神ご自身、「わたしは、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしは、はばからずに次のように言うことができます。
「主は、わたしの助け手。わたしは恐れない。
人はわたしに何ができるだろう。」
(ヘブライ13:5〜6)

ホーム  Home 書簡  Epistle プロフィール Profile 更新 What'sNew 信仰 Religion カトリック教育
宗教教育研究 学校マネジメント カトリック学校宣言 カトリック教育省文書 教会共同体 教会学校
信仰告白 生徒と卒業生 講話集 Lectures 詩情 Poetry 家庭と妻と夫 愛犬 MyPetDog
写真 Photograph ブログ Web Log サイトマップSightMap リンク集 LinkPage MissionNetwork

詩情 Poetry

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、ご自身でも人を誘惑したりなさらないからです。むしる、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
(ヤコブ1:12〜15)
「命を愛し、
幸せな日々を過ごしたい人は、
舌を制して、悪を言わず、
唇を閉じて、偽りを語らず、
悪から遠ざかり、善を行い、
平和を願って、これを追い求めよ。
主の目は正しい者に注がれ、
主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
(ペトロT3:10〜12)
前のページ 目次 次のページ
 51     「主よ、愛する息子たちのために」 2012年4月6日(金) 
神さま、あなたからお預かりした息子たちに、
あなたへの信仰こそが生きる糧であると信じ、
父と子と聖霊の御名によって、
息子たちの心の畑に信仰の種子を蒔いていただきました。
 
あなたへの信仰さえあれば生きていけると信じ、
息子たちに信仰を伝えようと足繁く教会に通い、
家族皆で共に祈り、共同体の一員として集い、助け合い、
一生懸命、信仰の種子を育て教え導いてきたつもりです。
 
しかし、時を経て息子たちが大きくなるにつれ、
私たちの教え導き方が、育て方が、間違っていたのでしょうか、
それとも、私の不信仰故でしょうか、
息子たちは教会を離れ遠ざけようとするのです。
 
神さま、どうか私たち夫婦があなたからお預かりした三人の息子たちを、
あなたの信仰へと立ち返らせて下さい。
どうか、あなたの聖霊を送って息子たちに恵みを与え、
主の道へと続く小道へと導いて下さい。
 
そして、私たち夫婦があなたからお預かりした息子たちの親として、
愛と信仰と希望のうちに、最後まで忍耐強くこどもたちを見守っていくことができますように、どうぞ私たち夫婦をも導いて下さいますように、
祈ります。アーメン。
 
2012年4月6日(金)聖週間 聖金曜日の日に寄せて
 
 52     「どうぞあなたの道具としてお使い下さい」 2012年3月6日(火) 
できることならば、わたしの口から出る言葉が、
「どうぞ、わたしを、あなたの道具としてお使い下さい。」
とだけ、発することができるようにして下さい。
そして、不平・不満を口にすることなく、
怒らず、誹らず、いつも穏やかですべてのものに、
優しい人間でいさせて下さい。
 
できることならば、どんな時も、あなたを忘れず、
「どうぞ、わたしを、あなたの道具としてお使い下さい。」
とだけ、答えることができる者として下さい。
そして、あなたに感謝と賛美を捧げて、
焦らず、苛立たず、いつも穏やかですべてのものに、
優しい人間でいさせて下さい。
 
できることならば、この世の価値を求めず、天に宝を積み、
「どうぞ、わたしを、あなたの道具としてお使い下さい。」
とだけ、心から祈ることができる者として下さい。
そして、自分に与えられた恵みと使命に従い、
臆さず、厭わず、いつも穏やかですべてのものに、
優しい人間でいさせて下さい。
 
 53     「三角公園の一本ポプラ」 2012年2月3日(金) 
 こどもの頃、よく遊びに行った、橋のたもとの三角公園。
その一角にそびえ立つ、大きな大きな一本のポプラの木。
 
 君は僕が幼い頃から、そこに一人で立って、
たくさんのこどもたちを見守ってきているんだね。
僕のことも覚えてくれているかい?
僕はもう大きくなって、こんなにおじさんになったよ。
今でも毎日、君の側を通って通勤しているんだ。
だから、毎朝、毎夕、橋を渡るたびに君の姿を見ているよ。
君も今でも僕のことを、毎日のように見守ってくれているんだよね。
 
桜が咲く温かな春の日差しの中で、
河原に茅が茂る夏の暑い日照りの中で、
木々の葉が彩る秋の清々しい日和の中で、
川面が凍てつき吹雪にさらされる厳しい真冬日の中で、
どんな時も、君はどっしりと地面に腰を据えて座っているかのようだ。
 
人生、陰日向。君も僕もいろんなことを乗り越えてきた。
そして君は相変わらず、いつでもそこから見守ってくれている。
ありがとう。
きっとそれが、神さまか授かった君の仕事なんだね。
僕も、神さまから授かった僕の仕事を、
君のように果たせるように、
これからもそこで見守っていてくれよ。
 
 54     「これからもずーっと」 2012年1月18日(水) 
ふと、こどもの頃に、
戻りたいと思うことはありませんか。
ささいなことにも、
こころうきうき弾ませてはしゃぐ、
幼心を忘れてはいませんか。
もう、十分すぎるほど、
大人になったと思っている今でも、
わたしは、まだまだ、
そして、これからもずーっと、
神さまのこどもです。
 
 55     「今という永遠の時」 2012年1月6日(金) 
 過去は、既に過ぎ去ったこと、
過ぎ去ったことは忘れ、
過ちに縛られることなく、
今のこの時を生きよう。
 
 将来は、だれにも見えないもの、
見えない将来に心囚われ、
不安に駆られることなく、
今のこの時を生きよう。
 
 今、この時を生きることだけが、
私に与えられた永遠。
私の理解を超えた、
大いなる方にすべてをゆだねて、
今という永遠の時を私は生きている。
 
 56     「主よ、できることならば」 2011年12月20日(火) 
 主よ、できることならば、
私は私の信仰を生きたいと願っているのです。
主が仰せのとおり、
私は私の十字架を背負い、
主の道を歩んでいきたいのです。
ただ、私は心が弱く小さな愚か者なので、
信じようとしながらも疑い、
決心しても揺らぎ、すぐ誘惑に負けてしまいます。
 
 主よ、できることならば、
義に飢え渇き、荒れ野に立ち尽くして、
うちひしがれて砕けた心、
歩き疲れて立つことで精一杯の足、
一本の杖のおかげで、ようやく支えることができる萎えた手、
醜いもの汚れたものを、見るのにも聞くのにも耐えられず、
閉ざされてしまった目と耳。
 
 主よ、できることなら
なすすべもない孤独な旅人であるこの私を、憐れんでください。
どうか、この私に希望と力を与え強めてください。
憐れみ深い、母マリアよ、私のために祈ってください。
私から苦しみを取り除き、安らぎをお与えください。
もし、それが叶わないのならば、
私がこの苦しみを生きることを、犠牲にお捧げしますので、
私の家族を、あなたのお恵みで満たしてください。
そして、あなたの福音がこの私をとおして、
一人でも多くの人々に語られますように聖霊を送ってください。
どんな時も、心を騒がせることなく穏やかに、
そして、希望を見失うことなくあなたの道を歩んでいくことができますように、
どうか主よ、いつも私と共にいてください。
 
 57     「だれをも裁くことなく」 2011年12月20日(火) 
真実は、いずれ明かされることでしょう。
賢い者 と愚かな者、
正しい行いをする者と不正を行う者、
義人と偽善者とが、
神によって、二つに分けられ裁かれることになるのです。
主を信じる者はその日が訪れるまで、
希望を失うことなく、苦難と迫害に耐え忍ぶのです。
最後まで忍耐する者は幸いです。
そこには神の救いがあるからです。
 
 福音は、あまねくすべての人々に語られます。
しかし、岩の上や茨の中、そして乾いた土の上に落ちた種子が、
芽を出して育つことがないように、
福音を聞いても回心しなかった者は、
火の中に投げ入れられてしまうことになるのです。
 
 ですから、この世の裁きはすべて神にゆだね、
決して誰をも裁くことなく、
この罪人である自分さえも自分自身で裁くことなく、
ただ、我が主のみに従い、
福音を語り続けていくだけです。
 
 58     「自分の悩みや苦しみに、心閉ざされることなく」 2011年12月20日(火) 
悩みの時にも苦しみの日にも、辛い時にも悲しみの日にも、
小さなことでもいいから、自分ができる限りのことをやろう。
自分のためにでもいい、誰かのためにでもいい。
もしそれが、神さまがお喜びになることなら、
少しずつ、ゆっくりでいいから、焦らずにやろう。
自分の悩みや苦しみに、心閉ざされてしまうことなく、
主の教えに耳を傾けながら、一歩一歩、歩いて行こう。
 
 たとえ、冬の吹雪に顔を上げて進むのが困難なほど行く手を遮られようとも、
そして、灼熱の夏の太陽に身を焼かれて、立ち上がる気力さえも奪われそうになろうとも、
小さなことでもいいから、自分ができる限りのことをやろう。
雪融けの春風吹く時は、新たな希望と行き先を見出し、
木々が彩り萌ゆる秋には、日々の労苦の実りに感謝して、
自分の悩みや苦しみに、心閉ざされてしまうことなく、
主の教えに耳を傾けながら、共に感謝して喜び合おう。
 
 与えられることよりも、与えることで与えられ、
ゆるされることよりも、ゆるすことでゆるされる。
理解されることよりも、理解することで理解され、
愛されることよりも、愛することで愛される。
小さなことでもいいから、自分ができる限りのことをやろう。
自分の悩みや苦しみに、心閉ざされてしまうことなく、
主の教えに耳を傾けながら、祈りを口にして賛美しよう。
 
 59     「引き受ける」 2011年11月2日(水) 
目先のことや将来、そして遠い未来に対する不安、
つかみどころがなく、漠然とした未知なるものに対する恐怖。
多分、それは「自己崩壊」か、究極的には「死」であるのかも知れない。
 
その場から、逃げ出したくなることや
見たくないもの、聞きたくないことからの逃避。
理想と現実との乖離、その狭間に置き去りにされた自己嫌悪からくる憂鬱。
それでも、なお飽くことなく、希望を探し続けている自分。
 
一体、希望はどこにあるのか。
その希望は既に与えられている。
いや、疲弊しながらも求めて止まない私に向け、
希望は常に与えられ続けている。
 
その希望は、内なる自分の奥底に、自らの抑圧によって眠らされている。
その抑圧からの解放は、どうすれば成就されるのか。
それは、過去も現在もそして未来においても、
自分の身の回りで起きているありとあらゆる現実を受け入れること。
 
どんな不安や恐怖そして憂鬱からも、
逃げない、ごまかさない、ありのままを引き受けるという覚悟。
その覚悟を自分の信仰において宣言することが、
抑圧からの解放であり、希望に満たされる最善の方法である。
 
希望に満たされた人間は、自由に生きる。
神が望まれた自分を、自由に生きる。
そして、自己実現を果たして完全な者となる。
 
 60     「過ぎし日の父子の会話」 2011年11月2日(水) 
(息子たちが幼い頃、お風呂場は私と息子たちの語り合いの場であった。特に神さまのお話をよくしたものだ…。)
 
「お父さん、どうしてぼくは生まれたのぉ?」
「それはな、神さまがお前をお望みになったからだよ。」
「お望みになったって?」
「必要とされたってことだよ。」
「どうして、神さまは、ぼくを必要とされたのぉ?」
「それは、お前にやって欲しいことがあるからさ。」
「ぼくにやって欲しいことって、なぁに?」
「神さまに、聞いてごらん。」
「どうやって?」
「お祈りするのさ!」
「寝る前にいつもしてるよ。」
「じゃ、続けてごらん。」
「そうしたら、教えてくれるのぉ?」
「教えてくれるさ、でも、すぐにじゃないかも知れないよ。
 それから、自分で一生懸命考えたり、頑張ったりしなきゃいけないんだ。」
「ふぅーん、そうなんだ。」
「そうだよ!」
 
(子どもたちが小学校まで唱えていた「夕の祈り」)
 かみさま、今日も一日ありがとうございました。
 ときどき、いじわるやわがままをいいました。
 かみさまごめんなさい。
 くらい夜もおまもりください。
 あしたの朝、元気におきることができますように。
 わたしたちの主、イエス・キリストによって、
 アーメン。
 

Last updated: 2023/10/31