教えて下さい、神さま。
私には、はっきりとはわからないのですが、このような理解でよろしいのでしょうか。
たとえば、どうしてこの世に苦しみや不幸があるのかと問われれば、
それは、神さまからの試練か、さもなければ悪魔のなせる業であると答えるでしょう。
ええ、たとえば戦争がもたらす不幸はどうでしょうか。
それは、愚かな人間の傲慢や独善、強欲や偽善、闘争心や利己主義が引き起こした
愚劣な人間の罪が招いた結果でしょうから、
その因由は人間の心の内にあるとわかります。
では、病はどうでしょうか。
そりゃ、不節制や悪い生活習慣または事故など、
その人の行為自体に由来するものもありますが、
個人の責任に及ばない病もたくさんあるではないですか。
ええ、 確かにある意味では、「病は神さまからの恵みのとき」という面もあるでしょう。
病にかかったからこそ、気づくことや理解することもありますし、
救いを求めて、神さまを呼び求めるでしょう。
そうですね。
それは、病にかからなければ、気づくことも理解することもできなかったことですね。
そして、神さまとの出会いもなかったことでしょう。
それでは、病は誰にとっても辛く苦しいことですが、
受け容れてしかるべきことだと解ります。
ならば、天災はどうでしょうか。
ある日突然、何の前ぶれも無しに善人も悪人もなく、
すべての人間、生き物を呑み込んでしまう自然の暴威です。
暴風雨、洪水、竜巻、干ばつ、猛暑、寒波、火山爆発、地震、津波。
このような自然災害は、いとも簡単に人間の営みのすべてを破壊して、
大切な家族や人々を皆奪っていってしまう。
人だけじゃない、
家も生活する場も町々も車も電車も船も何もかも、根絶やしにしていってしまう。
そして、そいつが過ぎ去ったその後には、
汚泥にまみれた散々たる瓦礫や土砂に埋め尽くされた廃墟だけが残されいる。
人間は、その光景をただ驚愕と絶望の眼差しで見つめ、
呆然とその前に立ち尽くすだけです。
そんな天災さえも、神さまの人間への問いかけだというのでしょうか。
はい、そうです。
私たちは、そのような天災の度に尊い命が奪われたとか、
大きな犠牲が払われたとかいいますが、果たして本当にそうなのでしょうか。
人の命、そう、あなたの命も私の命も、私たち自身で得たものだというのでしょうか。
いいえ、違います。
人の命は、みな神さまから与えられ授かったものです。
私のものでもあなたのものでもありません。
人の命は、すべて神さまからのものです。
ですから、私たち人間には、この私の命でさえ、自分の思いどおりにならないのです。
神さまから与えられ、授かった命ですから、
何時かは必ずお返ししなければならないのです。
そして、どんなかたちで、何時、どこでお返ししなければならないかも、
人には選ぶことは許されていないのです。
それが、死という掟なのなのでしょう。
それは、ただ、神様の御摂理と御計画の中で、御心のままに、
神さまご自身によって決められることなのです。
神様の御摂理に探りを入れても、ただ迷いが生じるだけで、何の解決にもなりません。
人間は、その精神も肉体も完全ではないからこそ、
学びもしますし、成長もします。
完全ではないからこそ、学ばなければならないし、成長しなければなりません。
そのために、辛く不幸で理不尽とも思える苦難と試練を、神さまは人間に与えるのです。
それが、たとえ人間自らが招いた過ちであれ、
神さまが与え給うた試練であれ、
人は、愚かで傲慢な者であるから、
常に、苦難と試練から謙虚と真実な生き方を学び、
神の前に、清く正しく美しくあるようにしなければなりません。
神さまは、何事も、すべては苦難と試練をとおして語られるのです。
それが、神さまの「救い」というものです。
この世は、人が支配しているのではなく、
すべてを創造し給うた神様の御摂理のままに、
神さまご自身の御計画と御心によって、
成り立っているということを、しかと肝に銘じ、
忘れることのないようにしなければなりません。
そして、それは、私たち人間には、
到底、推し量ることのできない、想像と理解を超えていることなのです。
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