ルンビニーでお生まれになった彼の方は、
この世で、自分の力ではどうしようもできないことを「苦」と称し、
中でも、その最たるものを「生・老・病・死」の「四大苦」であると説きました。
確かに「生まれること」は、
誰にとっても自分の意志に因らない出来事であったことでしょう。
しかし、私が、そしてあなたが生まれたのは、
神さまが、この私とあなたを必要とし、私たちをお望みになり、私たちに使命をお与えになったからこそ、私たちは、命を与えられ、生きる者となったのです。
ですから、「生まれて、生きる者となったことでの苦しみ」は、
神さまから与えられた命と使命を、果たそうとするか、それに背こうとするか故のもので、
それを果たそうとする者は、その苦しみの故に救われ、それに背くものは、その報いとして地に落ちるのです。
「老い」は誰にでも、日々迫ってくる避けられない現象です。
若くはつらつとして、成長に輝く日々が過ぎ去ると、やがて肉体や感覚は衰えていきます。
しかし「老い」は、人に知恵を与え、賢い者、謙虚な者なれる機会を与えてくれます。
人は老いていく中で、その機会を受け容れて自分のものにすれば、
神様が望む本来的自己に自分自身を導き、
終には、それまで生きてきた人生の意味を悟らせ、
自分自身の全てを創造主に回帰させてくれるのです。
ですから、人には「老い」てこそ初めて理解して悟り、得るものがあるのです。
「病」も、誰にでもいつ何時、襲ってくるか分からない、避けられない現象の一つです。
勿論、病の根源的理由は、様々な病原菌や事故、また貧困や悪い生活習慣、
そして生活苦など、いろいろな要因に帰するものでしょう。
しかし、それらの「病」には、老若男女、その人の行いの是非などにかかわらず、容赦なく襲いかかってきて、予測することも逃げることもできないものもあるのです。
では、人は何故「病」に苦しまなければならないのでしょうか。
それは、人が生きる上で避けることのできない「受難」です。
その受難を通らなければ、到達できず、悟ることができないことがあるからです。
「病」は、現象的には辛く苦しいだけのことのように思えますが、
「病」とは、神と自分とのつながりに気づかせ、その関わりを深め、
自分が生まれてきたことの理由(わけ)と、生きる意味を深く悟らせてくれる恵みの時なのです。
「死」も生きる者にとっては、避けがたい現実です。
「死」は、この世との別れ、絶望の慟哭が響く漆黒の暗闇、陰府(よみ)の世界です。
あるいは、すべての苦しみから解き放たれ、神と共に暮らす永遠の平安、新たな始まり、
永遠の命へ辿り着くための入り口です…。
「死」は、悲しいことですが、人に生きることの意味と命の尊さを教えてくれます。
この世の全ての存在に二面性があるように、
「死」ということにもまた、二つの意義が込められているようです。
結局、人とは、人生の中でいろいろな選択肢があるにせよ、
「生老病死」という創造主である神が定めた運命の中で、
与えられた命と使命を生きていく者なのでしょう。
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