神ご自身、「わたしは、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしは、はばからずに次のように言うことができます。
「主は、わたしの助け手。わたしは恐れない。
人はわたしに何ができるだろう。」
(ヘブライ13:5〜6)

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詩情 Poetry

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、ご自身でも人を誘惑したりなさらないからです。むしる、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
(ヤコブ1:12〜15)
「命を愛し、
幸せな日々を過ごしたい人は、
舌を制して、悪を言わず、
唇を閉じて、偽りを語らず、
悪から遠ざかり、善を行い、
平和を願って、これを追い求めよ。
主の目は正しい者に注がれ、
主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
(ペトロT3:10〜12)
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 71     「苦しみをとおらなければ…」 2011年4月4日(月) 
教えて下さい、神さま。
私には、はっきりとはわからないのですが、このような理解でよろしいのでしょうか。
 
たとえば、どうしてこの世に苦しみや不幸があるのかと問われれば、
それは、神さまからの試練か、さもなければ悪魔のなせる業であると答えるでしょう。
 
ええ、たとえば戦争がもたらす不幸はどうでしょうか。
それは、愚かな人間の傲慢や独善、強欲や偽善、闘争心や利己主義が引き起こした
愚劣な人間の罪が招いた結果でしょうから、
その因由は人間の心の内にあるとわかります。
 
では、病はどうでしょうか。
そりゃ、不節制や悪い生活習慣または事故など、
その人の行為自体に由来するものもありますが、
個人の責任に及ばない病もたくさんあるではないですか。
ええ、 確かにある意味では、「病は神さまからの恵みのとき」という面もあるでしょう。
病にかかったからこそ、気づくことや理解することもありますし、
救いを求めて、神さまを呼び求めるでしょう。
 
そうですね。
それは、病にかからなければ、気づくことも理解することもできなかったことですね。
そして、神さまとの出会いもなかったことでしょう。
それでは、病は誰にとっても辛く苦しいことですが、
受け容れてしかるべきことだと解ります。
 
ならば、天災はどうでしょうか。
ある日突然、何の前ぶれも無しに善人も悪人もなく、
すべての人間、生き物を呑み込んでしまう自然の暴威です。
暴風雨、洪水、竜巻、干ばつ、猛暑、寒波、火山爆発、地震、津波。
このような自然災害は、いとも簡単に人間の営みのすべてを破壊して、
大切な家族や人々を皆奪っていってしまう。
人だけじゃない、
家も生活する場も町々も車も電車も船も何もかも、根絶やしにしていってしまう。
そして、そいつが過ぎ去ったその後には、
汚泥にまみれた散々たる瓦礫や土砂に埋め尽くされた廃墟だけが残されいる。
人間は、その光景をただ驚愕と絶望の眼差しで見つめ、
呆然とその前に立ち尽くすだけです。
そんな天災さえも、神さまの人間への問いかけだというのでしょうか。
 
はい、そうです。
私たちは、そのような天災の度に尊い命が奪われたとか、
大きな犠牲が払われたとかいいますが、果たして本当にそうなのでしょうか。
人の命、そう、あなたの命も私の命も、私たち自身で得たものだというのでしょうか。
 
いいえ、違います。
人の命は、みな神さまから与えられ授かったものです。
私のものでもあなたのものでもありません。
人の命は、すべて神さまからのものです。
ですから、私たち人間には、この私の命でさえ、自分の思いどおりにならないのです。
神さまから与えられ、授かった命ですから、
何時かは必ずお返ししなければならないのです。
そして、どんなかたちで、何時、どこでお返ししなければならないかも、
人には選ぶことは許されていないのです。
それが、死という掟なのなのでしょう。
それは、ただ、神様の御摂理と御計画の中で、御心のままに、
神さまご自身によって決められることなのです。
神様の御摂理に探りを入れても、ただ迷いが生じるだけで、何の解決にもなりません。
 
人間は、その精神も肉体も完全ではないからこそ、
学びもしますし、成長もします。
完全ではないからこそ、学ばなければならないし、成長しなければなりません。
そのために、辛く不幸で理不尽とも思える苦難と試練を、神さまは人間に与えるのです。
それが、たとえ人間自らが招いた過ちであれ、
神さまが与え給うた試練であれ、
人は、愚かで傲慢な者であるから、
常に、苦難と試練から謙虚と真実な生き方を学び、
神の前に、清く正しく美しくあるようにしなければなりません。
 
神さまは、何事も、すべては苦難と試練をとおして語られるのです。
それが、神さまの「救い」というものです。
 
この世は、人が支配しているのではなく、
すべてを創造し給うた神様の御摂理のままに、
神さまご自身の御計画と御心によって、
成り立っているということを、しかと肝に銘じ、
忘れることのないようにしなければなりません。
 
そして、それは、私たち人間には、
到底、推し量ることのできない、想像と理解を超えていることなのです。
 
 72     「悩んでみても」 2011年1月24日(月) 
どんなに悩んでみても、
どうどうめぐり、同じことをただ繰り返すだけ、
何の解決にもなりません。
そんな時もあるものです。
 
人が、どんなにはかりごとをくわだてようとも、
すべては、神さまの御旨のままに、
成し遂げられていくだけなのです。
無駄な心配はいりません。
 
人を、裁いてはなりません。
裁きは、神さまがなされること、
神さまにお任せしなさい。
ただ、私は私がなすべきことを、
神様の御心にかなうように、為すだけです。
 
悩んでみても仕方のないことは、
主が、十字架上でお捧げした苦しみと一致するように、
そのすべてを、神さまにお捧げするのです。
主は、そうすることをお望みになり、よろこんでくださることでしょう。
 
 73     「私は、悟りました」 2011年1月24日(月) 
私は、悟りました。
今は、私の時ではないということを…。
 
私は、悟りました。
今こそは、試練の時だということを…。
 
私は、悟りました。
今は、黙々と耐えるべき時であるということを…。
 
私は、悟りました。
今こそは、新たな道を歩むための身支度をする時であるということを…。
 
主よ、あなたはよき牧者、
どうか迷える子羊であるこの私を、
あなたに適う者として、あなたのもとにお導きください。
あなたの望む、私のその時が来る日まで…。
 
 74     「信じるということ」 2011年1月10日(月) 
信じるということは、
自分自身を誰かに委ねるということです。
100%確証の持てない未知なるものに、
五感では確かめることのできない感じるものに、
自分自身を委ねるということです。
それが、「信じる」ということです。
 
ですから、
自分を信じるということは、
ありのままの自分に、
未だ知らぬ自分自身を委ねるということです。
それが「自信」ということです。
 
そうです、
他者を信じるということは、
完全には解りあえぬ他者に、
自分自身を委ねるということです。
それが、「信頼」ということです。
 
そして、
神さまを信じるということは、
いずれ出会うであろう神さまに、
自分のすべてを完全に委ねるということです。
それが、「信仰」ということです。
 
 75     「忍耐」 2011年1月10日(月) 
“我慢”は、大変です。
それは、ありのままの自分でいることを、
否定しなければならないからです。
 
“我慢”は、苦しいです。
それは、本当の自分の気持ちを、
表に出さずに抑えて堪えなければならないからです。
 
では、“忍耐”は、どうでしょうか。
苦難を“忍耐”するならば、
“忍耐”は練達を、練達は希望を生んで、
希望は私たちを欺くことがないのです。
 
そうです。“忍耐”の先には希望があります。
苦難にあっても、それを“忍耐”する者は、
その信仰ゆえに、神の不思議な技の奥義に触れ、
希望の光を見ることになるのです。
 
神は、“忍耐”と慰めの源、愛そのものです。
ですから、“忍耐”して、神の救いを待ち望む信仰は、
希望へと通ずるのです。
そして、その希望は、必ずやその者を神の国へと導きます。
 
 76     「それは、それでいいのです。」 2011年1月10日(月) 
人生の真相は、「苦」でしょうか。 
そして、切なく儚いものなのでしょうか。
たとえ、そうであったとしても、
自分の人生に、確かな生きる意味が込められているのならば、
それは、それでいいのです。
 
人生の真相は、「寂」でしょうか。
そして、悲しく哀れなものなのでしょうか。
たとえ、そうだったとしても、
自分に、大切な愛するものがいるのであれば、
それは、それでいいのです。
 
人生の真相は、「虚」でしょうか。
そして、空しく意味のないものなのでしょうか。
たとえ、そうだったとしても、
神を賛美し、福音をひとりでも多くの人に語れるのであれば、
それは、それでいいのです。
 
 77     「人の死に思うこと」 2011年1月10日(月) 
人の死に立ち会うのは、怖いです。
いつかの日かの自分をみるかのようだからでしょうか。
自分もいつかは死ぬ、という真実と向き合わなければならないからでしょうか。
 
私は、死を恐れています。
私は、死にたくはありません。
私は、生きていたいのです。
まだまだ、やりたいことがあるのです。
まだまだ、やらなければならないことがあるのです。
まだまだ、学びたいことがあるのです。
まだまだ、知りたいことがあるのです。
まだまだ、行ってみたいところがあるのです。
まだまだ、見てみたいものがあるのです。
 
でも、この世に別れを告げ、復活の命に与ることができるのなら、
死は、決して絶望でも終焉でもありません。
むしろ、この世の苦しみから解放されれ、
永遠の慰安(やす)らぎに入る門ではないでしょうか。
 
死というこの世でもっとも過酷な苦難を通ることで、
神さまは私たちを、新たな永遠の命に復活させて、
神の国に招いてくださるのです。
そこでは、何ものにも執着することなく、
喜びに満ちあふれた世界が広がり、
神様と一致するという至高の幸福が、
終わることなく続くのです。
 
だから、生きているうちは、安心して生きられるだけ生きればいいんです。
だから、生きているうちは、思いっきり生きられるだけ生きればいいんです。
だから、生きているうちは、精一杯、自分の命を生きられるだけ生きればいいんです。
 
 78     「数えてみよう」 2010年11月20日(土) 
今まで、できなかったことよりも、できたことを数えてみよう。
辛かったことよりも、楽しかったことを数えてみよう。
悲しかったことよりも、嬉しかったことを数えてみよう。
今の辛さよりも、将来の喜びを数えてみよう。
失望しているよりも、希望が持てることを数えてみよう。
これから先、できないかも知れないことよりも、今できることを数えてみよう。
やらなければならないことよりも、やりたいことを数えてみよう。
この先の不安よりも、今ある可能性を数えてみよう。
自信を持てないでいる自分を責めるよりも、
自分に与えられた神さまからのお恵みを数えてみよう。
 
「数えてみよう」は、「想像」してみること。
「想像」してみることは、「創造」すること。
「想像」とは、新たにつくりだすこと。
少しずつ「勇気」が湧いてきただろ、「希望」が生まれてきただろ。
 
今は、「なぜ、どうして」と問うよりも、
「これはこれ、それはそれ」と受け容れてみよう。
 
ほら、暗い心の部屋に、光がさして明るくなってきただろう。
どんなに辛くても、悲しくても、淋しくっても、必ず晴れるときがやってくるんだ。
だって、あの方が約束してくださっただろう、
天のお父さんが、どんな苦しみからも僕たちを救って、
やがては永遠の命に生まれかわらせてくださるんだって。
だから、安心して今を生きていけばいいんだ。
どんなことも乗り越えられるさ、大丈夫なんだよ。
 
 79     「罪深く弱き者」 2010年11月1日(月) 
人は、罪深く弱き者…。
いえ、この私こそが罪深く弱き者です。
 
自分の罪深さと弱さを知って、
生きることの辛さと苦しさを味わいました。
しかし、たとえ生きることが辛く苦しくても、
この罪の重荷と弱さを背負いながら、
我が愛する者のために、生きなければなりません。
いえ、生きたいのです。
 
そして、もしこの私があなたに適う者ならば、
この私の罪を赦し、この私の弱さを取り除いて欲しいのです。
それが叶わぬのならば、わが主よ、
せめて、罪深く弱き者のままでも構いませんので、
この私をもうしばらくの間、生かして下さるようお願いします。
どうか、罪深く弱き者であるこの私を見放すことなく、
いつも見守っていて下さるようお願いします。
 
主よ、どうぞあなたに仕える小さき者として生きることができますよう、
この罪深く弱き者であるこの私に、力をお与え下さい。
アーメン。
 
 80     「わたしの使命を果たすために」 2010年8月11日(水) 
神さまから、一つの使命を果たすために、
その日、そこに、わたしは命を授けられ、この世に生まれた。
 
その使命は、わたしにしか果たせない、わたしだけのものでありながら、
決して、わたしだけでは成し遂げられないものである。
 
人ひとりにできることが限られているように、
わたしにできることもまた限られている。
自分ひとりだけで、何かが成し遂げられるなんて思ってはいけない。
それは単なる思い上がりもいいところ、傲慢にしか過ぎない。
 
神さまは、わたしにしかできない使命をこのわたしに与えながら、
決して、わたしだけで果たし得ないように、
その使命を幾人かの人々に分け与え、共有させている。
 
それは、神さまがこのわたしに、人が他者と共に生きる者であることを悟らせ、
その使命が、神のもとに他者と一致することなしには、成就しないことを示すためである。
 
だから、人は神のもとに他者と一致して生きなければ、それぞれの使命を果たすことはできない。
人は、生まれながらにそれぞれ固有の使命を与えられ、
その使命を果たすために神さまから固有の命を授けられ、生きる者となった。
 
人は、決してひとりではない。
それは、神さまがある者たちに同じ使命を与え、
それを果たすために互いに一致するように求めているからである。
その者たちと何時か何処かで必ず出会う。
それが、神さまのはからいである。
 
人は、それぞれの使命をそれぞれに果たしていくために、
それぞれの命を、神さまのもとに一致させることで、本当に生きる者となる。
そして、このわたしもまた、その使命を果たそうとするひとりである。
 

Last updated: 2023/10/31