神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、.に不思議な業を、したでは、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。
(使徒言行録2:17〜21)
 

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『この民のところへ行って言え。
あなた達は聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。』
(使徒言行録28:26〜27)
キリスト教研究 宗教学・教理学・宗教史・哲学・宗教科教育法
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 41     「聖母マリア様のFIAT」 2010年5月14日(金) 
みなさん、おはようございます。今朝は、今月の28日、金曜日に行われる「聖母月のミサ」について、お話しします。
 
 「聖母月のミサ」ですが、カトリック教会は古くから、さわやかな風が薫る、麗しい時期である5月を、聖母マリア様にちなみ、「聖母月」としてマリア様を深く思い起こし、祈る月間としてきました。
 
 そこで、本校はカトリックのミッションスクールの女子校であることから、創立以来、その教育目標を「マリアを仰ぎ、清く正しく和やかな女性」として、聖母マリア様を理想の女性として掲げてきたのです。
では、具体的には聖母マリア様のどのようなところを、目標として学んでいけばよいのでしょうか。
 
 校長先生は、日頃から明の星生のイメージを、「爽やか、しなやか、健やか、清楚、聡明」の頭文字を取って「さしすせそ」で表現されているように、これはマリア様のイメージそのものです。また、私たちが、マリア様から最も学ぶべき事は、神さまに対する「従順」の徳です。これをラテン語では、「FIAT(フィアット)」といいますが、この言葉は、神の御使い大天使ガブリエルから、神のひとり子を宿すという、尋常では受け容れ難く、信じ難い預言を告げられた時に、「仰せの通り、この身になりますように」と神の御言葉を受け入れた、乙女マリアの神に対する「従順な返事」、そのことを意味するものです。
 
 人生には、受け容れ難く信じがたい、決して自分の望まない出来事が、まま起こるものです。しかし、私たち人間は、たとえそれが苦しみであったとっしても、そんな目の前に突きつけられた出来事を、否が応でも自分のものとして受容し、生き抜いて行かなくてはならないのです。実に聖母マリア様も、一度ならず何度となくそのような体験をなされたことでしょう。中でも、最も受け容れ難い苦しみは、ご自分の最愛の子イエスが、無実の罪によって辱められ、いたぶられて十字架にかけられ、殺されるのを目の当たりにしたことでしょう。我が子が、そのような理不尽な苦しみを受け殺されるのを、どんな母親が望むことでしょうか?しかし、聖母マリア様は、そのような受け容れ難い残酷な現実からも逃げることなく、最後まで愛する我が子の受難に立ち会い、苦しみを共にしたのです。聖母マリア様とは、そんな気丈で、強く逞しい女性であり、母であったのです。
 
 私たちの日常生活にも、苦しい時が必ずあります。そんな時にこそ、私たちを助け、救いに導いて下さるのが、聖母マリア様です。特に、マリア様の神に対する従順な信仰をあらわす、「仰せのとおりこの身になりますように」という「FIAT(フィアット)」という態度に倣いましょう。とても難しいことかも知れませんが、この聖母マリア様の「FIAT」こそが、神に対する完全な信仰、信頼そのものと言えるからです。
 
 20世紀最大のロックグループ、かの有名なビートルズは、マリア様の「FIAT」を「Let it be」という歌詞にして歌いました。日本語では「なすがままに」と訳されていますがあれは誤訳で、本来の日本語訳は、「FIAT(フィアット)=つまり、神さまが仰せのとおり、この身になりますように」です。名曲ですので知らない人は、一度は聞いてみて下さい。 では、5月28日の「聖母月のミサ」には、「FIAT(フィアット)」という思いを胸に抱いて、ごミサに与るようにいたしましょう。
 
では、今日も一日良き日でありますように。アーメン。
 
 42     「目を覚ましていなさい」 2010年3月19日(金) 
おはようございます。
 
 今読まれているマタイ書の24章は、弟子たちの求めに応じて、「終末」とは、どのようなことなのか、いつおきるのか、そしてどのような心構えで「終末」を待つべきか、についてイエスが語っているところです。
 
 今日の朗読カ所は、神は、「終末」に私たち人間を正義によって裁くため、主であるキリストを必ずこの世に再臨させると自らの再臨を預言し、その「終末」はいつ来るか誰も知らないから、常に「目を覚ましていなさい」と弟子達たちを諭しているところです。
 
 「終末」と聞くと、とかくこの世が終わり、世界が破滅してしまうことを連想しがちですが、「終末」とは、私たち人間が神によって裁かれ、今までの世界が一変し、新しい世に変わることを意味するのであって、決してこの世が終わってしまうことを、意味するものではありません。しかし、「終末」のその時、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」などの「終末」の徴が現れ、大きな苦難がやってくるとというのですから、恐れを抱かないほうがおかしいかも知れません。私たち人間は、いつもの日常に安心を抱き平穏を感じるのであって、何かが大きく変化することには、普通は不安や恐れを抱き、今までの生活がチェンジすることなどは、望まないものです。しかし、変わらなければならない時、変わらざるを得ない時、神による裁きの時こそが、「終末」ということなのです。
 
 さて、「終末」にイエス・キリストの再臨が訪れるのが確かであるとしたのなら、私たち人間は、どのような態度で生きたらよいのでしょうか。今日の朗読カ所は、それを示唆しているのです。それを解き明かす前に、実は今日の朗読カ所は、旧約聖書のダニエル書からの引用です。ダニエル書は大預言書の一つであり、紀元前2世紀ごろ、迫害を受けていたイスラエルの民に向けられた希望の書であると言われています。では、そのカ所を読んでみましょう。ダニエル書の12章1〜3節、旧約聖書の1401ページです。開いてみて下さい。
 
 その時、大天使長ミカエルが立つ。
 彼はお前の民の子らを守護する。
 
 その時まで、苦難が続く
 国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。
 
 しかし、その時には救われるであろう。
 お前の民、あの書に記された人々は。
 多くの者が地の塵(ちり)の中の眠りから目覚める。
 ある者は永遠の生命に入り
 ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
 
 目覚めた人々は大空の光のように輝き
 多くの者の救いとなった人々は
 とこしえに星と輝く。
 
とあります。
 
 揺れ動く時代の中で、神はいつイスラエルの民と交わした約束を、果たしてくださるのかという問いと、神は必ず「救いの約束」を果たしてくださるとの信仰と希望が語られ、そのような中で、神が人類の歴史に介入し、その御手による世界の支配がはじまるとの「終末」をダニエル書は預言しています。この思想が、やがて新約時代に受け継がれ、神による救いの業としての「終末」思想になったのです。
 
 私たち人間は、いつもの日常の平穏に安心を抱きこれを望みますが、実際の現実はそうはいきません。皆、さまざまな問題を抱え、悩みながら苦しみながら毎日の生活を送っています。ある時は、学校の成績が下がったとは言って悩み、またある時は友人関係がうまくいかないとは言って嘆き、またはある時は家族の誰かが大病を患ったとは言ってうろたえ、時の流れの只中で起こる様々な自分の望まない出来事に、翻弄されてしまうのです。それが実際の日常というものです。
 
 では、そのような日常の生活の中で、「終末」を迎えるにあたって大切なことは何でしょうか。それは、神に忠実であることです。神に忠実であるということは、神のみ言葉と救いの約束に対する信頼、そして希望の心を持つことです。「終末」の時代には、大きな苦難と試練があっても、「その時」には必ず神によって「救われる」からです。
 
 新約聖書の共観福音書には、終末を語る黙示録が他にも、ルカ(17:20〜37)とマルコ福音書(13)があり、先週から読まれているマタイ書の24章の部分は、小黙示録とも呼ばれるところです。「終末」には、まず陣痛のはじまりとして、偽メシアの出現、戦乱、地震、飢饉、迫害がおこり、次いで「荒らす憎むべきもの」の出現、偽メシアと偽預言者が人を惑わし、最後には天変地異が起こり、「人の子」であるイエス・キリストが再び出現する再臨とつながります。
 
 主の再臨は、イエス・キリストの復活とその栄光の現れによって、すでにはじまっており、世界は終末の時代に生きています。イエス・キリストにこそ、世界を完成させる新しい「救い」があると、新約聖書は教えています。ですから私たちは既に、キリストの来臨を生きているといっていいのです。
 
 今日の福音は、「終末」のその日、その時は、父なる神ご自身だけがご存じであるから、いつも「目を覚ましていなさい」と私たちがどのような姿勢で「終末」の時を生きていくべきかを教えています。言うまでもなく、「目を覚ましていなさい」とは、24時間ずっと起きて眠ってはいけないということではなく、「神に対する信仰と希望を常に持ち、神による救いを確信して待っていなさい」という心のあり方を意味しているのです。
 
 では、今日のお話の締めくくりとして、マルコによる福音書 13章24〜32節を読んで終わりましょう。新約聖書の89ページです。開いて下さい。
 
 「それらの日には、このような苦難の後、
 太陽は暗くなり、
 月は光を放たず、
 星は空から落ち、
 天体は揺り動かされる。
 
 そのとき、
 人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、
 人々は見る。
 
 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、
 地の果てから天の果てまで、
 彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
 
 「いちじくの木から教えを学びなさい。
 枝が柔らかくなり、葉が伸びると、
 夏の近づいたことが分かる。
 
 それと同じように、あなたがたは、
 これらのことが起こるのを見たら、
 人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
 
 はっきり言っておく。
 これらのことがみな起こるまでは、
 この時代は決して滅びない。
 
 天地は滅びるが、
 わたしの言葉は決して滅びない。」
 「その日、その時は、だれも知らない。
 天使たちも子も知らない。 父だけがご存じである。
 
 
 今日も一日、良き日になるよう、神さまと自分の為すべきことに忠実でありましょう。
アーメン。
 43     「罪の掟」 2009年11月12日(木) 
 2007年(平成19)3月、千葉県市川市のマンションで英国人の英会話講師、リンゼイ・アン・ホーカーさん=当時(22)=が他殺体で見つかった事件で、死体遺棄容疑で逮捕された市橋達也容疑者(30)、彼は警察の捜査をかわすため、2年7ヶ月という月日を変装や偽名の使用さらには整形手術で顔の特徴を変えてまで逃走し、大都市を転々としながら潜伏生活を続けていました。
 
 事件の真相はこれからの警察の事情聴衆でやがては明らかになるとして、私はこの事件で人は自分で犯した罪を欺き、罪の償いから逃れようとする性向があることに着目しました。旧約聖書の創世記第4章に「カインとアベル」の話があることは皆さんもご存じのことでしょう。この物語では、カインとアベルが神に献げ物をした際に、兄のカインは自分の献げ物に神が目をとめられなかったことを怒り、弟アベルに嫉妬し殺してしまいます。そこで神は、兄カインに問います。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」カインは答えす。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」カインは、自分の弟アベルを殺め、殺人という大罪を犯したにもかかわらず、白を切り嘯くのです。
 
 旧約聖書の創世記のいくつかの物語は、人間の本性の一面である醜さや狡さ奢り偽善などにを赤裸々に描き、人間の悪なる部分を諌め諭しています。そうです、人間とは自分が犯した罪を自覚していてもそれを認めず、他人や社会に対して隠そうとするものなのです。時には、何が悪いといわんばかりに堂々と罪をまことしやかに誇示する者さえいます。こうなってしまえば、良心の呵責や心の声も何もあったものではありません。
 
 皆さんはいかがですか?勿論、殺人という大罪とまでは行かないまでも、市橋容疑者がとった自分の罪を隠し通そうとしたり周囲の人々や社会を欺こうとするその行為が、自分にはないと言い切れますか?登校の際に、学校が近くなればスカートをおろす人や下校時に校舎を出たとたんにスカートを短くする人、または、髪を染めているにもかかわらず地毛だと言い張ったり、直そうとしない人等々…。これらの行為やその行為の根源となっている心は、一橋容疑者の人を騙そうとする心と共通するものです。
 
 人には、やっていいことと、やってはいけないことがあります。そして、やってはいけないことをしたときには、自らが犯した罪を認め、謝罪し、必ず罪の償いを実行しなければなりません。この三つが大事です。自分が悪かったと自分の罪を認めること。自分が犯した罪で少なからずご両親や社会に迷惑をかけたり、自分自身を汚しています。そのことを謝るのです。「ごめんなさい。」と。そして、二度と同じ罪を犯さないことを決心するのです。最後に、自分が犯した罪に対して行動を持って償いをして本当の謝罪になるのです。
これが「罪の掟」です。
 
 では話の締めくくりに、人としてしてはならない掟を「仏教の五戒」とキリスト教がユダヤ教から受け継いでいる「モーゼの十戒」を紹介して終わります。
 
「仏教の五戒」 
1.不殺生戒…これは、生き物を殺してはならないということ。
2.不偸盗戒…これは、他人の財産を盗んではならないということ。
3.不邪淫戒…これは、みだらな行為をしてはならないということ。
4.不妄語戒…これは、嘘をついてはならないということ。
5.不飲酒戒…これは、酒を飲んではならないということ。
 
「モーゼの十戒」
1.わたしのほかに神があってはならない。
2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。いかなる像も造ってはならない。
3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4.あなたの父母を敬え。
5.殺してはならない。
6.姦淫してはならない。
7.盗んではならない。
8.隣人に関して偽証してはならない。
9.隣人の妻を欲してはならない。
10.隣人の財産を欲してはならない。
 
 44     「実のないいちじくの木」の話 2009年1月14日(水) 
 おはようございます。今朝は、以前お話しした「実のないいちじくの木」の話の種明かしをしましょう。まず、もう一度マルコによる福音書第11章12節〜14節のカ所を読み返してみます。
 
  翌日、一行がベタニアを出て来たとき、イエスは空腹をおぼえられた。遠くに葉の茂ったいちじくの木 があるのを見て、実がなっていないだろうかと見に行かれた。しかし、行ってみると、葉のほかには何も なかった。いちじくの時期ではなかったからである。イエスはその木に向かって「今後永遠に、おまえの 実を食べるものがいないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
 
 更に次の日の朝の話ですが、マルコによる福音書12章20節〜26節にはこう記されています。
 
 朝早く、弟子たちは通りがかりに、先ほどのいちじくの木が根本から枯れているのを見た。そこでペトロは思い出して、「先生、ごらんなさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れています」とイエスに言った。イエスは仰せになった。「神を信じなさい。あなたたちによく言っておく。誰でもこの山に向かい、『立ち上がって海に飛び込め』と言い、しかも心に疑わず、自分の言ったようになると信じるなら、それは聞き入れられる。
 
 文字通りに読めば、実のなるはずのない季節外れの時期に、いちじくの木に実がなっていないからといって、「今後おまえの実を食べるものがないように」と、いちじくの木を呪うなどというイエスの行動と言動は、常軌を逸しているとしか考えられません。勿論、そこには別な意味が込められているわけですが、では「実のならないいちじくの木」とは何を意味するのでしょうか。そして、「今後おまえの実を食べるものがないように」というイエスの言葉の真意は何なのでしょうか。また、「実のならないいちじくの木」が翌日枯れていたということは、どのような意味なのでしょうか。そして、その後に続く信じることへの心構えについてのイエスの教えとは何なのでしょうか。
 
 まずこの話の状況としては、イエスの一行がベタニアからエルサレムに行く途中でのことで、しかもイエスの宣教活動が始まってから三度目のエルサレムへの上洛で、この時にイエスは捉えられ十字架にかけられてしまうのです。よって、ここでいう「実のないいちじくの木」とは、これから行くイスラエルの都エルサレムのことです。当時のユダヤ社会では、いちじくの木は平和と繁栄の象徴で、エルサレムはユダヤ人にとっては、まさに信仰の拠点であり、心のよりどころであるとともにユダヤ人の平和と繁栄のシンボルだったのです。
 
 ですから「実のないいちじくの木」とは、イスラエルの都にはもう神の恵みは実らないということの預言であるのです。その証拠にイエスの教えはエルサレムの都では度々受け入れられず、非難されることもしばしばでした。また、最も神聖な場所であるエルサレムの神殿の中で市場が開かれるなど、当時のユダヤ人達は堕落し汚れていたのです。事実、イエスは神殿で商売をしている商人たちに激怒し、鞭を振り回して大暴れして、神殿を汚していることを非難しています。つまり、「今後永遠に、おまえの実を食べるものがいないように」と言われたのは、エルサレムの都において神の恵みや教えを受け入れるには、ふさわしくない状況になっていたということなのです。そして、最後には弟子たちに「神を信じなさい。あなたたちによく言っておく。誰でもこの山に向かい、『立ち上がって海に飛び込め』と言い、しかも心に疑わず、自分の言ったようになると信じるなら、それは聞き入れられる。」と言って、神への信仰に立ち返ることの重要性を諭しているのです。
 
 また、「実のならないいちじくの木」が翌日枯れていたということも、イスラエルの都エルサレムが本当の意味における神への信仰に立ち返ることなく、イエスを受け入れないことでやがて滅びること、そしてイエス自身もエルサレムで囚われのみとなって、殺されてしまうという預言でもあるのです。この後、これらの預言はいずれも成し遂げられます。
 
 これらが、「実のならないいちじくの木」の話の種明かしです。
 ところで、中東では現在も戦争が絶えない状況ですが、現代のエルサレムも「いちじくの木」が表すような平和と繁栄の象徴であって欲しいと願いたいものなのですが…。
 
 45     「福音書の謎」 2008年9月22日(月) 
 おはようございます。今朝は今読まれているマルコによる福音書に記されている数々の謎の中から、「実のないいちじくの木」(第11章12節〜14節)の話をしましょう。まず、もう一度このカ所を読み返してみます。
 
 翌日、一行がベタニアを出て来たとき、イエスは空腹をおぼえられた。遠くに葉の茂ったいちじくの木があるのを見て、実がなっていないだろうかと見に行かれた。しかし、行ってみると、葉のほかには何もなかった。いちじくの時期ではなかったからである。イエズスはその木に向かって「今後永遠に、おまえの実を食べるものがいないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
 
 文字通りに読めば、実のなるはずのない季節外れの時期に、いちじくの木に実がなっていないことで自分の空腹が満たされなかったからと言って、「今後おまえの実を食べるものがないように」と、いちじくの木を呪うなどというイエスの行動と言動は、常軌を逸したあまりにも愚かで気違いじみたものとしか考えられません。
 
 きっと皆さんもそこのカ所の朗読を聞いたとき、何かしらすんなりと入ってこない、何かが引っかかるような違和感を感じたことでしょう。そうです。これが聖書の中にある不思議で謎めいているところで、数々のたとえ話と共通するある種の手法でもあるのです。それは簡単に言うと、神の教えは明快で単刀直入には伝えないという方法なのです。文章や言葉の細部にまで気を配り、神の国と救いを求め、神に従う者だけにしか伝わらない信仰の奥義なのです。このような手法は、四つの福音書にある程度共通しているのですが、マルコによる福音書のように文学的叙述的な手法を駆使しているのは、ほかにはないと言っていいかもしれません。ですから皆さん、聖書とはただ漫然と読んでいたのでは、その本当の真意は伝わらないようにできているのです。救いを求める者にしか伝わらないまさに聖典なのです。
 
 ところで、では「実のならないいちじくの木」とは何を意味するのでしょうか。そして、「今後おまえの実を食べるものがないように」というイエズの言葉の真意は何なのでしょうか。この「実のならないいちじくの木」が再び登場するのは、同じく11章の20節からでこうあります。
 
 朝早く、弟子たちは通りがかりに、先ほどのいちじくの木が根本から枯れているのを見た。そこでペトロは思い出して、「先生、ごらんなさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れています」とイエスに言った。イエスは仰せになった。「神を信じなさい。あなたたちによく言っておく。誰でもこの山に向かい、『立ち上がって海に飛び込め』と言い、しかも心に疑わず、自分の言ったようになると信じるなら、それは聞き入れられる。
 
 しかし、どうでしょうか。ここには確かに「実のならないいちじくの木」が枯れているということは記されていても、それがどのような意味であるかについては触れずに、その後は信じることへの心構えについてのイエスの教えが記されているだけです。ではその答えはどこにあるのでしょう。
 
 この答えは禅僧の修行にある禅問答の公案といたしましょう。「実のならないいちじくの木」とは何を意味し、「今後おまえの実を食べるものがないように」というイエズスの言葉の真意は何なのか、答えが分かった人は私のところに来て話してみましょう。もちろん座禅をしながら考えるのもよし、十字を切って黙想するのもよし、皆さんの自由です。
 
 この答えはまたにいたしましょう。
 

Last updated: 2016/11/15