神ご自身、「わたしは、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしは、はばからずに次のように言うことができます。
「主は、わたしの助け手。わたしは恐れない。
人はわたしに何ができるだろう。」
(ヘブライ13:5〜6)

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詩情 Poetry

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、ご自身でも人を誘惑したりなさらないからです。むしる、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
(ヤコブ1:12〜15)
「命を愛し、
幸せな日々を過ごしたい人は、
舌を制して、悪を言わず、
唇を閉じて、偽りを語らず、
悪から遠ざかり、善を行い、
平和を願って、これを追い求めよ。
主の目は正しい者に注がれ、
主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
(ペトロT3:10〜12)
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 21     「たったその一言が」 2014年6月1日(日) 
「おはよう」という、あなたのたったその一言が、
一日の始まりを、喜びで満たすのです。
 
「こんにちは」という、あなたのたったその一言が、
優しい笑みを、もたらすのです。
 
「さようなら」という、あなたのたったその一言が、
明日への希望を、くれるのです。
 
「ありがとう」という、あなたのたったその一言が、
うちひしがれた心を、明るくするのです。
 
「ごめんなさい」という、あなたのたったその一言が、
闇に閉ざされた心の扉を、開くのです。
 
「愛しています」という、あなたのたったその一言が、
すべての労苦に、実を結ばせるのです。
 
 22     「諦めるということ」 2014年5月6日(火) 
諦めるということは、現実を明らかにみること。
 
現実を明らかにみるということは、
今、置かれている自分の環境や立場を受容するということ。
 
今、置かれている自分の環境や立場を受容するということは、
自分自身ができることとできないことを、しっかりと見極め、
自分ができることを、一生懸命にやるということ。
 
だから、諦めるということは、どうでもいいと自暴自棄になるということではなく、
我欲を捨て、今在る自分自身を生かし切るということ。
 
そして、自分に与えられた使命に向かって、自分自身を生き抜くことだ。
 
 23     「福音坂」 2014年5月6日(火) 
そこは、主の良い知らせを告げ知らせるために登らなければならない、
ちょっとしんどい福音坂。
主は、仰せになる。
「苦しみを通らなければ、永遠の命に入ることはできない」と。
 
大通りの信号を右に曲がると、目の前にはだかる急勾配の坂が見える。
そこを自転車を乗り降りしながら、登らなければならない。
学校へ向かう小学生のこどもたちが行き交うその坂で、
親や交通安全係そして先生たちの大人が、こどもたちを見守る。
桜の花びらが舞う中を、黄色い帽子にランドセルカバーの一年生の姿が眩い。
 
私もその光景の中に溶け込み、自転車を押しながらその坂をせっせと登る。
坂の頂上を見ると、気が滅入りそうになるので、
なるべく坂の頂上を見ないようにして、一生懸命に登る。
今日も福音に招かれた生徒たちに、良き知らせを告げ知らせるために、その坂を登る。
 
ようやく、坂の頂上に着いたところで少し下だり右に曲がると、
桜の花に彩られた並木道の先に校門が見えてくる。
校庭から、朝練習をしているソフトボール部の女子生徒たちが、
一瞬動きを止め、こちらに向かって元気よく挨拶をしてくれる。
「おはようございまぁーす!」
清々しい朝の瞬間。今日も一日頑張れる元気をもらう。
 
ここの生徒たちは皆、福音に招かれた者たち。
だから、この子らのために私はしっかりと、
主の良い知らせを宣べ伝えなければならない。
共に学び、考え、行動し、喜び合いながら伝えねばならない。
あなた方のすべての人が、神さまに愛されていると実感できるまで、
主の良き知らせを、伝えていきたい。
 
私は今日もそのために、この福音坂を登る。
 
 24     「傷ついた心の穴から」 2014年3月6日(木) 
傷ついた心の穴から
 
知らなかった自分が覗け見えてくる
 
そこから人の優しさが沁み込んでくる
 
聖霊の風がそよいでくる
 
打ちひしがれて今にも挫けそうな自分に
 
また生きる希望が湧き出てくる
 
古い自分が地に落ちて死に
 
新たな命に生まれ変わる
 
 25     「愛をつらぬく」 2014年1月28日(火) 
愛をつらぬくことは、至難の業です。
誘惑やつまずき、あきらめや弱さ、そして罪。
 
神さまの助けとゆるし、そして聖霊の働きなしに、
愛をつらぬくことは、困難です。
 
もちろん、自分の努力も欠かせませんが、
そのあとは、神さまにすべてを委ねるという信仰がなければ、
愛をつらぬくことは、できません。
 
たとえ、人は愛をつらぬくことを神さまに誓ったとしても、
ゆらぎ、迷い、不安に陥ります。
愛をつらぬくとは、人の力だけでは、およばないことなのです。
 
主よ、このわたしが神さまへの信仰と妻子への愛をつらぬくことができるよう、
わたしの弱さを受け入れ、聖霊をおくって強めてください。わたしたち家族の信仰と愛を強めてください。
 
アーメン。
 
 26     「息子たちに捧ぐ」 2013年12月29日(日) 
お前たちが幼かった頃、
「ぼくたちはどうして生まれたの?」と、
年端の行かぬこどもが得意な問いを投げかけられ、
その答えをせがまれたとき、
父はこう答えたものだったね。
「それはね、神さまがお前たちをお望みになったからだよ。」と…。
 
確かに、人は神さまがお望みになって、
はじめて生まれるものだと、
おとなとなったお前たちに、
今ふたたび問われたとしても、
父は、そう答えるだろう。
 
そして今、お前たちに、じゃあ、
「人は何のために生きるのか?」と問われたのなら、
父は、こう答えるだろう。
「人はな、
神さまに愛されていることに気づき、
神さまとのつながりをますます強めながら、
その愛をたくさんの人たちと分かち合うために生きているんだ。」と…。
 
父は、こう考えている。
「人はなぜ生まれ、何のために生きるのか?」という問いに、
生涯をかけて答え続けていくこと、
それが、神に望まれてこの世に命を授かった者の使命なのだと。
 
息子たちよ、
お前たちは紛れもなく、
神さまに望まれて、神さまのご意志によって、
この世に生を受けた。
そして、父と母はそのかけがえのない命を神さまから預けられ、
大切に育ててきた。
そのことを決して忘れてはいけない。
 
だから息子たちよ、
いつくしみ深い神さまの愛のうちに、
お前たちに託された神さまの御旨を、
神さまから与えられた能力の限り、
せいいっぱい生きるがよい。
 
2013年12月29日 聖家族の祝日の日に
 
 27     「この世で、いちばんのことを」 2013年11月8日(金) 
この世で、いちばん深い悲しみを、
この世で、いちばん大きな喜びにかえよう。
 
この世で、いちばん耐えがたい辛さを、
この世で、いちばん大きな楽しみにかえよう。
 
この世で、いちばんこらえきれない悔しさを、
この世で、いちばん大きな満足にかえよう。
 
この世で、いちばん哀れな惨めさを、
この世で、いちばん大きな誇りにかえよう。
 
この世に生きる、悲しみゆえに、辛さゆえに、悔しさゆえに、惨めさゆえに、
私は、主なる神さまによって、憐れみを受け満たされるのだから、
悲しいほどに優しく、憂えるほどに善良で、愚かなほどに正しい人間でありたい。
 
それが自分自身に死に十字架の死のうちに、
すべてを神に委ね生きることなのならば、それでいい。
 
 28     「私に欠けているもの」 2013年10月7日(月) 
この私に欠けているものは、信仰。
だから、主に依り頼んで、満たしてもらおう。
この私に欠けているものは、希望。
だから、主に願って、希望を持ち続けることができるようにしてもらおう。
この私に欠けているものは、愛。
だから、主に祈って、いつも愛することができるようにしてもらおう。
 
この私に欠けているものは、謙遜。
だから、主を畏れ、すべては神さまからのものだと悟れるようにしてもらおう。
この私に欠けているものは、ゆるし。
だから、主なる神さまを思い起こし、私がいつもゆるされていることを忘れないようにしてもらおう。
この私に欠けているものは、忍耐。
だから、主の救いを待ち望み、諦めずに生きることができるようにしてもらおう。
 
どんな時も、感謝しよう。
いつでも、絶えず祈ろう。
人はみな、何かに欠けている者なのだから、
神さまに、その欠けているものを満たしてもらおう。
そのために、神さまの前に、貧しく、小さく、弱い者でいよう。
 
 29     「神のみ前に超然と立つ」 2013年9月3日(火) 
人の悪意に満ちた根も葉もない噂や虚偽の証言、
謗りや中傷、そして嫉妬や妬み。
 
人は保身や出世のために、したたかに他人を貶めようと、
醜悪な臓器を剥き出しにして、襲いかかろうと狙っている。
 
権力闘争、利権の争奪、飽くなき欲望の追求。
世俗にうごめく私利私欲の底なし沼が、
人の揚げ足を取り、その中に引きずり込もうと、
いつでもその隙を窺っている。
 
しかし、そんな現実社会の只中にあればこそ、
わたしは、神のみ前に超然と立つ。
 
恐れることなく、勇気をふるって、
怒気を押し殺して腹を立てることなく、
そして、悲しいほどに優しく憂えた表情で、
我が身を呈してすべてを呑み込み、
わたしは、神のみ前に超然と立つ。
 
決して傲り誇ることなく、謙遜さと直向きさをもって、
わたしは、神のみ前に超然と立つ。
 
 30     「心の平安」 2013年9月3日(火) 
人をゆるすなどと思い上がってはいけません。
もちろん人をゆるさないということも傲慢なことです。
人をゆるすもゆるさないも、それは人を裁くということです。
 
裁きは、神さまだけができる業です。
弱くてもろく身勝手な人間は、不完全で欠けた存在です。
ですから、私たち人間は神さまの憐れみと恵みである聖霊によってのみ満たされて、
真に生きる者となるのですから、互いに互いをありのまま受け入れ合って努力するだけです。
 
人間とは、余りにも悲しいほどに愚かな存在です。
人間の犯す罪を決して良しとするというのではありません。
自分の罪も相手の罪も、罪は罪としてそのまま神さまに委ね、
自分のすべてを神さまに明け渡すのです。
 
そうすることで人間は神さまから満たされ常に新しくされて、
神さまから与えられた自分を生きることに一生懸命になればいいのです。
そこには、必ずや永遠の心の平安が訪れます。
 

Last updated: 2023/10/31