神ご自身、「わたしは、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしは、はばからずに次のように言うことができます。
「主は、わたしの助け手。わたしは恐れない。
人はわたしに何ができるだろう。」
(ヘブライ13:5〜6)

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詩情 Poetry

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、ご自身でも人を誘惑したりなさらないからです。むしる、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
(ヤコブ1:12〜15)
「命を愛し、
幸せな日々を過ごしたい人は、
舌を制して、悪を言わず、
唇を閉じて、偽りを語らず、
悪から遠ざかり、善を行い、
平和を願って、これを追い求めよ。
主の目は正しい者に注がれ、
主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
(ペトロT3:10〜12)
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 41     「霊魂であり精神でありたい」 2012年11月24日(土) 
 
私は、霊魂であり精神でありたい。
 
聖霊の息づいた精神そのものでありたい。
 
時代の中を逞しく突き抜ける霊魂と、強く尊い精神でありたい。
 
そして神にはで忠実で謙虚な霊魂であり、人には柔和で優しい精神でありたい。
 
私は、たとえこの肉体が滅びても、未来永劫に生き続ける霊魂であり精神でありたい。
 
 42     「神さまとの約束」 2012年11月1日(木) 
 
きっと、誰も覚えてはいないでしょうが、
人はみな神さまと何か一つ以上約束をして、
この世に生まれてきているのです。
 
でも、その約束は人それぞれ、まちまちで、
まずは、自分自身の心の奥底を掘り起こし、
探し出して見つけることから始めなければなりません。
 
その約束を見つけることは容易ではないのですが、
祈りをとおして神さまに問いかけながら、
探し求めているうちに、必ず見つかるときが来ます。
 
たとえ、どんなに苦しく辛い日々を過ごそうが、
どんなに虚しく惨めな自分を生きていようが、
それらはすべて、神さまとあなたの約束を見出すために必要な時間なのです。
 
人はみな苦しみをとおして神と出会い、
罪からゆるされて救われ、本来的な自分に解放されて、
神さまとの約束を想起することになるのです。
 
そして、人は回心することで新たな命に生まれ変わり、
神さまとの約束を果たすために、
真に生きる者となるのです。
 
 43     「愚直なまでに一途で真っ直ぐに」 2012年9月20日(木) 
愚かだと言われてもいい、
不器用だと言われてもいい、
ただ、ただ愚直なまでに一途で真っ直ぐに直向きに歩む者でいたい。
 
馬鹿だと言われてもいい、
下手くそだと言われてもいい、
ただ、ただ愚直なまでに一途で真っ直ぐに直向きに歩む者でいたい。
 
訥弁だと言われてもいい、
稚拙だと言われてもいい、
ただ、ただ愚直なまでに一途で真っ直ぐに直向きに歩む者でいたい。
 
貧者だと言われてもいい、
罪人だと言われてもいい、
ただ、ただ愚直なまでに一途で真っ直ぐに直向きに歩む者でいたい。
 
ただ、ただ主の道を歩むことに、愚直なまでに真っ直ぐに直向きでいたい。
 
 44     「それはそれ、これはこれ」 2012年9月20日(木) 
それはそれ、これはこれ。
いろいろあるのさ、この世の中は。
 
あれもあり、これもあり。
いろんな生き方があるのさ、この世の中は。
 
あんな人、こんな人。
いろんな人がいるのさ、この世の中は。
 
あれもだめ、これもだめ。
いろんなだめもあるのさ、この世の中は。
 
あれもよし、これもよし。
みんなよしもあるのさ、この世の中は。
 
そして、君もよし、僕もよし。
みんなよしが、いいんだ本当は…。
 
 45     「人生の真相」 2012年8月7日(火) 
人生の真相は悲哀でしょうか。
それとも、歓喜でしょうか。
人生の真相は、苦悩でしょうか。
それとも、悦楽でしょうか。
 
人生の真相は、苦楽の循環でしょうか。
それとも、喜怒哀楽の連結でしょうか。
 
この世が苦しみに満ちていればいるほど、
その分だけ救いがあります。
救いはわたしたちの生きる希望です。
ですから、苦しみに満ち満ちているこの世は、
希望に満ち溢れているということになるのです。
 
わたしたち人間に推しはかることは出来ないのですが、
わたしたち人間を遙かに超える方の計らいは、
森羅万象におよぶ恵みのうちに、
完成へと導かれていくのです。
 
よって、人生の真相とは、
喜びのうちにも、悲しみのうちにも、
楽しみのうちにも、苦しみのうちにも、
そして、すべてのどんな出来事のなかにも、
見いだされるものなのです。
 
 46     「御旨にかなうのならば」 2012年7月9日(月) 
 
私の静かで悲痛な嘆きの声は、
神に聞き届けられているのでしょうか。
 
もしも私の働きが、神から与えらあれた召命にかなっているのなら、
御旨のままに果たされることになるでしょう。
 
しかし、もしも私が目指しているものが、
神の御旨に添わないものならば、
世の明るみに出ることなく、
陽炎のように移ろいで、
やがては消えていくことでしょう。
 
私の働きが、時のしるしにかなっているのなら、
そこには主の名によって人々が集い、
彼らと共にその使命は成就されることでしょう。
そして、多くの人々が喜びに満たされ、
主の道を共に歩むようになるのです。
 
 47     「裁き」 2012年6月12日(火) 
神は、人を裁くことをお望みにはならない。
むしろ、悔い改め回心するものを愛をもって赦し、
罪から解放して、生きる希望を与え、
永遠の命さえをも約束して下さる。
 
しかし、人は人を裁きたがる。
自らの欺瞞や傲慢、独善や偏見、あるいは法律や慣習、
時として権威や権力を正義として振りかざし、
人を屈服させ裁きにかけて罪に定め、失望の闇に閉じ込めて、
ついには奈落の底へと突き落とし、死に追いやっていまう。
 
神は、人知を越えた御摂理をとおして、
分け隔てのない恵みと「時のしるし」を示し、
永遠の愛と忍耐をもって、人間の営みを見守り包んでいる。
神は限りなく慈しみ深く、御摂理は永久(とこしえ)に真理である。
そのすべては、神ご自身が良しとされた完全なもの。
 
しかし、人は幸福を求めるがあまり盲目となって、
神から与えられた知性と自由を、
自律や節制を忘れ欲望のままに乱用して、
神の御摂理をとおして与えられている恵みと「時のしるし」を見過ごし、
自らを破滅の道へと追い込んでしまう。
 
裁きは、神ご自身によるのではなく、
人が自ら招くものである。
神の裁きは約束どおり、
世の終わりまで果たされることはない。
 
 48     「得られない、わからない、叶わないままでいい」 2012年5月24日(木) 
どんなに一心に探し求めても、得られない真理がある。
絶えずわかろうと学び努めても、わからない知恵がある。
熱心に祈っても、叶わない願いがある。
そんな時は、自分自身の限界と傲慢さに気づいて、
探し求めても得ることができないという真理を、得るようにしよう。
 
学び努めてもわからないことがあるという知恵を、わかるようにしよう。
祈っても、叶わない願いがあるという謙虚さを、身につけよう。
探し求めても得られないものは、得ることができないものなのだから、
得ることができないままがいいに違いないのだ。
学び努めてもわからないことは、わからないのだから、
わからないままがいいに違いないのだ。
 
祈り願っても叶わないものは、叶うことができないのだから、
叶わないままがいいに違いないのだ。
得てして、人はそのようなことを手に入れたいという誘惑に駆られたり、
知りたいと願って、探求心に駆り立てられたり、
あたかもそうなることが当たり前なのだと身勝手な祈りをするけれど、
それは、ちょうどエデンの園の中央にある善悪を知る木の実を、
己がものにしようとするようなもの、人が決して触れても、食べてもいけないもの。
 
だから、どんなに探し求めても、学び努めても、祈り願っても、
得られないこと、わからないこと、叶わないことは、
人間が手に入れてはいけないことに違いないのだから、
得られなくても、わからなくても、叶わなくても、そのままでいいのだ。
それが、人知を遙かに越えて、
到底人には計り知れない神のみ業、御摂理、神秘なこと、人には不思議なこと。
 
 49     「信・望・愛」 2012年4月21日(土) 
それは自分のすべてを、神にゆだねきること。
見ることなく信じて、主に付き従う者は幸い。
その者は、必ずや主を見るであろう。
 
それは苦難を耐え忍び、神の救いを待ち望むこと。
福音を宣べ伝え、最後まで忍耐する者は、徳を身に付ける。
試練に磨かれた徳を身に付けた者は、希望を見出すであろう。
 
それは自分を、主のために惜しみなく与え尽くすこと。
主のために自分を捨てるほど、大きな愛はない。
神の愛に生きる者は、永遠の命を与えられるであろう。
 
 50     「生と死の迫間」 2012年4月6日(金) 
生きたいのに、生きることができなかった人。
生きたくないのに、生きなければならない人。
生きたいのに、死ぬことばかり考えている人。
生きたくないのに、死ぬことができない人。
 
生きているのに、死の恐怖におののき震えてばかりいる人。
死ななければならないのに、死ぬ定めから目を背け逃げてばかりいる人。
生きているのに、生きている喜びを実感できずに不平や不満を言ってばかりいる人。
死ななければならないのに、不老長寿・無病息災など自分の身を守ることを考えてばかりいる人。
 
生きることも死ぬこともできずに、ただ仕方ないから何となく生きている人。
生きることも死ぬことも受け入れて、ただ一生懸命生きている人。
生きる意味も死ぬ意味も分からずに、ただ独り闇の中を彷徨い歩く人。
生きる意味も死ぬ意味も求めて、ただ畏敬者にすべてをゆだねて光の中を生きる人。
 
生きる苦しみにうち拉がれて、孤独のうちに死んでいく人。
生きる苦しみに希望を見出して、他者とともに手を携えて生きる人。
生きる苦しみを神のせいだと罵り、悪魔に魂を支配されていく人。
生きる苦しみを神さまへの捧げ物として、愛のうちに自分の命と使命を果たしながら幸せに生きる人。
 
主よ、生きる苦しみのうちにこそ、希望と救いがあることを忘れさせないで下さい。
アーメン。
2012年4月6日(金)聖週間 聖金曜日の日に寄せて
 

Last updated: 2023/10/31