯から怒っていた同業作家N氏の発言ももっともだとうなずかれる。細川元首相の都知事選参入で、原発行政を筆頭に、憲法問題、秘密保護法案の対処など、一挙に波乱含みとなる今年の政界運営は、この国の将来を左右する意味で、後世真に歴史に残る一ページになることだけは間違いないだろう。きよう日曜日の正午現在、いますでに進行中である沖縄名護市の市長選の結果はどうころぶのだろう。その日その日の趨勢が、文字通り運命の一齣となって跳ね回るだろうこの2014年という午年。それでも少しは希望をつなげたい。(1/19日)


  愚かな三流国への兆候
 冗談ではない。最近の安倍首相を主犯とする一連の発言と人事には、なにやら鳥肌の立つ危機感をすら覚える。特定秘密保護法の制定はもとより、集団自衛権解釈を巡る本人の反立憲主義的発言、一連のおともだち人事の結果登場したNHK会長の浅はかな言論思想、同じく経営委員メンバーの下劣な他人誹謗の暴言。すべてこれまでには考えられなかったシロウトレベルの人材登用であり、思考力の停止そのものだ。そこへまた内閣補佐官のDISAPPOINTED表現をめぐる迷論愚行が浮上した。ユウチュウブにUPして、次元の低い”反ともだち”発言だと米大使館へ陳情に行っていたという事実も明らかになった。どれもこれも何の国際感覚もない、何の勉強もしてこなかった超三流の人間・政治家と評する以外にない。そしてそのあとに続くのは、決まったように官房長官による”個人的思考”という逃げ口上と釈明。かくして奇怪なこの国の逆戻り立国で、この先安倍の言う”美しい国ニッポン”の再来が実現すると言うのであろうか。何ともイライラしてしまう。危ういかなニッポン!(2/3日)

  メディアの責任と最近の傾向
 その昔大学を出て勤め口を探したとき、私はNHKを避けてTBSを選んだ。理由は簡単である。政府と密着した官制の放送局は、戦時中国策に奉仕して、みごと国を敗戦へ導いた。その点企業がスポンサーの民間放送には言論の自由があるから大丈夫だと。しかし現実にはそう簡単に事は運ばなかった。金の怖さを改めて知ったのである。同時に輿論の形成にとって、メディアの力がいかに大切かを、あらためて知らされた。その後故あって私は情報世界から足を洗い、いわばノンポリ世界といえる舞台関係の仕事に専念したのだが、最近戻ってみて、世の中がいかに狭いナショナリズムに陥り右傾化しているかに大いに危惧の念を抱いている。アベノミクスの行政に、楯突くメディアが次第に細っていくのだ。インターネットの世界はまだ五分五分だが、怖いのは出版系の週刊誌。「”中国”与太者の原理」だの、「利用される日本人売国学者」、「慰安婦デタラメ報告書」等々、口ぎたなく相手をののしることで、メディア信仰レベル層の無意識域を操作する。そこまで言えない放送局は、ひたすら衆愚をあおるゲラゲラ笑いの、エンタメ番組作りにもっぱら精を出している。(3/21日)

 三流国もまた良きかな
 前々回のこの欄で、”愚かな三流国への兆候”と題して一文を記したが、最近内田樹氏のエッセー集「おじさん的思考」という文庫本を読んでいたら、その中に「老人国へ向けてのロールモデル」という文章に出合い、なるほどるほどと思わず膝を叩いて感じ入ってしまった。彼は「日本は今”弱小国”になろうとしている」と断じた上で、それは栄枯盛衰、歴史上当たり前の現象であり、それゆえ今こそわれわれの知的努力は、「傾いた屋根の下で、雨漏りやすきま風に文句をつけながらも、快適に暮らせるような”生活の知恵”の涵養」にあると言う。「小さくてもほっこりした国」がほしいのだ。ある種の思想転換だということが出来るだろう。もちろんこの文章には多分にアイロニカルに説いた一面もある。しかしこれであのアベシンゾウさんの「美しい国ニッポン」が、いかに歴史と時代を読み違えたドンキホーテ的発想であり、そんな掛け声にリードされる必要など一切ないことがよくわかるではないか。とたんに胸のなかがスッキリしてくる。内田さん、どうもありがとう。(4/27日)

 迷走一路の集団的自衛権論
 あっという間に過ぎ去った1か月。春から夏への、例年になく乱調気味だったこの間の天候に似て、日本をとりまくアジア情勢もいよいよ慌ただしさを加えている。ミヤンマーの政変、タイのクーデタ、新疆ウイグル地区のテロ、中国とrosiaの接近などなど。その間隙を縫うように、わが安倍首相もいよいよ張り切って、世界各国の訪問を積み重ねている。その行動を貫くひそかな心情は、おそらく今後に見る日本の軍事力強化へのひそかな期待だろう。国会での答弁に見える、子供っぽいまでのその集団的自衛権の論理。「邦人なしでも米艦護衛」だって?「日本人を載せた船なら、どの国でも攻撃対象」だって?12のケースを並べたいわゆるグレーゾーンの絵解き。軍国少年の育成ではあるまいし、戦争はいかなるはずみでも起こるという歴史の第1条もご存じない。やっぱりこの人は戦争をしたくてしようがないガキなのだ。それがカッコいい国の姿だと思っている古物なのだ。ところでここへ昨日また維新の会の分党騒ぎが起こった。どうなる国会の過半数あらそい。石原新党の与党参加?こうなりゃ次はいよいよ公明党の歴史的役割りが問われる番だろう。もう一度くり返す、戦争と理屈の共生はあり得ない。ガンバレみんな!ここが正念場だ(5/30日)

 平和のための戦争展@国分寺
  市の中心にある本多公民館で、24日25日の両日、国分寺9条の会の主催で、平和と反戦のための催しが組まれ、時間を作って出向いた。メイン・イヴェントのひとつは、昨今のイラクを取材したドキュメンタリー映画「ファルージャ」で、戦争当時まだ高校生だった伊藤めぐみさんという女性が、当時”自己責任”の名の下に激しいバッシングを受けた高遠菜穂子さん・今井紀明さんらの、その後たどった苦難や活動の実際を追った力作篇。その他報道写真家広川隆一氏の現地での貴重な記録や、更に2日目には”イラクの子供を救う会”の制作になる「イラク民衆の闘い」「GOBAKU (誤爆)」など3本のDVDの放映、さらにいわゆるPTSD(戦争後遺症)に悩むアメリカ帰還兵の綴った手紙や文章の朗読(テアトルエコー所属の女優さん)など、なかなかに充実した内容の企画だった。例によってこれをここまで実現にこぎつけたのは、ここ10年来絶えることなく月刊≪輝け憲法9条≫の会報を発行されている国分寺事務局の増島高政さん。いつも口を開けば「ただ惰性でのろのろ続けているだけ」と、ひょうひょうと口少なげの御仁だが、内に秘めたその信念と情熱の激しさには、ただならぬものがあるに違いないと、密かに敬意を抱いている隣人市民のお一人だ(7/26日)


2015
 戦争絡みの2本の映画
 レギュラーの舞踊評論からの引退宣言いらい、現金なもので急に現代藝術としてのダンスに対する興味がなくなり、膝の疾患もからんでその種の劇場を訪れる回数が急激に減った。かわりに登場したのが映画行である。時間も場所も観る本人側で自由に選べる利点がある。しかし何を観るか、その選択はけっこう難しい――というか若い時と違って行き当たりばったりには出向かない。最近2本の戦争映画を観た。明らかに昨今に見るアベ行政への不安がどこかでからんでいるのかも。1本はかって「父親たちの星条旗」や「硫黄島からの手紙」で気を吐いたC・イーストウッド監督の「アメリカン・スナイパー」、そして他の一本はチェチェン紛争の史実をバックに、両親を目の前で殺された子供の命数を追う「あの日の声を探して」。前作「アーティスト」でアカデミー賞をさらい、俄然国際的にクローズアップされたフランス国籍のM・アザナヴィシウス監督の作品。しかし同じ戦争という共通のテーマを扱いながら、そこには大きな隔たりがある。前者は部分的にセンティメントを誘う細工を駆使しながらも、しょせん狙撃兵を狂言回しにしたエンタメ作品への劣化がみられ、徹底的に戦争への嫌悪に徹した後者の真摯さには、ついに及ばなかったと私は審判したのだが。(5月11日)

 戦後政治の行くへを占う正念場
 このところ記録破りの猛暑日が続き、今日もまた朝からギラギラと、うだるような一日が始まろうとしている。そして毎年のことだが、これらの夏の天候は、私の頭の中で否応なくあの太平洋戦争の末期、敗戦の日へと繋がる暑い夏の連日を否応なく呼び戻すのだ。B29による連日の空襲、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下、ソヴィエトの参戦。そしてその果てに運命の8月15日はやって来た。中学3年生だった私が、動員先の工場で”玉音放送”を聴かされたのも、まるっきりおなじ耐え難い酷暑の正午だった。そして不気味なことに、いま国会で強行されようとしている安保法案をめぐる一連の立法が、なぜか敗戦に続く当時の、一連の出来事と見事に重なって見えるのだ。その行きつく先が、敗戦にも匹敵する運命の折り返し点、戦後70年間に亘って守り抜いた平和への努力を、一挙に吹き飛ばす戦後政治の大きな転換点、これまでの努力を一挙に無にして、再び戦争に巻き込まれるこの国の大きな転換点にならなければと、ハラハラとした思いで見守っている。1年前までのようにデモに参画することも出来なくなってしまった。一市民として一票の権利と義務だけは最大限行使しているつもりだが。(8月6日)

 ついに結ぶか悪魔との契約
 前半の猛暑を過ぎて、突然冷寒の台風シーズンがやってきた。ここ1週間列島各地には洪水だの竜巻、がけ崩れなど、ありがたくもない被害が続出している。そしてまたそれを反映するかのように、集団自衛権容認をめぐる地上政界の成り行きも、いよいよ急をつげてきた。連日のデモや学者、若者たち(SEALDS)の激しい抗議にもかかわらず、これに対抗する形で自民党の戦術もなかんかにしたたか。ピシャリ対抗馬を抑え込む形で、きのう無投票でアベシンゾウの総裁続投も決まり、その勢いでこの中旬にはもはや安保法案をどうしても裁決へ持ち込むと宣言している。これに対する野党の統一抵抗戦術は果たしてどこまで力を発揮できるのか。剣ヶ峰の勝負は、結局一般国民がアベ的思考のゴマカシを読み取り、どこまで戦争拒否の一点で団結を通せるかどうか、もっぱらその地力にかかっていると思われるのだが。あのおぞましいナチの歴史も、当初ヒットラーはすべて議会の合法的な議会のルールをたど利ながら権力を手中におさめ、そして最後はドイツ国民をあの悲惨のどん底へ突き落としたのである。、当時人類の理想とされたあのワイマール憲法も、その過程の裡にいつしかナショナリズムの足下に、踏みにじられてあえなく消滅に至ったのだった。(9月9日)


2016

 恐るべきITネット時代の伝播力
 引っ越し開始からほぼ1か月、我が家の新しいメイン空間であるリビングキッチンに、24インチ大のスマートテレビが置かれた。その大きな画面ではインターネット系の番組も楽しめるのである。その中でほとんど毎週欠かさず観るのは、もう10年以上の付き合いになる愛川欣也司会時代からのデモクラテレビ本会議だ。そしてその視聴ついでに新しい出会いもあった。例えばYouTubeなどのアプリ経由で、あちこちサーフを試みてみると、あるある大小並んだ政治色の強いプログラム。地上デジタルの放送局では決して見られない風景だ。そしてその出演者なり番組の主張は、明らかにほとんどが右翼のスタンスに立っている。今や世の中はこれほど右傾化してしまっているのだろうか。いや決してそうは思わない。なにせ右翼の人はせっかちで声がでかいからだ。作る人も切り取ってアップするひとも、論理より情念のほうがはるかに秀でている。そしてそれがSNS時代の波に乗って勝手に伝播するのだ。そのとき怖いのは束になった時の情念の力。フランス革命以来、ナチのファシズムも、最近はアメリカのトランプ、そしてわがアベノミクスのドグマさえ、その根っこを揺すぶっているのは、理念でなく情念という怪物の仕業である。この事を今こそもう一度しっかり確認する必要があるのでは。(5月24日)

 あっという間の魔の一年だった
 時評だのメモだのと恰好を付けながら、何とこの欄には今年たった1本のエッセーをしたためただけで、気が付けばもう世の中は師走に突入していた。Brexitとやら言うイギリスのEUからの脱退、予期せぬ異傑トランプのアメリカ大統領当選など、地球上の出来事も波乱万丈だったが、私個人としても正月早々に妹の死に出合い、無理を通しての京都の墓地への埋葬、それが片付いたとたんに、今度は特養老ホーム生活7年目の妻が肺炎をこじらせ、あっという間にあの世へ旅立ってしまった。茫然自失、残された私としては妹が入居予定をしていた空き家の始末もあり、急に近隣マンションへの引越し騒ぎが決まって、にわかに身辺の大整理と、まるで空から3本の大型爆弾を落とされたような出来事の連続。秋口の納骨の後、せめて年末ぐらいはゆっくりしたいと、ひとりで年越しそばをゆでて、チビリチビリと盃を傾けながら今テレビでベートーベンの第9シンフォニー合唱を聴いている。89歳にもなるスエーデン人の指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットの熱演ぶりに、ようやくこみ上げるような元気の糧をもらった気分。除夜の鐘は聴かないで今夜はゆっくり眠りたいと思って今これを書いているところだ。いやいやまるで三隣亡を絵にかいたようなこの一年であった(12月31日)


2017

 ますます縮まるこの国の言論活動
 国際NGOである「国境なき記者団」の査定によると、昨今日本の報道の自由度は、対象180ケ国のうちなんと72位なんだそうだ。2010年には、ベストテンに迫る11位だった同じ国の報道陣がだ。世界は見ている。そういえばあの2014年に就任したNHK籾井会長の「政府が右というのを左というわけにはいかない」の発言が象徴的だった。あれからこの国のマスコミは急激に精彩を欠きはじめ、テレビ局の報道番組からも、次々に骨のあるキャスターが姿を消して、今では視聴率稼ぎのニュース・ショーめかした似非番組だけが幅を利かせている。番組名は同じでも、中身は一変、「報道ステーション」しかり、「クローズアップ現代」しかり。そういえばこの前フト思い立って日曜早朝の「時事放談」にスイッチを入れてみた。そのむかしあの歯に物を着せぬ細川・藤原コンビがなつかしくてだ。だがやはり中身はただの”爺いの雑談”になり下っていた。もはやテレビにジャーナリズムを期待するのは無理。まだしもYOU-TUBEなど自由なSNS基盤のネット空間をサーフしていた方が、よほど熱っぽく真実に迫る動画などに行き当たることが少なくない。ただし困ったことにそれら威勢のいい一派は、たいていが右よりの荒っぽいナショナリズムか、むき出しの愛国主義を押し立てるだけの一方的なレポートが多い点で参ってしまう。いよいよ周辺に息苦しさが立ち込めてきた。(4月27日)

(以後の所見と執筆は別ページ「とびとび日記」の中へ随時収斂UPされます)