「そればかりでなく、苦難さえ誇りにしています。苦難は忍耐を生み、忍耐は試練にみがかれた徳を生み、その徳は希望を生み出すことを知っています。この希望は、わたしたちを裏切ることはありません。わたしたちの賜った聖霊によって、神の愛がわたしたちの心の中であふれ出ているからです。」
(ローマ5:3〜5)

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「よい種をまく者は人の子、畑は世界、良い種はみ国の子ら、毒麦は悪者の子らである。毒麦をまいた敵は悪魔、刈り入れは世の終わり、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が抜き集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそうされるであろう。人の子は天使たちを遣わして、つまづきとなるすべてのものと、悪を行う者を、み国から抜き集め、燃えさかるかまどの投げ入れるであろう。そこには、嘆きと歯ぎしりがある。その時、正しい人は父の国において太陽のように輝くであろう。聞く耳のある者は聞きなさい。
(マタイ13:37〜43)
Message for my sister and brother.
 
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 2010年1月24日(日)     2010年の新しい年は
 2010年の新しい年を迎えて、今年は何を目標にしようかと考えるが、なかなか考えがまとまらない。昨年は、「混迷の年」と名付けて自分の行く先を暗中模索する年にした。では、今年はどうかというと「もう、何かを見定めなければならない。」とも考えるのだが、その「何を見定めるのか」という決心がつかないでいるのだ。
 ただ、はっきりと言えることは、実生活において経済的に楽ではないということだ。子供が大きくなり教育費がかさむようになった。来年は長男に加え次男も大学に行く予定である。そうなれば学費だけでも相当額のものである。と言って泣き言を漏らしているわけではない。ここに厳然たる事実が目前に立ち塞がっているということが明確であるということだ。と言うことは、とりあえず見定めることができることが一つある。「まずは父親として、子供たちの自立のために働く」ということである。
 日常の何気ない光景から、人生を学ぶことがある。私が学ぶ一つの光景に、庭先に飛んでくる小鳥たちの姿がある。小鳥たちは毎日の食べ物を得るために木立の合間を必死に飛び回る。特に冬のこの季節になると、食料を見つけるにはそう容易くはない。しかし、自分たちが生きるために、あるいは巣で待つヒナたちのために必死にその日の糧を求めて空を飛ぶ。吹きすさぶ雪にも負けず、小枝に残った木の実を啄み春の子育ての季節に備え、命を蓄える。健気で、逞しい。一抹の疑問も挟むことなく生きるその姿は、実に素晴らしい。「私は、学ぶ、人間も同じだと。生きるためにせっせと働くがいい、子を育てるために必死になり、働くがいい。そして、人もその役割を果たして古くなり、死んでいく。それでいい、それがいい。」と…。
 2010年、「何が起こるか分からない年」とでもしておこうか。その時に備えて、どんな覚悟も厭わぬようにしておこう。空の鳥が自由に羽ばたいているように見えながらも、その目的をしっかりと見定めて飛んでいるように、そして自分の使命を果たすために、どんな覚悟をも引き受けて逞しく空を舞うあの鳥のように、私も生きていきたい。
 
2010年1月24日(日)年間第3主日の日に
 2009年11月14日(土)     東北地区カトリック学校教育研修会に参加して

 第24回東北地区カトリック学校教育研修会は、杜の都仙台市にある仙台白百合学園中学・高等学校を会場に、「生徒につなぐカトリックの魂」のテーマのもと2009年11月6日(金)〜7日(土)に開かれました。
 
 これで、今年二度目の来仙となりましたが、前回のカトリック教育学会は9月の上旬とあって、まだ夏の暑さの名残がある時期、そして今回は11月の上旬で、仙台の街並みは丁度紅葉が美しく秋色の艶やかな晩秋の頃で、しかも期間中は好天にも恵まれ、雲一つ無い秋晴れのすがすがしい空のもと、気持ちよく過ごすことができました。
 
 さて、研修会の方は近代的ながらも荘厳さと落ち着きのあるロザリオのマリア聖堂にて開会式が執り行われ、仙台白百合中学校の生徒による弦楽合奏の演奏で歓迎を受け始まりました。この弦楽合奏には圧巻させられました。中学生とは思えないほどの技術と表現力を持っていて、「さすがは白百合」といわせるほどの説得力と自校の高等学校の音楽科のものとの格差に、多少の惜敗感のようなものを感じたのも正直な感想でした。まっ、それはそれとして、中学生たちの合奏のお御堂に響く音色は、青森を早朝に発って、いくつかの交通機関を乗り継いできた私の疲れを完全に癒し、これから始まる二日間の研修会に落ち着いた心持ちで参加さする心構えを与えてくれたのでした。
 
 本題の研修会の内容の方ですが、まずは公開授業です。私は中学生の宗教の授業を参観したのですが、まず教室に入り生徒たちを観察するにつけ、その授業対象が1年生であったことにも驚かされたのでした。それは、生徒の雰囲気から私が受けた印象では2年生か3年生ではないかと思ったからです。授業内容も教えるのにはなかなか難しい、「神の国に招かれているものの生き方」という単元で、「神の国とは何か、福音とは何か?」を主題とするものでした。しかし、授業状況を見て、考えようによっては理解することに、いらぬ詮索をしない中学一年生というまだ素直で柔軟性のある時期に教えるのがいいのかも知れない、という感想を持ちました。そして、ここ数年は宗教の授業を担当していない私ですが、本校に奉職して以来20年以上教えていた聖書の授業を、また担当してみたいという気持ちにさせられたのでした。
 
 基調講演で高松司教区長の溝辺司教様がお話になった、『「生徒につなぐカトリック教育」〜キリシタン時代より始まるカトリック教育の理念が、現代のカトリック教育にどのように伝えられているかを考察する。さらに日本国家が目指した理念と比較しつつカトリック学校の特異性を指摘したい〜』は、今まで溝辺司教様のご講演を拝聴したり、研修会に参加する機会は何度もあったのですが、講演の一貫した本旨である「教養主義に立った宗教教育の実践」ということには、初めて疑問点を多く残すものであったというのが率直な感想で、そのことが邪魔をして司教様のお話の内容がうまく思考回路に馴染んでこなかったのでした。それは、特にイエス様が宣教活動をなされた時、人々に教養としてお与えにはならなかっただろうし、もしイエス様が福音を教養としてお与えになったのであればたった三年で死ぬこともなかったであろうと考えるからです。しかし、私もこの度の溝辺司教様の講演を機会に、現代のカトリック学校教育活動の中における宗教教育という観点で、また、平成25年より施行される新指導要領公民科においての宗教教育の充実が唱われるなかで、カトリック学校における福音宣教とはどうあるべきかを考えていこうと思っています。
 
 二日目の分科会は、第5分科会の生徒募集対策部会に参加しました。何処の学校も少子化の波のあおりを受け、生徒募集に必死です。しかし、多くのカトリック学校は、同じ悩みとジレンマを共有しているのではないでしょうか。それは、カトリック学校の本来の使命である宣教司牧ということと、日本社会が学校に求める進路実績や部活動などによる褒賞です。確かにどちらも学習指導や生徒指導そして特別活動の教育活動による結果得られるものなのですが、それを旗印に学校の名を挙げ、生徒数を確保し学校経営を成り立たせるということには、カトリック学校の本来的使命からいって諸手を挙げて賛同するというわけには行かないのです。この点がカトリック学校の学校マネジメントの難しさなのかも知れません。それは、まさに現世的な御利益や幸福と、天に宝を積むというキリスト教的価値観との二律背反からくるものなのでしょう。
 
 しかし、分科会の最後のまとめとして助言者である会津若松ザベリオ学園中学・高等学校長の佐藤大先生のお話になったカトリック学校としての本来的使命を忘れてはならないとのお言葉に、私自身安堵を覚えたのでした。また、八戸ウルスラ学院高等学校の校長であられる中村敬子校長先生の「まず、何よりも生徒が学校で楽しく生き生きと過ごせることが大事です。」とのご意見も印象深いものとして残っています。いずれにせよ、カトリック学校としての生徒募集のあり方の確立は急務ではあるのですが、まだもう少しの時間が必要なのかも知れません。
 
 カトリック学校の研修会の最後を締めくくるのは、ミサです。ミサは、主の晩餐の再現であるとともに、神と人間との契約の更新、そして神の福音を携えて世に派遣される厳粛な宗教儀式です。そういう意味においても、研修会の最後をミサで終えることは、相応しいと思います。その上、ミサの司式は、研修期間中をとおして参加してくださった、仙台教区長の平賀徹夫司教・新潟教区長の菊地功司司教そして高松教区長の溝部脩司教という、三教区の司教様が一同に会してのミサ聖祭で、なかなか与ることの出来ない貴重なミサとなりました。
 
 閉会式が終わり、チャペルの出口でなんと仙台白百合学園オリジナル校地産出・醸造の梅酒がお土産として配られ、研修の開会式の中学生による合奏同様、驚かされ和まされたのでした。帰ってから早速賞味しましたが、まろやかな味わいで大変おいしいものでした。更に、仙台駅までの送迎バスに乗り発車する時には、仙台白百合の先生方全員がそろってのお見送り、その時の先生方々のすがすがしくも温かい笑顔が、とても印象的でした。今回の研修期間中をとおして、仙台白百合の先生方のきめ細やかな心遣いが随所に見られました。特に、大会初日の懇親会やステラマリスでの昼食メニュー、そしてこれも校地でなったブルーベリーを使ったジャムパンのおやつ等々、至れり尽くせりでした。もしかしたら、研修会の一番の成果は期間中をとおして同じカトリック学校に勤める教職員の皆様方と関わり、親交を深めることが出来たということではないでしょうか。 次回二年後の第25回は、本県八戸市にある八戸ウルスラ学院で開かれます。今から楽しみです。では、皆さん、本当にありがとうございました。そして、またお会いしましょう。
 
+在主平安 神に感謝
第24回東北地区カトリック学校教育研修会
2009年11月6(金)・7日(土) 於仙台白百合学園中学・高等学校
 
 2009年9月7日(月)     日本カトリック教育学会に参加して
+主の平安
 
 この度、私が仙台で行われた日本カトリック教育学会第33回大会シンポジウム発題者として招かれたのは、このHP「イクスース エクレシア」がきっかけで、それは今大会の準備委員長である仙台白百合大学の宮崎正美先生が、私がこのHPで論じているカトリック教育やカトリック学校における学校マネジメントの内容が、大会の趣旨(「カトリック教育における〈連携〉も可能性を探る」 −アイデンティティの再確認を求めて−)からみて必要であるとの推薦をいただき、それが準備委員会や学会理事会の方々に了承されたことによるものでした。
 
 私は、中学高等学校の教員でありますので、中等教育機関における教育研修会等での発表経験は、それなりにあっても、学会会員でもなければ、高等教育機関の方々が中心の学会での発表の経験は、一度もありませんでした。ですから、学術研究を本業とされる会員の方々の前で発表することは、当然のことながら気持ちが引けるところがあり、宮崎先生にも「本当に私でよろしいのですか?」と念を押したほどだったのです。しかし、宮崎先生から「是非お願いします。」とのことでしたし、先生と私は同郷で高校時代には、青森本町教会で肩を並べて聖書の勉強に勤しんだ仲でもありましたから、お引き受けすることにしたのです。
 
 私は、今回の学会シンポジストとしての参加を、一つの宣教旅行、つまり神様から与えられた使命と考えました。そう、聖パウロのような宣教旅行、もちろん比較の対象外ではあるのですが、しかし聖パウロと私には、共通点が一つだけあるのです。それは「とげ」です。聖パウロが、神に向かって三度も取り除いてくれるよう願った「とげ」が何であったのかという議論(一説には「極度の弱視?」ともいわれている。)もあるようですが、あの「とげ」です。実は、私にも神様に取り除いて下さいと願い続けていた「とげ」があるのです。わたしのそれは、理想や確実性を強く望むが故の「不安」、また現実社会における偽善と真理との乖離から生じる「憂鬱」、そして自己の生命や存在、社会的立場を守ろうとする「保身」などというもので、一言で言えば「臆病」というものでしょうか。ですから、何かを行動に移す際には、それらを振り払うための人一倍の勇気と覚悟を、必要とするのです。よって、この度の学会シンポジストとしての参加にも、それ相応の勇気と覚悟を必要としました。それで、臆病なこの私を決意させた理由が、聖パウロのような神様から与えられた使命としての宣教旅行ということだったのです。
 
 神は、聖パウロの「とげ」を取り除くことはなく、次のように語られました。「お前はわたしの恵で十分だ。弱さにおいてこそ、力は余すところなく発揮されるのだ」と。そして、パウロはこう悟るのでした。「ですから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んでわたしは自分の弱さを誇ることにします。…中略…わたしは、弱っているときこそ、強いからです。」と。(Uコリント12:7〜10) それで、私も自分の「とげ」をそのように受け止め、この「とげ」があるからこそ、私は神の名を呼び求め信仰し、主イエスに倣う者として、謙虚な者でいようと努力することができるのだ、と悟るのです。
 
 ですから、この度の学会シンポジストとしての参加を、宣教旅行と位置づけ、そのために交通手段も体力的にも精神的にも負担の大きい車をわざわざ選び、車中で自分の「とげ」と向き合い黙想しながら行こうと決め込んだ訳なのです。それにもう一つは、長男が仙台の大学に学んで一人暮らしをしているため、長男の暮らしている部屋に泊めてもらい、親子水入らずの語り合いもしたいと考えていたので、会場への移動を考えるとその方が都合が良かったからなのです。
 
 そんな決意のもと始まった今回の宣教旅行は、無事その役目を果たし、成し遂げられました。そして、終わってみれば、苦労そのものよりもその報いとして、たくさんの新しい出会いをいただけたことです。今まで、私の知らない世界と人に出会えたということです。これからこの出会いがどのような形で広がりを見せるのかが、次の私の使命となると考えています。
 
 末尾になりましたが、この度の学会シンポジストとして発題の機会を与えて下さった本大会委員長の牛渡淳先生と準備委員長の宮崎正美先生そして学会理事の先生方に深く感謝申し上げる次第です。学会でお会いできた方々とも、いつかまたお会いできることを願っております。
 
 神に感謝。
 
2009年9月7日 結婚記念日 
 2009年8月15日(土)     三男の息子とともに
 私がS氏と行った、6月の八甲田登山を羨ましがった三男が、どうしても自分も登りたいとせがむので、今年二度目の八甲田登山となった。ルートは、八甲田ロープウェイ山頂駅(田茂萢岳1,326m)から赤倉岳(1,521m)、井戸岳(1,537m)を経て大岳(1,584m)を登り、毛無岱をとおって再び田茂萢岳頂上駅までを縦走するというものであった。小学校5年生でしかも初めての山行としては、多少ハードではないかと感じていたが、弱音を吐いたら大岳への登頂はあきらめて下山しようと考えていた。
 
 田茂萢岳から赤倉岳を経て井戸岳、そして大岳鞍部の避難小屋までは、きわめて順調であった。避難小屋前の休憩所で昼食をとり、英気を養って気持ちも新たに大岳山頂を目指したときであった。息子は、凄んで今までにない速いペースで私を追い越して登っていった。しかし、それが災いを招いた。大岳山頂から下山の際に、息子の足は登りのハイペースがたたって疲労していて、足取りがふらつき始めていたのである。そして下山途中で息子は足を登山道の踏み木に引っかけ転倒してしまったのである。あわや大事故となるかも知れないところであったが、幸い息子は登山道脇のクマザサの茂みに倒れ込んだので、かなり痛がり泣いたものの、太股の軽い打撲で済んだのである。 
 
 何とか無事大岳を下山し、毛無岱から赤倉岳と田茂萢岳の鞍部に向かうルートが、最悪の強行軍となってしまった。息子ばかりか、私の体力も限界に近づいていたのである。何と息子は、「レスキュー隊を呼んで!」とまで弱音を吐く始末である。「弱音を吐くんじゃない!」と息子を何度も勇気づけるも、私も息子に「お父さんも、もうこれ以上だめかも知れない。」と言ってみたところ、何と意外な答えが返ってきたのだ。「大丈夫、父さんが歩けなくなったら僕が負ぶって連れて行くよ!」感動の一言であった。そして、私も励まされ、どんなことをしてでもこの息子を、安全に田茂萢岳山頂駅まで連れて行かねばとの決意を新たにしたのである。
 
 悪戦苦闘の末、そんなこんなでようやく赤倉岳と田茂萢岳の鞍部にある登山道の分岐点に着くと、気持ちも体も不安と疲労から解放され、足取りも軽くなって、今回の山行計画の達成感と充実感に満たされながら、山頂駅に向かったのである。その時、私たち親子二人の背後からは、赤倉岳・井戸岳・大岳の八甲田三峰が雄々しくそびえ立ち、この日の山行を無事終了を祝福してくれているかのようであった。
 
登山ルート
 田茂萢岳山頂駅→赤倉岳→井戸岳→大岳→毛無岱→田茂萢岳山頂駅
所要時間 6時間(9時〜15時)
山行日 2009年8月12日(水)
 2009年6月30日(火)     12年の歳月を経た後に
 再び、登りたいと願っていた。それは、私にとって手に入らぬものを懇願するかのような、そして遠くで見ては近づくことのできない、憧れの女性に馳せる思いにも似たような感情だった。
 
 また再び、登らねばならないとも感じていた。それは、私にとって避けては通ることのできない答えるべき人生の公案を答えぬままにしたような、そして人としてやるべきことを見て見ぬふりをてやりすごしてしまったときの、良心の呵責にさいなまれるような、そんな思いにも似た感情を抱き続けてきたのだった。
 
 このような悔過を12年間引きずってきてしまったのだが、今回の山行でその思いとの決別ができたように思える。硫黄岳から仙人代にかけての登坂までは、まだ不安があった。仙人代で小休止した後の大岳山頂に向けての急登坂途中で、自分の心の中に知らず知らずのうちに希望がわいてくるのを感じていた。「乗り越えられる。」と…。そして、ついに私は大岳山頂に12年の歳月を経た後に、再び立つことができたのである。
 
 あれから、丸12年の歳月が過ぎていた。学生の時分、何かを見つけたくてあえて単独行で山に登って、自分を見つめるために我が身を山に溶け込ませていた時期がある。そんな若き日も過ぎ去り、就職して結婚し二人の子供が生まれ、人並みの生活ができるようになったとき、ふと心の中に隙間ができたのだろうか。また山に登ろうと思い一人、大岳に登り下山していたときである。十月末の山は風も冷たく晩秋を迎えつつあるというのに、うかつにもマウンテンパーカーをザックの中に準備しながらも、身にまとわず仕舞いで体をすっかり冷やしてしまったのだ。その上、久々の山行で思いの外疲労がたまっていたのだろう、私はそれまで経験したことのない腰から下の下半身全部にかけてのけいれんを体験したのである。
 
 一歩たりとも歩くことができないばかりか、微動だせずに固まるしかできず、少しでも足を動かそうとしようものなら、けいれんは一層強さを増して下半身全体を襲ってくるのである。私は驚きとともにそれまでに感じたことのない不安と恐怖を覚えたのであった。あわや大惨事にもなりかねない事態は、偶然通りかかったほかの登山者にレスキュー隊を呼んできてもらい事なきを得たのであったが、その代償としてこの体験がトラウマとなって、今まで私は自らを山から遠ざけるようになってしまっていたのである。
 
 これからも乗り越えていかなければならない困難はいくつもあることだろう。しかし、12年間という長い歳月、自ら山を遠ざけていたという事実は、これで一区切りついたのだと思う。
 
 12年の歳月を経た後に、再び大岳山頂に立つことで、自分を山から遠ざけていたトラウマから一歩抜け出すができたのは、今回の山行をともにしてくれたS氏のおかげである。感謝の念に堪えない。本当にありがとうございました。S氏の上に神様の豊かな祝福がありますことを祈らん。アーメン。
 
 2009年5月4日(月)     春の風物詩「白魚漁」
 春のゴールデンウィークの最中、毎年陸奥湾に注ぐ大小の河川には、白魚が産卵のために遡上してくる。
 白魚(しろうお)は、白魚(しらうお)とは違いハゼ科の一年魚で、古来より成魚が食用に漁獲されて、早春の味覚として知られている。特に生きたままのシロウオに酢醤油を掛けて食する「躍り食い」は有名である。漁には十字に組んだ竹で四角形の網を吊るした「四つ手網」がよく使われる。この漁法は、網を川底に吊るしてシロウオの群れが網の上を通過したときに、一気に引き上げて漁獲するもので、早春の河川の下流域で四つ手網を繰り出す様は春の風物詩ともなっている。写真は、青森市内の東部を流れる野内川のシロウオ漁の様子である。
 今日は平年よりも気温が上がり、初夏を思わせるような陽気となった。息子とタンデムで陸奥湾沿いをバイクツーリングした帰りに、立ち寄ってみた「白魚漁」で賑わう青森市野内川の光景でした。
 
 2009年1月6日(火)     2009年の新しい年を祈念して
21世紀10年目の新しい年を迎え、今年の年賀状には次のような言葉を記した。
 
 昨年は、「変」に象徴される年でしたが、今年は「混迷」の年となるのではないでしょうか。このような時にこそ、私たち一人ひとりの生き方が問われていくと思います。共に主の道を歩んで参りたいと願っております。
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
 「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、あすは天気だ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、きょうはあらしだ』と言う。あなたがたはこのように空模様を見分けることを知っていながら、どうして時のしるしを見分けることができないのか。よこしまで神を見捨てた時代はしるしを求めるが、しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられない」(マタイ16:2〜4)
                                     2009年 元旦
 
 このような言葉を記したのは次のような「時のしるし」の見極めがあるからである。
 
 昨年の10月頃から、アメリカのサブプライムローンに端を発する金融危機の影響が、世界的な経済的混乱を巻き起こし、日本社会においても石油価格の高騰や株価の大暴落、また外国為替における円高を招き、製造業を中心とした輸出産業に大損失を与え、それに伴い契約社員の大量解雇による失業問題をはじめ企業の倒産等、様々な社会問題を発生させている。
 1990年代、行き先を見失った社会主義経済の崩壊が相次ぎ、社会主義各国は資本主義国の資本の導入や市場原理の採用によって新たな活路を見い出そうとした結果、社会主義国のみならず資本主義国にとっても新たな需要をもたらし、一時的な好景気を実現した。しかし、2000年代に入ると今度は資本主義経済が更なる需要創出に四苦八苦しながらも、ここに来て行き詰まりと閉塞感で疲弊してきている。
 
 マルクスの唯物史観を根底とした社会主義思想における人間の経済活動を除く社会機構や文化・思想・宗教等の上部構造である生活様式全般が、生産構造によって規定されるとの理論には見誤りがあったのではないだろうか。つまり人間の生活を支配するのは下部構造である経済的な生産構造というメカニズムによるものではなく、もっと人間の根源的な富に対する飽くなき追求という欲望そのものをいかに制御するかによるのではないだろうか。また、資本主義経済における競争原理にたったマーケティング・マネージメントもこの世界的な金融危機をはじめとする経済的混乱を防ぐには至らなかった、いやむしろそれを招いたと言っても過言ではないのであるから、兵法を基礎としたMBA(Master of Business Administration)の理論にも限界もしくは見誤りがあったと言えるのではないだろうか。
 
 日本の教育行政も未だに方向性が定まらず、教育現場の実情を顧みず指導要領の改正を繰り返すことに終始して、教育現場で起こっている不登校や校内暴力、学力の二極化、大学生の倫理観の欠如等の教育問題は解決されないままなおざりにされているではないか。
 
 人は、過ちを繰り返しながらも確実に成長し、人間社会を弁証法的に発展させてきたと信じたい。しかし同じ過ちを繰り返さないことが重要ではないのか。人間の自己防衛の本能が自己中心的なエゴイズムと闘争心を生み出しやがては争いとなるという過ちを繰り返さなければいいのだが…。
 
 2009年は、いかなる年となるのか「混迷」という二文字を当てた「時のしるし」の見極めに、福音を述べ伝える必要性を強く感じて止まない。
 2008年11月15日(土)     永年勤続25年の表彰を受けて
 2008年11月4日(火)青森明の星高等学校理事長室にて、永年勤続25年の表彰式があった。表彰状と記念品の腕時計をいただいた。この腕時計は、機能も上等で好みにも合い良き記念品となった。
 
 これで私は、学校法人 明の星学園 青森明の星高等学校に教師として勤めて25年がたったわけだ。
 
 カトリック学校の教師を志願して、その意志を学園に働きかけて下さった新松義男氏と当時の教頭で私たち夫婦の仲人でもある川瀬英嗣氏、そしてその機会を与えて下さった当時の理事長のアンリエット=カティン氏および当時の校長の辻昭子氏に深く感謝したい。また、教師生活25年の半ばで、公私ともに最も苦しかった時期を、特別の配慮で支えて下さった当時の校長である對馬榮子氏には特に感謝申し上げたい。
 
 そして、何と言っても私の毎日の暮らしを日々支え、どんな時でも良き助け手となってきてくれた妻には、言葉では言い表し難い感謝の気持ちで一杯である。曲がりなりにも教師をここまで続けてこれたのは、あなたのおかげです。
 
 神なる主に感謝します。数え切れないほどの泣き言や文句や我が儘を言って参りましたが、その度に良き気づきと良き導き、そして助けと救いをいただいて参りました。すべてはあなたのおかげです。ありがとうございます。これからも、私のすべての働きがあなたのためとなりますようにお導き下さい。 
 
 さて、奇しくも丁度50歳の年にこの表彰をいただいたことは、何か意味深いものを感じる。そう、この先、定年まであと10年となったわけであるから、勤続年数に比較すれば残りの10年間のほうが短い期間なのである。だからこそ、この先の10年間この学校ででどのような働きができるのか、どのような貢献がを考えてみたいと思っている。
 
 年齢を重ねるごとに、自分がなすべきことがだんだんとはっきり見えてきている。今はそれに従って日々の職務を、小さなことにも丁寧に地道でかつ堅実に向き合いながら、気概をもって「証し人」としての使命を果たしていければと思っている。
 
 どうぞ主よ、私がなすべきことに必要な力と勇気をお与え下さい。そして、これからもますます強く生きていけるように私と共にいて下さるよう祈ります。
 
 2008年9月16日(火)     「青森県カトリック信徒の集い」に参加して
 去る9月7日、青森市の青森明の星中学・高等学校および短期大学を会場に、テーマ「祈り求め分かち合う」のもと「青森県カトリック信徒の集い」が開かれた。
 
 参加者が約200名と青森県のカトリック信者総数のわずか1割程度の参加であった。しかも高齢者の方々がほとんどで、子供たちや青年の声が会場にはなく、いささかさびしくもつい将来の教会を案じてしまうような危惧感さえ覚えてしまう様子であった。
 
 そもそも分科会の設定にも子供たちや中高生のグループはなく、もう一工夫というか次代を担う年齢層への配慮が欲しかったというのが正直な感想である。
 
 私は社会問題の分科会に参加したのだが、私が期待したものではなかった。パネラーの方々の発表のためのご苦労やご苦心はお察し申し上げるが、私たちカトリック信徒としての正義を持って考え、コッミットないしはアクションを起こさなければならない社会問題とはいったい何であろうか。今大会での社会問題の扱い方自体に問題はなかったか、私たちカトリック信徒としての社会問題のとらえ方にどこかピント外れなところはないのか、私たちカトリック信徒として、キリストの正義を表し伝えることが根本から問われているような気がしてならない。
 
 せめてもの慰めはやはりミサであったと思う。いくら信仰を同じとする者同士でも、価値観や問題意識の差異はかなりある。そんな私たち信徒を一つにつなげ束ねて共同体としてくれる唯一のものがミサに他ならない。ミサこそが恵みであり救いである。
 
 いずれ近い将来、私たちの信仰が問われる時がやって来るに違いない。それは、私たち信徒一人ひとりの信仰が、そして私たちの教会共同体としての信仰そのものがである。その時は決して遠くない。間近に迫って来ている。
 
 今こそ、足下を見直し、行く先を見定めなければならない。そんな「時のしるし」を私は感じている。
 
 2008年8月30日(土)     50歳の節目に
 50歳になる自分を想像したことはなかった。高校時代漢文の授業で習った孔子の為政第二の四に、「われ十有五にして学を志し、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従う、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。」の一説が頭に残っている。50歳は天命を知ってそれに従って生きるようになるということを考えれば、確かに50歳とは人生の途において大きな節目として捉えていいのではないかと思う。そう考えれば、この先十年の生き方がとても重要に思えてくる。夫として、父親として、教師として、男として、いや一人の人間としてもか…。
 
 自分にとっての「天命」とは何かについては、ある程度知っているつもりであるが、知っていることとそれが実践できているのかということとは別である。だから、これから先の十年はそれを実践できるかどうかということが問われるのであろう。
 
 孔子によれば40歳は不惑の年ということだが、振り返ってみれば40代はもがきにもがいて、歩むべき道を探して彷徨い歩いていたような気がする。その分、性分とも相まって人とぶつかることも多かった。なすべきことやあるべき姿が分かっているにも関わらず、それを周囲の人にはなかなか分かってはもらえなかったし、伝えることもできなかった。
 
 「天命」を知って生きる50代には、自分がなすべきことを実現するためにも、他者を理解することに務めて自分を周囲に受け入れてもらう努力をしていかなければならないと思う。どんなに「天命」を知っていても、周囲に理解してもらう術を身につけていないのでは、その使命は果たせまい。
 
 50歳を機に自分の「天命を」果たすために、他者を受容し理解することと自己を周囲に理解してもらい受容されることに努めていきたいと思う。
 
 それはそれとして、50歳にもなったというのに、バースデイケーキを買って誕生日を祝ってくれた妻と子供たちに感謝している。うれしかったよ!ありがとう !!
 

Last updated: 2013/11/28

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