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不定期ジャーナル

2016


 ■ 申年の正月
   同じサル年でも今年は干支(えと)で言うと、ヒノエサル(丙申)に当たるのだそうである。ヒノエはもともと〔火の兄〕を意味し、その年にはなぜか火災が多いという。いっぽう民間ではヒノエウマ(丙午)という言葉がよく知られていて、この干支の年に生まれの女性は、不吉をもたらす悪性の持ち主だとみんなから敬遠されている。たしかに馬が暴れ出すと手におえないだろうが、なーに猿だって油断は禁物。単細胞あたまのお調子猿が暴れ回った末に足を踏み外し、日本中が火だるまにならないとだれが保障できるものか。明日から始まる国会本会議、今度はどんな行政と悪法が準備されているのか。秘密法案、安保改正に続いて、この縁起年に画策される立法が、とうとうこの国を後へ引けない危険な立ち場を余儀なくされ、またもや破壊と戦争の真っただ中に放り込まれることの無いよう、恒例である今年元旦の氏神さま詣では、心中そんなことをひたすら祈りながら、ただ無心に柏手を叩いていた。脚や膝の痛いのは同じでも、わずかこの2年間に、まわりの情勢は想像以上の変化を遂げている。一歩誤ると何が起こるかわからない昨今の世界情勢。アベノミックスと引き換えに、われとわが身を差し出すつもりは毛頭ございませんと呟きながら、杖を突いてゆっくりわが家まで戻って来た。(1月3日)

 ■ 妹達子逝く
  とうとう心配していたことが現実になってしまった。それもこの元旦に「おめでとう」と電話で会話を交わしたばかりの妹が、ベッドから転げ落ち息絶えていたというのである。9日の朝修禅寺ニュータウン地区の民生の方から電話が入り、そのあと警察の人から関係を質された後、唯一の血縁ゆえすぐ来てほしいいう。あわてて家を飛び出し中央線で東京へ直行。そこから新幹線に乗って三島、さらに豆箱根鉄道に乗り換え大仁駅に着いたときは、さすがにもう陽も傾き始めていた。そこから署の迎えの車に乗って案内されると、そこにあらぬ姿に成り果てた妹の姿があった。あらためて堀の深いその死に顔に両手を合わせる。死因はクモ膜下出血だという医師の検案書を渡された。20年近い昔に連れ合いに死なれて子供もなく、東京へ出てくるつもりでマンションの一室も用意してあったのに、それもついに果たせずあの世へ旅立ったというわけである。地元の葬儀屋に頼んで、とりあえず13日に荼毘に臥す手配だけをして、この日は引き上げる。女として生ける喜びの日はいつだったのか。つくづく孤独で寂しい一生だったと、車中なんべんもそう思わずにはいられなかった。(10日)

 ■ 最後の処女作?を出版
  「閻魔さんとお釈迦さんが同時にやってきた」。思わず誰かにそう漏らした覚えがあるが、実際今年の年明けは、いわば吉凶同時の来訪で始まった。閻魔さんと出会いは、言うまでもなく妹の突然死である。そのいきさつは前回のコラムで述べたので繰り返さないが、もう一つの朗報は昨年の夏から進行していた例の著作の出版が完成した。こちらも昨年春のこの欄で言及しているが、学生時代に書いたいわば私の処女作で、それがこの2月5日付けでついに陽の目を見るに至った。中味はいまなお特別養護の老人ホーム晩年を過ごすわが妻との出会い。戦後まもない昭和20年代の青春青春譚、題して「ナナとジャン」と名付けた。もはや目も耳も完全シャットアウト、要介護5の身だが、せめてこ本を抱いてあの世へ旅立ってほしいと思って出版を思い立った。それがいちばんの動機だ。おのため扉に「ナナへ」の献辞も入れた。だが同時に出来るものなら多くの人に読んでもらいたいのは書き手としての本音でもある。そのためがんばって7日の東京新聞その他の媒体にも二三の広告を張った。果たしてこの本の辿る運命やいかに?いかようにも広がってほしい。(2月7日)


 ■ 突然、だがついに来た別れの日
 4月4日早朝病院から電話が入り妻が臨終だという。すぐ跳んで行ったがもう呼吸はなかった。待っていたかのように医師が現れて死亡を確認する。何ということだ、まるで今度の本の完成を待っていたかのような旅立ちではないか。あれから3月に入って、もとより本人の聞こえないのは承知の上で、枕もとで何回か「ナナとジャン」からの抜き書きの朗読をしてやったのがせめてもの慰めだった。そのあと半月ほど経ってから、熱っぽく咳があるというので、国分寺病院で診察を受け、医師の勧めで入院したものの、月が替わればすぐよくなって退院するものだとばかり思っていた。つい3日前に行った時も穏やかな顔で眠っていたし、看護婦に訊いても答えは”平常”だと言う。それが週の替わった春分の当日に何とこの連絡。突然、だがついに最期の別れの日がやってきたのだ。やむなくメモリードに連絡して迎えを頼み、3日間同ホールの霊室に安置され、同じ週のうちに近隣の東福寺でなんとか通夜と告別式をやり終えた。会葬者は故人が女の身で初代の監督を務めた少年野球「キングス」の面々、歌壇グループ「あゆみ」からの数人、その他は私がグループの一員である元気老人クラブこと「よいこらしょ」の仲間たち。韓国から長男夫妻が急いで駆けつけ、社会に出て元気な孫たち二人の顔を観られたのがせめてもの慰めだった。(4月10日)

 ■ 残された終活期への腹括り
 4月19日に業者の手で主要な家具を新しい生活空間であるマンションの一室に移した。やれやれこれで転居の大筋は果せたかと思ったら、これはとんでもない錯覚で、実際の転居は実にこの日から始まったと言える。2LDKのリビングキッチンにうずたかく積まれた段ボールの山。ふうふう言いながら老骨に鞭打ち、一人でその中身を取出すだけでも精一杯なのに、平行して電話やテレビ、インターネットの再設置、そして実際には日々の生活に必要な、そのくせなぜか旧宅に置き去りになっていた身近の小道具類。カレンダーや筆立て、石鹸、便所箒などを、気が付くままに自転車で一日に2、3度往復しながら運び込むのに大童。今年のゴールデンウイークは、正にわが終活期最後の空間創りのためのの大忙しの日々となった。それにつけても昨年の暮れに、まるでいじわるのように突如韓国転勤になった息子一家の不在をこんなに恨めしく思ったことはない。果たしてこれで不動産業者との約束になっている、10日までの家屋引き渡しに間に合うのかどうか。文字通りのラストの至難業だ。(5月5日)

 ■ 第9回の2016MM会
 MM会とはミキ・メモリアルの縮約語。2007年の5月に亡くなった舞踊家三輝容子さんをしのんで、往事のお弟子や関係者らが集まって会食をたしなむ年一回の集会である。今年も14名が顔を見せ、東銀座のレストラン「L'ECRIN」で、前後2時間半のランチタイムを楽しんだ。私を含め、新国立劇場制作部のM氏やダンス・インストラクターT氏が一応幹事ということになっているが、第1回1周忌の発足以来、毎回場所と日時を決め、20名を超えるメンバーにいちいち出欠の可否を問うて実現までの労をとってくれている実際のアレンジャーはU女史である。彼女はかつてダンスシアター・キュービック時代には、わずか1回公演に参加してステージで踊っただけの門下生だが、自らの言う「その穴埋め」にと、これまで目黒区にある旧河野洋平の別宅庭園や、帝国ホテルの「セゾン」をはじめ、毎年フレッシュでゴージャスな会場を準備してくれる。今から来年10年記念の設営が楽しみだ。(8月11日)

 ■ 納骨の儀を終えてホッと
 春たけなわの4月4日に妻があの世に旅立ってから、あっという間に半年近い月日が流れた。7を奇数とする仏式によれば、49日が納骨のきまりであることは知っていたが、韓国勤務の息子夫妻の都合もあり、早くから冨春寺に断わりを入れておいたので、この日9月16日にずらして行う。一行は夫妻と孫優子の4人。午前中迎えに来てくれた息子の車で約束の13時に現地到着、本堂でお経をあげてもらったあと、裏山のGedächtnisse(記憶のかずかず)と彫られた一風変った私製の墓地へナナの骨壺を収める。 私の生死観によれば、お墓は先祖の霊を慰めるところではなく、ましてや手を合わして願い事を乞うなど笑止の至り。その一瞬故人との思い出や出会いを再起して、そこからあらためて生きる勇気や教訓を得る点にこそ最高の意味があるのだと思う。
 その夜は息子のおごりで、甲府の積翠寺温泉へ一泊。久々に家族団欒の味わいのうちに、山中の古湯をしずかに楽しんだ。(9月18日)


               2017

 ■ 今年の運勢は小吉?
 マンションの6Fで目覚める初めての越年である。どうやら空は快晴の模様。6時50分、東の空を朱に染めて姿を見せる日の出の光景がすてきに美しかった。思わず30年以上も前、富士山の8合目の山荘から観た荘厳な太陽を思い出した。ひさしく忘れていた爽快の気分。ひょっとして鬱の気分の連続だった去年のムードからの脱出の兆しか。そんな感情に一瞬襲われた。そうだ、今のうちにと杖を片手に部屋を出てエレヴェーターで地上に降り立ち、そこから府中街道をゆっくりと南へ、熊野神社を目指して歩き出す。朝日に照りはえてまぶしい境内には、すでに三々五々敬虔な参詣者の姿があった。型どおり鈴を鳴らし、お賽銭を投げて柏手を打つ。そこまではいつもと同じだが、そのあとフトおみくじを引いてみる気になって、百円銀貨と交換に社務所の窓際に用意されたボックスへ腕をさし入れて無造作に一枚を取り出す。果たして吉か凶か。ただしそこで開けるのはやめて胸のポケットへしまい込み、ふたたび街道うらの間道を選んでゆっくりと帰路につく。さすがに足腰が痛む。往復1時間20分をかけてようやくマンションへと舞い戻った。ヤレヤレ。そして椅子に崩れ落ちるように身を投じてから、おもむろにおみくじを開いてみる。運命の2文字は”小吉”だった。これが今年のお告げとしての運勢か。なるほど、そんなところだろう。いやその程度でふみとどまってもらいたい。ふむふむ、フムフム。(1月1日)

 ■  とんだ遠出の散歩コース
 散歩ではなくはっきり映画を見に行くつもりで出かけたのだ。このところめっきり足腰が弱まり、特に膝の痛いのが苦痛で、その分ついつい外出もとりやめ家にこもりがち。そんな日は夕方になってせめてもと、杖をつきながら府中街道をまたいで家の周りを一回りして自ら慰める。だがどこかものたりない。そんな一日新宿でオリバー・ストーンの「スノーデン」をやっていることを知った。今は昔「プラトーン」や「7月4日に生まれて」がなつかしい。なんとか無理をしてでもと、人出の少ない週日の昼間を選んで出かけてみた。ついこの間までははしご酒、かけぬけ御免の歌舞伎町界隈だが、それをソロリソロリと用心いちばんの今浦島。もはや跡形もないあのコマ劇場あと地に立ったTOHOシネマズ新宿とかいういかつい映画集団ビル。その中をエレベータに乗って到着たのが、3Fチケット・お土産・飲食なんでもござれのセンター・スクエア。その一角にかまえた案内係に切符はと尋ねると、その日の「スノーデン」はまさかの売れ切れ。安心のためにはあらかじめネットで購入するのが望ましいと、これはしたりこれが今風の映画鑑賞の手順か。いまさら改めて知った次第。おもわぬ遠出の散歩になった、おそまつの一幕でした。(2月15日)

 ■ すんでのことで宿無し子
 ドア・キーをなくしてしまったのだ。これが何を意味するのか。夕方所用で駅前へ出たあと、近くの居酒屋で一杯ひっかけて帰宅したところ、ポケットにあるはずの鍵がない。おかしい。居酒屋?コンビニ?それともバスから降りるときの不注意?あわてて端末から電話で三か所に連絡を取ってみたが、いずれもその時点での成果はない。サアそれからが大変だ。もう一度駅前のターミナルまで戻って、私が乗ったと思われる5時半前後の3台のバスが戻ってくるのを、7時から9時までひたすら待ち受け、それぞれ客が下りた後のバス内部を隅々まで探させてもらったが、やはりどこにもない。念のためにとさらに近くの交番とJR国分寺駅および西武駅改札の事務所にまで訪ねてみた。だがやはり届けはなかった。サーテ困った、いよいよ今夜は野宿か。ほとんど絶望的な気分のまま、念のためにもう一度バス停前のコンビニに立ち寄って聞いてみた。ところがなんと20分ほど前に、店の駐車場の路面に落ちていたと届けてくれていた人があったのだ。ああ助かった、九死に一生とはこのことか。これを記さずして何を日記というべきか。思わぬ不注意から、あやう一夜の宿なし児になる今夜のハプニングをここに記載しておく所以なり(4月25日)

 ■ ふるさとの味を感じた
 ひさびさにおとづれたお隣の街「国立」だったが、そこでなんともいえない郷愁を覚えた。実は左わき腹の神経痛を、新しい医者に診てもらうのが目的だったのだが、そのためバスに乗って行ったのも一因かもしれない。降り立ってみて、まず緑におおわれた街全体に、中央線沿線の他のどこの駅前にもないたたずまいに目をうばわれた。駅前のロータリー広場からまっすぐに伸びる幅広い並木通り。ここで昭和20年代の後半、私は若い学生・サラリーマン時代のひとときを過ごしたのである。60年も昔の話だが、その頃の趣や匂いが、まだ色濃くそのまま漂っているのを見たのだ。気が付くと駅まえの一角には、なんと往時のカフェーレストラン「白十字」がそのままの形で残っている。またお金のない学生として、しばしば立ち読み学習をさせてもらった本屋さんの「増田屋」もまた。それも今ではなんと3階建ての店を構えて、大勢のお客を相手にしている。さすがにに一橋大学と国立音楽大学を核とした文字通りの学園都市だけのことはあるとあらためて深く感じ入った次第。診療所を出たあと、木陰のベンチで帰りのバスを待ちながら、あえて3台のバスをやり過ごしたあと、あれこれ過去の記憶を呼び起こしながら、すっかり不思議な郷愁の感に打たれながら、しばしの涼をとりこんでいたひと時であった。(7月11日)


                 2018

 ■ また一つ敷居を越えた
 
 今ではほぼ私の全生活空間になったマンション3部屋の内の一つ、まっすぐ東の空に面した6Fベッドルームからみる毎朝の風景は、今でもなかなかの見ものだ。大仰にいえば1年を通して、その日の天候、雲の流れ、日の出時間の差などによって微妙にタッチの違う、自然が恵んでくれる365枚の芸術作品ともいえる。
 その1枚、今朝も色づき始めた雲一つない空のアートを目にして、さて遅れてはならじと杖を片手にマンションを後にした。行く先は1500メートル先にある熊野神社。なーに、これが日課だなんてとんでもない。2018年1月1日。元旦はこの初詣がいつしか我が家のしきたりなのだ。
 ソロリソロリ。右、左と一歩づつ、杖にすがりながらゆっくり府中街道を南下する。大丈夫かな?自信はなかった。それでも途中一か所から見える雪渓の富士の雄姿に励まされ、ようやく社殿に柏手を打つことができて、往復1時間15分、ふたたびマンションの我が家に帰って来ることができてホッとしたた。
 思えば一昨年の暮、この書斎で喪中の賀状をしたためていた私に、さらに1年先の正月を迎える自信はほとんどなかった。だがいま私はこの日記をしたためている。そしてこのあと知人たちから受け取った年賀状に、あちこち返信の礼状をしたためることになるだろう、それが今日これからのわたしの日課だ。また敷居をひとつ超えてしまった想いにとらわれている。(1月1日)

 ■ 物騒な1年の始まり
 
 「いよいよぶっそうな平成の最後の1年が始まります」。これは私が今年出した年賀状にしたためた文中の一行である。昨年の選挙では野党がだらしないばっかりに、自民党は労せず議席を増やし、今年に入ってわれらがシンゾーさんはいよいよ改憲の時来ると胸を張って年頭のあいさつで述べた。今や一触即発の北朝鮮問題。日米は100%意見を共にすると公言してはばからない政府は、アメリカを 口実になんとか戦争をしたいと念じているとしか思えない。これらの動きに対しマスコミの反応はどうか。一部の新聞はだまって賛意を表し、リベラルをもって認ずる他の一般紙も、それなりにお行儀のいい異論を並べているが、そこにはあきらかに及び腰の空気が漂う。そしてテレビはといえば、どのチャンネルをひねってもわが身に迫るこの種の問題を、ただゲラゲラとお笑い番組の素材にオモチャにするだけで、まともな報道番組はほとんどゼロ。一体かれらの本心はどこにありや。そこで参考までにインターネットでYouTubeをのぞいてみて驚いた。目に飛び込んでくる投稿の大部分がすべてあの”ネットウヨ”と呼ばれる一派の手になるリベラル罵倒の大合唱ばかり。そこでは日頃マスコミで正論を吐く学者やジャーナリスト連中がすべて”パヨク”の蔑称でさげすまれ、「サンデーモーニング」や「報道ステーション」などごく一般的なニュースショウまでもが、すべて偏向番組として非難の対象になっている。なんという物騒でおぞましい風景。これはもしかして、既にいつか来たあの太平洋戦争前夜の不気味で息苦しい一時期、「もの言えぬ時代」が再来実現しているのではないだろうか。(1月15日)

 ■  ”いま浦島”の旧友3人会
 
 毎年春と夏の2回、3人で顔を合わし下町で一杯やるというのが、高校・大学時代からの友人、SとRと私によって続けられてきた自称「山利喜」会である。だが最近になってお互いの身内に不幸が起こったりなどして流会が続き、今年は2年半ぶりの再会の筈であった。4月13日の金曜日。半月前から予約を取って、この日を待つことひさし。ところが前の日になってSから連絡が入り、持病の気管支炎の調子がわるく、申し訳ないが失礼するとドタキャンの通知あり。またしても中止だけは避けたいと、わざとRには告げないで翌日目的地の森下駅へ向かった。ところが都心の雑踏にあてられたか、久々の新宿で乗り継ぎを間違え、都営新宿線でなく大江戸線へとびのっ多おかげで、迂回の分だけ定刻を20分ばかり遅れてしまった。ゴメンゴメンと息せき切って店へ飛び込んだところ、当のRもまだ来ていない。どうしたものだろうと先に生ビールを注文して待つこと更に20分。ようやくくしゃくしゃの顔をした友がよろめくように入口にあらわれて曰く、「どうしてもこの店が見つからなくてね。周辺を30分以上探し回ったよ」。まあ会えてよかったと早速乾杯。でそのあと流れるように会話が弾んだかというとさにあらず。最近みみがとおくなった、緑内が進んだとまずさまざま加齢現象の報告が最初にあって、そのあとの話題もあいつは死んだ、こいつもくたばったと仲間の話を引きずり出しながら、そのあいつの名前が正確に出てこない。「あいつだよあいつ、ほら髭のある」「ああ、あいつね。なまえはなんといったっけ」。何ともしまらないペースの会話の中身。これひょっとしたら4月13日の金曜日という日取りが悪かったのかも?(4月13日)

 ■ はじめて常磐ハワイセンター

 よっこら処年一回の恒例旅行だが、今年はバスツアーの企画で、福島県はいわき市にあるリゾートセンター・ハワイアンズ湯治場への一泊旅行となった。思えば私は今を去る半世紀以上の昔、テレビ取材でいわばホンモノの舞台を現地で観ていて、それとの比較に興味があった。そこで杖を片手に今年も一行に加わったのだが、結論から言うとショウとしてなかなかによく仕上がっている。そしてダンサーたちも大半が当地にある舞踊学院の卒業生だというから立派。ただその点は逆に出演者が現地のオセアニア人種でなく、唯一の芸術上での減点といえるかも。 ところで昨今あえて”スパ”を名乗るこの施設の多様と規模の大きさには驚いた。温泉は元より広大なプールを擁した娯楽設備、何棟もの宿泊ホテルまたゴルフ場などを、ただウロウロするだけで、まあなんとも老人を反対にくたびれさせること。そんな中であえて江戸時代の様式を模した露天風呂”与市”は立派だった。薬草をくゆらす和風家屋の蒸し風呂と流れる滝の観景。折からの小雨をいとわず、思わず何回かの入浴を楽しんで時を過ごした。(9月30日)

 ■ 映画「ぼけますから、よろしくお願いします」

 足腰の老化がますます進行して、外出がついおっくうになり、これではならじとまずは映画行でもと、目下話題の「華氏119」を探してみた。ところが近間の映画館ではどこも上映していない。そのとき発見したのがポレポレ東中野にかかっていたこの映画、両親の昨今を自分がらみで記録するこのドキュメンタリーだった。よしこれならと半ば教養啓蒙作品を観せられるつもりで出かけたのだが、これがとんでもハップンのド迫力。ひさびさにみる気力満点のドキュメンタリー作品なのだ。老化してゆくおのれの両親を追った女性ディレクターの覚悟満点の貴重な記録フィルム。なんでも「おっぱいと東京タワー」など信友直子さんというこの監督が世に問うたいくつかの最近作はいずれも斯界で評判と話題の対象となった秀作続きらしいのだが、近年は半ば隠居の身のこちとらとしてはちっとも知らなかったというお恥ずかしいお話。たまたま上映終了後に同女の挨拶があり、そこで署名サービス付きというパンフレットを買う気になって、その時2,3言葉を交わした。なんでもフジテレビ系のチャネルとバックアップの雰囲気で活動を続けている人らしいのだが、それはともかく久々に接したドキュメンタリー世界の雰囲気に浸った貴重な午後の映画鑑賞のひと時となった。 (11月4日)

 ■ 貴重な集会”よっこら処”
 
 はや師走。俗説ではもっぱら”えらい先生”たちも走り回るいそがしい月ということだが、こちとらは先生でないせいか、年々身体の動きが鈍くなり、めったに都心へも出なくなった。そんななかで月に2回だが比較的元気な老人たちが任意に集まる”よっこら処”は、近年の私にとっては心身の得難い運動空間だ。今月も手作りの「秋の文化祭」の看板をバックに各人が好き勝手歌やら踊りやらを披露、そんな中を私も調子に乗って「寸劇」とやらを即興でやった。70年もむかし旧三高生時代にやらされた原語劇の一節。その時の台詞を今でも覚えているからだが、ギリシャ劇を模したあのサルトル原作の「LES MOUCHES(ハエ)」の一場面である。 その時の私の役は路肩に座す群衆の一人で、王様がお通りになるとき飛び出して住民たちの日ごろの苦境を訴える。ほんの30秒ほどのセリフだが、それを身振りを交えて独演したところ、なんと大うけして当日の一等賞(中身はどら焼き5ケ)をいただく結果となった。話はまだある。この熱演が尾を引いて、なんと数日後のクリスマスに地元の低学年の小学生たちのために、サンタクロースの役割を引き受ける羽目に立ち至った。とんだ老人の一挿話である。(12月25日)
                  

            2019

 ■  やんぬるかな転居3度目の越年

 マンションに移って3度めの正月を迎えた。まずはこんな筈ではなかったというのがとりあえずの心境である。希望というか予定では、そろそろくたばってこの世にはいなかったつもりが、どっこい、まだ生きている。寝室の窓から、これだけは見ごたえ十分の日の出風景を鑑賞したあと、切り餅とおすましで一人っきりのお屠蘇祝いもそこそこに、生きている以上これも型通り、毎年恒例の熊野神社さんへの初詣へ出発。杖をたよりに府中街道を南へソロリソロリ。途中一か所右手に、これも絵にかいたような雪嶺の富士をくっきり望見できる一角がある。しばし立ち止まって、その輝く全景を堪能。ふたたび歩き始めたら、西武線踏切の手前で細井さん夫婦に出会った。すでにお詣りを済ませての帰途である。新年のあいさつをすませ、その先さらに10数分歩き続けてコンビニ・サンクスの手前を左にまがると、その先に神社の鳥居と石階段が見えてくる。それを上がり切った正面さきが神殿である。三々五々、参詣人のあとに続いてお賽銭と柏手のマイム。何を祈るでもなくとりあえず恒例の行事をすました感じ。帰りはすでに高く上った東方の旭日を正面に見据えながら、国分寺病院まわりの裏道をたどって、ようやくわがマンションへ帰り着いたのが8時30分。出発時間は7時5分だったから、年々所要時間が伸びている勘定になる。それでも何とか新年最初の行事を終えてほっとの心境である。やれやれ。(1月1日)

 ■ セコムで金縛りの身となる 

 韓国の正月とやらで先月末から息子夫婦が帰国した。金曜日の2月1日には3人が集まり、久々に駅前の天ぷら屋で夕餉のひと時を過ごす。その時の話で私が日ごろ一人住まいの老人ゆえ、いざという時の対応が心配ゆえ、この際ぜひあのセコムの老人見回り保険に加入せよという。その流れで三日後の5日には業者がやってきて、息子の立会いの下でとうとう契約を交わす始末となった。夫婦2人はその週のうちに帰国(?)してもう日本にはいないのだが、今日13日には追いかけるようにセコムのひとたち3人がやってきて、3LDKの各所に監視カメラを含む5か所の必要器具を取り付ける。なんとその工事とともに契約は実際にスタートを切ったのだ。なんだかジョージ・オウエルのモデル空間が、突然わが身の回りに構築された思い。中で首から下げる緊急呼び出しのベルだけは、思い余ってベッド脇の壁にぶら下げることにしたので止むを得ないが、他の器具は日常なるべく目に入れないようにしようと思う。中でいささか慰めに思えた唯一の設備は、玄関ドアに取り付けられたお出かけ箱。鍵を差し込むと「いってらっしゃい」。帰宅時にはそれが「おかえりなさい」という若い女性の声に代わる。なんだか長年の探し物に出会ったようで一瞬切なかった。(2月13日)

 ■ 久々に映画を見た

 長い間劇場へ足を運んでいないことに気づき、時間があってどこかの映画を見たいと思い立ったが、さてどうしてもという作品が見当たらない。それに足が悪くて遠出はゴメンだ。パソコンと新聞などで当たってみたが、結局岩波ホールにかかっている「こどもしょくどう」に決めて出かけた。ここだと場所的にもJRと地下鉄でのりかえ一回ですむことが最後の決め手だった。作品は子供の目を通した貧富の差、社会の底をつく立派なものだが、やや周囲の人物描写が美化し過ぎていてその点がいささか気になった。主役である子供の両親は居酒屋を営んでいているのだが、わが子が自分の感情だけで次々と勝手に貧しい仲間を連れこんでも、だまって食事や部屋を与えておとがめなし。そこまではゆるせるとして、ついに子供は売上金にまで手を付けて一同旅行に出る。それでも平気なのは、ちょっと生活感がなさすぎやしないか。これが例えば山田洋次の映画なら、ここから問題が起こって新しいドラマが展開するだろう。
 ともあれ一応満足して帰路は地上をJRの水道橋まで歩いてみた。あたり一帯はまだ古書店を含む多くの本屋さんが残っており、なつかしい庶民食堂もそのままのたたずまいで軒を連ねている。昔はよく飛び込みでいっぱいひっかけに飛び込んだりしたものだった。だが今は問題外、そしてこの白山通りの700メートルの長かったこと。この日は杖を持って出かけなかったので、なおのことグッタリしてしまった。(29日)









   梅雨のように