神ご自身、「わたしは、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしは、はばからずに次のように言うことができます。
「主は、わたしの助け手。わたしは恐れない。
人はわたしに何ができるだろう。」
(ヘブライ13:5〜6)

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詩情 Poetry

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、ご自身でも人を誘惑したりなさらないからです。むしる、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
(ヤコブ1:12〜15)
「命を愛し、
幸せな日々を過ごしたい人は、
舌を制して、悪を言わず、
唇を閉じて、偽りを語らず、
悪から遠ざかり、善を行い、
平和を願って、これを追い求めよ。
主の目は正しい者に注がれ、
主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
(ペトロT3:10〜12)
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 111     「なるように、なる」 2008年4月8日(火) 
「なるように、なる」とか、
 
「ならぬようには、ならない」とか、
 
よく言うけれど、それは本当にそのとおりでしょう。
 
渦中のただ中にいる時は、翻弄され自分を見失い、
 
周りさえも見えなくなって、混乱の一途をたどり、
 
困惑するばかりで、どんなに頑張っても、
 
すべてが徒労に終わってしまいそうな焦燥感に襲われるものです。
 
でも、実はその中にあっても、
 
いえ、そうだからこそ、神様のはからいは確実に働くのです。
 
それは、決して自分の思惑どおりではないにしろ、
 
ちょうど良いように落ち付くものなのです。
 
つまり、「なるように、なる」のです。
 
神様への信頼さえあれば、神様が望まれるままに、「なるように、なる」 のです。
 
私たちは、苦難にあった時にこそ、
 
神様のこのはからいの中にいることを、忘れてはなりません。
 
自分ができることをすべてをやり尽くして、完全に無力となった時に、
 
必ずや、ある気付きが訪れます。
 
それは、神様が望まれるままに、「なるように、なる」のだという確信と信頼です。
 
このことが、自分の内に泉が湧いてくるがごとく、
 
深く、はっきりと悟るようになるのを自覚するのです。
 
 112     「主よ、私は…」 2008年3月10日(月) 
主よ、私はあなたからいただいた命と使命を果たしていこうとする者です。
どうぞ、いただいた命を生き抜き、果たすべきことを成し遂げることができますように、私に力を与えてください。
 
主よ、私は耐えるに弱く、信じるに揺らぎ、悟るに疎い愚かな者です。
どうぞ、私のそばを離れず、いつも共にいてください。
 
主よ、私はあなたが歩まれた道をたどり、歩いていこうと努めている者です。
どうぞ、私の行く先々で道に迷わぬよう、道しるべを表して導いてください。
 
主よ、私は私が望むようにではなく、あなたの御旨のままに生きたいと願っている者です。
どうぞ、あなたの慈しみ深い愛によって、あなたの御旨を示してください。
 
主よ、私はあなたの教えに聞き従い、日々過ごしていきたいと望んでいる者です。
どうぞ、私に勇気と希望を与え、強めてください。
 
主よ、私はあなたの掟に従い、あなたの教えを述べ伝えようとしている者です。
どうぞ、あなたの教えを告げ知らせるにふさわしい者としてください。
 
主よ、私はあなたの愛とゆるしによって、永遠の命に入りたいと祈る者です。
どうぞ、私を顧みて私の罪をゆるし、私の信仰を強めてあなたに近づけてください。
 
 113     「あの方に会うために」 2008年2月18日(月) 
見ようとしなければ、見えず、
聞こうとしなければ、聞こえない。
 
手を伸べなければ、つかめず、
足を運ばなければ、辿り着けない。
 
求めなければ、与えられず、
叩かなければ、開かれない。
 
それが、あの方と会うための道。
決して遠くない、傍らにある道。
いつでも、通じている道。
 
 114     「正しい者は一人もいない」 2008年2月8日(金) 
かれらはどうでしょうか。
 
悟ることもなく、神を探し求めない。
 
確信していると思っているが、混迷していることに気づかない。
 
善を行っていると言いながら、不正を行っている。
 
かれらは神を知らず、畏れることもない
 
正しい者は一人もいない、誰一人として正しい者はいない。
 
 
かれらはその舌で人を欺き、唇に毒を塗り、口は呪いの言葉をはく。
 
その手は罪のために汚れ、持つものはすべて壊れて朽ちていく。
 
その足は自分のためにだけ動かし、立ち止まることなく、求める者の前を通り過ぎてゆく。
 
かれらは平和への道標を見過ごし、その行き先には退廃と破滅の嘆きがある。
 
彼らの目には神の畏れがない。
 
正しい者は一人もいない、誰一人として正しい者はいない。
 
 
では、わたしはどうでしょうか。
 
優れているのでしょうか、それとも劣っているのでしょうか。
 
正しいのでしょうか、それとも間違っているのでしょうか。
 
信仰を持っていると言いながら、神に信頼をおいているのでしょうか。
 
神を知っていると言いながら、神を畏れているのでしょうか。
 
正しい者は一人もいない、誰一人として正しい者はいない。
 
 115     「御旨のままに」 2008年1月27日(日) 
たとえ、人知を尽くして考え抜いたことであっても、
                          思い通りに事は運ばない。
 
それが、正義や善行などの美しいことにしろ、
          策略や陰謀などの目論見にしろ、
            人の為す事である限り、思い通りに事は運ばない。
 
神は人に与えた自由の故に人の過ちを見過ごすが、
                     その報いをとおして真実を学ばせる。
 
人は罪の償いの中で神と出会い、自分の愚かさと弱さを知る。
 
すべては、神の御旨のままに、神ご自身がお望みになるようになる。
 
だから、どんな煩いも悩みも不安も無意味なこと、
                     ましてや人が神の御摂理に探りを入れるなど、到底無駄な事。
 
人はただ、神の御光を探し求め、御心を感じ、御声に聞き従い、御業に信頼して生きるだけ。
 
御旨のままに生きるのがいい、それでいい、それがいい、それでいい。
 
 116     「わが息子たちへ」 2007年9月25日(火) 
 息子たちよ、
生きるとは闘いである。
生きるとは、神様が望まれる自分自身になるための闘いである。
 
 そこに至るためには、たくさんの試練を乗り越えなければならない。
だから、人生には、自分の意に反することや、自分の望まないこと、
自分の思い通りにならないことが、まま起こる。
 
 それは自分の意志の弱さや迷いから、
他者の偽善や裏切りから、
全く予期も想像もつかないことから、
自分のあり方如何に関わらない出来事からやってくる。
しかし、どんなことが起きようとも、それらのすべてのことは、
神様からの問いかけ、神様のみ摂理にかなってのこと。
 
 どんな試練も、おまえたちを強く育てていくためのもの、
神様からの贈り物、神様がおまえたちを鍛えてくださっている時。
だから、苦しく辛いことだが、それらを受容し乗り越えていかなければならない。
 
 そして、その先には真の喜びと進歩と成長、
そして神様が望まれる自分との出会いが待っている。
これが神様の国に通じる道だ。
 
 どんなに辛くて苦しいときでも、
神様は、いつでもおまえたちの傍らにいてくださる。
悲しみのどん底にいて、力尽きて萎えてしまった時でも、
神様は、おまえたちを支えていてくださる。
 
 息子たちよ、
生きるとは闘いである。
生きるとは、神様が望まれる自分自身になるための闘いである。
 
 117     「今日この日、一日」 2007年9月25日(火) 
 嬉しくても、悲しくても、
神様がくださった、今日のこの日、一日。
 
 喜んでも、苦しんでも、
神様が祝福してくださった、今日この日、一日。
 
 楽しくても、辛くても、
神様が見守っていてくださる、今日この日、一日。
 
 笑っても、泣いても、
神様がいつも一緒にいてくださる、今日この日、一日。
 
 まかせても、憂えても、
神様が支えていてくださる、今日この日、一日。
 
 安心でも、不安でも、
神様の懐にいる、今日この日、一日。
 
 にぎやかでも、淋しくても、
神様の愛に満ちた、今日この日、一日。
 
 晴れても、雨が降っても、
穏やかでも、風が吹いても、
神様からの恵み、今日この日、一日。
 
 今日この日、一日、神様といっしょ。
だいじょうぶ、安心して今日この日の自分を生きよう。
 
 118     「信頼」 2007年8月4日(土) 
 何も持っていないようでいて、
     必要なもののすべてが与えられていて、
 何も出来ないようでいて、
     やるべき事を成せる力が与えられている。
 
 そう、あなたは信頼するに余りあり、
     私の善良なるところも、醜悪なるところも、
 全てをご存じの上で、生かしてくださる。
     あなたは、私の想像を遙かに超えて、在って在るお方。
 
 そんなあなたの愛に信頼して、
     生きて行ける者に、私はなりたい。
 
 119     「共に歩もう」 2007年8月4日(土) 
 掻き立てられなくたっていいさ。
急き立てられなくたっていいさ。
追い立てられなくたっていいさ。
 
 焦ってみても、そんなに事は大きく変わりはしないさ。
孤軍奮闘するのもいいけど、それは自分を孤独にするだけさ。
それよりも、ゆっくりと着実に、そして周囲をよく見て、
他者と共に歩むことも大事なんだ。
その時々のしるしをよく見きわめ、
主の望みを見定めることが肝要なんだ。
 
 だから、その方の聞こえぬ声を聞き、
見えぬ指図に従い、
触れることのできない袂を掴み、
辿り着いたところに立って、
希望と信仰のうちに、愛に満たされながら、歩み続けること…。
それが、僕の一番の望みなんだ。
 
 120     「愛」と「恐れ」 2007年5月26日(土) 
 「愛」と「恐れ」は、対比して語られますが、わたしが、思い上がらないようにと、与えられた「とげ」、は、「恐れ」かも知れません。
 
 将来に対する恐れ、未知なるものに対する恐れ、自分の弱さに対する恐れ、死に対する恐れ、すべては、得体の知れないものばかりです。
 
 しかし、それらは、どれもこれも、考えても仕様がないものばかりです。そして、それらはみな、私を打ちのめすために送られた「サタンの回し者」のようなものです。
 
 聖パウロは、『この「回し者」について、このように言っています。
 
 わたしは「この回し者」を立ち去らせてくださるように、三度主にお願いしました。しかし、主は、「お前はわたしの恵で十分だ。弱さにおいてこそ、力は余すところなく発揮されるのだ」とお答えになりました。ですから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んでわたしは自分の弱さを誇ることにします。わたしは、弱っているときこそ、強いからです。」』…と。
 
 本当の愛は、「恐れ」ない、愛は、「恐れ」を締め出す。全ての困難を乗り越えさせてくれるもの、それが「愛」です。そう考えると、もしかすれば「愛」と「恐れ」は表裏一体のもので、「恐れ」を乗り越えるために「愛」があるのかも知れません。
 
「恐れ」を覚えたとき、それを乗り越えるために主イエス・キリストの名において「愛」を祈り求めます。
 
主イエスは、こう仰せになります。
 
 「神を信じなさい。あなたたちによく言っておく。誰でもこの山に向かい、『立ち上がって海に飛び込め』と言い、しかも心に疑わず、自分の言ったようになると信じるのなら、それは聞き入れられる。それゆえ、あなたたちに言っておく。あなたたちが祈り求めるものはすべて、かなえられるものと信じなさい。そうすればそのとおりになるであろう。」…と。
 
 『主よ、どうぞこのわたしが「恐れ」に支配されてしまわないように、「愛」の力を「聖霊」とともに送って下さい。「恐れ」におののき心騒ぐとき、そこから逃げてしまわないように「勇気」と「平穏」の恵みを送って下さい。』
 
 「このわたしが、いつでもあなたの御心にかなうものでありますように、いつもわたしと共にいて愛と聖霊の力で満たして下さい。 アーメン。」
 
2007年5月27日聖霊降臨の日に寄せて

Last updated: 2023/10/31