「そればかりでなく、苦難さえ誇りにしています。苦難は忍耐を生み、忍耐は試練にみがかれた徳を生み、その徳は希望を生み出すことを知っています。この希望は、わたしたちを裏切ることはありません。わたしたちの賜った聖霊によって、神の愛がわたしたちの心の中であふれ出ているからです。」
(ローマ5:3〜5)

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「よい種をまく者は人の子、畑は世界、良い種はみ国の子ら、毒麦は悪者の子らである。毒麦をまいた敵は悪魔、刈り入れは世の終わり、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が抜き集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそうされるであろう。人の子は天使たちを遣わして、つまづきとなるすべてのものと、悪を行う者を、み国から抜き集め、燃えさかるかまどの投げ入れるであろう。そこには、嘆きと歯ぎしりがある。その時、正しい人は父の国において太陽のように輝くであろう。聞く耳のある者は聞きなさい。
(マタイ13:37〜43)
Message for my sister and brother.
 
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 2013年11月27日(水)     「日本カトリック教育学会に参加して」
 三年ぶりに日本カトリック教育学会に参加した今夏。8月30日から9月1日までの3日間、東京赤羽にあるサレジアンの星美学園で開催された。
 
 今学会の大会テーマは、「イエス・キリストの出会いの場としてのカトリック学校〜『生きる力』を育てるために」であったが、初日は赤羽教会近くの赤羽会館でラウンドテーブルが開催され出席。「命を大切にする教育を考える」にも強い関心があったが、「私にとってカトリック学校はキリストとの出会いの場となってきたか」の分科会に参加。参加者は幼稚園から大学までの教員や大学院生。現場に密接に関わる生の意見を聞くことができたし、退職して所属するところもなく現場を離れた私であったが、同じ分科会に出席されていたTさんが私に意見を話すよう振って下さったので、話すこともできた。既知のことではあったが、どこのカトリック学校も教育現場がキリストの出会いとなるような態勢もしくはそのような実践が必ずしもうまくいっていないのは、共通の問題意識である。しかし、超少子化の影響のため生徒減による学校経営難によって、カトリック精神に基づいた教育の実践に臆しているのは、その影響が顕著な地方の問題だと思っていたが、もう既に首都圏にもその波は押し寄せており、カトリック学校の公教育化や受験やグローバル化に対応する教育一辺倒の学校経営化が、ますますカトリック教育の本来的使命である福音宣教を希薄化させ、正に「私にとってカトリック学校はキリストとの出会いの場となってきたか」の問いかけに応えていかなければならない時であり、それをどう具現化するのかが急務となっている。中等教育機関においての具体策は、自著「カトリック学校宣言」が提言するところであると自負するのだが…。
 
 二日目は会場を星美短大に移して行われた。星美学園は校門を入るとすぐにカトリック学校らしくキリスト像やマリア像が目に入る。そしてサレジアンの象徴、聖ドン・ボスコが子どもたちと愛おしく触れ合う場面のご像(写真)が印象的であった。会場内のホールに入ると今春、私の出版祝い等でいろいろとお世話になっていたS.S学園のT先生がいらっしゃり再会を果たす。今学会ではT先生とともに行動することが多く、その度に私をいろいろな先生方に紹介していただき、私の再就職を心配していただいたり、自著の紹介をしていただいた。誠に有り難いことで、T先生には深く感謝している。それにしても、T先生はいろいろな方々と親交が深く、T先生の人徳をあらためて感じた。
 
 東京教区補佐司教の幸田神父様による基調講演が「イエスに出会うとは?」というテーマで話された。ご自分の青年期からの経験をもとに、イエスに出会うということの意味を語っておられた。イエスとの出会いとは、つまるところ何人にとっても自分と神さまとの関係を、イエスをとおしてその招きにどう応えるかという問いかけに対する、極めて内面的で霊的な神さまと自分という限定的で個々のつながりを持つことができる機会、ということなのではないだろうか。神さまは御一人子イエスをとおして、いつも私たち人間をその深淵かつ寛大で神秘に満ちた愛の中に招かれ、人間が何故あるいは自分が何故生まれ生きているのかという神の愛のみ摂理に気付くよう導いている。その招きと導きに、私たち人間一人ひとりがどう応えるかということが、常に問われているのである。
 
 基調講演後は昼食。お久しぶりに元A.Z校長のS先生とお目にかかることができたので、昼食をご一緒させていただいた。今学会には自著「カトリック学校宣言」を10冊持参し、10人の方々に献本させていただいたが、S先生にも一冊差し上げ、学会後にはご丁寧にお手紙をいただき、身に余るお褒めの言葉をいただいたことは、大きな喜びであった。
 
 午後の分科会は自由研究発表Bに参加。@「我が国の保育者養成に関する一考察 東洋英和女学院 甲斐仁子」A「幼稚園園庭の芝生かが園児の遊びの種類・身体動作・社交性の発達に与える影響に関する研究 前静岡サレジオ幼稚園園長国吉健二」B「戦時下におけるカトリック学校の同行為に関する研究 大迫章史 仙台白百合女子大学」C「ドイツ連邦共和国における宗教科の法的地位をめぐる現代的動向 濱谷佳奈 大阪樟蔭女子大学」D「フィリピンのカトリック・ハイスクールにおける宗教学 桑原直己 筑波大学」。以上の研究発表がなされた。
 
 午後の分科会が始まる前にJ学院理事長のK神父様から声をかけていただき、私のことを覚えていらっしゃったばかりか、再就職のことを気にかけてくださって、驚きとその有り難さに感嘆せずにはいられなかった。その気さくで着飾らず、物腰は柔らかでも歯切れの良いところがK神父様のお人柄、イエス様に共通するものをもっていらっしゃるなと感じる。
 
 二日目は懇親会で締めくくられたが、懇親会でも多くの方との新しい出会いがあった。これもJ学院理事長のK神父様をはじめ、お二人のT先生のおかげである。誠に誠に新しい出会いと人と人とのつながりは、新しい世界を展開させてくれるものである。
 最終日はシンポジウムで会ったが、かつて仙台白百合学園を会場にしての学会では、私もシンポジストとして発表した経験があるが、この学会のシンポジストとしてS.S大学のM先生を介して呼ばれて発表したことが、私の日本カトリック教育学会との関わりの始まりであり、J学院理事長のK神父様やS.S学園のT先生との出会いの場ともなったのである。
 
 今学会のシンポジストの方々は、ベリス・メルセス宣教修道女会・光塩女子学院幼稚園の松田延代園長、目黒星美学園小学校の田中一郎先生、サレジオ学院中高等学校の鳥越政晴校長、そしてノートルダム・ド・ヴィのシスター上智大学の片山はるひ教授であった。どの方々もカトリック学校がイエス・キリストとの出会いの場となることを大切になさっていることが伝わってはくるものの、これから先のカトリック学校の展望には危惧感を感じていらっしゃることが共通項として感じられた。カトリック学校の本来の使命である教育活動をとおした福音宣教、つまりイエス・キリストとの出会いを、具体的にどのように展開していくのかは、同じく共有する大きな課題であるのだ。どこのカトリック学校も、学校経営と福音宣教のマッチングに苦慮しているのである。生業と理念の貫徹とのバランスの問題なのか?いや、私はそうは考えていない。イエス・キリストの福音を宣べ伝えることによって、五千人に食べさせてもまだ余りある恵みをいただけるのだ。現代のカトリック学校は、その使命を果たすために、学校共同体全体の信仰が問われているのではないのか。神の御旨を実践するには、神に対する絶対的信頼無しには果たすことはできないだろう。それは、おそらく一般社会における常識からすれば愚かにも見えることもあるかも知れないが、私たちの主イエス・キリストの教えとは正にそういうものであるはずだ。神の御旨にかなっていることならば、信じて疑わず行えば、必ずや成就することとなろう。
 
 学会の締めくくりはミサである。カトリックはこれがいい。ミサほど、集う者の心を一つにして神に向け、大きな恵みをいただける秘蹟はない。星美学園のお御堂は広く、正面には勝利の聖母像が据えられている。今学会で始めていった赤羽教会も勝利の聖母教会だったはず、私が所属する教会もそうである。勝利の聖母教会とは縁があるらしい。
 
 ミサに与りその後解散。お二人のT先生にお別れの挨拶をして、私は前回の上京の際に会うことができなかった私の代父の息子であり、高校時代からの良き友人で、大学時代には共に教会活動を共にしたI君と会うために新宿駅に向かった。
 
 2013年11月26日(火)     「東京滞在中の新たな出会いと旧友、そして卒業生たちとの再会」
 東京滞在中は神学の知識以外にも多くのことを経験し身に付けたと思う。その第一は、なんと言っても三十数年来会っていない中・高等学校路の旧友との再会と久しぶりの卒業生との再会、そして18日間という長い期間を東京で一人暮らしすることで今までの自分を見つめ直すことができたこと、もう一つはFacebookというものを介して知り合った初めての人と親交を持ったという経験である。
 
 教師という職業を離れたことによって得た自由な時間は、学びと思索と退職に至った拭えきれない悔しや遺恨の念を整理する重要な期間となった。特に、30年以上も音信不通の中学校来の親しい仲間たちとの再会は何よりもの喜びであり、自分の生い立ちと成長過程を振り返るような自己再認識の機会となった。
 
 上京してまず最初に新しい出会いを経験した。Facebookで知り合えたパウロ会修道士のIさんである。私が滞在していた四ツ谷のウィークリーマンションの近くにパウロ会の修道院やパウルスショップがあり、彼はそこに属する修道士であった。
 
 私はI修道士から夕食を誘われていたが、以前の私であれば見知らぬ人と食事を共にするなどいちばん苦手なことに部類することだったはずなのに、私は快く受けたといおうかむしろ積極的に新しい出会いを求めて会うことにしていた。きっと今までの様々なしがらみからの解放と古い自分の衣を脱ぎ捨て、新たな自分を求めていたのだろうと思う。
 
 修道士Iさんとの出会いは新鮮であった。それまでの職業柄、修道女との関わりは日用茶飯事であったが、男性の奉献生活者と関わりを持つのは、高校を卒業して札幌の11条教会でのドイツ人フランシスコ会修道士Hさん以来だと思う。修道士Iさんは、パウロ会養成担当ということで、私の興味を誘った。それは、現代の日本においてカトリック学校の存続と召命養成は深い関わりがあるからである。今の日本社会にあっては、召命養成と共に次世代にどうやって信仰を引き継ぐかは、カトリック教会の共通した死活問題でもある。
 
 修道士Iさんとは、進行のお話以外にもプライベートなことまでいろいろお話しすることができた。このこともかつての私にとっては、余り前例のないことであった。それだけ、修道士Iさんにはわたしの心の壁を解き放つ包容力と信頼感を感じさせるものを持っていたからであろう。修道士Iさんとは、初対面にもかかわらず心打ち解けた楽しい一時をいただいた。またお目にかかれる機会を楽しみにしている。神に感謝。
 
 他の一人との面会は、十数年ぶりの再会である。彼は、日本ユニセフ協会に勤務するKさんである。以前、前任校でユニセフ協会とのネットを介したT・T授業でお世話になり、文化祭の講演会講師を務めてくれた方でもある。Kさんは、いかにもさわやかな人格者で好感の持てる青年であった。既に妻帯者となり二児の女の子の父親となっていたが、その誠実な姿勢と学問や信仰に対する探求心は、若い頃のまま熱情をもって生活している様子が嬉しかった。Kさんは、プロテスタントの牧師の家庭に育ったのだが、近頃カトリックに改宗したこともあり教会活動にも熱心で、私は彼のような信徒がこれからの日本のカトリック教会を支えていくだろうことを確信した。Kさん、またいずれ会いましょう。神に感謝。
 
 もう一人の初めての面会は、Facebookでは長いお付き合いのTさん。彼は大学の先生で以前は同じくカトリックの中等教育機関で教員として働いておられた方で、中等教育における宗教倫理指導のオーソリティである。長く宗教倫理ワークショップを主宰され、現在もカトリック学校に奉職する教員のための養成塾でも活躍されて、私にとっては良き理解者のお一人である。しかし、ネットでは親しくお付き合いさせていただいてはいたが、お目にかかるのは今回が初めてであった。上智大の神学講座受講を好機に、お目にかかることができ、そして直接Tさんのお人柄に触れ彼のカトリック教育に注ぐ熱い思いを肌で感じることができたのは何よりもの恵みであったと思う。
 
 Tさんとは、上智大学のイグナチオ教会で待ち合わせ、そこからしばしの間歩きながらお話いて、夕食を共にしていただいた。いつも笑顔を絶やさない優しい外見からは想像できない、宗教教育に対する情熱と強い意志は、年齢を感じさせることのないパワーと迫力があった。その熱い思いを持続させる信念には圧倒されるとともに、私もくじけてはいられないとの思いを抱かせてくれた。そして、私の再就職のことについても随分ご心配とご配慮をいただき、初対面とは思えないほど相手に無防備で真っ直ぐな姿勢には、多くのことを学ばせていただいた。そして、同時に私を信頼していただき、これからの宗教倫理指導のためにパートナーとして働いて欲しいとのお願いをもいただいた。誠に嬉しいことである。このような人と人との出会いこそが、新しい潮流や動きを生むのだなと実感した。こえからも、Tさんとは長くお付き合いさせていただき、多くのことを吸収していきたい。
 
東京滞在中、上京前に約束していた首都圏にいる親しい仲間たち2つのグループと会う約束をしていた。1つのグループは小学校時からの遊び友達。そしてもう一つのグループは、中学校から高校時の同期生たちである。
小学校時からの遊び友達H君とT君とは、特に中一の時に毎日のように遊び、自然科学部の部活動の仲間であった。H君もこの春退職し外国に移住するとのことで、この機会を逃してはまたいつ会えるか分からないという思いと、どうしても謝っておきたいことがあった。それは、私たちが中一の時、H君のお母さんが病気のため亡くなり、その時T君がお通夜に行こうと自宅に誘いに来てくれたにもかかわらず、私は試験勉強を理由に断ってしまったのだ。そのことが、その後クラス変えになりそれぞれが違う高校に進学した後も、ずっと心のどこかにわだかまりとして残っていたからである。そんな非情な自分の行動が40年以上経った今でも、どこかに引っかかっていたのである。
 
 彼らとは、新宿にあるT君の行きつけのお店と会うことになっていたが、東京に不慣れな私を気遣い新宿駅にわざわざ迎えに来てくれた。それでも、あの広い新宿駅の指定された場所に私は行くことができずに、結局は携帯電話でナビゲートしてもらい、ようやく会うことができたというわけである。私はお店に入ると暫ししてからその事をH君にきりだした。お酒が入る前にと思ったからである。H君の反応が少し不安ではあったが、そしてこれはH君のためと言うよりは私のエゴであるからとことわりを入れ話したところ、「彼は全然気にしていないよ。」と物静かに応えてくれた。正直、ホッとしたというか、長い間つっかえていたものが取れたような気がして、思い切って話して良かったと思った。無論、これは私の自己満足に過ぎないのだが、それでもそれを快く受け入れてくれたH君に感謝したい。H君は、幼稚園から彼のお母さんが亡くなるまで家族付き合いのあった旧友だったのだから。
 
 T君は、小学校6年生の時に東京から親の転勤で青森に引っ越してきた、いかにも都会っ子で根明な愉快な少年であった。どんなことにもくよくよせず、明るく楽しい性格は、どちらかというと後悔したことを考えすぎる私にはいつも羨ましく映った。彼は、水泳が人並み外れて得意で、区大会の記録を持つほどの腕前、私は本格的な泳法を彼から教わったのだ。学校が終わるといつも互いに遊びに誘いに行き、毎日のように自転車でどこかに出かけていた。T君とH君とは、少年から青年期の迫間の多感な時期をともにした仲だったのだ。二人に再会できたことに感謝したい。
 
 
 2つ目のグループの仲間は、中学校2年次から高校にかけての仲間。男3人で会う予定であったが、Facebookでつながっていた同じクラスのMさんも誘い、4人で久しぶりの再会を果たすこととなった。彼らとは、中2から中3は同じクラスメイト。M君とH君は野球部、そしてMさんはクラスのアイドル。お下げ髪の可愛い目のくりっとしたお人形さんみたいな小柄な女の子で、家がお医者のお嬢様だった。
 
 30年以上ぶりに会えば、懐かしい話は尽きることがなく、しばらく時間が経つのを忘れて思い出話に花を咲かせた。何せ、中学校の同級生同士、多感で純粋で裏表のない年頃に同じ時間と空間を共有した仲である。気兼ねが無いと言おうか、着飾っていてもしょうがないと言おうか、お互い素の自分でいられるのだろう。思春期の時期をともに過ごした仲とは、このようなものなのだろうと嬉しくなった。普通であれば、30年も経てば互いに忘れていても不思議ではないほど十分な時間が過ぎていたにもかかわらず、会えばあの時に時計の針を逆戻りさせることができたかのように互いに語り合えるのだから、不可解とも言えるほどのつながりと言えるような何かが存在していることは確かのようだ。実に喜ばしいことである。感謝に堪えない。この日の夜は美味しいお酒を飲んだ。互いに再会を約束して店を出て、私は新宿駅から四ツ谷のウィークリーマンションへと戻った。
 
 3つ目のグループは、卒業生との再会である。彼女らは私が前任校で生徒会の顧問として関わり、生徒会の全盛期を築いたメンバーである。Yさんは生徒会会長、もう一人のYさんは副会長、そしてEさんは書記で、他に生徒会役員のメンバーが数人いたが、彼女らは会長のYさんを中心に、それまでには無い生徒会活動を展開した。一番の功績は、それまでの生徒会活動が一部の生徒に限られていたものを、全校の生徒にくまなく広げたという正に生徒会活動の理想を現実のものとしたところである。教職生活30年、自校のみならず他校の生徒会活動を見渡しても例の無い生徒会であったのではないかと今もってそう考えている。
 
 彼女らとの関わりは、在校生時代からそれまでの教員としての私の態度を変革してくれた。それまでの私は教師としての鎧を着て、生徒との関わりにどこか壁を作っていたのだが、彼女らはそれを解きほぐし教師という鎧を着ずに自然体で関わることができるようにしてくれたのである。だから、彼女らとは卒業後も時ある毎に会うことができたし、私が退職した時にも卒業生では唯一退職祝いのの記念としてお花を贈ってくれた教え子たちであった。職務上、担任を久しく持つことなく退職時もホームルームを持っていなかった私にとっては、この上ない大きな喜びで涙が出た。実に優しい心根を持つ教え子たちである。
 
 そんな彼女たちと東京滞在中二度夕食を共にすることができたことは、喜ばしいことであった。特に二度目の再会は、メンバーの一人であるEさんが、わざわざ岡山から上京してくれて本当に嬉しかった。彼女らとは四ツ谷の上智大学近くのポルトガル料理のレストランで夕食を共にした。皆一人前の綺麗な大人の女性に成長している。一人は結婚し一児の母である。何と素晴らしいことであろう。人間の教育に関わるものの究極の喜び、そして醍醐味ではないか。長い人生の中のたった高校3年間が、卒業後10年以上が経つというのに関わりが途絶えないばかりか、新たな関わりをつくり続けている。彼女らとのつながり、関わりはこれからもずっと大切にしていきたい。
 
 夕食を済ませ、四ツ谷駅前で分かれる時、三人一人ずつと握手を交わした。涙がこぼれそうになった。そして、本当は一人ひとりと抱擁したかった。それは、彼女らが私が退職した理由と今の心情を受け止めていてくれたからである。それが手に取るように十分に伝わって来た。みんな、本当にありがとう。君たちとの関わりは、私の教師生活の宝そのものである。いつまでも大切にするからね!
 神に感謝。また、会おう!! (*^O^*)
 
 7月下旬から8月初旬にかけての18日間の東京滞在。これは、私の本当の使命を果たすための第二の人生の起点となった期間であった。おそらく、年齢的に残された時間はそう長くないだろう。しかし、与えられた時を最後まで「福音宣教」に自己奉献しようと新たな選択をしたのだから、これから先どれほどのことができるかは未知数ではあるが、主が用意して下さった道を迷うことなく、ぶれることなく、そして逞しく歩んでいきたいと思う。
 
 2013年11月25日(月)     「上智大学神学講習会および夏期神学集中講座に参加して」
 2013年夏7月、念願の上智大学神学講座受講のため、23日雇用保険の審査終了後、午後の新幹線で上京。18日間に及ぶ東京長期滞在は、生まれて初めての経験。上智大学にほど近い三栄町にウィークリーマンションを借りたのは、東京暮らしに馴れていないのと満員電車が苦手な私への妻の心遣いであった。そんな訳もあって、不安と挑戦と期待の入り交じったちょっと複雑な思いで臨んだ神学講座の受講であった。
 東京駅に着き、何とか四ツ谷駅に無事到着と思いきや、急な雷雨…。(>.<)そう、ゲリラ豪雨ってヤツに見舞われ、傘を差していたにもかかわらず、ウィークリーマンションに到着したときには、びしょ濡れのぐしょぐしょ状態。鞄やスーツケースの中まで水浸し。おかげで、買ったばかりのまだ読んでいない本がグニョグニョに…。(T^T)
 部屋は、キッチン、バストイレ付き、6畳一間にベッドと机、収納ラックにクローゼットそしてテレビにネット回線が備わったこぢんまりしたものだったが、クーラーもついていて快適至極、贅沢な環境であった。とりあえず、雨でびしょ濡れになった荷物を渇かし、シャワーを浴びて一段落。ともあれ、無事宿泊先に到着して、青森から送った荷物も着いて…、そんなこんなで始まった東京滞在であった。
 翌日から始まった神学講習会。期間は5日間。今年のテーマは、「信−現代における〈いのち〉の泉」コーディネーターの宮本教授から「不信:ニヒリズムの時代」というテーマで、ニヒリズムをもとに現代の不信を今年のテーマである「信−現代における〈いのち〉の泉」に対して逆説的な問いかけがなされた。
 教理学特別講座は、以下のテーマと講師の先生方で実施された。
 
 7月24日(水)
1.不信:ニヒリズムの時代             宮本久雄(上智大学教)
2.シモーヌ・ヴェイユと信             鈴木順子(明治学院大学非常勤講師)
3.信仰の光と闇−十字架の聖ヨハネに学ぶ信仰  片山はるひ(上智大学教授)
 
 7月25日(木)
4.「落ち着いて、主の救いを見なさい」       佐久間勤(上智大学教授)
5.新約聖書における信仰              川中仁(上智大学教授)
6.現代における普遍的「カトリックな」信仰     晴佐久昌英(東京教区司祭)
 
 7月26日(金)
7.信仰と理性−近世以降の神学の流れの中で     岩島忠雄(上智大学教授)
8.lex orandi,lex credendi−典礼と信仰体験の関係 具正謨
9.地下水の思想−押田成人における信        石井智恵美(立教大学非常勤講師)
 
 7月27日(土)
10.ブッダと親鸞に見る信といやし          山貞美(上智大学教授)
11.現代宗教哲学における信と命 ホアン・アイダル(上智大学准教授)
12.ヒンドゥー教における信仰の観念 シリル・ヴェリヤト(上智大学教授)
 
 7月28日(日)
13.イスラームにおける信仰と礼儀と共同体 赤堀雅幸(上智大学教授)
14.シンポジウム パネリスト 宮本久雄、赤堀雅幸、ホアン・アイダル、片山はるひ
 
 土日の休日を返上し行われたか夏期神学講習会に引き続き、翌週の月曜日から夏期神学集中講座が始まった。研修会の内容は、以下のとおり。
 
 7月29日(月)〜8月2日(金)
 第1講義 典礼音楽史(宗教史) E.ヘンゼラー(上智大学)
第2講義 ヨハネの神学(宗教学) 三浦 望(聖心女子大学)
 第3講義 宗教科教育法13-1 雨宮 慧(東京教区司祭)
 
 8月3日(土)〜8月8日(木)
 第1講義 旧約聖書入門 久保 文彦(上智大学)
 第2講義 諸宗教の神学 山 貞美(上智大学)
 第3講義 美と哲学   阿部 仲麻呂(上智大学)
 
 夏期神学集中講座は、その名の通り集中し凝縮された日程と内容。朝9:15〜夕方18:30までのちょっとハードな日程ではあったが、十分手応えのある講義ばかりであり、神学講習会とは違い、全くの講義である。そして、生まれて初めて神学に触れたと思わせるものでもあった。
 いずれも内容的に深いものであったが、特に「宗教科教育法」を担当された雨宮神父の旧約聖書における原初史の解釈の講義は、深いものがあったように思う。そして、旧約聖書原初史に神の福音は既に語られていたという気づきをもらった。また、今になって「人間は何故生まれ、何のために生きているのか?」という永遠の問いの答えを以前にも増して深めることができた。感謝である。
 前期第2講義の「ヨハネの神学」を担当されたシスター三浦の内容も、ヨハネ福音書を文学的に解釈するというもので、これも私にとっては初めての出会いであった。文学が苦手で懐疑的な私には、はじめは文学的解釈というところに戸惑いとやや抵抗感があったものの、二日目ぐらいからはその講義に引き込まれた。つまり、ヨハネという記者や弟子たちの立場でイエス・キリストの行いと言葉そして福音を解釈できたからである。つまり、それまでの私は自分を中心に読んでしまっていたからである。それを、福音記者であるヨハネの立場で読むことにより、何故そのように記したのかという真意に迫ることができたのである。雨宮神父が講義で語っていたが、聖書は自分なりに読んではいけない。聖書に書かれてあることを正しく読み取らなければならないと。そしてそのためには旧約聖書を基本に語彙の意味を正しく理解し読まなければならないことを強調していた。既知のことではあったが、実際に語彙の意味を突き止めて読んでいくと新しい気づきが多くあった。目から鱗である。
 後期の第2講義を担当された山神父の講義の「諸宗教の神学」では、本当にいろいろ考えさせられた。遠藤周作の小説「深い河」とマザーテレサのコルカタでの活動のDVDを見ながら、他宗教の受け止め方とその理解、そして自己の信仰を極めるためには、どのような態度が必要なのかを考えさせられ、また学んだ。また、講義の際の教える姿勢の謙虚さについても学ばされた。感謝である。
 後期第3講義のサレジオ会阿部神父の「美と哲学」についても、目から鱗であった。それは、「美」の観念が基本的に日本人と西欧とはもともと違うと言うことである。ギリシア哲学に始まる西欧の「美」は、秩序であり正義であり善であるのだ。高校公民科で自ら教えていながら、ポイントを外していたことに気付かされた。やはり、教師はいつまでも学ばねばならないものだとつくづく思う。阿部神父の講義は、ことのほか面白く和む。それは、哲学者たちの似顔絵を描くのが上手いからで、絵が好きな私にとっては、実に親近感が湧いた。授業の鉄則だが、生徒にいかに興味関心を持ってもらい自ら学ぶ姿勢を引き出すか!教科指導の原点、そして永遠の課題である。彼は、それを見事に実践していた。だから、いちばん遅い時間帯にもかかわらず、楽しく受講できた。全日程、無遅刻無欠席無早退。神に感謝。
 15日間の全日程を無事終え帰省し、その後宗教科免許取得に伴う各講義の単位認定のためのレポート作成。これが思ったより大変な作業ではあったものの、これもまた大きな学びとなった。学習したことをフィードバックすることにより、知識の整理と確認、そして講義の現場では気付かなかった新たな発見と課題を得ることとなった。
 レポート提出の結果全科目とも合格、宗教科教育法と神学講習会の教理学の二科目がB判定で、残りの科目はすべてA判定であった。B判定は不本意であったが、自分なりにその理由は考えたので、来年度からの参考にしたい。
 
 2013年5月11日(土)     「カトリック学校宣言出版祝い」
 2013年5月5日(日)、仙台にて自著「カトリック学校宣言」の出版祝いを、河合神父様をはじめ土倉先生らのお心遣いによって催していただいた。河合神父様は、わざわざ横浜よりおいでいただき、また仙台白百合の阿部先生、山田先生、そして会津の吉田先生らも駆けつけて下さり、感謝の念に堪えない思いで一杯である。
 
 私は、久しぶりに同じ教師という立場の方々から暖かく受け入れてもらったような思いを体験した。それは多分、前任校でいつも何かと戦っていた、しかも孤軍奮闘、教師集団の中においてはいつも孤独と閉塞感と焦燥感に駆られていたからかも知れない。
 
 しかし、私は決して他者と上手くやっていけない人間だとは思っていないし、自分で言うのも何だが多くの生徒は慕ってくれていた。ただ、自分も含め、教師という立場の人間には先輩・後輩を問わず厳しくあたってきた。それは、教師に完全さを求めるということではなく、謙虚さを求めるという観点においてである。だから、生徒に対して厳しい指導や正論を吐きながら、自身や同僚に対していい加減な教師は教師としては相応しくないと考えていた。特に、自身のどんな過ちをも生徒に謝ることのできない謙虚さに欠ける教師は教師としてのみならず人間として問題であると考えている。そう、幼い頃から家庭教育や幼児教育機関で躾けられてきたはずの「ありがとう」と「ごめんなさい」の言えない人間は、まずは教師という資質に欠ける人間である。そして、生徒をはじめ、年上年下を問わず、同僚の教職員に「ごめんなさい」言えない教師が、実に多い。主イエスのみ言葉「あなた方は教師と呼ばれてはならない。」の自覚が不足または欠如しているのである。
 
 そのような職場環境で30年教員をやってきたのだから、短腹な私にしてみればよく続いたものだと自分ながら感心している。人は年齢を重ねていくうちに情熱が薄れ、変化や改革よりも現状維持に固執したり煩わしさを極端に敬遠するようになる。しかし、私はそのような環境では生きていけないし、ましてやComplianceに反するカトリックの教育機関で教師はできない。だからこそ、この「カトリック学校宣言」を著したし、退職もした。私にとっての行動規範の大切な基準の一つに、常に正しさが判断基準としてある。いわば、「カトリック学校宣言」という著書は、カトリック学校としての学校運営規範であると言ってもよいものである。
 
 そのような著書の出版祝いをこの度催していただいたのだから、これ以上の幸せはない。感謝以外の言葉で言い表すことができない有り難さと喜びで一杯である。
 
 河合神父様に、よくれだけ広範囲に渡って、しかもあの分量のものを書いたね、感心するよ!とお褒め?の言葉をいただいた。確かにこの1年は、何かに取り憑かれていたかのように、時間がありさえすれば書き続けた。幸いと言おうか私は文章の上手い下手は別として、文章を書くことに煩わしさを覚えない。そして、私は文章を書くに当たって、下書きを必要とせず、大体は徒歩での通勤と帰宅の時間を主に使い、頭の中で文章を組み立て、それを一気にはき出すようにパソコンに向かって書き出す。という手法をとるのが私のやり方である。床に就いてからも構想を練り眠れなくなった時は、その文章を紙に書き留めておいて、次の日の朝の通勤時にまた考える、といった具合である。
 
 今、全国のキリスト教関係書店やWebショップで販売されているが、河合神父様がおっしゃって下さったように、とにもかくにも日本のカトリック学校関係者の方々に一石を投じることができた。賛否両論、喧々諤々とにかく最低限、話題提供、議論の口火、改革の種火となりさえすれば、それでよし。無論これからのカトリック学校の一つの指針となれば、これに越したことはないが、まずは皆で話し合い一つの方向性を見出していくための道具として使ってもらえれば十分である。
 
 出版祝いをしていただいたおかげで、「カトリック学校宣言」が、これから主の小道を歩んでいくような気がしている。何よりも、私を支えて下さるカトリック学校の教師の方々がいてくれるということに、この上もない安心感と希望をいただいた。皆様にお祝いしていただき、誠にありがとうございました。そして、これからもよろしくお願い申し上げます。
 
 主なる神さまからの聖霊が、皆様のもとに送られますよう、お祈り申し上げますとともに、信仰と希望と愛を下さった神さまに感謝いたします。
 アーメン。  
 
 2013年5月8日(水)     東日本大震災被災地をめぐって
 長い間、被災地から目を背けていた。関心は十分あったし、NHKの東日本大震災関連の番組はすべて見たと言っていい。しかし、2年間もの間、被災地には一度も足を運ぶことはなかった。震災後すぐに何かをしに行かなければとの心の声があったにもかかわらず、悲惨な現実を見るのが怖かったのだ。現に、今回の被災地巡りにも全くの躊躇がなかったわけではなかったし、被災地の惨状を直視する自信もなかった。しかし、このまま自分の心の奥底の声を無視して、一度も被災地を見ることなく一生を終えたとしたら後悔することは明白である。3月に退職して、雇用保険の手続き等退職に関わる事務手続きも終わり一段落したところで、被災地に足を運ぶことを決意した。とにかく行ってみようと…。
 
 5月2日、八戸聖ウルスラ学院の中村先生にお目にかかった後、被災地への旅が始まった。八戸からR45を走り北三陸を南下。初日は、小本付近を見ることになった。津波に家々のほとんどが流され、更地状態。あちこちにうずたかく積み上げられた瓦礫の山々が見られた。津波の被害は、標高差がそのまま被害の分かれ目となっていた。被災地近くの小高い平地は仮設住宅で埋め尽くされ、その多さが未だ復興はこれからまだまだ先との印象を強く感じた。
 
 初日の宿泊先は、宮古近く田老町のグリーンピア三陸みやこというホテルであったが、そこの敷地内も仮設住宅街が所狭しと立ち並び、ホテル内にはカラオケルームであった所をホテル側が提供し、立派な診療所と薬局そして売店がつくられていた。被災者の救援のため地域が皆一致協力しているのである。
 
 二日目は、田老町から宮古市、津軽石、山田町、大槌町、釜石、大船渡、陸前高田、気仙沼、南三
陸町と見た。津波被害の痕跡が今も生々しく、家々の土台のみを残して更地化した平坦な光景は、当時の津波被害の壮絶な状況を語りかけてくるようだった。
 
 大船渡で「カトリック学校宣言」の出版でお世話になったイー・ピックス出版の熊谷社長にお目にかかった。震災当時の状況を被災地の写真集を見ながら、説明していただいた。また、大船渡の人たちの震災の受け止め方などを伺うことができて、本当に良かった。なぜならば、大船渡の人たちの震災の受け止め方は、意外にも悲観的なものではなく、津波の歴史を繰り返していることから、現実を明らかに受け止め、また一から頑張るしかないんだという強く逞しいものであった。大船渡の年輩の方々は、三度の津波を経験されているそうだ。私たち人間は、神さまの御摂理のなかでしか生きていけないのだから、それを大船渡の人々はしっかりと受け入れているのである。熊谷さんのお話を伺うことができて本当に良かっ
たと思っている。そしてその後から、私の被災地の受け止め方は、明らかに変わり自身の心にも何かしらの変化が起きた。それは、「今もって変わらぬ被災地の惨状をありのままに受け入れる腹が決まった。」とでも言おうか、被災地に対する怖さが薄れていくのを感じたのだ。
 
 この日は、南三陸町神割崎のキャンプ場に宿泊。連休でどこも宿泊所が一杯で予約が取れず、オートキャンプ場の予約を取ったというわけである。この日の夜は、満点の星空。学生時分に北アルプスの情念岳で見た星空にも匹敵するような、正に星降る夜空であった。この連休は全国的に寒波のため気温が低く、空気が澄んでいたのも幸いしたのだろう。しかし、後から小松神父から聞いたのだが、神割崎の星空の美しさは有名なのだそうだ。
 
 三日目は、南三陸の神割崎キャンプ場を、朝6時に出発。前日、震災以来各局の報道で有名になった被災地の象徴とも言える陸前高田の「奇跡の一本松」や南三陸町の「防災センター」の見学者があまりにも多く観光地化していたので、きっと石巻の「大川小学校」もそうかもしれないと思い、そこはどうしても大勢の人の中では見る気にはなれなかったので、朝食もそこそこに済ませ、早々と出発。
 
 私も教師という仕事をしていたからだろう(いや、自分は未だに教師という意識でいるのだが…。)?大川小学校の悲劇は、人事ではなかったわけで、どうしても足を運んで犠牲者のために祈りを捧げたい場所であった。
 
 石巻大川小学校、ここは教師であった私にはやはり特別であった。泣かずにはいらればかった。学校の裏山にもっと多くの児童を避難させられなかったのか?という批判めいた話もあったが、私はその裏山の状況を見て思わず、「そんなの無理だったよなっ!」って犠牲になった子どもたちに語りかけるように口にした。途端に涙が目に溢れてきて泣かずにはいられなかった。裏山の斜面は急勾配で、上って避難できるような所ではなかった。そして、自分もここの教師をしていたら、大勢の子どもたちを裏山に避難させようとの判断は出てこなかっただろうと思う。居たたまれない気持ちになった。でも、ここで犠牲になった子どもたちは、きっと神様のみ腕に抱かれ、安らかに憩っていることだろう。
 
 立地条件も悪すぎた。北上川という大河川の河口近く、しかも自然堤防下の後背湿地(氾濫原)に位置しているので、当然のことながら被害も大きいわけでる。あんなにも頑健に造られていた鉄筋コンクリートの校舎が、いとも簡単に破壊され、いくつもの鉄筋入りの柱がへし折られているのだから…。
 
 その後、一旦元寺小路教会によりエメ神父様に挨拶をした後、仙台港から若林地区、そして名取川周辺を見て来た。海岸線沿いに広がる津波に洗われた仙台平野が、なおさら広く感じられたが、やはりここでも土台だけを残して流された建物が多く、学校の三階付近まで津波が押し寄せているのが見て取れ、当時の津波の勢いのすさまじさを感じずにはいられなかった。しかし、連休とあってサーフィンを楽しもうと被災した海岸に集まる若者立ちの一団がいて、被災地の中でレジャーを楽しむそのコントラストに違和感を感じながらも、これもまた復興が進んでいる姿の一光景なのだと思った。
 
 今回の被災地巡りの旅の目的は、あれから2年間という時が過ぎたにもかかわらず、一度も訪れることなく、ボランティアどころか被災地の悲惨な現実に恐れをなし、目を背けていた自分がいたことへの反省から、まずは現在の被災地の只中に自分自身を置いてみることであった。
 
 5月2日、青森を発ち八戸からR45沿いに北三陸から南三陸そして仙台と名取りまで4日間かけて南下し、被災地を見ることが中心であった。しかし、6日の日は、塩竃教会や仙台市内の信徒の方々、そして鎌倉の雪の下教会の信徒のボランティアの方々と共に塩竃の仮設住宅地区で「お味噌づくり」のボランティア活動に参加することができた。
 
 今回の旅で一番感じたことは、今までの私は被災地の一面しか見ていなかったということに気づかされたということである。もっと端的に言えば、実際の被災地に足を運び見もせずに、あるいはそこに暮らす人たちとふれ合いもせずに、身勝手にも単に想像の域を脱しない考えに凝り固まっていたということである。それが実際の被災地に自分の身を置き、そこに暮らす人たちの話を聞いたり、悲しみを乗り越えようと生きている方々と触れ合うことで、被災地を悲観的にしか受け止めていなかった自分を恥ずかしくおもった。そこには、悲惨な現実を受け止めながらも、力強くも逞しく、そして明るく前へ前へと生きようとする人々がいたからである。
 
 今回の被災地への旅で、それに気づかせてくれた大船渡イー・ピックス出版の熊谷社長、そして塩竃教会の渡邊さんをはじめ、お味噌づくりを共にしたボランティアの皆さんと塩竃の仮設住宅で暮らす被災者の皆様に心より感謝申し上げる次第である。
 
 私は今回、被災地をめぐることで、ある意味での神さまとの出会いがあったと言おうか、自分の中で変容が起こったことは確かである。これからも東日本大震災からの復興は続く。仙台教区の一信徒として、そして被災地を実際にこの目で見た者として、神さまは確実に私に問いかけている。「あなたにできることを、あなたはやりなさいと…。」
 
 これから被災地との関わりを深めていこうと考えている。
 
 
 2013年4月9日(火)     「カトリック学校宣言」の出版に寄せて
 「カトリック学校宣言」 カトリック学校がカトリック学校であり続けるための学校マネジメント −福音共同体をめざすカトリック学校の完成のために− をイー・ピック主出版より2013年3月31日出版。奇しくもこの日は、私が30年間勤務した学校法人 明の星学園 青森明の星中学・高等学校を退職した日であり、復活祭の日でもあった。
 
 実は、原稿が上がり最終校が終わった段階の3月中旬ごろまでは、退職するつもりはなかったので、裏表紙裏の著者紹介のところには、前任校が現職と記載されている。それもそのはず、私が辞職願を提出したのは、年度末の3月21日であったからだ。私が辞職した理由と「カトリック学校宣言」出版の動機や目的は、深い関わりを持っている。それは、本校のみならず、地方の多くのカトリック学校が超少子化現象の中、生徒募集に喘ぎながら苦しい学校経営を余儀なくされていることによって、カトリック学校の根幹である教育理念やカトリック信仰が歪められていっているという危惧感と、このままではカトリック学校自体がカトリック学校としての存在意義を示すことができなくなり、やがてはカトリック学校として存続できなくなるとの危機感からである。
 
 そもそもカトリック学校はミッションスクールといいながらも、どれほどそのミッションを果たしているのだろうか?という疑問はずっと持ち続けてきたと同時に、そのミッションそのものが何であるかとの愚問とも思える問いを長い期間、自問自答してきた。何故ならば、それはカトリック学校という職場に奉職しながら、キリスト教的教育理念による教育活動が実施されていないことが多すぎはしないかという理想と現実の乖離からくるものであった。しかし、それは単なる二元論的な問題によるものではなく、カトリック学校の使命および教育理念が明確であるにもかかわらず、そこに奉職する私たち教職員がそれらを正しく理解していないことと、共有しないままに教育活動が実践されてしまっているという明らかな理由があったからである。
 
 本来、この書は私の教師生活の総括や集大成として、定年を機に出版できればと考えて少しずつ原稿をしたためていたものである。それが、事情が一変したのは、今から3年前、既に創立母体の修道会から校長としてシスターが派遣されなくなって5年が経ち、その5年間は関東地区にあるカトリック学校の校長を経験されてきた非信者の方が勤めておられたが、それでも疑問に思う学校運営が多々あったのを記憶している。その後、この3年間は県立高校の校長を退職してきた非信者の方が校長を務めてからは、その現象があまりにも顕著になり、キリスト教自体についての見識があまりないとともに、キリスト教理念や使命が何であるのか以前にキリスト教理解が未熟なため、学校行事における宗教行事や学校運営そのものにもそれらの影響が広がりカトリック学校の教育とは認めがたい状況が広範囲に渡っていったということである。勿論であるが、著書のあとがきにも記したとおり、私はこのような非信者の方々のカトリック学校に対するご尽力に敬意を示すと共に感謝申し上げる。しかし、キリスト教の知識や信仰に対する理解およびキリスト教的教育理念とその使命に対する知識や理解がないままに、カトリック学校の教職員として採用されてしまうところに、現代のカトリック学校の悲劇の根源があるのではないだろうか。これは、おそらく十中八九間違いないと言っていいだろう。
 
 そのような、カトリック学校の崩壊をも招きかねない現実を目の当たりにして、これは出版を早めなければ、しかも急務であると考えるようになり、それまでは1カ月に1項目のペースで書いていたものを、2012年4月からは時間があれば著作活動にあて精力的に原稿を書いていったのだ。特に2012年の7月以降は夜更けまで書くことが多くなり、通勤・帰宅の時間もその構想で頭の中は一杯であったのをはっきり覚えている。今から、考えれば異常なほどの執念と執着、頭の中は常に原稿の文字が行き交い、前日書いた原稿の校正が意識の中をめぐり巡っていた。それは、とりもなおさず前任校をカトリック学校の本来的在り方に取り戻し、その使命と建学の精神を守り突き通したいとの思いと、それが叶わないのなら、せめてこのようなカトリック学校をこれ以上増やしててはならないとの思いから、全くもって愚問でありながらも、カトリック学校としては決してぶれてはならない「教育活動をとおした福音宣教」という使命(ミッション)を再認識し、それらの実現のために自身が考えられる教育活動のあらゆる部面について、カトリック学校がカトリック学校であり続けるための学校マネジメントというものを、30年の教員経験を元に学問的ではなくあくまでも実学的により具体的に著したのである。それは目次を見ていただいただけでもご理解いただけると思う。ただ、私は中高等学校の教諭であるから、本書はカトリック学校の使命や教育理念に関するところを除けば、どうしても中等教育に傾倒しており、カトリック学校全般を網羅しているわけではないことは、本書のあとがきにも書かせてもらっている。このような具体的なカトリック学校の教育活動に言及する幼児教育・初等教育そして高等教育についての書が出版されることを期待したい。
 
 本書は、出版社の方々のアドバイスを得ながらも、基本的には原稿は勿論のこと、表紙や表紙カバーそして帯のデザインまでも自身で手がけた。それは、この書の基となった自身のホームページである「ΙΧΘΥΣ Εκκλησια(イクスース・エクレシア)」が下地になっているため、そのホームページのデザインを基にしたかったとの強い意向と願いそして、カトリック学校は教会から派遣された学校であることから、キリストの体がブドウの木にたとえられるように、カトリック学校もそのブドウの木の一枝との意味を表現したく、表紙カバーのデザインは自身のホームページのTop画面のイメージで、そして表紙はブドウの木の一枝といことから葡萄色の紙を使ったのである。さらに、帯はなるべくカトリック学校の将来を明るく表現したかったので、濃いピンク色を使い明るくはつらつとした元気な姿を表現した。
 
 出版に当たり、イー・ピックス出版の熊谷社長には本当に何から何かでお世話になった。私自身も大変苦労したが、校正には熊谷社長をはじめスタッフの皆さんはご苦労なさったことだろう。何故ならば、私の文章は、一文一文が長いのが特徴で、悪文が多いからである。たぶん、頭の中が言いたいことに溢れていて、それを上手くまとめきれないので、長々と書き綴ってしまうのだろうと思う。
  
 しかし、何はともあれ、「カトリック学校宣言」は大きな産声をあげてこの世に誕生した。どのような評価を受けようが、ともかく日本のカトリック教育の現状に一石を投じることができたのである。一先ずは私の使命を一つ果たしたのだ。神さまとの約束を一つ果たせたと思っている。次は、書いただけじゃ意味がないから、後はなるべくたくさんの人たちに読んでもらえるよう活動することである。
 
 教育問題は、学習者とその保護者そして学校教育関係者だけの問題ではない。勿論、カトリック信徒であろうがなかろうが、カトリック学校の問題も同様である。確かに本書の内容は、カトリック学校教育関係者やそれを志す学生の方々に読んでもらいたいと考えてはいるが、カトリック学校にお子様を学ばせている保護者の方々やこれからカトリック学校に進学をさせようと考えている保護者の方々、そしてカトリック教育のみならず日本の教育問題に関心のある全ての方々に読んでいただきたいと切に願ってやまない。
 
 本書を読んでいただくことで、人間の教育とは何なのか、何のために必要なのか、そしてその本来的目的とは何か、という教育の根源的な本質に触れてもらうことを希望し、「カトリック学校宣言」の出版に寄せての締めくくりとしたい。
 
2013年4月9日(火)自宅にて
 

Last updated: 2013/11/28

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