「なぜ、どうして」と問うてはなりません。 
神は言うでしょう。「なぜ、どうしてと問うお前は何者か?」と。 
「なぜ、どうして」ではなく、ただ「あるがまま」を受け入れるのです。 
「なぜ、どうして」は、自己中心的で我が儘な問いでしかありません。 
そこからは、自分を納得させるだけの答えしか得られず、 
真実である神意を見出すことはできないでしょう。 
  
 不条理、理不尽と思わざるを得ないことも多々あることでしょう。 
もしも、それが人間の企てによるものなら、 
いずれ人間の働きによって解決されていくでしょう。 
しかし、それが神のみ摂理によるものならば、 
わたしたち人間は、その現実を受け入れるしかないのです。 
どんなにあがきわめいても、神のみ摂理を変えることも超えることもできないのです。 
なぜなら、わたしたち人間は、神の御手の中で、しかも無償の愛に包まれて生きているからです。 
神は、人間が良いと受け止めることからも、悪いと受け止めることからも、 
そして、人間が犯す罪からさえ、恵みを与え続ける方です。 
わたしたち人間の存在とは、神の御前においては、 
かけがえのない者でありながらも、 
儚く弱い小さな者であることを知らなければなりません。 
  
 「なぜ、どうして」と問うてはなりません。 
ただ、わたしたちは今ここに「在らしめられている」ということです。 
そして、やがて「死する者」であるということです。 
「生きている」ということも「死する」ということも、 
「なぜ、どうして」と問うてはなりません。 
ただ、ただ、神を畏れ、敬い、 
今、生きているということに感謝するのです。 
それが、神の御摂理だということです。 
神の被造物であるわたしたちが、「なぜ、どうして」と何度問いかけても、 
それは空しく響くだけで、その問いの答えが返ってくることはないでしょう。 
  
 ですから、神の御摂理を学び、よく知ることです。 
そして、神を畏れ、敬い、どんな時にも神に信頼をおくことです。 
そうです。わたしたちは、神の大いなる恵みと愛のうちに生きることをゆるされ、 
今ここにいるということに、まずは気づくことです。 
  
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