嘆いてばかりいても、何も始まりませんし、心が弱るばかりです。
立ち止まって、後ろを向いてばかりいても、前を向かなければ一歩も踏み出すこともできません。
過ぎ去ったことに、いつまでも囚われていては、何も始まりません。
それよりも、今できること、やらなければならないことに専念し、前に進むのです。
先のことなど誰にも分かりません。だからこそ、希望が持てるのだと思います。
この先、どうなるか分かりませんが、主なる神さまの計らいと愛しみに満ちた憐れみに信頼して、すべてを希望のうちに委ねるのです。
自分の将来の身を思い煩い、自分を小さくしてしまうよりも、その将来に限りない希望と可能性を抱き、すべてを主なる神に信頼して預ける方が、喜びに満ちて癒やされることでしょう。
不安が大きければ大きいほど、その裏返しは限りない希望でもあります。
どのような処遇になろうとも、主の計らいは、限りなく憐れみに満ちていますから、私が死に追いやられることはないばかりか、よりよく生きるための憐れみに満ちたものです。
すべの出来事、すべての時、そして私のすべての思いは、主が用意して下さったところへ導かれるためのものです。
ですから、何を恐れることがあるでしょう。わたしに起こったすべてのことは、主が与えて下さったすばらしい恵み。ただただ、ありがたく受け取って、それを生きるだけです。
わたしのうちには、既にこの世に生ける主がおられます。そのわたしを支配する主に逆らうことも取り除くことも、わたしにはもうできないのです。
わたしは、わたしの意志に反して、わたしうちにいる主に突き動かされ、生かされているのです。
それによって、とうとう、わたしはわたしのうちにいるわたしを乗り越えようとしています。
既に、わたしは、わたしの幸せのほぼすべてを失いましたが、わたしはわたしのうちにいる方の喜びを、なんとかして掴もうとしています。
れからどんなことが待ち受けていようとも、心騒がさずすべてを飲み込み、受け入れることができるようにしたいと思うのです。それは、限りなく大いなる喜びに変わることでしょう。
もう既にわたしのうちに入り込んだ主イエス・キリストとともに、その日が来るまで、すべてに耐え忍び、すべてに希望し、すべてに委ねるのです。
強さは、弱さのうちに発揮されるもの、忍耐は我慢することではありません。そこには限りない希望に満ちているからです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むのです。
主よ、どうかこの弱く貧しいわたしが思い煩い嘆く時、聖霊をおくって強めてください。
わたしが自分を捨て、すべてのためとなることができるために…。
|