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不定期ジャーナル
 
          2019

 ■  やんぬるかな転居3度目の越年

 マンションに移って3度めの正月を迎えた。まずはこんな筈ではなかったというのがとりあえずの心境である。希望というか予定では、そろそろくたばってこの世にはいなかったつもりが、どっこい、まだ生きている。寝室の窓から、これだけは見ごたえ十分の日の出風景を鑑賞したあと、切り餅とおすましで一人っきりのお屠蘇祝いもそこそこに、生きている以上これも型通り、毎年恒例の熊野神社さんへ初詣に出発。杖をたよりに府中街道を南へソロリソロリ。途中一か所右手に、これも絵にかいたような雪嶺の富士をくっきり望見できる一角がある。しばし立ち止まって、その輝く全景を堪能。ふたたび歩き始めたら、西武線踏切の手前で細井さん夫婦に出会った。すでにお詣りを済ませての帰途らしい。新年のあいさつをすませ、その先さらに10数分歩き続けてコンビニ・サンクスの手前を左にまがると、その先に神社の鳥居と石階段が見えてくる。それを上がり切った正面さきが神殿である。三々五々、参詣人のあとに続いてお賽銭と柏手のマイム。何を祈るでもなくとりあえず恒例の行事をすました感じ。帰りはすでに高く上った東方の旭日を正面に見据えながら、国分寺病院まわりの裏道をたどって、ようやくわがマンションへ帰り着いたのが8時30分。出発時間は7時5分だったから、年々所要時間が伸びている勘定になる。それでも何とか新年最初の行事を終えてほっとの心境である。やれやれ。(1月1日)

 ■ セコムで金縛りの身となる 

 韓国の正月とやらで先月末から息子夫婦が帰国した。金曜日の2月1日には3人が集まり、久々に駅前の天ぷら屋で夕餉のひと時を過ごす。その時の話で私が日ごろ一人住まいの老人ゆえ、いざという時の対応が心配ゆえ、この際ぜひあのセコムの老人見回り保険に加入せよという。その流れで三日後の5日には業者がやってきて、息子の立会いの下でとうとう契約を交わす始末となった。夫婦2人はその週のうちに帰国(?)してもう日本にはいないのだが、今日13日には追いかけるようにセコムのひとたち3人がやってきて、3LDKの各所に監視カメラを含む5か所の必要器具を取り付ける。なんとその工事とともに契約は実際にスタートを切ったのだ。なんだかジョージ・オウエルのモデル空間が、突然わが身の回りに構築された思い。中で首から下げる緊急呼び出しのベルだけは、思い余ってベッド脇の壁にぶら下げることにしたので止むを得ないが、他の器具は日常なるべく目に入れないようにしようと思う。中でいささか慰めに思えた唯一の設備は、玄関ドアに取り付けられたお出かけ箱。鍵を差し込むと「いってらっしゃい」。帰宅時にはそれが「おかえりなさい」という若い女性の声に代わる。なんだか長年の探し物に出会ったようで一瞬切なかった。(2月13日)

 ■ 久々に映画を見た

 長い間劇場へ足を運んでいないことに気づき、時間があってどこかの映画を見たいと思い立ったが、さてどうしてもという作品が見当たらない。それに足が悪くて遠出はゴメンだ。パソコンと新聞などで当たってみたが、結局岩波ホールにかかっている「こどもしょくどう」に決めて出かけた。ここだと場所的にもJRと地下鉄でのりかえ一回ですむことが最後の決め手だった。作品は子供の目を通した貧富の差、社会の底をつく立派なものだが、やや周囲の人物描写が美化し過ぎていてその点がいささか気になった。主役である子供の両親は居酒屋を営んでいているのだが、わが子が自分の感情だけで次々と勝手に貧しい仲間を連れこんでも、だまって食事や部屋を与えておとがめなし。そこまではゆるせるとして、ついに子供は売上金にまで手を付けて一同旅行に出る。それでも平気なのは、ちょっと生活感がなさすぎやしないか。これが例えば山田洋次の映画なら、ここから問題が起こって新しいドラマが展開するだろう。
 ともあれ一応満足して帰路は地上をJRの水道橋まで歩いてみた。あたり一帯はまだ古書店を含む多くの本屋さんが残っており、なつかしい庶民食堂もそのままのたたずまいで軒を連ねている。昔はよく飛び込みでいっぱいひっかけに飛び込んだりしたものだった。だが今は問題外、そしてこの白山通りの700メートルの長かったこと。この日は杖を持って出かけなかったので、なおのことグッタリしてしまった。(3月29日)

 ■ 四泊五日の入院

 左眼に発生した”黄斑円孔”とやらの疾患で、何十年ぶりかの入院体験をした。場所は西新宿所在の東京医科大学病院。実は先月のこと、お決まりの風邪をひき39度の熱を出して国分寺病院で診てもらったところ、肺炎の疑いありということで入院を勧められたのだが、なんとかその時は自力で精進を誓約、ぎりぎりのところ自宅療養で切り抜けた。ところが一か月経ってまたもやこの始末。これも運命かとひとり早朝から大きなバッグを引っ提げて直行、手続きを済ました。
 ところが入ってみるとこれがなかなかの快適。日ごろ強いられている一人生活の反動か、なにもかもが看護婦さん付きでスイスイ事の運ぶ気楽さは、これいわば王者の味わう一流のホテル生活みたいだわいとひとり悦に入っていた。
 おかげで31日の午後執刀されたオペもさほど苦にならず、それなりの微痛はあったが、その間私の視界に現れた風景は、ピンセットの先端を含めてちょうど抽象画のような硝子体内部の流動ビデオそのもの。そんなヴィジョンを楽しむうちに前後10数分の執刀もあっという間に終わってしまった。
 その後3泊して家に戻ったが、留守間の整理や片付け食事など、型通りせせこましい庶民生活(?)に戻っている。問題の左眼だが、視界の方はまだぼやけていて注入したガスがまだ抜け切っていないらしい。今週6日に再診が設定れている。(6月3日)

 ■ 全身これ施薬の対象

 言葉の正確な定義では、施薬とは無料で人に薬を与えるという意味らしいが、後期高齢者の身としては、処方薬はすべて一割支払いの特権を行使しており、ある意味似たり寄ったりの身分と言えなくもない。そして昨今通院・受診している病気の種類は、眼科、歯科、心臓、整形外科、泌尿系、ペインクリニックと、まことに多肢多彩に亘っていて、毎日と言っていいぐらいそのどこかえ出向くのが日課となっているぐらい、この本人もいささかうんざりしている次第だ。
 それでいてその効果といえば、完治といえるものは一つもない。ごく最近手術を受けた左眼の”黄斑円孔”とやらも、なるほど視界の中央にあったビー玉大の黒影はなくなったものの、代わって映像の歪みは逆にひどくなったようだ。執刀医にそれを言ったら、それはどうしようもない、それは治療の対象外でそれゆえ手術は成功したのだという。睡眠中に3,4度の夜尿に悩まされ、困って訪ねた泌尿病院だったが、2か月近く薬を飲まされ、結果それが4,5度にに頻度が高まり、結論としてはここで薬をストップしたらどんな逆変化が現れるだろうかという合意で通院を止めたのだが結果はそのまま、馬鹿らしくなってそれ以後足を運んでいない。
 いや医師を責めているのではない。責任はすべて私の方にある。もっと正確に言えば”自然”こそが犯人と断じてもいいだろう。老化だ、すべての生き物は衰え、「死」にむかってまっすぐに突き進むだけだ。この大自然の法則に打ち克つ奴はどこにもいない。それを前提に老後の生き方はすべて考えるべし。「百年人生」など、どこの国のどこの鼻たれがうそぶき出した戯言だろうか。ましてやそのための貯金目標2000万円とやらに至っては。(7月1日)

 ■ 電子本になった「ナナとジャン」

  三年前前に活字本として世に出た上下2冊の読み物「ナ ナとジャン」。このおそらくは最後の私の著作であろう出版物が、縁あって今回新しい装丁の下に、1巻の電子本としてもう一度お目見えすることになった。購入定価は一括1000円也。活字本の4分の一以下の値段だが内容に書き換えや変化はない。発行は〔22世紀アート出版〕、アマゾンの扱いで同社のKindleリストに加えられた。
 昨今のIT環境になじんだ世代では、次第に電子媒体による読書の層も膨らんできたという。こういうのを正しく”本の蘇生”というのだろうか。表紙の絵も左図のとおり向かい合った若い男女のシルエットという思い切って若々しいたデザインに描き替えられた。60年以上も前の古い書き手である私としても、いささか若返った気分がしないでもない。せいぜい新しい読者層との縁ができればこんなうれしいことはない。(8月6日)

 ■ おのれの英文を和訳する

 ここ1週間おのれが書いた英文を自分で日本語に訳すという妙な作業に追われている。実は「ナナとジャン」の電子本出版で世話になった〔22世紀アート〕のN氏にすすめられ、これまでに書き散らかしたり未発表のままになっている原稿をまとめて、さらに年を明けるころ追加の出版はどうですかと打診された。冥途の土産みたいな仕事である。ところがこれが中学校時代の校友誌に掲載した詩歌や、文学青年時代の同人誌などからはじめると、けっこう纏まった量になる。そこでついつい約束してしまったのだが、そのまとめ作業中、なかに80年代に半分語学の勉強のつもりで書いたらしい十数編の英文エッセーが見つかった。読んでみると表現自体は未熟そのものだが、とりあげている題材の方はなかなかに面白い。そこで編集者の意向でそれらに日本語訳を添えて取り上げてみてはどうかということになった。その結果今その英文をなんとそれを書いたご本人が日本語に移し替えるという妙な作業が始まったのである。全部で16本、邦訳にして1本500字前後の短いものだが、そこはそれ盛りを過ぎた老体には軽い仕事とは言えず、毎朝午前中の時間いっぱいを当てて1稿仕上げるのが精いっぱいのペース。それでも自分ながらやっぱり日本人には日本語の文章の方がはるかに向いているなど、あたりまえのことを妙に感心つつ、毎日せいいっぱいパソコンに向かって自文自訳の業を打ち続けているところである。(10月7日)

 ■ おしまいを迎えてしまった

 おしまいというのはわたしの寿命のことではなく、単なる年末の意味。きよう2019年12月31日は、朝からここ数日書き続けている現代舞踊協会への原稿をやっと書き終え、やれやれと開放気分で立川まで出て、しばらくぶりに映画を見てきた。山田洋次監督の「お帰り寅さん」である。過去の”男はつらいよ”シリーズで活躍した渥美清のカットを巧みに生かし、今の時代の柴又ストーリーをあらたに作り出した。劇中に倍賞千恵子はもちろん、若き日の浅丘るりとか吉永小百合、山本富士子、新玉三千代、大原麗子などが次々に出てくるだけでも、われわれ中老の世代を喜ばせるに十分だが、新しいストーリーの方でも、相変わらず独自の泣き笑いで日本人の心情をくすぐる点は、いかにもこの監督らしい職人芸だ。たしか私より1,2歳若いだけの東大出だが、ひょうひょうたる外貌に似合わず、その創作欲とエネルギーは大したもの。それに比べてコチトラは、たかだか3200字の原稿作成にふーふー。つくずく中古車になりさがったことを実感している。駅まで自転車を利用したせいもあるが、帰路どこかで一杯ひっかける元気もなく、3000円で仕入れたお節料理の材料を木箱に並べて、ひとりチビリチビリ。そのあと「紅白」はもちろん、除夜の鐘も聞かずにお休みとは、いささかわびしい今日一日大みそかの締めくくりでした。(12月31日)

 
          2020

 ■  サウナ湯さがし徒労の記

 わたしの生活圏である国分寺市にサウナ風呂がなくなって以来、ここ数年不便を承知で三鷹市の「あさひ湯」なる銭湯に月2~3回のペースで通っている。誰に紹介されたか、たぶん調布市に住居を構えていた息子の推薦がきっかけだったかと思う。しかしこのところかっきり足腰が弱り、息子一家も夫婦で韓国ソウル勤務になったこともあってか、バス・JR乗り継ぎの遠距離入湯行が次第におっくうになってきた。
 そこで一念発起。もっと近くに手軽に入れる銭湯併営のサウナなどないものかと、ネットで検索してみたところ、立川駅南口から徒歩500メートルあたりにT湯、国分寺駅南口からバスに乗って3ストップ目の沿道沿いにM湯と、計2軒のサウナ付の銭湯があるらしい。早速あたってみようと今日は天気も良く、特別の予定もないところから散歩のつもりもかねて昼食後13時過ぎに家を出た。まず初めに立川へ出てT湯の所在を確かめ、そのあと国分寺へまわってM湯でゆっくりサウナを楽しんでから、かえりは駅の天ぷら店で一杯という皮算用だったのである。
 ところがこれがなかなかの難苦行。スマホの地図でたしかめながら歩き出したつもりが、どっこい近くへきてもそう簡単に敵サンは見つからない。電話をしても不在。結局行きずりや小さなお店をたたいて訊ねまわった結果、すぐ目の前にあるレンガつくりの角の家がそうだとわかったのがほぼ14時半。鎧戸がおりていて上に15時開店と書かれている。あとの予定があるのでそのまま引き返し、再び国分寺駅南口からバスに乗って間違いなく3つ目で下車、比較的楽にM湯は見つかったが、こちらの開店は16時からとある。やむなく30分ばかりをあたりのコンピュータや百円ショップで費やし、ようやく時間が来てそれとばかり飛び込んだところ、なんとこちらのサウナはカマが壊れて目下休業中だという。ギャフン!これには参ってもはやどこへ出かける気力も消え失せ、バスへ乗ってまっすぐ家へ帰ってきた。(1月21日)

 ■ スワ救急車で病院へ

 生まれて初めて救急車に乗った。いや運転台にではない、れっきとした(?)患者としてである。
 話というのはこうだ。先日ことしに入って最初の「よっこら処」の会合があり、その席上リーダーの植田氏から脳梗塞の話があった。なんでも暮れに同氏が立ち会った体験報告で、”頭痛が続いたり”、”ロレツガ回りにくく”、また”よだれが出たりする”場合は十分にその可能性があると。
 ところが実はその通りの軽い症状がここ数日わたしの身にも起こっていたのだ。頭が痛く連日熱もないのにカラ咳がおさまらない。口もとがたよりない。そこで気になって前回目の手術で入院した日本医科大学病院に電話で相談してみたたところ、もっと近い場所がいいのではと、アドバイスとして#7119の存在を教えてくれた。だがとりあえずその日はそれで終ったのだ。
 ところが翌朝になっても頭痛は治まらない。そこで起き抜けに上記の番号を呼び出して症状を伝えたところ、生活環境などを訊かれ独り住まいだとわかると、立ちどころに「今すぐ手配しますから」と、なんと10分もたたぬうちにわがマンションの玄関に救急車が横付けになっていた。
 こうしてあっという間にわたしは立川病院のER(エマージャンシー・ルーム)室へと運ばれ、有無を言わせずMRIとCTによる脳内チェックを受ける身とはなったのだ。しかし幸にも結果は合格点。異常なしのハンコを押され、帰りは反対にひとりでバスと電車で、1時半ごろにはもうわが家へとたどり着いていた。病院のベッドで生まれて初めて尿瓶を使う体験など、ふり返るとなんだか夢を見ていたような、そのくせどこかで思わぬ一等くじを引き当てたような、実に奇妙な気分を味わうこの日の体験だった。(1月24日)

 ■ 自転車取り違え騒動記

 規格品が人間をまどわす、といえばある意味逃げ口上になるだろう。しかし実際にそんなミスが起こって、思いもかけず余計な迷惑を人にかけてしまった。今日の午後は天気も良く、久々に思い立って、自転車で市営プールへ。一時間ほど遊泳したあと帰りみちにちょっと恋ヶ窪図書館へ寄り道をして気になっていた雑誌を拾い読みした後、さて帰ろうとして玄関わきに置いた自転車に乗ろうとしたところ、どうしたわけかカギが効かない。いっくら差し込んでもそれっきりでストッパーが撥ねないのだ。こいつには参った。やむなく1キロ近く先にある修理屋まで、文字通りウンウン唸りながら車体を引きずるようにして持ち込み、とにかく部品を取り換えてくれと依頼したうえ家まで歩いて帰った。ところがそのあと30分ほどして、自転車屋から電話が入って曰く、「あなたは他人の自転車を持ち込んでいます」。何のことかとあわてて駆け戻ったところ、そこに本来の自転車所有者だという女性が、半ばあきれ顔でげんなりした様子で仲間の若い友人2人と並んで私を待っていた。みんなで探し回ったのだという。「そっくりですが、あなたの自転車のサドルは褐色、わたしのは黒です」。いずれもパナソニック製品で、その他の部分もバッテリーはもとより前後の荷台まで酷似した2台の電動アシスト自転車。しかし間違えた犯人は私に違いなく、日曜日で入口脇が込んでいて、ついいつもと少し離れたところに置いたことをすっかり失念しての失敗だった。平謝りに謝った末、すり減ったタイヤの取り換え代金5,500円也を支払って、なんとかその場を勘弁してもらった。以上お粗末の一席。(2月2日)

 ■ コロナ騒動下の花見

 新型コロナウイルスの蔓延で、今年の春は世界中が大騒動。海を隔てた極東の列島国ニッポンでもこの春は例年のお花見や野外酒はさっぱり。そんななかを昨日京都に住む中学時代からの友人Kから封書が届いた。開けてみると中から左のような
一枚の写真が飛び出し、覚えのある直筆の説明に曰く。
 「(前略)当方の門前の桜 ? ようやく、写真の姿になりました。約50年前、この場所へ新築移転して程なく、子供たちと宝ヶ池へ行き、子供が手に握って帰ってきたサクランボ ? の数粒を庭先に植えたのがこの大木に成長したものです。花を最初に咲かせたのは7~8年ほど経ってからでした。今では1本のみの大樹ですが、毎年この状態で咲いてくれます。丁度昨3月28日がこの写真です。ご笑納ください」 とあった。
 Kとよく交友したのは戦争中から戦後にかけて、それも烏丸・松原通りといういわば京の街のど真ん中界隈だったから、今彼の住む嵐山に近い等持院の新居のことはほとんど知らない。二度ばかり訪ねて行ったことはあるのだが、季節も別で前庭に植わったこの桜の木については、全くと言っていいほど記憶にない。まだ苗木のころだったか、または全然季節がはずれていたのか。
 いずれにしてもこの春はKもまたコロナ騒動に襲撃され、いつになく心傷ついているのに違いない。そして遠く東都にあって同じく蟄居を強いられているだろう旧友の上に思いをはせ、せめてわが家に花咲いた一本の桜情報をお裾分けにと知らせてくれたのに違いない。うれしい限りだ。(4月3日)

 ■ 久米ジョッキーの新鮮

 radikoというアプリがあって、これを活用すると聴き落としたラジオ番組をもう一度呼び起こして耳でたしかめることが可能であることを最近知った。並行してその昔テレビ朝日の報道番組 『ニュース・ステーション』 で、名キャスターとしてその声価を高めた元アナウンサーの久米宏さんが、その後古巣のTBSで『久米宏のラジオなんですけど』という週1回の番組を出していることは早くから知っていたが、まだこれまで一度も聴いたことはなかった。
 ところが最近友人からこの番組での久米の反オリンピック論が立派だと聞いて、きょう日曜日の午後、その気になって前日に生放送されたその中身を頭から聞いてみた。いや、さすが名刀いまだ衰えず。おもしろくて鋭く新鮮、でなくとも目下列島ともども世界中はコロナ騒動の真さい中、問題と料理ネタには事欠かない、あいまいで口先だけのその行政は、アベマスクの思い付き発想と10万円申請の書類未着が、いつわらざるそのタネアカシであると、パートナー堀井アナを巻き込んで、知的で皮肉、開放的かつおトボケ哄笑の連発だ。
 ただしそのオモシロさは今や地上波テレビなどでそれがゲネラル・バスとなったわれらが放送界持病のゲラゲラ笑いとは違い、十分に知的で皮肉っぽく,そのくせその視点があくまで市民とお茶の間レベルから決して離れないところがこの番組の見事なレゾン・デートルとなっている。いやあ、ひさびさに鬱屈しないで自由闊達なおしゃべりが、そっくりそのまま批評言辞として通用する、あの自由で明るいかつての時代に立ち戻ったすがすがしさを覚え、とうとう丸2時間をノンストップで一気に聴き通してしまったという、以上ご報告まで。(5月10日)

 ■ 息吹き返しの革新飲み屋を発見

  新型コロナへの対策として、今から2か月近くも前になる4月の7日、あわただしく発せられたあの緊急事態宣言。あれ以来世の中は一変、いわば死んだように静まり返っている。日ごろ在宅ペースのわたしのケースとしては、正直それほど劇的な変化があったわけではないが、それでも時に出向いたプールやサウナ、また月2回の”よっこら処”集会などからもすっかり締め出され、やっぱり連日の息苦しさには少なからず苦しめられていた。そしてその間夢見たたった一つのささやかな願い。それは居酒屋での焼き鳥のおつまみで飲む生ビールの一杯だったのだ。
 それをたまたま電話してきた遠隔の友人に伝えたところ、それなら生の鶏肉を買ってきて、それを焼いて家で一杯やれば事態は解決すると云う。ところがそれではダメなのだ。あの居酒屋独自の匂いと立ち込めた空気。あれがなくっちゃ始まらない。
 そこへ今週の月曜日、首相が一都三県を含む緊急宣言の全面解除を約束した。よし、それなら一軒ぐらいさっそく暖簾を上げて客寄せを始めているだろう。そこでバスで駅前まで出てみた。だが街はまだひっそりとしている。そしてなじみの居酒屋の扉には「6月1日より営業」の張り紙が一枚。がっかりして裏道を斜めに引き返そうとした目の前に、なんと「一生懸命営業中」の看板を下げた小さな一軒を発見したのだ。まっすぐに飛び込む。中には三々五々、先客が数人と係りのお姐えちゃんが一人。
 こうしてようやく私の渇は癒された。ネギま、皮、もも肉の焼き鳥3本。そして一気に飲み干すドラフトビアの口当たり。そのあと追加の日本酒が、マス受け皿で出てきたことも感激。さらに勘定が予想外に安い。見上げると勘定所の張り板に、「当店では税金・サービス料をいっさい戴いておりません」と書かれてあった。ウムゥムー (5月28日)

 ■ わたしの「心の旅路」

  2月以来の”コロナ旋風”のせいで、この国の放送番組に起こった異変――それは過去の番組の再放送である。大河ドラマの新作延期など、一見アナ埋めのように思えるこの措置だが、皮肉なことにこれが意外とプラスの一面を持っていて、テレビ文化も捨てたものではないと、もう一度思い直す気分にもなっている。〔映像の世紀〕や〔BSドキュメンタリー〕など、レパートリーの豊富なNHK系列はこの点断然有利なわけだが、先日その一つ〔プレミアム シネマ〕で、昔なつかしいグリア・ガースンの「心の旅路」に行き当たった。
 この映画は今から75年前ものむかし、当時まだ中学生だったわたしが、ディアナ・ダービンの「春の序曲」やビング・クロスビーの「わが道を往く」とともに、戦後最初に接したアメリカ映画の内の1本なのだが、中身はイギリス上流企業の紳士が、戦争のあおりで失った記憶を取り戻し、ショー・ガール出の女性と幸せを取り戻すロマン。
 当時何がショックだったといって、人間たちがこんなに自由に振舞う社会が海の向こうには存在したということ、そしてこの映画が戦争中の1942年に作られていたという事を知って、文字通りわたしの心は言葉を失い圧倒されていた。
 幼い心にとって一切の価値が見事に崩壊した終戦直後の数か月。先生や学校がこれまで教えてくれたことはみんなウソだった。泣きたいようで悔しい、あの時代への記憶がまざまざと脳裏によみがえったのである。これ、見事にわたしの「心の旅路」だったと言えないだろうか。(7月7日)

 ■ 4ケ月?ぶりのプール

  思えば4ケ月ぶりの入水だった。いや他でもない、ここ数年わたしの健康法の一つになっていた市営プール行の話だが、目下の対コロナ行政のおかげで、3月に入ってから入館禁止となり、それ以来すっかり水泳とはご無沙汰になっていた。それがこの7月1日に再開されたことを知り、そのうちにぜひにと思いながら、なんでも入場者は40名を上限とし、脱衣場への出入りも人数制限があることを知り、ついつい億劫になっていた。
  そこへ今日は土曜日だが、午後の早い時間でもあり、ダメならそのまま他の用事へ切り替えるつもりで自転車で覗いてみたところ、幸い問題なく入れた。ただ受付では自署の入場用紙を書かされ、また脱衣場はシャワーもなく入室も監視の下、3名に限られていたが、それも無事通過、ようやく待望のプールとの再会が果たされたという次第。とは言え、膝を痛めてからというもの最近では水中歩きが主で、ほぼ1時間の入場中せいぜい水泳の名に値する動きは、背泳ぎで25メートル巾の水路の往復がせいぜい。それも今回は途中でなんだか脚の筋肉が攣ったりして危うかったが、どうやら最低のノルマは果たしたつもりで終えた。
 再び自転車に乗って家へ帰ってきたが、おかげでやっぱり体が軽くなった思いでおまけに腹も減り、夕食は自前の肉丼にビールを添えながらゆっくりプロ野球の中継を楽しんだ。それどこのチームだって?もちろんヤクルト・スワローズ、そして相手は広島カープ。若手4番の村上選手、山田選手の復活、そして外国選手エスコバーの活躍で、みごと9-5とヤクルトの快勝。ヘルシー&ハピーの今日一日でした。(7月18日)

 ■ 元大関の復活優勝

 
序二段まで転落した元大関の照ノ富士が、幕尻2枚目の地位にあってきょう12勝3敗の星を残して念願の復活優勝を果たした。大したもんである。わたしは昔からこういうのが大好きだ。とたんに今から80年前、当時無敵の連勝を続けていた横綱双葉山が、70連勝を目の前に一敗地にまみれた場所のことを思い出した。
 連勝をストップしたのは出羽の海部屋の安芸の海。そのころまだ小学校の生徒だったわたしだが、なんと大の相撲ファンで、場所が始まるとその頃は大きなラッパ型のラジオにしがみついて、連日実況中継に耳を傾けていたものだ。そしてわたしにとって記憶に残るこの場所の思い出は、実は双葉山の敗北と並んでその場所の優勝者、それも何と幕内どん尻で全勝優勝を遂げた出羽湊という力士のことだった。中背痩躯のワザ師、連日上位の力士を次々になぎ倒した。その彼もやはり安芸の海と同じ出羽の海部屋の出身だったものだから、以来わたしはすっかり出羽の海部屋の大ファンになってしまったのだ。
 それから80年、照ノ富士の復活優勝である。そしてその受賞後の態度が立派。たかぶらず感情におぼれず、じつに淡々としている。感極まって涙を見せることもなければ、偉ぶって反り返る様子もない。「一日一日の勝負が、結果として優勝につながった」と淡々と答える。当たり前といえば当たり前の話だが、そこには人知れず闘った長い苦しみと忍耐の日々があったはず。
 モンゴルという出身地を背に、転落したからといって簡単に廃業することもならず、ひたすら痛む両膝と持病の糖尿と闘いながら再上昇を目指した5年間。そこで彼が学び唯一支えとした精神、それは”孤独”の2文字だったに違いない(8月2日)

 ■ 迫りくる老化と認知症

 7年8ケ月にわたる何とも乱暴な安倍行政が、この国の品位と実力をすっかり引きずり落とした後、選挙とは名ばかりの徒党烏合の流れのまま、元官房長官の菅内閣がとりあえずの後継者に収まった。
 一方アメリカでは一時期優勢を伝えられてきた民主党バイデン候補が、あいかわらずなりふり構わぬトランプの狼藉行政の結果、次第にその差をちじめつつあるとか。たしかにバイデンには政治家に必要とされるオーラの迫力がいささか欠けている。77歳の高齢に加え認知症の気配がみられるというから何とも心細い。
 いや他人事ではない。小生さいきんすこぶるモノ忘れがひどくなった。せっかくのリハビリ・アポをど忘れしてすっぽかしたかと思うと、ここ数年愛用してきた頭の被り物をどこかで失くしたと思い込み、仕方なく一個新調したまではよかったが、なんとそのカップは外注用の洗濯くバッグの中に10日前から放り込んだままになっていた。
 それでもきのう千葉県に住む18歳若年の友人T氏と電話で話していて、たまたま何代かまえの映画界出身のアメリカ大統領が話題となったのだが、どうしてもその名前が出てこない。思わず会話が白けて別の話題に移ったのだが、長話の末電話の切れる直前にそれがロナルド・レーガンだったことを思い出したのは私の方だったことに、いささか安堵感を覚えたなんぞ、どうも取り巻く世界と生活感覚の全体に、しだいに劣化が進行していることだけはどうも否定できなくなっているようだ。無念!(9月25日)

 ■ 半年ぶりに都心へ出る

 コロナ対策 + 弱体老化の自然効果というべきか、ここのところ半年以上都心へ出ていない。そんな中きょう久々にJRと地下鉄を乗り継いで、西新宿にある東京医科大学の眼科を訪れた。ほかでもない最近例の左眼の視界の歪みが著しく、それを電話ついでにフト千葉の友人Tに洩らしたところ、たった一回の注射ではダメ、最低3回は繰りかえさなくっちゃ、つい最近NHKの健康番組でそう言っていたと親切あまりすこぶる口うるさい。そのこともあって今朝は天気もよく、1年前に前回手術を担当したW医師の出勤をたしかめた上、思い切って都心行を決意したというわけである。
 結果はあっけなく終わった。それは疾例違いで再手術の意味なしと当該医の口から直接聞かされ、早々に退去となったのだが、さてここで私の言いたいのは、この都心の往復行中に露呈した私の老人ボケとお上りさん化の実際だ。まず荻窪で地下鉄に乗り換える時、ここで切符を買うべきだったかどうかがわからない。どうも長年チケットでメトロに乗った記憶がない。そこで出札の係に訊いてみたら、「いまお持ちのそのSUICAで乗れますよ」と言われた
 次に病院で受診手続きをしたとき、私の診察カードは最後に訪問した昨年の9月からすでに1年を超えており、そのため〔再初診〕扱いで金5000円を追加でとられることを知る。今さらながら引き返しもできずとぼとぼ申し込みを進めた。
 最後のお笑いは帰路のこと。国分寺へ戻ってやれやれと駅前始発のバスに席を取ったまでは良かったのだが、なんと発車寸前になって、「ちょっと待ってください」とあわて乗車口から飛び降りた。なぜか。この朝私はバスではなく、自転車で駅までやって来ていたのであった。(10月21日)

 ■ 心臓外科への決死の病院行 

 前回からほぼ1か月ぶりにまた都心へ出るチャンスがあった。いや正確に言うと都心はちとオーバー、今回は指定の予約日で、例の調布飛行場近くにある榊原記念病院へ定期検査で出向く外出だったのだが、そこへの道順としては少々回り道でも、いつもJRで三鷹駅まで行き、そこから病院行きの直行バスで玄関まで行きつくのを習わしとしている。
 さいわい朝から天気もよく、時間稼ぎにもなるので国分寺駅まで今回は思い切って自転車で行くことにした。それもたっぷり余裕をみたつもりで、かっきり午前7時にマンションを出たのである。ラッシュ前で地下の駐輪場もすいていて、ゲートのすぐそばの場所をとれたのもよかった。
 しかし順調のだったはそこまで。駅のフォームに降り立ち、この時間にしては人が混んでいて変だなと思ったら、なんと電車が発車を見合わして止まっているのである。なんでも吉祥寺で人身事故があったとか。車内はすでに満員で、とても乗れたものではない。
 そしてその車両が動き出すまで、優に15分近くの時間が経過した。さらに続いて入ってきた車両はといえば、これますぐには駅を出ない。さらに3台目、もう待てなかった。決死の覚悟(?)で杖を持ったままの体当たり突進乗車を敢行する。 
 こうして何十年ぶりにラッシュアワーの苦痛を味わいながら、ノロノロ運転で目的の三鷹駅へ到着したのは、予定の時間をなんと40分以上過ぎていた。
 おかげで駅前からの榊原病院直行バスには乗れず、次の便は30分後。仕方なく最寄りのS停留場を通るバスに乗って、そこからトボトボ10分を歩いてようやく病院までたどり着いたという始末。これをしもサンリンボボと言わずして何とする、ヤレヤレ、必死の病院行。診てもらうまで心臓が潰れなくてよかった!(11月16日)

 ■ コロナ災害の一年が暮れる

 気が付いたら師走もいつしか半ばを過ぎている。いやいや今日はもう冬至の21日、あと10日で今年もおしまいだ。それがまた新型コロナの襲来という、誰もが予測しなかった天災に狂わされたこの1年。しかもそれはいまだ終息の兆を見せず、医療崩壊など生きる空間の一部崩壊の危機にさえ見舞われているのだ。後世ふりかえったら、2020年はきっとグローバルな規模での人間社会一新の歳月だったと記録されるに違いない。
 そんな中を私事ながら、この秋ひそかに冥途のミヤゲと位置づけていた拙著「市民と芸術」の2冊が、なんとか刊行の運びに至ったのはラッキーの至りだった。さらにそれから3ケ月、小生悪運強くまだ生き続けているところから、その報告と感謝の意を添えた年賀状を、昨日からゆるり今年も書き出している。 
 そんな中今日は国分寺病院が月一回老人ホームで開いている”あじさいCafe”へしばらくぶりに顔を出してみた。感染対策で手先をしっかり消毒、みんなマスクをつけてそれぞれ1メートルの間隔を置いたチェアに座り、施設の職員さんや保育園の子供たちが演じるサンタクロースの歌とお芝居に興じながら、ゆっくりと1時間半を楽しむ。
 気が付くと出席者の中に顔見知りのHさんの後ろ姿を発見、散会後久々の邂逅を喜び合った。”よっこら処”のメンバーで三味線の達者なご婦人だが、それまで丸8年続いこちらの会も、思えば今年の1月に開いたきりでその後は全く中断したまま、いやコロナ禍が終焉してもそれまでの生活の復旧は果たして可能だろうか。メンバーのうちの何人がもとのままの元気な顔を見せるだろうか。
 こうして運命の年、災害の1年はまもなく暮れようとしている。(12月21日)


            2021

 ■ 火のない第三次世界大戦??

 年が明けた。だがコロナの感染肥大はあいかわずだ。死者200万を数えるアメリカを先頭に、文字通りPandemicに状況は悪化の一方。アフリカをはじめ英国などには新異種のウイールスまで発生したという。そこへもってきて進行する政治レベルの混乱。ワシントン国会議事堂への親トランプ一派による乱入事件、いったいあれはなんだ。一週間後に迫った大統領交代式は、果たして無事に行われるのか?
 一方、目を足元へ転じての私め個人の新年。そんな世界レベルの混乱のせいだとは言いたくないが、この新年はとうとう長年続いた年始の熊野神社への初詣を果たせずに終わった。いやもっと素直に白状すると、それはわたしの膝の悪化のせいだ。去年までは何とかこなしてきたが、もはや往復小一時間を徒歩でこなす自信は全くなし。とうとう形ばかりのお節料理を前に、ついに一歩も家を出ずに元日を過ごした。
 それにしても今後一年、コロナのせいで世界はいったいどう代わってしまうのか。すでに国内だけでも大小の企業倒産数は900を超えたとか。医療崩壊も事実上すでに始まっている。あわててて出された区域拡大の第2次緊急事態宣言にもかかわらず、感染者数関連の数値は悪化の一方をたどるばかりだ。同じ傾向は同時に世界的に起こっている。
 これ、ひょっとして兵器を用いない事実上の第3次世界大戦ではないのか。いつかこれが終わるころ、世界の様相はきっと一変してしまっているに違いない。そう考えるとわたしは太平洋戦争が終わってから、ぴったり四分の三世紀という一つの時代を生き終えたことになる。(1月16日)

 ■ 目ざわりな目の患い

 気が付けばはや2月。ことしにはいってこれが2本目の”とびとび日記”である。日記というのはもともとDAILY、すなわち毎日の執筆というのが本来の意味だろうから、とびとび日記と称する場合はせいぜい数日間隔ぐらいが許される頻度の範囲だろう。それが今や1か月に1回とは!
 要は老いという奴だ。こいつが私の全身、すなわち目、歯、心臓、腰、太腿、膝へと、頭のテッペンからつま先に至る身体の各部所へ忍び込んで、いつの間にか私を文字通りヨレヨレ老人へと仕立て直しつつあるのだ。
 ここのところ特に膝の痛みも確実に進化し、毎朝ベッドから起き上がるのに優に10分以上の準備運動を必要とする。肩や首がパンパンに張っている。まるで前日に大運動会でもやったみたいだ。やっこらさと立ち上がり、そのあと日中の脚の運びも次第にぎこちなくなって、今ではゴミ捨てに階下へ行くのにも杖を欠かせない。
 いちばん困るのが眼だ。近ごろは左眼による視界内の像のゆがみも一層ひどい。頼りとする右の眼の正確さを邪魔することもしきりで、事実上片目をつぶって毎日パソコンに向かっている。何とかならないものかと、今年に入ってもういちど地元のクリニックを2か所たずねてみたが、いずれも歳も歳ゆえこれ以上の手術は薦めないと、型どおりの視力検査といつもの目薬を処方してもらってお終い。
 目の患いとはかくも目障りなものかと、今さらながら感じ入りつつ、何とか日々の暮らしをこなしている毎日だ。(2月22日)

 ■ 社会停止のコロナ時代

 「インタビューの件ですが、緊急事態宣言の延長につき、解除後あらためて調整をさせていただければと思います」
 これはさる11日、出版社である〔22世紀アート〕から送られてきたメールである。実はこれはちょうど昨年秋に拙著『市民と芸術』の2冊が出たころ、たまたま同社が「わたしの自分史」というシリーズを企画、人生の終着期に入った一連の候補者に打診して、インタビュー形式による個人史を電子本で揃えてみたいからと、私のところにも話があった。
 たまたま直前に出た拙著『市民と芸術』2冊は、私としてはいずれも”冥途の土産”なる言葉で説明した通り、これがこの世での最後の出版物と自認していた本だったので、かなり二の足を踏んだのだが、担当のN氏の強い勧めに釈服された形でついにOKを出す結果となっていたのった。
 ところがたまた進行中のコロナ状況が次第に悪化、スケジュールとし組まれていた1月の取材もいきおい中止、さらに緊急事態宣言とさらなるその延期によって、ついに上記のメールの通告に至ったという次第だ。
 一個人の些細な企画もこの通り。この1年半コロナによってつぶされ消えていった中小企業の数も計り知れない。それに伴って変革強制を強いられている個人の生活様式、在宅オンラインなどにみる企業と勤労システムの変化、そして教育環境の変化など、コロナ時代は正に火のないだけの第3次世界大戦の進行ではなかろうか。明らかに社会の活動は停止、ないしはすざまじく一変している。(3月15日)

 ■ あれから5年
 
 4月4日;妻の命日である。5年前の今朝、今でも思い出す。前日都心からの帰宅が遅くなり、まだ床の中にいた私の耳に、隣室の電話のベルがなぜかけたたましく鳴った(多分心理的なものだろう)。出ると韓国のソウルにいる息子の声で、「お母さんがダメらしい。実家の電話がつながらないのでと、いま病院からこちらへ連絡があった。すぐ病院へ行ってほしい」。
 倫美の特養老(老人養護施設)での生活は、当時もう5年目に入っていた。そこから近くの病院への一時的な入院治療は初めの体験ではなく、いずれも旬日を待たずに退院していたので、今回もそのうち退院の知らせが来るだろう位に比較的楽観視していた。だがそれは見事に裏切られた。ついに終わりが来たのだ。
 そのあと数日間のあわただしさはなかった。今では順序立てて回想することも不可能なぐらい。息子夫婦も異国から駆けつけたがようやく葬儀の前々夜。ほぼすべてをひとりでキリキリ舞いしながら、告別式のあと焼き場で白骨化した妻の遺骸と向き合ったときは、へなへなとその場で足元から倒れ込んでしまった。
 カッキリ5年後の今日。確かにまだ私は生きている。だが10日ほど前から始まった身体のしびれはチト異常でもある。両足の付け根がガタガタで、両手の二の腕部分の痛さは日に追ってひどい。だから朝ベッドから下り立つのが、先ずその日の難事業のトップ。両腕が効かず上体を起こすときどこにも支えがないからだ。この間専門のマッサージ業やリハビリ、サウナなども試みたが効果なし。ひょっとしてソロソロ亡妻が呼んでいる頃合いかも知れない。(4月4日)

 ■  春は来たのか?
 
 春にはただ一回の五月がある!(Der Fruling hat nur einen Mai ! )。「会議は踊る」という」オーストリア映画の主題歌だったか、戦争が終わり平和な春の到来を、身にしみながら三高生のころ、盛んに歌い楽しんだ記憶がある。目に青葉、山ホトトギス、初ガツオ。
 だが待てよ、たしかに五月にはなった。しかし今世の中でその輝く春を満喫している人は、いま地球上の果たしてどこに存在するだろう。どこもかしこもコロナウイルスの襲来でテンヤワンヤ、文字通り右往左往している一方ではないか。ゴールデンウイークだって?いったいこれ何処の誰が、誰に発している美辞麗句なんだろう??
 三度にわたる「緊急事態宣言」の発令で、あちこちの店はみるみる経営の危殆に瀕し、人々は外出禁止、締め出された戸外は、不気味に静まり返っているだけ。みんなこの時間いったい何をして、何を楽しみに過ごしているのだろう。
 その点たまたまこの不幸なホリデイ・シーズンの冒頭に当たる先月27日に、91歳の誕生日を迎えた老輩小生には、それ相当の天からの差配があった。連日の痛みに耐えかね、2度にわたる点滴治療を受けたが、どうにもこのままでは事態の好転が期待できないということで、来る10日の月曜日から向こう一週間から10日ほど、かかりつけの国分寺病院に入院、プレドニン投与などの対筋肉治療を受けることが決定した。.さあ果して生きて退院が果たせるものやら。天の差配は見事なものだ。(5月6日)

 ■ 別世界はじまる

 三度目の正直で、昨日からこの国分寺病院の入院患者となり、205室で寝起きしている。というのも最初は連休はじめの3日に入る予定で待機していたところ、コロナ絡みであろう当日になってベッドが足りなくなり、しばらく待ってほしいという連絡が入った。代わりに日がえりで2日間点滴を受け、最後に前回の日記にも記したように、10日月曜日に入院がアレンジされていたのだ。ところがどっこいまたしても一転、今度は医療従事者のひとりが陽性と判明、そのからみで更に2日おくれとなり、結局きのうの入院がやっと実現したというわけである。これあるいは医療崩壊の一例と言えないか。急患なら在宅療養で命にかかわったかもしれない。
 さてそんなわけで、ここ私にとっての別世界が始まった。こういうのも生活空間が変わった途端、いろいろ勝手が違う。一番の誤算はこの病院ではWi-Fi環境が不備で、せっかくもちこんだPCも全くメールが使えない。テレビも地上だけでBSは観られないという。有料貸与なのにがっかりだ。それといちばんの危惧はやっぱり運動不足だ。マンション生活では何やかやと雑用をこなしつつ動き回ることが、即運動につながっていたのだが、ここでは食事の準備は言わずもがな、すべてが周囲のサービスにぶら下がり。当然運動量は激減する。
 それでも救いは新しい担当U医師が、リューマチ治療視点での積極加療を保証してくれたことだ。きのう早速マッサージ師が派遣され、いろいろ問診のすえきょうから連日で訪室してくれことが決まった。楽しみである。(5月13日)

 ■ 10日で再びマンション生活へ
 
 結局10日間の入院生活で、ふたたび俗界ーーマンションでの独居生活に戻ってきた。ホットである。二度と戻りたいとは思わない。社会情報からの疎外、運動不足、連日の決められたルーティン生活。思い出してもゾ~とだ。唯一のプラス加点であるマッサージが効いて、多少とも両手両足にゆるみが出てきたようだの一点を口実に、どうしても家で終えなきゃならない仕事があるからと、半ばごり押しで主治医から退院の許可を得た。今ごろになった刑務所生活の受刑者の苦しみがやっとわかったような気がしている。
 さて、20日に戻ってきてからの今日は10日目だが、早速中断していたオーディオ版「ナナとジャン」の耳校正、吹き込まれたCDを原作者である私が耳でチェックするといういかにも今風の新しい仕事を終え、さらに電子本バージョンの出版が決まった「さすが舞踊、されど舞踊」のための、短いまえがきを書き終えて送付した途端、さすがにぐったり。気が付いたら両腕や両足、関節の痛みもほとんど入院前の状態、いやそれ以上に悪化している。
 そこでやむなく地域包括支援センターに連絡したら、早速に係りのKさんが相談に見えて私の様子や話を聞いた結果、ぜひとも介護保険に入って家事の手伝いを頼みなさいと、その日のうちに業者を呼んで私のベッドサイドに寝起きの助けにと寄りかかりの柵を取り付けてくれた。そして近々市役所から介護等級を決めに人が来る筈だという。
 せっかく俗界へは復帰したが、世の中絶対に同じ生活をくり返すことはありえないということの好例か。(5月30日)

 ■ 要支援1の人間へ

 前回の日記で世の中絶対に同じ生活をくり返すことはありえないと書いたが、いよいよその言葉が真実になって、今週あたりから私の身辺も大きく様変わりを見せる気配が濃厚だ。
 先ず先週の木曜日に市役所の福祉課から郵便が届き、中を開けるとそこには〔要支援1〕の文字がくっきりと印された保険証書が同封されていた。
 そのあと入れ違いに支援センターからもういちどKさんの来訪があり、協議の末に彼女にケア・マネージャーを担当してもらうことに決定、そして迎えた一週間後の今日、ヘルパー派遣所の主任、福祉用具の営業担当、そしてKさんと私の4者が、かっきり午後2時から一堂に会合――といっても狭いわたしのリヴィングルームでの話だが、小さなテーブルの上で鳩首相談、、〔要支援1〕人間をめぐる多種の書類が調印された。
 これで今まで自由勝手だったわたしの生活空間と時間に、今後はきっちり他人の規制が踏み込んだくるわけで、どうもこれはある意味気味が悪い。人さまの助力を得ながらはなはだ勝手な言い分だが、なんだかそう感じてしまう。
 折しも今日東京地区でのコロナ感染者の数はとうとう1000名を突破した。第五次周波の到来は必至か。そしてこのあと1週間後には、いよいよ問題の東京オリンピックがやってくる。それがいっせいにみな無観客での競技というから、いったいどんな景色が1ケ月にわたって展開するのか。
 そしていまフト気が付くと今日はそのむかし若者がみんなで騒いだあの賑やかなパリ祭の当日ではないか。だが今では誰ひとりそんなことは口にもしない。世の中は決して繰り返さないことの証左がここにもある。諸行無常、もって瞑すべし。(7月14日)

 ■ 五輪から何処へ

 朝から雨が降っている。五輪の閉幕を待っていたかのように、今週に入って列島には梅雨前線が停滞し、九州など西日本ではすでに豪雨による弊害も出始めているようだ。そしてきょうは8月15日。いわずとしれた敗戦記念日であり、今年はその76周年目に当たるのだという。すでに4分の3世紀を終え、次なる第1年目を踏み出したというわけか。 しかしいったいどんな明るい未来への第一歩というのか。
 同じ東京五輪を比べても、半世紀前の1964年のオリンピックの時は、全く国中の雰囲気が違っていた。国民はみんな前向きで、再建日本の意志と実力を世界に示そうと、一致して祭典の成果に集中した結果、、実際にもこれを機に我が国の経済と文化は世界の一等国の仲間入りを果たすことが出来たのだった。
 しかしこれと比較すると、今回の五輪をめぐるみじめさはどうだ。これを機にコロナ感染者の数は急増し、軽症患者はすべて在宅治療を専一にと、まるで国の厚生環境は開発途上国並みのレベルにダウンしたみたいだ。その前にそもそも今回の五輪強行の結果生じた、莫大な借金と赤字経済の後始末は、いったい何時どうして誰がその埋め合わせをするつもりなのか。
 さらに翻って世界の政治状況を見ると、今後は日本の立ち位置や発言権もまた、ますます弱体化の一途をたどるとしか思えない。こちらもまたすべては五輪の開催をもぎとってきた、あのウソと不正で固めた安倍イズムの産物、つまりはここ10年にわたるこの国の行政レベルとモラルの劣化が、すべてコトの始まりだと思えてならない。
 窓の外にはまだシトシトと雨が降り続いている。梅雨前線は少なくともここ一週間は列島を立ち去らないのだという。(8月15日)

 ■ 冥途の土産から雫が……

 人生の店じまいというものは、なかなかにご本人の思い通りにはいかないものらしい。90歳の卒寿を機に、昨年の今ごろ出版した拙著「市民と芸術」(トップページ写真)は、アート篇とジャーナル篇ともにそのまえがきにも記した通り、文字どおり私にとって”冥途の土産”の筈であった。
 ところがそれから1年、その間に私が書いたとされる書籍が、またしても新規に世に出る事態が起こった。ここに表紙を転写した、日下と鵜飼の別名による2冊の本だが、いわゆるKINDLEシリーズのリストに組み込まれた電子書籍である。
 実はこの両者は出版社側が過去の私の著作をチェックの上、それらを手際よく再編集したもので、新しい読者に訴える価値が十分あるから、今のタイミングで新しいメディアを通して刊行してみる気はないかと、私の意向を打診して来たのだ。
 そこで考えた、ひょっとするとこれは今風の新しい出版スタイルかも知れない。執筆者も一歩ビジネス陣営に加わってセールスを待つ。これなら今さら新規のエネルギーを呼び起こす必要もないし、どだい私はもはやそれが不可能な非力の老人になったのだからと。
 そこでなにがしかの制作費用を分担して、あとは一切を出版側にまかせることにした。するとどうだ、IT時代の手順は速い。アマゾンのWEBには、すでにこの2冊がセール棚に並んでいる。
 以上、”冥途の土産”からこぼれ落ちた雫(しずく)本誕生の一席。(8月30日)

  ■ 8時間不動のテレビ観戦

 本日の発表では、東京都のコロナ感染者数は382人。ここ10日間引き続き1000人を下回っており、さしもの回を重ねた得意の緊急宣言対策も、ようやく終息方向に矛先を転ずる気配を感じさせる。しかし現実はそう簡単に復旧作業は運ぶまい。
 それにしても世の中の人、とくに若い年代はよくこの間屋内蟄居の毎日に我慢できたものだ。幸い私など長年書斎を中心とした物書き生活者はなんとか辛抱できたが、それでもその間ずいぶんと行動範囲は縮まっていった。
 そこへ老化や入院のせいもあって、プール遊泳やサウナ行もいつしか消滅、最近は近隣のスーパーや郵便局へ1日1回足を運ぶのが精いっぱいといった生活が続いている。そんな中きょうは更にそれを上回る、連続8時間にわたる不動のテレビ観戦という事態が発生した。
 事の起こりというのはこうだ。実はこのところプロ野球ヤクルトの調子がよく、いつしかペナント・レースで首位を走るという事態が発生している。そして気が付いたらきょうはデー・ゲームがあり、当面のライバルである巨人と阪神がぶつかりあう。
 そこで気になって午後いちばんに中継テレビのスウイッチを入れた。ところがこれが予想以上の接戦。ついに最後までスイッチが切れず、阪神勝利を見終わった途端に今度は照ノ富士の勝敗が気になる大相撲の中継画面に切り替えた。
 午後6時、その13勝目を見届けると今度はもう本目のヤクルト-中日戦が始まっている。こちらもまた息をつがせぬ大接戦。両者ともに0を重ねること9回、結局引き分けに終わって何とかヤクルトの首位は保たれた。そのとき中断なききょうのテレビ観戦は、優に8時間をオーバーしていたというわけである。(9月25日)

 ■ 完全試合にも似た気分 

 台風16号が去って、けさの空は雲一つない快晴だった。そして午前5時、窓越しにそのグラデーションの見本のような青空――つまりてっぺんの真上はまだ暗いのだが、それが東の地平線上にに近づくにつれて、次第に朱色の度合いが強くなってくる、いわば自然が生み出す不作為の傑作天空を目にすると、ひさびさに爽快と呼んでもいい気分が胸中に湧いてきた。
 その勢いで何とここ半年以上あきらめていた朝のストレッチを実行してみる。そっとラジカセのテープを回して両腕を差し上げ左右に伸ばしてみたところ、少々の苦痛は伴うがなんとかついていける。 だが大事をとって途中で止め、その代わりきょうは久々にサウナへ行ってみようと思いついた。その底意には、きのう緊急宣言が解かれて実はそのあときょうは外で生ビールが飲めるはずだという考えが潜んでいたことも確かである。
 一方、午後になっていちばんの気がかりは、デーゲームヤクルト戦の行方だった。そこでスイッチを入れてみると、中盤まで1点差の接戦だ。いらついて多少とも早めを承知の上、耳にワイアレスを詰め込んでそのまま家を出た。しかしもちろん浴場までスマホを持ち込むことはできない。
 ひさびさのサウナはスガスガしかった。そしてあわてて脱衣場のロッカーから今や遅しとスマホを取り出して結果を診てみたら、なんと9-5の大勝。バンザーイ!そしてそのまま駅前どうりの”てんや”に飛び込んで、勝手に一人で大祝杯を挙げた。なんと今日という日は、どうやらこれ完全試合にも似たピタリ〔大吉〕の一日だった。(10月2日)

 ■  終わりの後ろには何が?

 なんと気が付いたら今日はもう11月の26日。いや、別に特別の日がやってきたと言っているわけではない。今年もあと1ヶ月で終わるということ、つまりどうやら90才の大台を越した老輩こと小生が、あっという間に2度目の正月を迎えようとしている事実にいささか呆然としているという報告に過ぎない。
 新コロナの襲来に耐えながら、なんとか2年越しの開催にこぎついた大相撲九州場所。今日13日目の注目の対決、一敗同士の阿炎vs貴景勝の一戦は、幕尻2枚目の後者がもろ手突きで大関を押し出した。その阿炎は明日全勝の照ノ富士との取り組みで横綱に挑戦する。果して何が待ち受けているのか?
 一方プロ野球の日本シリーズは、神宮で勝ちを決められなかったヤクルトが、アウエイで敵地神戸へ引き返し、あした第6戦を迎える。両者にとって間違いなく命運を分ける大詰めの一戦だ。そしてそのあとには今現在誰もが知らないプロ野球地図の新局面がパッと開けてくるかもしれない。
 以上すべては終結直前のうす暗い闇にくるまれた時間帯だ。何事も未知という不安のただ中にある。ホレホレ、この記事を書いている最中に、なんとテレビはアフリカ南部の各地で従来に倍する強い感染力を持つ新規のウイールス・オミクロンなる異種株が発生したことを伝えているではないか。
 始まりの前の不気味さ。終末が漂わせるこの不安と杞憂こそは、すべて物ごとの始まりにに通じる不気味な怖ろしさだと言っても過言ではないだろう。(11月26日)

 ■ なにやら急にあわただしい年末

 1年ぶりだろうか、いやひょっとすると2年越しかもしれない、久々に都心まで足を延ばした。蟄居の主因はもちろんあの新型コロナ・ウイールスのせいだが、それ以上にあるいはこの間目に見えて衰弱した私の足腰のほうにあるのかもしれない。それがこの月に入って池袋の東京芸術劇場5Fにあるアトリエで、JEPAA(日本欧州3ケ国交流会)なる文芸展覧会が開かれ、その一隅に拙作「ナナとジャン」の一部が展示されることになったので、せめてそのセレモニーぐらいにはと、杖を突き突き思い切って出かけた。さらにこれを期に現地でMM会の植田淑子さんと久々にお目にかかることが出来たのも楽しかった。   その他師走の名にたがわず、ここのところなにかと身辺に動きがあり、8日と14日には2度にわたって府中の榊原記念病院へ出向いて心臓のCT検査を受けた。さらにきのうは一転,、泉町にある東京都立多摩図書館まで自転車を走らせ、半世紀近く前の雑誌中央公論に掲載された小文「竹久夢二の淡き女たち」をコピーした。2か月前に出たこの電子版書籍にも、全編を読み上げて聞かすというオーディオ版の企画が持ち上がり、問題の細部をチェックする必要に迫られたからである。
 考えてみるとこれらの新しい動きは、すべてIT時代という新しいメディアの革命に端を発している。昔ならとっくにくたばっている老体が、かくしてあと10日どうしても令和4年という新しい年を迎えざるを得ない羽目に至った所以であろうか。(12月21日)

            2022


 ■ 単調で冴えない年始

 正月そうそうの過去の「とびとび日記」をチェックしてみると、どうやら一昨年あたりまでは、それでも杖を引きずりながら、西恋ヶ窪の熊野神社まで、なんとか初詣なる年初の慣例を絶やさず続けてきたようだ。ところがここ1,2年、老化と共に深化する足腰の痛みで、さすがに今年はその行事だけは勘弁してもらおうと、初手から日課の中には入れないで、入手した年賀の返事や整理などで一日を過ごした。
 しかし一夜寝た今日になると、なんだか時間を持て余すだけでなく、逆に体のほうも調子が出ない。昔なら”書き初め”だの”初湯”など、いろいろと気の利いた風習もあったようだが、今の私の生活にはなじまない。これではかえって体に悪いのではないかと、せめて様子だけでも見に行こうと、思い立って現地付近へ自転車で出向いた。
 到着してみると、やはりコロナのせいか思ったより参詣者の数が少ない。長い列に並ぶ必要もないので、せっかくだからと車から降り、お賽銭だけ上げて柏手を打ってきた。信仰などなくても、型どうりの慣習を終えるとスッキリして落ち着くという人間生理の好例である。
 それにしても近年正月のテレビほど質的低下をきたしたメディアも珍しいのではないか。ニュース自体だってスマホなどネット空間のSNSで充分間に合う。ゲラゲラ笑いと低劣なギャグはもうたくさん。やむなくこの二日間、モニター画面を通してみた番組は<ウイーンフィル>のシュトラウス・ワルツ演奏実況、<箱根エキデン>の一部、それとかねて録画しておいた<映像の世紀プレミアム・東京 破壊と創造の150年>の3本だけだった。(1月2日)

 ■ サービス密度の劣化

 足・腰のリハビリを目的に、ここ3年近く週1回ないし2回のペースで電気治療に通い詰めていた市中のK整形外科から、きのう突然電話がかかってきた。聴けば院内勤務者のひとりにコロナ感染の陽性反応が出た、ついてはあしたから1週間はとりあえず外来受診をストップするという。
 いよいよ来たか!の思いと共に、その時同時に私の頭をよぎったのは、長年この国の社会を満たしてきたよきサービス環境の劣化である。間違いなくこの列島には、これまで他国では見られぬ高い密度の社会環境、他人に対する暖かい思いやりや洞察に起因するよき風習とハイ・モラルの伝統があった。それがここ数年、まさに音を立てる位の勢いで崩れつつあるのではないか。その原因のいくばくかは、今なお猛威をふるうコロナの来襲と少なからぬ関連があることは確かだろう。しかしそれはさておき日々を生活する1市民の私には、、間違いなくそれへの強い実感がある。
 何処でどんな買い物をしても、今では決してそれを袋に入れたり外装で包んでくれようとはしなくなった。たとえ目の前のお客がそれらの商品を手でもちかねてどんなに困っていていてもだ。そこで入れ物をたのむと悪びれもせず別代金を要求する。また反対に余分の紙やごみを捨てる屑籠がどこにもない。ましてや昔はそんな公共環境によく置いてあった飲み物の無料サービスや、待ち合いソファ沿いに置かれた雑誌や読み物棚など何時しかきれいに消えてしまった。
 問題はそれらモノの消失と共に、人間感情のデリカシーもまた容赦なく消滅への方向に向かいつつあることだ。これ21世紀に誇る輝かしい人類文化のサンプルなのであろうか。いささかならず寂しい思いだ。(2月11日)

 ■ 地球ぐるみの凶事

 タラリタラり消え入りそうになりながら、何とか今も続いているこの私の個人サイトだが、ご承知トップページのイラストの下に、「今週の一行」という書き込みスペースがある。ここへは毎週金曜日に、それまでの一週間に私の身辺に起こったイヴェントや関心事を、一行の警句のような形でまとめて記しておく、いわば個人の眼を通した週単位の歴史メモである。
 さて今年に入って2月25日の書き込みは、「ロシア軍がウクライナ東部領地へ侵入」だった。プーチンが国境付近の親ロシア領域に共和国の成立を承認したとかで、いわば北半球のローカル騒動ぐらいのつもりでメモしたのだったが、どっこいその後の1か月にわたる4回の「今週の一行」は、すべてこの紛争にかかわる項目ばかり。いや紛争ではない、今でははっきりとした戦争と呼んで差し支えない状況に移行つつあり、しかもそれが次第に地球規模の東西陣営の対立にまで拡大しつつある雲行きを帯びてきた。それでも3月4日に「いよいよ第3次世界大戦か」と記入していた時点では、半ば戯言のつもりだったのだが、いやいや冗談じゃない、フィクションはおろか「人類滅亡」(3月4日)の形容すら生々しく現実味を帯びて来た。
 そもそもここ3年近く、まるで目にも見えない新型コロナの攻撃にさらされ、世界中がただ逃げ惑うだけで一向に事態を収集できなかった現実を見るにつけ、人間はおのれが今さらながら卑小な自然の産物でしかないことを、あらためて厳しく自覚すべきであった。ところがそれも出来ないうちに、またまた性懲りもなくしでかしたこの騒動。まるでプーチンのやっていることは、第2次世界大戦前に至る、ヒットラーの足取りとあまりにも酷似しているではないか。(3月22日)

 ■ この道はいつか来た道?

  令和4年4月27日の夕刻、うっすら西陽の差す書斎の一隅で、デスクのパソコンに向かっている。そう、今日は私の人生92回目の誕生日、すなわち私は地球上で過去365×92の日数を生き、明日からはなんと第93周年目の初日を踏み出すことになる。果たせるかな朝からパソコンにはあちこちの業者からの、あれこれ趣向を凝らした「おめでとう」「おめでとう」のメールが数本とどいた。なんのことはないすべてこれ商品やお薬を売るための、いじましい電子戦術による最新PRだ。朝から天気もくもりがち、それに知床沖での観光船の転覆事件があり、地球の北半分では今なお収縮の兆しを見せないロシア・ウクライナ戦争が進行中。うんざりしていたら、その中に目黒在住の、むかしからのダンス仲間Y..UEDA女史からの祝電が一本入っていた。儀礼的だが、簡潔でおめでとうそのままの祝意が、いかにも身に染みてうれしい。さっそくに電話を入れたら、ちょうどこれから歯医者のアポで出かけるところだったとか。数分だったがウラのないしばらくぶりでの肉声での会話でようやく慰められた。
 午後になってこんどは玄関になにやら贈りモノの荷物が届く。開けてみたら息子からの誕生祝の日本酒だった。追っかけるように懐のベルが鳴り、スマホ画面によるビデオ対話が始まる。国境越しの引っ越しで、まだ荷物が片付かず時間が作れない由。そのうち出会ってゆっくり一杯やろうということで対話を終えた。
 かくしてあとは日課の晩酌へと移行し、ヤクルト対広島の野球中継でも見ながら夕食を楽しむことになりそう。まずは平穏にして孤独、凡々ながらきょう誕生日の一日としては文句を言う筋合いはどこにもない。ただ問題はひたすら世の中の空気だ。第二次世界大戦が終わって一世紀も立たないというのに、人間はまたしても同じ愚と過ちをくり返したいというのか。昨今の国際情勢には、まるでその時の、大戦発生の前夜とそっくのキナ臭いがただよっている。ああ。(4月27日)

 ■  果して平和の正体は?

 気が付いたら、前回のこの欄への記入から、はや1か月の月日が流れている。これじゃとびとび日記どころか、いっそ ”大股よいこらしょ月記” とでも命名したほうがいいぐらいだ。あきらかに主犯は気力体力の衰えだろう。だがその間身辺にはもちろん大小さまざまな報告事項は生起している。
 まず私事では息子との乾杯の約束。先方から打診があり、きょうまで2回にわたる差し向かいの会食が成立した。初回は夫妻ともども三人が中華料理店で、二度目は息子と差しで、寿司屋のカウンターで水入らずの2時間半を楽しんだ。
 次に私の立地点でもある著述ワークの状況について述べると、すでに一昨年秋に出た2種の「市民と芸術」、すなわちアート篇とジャーナル篇の2冊を、さらに取捨選択して総合篇を出す案が進行し、この”とびとび日記”の前回文までを収録した最新の総合篇が来月早々には出る予定である。
 ここで一転野球のはなしだが、このところわがヤクルト・スワローズの活躍がめざましい。今週始まったセパ交流戦では、日ハム相手に、2試合を共にサヨナラ・ホームランによる激的逆転勝利をモノにした。バンザイ!
 だがいっぽう目を外に転ずると、世界情勢はあいかわらずで、ウクライナ紛争は一向に収まる気配を見せない。その間北朝鮮が機を見てミサイルを打ち上げるやら、一方中露の爆撃機が揃って列島をかすめ飛ぶやら、あれこれきわどい情報が次々。ささやかな日常の営みや愉しみも、すべてこれそれを支える地球本体の平和あってこそのモノダネ。その一事をつくづく痛感させられる最近の日々である。(5月27日)

 ■ 本人不在で2種の展示会が

 梅雨である。じめじめと空気がしめると、両足の関節もその分だけ調子が悪い。元気なのはこの季節の花あじさいだけ。今年もまた人間どもの地球破壊の悪業など知らぬ顔、桜・さつきの跡を継いで見事なブルー・カラーを顕示している。
 その点人間さまの方はどうだ。コロナのせいもあるが、昨年の暮れに池袋の東京劇場まで足を運んだのが最後。あれから半年、駅の改札をくぐってJRの車輛に身をゆだねた覚えもない。悔しい。
 皮肉にもと言おうか、或いは考えようによってはそんな私を慰める天の配意か、丁度この期間に、例の「ナナとジャン」の一部を切り抜いた展示会が二ケ所であった。一つはパリのマレー地区で開かれた日欧宮殿芸術祭。フランス語に訳されたわたしの詩文が、どことなく象徴派のリズムを思わせ、いささかわたしのナルシズムをくすぐった。送り返されてきた垂れ幕をわが家の壁につるして余韻を楽しんでいる。
 今一つは東北大震災の陸前高田市で開かれたアート・タイル展。この春オープンしたコミュニティホールの壁いっぱいに、数多くの他の作品と 共にレイアウトして張り出された。やはり同型同大のコ ピーが家まで送られてきたので、こちらは床の間に並べてある。もっともこの展示はいまのところ向こう5年間続くそうなので、もし運が良ければ、息子にでも連れられて、あるいは肉眼で現地をおとづれる幸運にあやかれるかも。(6月23日)

 ■ 久々の墓参と戒名授受

 暑い、とにかく暑い。それもついこの間までこれはまた、帰り梅雨とでも考えるしかない雨の数日が続いたあと、サアおまちかね!とばかり2,3日前から急に舞い戻った本格的な酷暑の到来。見上げる青空はまことまぶしく美しいが、それはクーラー付きの部屋の中からの窓の風景…。
 今日は前からの約束で、朝10時に長男卓が車でマンションの玄関脇に到着。そのまま焼香器具を抱えた私が飛び乗り、一路中央街道は都留市の小形山に眠る亡妻の墓地まで一直線のドライヴ行。
 1時間半後到着した墓場は半ば草まみれ。だがさすが私は動けず、清掃から水洗いまで、吹き出る汗をぬぐいつつ初老の息子がなんとか格好をつけてくれた後を、献花と点灯を整え、ひさびさに念仏・会話を亡き倫美の霊と交してきた。
 そのあと一旦下山して近隣のウナギ屋で昼食を済まし、やくそくの2時に菩提所である冨春寺へ立ち寄る。ここで住職と面会、今日あと半分の行事である私宛ての戒名をもらう行事に立ち会った。白地に墨の授戒紙に書き下ろられた11文字。曰く ”耽報院玄創日下叡明居士”。〔報〕は報道を表す一字として選ばれ、亡妻の院名である〔耽静院〕になぞらえ一字を共用して捻出された生前戒名である。ありがたく頂戴した。
 1時間ほどで寺を辞し、帰路は解放された気分で国立・府中隣接地にあるドライヴ用サウナで入浴、そのあとアルコール抜きビールで乾杯して午後5時半帰宅した。
 これで明日からは片足をあの世に差し込んだ気分で生き延びるというわけか。<南無三宝>?それにしても暑い! (7月29日)

 ■ 下落・消滅の季節

  秋のアキは飽きるのアキ、英語でもFall すなわち”落ちる”と呼んでいる。つまり下落・消滅の季節というわけだ。その大自然の産物である人間、そしてその一員であるわたしの生命も、あきらかに終末おしまいのシーズンに差し掛かったことに違いはなく、そのせいかこの月に入って、いよいよ病気・病院とのお付き合いが、その度合を増してきた。
 まず5日の朝には、西新宿の東京医科大学病院で、浮遊する左眼の水晶体を癒着させる手術を受ける。結果は無事成功で3日間の入院の後、無事退院できたが、どいうわけか視界に飴玉大の黒影が残り、いまでもまだ消えない。
 退院の翌日の8日は、前からのアポで、府中にある心臓病の榊原記念病院へ。前回のレントゲン検査で肺にミズたまっていてよろしくなく、新しい飲み薬を処方されていたが、その結果を見るためだ。しかしあまり改善は見られず、さらに新しく処方薬を変えて2週間後にまた来るようにと言われた。
 ついで翌9日火曜日は、手術を受けた目の結果のチェックで再び西新宿行となる。黒影のことは告げたが、特に新しい措置はとられず、従来通りしっかり1日4回の投薬を怠らないようにと念を押され、月末の30日にもう一度来るようにと命じられた。
 そのほか今月は12日の金曜日に、地元の国分寺病院へ行って採血、その結果をもとに翌週木曜日の18日には主治医であるT医師による定期診察、さらにあさっての木曜日25日は、2週間おきの決まりとなっている肝臓のための静脈注射、つづいて翌金曜日は整形医院での電気治療、リハビリの予約が待ち構えているといった順序。
 以上、まるで病院訪問のオンパレード。消滅の季節到来の所以である。(8月23日)

 ■ 国葬?国葬儀?いずれも関係なし!

 過日行われた英国エリザベス女王の葬儀は、その規模や一体感においてなるほどと、グローバル規模で共感を誘うに足る確かさを有していた。イギリス・コモンウエルズという地球的ひろがりと、その統治に費やされた70年の女帝の実績は、誰の眼にも”国葬”の2文字にふさわしい行事であると、大多数の人たちに素直に受け入れられたのである。
 それに比べると日本国安倍元首相の場合は、すべてがかなりお粗末だ。それは否定的世論が半ばする一事をみてもわかるように、その実績はいささか疑問であり、彼の統治の8年間、国力は次第に下降線をたどっただけでなく、なによりもその戦術や政治にウソやすり替えを用いて事を運ぶという、国民に畏敬の念を起こさせる人格的魅力に乏しかった点が何よりも致命的だった。
 その”国葬”日本版の挙行が日が9月27日。ところが私としては手術後の調子が悪い左眼の検査のために、早くから新宿にある東京医大病院へ行って診察を受ける予定がきょうこの日に入っていた。こりゃまずい日にぶつかったぞと、内心いささかたじろぎながらも早起きをして駅までのバスとJR、そして荻窪で地下鉄へ乗り換えてなんとか西新宿へ到着、無事に目的を果たした。しかもその1時間余の道中は、ほぼ準ラッシュ並みの混雑を別にすれば、特に何の変化や異常はなかったのである。
 これは私にとっていささか意外の風景だった。だがよく考えてみれば別に何の不思議はない。反対にこれはこの日の”国葬”がいかに関係者以外の一般市民にとって無縁のものであるかの歴然たる証拠ではないのか。彼らの心にはこの日特別や畏敬の2文字はどこを探しても決して存在しなかったのである。
 なるほどと合点した私は、予定どうりの診察を受けると、さっさと踝を返して帰宅の途についた。従来ならその先足を延ばしてイカサマ行事の一端をコッソリ覗きに行って雑文にでも揶揄するところだが、なにしろ92歳の半病人の体力では今やそれも能わなかったという次第である。残念至極!(9月27日)

 ■ 後期高齢者の医療負担金

・ 後期高齢者医療健康保険証というのがある。ふつう総括して老人と呼ばれる65歳以上の高齢者の中で、さらに75歳以上がこの後期高齢者に相当する存在だ。そしてそれらの人々にはこれまで医療費の一部負担金の割合を1割と決めてやってきた。それがこの10月から突然2割の支払いに倍増されたのである。
 なんだかこの4月に、今年に限って9月いっぱいまでのたった2月間だけ有効な保険証が送られてきて不思議だと思っていたが、そのあとあわただしく新規の保険証が追送されてきて、一方的に負担金が跳ね上がったのだ。
 この3日、2週間ぶりに診察を受けに出向いた榊原記念病院の支払いは、窓口だけで3、110円也。これまでせいぜい1,000円どまりだったからちょっとしたおどろき。加えるに各病院で処方されて支払う薬代も馬鹿にならない。週2回通うリハビリ料も毎回カッキリ2倍に跳ね上がった。その他歯医者や眼医者、時に皮膚科を訪ねることもある。なにせ3日に一回ぐらいの割合でどこかの医者の厄介になっているご老体だから困ったものだ。
 しかし問題はこれら税額の増収分の行先である。同じ医療界でもっと困っている人たちの救済に充てられるというならまだしも、の行先は先だってのあの意味不明な国葬の費用や、軍事防衛費とやらの増強に充てられるのだから問題だ。いまさらというなかれ。日本という国はだんだん貧しく、目に見えて悪くなっていく。(10月26日)

 ■ ワールドサッカーと日本の勝利

 強敵ドイツ相手の初戦ゆえもちろんその結果は気になっていた。ライブ放送があるのだから、それを見れば何の問題もないわけだが、時差の関係で夜10時からのお付き合いがチトつらい。で、いつものように9時半にはベッドにもぐりこんだ。
 ところが例によって頻尿の習慣で夜中の1時に目が覚めたとき、やっぱり気になっていたとみえて、なにげなく手元のスマホで確かめてみたところ、なんと2-1で日本チームの方が勝ったことを知った。オオなかなかやりよるわいぐらいの気持ちで再び寝に付いたのだが、問題は翌朝目が覚めてからだ。
 玄関の新聞を手に取ると、一面トップ写真入りの大見出しで「日本、ドイツを破る」と来た。これが業界1を誇るA新聞の扱いか?危うくスポーツ紙を手にしたのかと思ったぐらいだ。
 ところが見違えはどうやらこっちの方だったらしい。新聞はもちろん、テレビの報道も、日本国中が大はしゃぎ。中には店頭で「日本が勝った」と一声かけると、商品が半額で買える店まで出現したという。
 この現象を反面からみると、如何にこの国に国を挙げての明るいニュース、もろ手を挙げて喜び合える喜ばしい出来事や環境が日々欠けていることを証明してはいないか。
 新型コロナ、ミサイル発射、不況と円安、物価高。そして挙句の果てに不透明なウクライナ戦争と来た。世界規模の不安ががっちりこの国を取り巻いているのだ。その分だけたかが強敵相手のサッカーの初戦で得た2時間の活躍と勝利が、これほどまでに国を挙げての喜びと笑顔を呼び起こしているのだ。
 そう考えるとある意味底の浅い、そしていつまで続くか保証のないこの歓喜の後に、いっそう悲観的で不気味な運命が我々を待ち構えているのか、いささか空恐ろしくなってきやしないだろうか。今はただただそんな気持ちの方が私には強い(11月25日)

 ■ 人間社会にとっての冬至日

 週一回来ていただいているお手伝いさんから、冬至用にどうぞと小袋に入れた何個かのゆずの実を戴いた。長い期間ひとり身生活にかまけて、ゆずにもカボチャにも縁の遠い生活を続けてきたわが身をかえりみて、いかにもうれしい心遣いだったが、それはさておきこの冬至というのは、周知のように暦の上では昼と夜との時間が等しく、一転この日から今度は少しづつ日照時間が伸びてくる折り返し点とある。
 冬至りなば春遠からじ。誰が命名したのか、冬至とはもはやこれ以上暗くきびしい月日が去り、これからは日一日と明るい希望の毎日が訪れるという、いかにも希望と生命を感じさせる暦の上のうれしい一日だ。
 ところが近年地球はそんな自然の移り変わりだけで済ませるにはあまりにも人間という奴が介入しすぎた。それもいぎたなく文字通り地球の顔に泥を塗りつけるようなやり方でだ。
 つまり人間の社会的関与の面からあらためて冬至をジャッジしてみたとき、はたして今日から地球は日一日と明るさを取り戻す希望の日たりうるのか?到底わたしにはそうは思えない。
 たまたま今朝飛び込んできたニュースでは、ウクライナ大統領ゼレンスキーが飛行機でアメリカを訪問し、バイデン米大統領と直接の会談を実現すると伝えている。それ自体は一見希望を与え、人々に感動を与えるに足るひとつの勇断には違いない。
 しかし現実には米の介在によるさらなる軍事援助が、かえってロシア側の反発を強め、戦争は停戦どころかますます拡大の一途をたどり続けることになりはしまいか。
 一方わが国内の政治はどうだ。安保三文案とやらの声明によって、これまでの”専守防衛”の一線は見事に放棄され、進んでアメリカの先兵たることを誓いつつ、ここにいま明らかに戦後《不戦の憲法》は踏みにじらつつある。
 いまふと人間社会の視点からこの冬至を考えるとき、どうみてもきょうこの日が希望の折り返し点とはわたしには到底思えないのである。それどころか、ウクライナ戦をはじめ今後ますます暗闇の伸び広がる不吉の一地点にならなければ幸い。そんなまことに暗澹たる気持ちに襲われるのも、やはりこれ高齢のなせるわざ、老いのくりごとと断ずべきであるのか。真実は神のみぞ知るの心境だ。(12月22日)



            2023

 ■ 孫たちの来訪に気分一新

 元旦、起き上がって時計を見たらもう6時すぎ。いつもより30分は遅い。昨夜は植田さんのご厚意で2日前に届いていた年越しそばで一杯やって寝たあと、11時半すぎに一度目が覚め、おかげで「紅白歌合戦」の結末と、除夜の鐘のテレビ中継を見ることができた。きっとそのせいだろう。
 外はまだ暗かったが、ゆっくりと着替えて洗顔などしている裡に、窓越しの東の空が次第に白澄んでくる。今日も快晴だ。 しかし今年はのっけから熊野神社への初詣のプランはなかった。ここ一年脚と膝の衰えがひどく、とても現地まで歩いて行く自信がない。
 その替りに思いがけないお年玉が飛び込んできた。切り餅と既存の味噌汁でひとり新年の代替えお雑煮を食べ終わったころ、息子から電話が入って、これからそちらへ孫2人を顔見せに連れていくという。
 そんなわけで何年かぶりの3世代集合のうれしい空間が出現した。ほぼ6年前に亡妻倫美、つまり彼らのおばあさんの葬儀で顔を合わせたとき以来だ。二人とももう30歳前後で、それぞれ独立した仕事をしている。 もっと話したかったのだが、これから回るところもあるのでと、ほとんど挨拶だけで退散したのは残念。みやげかわりに近著「三つの踊り場」を署名入りで進呈した。これからの人生に何かの参考になれば幸い。
 ふたたび一人になってぼんやりしていたら、なんだか熊野神社のことが気になり出した。思い切って自転車で現場まで出かけてみたところ、なんと社殿をぎっしり取り巻く長蛇の列。これでは柏手を打つまでは優に1時間はかかるだろう。
 そのまま退散したが、その風景は私にとって年頭喜びの集いというよりはなんだか救いを求めて駆け寄った不安心理の集合体のように私には思えた。このところの社会情勢のなせるワザに違いない。(1月1日)

 ■ 厭世的倒錯心理の一例

 あっという間の一か月。大寒もヤマバを越したか、昨日の日中あたりから気温も10度を越して少々しのぎやすくなった気配がする。ということはあと2か月少々で、なんとこの男93歳の誕生日をむかえ、そしてその先まだいくばくかの日月を生き延びるかもしれないということだ。
 幸いベッドに寝たっきり、ただひたすら息をしているだけの毎日でないことだけは神に感謝の他ないが、それにしてもここのところ、健康に関する検査と病院通いの頻度が急激に増している。頭のテッペンからツマサキまで、眼・耳・歯・腹・膝と、問題だらけの五体ゆえ、ごく当たり前の話かもしれないが。
 そんななか先週は矢川にある泌尿科専門のN病院で、前立腺と膀胱を中心とする下腹部のMRI検査を受けた。もっとも結果はオーライで、多少肥大の気味はあるが、ガンの気配などはまったくありませんという医師からの所信だった。
 ところが問題はそれを聞いた瞬間にわたしが抱いた胸中の反応の方だ――それは無傷で「よかった」という素直な気持ちではなく、なんと「それは残念!」のがっかり感がその反面で一瞬根強く頭をもたげたという一事である。いったいこれはなにか?
 細かい分析は省略するが、この感性には間違いなく今の地球に対する大きな不安と、人類の営為に関する絶望感といったものが大きく作用しているとしか思えない。それがとりあえずの結論だ。「ガンです。余命はあと一年」「ああ、救われた。喜こんで従います」。なんという倒錯的心理豈これわが岸田政権の、連日のヘボチョコ行政のせいのみならんや。(2月7日)


 ■ 春というなぐさめ

 大自然の力は大したもの、三月に入るとこのところすっかり傷ついた地球も、そして人の心も、どこかでふくらみと穏やかさをいささかでもとりもどしてくる気分になってしまう。
 三月三日、節分おひなさまの祭日。慣習で夕刻この日2度目のメール・アカウントを開けてみたところ、思いがけずそこに手造りで空間の一隅に飾られた立派なひな壇の写真を発見した。2年前に ”よっこら処”の仲間として知り合いになり、最近有料有料老人ホームへ引っ越されたというK・Tさんが、久々に旧宅の娘さんと一緒に組み立てたてられた木目込み人形の雛壇の写真を、お裾分けにメールして下さったものだ。
 見ているうちにほのぼのと心が温まり、遠いむかし京都時代の子供の頃を思い出した。たまたま中産階級の商家に生まれた私たち兄妹(私と妹達子)は、まだ戦争も始まらぬ平和な頃で、それが当たり前のように毎年3月5月になると、お雛サマと大将人形のお飾りをお部屋の一隅で楽しませてもらった。
 その80有余年後のこんにち。さすが厳しかった今年の冬も、”三寒四温”ののち次第に膨らみを増し、桜の便りもちらほら。そのせいか満身創痍のわが5体も、このところいささか小休止の昨今。そこへ始まったWBCの世界シリーズだ。栗山監督率いるサムライ日本が、なんと今日アメリカを破って世界一の栄冠に輝いた。オメデトウ
 改憲、統制、再軍備、そして先行きの見えないウクライナ戦争 etc。どうしようもない昨今のこの地球にも、春はひとときの慰めをわずかながらでももたらしているというべきか。(3月22日)

 ■ 満93歳の越境

 窓越しの明るい日差しに目が覚めた。時計を見るとまだ5時15分すぎ。このところ天候不良続きだったところへ、今朝はまた珍しく雲一つない好天気。澄んだ青空に、今地上に出たばかりの見事な太陽の輝き。フーン、これはひょっとしたら自然がおすそ分けにくれた、ささやかな私へのプレゼントの一種なのかも?
 そう、頭の片隅に、今日は私の誕生日ぐらいの記憶は忘れなかった。この日で御歳満93才の第一歩を踏み出す。だからといって別にうれしくも悲しくもない。しかし少々長すぎる人生じゃないのか?
 しかしベッドから降りると脚が痛い!膝を中心にガクガクする。確かに日々身体の各所に衰えが来ていることを実感、ここのところの日程はと言えば、眼だの歯だの腰だの、一週間の半ばはほぼクリニック通いの予定でギッシリである。
 洗面、ゴミ出し、朝食の後、やおら書斎の机に向かうと、今年もメールにダンス仲間UEDA女史からの祝電が一本入っているのを発見。うれしくなって電話を入れたがあいにくの不在で、とりあえず近況とお礼の一行を打っておく。そのあと見ていくと、なおも数本のBIRTHDAY CARDSを発見。ただしそれらは商品売込みのための見え見えの便乗メールばかり。あーあ資本主義のいやらしさにうんざり。
 そんな中で、きょうの夕方に息子からかねて招かれていた駅のレストランの祝席だけはホンモノだ杖をつきながら時間でいそいそと出向いてビールで乾杯、引き続きもろもろの雑談にふけりながら夕餉のひとときを楽しんだ。ただし心中で当方だけは、これはひょっとして私の人生での最後の誕生祝いであるかも知れないと、そんな思いをひそかに胸中に嚙みしめしながら。(4月27日)

 ■ いつ白星を手にするの?
 
 22世紀アート社を通じての、電子化作業を中心とする過去の著作の整理もようやく一段落を告げた。先週完成して送られてきた「漫画本・ナナとジャン」は、いわばその締めくくり作品だ。4年前に話のあったときは、半ば好奇心から軽い気持ちで応諾した企画だったのだが、さてあらためて出来上がったものを通覧すると、なんだか主人公たちが必要以上にモダンで気障っぽく、本人である私にとってはいささか忸怩たる思い が湧いてくる。 しかし今の若い年代層には、かえってそれが原作への接近の糸口になるかとも思いなおし、とりあえず数冊を心当たりの知人宅へ贈呈送本してその場を処した。
 ところで本題はこれから述べる下記にある。そんなわけでここのところ恒例(?)の病院通いの日課を別にすれば、特に時間に追われる焦眉の仕事もなくなった。そこで毎日のように夕刻6時以後チビリチビリやりながら向き合うのは、テレビのスカパー画面である。そう、一昨年に続き今期3連覇を狙う(はずの)ヤクルト・スワローズのベースボール試合である。眠い目をこすって5時間近い引き分け試合を、なにゆえに夜遅くまで見続けるのか? これがなんと目下1引き分けを含む7連敗の真っ最中なのだ。昨夜こそはと思ったのに延長戦の結果、またまた見事阪神にひっくり返されてしまった。10回裏の村上のホームランなどお愛嬌以下だ。観たいのはスワローズの勝利であって、個人記録ではないのですぞ
(5月26日)
  
 ■ SNS時代にみる報道番組の役割

 
SNS時代の到来とともに、俗にいう通信メディアの活躍が相対的にせばめられ、その領域がおどろくほど変貌したという事実は誰にも否定できないだろう
 それは日本を代表する一流新聞の、いわゆるトップ記事の見出しを一見しただけでも瞬時に読み取れる。曰く「プール見守るあの目この目」、曰く「生まれた場所、現状変えたい」、曰く「脳梗塞で生活一変」―――、何やらスポーツ紙か娯楽新聞でも見ている錯覚に陥ってしまう。
 テレビもそうだ。かつて自分が勤めていた職場だけに大きなことは言えないが、週末の番組編成などどこのチャネルをひねっても、バカ笑いや時間つぶしの不要作ばかり。そこに見る膨大なコマーシャルの合間に、ようやくストレート・ニュースが組まれているだけの不気味な遠慮ぶり。
 そんな中で「映像の世紀」「BSスペシャル」ぐらいは、なんとかテレビ報道と呼んでもいいシリーズであろうか。いずれも膨大な予算と素材に裏付けられた国営テレビならではの放送だが、当然出来不出来もあり、いちおう毎回録画を設定していて、中から面白そうなものだけをピックアップして視ることにしている。
 そのうち先月29日に放送された「ベトナム戦争 マグナマラの誤謬」は刺激的だった。15年にわたる人殺しの半島悲劇。当時わたしとしてはすでに放送界で働く身分だったが、今日に至るもまだ知らなかったいくつもの裏事情やデータもありそうで、あらためて関係本(”マクナマラ回顧録”や中公新書の”ベトナム戦争”etc)を取り寄せ、連日興味深く読みふけっている。これテレビと活字の、かろうじて残された幸せな縁結びとでも言うべきか??(6月8日)

 ■  To Be or Not To Be ?

 けさ息子の卓から電話があって、今週末の土曜日に約束した会食の日時を一二週間先へ延期したいという。その理由が、なんと目下終息しつつある筈のあのコロナに自分も伝染したからだという。
 これには驚いた。実は先週も月一回の外来診察で国分寺病院へ出向いたところ、主治医のT先生がやはりコロナで休診と知らされ、この時は「医者の不養生」とはこのことかと、半ば自嘲気味に代診でことをすましたのだが、それがなんと今度は血続きの身内にも発生したのだ。
 しかしよく聞いてみると、現在では40度あった熱も下がり、九分九厘治癒の状態だが、万一オヤジに染ってはと大事を取っての申し出だとか。 この会食は、実は昨年春の息子一家の帰国以来、彼の招待で月一回実行されているいわば親子の顔合わせ行事で、日時の延期はその意味で特別に何ほどのことでもない。
 だがこうにわかに身辺に感染の実例を見せつけられては、思わずおのれの対コロナ処置のルーズさをいささか反省してしまう。対コロナのワクチン処理については様々の異論や疑義があり、わたしとしては友人の勧めもあって実は昨年の5月に4回目を打ってからは、すっかり放置したまま対峙の姿勢を続けているのだ。
 幸か不幸か市から送られてきた6回目の勧誘の便も、机の上に放置されたまま。はたしてこの手紙への無視を続けていくべきかどうか、今更迷い出したおのれに、いささか愛想をつかしている次第。(6月24日)

 ■ 78回目の終戦記念日

 ここ1週間ばかり遅々たる動きで沖縄・奄美大島近辺をさんざ荒らしまわった台風6号。やっとそれが消えたとおもったら、今度は次なる7号が日本列島の中っ腹を目指して北上中とのこと。すでに中国・近畿地方では雨風や強風でお盆もだいなし、多くの人が行事を取りやめ、新幹線など交通機関も一部事前にダイアル停止を発表している。
 ところで今日は8月15日、終戦記念日。われわれ世代の誰が忘れるものかの一日。一週間に2,3回の授業がやっと。きびしい工場動員の労働に明け暮れた日々だったが、そこへ突如やってきたあの予期せぬ真夏の一日。そして作業現場のラジオから流れてきた天皇の戦争終結の声。なぜか戦いは終わったのだ。紺碧の空。静寂。それは一年に一度、決まってわたしのあたまを訪れる、およそ今日の天候とは似ても似つかぬ無音の、そして死んだような碧く不気味な絵画の一コマと決まっていたのに。
 昨今の動きを《あたらしい戦前》と評したタモリがいた。気候の変動の噺なら許される。しかし現にウクライナでは同じその戦争がまたもや繰り返し続いているのだ。78年まえと何が変わったのか。「核抑止」であって、なぜ「核禁止」ではないのか。何のためのあのG7であったのか。
 他ならぬ広島でG7を主催した被爆国ニッポン、ヒロシマ生まれのニッポンの首相はあれで後世なにひとつ歴史に悔いを残すものはないとでも心中考えているのだろうか。 (8月15日)

 ■ 老人への小さな贈りもの

 暑い、暑い今日もまた30度を下らぬ酷暑日の連続だ。なんとこの暑さ、80回を超える観測史上の新記録とか。そのくせその間九州・北陸などの局地では、洪水・強風・落雷といった予期せぬ災害に見舞われているのだから、全くまったものではない。
 もともと老人にとって、自然は優しいどころか、対処に窮する難物の一つだ。特にこの数年90歳を超えたわが身としては、残念だが事あるごとにそれを痛感する。そんな私にここのところ更に一つ、健康維持にかかわるマイナス状況が発生した。
 それはここ数年、週末に必ずバスを利用して出かけていたおとなり府中市のサウナ風呂付きA銭湯が、急に店を閉めて7月いっぱいで廃業を宣言するに至ったことである。これは打撃であった。
 以前は国分寺市内にもあった近隣のサウナ・サービスは、いずれもここ数年の間に姿を消しており、このA銭湯だけが私にとっては、杖を突きながらでもなんとか一人で通える、唯一健康・保養の別天地だったからである。
 さあ、それから一か月、私としては必死の検索が始まった。人に尋ねたり、地図を開いたり、はたまたお役所や交番に立ち寄って事を質すなど。その結果得た可能地のひとつが、国立市東区にある「ハトの湯」という銭湯であった。電話で聞くと毎日1時から開業し、バスの便もあるという。
 こうして昨日は、この銭湯への実地探訪に一日を費やした。そしてその甲斐は十分にあったのである。数年前何かのはずみで訪ねたことのある小さな銭湯は、すっかり手を入れて改築され、サウナ込みタオル付の入浴料はおひとりさま920円の小さな楽園であった。これが今日”老人の日”の贈り物と言うべきか。メデタシ、メデタシ!    (9月18日)

 ■ 「カギ」を握る「カギ」騒動
 
 これは前回述べたサウナ探訪譚の続編である。世の中そう簡単にメデタシ・メデタシでコトは終わらないという教訓か。
 こまごまといきさつを述べたように、わたしにとって東国立にあるその銭湯〔ハトの湯〕の発見は、誇張でなく地獄に仏とでも形容すべき幸運の出合いであった。
 ただ問題が一つある。それはそのサウナの大きさで、銭湯という個人経営のせいか、これが5人以上は入れないちいさい空間なのだ。そのために、浴場側は出入りの鍵を5本用意していて、それを5人の来客にしか渡さない。お次は先客が終わるまで、順番待ちにしているのだ。
 さて、次の週わたしが入浴を終えて着衣場を出ようとする時、どうしたことか腕にはめていたはずのその鍵が紛失しているのだ。
あわててひき返し洗面具袋や物置、脱衣ボックスの奥まで探したのだが、どうしても見当たらない。
 仕方なく番台に事情を話したら、代金として¥2000を要求された。ただし万一見つかったら、その時は引き換えにお金はお戻しするからという。万一見つかる?そんなことが有り得るのか、
この限られた空間の中で?くさくさしながらバスと電車を乗り継いで家へ帰った。
 
ところがそれが見つかったのである。その日の夜ベッドを直そうとして夜具をまくり上げたとき、突然目の前のフトンの上に、その問題のカギが飛び出した。どうして?わたしにもワケがわからなかった。さっそく銭湯に電話して、次の入浴予定の土曜日には必ず忘れずに持っていくからと伝えた。
 すると翌日の午後別人の声でふたたび電話が入り、どうしても今日か明日中には持ってきてほしい、駄目なら今すぐ郵送してもらいたい、商売に差し支えるからという。失くしたのは私。仕方なく重い腰を上げ、杖を突きながら午後いっぱいの時間を使い、えっちら現地ま再び電車とバスを乗り次いで返却の任を果たした。あいにくその日は所要の為、そのまま入湯することもかなわずに。              (10月8日)

 ■ またしてもいつか来た道

 なにをかくそう、長い歳月にわたり日曜日の朝は、必ずと言っていいほど6チャンネルのテレビ「サンデー・モーニング」を観るのが、わたしの習いになっていた。ゲストの顔触れはさまざまだが、一貫して関口宏が司会を務めるあのTBSのニュース・ショーのことだ。
  それが今週22日の放送が終わる直前、いつもの紙芝居告知の形式を借りて、突然本人の口から次のクールいっぱいで番組の座を降りることを公表して放送が終了したのである。「ああ、やっぱり」という思いと共に「ついにきたか!」というのがわたしのとっさの反応だった。
 というのも、2週間前にガザ地区でイスラエル・ハマス間の紛争が起こってからこの方、この番組に対する激しい攻撃が、YouTube上などで急に頻繁に出始めたからである。曰く、「このプログラムは意図してハマスの肩を持っている」。「TBS系列の番組に、以前釈放された元赤軍メンバーの関係者が出演し、かつ口を出した」。「今週出るはずのレギュラーMの顔がみえないのは、それと関連してウラで何かがあったからだ」等々。そしてなんとか難癖をつけてこの番組をやめさせようとする姿勢が、にわかにSNS上に勢いを増してきたのだ。
 世の中には右・左いろんな意見があっていい。それを並べて論争しあうのが公論でありデモクラシーのあるべき世界だ。私などこの「モーニング・ショー」などは、一週間のいろいろな出来事をそろえて意見添える、いわば平均的でいかにも市民の良心を代表する情報番組だとばかりこれを受け止めて来た。
 しかしもしそうでないようなら、これは受け皿としての視聴者、すなわち与論の方にも問題がある。一方的に感情をあおって大勢を引きずり込もうとするのはハナから邪道であり、いかにもファシズムの連中のやりそうなことだ。ところがそれをよく考えもしないで、煽動者サイドの一方的な非難や中傷をそのまま受け止めて《可》としてしまう。そんな無意識の動向、それがいわゆる”世の中の空気”という厄介で危険な代物である。
 「あたらしい戦前の到来」とタレント・タモリが口漏らしたのはついこの間のこと。そして目下進行中の議会で、この国の最高指導者の口から漏れてくる言葉は、ただ「経済、経済、経済」の3語のみ。決して国民の心を読み取ることも、世界の情勢をみてみることもせずにコトを済まそうとする指導者側の安着と無責任。だが現実の報復はおそろしい。いつか来た道が、またしてもやってきたのではないかと、心中深く憂慮するものである。                           (10月25日)

 ■ 突然の入院と帰宅

 忘れもしない12月1日の夜明け、床中にあった私を突然貧血ショックのような激しい発作が襲いかかって息苦しく、”これは異常”と息子に電話したところ、「すぐに救急車を呼べ」との指示で、そのまま多摩総合病院へと運ばれて応急措置を受けた。
 一応その日のうちに帰宅は許されたのだが、事後の対応として国分寺病院の高木主治医の勧めもあり、8日から10日間今度は同院のリハビリ入院の身となり、そのプログラムを終えきのうどうやらまたこの浮世へと舞い戻ったという次第である。
 いやはや予想をもしなかった師走とはなった。あと10日間わたしの2023年師走を、どう組み立て消化するべきか。秋ごろには次の正月への越年は難しそうだからと、死亡通知表を作って長男に手渡ししておいたぐらいだったが、今回の件で逆に年内他界はむずかしくなってきたような状況だ。
 だが症状が症状だから、いつまた発作を起こすかわからない。退院・帰宅して以来、散らかった書斎の空間を呆然と眺めながら、とりあえず今度は年賀状を送付する友人・知人のアドレスを整理するのがやっと。そしてその文面には何を一筆付け加えるべきか。あと10日間の年内がこれほど不確かなものになるとは思わなかった。
 ただひとつ声を大にして言えること;それは帰宅して飲んだ夕食前のお酒のうまかったこと。半月の間口にしなかったアルコールが、こんなに美味で人をよみがえらせるものであるとは知らなかった。それだけで退院してきた意義は十分にある(??)と、心底喜びを噛みしめているこの3日間である。いやはや!                   (12月20日)


               2024

 ■ 今年の運勢や如何 

 人騒がせな入院騒動を経て、幸か不幸か気が付いたら年を越していた。一口に言えばそんな感想の年頭である。
 大みそかは植田夫人が前夜運んでくださった”年越しそば”をすすりながら、NHKの「紅白歌合戦」をチラチラ横眼で眺めているうちに、病後の一杯が効いてきて、除夜の鐘などどうでもよくなって早々に床についた。
 目が覚めると日の出直前の6時半。大空も澄み亘って東の地平線がうっすらと赤い。これぞ年頭さいしょに味わう天の贈り物と、うっとりと天然の美景に眺め入りながら忘れず美景をフルサイズで何枚か写真に収めた。
 さて長年にわたる年頭行事の”熊野神社”だが、さすがに今年は当初から念頭になく、代わって正8時にi-phoneのFace-Timeを通して息子のところへ健在報告を兼ねた新年の挨拶を交わす。対話の中で私の「顔色がすっかり良くなった」の一語にはいささかびっくり。 電波でもそんなニュアンスがわかるのかと
いまさら時代の推移を実感した。
 10時からはポストに届いた年賀状のチェック。びっくりするようなニュースはなかったが、反対に私の方で手を抜いたせいで一方通行になってしまった先方に、あわてて手書きの数枚を作成、それをおそるおそく自転車で郵便本局まで届けた。
 ここまでは一病人の平凡な年初の一日だったが、なんと夕刻になって突然北陸能登地方に震度7の地震が発生。おまけに成田空港でも航空機炎上の事件まで起こって、大勢の死傷者が出ている模様。子細は目下調査中とあるが、”一寸先は闇”とは正にこのこと。なんだか今年の運勢、行く先が危うまれる。                     (1月2日)

 ■ 新し世界との出会い?
 
 気が付いたらあっという間に新年もはやきさらぎ
の2月。おいおいチョット待ッテクレヨと、片手を宙に肘を張って抵抗すれども無力、そのままの姿勢で誰かの力に引っ張られ、そのまま月替わりの敷居を跨いでしまった思い。ごくげつといい、むつきといい、私の人生にとってはまさに締め切りに絶好のチャンスだったが、どうやらそれを逸してしまったようだ。
 その新しい流れの第1使か、先週木曜は2月1日せんぷの日に、S氏に代わるマネージャーT女史が、法人至誠グループ活動の窓口責任者であるN女史を伴って来宅、あっという間に以後毎週火曜日には元町にある至誠ホームのデイ・ケア・センターに通う約束の書面にサインをしてしまった。
 こうしてきょうはともびきの2月6日、私にとってその修練の第1日がやってきた。実は東京はきのう一日の大雪で、街中は至るところ真っ白。しかしその中を約束通り午前9時にはお迎えのワゴン車が到着、車中6人の同輩老女たちに加わってそのまま現場へと直行、以後の時間をセンターの組み立てたプログラムに従い、たっぷり童心にかえって半日を過ごす結果となった次第である。
 まだ一日だが体験後の感想は決して悪くない。世話役の従業員の数も多く、みなよく神経の行きとどいていて親切。午前・午後と2回にわたってベースに組み込まれたリズム体操も、老齢者用に巧みに工夫加工されており、またほかに口腔体操というオリジナル(?)なエクササイズもある。
 まだ初日で深く会話を交わしたお相手もないが、たしかに新しい空気が流れ込んできた気もする。とにかく毎週火曜日、この新しい世界との接触を大切にして出入りしようと思っている。         (2月6日)

 ■ 桃の節句とスーパー・チューズデイ

 おや、今日は3月6日、またしても”気が付いたら”の言い訳で始まるこの身辺メモランダム。それもこれが今年に入ってようやく3度目の書き込みと来ているのだから世話はない。どなたさまから「とびとび記」への改題をと迫られても、どう抗弁のしようもないぐらいの怠惰さである。
 いや、怠惰さかどうか?ひょっとすると、これはやっぱりあの暮れの、思いがけない私の入退院事件と別途には考えられない現象かも知れない。あれ以来もはや私はすっかり生きることへの意欲を失ってしまったのではないかもと。
 そんないささか不機嫌(?)な気分で、壁面のカレンダーに眼をやると、故意か偶然か、真っ先に飛び込んできたのは、朱色にプリントされたこの月初の日曜日、3/3の3文字であった。
 ”あっ、お雛さま”。思い出す、そのむかし京都の生家では、毎年やおい月の訪れと共に、三つ違いの妹を祝って、2階の部屋の壁面にはぎっしりとひな人形が飾り立てられたものだった。
 そんな私の心を知ってか知らずにか、実は先日メール・メイトのKAZUKOさんから、彼女の住む老人ホームの玄関に飾られた雛壇のスナップ写真が送られてきていた。それを失念し、おまけにその返礼さえまだ果たずにいる私…・。
 そんなタイミングのたった今だ、テレビから飛び込んできた衝撃的ニュース。なんと画面には「スーパーチューズデイはトランプ前大統領の完勝」と記されているではないか。私は愕然とした。本選挙を控えた半世紀後のアメリカ、そしてそれを取り巻く列強国群の視線何とこれを機に地球はいま前世紀の教訓を忘れ、またしても滅亡の悲劇への、空しい一歩を踏み出そうとしているのではないか。
  いやはやこれでは桃の節句もクソもあったものではない。これをしも厭世と言わずして、そもそも君は何を説かんとやする?(3月6日)                                
 

 ”止めたらどうだ、危ないから”。人からそう言われ、自分でも心の中ではその決心がつきかねている日常行為。そう、私の自転車行のことだ。毎日1回は


   梅雨のように