「そればかりでなく、苦難さえ誇りにしています。苦難は忍耐を生み、忍耐は試練にみがかれた徳を生み、その徳は希望を生み出すことを知っています。この希望は、わたしたちを裏切ることはありません。わたしたちの賜った聖霊によって、神の愛がわたしたちの心の中であふれ出ているからです。」
(ローマ5:3〜5)

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「よい種をまく者は人の子、畑は世界、良い種はみ国の子ら、毒麦は悪者の子らである。毒麦をまいた敵は悪魔、刈り入れは世の終わり、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が抜き集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそうされるであろう。人の子は天使たちを遣わして、つまづきとなるすべてのものと、悪を行う者を、み国から抜き集め、燃えさかるかまどの投げ入れるであろう。そこには、嘆きと歯ぎしりがある。その時、正しい人は父の国において太陽のように輝くであろう。聞く耳のある者は聞きなさい。
(マタイ13:37〜43)
Message for my sister and brother.
 
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 2013年4月7日(日)     「退職に寄せて」
 過去とは、今という時から振り返ってみれば必然というものである。その時は予想だにしなかったか、うすうすと感じていたかは別として、現在はそうなるべくして招かれた結果であるのではないだろうか。「2013年に向けての決意」を読みながら、実にそう感じいっている。
 
 では、未来はどうであろうか。未来は現在から見て未知なる時であるから、偶然でもなければ必然でもない。予感はできたとしても未来を知ることはできない。しかし、いずれは現在は過去となり未来は現在となる時が来て、その時は新たな過去がつくられ新たな現在から未来を見ている。時は、決して遡ることなく前へ前へと刻まれ進んでいく。
 
 私は、この青森の地で生まれ多くの時をこの地で過ごしてきた。まずは生まれてから多感な青年期の18年間を、高校卒業後、一旦大学受験の勉学のため19歳の1年間を札幌で過ごした。その後帰省し、また大学受験浪人として1年を青森で過ごした。そして大学の4年間を杜の都仙台で過ごした。
 大学卒業を前に、将来の選択肢が3つあった。一つはカトリック学校教師の道。もう一つは新聞社記者かフリージャーナリストの道。そしてもう一つは司祭になる道。
 
 高校時代、教師だけにはなるまいと考えていた。尊敬できる教師にほとんど出会えなかったことと教師には心を閉ざしていたからである。常に上から目線、分かり切ったことしか言わぬ説教、挨拶をしても返さない無礼。生徒は生徒でしかなく一人の人間とは認めぬ傲慢な態度。そんな教師は掃いて捨てるほど何処にでもいるものだ。高校時代の私の目には、教師とはそのような存在にしか映らなかったのである。だから、教師だけにはなるまいと20年間思い続けてきた。
 
 2年間の浪人生活の末、結局は希望の大学には入れず仕舞いに終わり、大学入学進学を諦めたものの、兄のすすめもあって二次募集をしている大学を受験。合格はしたが全く興味関心もない大学の学部・学科であったため失意のうちに仙台での学生生活が始まった。大学2年生の頃から教会の青年会活動に深く関わるようになり、小・中・高生の錬成会や夏のキャンプなどのリーダーを務めるようになると、人間というものに関心が深まり、教師という職業もいいかも知れないと考えが変わった。そして、具体的に何をというわけではないが、その時は漠然とただメッセンジャーとして教師となりたい、しかも公立学校ではなくカトリック学校の教師となりたいと願うようになった。
 
 大学卒業以来30年間という時を、この青森でカトリック学校の教師を生き甲斐として生業として、そして使命として過ごしてきた。教師としてのこの30年間を振り返ってみれば、実に辛いことの方が圧倒的に多かったにもかかわらず、誠に幸せな時を過ごしてきた。生徒とともに過ごす学校生活、授業、担任、学校行事、テニス部顧問や生徒会顧問。私生活では妻との出会い、恋愛、結婚、3人の息子の誕生と成長。そのどれもが、私を支え育てくれた生きた証、今までの人生のそれらのすべてが私の宝ものである。
 
 勿論、辛いこともたくさんあった。自己嫌悪に陥るほどの下手くそな授業、生徒との感情の行き違いからくる誤解や諍い、そして軋轢。生徒から発せられた担任変えての声、生徒が抱える苦しみを受け止めきれずに自分を見失ったこと、なすすべのない教師としての限界。妻とのすれ違い、母親の死、長男の高校自主退学勧告処分、義母の死、父親のアルツハイマー病の発症、等々…。
 
 孤軍奮闘もここまで、結局私は孤高の人に終わったのかも知れない。しかし、人を憎むようになるまでその場にいてはいけない。憎しみの連鎖はいずれ醜い争いや殺し合いをも招くからである。歴史や社会現象はそれを証明しているではないか。いつの日にか本当に彼らをゆるせる時がくるまでまで、忘れ去るまで、時と空間を隔てるのが賢明というもの。人は、忘れたり記憶が薄れるから救われるというところがある。
 
 人間とは、実に美しく善良でありながらも、反面浅ましく醜い面を持った善悪表裏一体の両面を有する生き物である。正に共命鳥のたとえそのものである。どんなに信仰と良心に従い正しく生きようと努めても、貪欲でさもしい利己的な汚い自分が、心の中でいつとはなく頭をもたげてくる。打ち消しても打ち消しても、現れては消える欲望や妬み、そして憎悪の念。しかし、ふと思い起こせば、そんな自分自身の中にい、つも共にいてくださる我が主なる神。美しく善良で寛容な自分と、醜く悪意に満ち偏狭な自分のすべてを受け入れてくださるから、今もこうして生かされて生きていることができる。
 
 この30年は、長いようであっという間の時間だった。特に27年間は、がむしゃらに突っ走ってきたような気がする。しかし、この3年間はあまりにも辛く苦しく、ばかばかしさをも覚えることもしばしば、忍びがたいものがあった。生徒との関わりと授業を除けば、自分が自分として生き生きとしていられなかった。私の辞職という選択は、私を慕ってくれる生徒たちには、謝っても謝りきれない申し訳なさと無念を覚える。そして、なによりも生業を失い家族を路頭に迷わせる結果を招いたし、妻や子どもたちには申し訳ないという思いで一杯である。しかし、それらはこれからの自分の努力次第で一時的なものにできるではないか。決してすべてを失ったわけではないし、やりたいこともやらなければならないことも、まだまだたくさんある。この選択は私自身の本当の使命を果たすための過程なのだと思う。確信というわけではないが、神さまの導きであると、そんな気がするのである。いずれにしても、あのままでは私は生きる屍のままであったろう。私にとっては福音を語り継ぐことができないのなら、生きる意味が無くなってしまうからである。
 
 私は草履の塵を払い、後ろを振り返らず前を見て、次の町で福音を告げ知らせるために旅をつづけることにしよう。
 
2013年4月7日(日) 復活節第二主日 神のいつくしみの主日 自宅にて
 
 2012年12月31日(月)     「2013年に向けての決意」
 2012年12月31日、窓の外は寒波の到来で猛吹雪だが、それでも年の暮れの大晦日はいつも静かに暮れていく。それは、年の瀬は皆がそれぞれの環境で、それぞれの思いをもって、それぞれの喜びや悲しみそして苦しみとともに一時の休息に浸っているからなのだろう。一年の苦労をそっと心の奥底に沈めるには、一家団欒の時を過ごそうが孤独に寂しく過ごそうが、この静けさは相応しい。
 
 私の心中において、今年は激動の年だったかも知れない。我が信仰と信念に懸けて、カトリック教育やカトリック学校のあり方を真剣に問うた。信仰のない者との対話がいかに虚しいものか、通じ合うものがないのかを知った。正義感も平等観もすべての価値観が噛み合わない。職権による威圧と脅迫、同僚の無分別や無関心と保身。これ以上、ここに私は居るべきではないことを悟った。もともとは三年と思いこの職に就いたのが早、三十年。そして、ここで最後にやるべきことが次への一歩とつながることを信じ、『「カトリック学校宣言」カトリック学校がカトリック学校であり続けるための学校マネジメント −福音共同体を目指すカトリック学校の実現ために−』を書き上げた。我が信仰とカトリック学校教師としての30年の経験をもとに、学術的ではなく飽くまでも実学的に、カトリック学校に奉職するすべての教職員と関係者のために、カトリック学校におけるカトリック教育の実践の方法論を見出す手引き書として、そしてカトリック教育に対する問いかけとして、今私が考えられるすべての部面について書き上げた。それは、我が信徒使徒職を果さんがためとの熱意であり、福音宣教に懸ける情熱そのものである。私には、このような生き方しか出来ないというのが率直なところなのである。
 
 「信仰年」に当たる期間に、このような著作・出版活動が出来ることは、神の導きと聖霊の力なくしては、実現できなかったことだろう。我が信徒使徒職の使命の一つを果たせたのではないかと考えている。勿論、書いただけで終わるわけではない。この後はこの著書を一人でも多くの人々に読んでもらえるよう、努力しなければならない。「世間とは、他人(ひと)とは、書けば書かれるし、言えば言われる、そして行えば叩かれるものである。」今からそれは、覚悟しておこうではないか。我が主がそうであったように、信仰のために真実を語ることでの戦いは、避けられないのだろうから…。
 
 だから、すべてとは言わないが、少なくとも生活の安寧と引き継いだ財産と愛する故郷を捨てる覚悟をしたのだ。敢えて、先の見えぬ宣教の旅へと足を踏み出し、天に宝を積むための信じる者の使徒職を果さんがための主の道に通ずる小道を求めてひた歩くことを選んだのだ。
 
 2013年、それは我が人生の明確で太い年輪をを刻み残す年となろう。そして新たな年輪を刻むための足がかりを探し求める年、それが茨の道であることは分かっていても、この私が主に付き従う者でありたいと願う限り、一条の希望の光を頼りに歩まざるを得ない道であるのならば、後ろを振り返ることなく、ただただ辿り着くべき目標を見失わないように前を見て歩むのみである。
 
 主よ、我が主よ、我が前途を希望の光で照らし給え、我が前途を祝福し給え、我を導き給え。
 
2012年12月31日自宅にて
 
 2012年10月22日(月)     「カトリック学校宣言」の原稿の完成に寄せて
 2009年第33回日本カトリック教育学会基調講演者の森一弘司教が、講演の始めに開口一番「カトリック学校の将来に危惧感をお持ちの先生方は挙手して下さい。」との問いかけがあり、そこにいた参加者の一人の方を除いて、私を含めた全員が手を上げたのでした。当時私は、学会員でもないのにシンポジストの一人として招かれたことに戸惑いを感じながら、それに学会というものは大学の先生方や研究機関の方々が組織する学術研究の場と考えていましたから、一介の高校教諭が参加するなど、気が引けるやら奧がましいやらで、相当の覚悟をもって会場に足を運んだことを今でもはっきりと記憶しているのです。しかし、その森司教の講演の開口一番の問いかけの結果が、私の学会に対する認識を大きく変えたのです。「あぁ、学校法人の理事長や大学の学長そして大学の教授等の先生方も、カトリック学校の行く末には危機感を覚える。」という私と共通の認識を共有してたからです。
 
 私が学会のシンポジストとして選ばれた経緯は、私が運営するホームページが切っ掛けでした。私が開設する「ΙΧΘΥΣ Εκκλησια(イクスース・エクレシア イエス・キリスト神の子救い主の共同体)」は、おもに「カトリック教育」及び「教会共同体」を考えることを目的としたもので、特に、私たちが生きる現代社会に、教育活動をとおして「福音」を宣べ伝えるため、またカトリック教育そのものやカトリック学校における学校マネジメントがどうあるべきかを提言するため、さらにこれからの教会共同体が真に福音共同体や信仰共同体として生き続けていくために、そのあり方について一個人としてのメッセージを発信するものでした。それが、偶然にも高校時代に聖書勉強を共にした宮崎正美先生(現仙台白百合大学准教授)の目にとまり、学会のシンポジストとして選ばれることとなったのです。
 
 私がホームページを開設した年は2005年だったのですが、これには明確な理由があります。それは、私が奉職するカトリック学校の歴代の校長が、それまでは設立母体の修道会のシスターであったのに、他の教育機関から来た方ヶが校長となり、そのことが学校運営の多岐に渡る点で、特にカトリック学校としての最大の使命である「福音宣教」や「カトリック学校の教育理念」において、疑問を呈さなければならない事例が次々と発生していったということです。学校経営責任者が聖職者や奉献生活者の方でなくなることで、こうも学校が変わってしまうものなのかと言う実感とさらなる危惧感を高めることとなったのです。ただお断りしておきますが、このような方々のカトリック学校に対するご尽力を毛頭否定する気は全くありませんし、むしろ敬意を表すものであります。しかし、カトリック学校のミッションである「福音宣教」という観点におきましては、どうしても不十分と申し上げなければならないのです。これらのことが、カトリック学校の教育理念の再認識とカトリック学校の再福音化、そしてカトリック教育の具体的教育活動の標準的基準というもの必要性を、少しでも多くのカトリック学校に奉職する教職員の皆様方へ問いかけるとともに、その確立の必要性強く感じるようになったという理由であります。
 
 どんなに小規模であっても、組織の中における裁量権のない一般教職員の意見や行動とはまことに無力で虚しいときがあります。しかし、それとは逆に裁量権を持った経営者の権限は、同じカトリックの教育理念に基づいた学校に奉職する一個人でありながら、その経営責任という重責とは別に、その学校やそこにいる教職員の将来までも大きく変えてしまうほど絶大なものです。これは、良きにつけ悪しきにつけ学校組織の特徴と言えるでしょう。勿論、一般企業においても、経営者の裁量権は大きなものでしょうが、一般企業の場合は株主総会や消費者そしてマスコミの評価に常にさらされていますから、売り上げなどの業績評価によって経営者自身も評価され、認められなければ交代させられます。しかし、学校社会というのは、そのような株式制度を取っていませんし在校生や卒業生そしてその保護者等からの評価はあっても、一般企業に比較すればその範囲は極めて狭いものですから、学校組織(社会)とは基本的に閉鎖社会になりがちで、その了見も狭くともすれば経営責任者の独断や偏見に陥りやすく、その軌道修正も非常に困難を極めることとなります。「築きあげるのに難しく、壊すのに容易」であるのは、いつの世にも言えることです。せっかく築きあげたカトリック学校が今までの日本社会に一体どれだけの「福音」の種を蒔いてきたことでしょう。それが途絶えるようなことがあってはなりません。また、「三代続けば末代続く」とも言われますが、もしやしたら現代の日本のカトリック学校における存続の危機とは、戦前・戦中世代、高度経済成長世代の方々が現存していたのに対し、現在は次世代を受け継ぐ三世代目の空白(全くいないというわけではない)に当たってはいないでしょうか。
 
 確かに現在は、聖職者や奉献生活者の方々を、かつてのようにカトリック学校に十分には派遣できなくなり、カトリック信徒の教職員も不足している時です。ですから、非信者(未信者)の教職員の方々の力をかつて以上に求めていかなければならないのも確かな現実です。しかし、カトリック学校の最たる目的が教育活動をとおした「福音宣教」であり、それによる「福音共同体」を目指すものである以上、非信者(未信者)の教職員の方々にも具体的な形でそれらのことを十分理解してもらわなければなりません。さもなければ、カトリック学校はその本来的「教育理念」や「教育目的」を失うか自ら放棄してしまい、中から崩壊してしまう結果を招いてしまうのです。それは、まさに「カトリック学校の死」を意味します。
 
 カトリック学校の福音的教育を支えるのは、学習者を教え彼らの神から与えられた能力を引き出し、「福音的人間観」に基づいた「福音的自己実現」に導く教師であります。いつの世もどの組織においても、その社会を形成するのは人です。教育も人が人を教え導くことに意義と価値がありますし、人は人によって育てられ初めて人となるのです。ですから、カトリック学校においても、経営者や管理職および一般教職員を問わず、カトリック学校の教育活動に相応しい人材育成を推進していかなければなりません。近頃(2012年8月28日)中央教育審議会より「教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策についての答申」が発表され、「教員は、教職生活全体を通じて、実践的指導力等を高めるとともに、社会の急速な進展の中で知識・技能が陳腐化しないよう絶えざる刷新が必要であり、「学び続ける教員像」を確立する必要がある。」とし、そのために「 教員養成の改革の方向性を修士レベル化し、教員を高度専門職業人として明確に位置付ける。」としています。私は、本書においても提言していますが、カトリック学校の教員についても、いえカトリック学校の教員であるからこそ、カトリック学校の教員として相応しい教員養成のための専門機関を設置し、カトリック学校としての独自の教員免許制度や研修制度を早急に立ち上げていく必要性があります。そのような具体的行動を形としていかなければ、今後カトリック学校がカトリック学校としてのアイデンティティを保っていくことは非常に難しくなることでしょう。
 
 そうならないために私は、30年間のカトリック学校の教員生活の経験を元に、あくまでも学術的にではなく実学的に、しかし単なる一教員としての私見に終始することのないよう第二バチカン公会議の「キリスト教的教育に関する宣言」や「現代世界憲章」および「バチカン教育省による公文書」そして「日本司教協議会の文書・声明等」を踏まえながら、可能な限りにおいて「キリスト教的人間観およびカトリック教育理念」と「カトリック学校における教育活動の具体的指導のあり方」そして「カトリック学校におけるすべての教職員の福音的あり方」、また「社会に開かれたカトリック学校としてのあり方」そして「カトリック学校が今後継続的・発展的に存続していくための条件や方策」のカトリック学校に関わるすべての部面について「カトリック学校宣言」で提言させてもらいました。ですから原稿が、できれば刊行され
読者の皆様が奉職するカトリック学校の教育活動の現状に対しての問題提起や指導的示唆、およびそれぞれの学校の次代に向けた持続的発展のために、そしてひいては日本のカトリック学校が、教育活動をとおして現在および将来に渡って「福音」を宣べ伝え続けていくための真に生きた「福音共同体」として存続し続けるための一助となり、それぞれの学校における「カトリック学校宣言」の宣誓に繋がることを願ってやまないのであります。
 
 なお、末尾ではありますが、私が奉職した青森明の星高等学校の最後の設立母体である聖母被昇天修道会のシスターであられ、現修道院長の對馬榮子師に本原稿を捧げます。私は、師からカトリック学校の精神および教育理念そしてカトリック学校における信徒の教師がどのように使徒職を果たしていくべきかなど、カトリック学校の教師としての生き方を教えられました。本原稿を書くための原点のすべては、師が校長を務められた11年の歳月の間に師から学んだことから得られたものであります。言葉では表し尽くせない感謝の念をもって、深く深くお礼申し上げます。
 
 そして、日本のカトリック学校に奉職するすべての教職員の皆様にも捧げたいと思うのです。それは、本原稿を著した最大の目的だからです。ですから、一人でも多くのカトリック学校の教職員の皆様方が本原稿を読んでいただくことを希望するとともに、お願いする次第であります。そして、本原稿を読んでもらうことで、現代の日本のカトリック学校の困難な危機的状況を打開していく新たな動きが生まれ、更にその活動が、日本全国のカトリック学校を私たちの主イエス・キリストのもとに束ねられた一つの大きな「福音共同体」として完成させ、御国の到来に参与することにつながっていくことを期待しています。
 
 かつて日本のキリスト教は、聖フランシスコ・ザビエルによる伝来以来、幾多の困難を乗り越えて今日に至っております。カトリック学校も同じように、特に太平洋戦争中のキリスト教関係者の困難は、戦後生まれの私の想像を遙かに超えるものだったに違いありません。しかし、だからこそ今度は私たちが、私たち自身の力で現代の価値観の多様化・反乱した不確実な暗闇の時代の、そして少子高齢化現象による将来や未来に対する閉塞感などの艱難を乗り越えていかなければなりません。聖書にここのような御言葉があります。「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光に与る希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は、忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマの信徒への手紙5章1〜5節)」
 
 今こそ、私たちカトリック学校の信仰(祈りと行動)の真価が問われる時です。父と子と聖霊の御名によって、カトリック学校が日本社会の中の「地の塩、世の光」となり続けていくために「カトリック学校宣言」を宣誓し、主イエス・キリストと共に歩んでまいりましょう。
 
 カトリック学校の将来を憂いながらも決して希望を失わず、我が身のすべてを主なる神に委ねつつ…。
 
2012年10月11日(木)信仰年のはじまりの日に自宅にて
 
ベネディクト・ラブル 佐井 総夫
 2011年12月30日(金)     「2012年を迎えるにあたって」
+主の平和
 昨年の東日本大震災と福島第一原発事故および、台風12号による甚大な被害は、わたしたち人間に何か重要なことを問いかけました。私はこのサイトを通してそれは、価値観の転換、つまりは回心の時ではないかと呼びかけて参りました。
 
 物質的価値観を最重要視し、精神的な価値観や人間の力を超える全能の絶対者の存在とその教えや教訓をないがしろにした結果、私たち人間は一体何を手にしたというのでしょうか。産業の発展は地球的規模の環境問題を発生させ、その解決が叫ばれるにも各国の国益との打算が交錯し、解決にはほど遠いのが現状です。また、科学技術の発展、ことに生命工学の新たな技術は、どうでしょうか。人間の欲望の支配するままに、生命の尊厳すらも侮らんとして、命の誕生にまで人間の思惑が介入しています。
 
 私たち人間は、福島第一原発事故に象徴されるように、不可能を可能にしたかのように勘違いしているのです。できないことをできたと嘯いているのです。今、まさに終末の時が近づいたのです。新たな世界・新たな時代を創造する時がきました。二千年前、「救いの時」が来たと荒れ野で叫び人々に回心を求めていた洗者ヨハネのように、私も「福音」を叫ぶ者でありたいと思うのです。
 
 2011年は、東日本大震災に始まり、福島第一原発事故による放射能汚染や節電生活、台風12号による災害など、今までにない災害や事故が相次ぎ、私たちの生活は大きく揺れ動かされました。また、海外においても、チュニジアの反政府運動に端を発する中東諸国の民主化運動によって、それまでの独裁者や軍事政権が倒されました。また、ヨーロッパのEU諸国における財政破綻は世界経済に大きな影響を及ぼし、今後の国際社会に先行きの見えない不安をもたらしています。
 
 このような現状から「時のしるし」を読むと、今までの政治・経済などの社会体制や人間の価値観の崩壊ということではないでしょうか。私は、この崩壊現象は、今後日本においても世界においても、しばらく続くと感じています。それは、新たな世界を構築していくためには、過去や現存する体制や価値観が何らかの方法によって、崩壊する必要性があるからです。それは、あるところでは革命やクーデター、あるところでは戦争、あるところでは貧困と飢餓、あるところでは政変や経済破綻、そしてあるところでは教育の崩壊であるかも知れません。
 
 2012年の新しい時を間近に迎え、過ぎ去っていく時を振り返る中でも、決して時の連続性を忘れることなく、人間存在のひ弱さや限界そして価値観の転換の時を知らせるために犠牲となった数多くの尊い命をも、決して忘れることのないよう生きていく決意を新たにしているのです。最後に、旧約聖書コヘレトの言葉を記します。
 
 何事にも時があり
 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
 生まれる時、死ぬ時
 植える時、植えたものを抜く時
 殺す時、癒やす時
 破壊する時、建てる時
 泣く時、笑う時
 嘆く時、踊る時
 石を放つ時、石を集める時
 抱擁の時、抱擁を遠ざける時
 求める時、失う時
 保つ時、放つ時
 裂く時、縫う時
 黙する時、語る時
 愛する時、憎む時
 戦いの時、平和の時。
 
 人が労苦してみたところで何になろう。
 私は、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
 それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。
 わたしは知った。
 人間にとって最も幸福なのは
 喜び楽しんで一生を送ることだ、と
 人だれもが飲み食いし
 その労苦によって満足するのは
 神の賜だ、と。
 わたしは知った。
 すべて神の業は永遠に不変であり
 付け加えることも除くことも許されない、と。
 神は人間が神を畏れ敬うように定められた。
 今あることはすでにあったこと
 これからあることもすでにあったこと。
 追いやられたものを、神は訪ね求められる。
 
 太陽の下、更にわたしは見た。
 裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。
 わたしはこうつぶやいた。
 正義を行う人も悪人も神は裁かれる。
 すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。」
 
                    (旧約聖書コヘレトの言葉3:1〜17)
 
 2011年10月11日(火)     「明の星学園教職員合同研修会に参加して」
 研修会場となったホテル(ホテルシティプラザ北上)のロビーから北上川を望むことができた。朝霧に煙る中を蕩々と威風堂々に流れる北上川、その雄大な流れ?が悠久の時を刻みながら、広大な奥州の大地を創造したのだという陸奥の雄流の声が聞こえてくるような気がした。きっと、宮沢賢治も、この北上川の辺に佇みながら、この大自然に包まれて、イーハ?トーブの世界を造り上げたのだろう。そして、サトーハチローもこの陸奥の大地か?ら、詩を読む感性を育まれて育ったのに違いない。
 
 今回の研修会の収穫は大きかった。前評判?では、何か非常に大変そうな?研修会とのことだったが、学園訓で?ある「正・浄・和」とその出典である有名なマタイ福音書第5章の?「山上の垂訓」=「真福八端」を合致することを理解できたことが?、最大の収穫である。では、イエス・キリストが教えられた真に幸?福とは何かのマタイ福音書第5章1節から11節を振り返ってみるとしよ?う。
 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟?子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられ?た。
 
 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのもので?ある。
  悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
  義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
  憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける?。
  心の清い人は、幸いである、その人たちは神を見る。
  平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神のこと呼?ばれる。
  義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人た?ちのものである。
 
 私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆ?る悪口を浴びされるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。?大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の?予言者たちも、同じように迫害されたのである。
 
 この後も、イエスの説教は続くのであるが、この「山上の垂訓(?説教)」の部分は、イエスの教えの中でも難解なところである。な?ぜならば、言葉通りに解釈すれば、貧しい人々や悲しむ人々そして?迫害される人々が幸というのは、常識では考えられないからである?。
 
 しかし、ここでこの説教の部分の主語を「神を求める人々」と読み?替えたのならどうだろうか?合点がいくだろう?
 人間は、得てして自分の力だけで何とかしようとしがちである。ま?たは、自分の力で何でもできると勘違いしがちだ。「神を求める?人々」とは、人間の傲慢さを捨て、神に従い謙虚に生きようとする?人間の姿そのものである。そのような神に従順で素朴な生き方こそが、真に幸?せな生き方でり、神の国の実現を果たすことになるとイエスは教えて?いるのである。
 
 そして、そのような生き方が本学園の学園訓である「正・浄・和?」である。わたしは、このつながりが、この度の研修会で、初めて繋がり、大きな収穫となった。
 
 神に感謝。アーメン。
 
 2011年10月9日(日)     「2011年の夏を振り返って」

 我が家では、子どもたちが小学校の頃までは、毎年夏休みに家族旅行をするのが恒例であった。行き先はテントやロッジを使った青森県と岩手県のキャンプ場。よく山にするか海にするかでもめるので、大体は海と山の両方が満喫できる場所を選び、行程もそれぞれ山や川で一日、海で一日の二泊三日という行程であった。
 
 しかし、子どもたちの成長と共に、学校の部活動やら受験やらとで折り合いがつかず、家族全員がそろう機会がなかなかとれずにいた。その上、我が家は長男と次男は年が近いのだが、上二人と三男とが年の差があるので、段々と三人の都合が合わなくなり、三男と私の二人だけで出かけることが多くなっていた。
 
 そこで、今年は家族みんなが何とかそろって、という妻の提案もあって皆が都合を付け久しぶりに五人そろっての家族旅行の実現に至ったのである。行き先は、秋田県横手市にある「秋田ふるさと村」。ただ、今までは自宅から皆がそろって出発であったのが、先に我々四人が車で東北自動車道を使い
北上ジャンクションから横手市に到着。夕食も先に済ませその後、長男が大学の試験の関係で遅れて仙台から秋田新幹線で大仙へ、皆で大曲駅で出迎えようやく全員が合流。ホテルに到着後、長男は一人で遅い夕食を済ませ、ようやく家族五人がそろいほっと一息付けた次第。まぁ、とにかくそんなで久しぶりの家族旅行が始まったわけである。
 
 次の日は今回のメインイヴェント、秋田ふるさと村の東北最大級といわれるプラネタリウムを見ることである。幸い、ホテルからふるさと村までは目と鼻の先、歩いても5分程度の距離。入村すると夏休みとあって、会場間もないというのに家族連れの観光客で一杯であった。そこで、楽しみは後に取っておくということにし、プラネタリウムの前に工芸体験コーナーの田沢湖るり工房さんでネックレスやガラス玉を製作。次男と三男はたちは、はまっていた。
 
 さて、お目当てのプラネタリウム。特に妻が大いに期待し、これを見るためにわざわざ秋田の横手までやってきたと言っても過言ではない(私たちは付き合わされたと言っても過言ではない?)ものだったのだが、結論から言うと皆がっかりさせられたというのが正直な感想である。なぜなら、コンセプトが大外れ!わたしたち家族は、天文学的なものを期待していたのだが、大外れだったである。実は我が家の近くにもプラネタリウムがあるのだが、それにも劣る内容のもの。施設的には、確かに大きさといいスペックといい一級品のものなのに、解説は学芸員が説明するわけではなくただの録音、内容は天文的というよりは、ロマンチックな映像ショーといった感じである。せっかくあれだけの施設があるのだし、観客には子どもたちも大勢いるのだから、天文学のおもしろさや宇宙に興味関心を持つような内容にして欲しいもの。しかも当日は、カシオペア座の流星群が見られる日だったにも関わらず、そのことには一切触れずじまい。あの素晴らしいプラネタリウムの施設がもったいない気がしました、残念!
 
 二日目は、由利本荘市にある本荘マリン海水浴場でひとときを過ごし、その後日本海側を北上し能代へ、そして君待ち坂の道の駅でお土産を買い、大館を経由し青森へ帰宅。久しぶりに五人がそろい同じ部屋に寝泊まりし、子供たちが小さい頃の家族旅行を思い出させるいい旅行だった。
 
 もう一つの思いでは、次男の優心とバイクツーリングをしたことだ。若い頃息子とツーリングができたらいいなぁっておぼろげに夢のように思っていたのだが、それが現実のものとなり夢が叶ってしまった。昨年、私は妻の寛大な理解のもと、52歳にて大型自動二輪免許を取得し、CB1100を購入。息子は今年大学生になり、規制して普通自動二輪免許を取得。それまで私が乗っていた20年ほど前のCBR250Rを譲り、一緒に蔦温泉までツーリング。息子は、初めてのワインディングロードで、最初は多少戸惑い気味、登りのヘアピンカーブではギアチョイスを誤り、2度ほどエンストしていたが、そのうちに馴れだし帰る頃には快適に走っていた。今度は、ロングツーリングをまた一緒にしようか!我が家派では、妻も普通自動二輪免許を持っているから、いずれ家族全員でツーリングができたらいいなぁ…。なんて欲張りな願いを夢見たりしている。今年の夏もまた、いい思い出ができた。
 
 2011年3月21日(月)     「東北関東大震災」に思うこと
 2011年、本当は年頭に何か記しておきたいと考えていたのに、今年度から変わった新校長の学校運営方針に少なからずの戸惑いを感じつつ、一年の計は元旦にありとはいうものの考えがまとまらずに、書かず仕舞いに過ごしてしまっていた矢先の3月11日(14:46)に、東北地方太平洋沖地震が起きた。震源は三陸沖の深さ約24kmで発生したマグニチュードがなんと9.0という千年に一度という未曾有の大地震でる。その規模は世界でも4番目のものとなり、東北地方を中心として死者行方不明者が2万人を超え、さらに福島第一原子力発電所が水素爆発による放射能漏れ事故を起こすという甚大なる被害をおよぼし、現在もなお被災者が増え続けているのが現状である。
 
 この3月1日に二男の優心が高校を卒業して、東京の美大にも進学が決まりほっとしながらも、進学先の入学手続きや住まい先を決めたりやら、その上、突然長男の優友の学部移行の話が持ち上がり、妻が仙台に急遽駆けつけるなど、慌ただしい日々の連続であった。しかし、この中男の学部意向の件で父親である私と直接話し合いをするとのことで妻と帰省したのが3月の10日、そうあの東方地方太平洋沖地震のちょうど前の日であったのだ。長男はそのおかげで、激震地で最も被害の大きかった地の一つである仙台に居ることなく、幸運にも被災を免れたのである。
 
 私がこれまで経験した大地震は、1968年(昭和43年)小学校4年生の時の5月16日 十勝沖地震 - M 7.9 震度6(当時5)、1983年(昭和58年)の5月26日 日本海中部地震 - M 7.7 震度5、そして1994年(平成3年)12月28日の三陸はるか沖地震 - M 7.6 震度5、そして今回の東北太平洋沖地震の4回でだが、私が住む青森市の被災の大きさとしては、何と言っても十勝沖地震である。あの時の記憶と恐怖は今でも鮮明に覚えている。机の下に身を隠した私たちを、机ごと教室の床の上を前後左右に揺さぶり、避難するにも真っ直ぐ歩くこともできず、吹き抜けの階段の窓から見えた校庭の地面が波打っているという、今まで見たこともない信じられない光景が次々と目に入ってきて、全校中の誰もがパニックになりながら、必死で校庭に避難したのだった。
 
 下校指示が出てから、帰宅するまでの通学路には、地割れがあちこちに走り、水道管は破れて水が自噴し、ガス管が破れてガス臭が漂い、電信柱は倒れて電線があちこちで切れ、少年の私にもあたりは危険だらけだということがすぐにわかったし、自分の家がいったいどうなっているのだろう?お母さんは大丈夫だろうか?という不安が急にこみ上げてきて、小走りに急いで家に戻ったことを昨日の記憶のようにはっきりと覚えている。幸いにも、母も家も無事ではあったが、部屋の中は地震でありとあらゆるものが倒れ、足の踏み場もない状態でぐちゃぐちゃであった。特に洋服ダンスや当時の足つきテレビが倒れていたのは、地震の揺れの凄まじさを物語っていた。
 
 そんな少年の頃の経験からか、自分には地震に対する恐怖心とともに、多少の免疫ともいう相反する感覚も植え付けられている。だから、今回の大地震も青森の揺れ具合はあの時のものほどではないなと感覚的に直ぐに思ったがのだが、揺れる時間の長さについては違っていた。およそ3分以上という揺れの時間の長さと地震の最中の停電、そして立て続けに襲ってくる余震の多さは、今までの地震体験にはなかったもので、これは何かまずいことになっているなと直感した。その後直ぐに何人かの教師が携帯電話で情報を受信し、太平洋側のあちこちで津波が発生し始めていることがわかってきたのだ。
 
 東北各地での散々たる被害状況が明らかになればなるほど、「いったいこの事態には、どんな問いかけがあるのだろうか?」という深い疑問が込み上げてきたのだった。単なる自然災害だとだけに留めることも勿論できるであろう。しかし、一信仰者としてはそうも単純には割り切れないのが正直なところで、これらの大惨事をとおして、神さまは私たち人間に何かのメッセージを送っているのではないか、と考えるのである。
 
 現在この東北関東大震災の犠牲者は、行方不明者も入れると2万人を超えている。この2万人を超える犠牲者の方々の尊い命をとおして、神さまは生き残った私たちに語ろうとしていることがあるのではないか。その問いかけの答えを探し、それを行動で示し生きていくことこそが、私たち生き残った者の使命であるのではないか。今はまだその答えを見つけるには及ばないが、これから復興に向けまた新たな困難が行き先をふさぐであろう。事実、震災や津波の被害にとどまらず、福島第一原発事故による放射能汚染被害が日に日に広がっているし、物流も滞り被災地のみならず東日本各地にその影響が及んでいる。いずれにせよ、私たちはこの難局を乗り越えていかなければならない。復興に向けた数々の困難を解決していく課程に、この大惨事をとおして神さまが語ろうとしている答えが見つかるような気がする。私は、生存者の一人として、一信仰者として、そして一教育者としてその答えを、家族や教え子たちと共に探し求めていきたいと考えている。
 
 東北関東大震災による2万人を超える犠牲者の方々に神さまの哀れみがありますように、そして数十万人の被災者の方々に復興に向けた勇気と力が与えられますことを、さらにわが息子たちのこれからの前途に神さまの祝福が豊かにありますことを、心から祈りつつ。アーメン。
 
 2010年12月30日(木)     「2010年を振り返って」

 2010年、新たな気持ちで再出発した4月、職場でも心機一転、これからは好転の兆しもと思ったのも束の間、そうは簡単にいくはずもない…、むしろ大切な部分では、後退に向かっているという状況で年の暮れを迎えた。正に人生は山あり谷あり、EUのギリシア・アイルランドの財政破綻や日本の大学生や高校生の就職状況、あるいは政権交代後の民主党による日本の政治、そして朝鮮半島情勢などに見られるように、経済状況においても政治状況においても、国際状況においても、そしてカトリック学校の将来においても、混迷の時代だなぁ…あっ、この私もか!?…。
 
 義母は癌のため76歳で2010年の10月26日に逝った。亡くなる三日前に受洗し、妻に看取られながら帰天した。三年足らずだったが、私たちの家族の一員として同居し、毎日着物を縫いながら生計の足しにと働いて、あとは子供たちとの関わりを楽しむという地味で質素な暮らしぶりであった。義母の人生は、兵庫県姫路市に生まれ、幼少の頃中国満州のハルビンに渡り、戦後命からがら逃げ帰るようにようやく帰国し、それからは日本のいくつかの町で暮らして、青森県三沢市に落ち着いた。そこで妻を出産し、女手一つで育ててきたという、実に波瀾万丈の人生を送ってきた女(ひと)であった。それを考えると、義母の晩年は静かで落ち着いたものであったのではないかと思う。ただし、癌との闘病という避けられない事態さえ除けばではあるが…。しかし、義母の人生の最後の三年は、特に幸せなものであったに違いない。自分の娘と孫たちに囲まれて一緒に暮らすことができたのだから…。私はそう思っている。
 
 人の人生とは、何時どうなるかわからないし、短くも儚いものだ。今年は、父がアルツハイマー病に冒されていることが発覚したり、癌と闘病を続けていた義母を目の当たりにしたりして、単純に自分の人生に悔いが残らないようにしなければと強く思ったのである。それで考えついたことが、十代の頃から憧れていた大型バイクに乗ることを、現実のものにしようという、ちょっと子ども染みてはいるが、やり残しておきたくはないことの一つであったのだ。幸い妻の理解と賛同を得て、大型自動二輪の免許取得の運びとなり、その上、月賦購入ではあるが、念願のBigBike(HONDA CB1100)も手に入れることができ、とうとう高校時代から叶わないだろうなぁと考えなからも、抱き続けてきた密かな夢が実現したのであった。
 
 今年の夏の思い出は、何と言っても三男の優仁と一緒に楽天イーグルスの野球の試合観戦に行ったことだ。実は優仁は勿論、父であるこの私にとってもプロ野球のナイトゲームを観戦するのは、生まれて初めての経験であり、しかも妻のはからいで楽天ベンチ横最前列の席のチケットが取れ、互いにわくわくドキドキしながらの仙台旅行となった。実は優仁との二人旅は、慣れている。長男と二男は年が近いが、優仁は上の二人とは年が離れているせいもあって、まだ小学生の優仁は私と二人で出かけることが多いのだ。
 
 早朝青森を発って、八戸で新幹線に乗り換え仙台に向かった。優仁にとっては新幹線も初めての経験であった。昼過ぎに仙台駅に着くとその足で仙石線に乗り換え、宮城の駅で下車。徒歩で数分、直ぐにKleenex Stadium Miyagi 球場に着いた。試合開始は夕方の6:30からだというのに、こんなにも早く来たのには訳があった。その訳とは、試合開始5時間前までに指定された球場のゲート前に並んだ先着20名に、グランドで試合前の練習を見学させてくれるというイベントがあり、その先着20名になることを目論んでのことであった。
 
 球場に着いたのは12時半頃で、私たち二人は見事に列の先頭をきって並び、念願の楽天イーグルスの練習風景を同じグランドに立って見学できたのだ。おまけに、優仁は練習終了間際にはブラウン監督から練習ボールを二球も貰い、更に自分たちの指定席に戻ったその後には、なんんとあの楽天イーグルスのエース「田中将大」投手から直接サインボールは貰えるは、握手はして貰えるはのいいことづくしで、これらの出来事は、わざわざ青森から仙台に楽天の試合を観に来た甲斐があったと、私たち親子を納得させてくれるサプライズであった。
 
 楽天対ロッテ戦は面白かった。プロ野球観戦が、試合のみならずグランドでのいろいろなアトラクションでこんなにも楽しませてくれるものとは、ちょっとした驚きであった。楽天球場が今年から設けたグランドと同じ目線で観戦できる特設の席は、選手がプレーするスパイクやユニホームの動き、そしてボールの空を切る音すらも聞こえてくる正に臨場感溢れるスリリングな特等席であった。ホームランも見られたし、花火は上がるし、チアガールの娘たちもかわいかったし、選手の応援コールも盛り上がったし、風船飛ばしもやったし、どれもこれもみーんな楽しかったなぁ。応援グッズや楽天イーグルスのお土産、球場限定販売のお弁当やドリンク、一杯お金を使ってしまったけど、私たち親子にはお金に代えがたい大切な思い出がまた一つつくることができてよかったなぁ。なぁ、優仁!次の日には仙台科学館や七夕祭り、青葉城跡、仙台キリシタン殉教の地など、小松神父さんが車を貸してくれたおかげで、仙台市内の観光もできたしな。仙台を発つときに、優友と優仁と父さんと三人で食べた牛タン定食美味かったなまた、行こうなっ!優仁!!
 
 今年もゆっくりと静かに暮れていこうとしている。2011年はどんな年になるんだろうなぁ?今年は、優心は受験に合格すれば大学生、優仁は中学に上がる。長男の優友は、大学3年生で実習が本格的に始まる学年と、それぞれに新しい環境にと進んでいく。この私はどうだろうか?相も変わらず職場では試練の時が続きそうだが、何時までもこのままではいたくないので、この一年を有効に使ってこの私に与えられた使命を果たすための足がかりをつくろうと考えている。
 
 年の瀬の大晦日は、いつも静かでいい。大掃除をしたり、身の回りを整理したり、日常の職場から少し離れて、ゆっくりとした時間を過ごせるのがいい。こうしてブログを書いている私の傍らには、犬のCanが床に寝そべってくつろいでいる。こんなゆったりとした時間は、そうそうあるものではない。頭の片隅には、いつも「カトリック学校のあるべき姿とは」が居座っているけれど、職場から離れているだけでも、少しは心穏やかに過ごせる。まっ、正月休みぐらいは精々ゆったり、のほほんと過ごすさ。
 
 2010年8月23日(月)     「Do Not Stand At My Grave And Weep」のわたし的翻訳
 「千の風になって」という邦語訳で有名な「Do Not Stand At My Grave And Weep」の詩について、かねてから大きな疑問を二つ持っていた。
 
 その一つは、詩のタイトルの「Do Not Stand At My Grave And Weep」の訳の部分。一般的には「わたしのお墓の前で泣かないで下さい。」と訳されているが、この詩の作者はお墓の前にも立たないで欲しいと願っているのではないか、ということ。
 
 第二には、この詩の邦語タイトルにもなっている「千の風になって」という部分。もともと日本語には風を数える単位などないのだから、「千の風」の訳は私にとってどうしてもしっくりこないし、捉えづらく不自然であるのだ。この詩の作者は、自分はこの世の命を終えた後も、大空に自由に吹き渡る数えることのできない無数でたくさんの風になったと言いたいのではないか。
 
 この二点の疑問から、私の個人的な邦語訳は以下の通りとなった。さらに、一般的にこの詩は、戦場に行った若き青年が家族に宛てて書いたものではないかと言われているが、実のところ作者不明かつどこの国の詩であるさえも諸説あり、はっきりしていないというもの。
 
 私は、訳していく課程の中で、この詩の作者は男なのか女なのかという問いかけが自然に生まれてきた。そして私は、言葉の使い方や表現の仕方から、通説である戦場に行った若き青年が書き残した詩といわれているが、男性が書いたものではなく、作者は女性ではないかと思うのである。なぜならば、亡くなった自分が、風になって、ダイヤの輝きになって、穀物に降り注ぐ太陽になって、優しい秋の雨になって、鳥になって、星の輝きになって、というところに「母性」のささやきを感じずにはいられないからである。かといってもし子どもがいる母という立場の女性だとしたら、子どもに遺言する言葉を残さずにはいられないはずだから、この「Do Not Stand At My Grave And Weep」の詩は、何かの理由で家族を遺して死んでいかなければならなかった、結婚はしていたかも知れないが母にはまだなってはいない、若い女性が愛する人に書き残したものではないだろうかと思うのだ。
 
 以上のわたし的観点に立って、訳してみたのが次の通りのもの。なるべく原文を生かしながら訳したので、翻訳調の部分もあるが、どうぞ味わっていただきたい。
 
Do not stand at my grave and weep
わたしのお墓の前に立たないで、そして嘆き悲しまないで下さいね。
 
I am not there, I do not sleep.
(だって)わたしは、そこにはいないし、そこに眠ってもいないんだから。
 
I am a thousand winds that blow,
わたしは、おおぞらを遙かに吹き渡る風なのよ、
 
I am the diamond glints on snow,
わたしは、雪の上できらめくダイヤモンドの輝きなの、
 
I am the sun on ripened grain,
わたしは、豊かに実った穀物に降り注ぐ太陽なの、
 
I am the gentle autumn rain.
(そして)わたしは、穏やかで優しい秋の雨なのよ。
 
Do not stand at my grave and weep
(だから、)わたしのお墓の前に立ったりしないでね、そして泣いたりしちゃだめよ。
 
I am not there, I do not sleep.
(だって)わたしは、そこにはいないし、そこに眠ってもいないんだから。
 
When you awaken in the morning's hush
朝の静けさの中で、あなたが目覚めた時には、
 
I am the swift uplifting rush
わたしは、沈黙からこみ上げてくる喜びをもたらすツバメ、
 
Of quiet birds in circling flight.
小さな輪を描きながら、あなたをそっと見守る小鳥なの、
 
I am the soft starlight that shine at night.
夜には、柔らかな星の瞬きになって、あなたをみつめているわ。
 
Do not stand at my grave and cry,
(だから)わたしのお墓の前に立たないで、そして涙を流して泣かないでね。
 
I am not there; I did not die.
わたしは、そこにはいないし、死んではいないんだから。
 
 2010年5月14日(金)     「詩情(Poetry)五十編完成の節目に寄せて」
 「詩情(Poetry)」を2007年1月より書き始めて今年2010年の4月に五十編の完成をみた。「詩情(Poetry)」を書き始めたわけは、私の心の内にある様々な思いを明らかにしたいとの考えや、心の奥底から自然に湧き出る悲痛な嘆きや悲しみ、または寂しさ、そしてそれらの感情が引き起こす慟哭。あるいは、神様から今こうして許され生かされている生の喜びや自分に与えられた命の意味や使命の何たるかを考え、探し求めるための確認作業をするためであったろうと思う。
 
 それに、私は幼少の頃から物見聡く観察力に長けていたし、それをありのままに表現することができたので、時にはその屈託のない素直な表現力が人を傷つけたり、親や周囲の人達に恥をかかせたりと迷惑をかけることにもなっていたのだが、要は人よりも少し感受性や情感が豊かで好奇心が強く、それを言葉や文章そして絵画などで表すということがもともと好きなのである。だから、この「詩情(Poetry)」もそんな私の様々な思いを表現する一つの手段であって、この作業を通して自分の心の動きや思索そして思惟・思考を整理しようという作業の一環なのだと思う。
 
 いずれにせよ、このHP開設したのが2005年、そして「詩情(Poetry)」のページを設置したのが2007年の1月であるから、50編を書き上げるのに2年と4ヶ月を要したわけである。しかし、原稿の期日に間に合わせなければならないかのよな強迫観念に、急き立てられて書かなければならなかったわけでもなければ、湧き上がるような創作意欲に溢れて次々と筆が走ったわけでもない。言ってみれば、気ままに思いつくまま、書きたい時に書いてきたというのが正直なところで、この「詩情(Poetry)」50編は、私自身のごくごく自然な情操観念の働きに従って、「情念が感じて動く時」、「思いが溢れてこぼれる時」に、書かなければいられない時に、書くことが当たり前の時に書いてきた50編であったと言えるのではないだろうか。
 
 だから、おそらくこれからもこの「詩情(Poetry)」を書き続けることになるだろうと思うが、今後の抱負としては、「自然描写」や「情景描写」をテーマにしたものも書いてみたいと考えている。言葉は面白いと思う。言葉の表現力は実にいいと思う。無論、言葉の限界もあろうが、言霊というように言葉には魂がある。御言葉は、神であったとあるように言葉には命を吹き込む力がある。これからも、言葉をもっともっと学んで表現力を豊かにし、命の息吹がわき出るような言葉を綴って、神様の御言葉のメッセージを伝えていければいいと思う。
 
2010年5月14日 「詩情(Poetry)」50編の完成を記念して。
 

Last updated: 2013/11/28

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