神ご自身、「わたしは、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしは、はばからずに次のように言うことができます。
「主は、わたしの助け手。わたしは恐れない。
人はわたしに何ができるだろう。」
(ヘブライ13:5〜6)

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詩情 Poetry

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、ご自身でも人を誘惑したりなさらないからです。むしる、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
(ヤコブ1:12〜15)
「命を愛し、
幸せな日々を過ごしたい人は、
舌を制して、悪を言わず、
唇を閉じて、偽りを語らず、
悪から遠ざかり、善を行い、
平和を願って、これを追い求めよ。
主の目は正しい者に注がれ、
主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
(ペトロT3:10〜12)
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 61     「神さまに愛されている」 2011年11月2日(水) 
神さまに、望まれたから、生まれた自分。
神さまに、必要とされたから、生きている自分。
神さまに、良いものとされたから、大切な自分。
 
神さまに、助けを求めるから、救われている自分。
神さまに、正しさとは何かを問うから、教えられている自分。
神さまに、手を合わせて祈るから、見えてくる自分。
 
神さまに、わがまま勝手ばかり言いながら、受け止められている自分。
神さまに、謝らなければならないことで、溢れている自分。
神さまに、いつも赦されて、新たにされている自分。
 
神さまに、いっぱいいっぱい愛されている。
 
 62     「神様からいただいた、このいのち」 2011年10月7日(金) 
神様からいただいた、せっかくのこのいのち、
ありがたく生きねば、申し訳が立たない。
 
人間は、どうせいつかは死ぬもの、
生きているうちは、精一杯生きるのがいい。
 
このいのち、生かされているのなら、
良くも悪くも自分の思い通りにはならないというもの。
あれやこれやと思い煩ってみても、しょうがない。
 
だから、神様が動かしているこの時を、いただいたこのいのちで、
思いのまま、ありったけ生きるのがいい。
 
 63     「とりあえず」 2011年10月7日(金) 
とりあえず、今を良しとしよう。
もちろん、100%なんかじゃないけれど、
自分の思い描く理想には、ほど遠いけど…。
だからといって、全部がだめなわけじゃぁない。
だったら、今の良いところもちゃんと見よう。
 
始まりは、いつも今というこの時。
そして、今は希望の始まり。
今を良しとすれば、その先は希望に満ちあふれている。
だから、とりあえず今を良しとすることから始めよう。
そうすれば、今というこの時は祝福されている。
 
 64     「完全でなくても」 2011年9月6日(火) 
完全でああることと、
完全を求めることは違います。
完全でなければならないと考えることと、
完全であろうとすることも違います。
 
完全でなければならないと考えると、
自他共に、失敗や挫折を許せなくなってしまいますが、
現実には、人間は失敗の連続です。
競争をすれば、誰しもいつかは必ず負けるのです。
 
失敗そのものは、悔しくて辛いことでしょうが、
人は失敗によって学び、成長します。
苦しみや悲しみも同じです。
だれも好きこのんで、苦しみや悲しみを体験したいとは思わないでしょう。
でも、苦しみや悲しみをとおらなければ、得ることのできないものもあるのです。
人を愛すること、人に優しくすること、そして変えられないものを受け入れること…。
 
ですから、完全を求めても完全になれなくてもいいのです。
完全であろうとしても、完全でなくてもいいのです。
ええ、人間は決して完全になれなくてもいいのです。
失敗や挫折、罪を犯すこと、そしてそれにともなう悲しみや苦しみ…。
それらのすべては、負(マイナス)ではなく、正(プラス)です。
苦しみや悲しみは、辛いだけではなく、神様からのお恵みなのです。
 
そうです。
わたしたちは、安心して神様に真摯で素直であろうと努めていれば、それでいいのです。
それが、永遠へとつづく道なのです。
いずれ神様が、わたしたちを完全な者へと導いて下さいます。
 
 65     「たったひとりのことばと行いが、世界を変える」 2011年9月6日(火) 
なんでもない小さなことを、
たわいもない些細なことを、
粗末にしても、軽視してもいけません。
 
「どうせ、わたしひとりが、ぼくひとりが頑張ったって、
 なにひとつ変わりはしないさ」って思っているのかい?
それは違うよ。
確かに、人ひとりのことばや行いは小さいかも知れないけど、
それを身近な人に伝えるならば、大きな力が動き始めるんだ。
 
大空から降り注ぐ一滴一滴の雨のしずくが、
大海原の水面を打ち、その波紋が海の色を変えていくように、
自分ひとりの何気ないことばや行いが、たくさんの人に伝われば、
この世界を動かしたり変えたりすることができるんだ。
 
そうさ、すべては何もないところから、
たったひとりのことばや行いから始まって、
それが次々と広がっていくことで、新たなものへと生まれ変わっていくんだ。
 
だから、自分たったひとりの、
なんでもない小さなことから、
たわいもない些細なことから始まるんだ。
「わたしひとり、ぼくひとりのことばと行いから世界は変わるんだ。」
 
 66     「今を生きる」 2011年8月8日(月) 
自分自身を、生きよう。
あるがままの自分を受け容れ、
今を生きよう。
過去でも、未来でもなく、
今このときの自分を生きよう。
 
無いものねだりではなく、
選り好みをすることもなく、
今ある自分の、良いものも、悪いものも、
そのまま大切なものとして受け容れて、
あるがままの、今の自分を生きよう。
 
疑うことなく信仰をもって、
悲嘆することなく希望を持って、
無関心でいることなく愛をもって、
あるがままの、今このときの自分自身を生きよう。
すべてを神さまに信頼して、
今このときの、あるがままの自分自身を生きていこう。
 
 67     「なぜ、どうしてと問うてはならない」 2011年7月6日(水) 
 「なぜ、どうして」と問うてはなりません。
神は言うでしょう。「なぜ、どうしてと問うお前は何者か?」と。
「なぜ、どうして」ではなく、ただ「あるがまま」を受け入れるのです。
「なぜ、どうして」は、自己中心的で我が儘な問いでしかありません。
そこからは、自分を納得させるだけの答えしか得られず、
真実である神意を見出すことはできないでしょう。
 
 不条理、理不尽と思わざるを得ないことも多々あることでしょう。
もしも、それが人間の企てによるものなら、
いずれ人間の働きによって解決されていくでしょう。
しかし、それが神のみ摂理によるものならば、
わたしたち人間は、その現実を受け入れるしかないのです。
どんなにあがきわめいても、神のみ摂理を変えることも超えることもできないのです。
なぜなら、わたしたち人間は、神の御手の中で、しかも無償の愛に包まれて生きているからです。
神は、人間が良いと受け止めることからも、悪いと受け止めることからも、
そして、人間が犯す罪からさえ、恵みを与え続ける方です。
わたしたち人間の存在とは、神の御前においては、
かけがえのない者でありながらも、
儚く弱い小さな者であることを知らなければなりません。
 
 「なぜ、どうして」と問うてはなりません。
ただ、わたしたちは今ここに「在らしめられている」ということです。
そして、やがて「死する者」であるということです。
「生きている」ということも「死する」ということも、
「なぜ、どうして」と問うてはなりません。
ただ、ただ、神を畏れ、敬い、
今、生きているということに感謝するのです。
それが、神の御摂理だということです。
神の被造物であるわたしたちが、「なぜ、どうして」と何度問いかけても、
それは空しく響くだけで、その問いの答えが返ってくることはないでしょう。
 
 ですから、神の御摂理を学び、よく知ることです。
そして、神を畏れ、敬い、どんな時にも神に信頼をおくことです。
そうです。わたしたちは、神の大いなる恵みと愛のうちに生きることをゆるされ、
今ここにいるということに、まずは気づくことです。
 
 68     「愛されるがゆえの試練」 2011年6月2日(木) 
私たち親は、涙をのんで我が子を叱らなければならないときがあります。
それは我が子を愛するがゆえです。
人の親が、我が子を愛するがゆえに叱るのですから、
神様が、私たち人間を愛するがゆえに叱り、
時には試練をお与えになるのは当たり前のことでしょう。
 
もちろん、試練は苦難を生みますが、その試練の源は神様の愛なのですから、
その試練と苦難もまた神様の愛に満ちたもののはずです。
 
ですから、どんなに苦しい苦難の時でさえも、
神様の愛に満たされていることを、忘れないようにしましょう。
神様は、いつも愛のうちに、苦しむものと共におられるのです。
 
「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。
わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ロマ5:3〜5)」
 
 69     「こうあるべき・こうあらねばならないを脱ぎ捨てる」 2011年6月2日(木) 
「こうあるべき」・「こうあらねばならない」という考え方や規範は、
確かにあることはあるでしょうし、必要なことでしょう。
でも、現実的には、こうあるべき、こうあらねばならないといっても、
そうはならないこともあるのが事実です。
 
なぜなら、「こうあるべき」・「こうあらねばならない」というのは、
その人特有の個人的な固定観念や偏見などのイドラであって、
正しいかのようで不確かな、そして我執に囚われた人の謀はかりごとに過ぎないこともあるのです。
 
どんなに正しく善いと思われることでも、
自分の思い通りに事が運ばないことがありますよね。
それは、この世の出来事は、
人の思いや行為そのものだけによって成り立っているのではなく、
神様のご意志と御計画に従ってすすんでいくからなのです。
そして、神様はそのご意志を人を介して成就なさるのです。
 
ですから、勘違いしないことが大切です。
誰の思いどおりにも事は運びません。
神様の御旨のままに事は運ばれるのです。
この世には、いろいろなものの考え方ややり方があるということが、そのことを表しています。
 
「こうあるべき」・「こうあらねばならない」は、人の傲慢でしかありません。
私たちは人間は、「こうあるべき」・「こうあらねばならない」を脱ぎ捨て、
神の御前に、謙虚で幼子のように素直でいることが大切です。
 
 70     「赤心」 2011年5月30日(月) 
嘘、偽りはありません。
 
ただあるのは、我が主に従いあなたの道を歩みたいという望みと、
そう願いながらも、正しく従うことのできない自分の不従順と信仰の薄さ、
そして弱さからくる「怖れ」です。
 
あなたの「怖れることはない。私は常にあなたたちと共にいる。」
という御言葉を心から信じ、あなたの道をまっすぐに歩むことができたらよいものを…。
一体、私は何を怖れているというのでしょうか。
自己崩壊でしょうか。それとも死でしょうか
 
「一粒の種は、地に落ちて死ななければ、その実を結ぶことはできない。」
ということも、あなたから教えていただきました。
 
嘘、偽りはありません。
 
今の私にあるのは、我が主に仕えたいと願いながら、
自分の全てをあなたにゆだねることができないでいる「迷い」です。
 
主よ、この私の「不信仰」と「怖れ」からくる「迷い」を、
私の生け贄としてお捧げいたしますので、どうかお受け取り下さい。
アーメン。
 

Last updated: 2023/10/31