神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、.に不思議な業を、したでは、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。
(使徒言行録2:17〜21)
 

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『この民のところへ行って言え。
あなた達は聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。』
(使徒言行録28:26〜27)
キリスト教研究 宗教学・教理学・宗教史・哲学・宗教科教育法
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 46     「ご聖体とミサ聖祭」 2008年5月21日(水) 
 おはようございます。今朝は、5月30日に行われる聖母月ミサを前に、「ミサ聖祭」と「ご聖体」についてお話ししましょう。
 
 カトリック教会には、「秘跡(サクラメント)」というものがあります。「秘跡」とは、イエス・キリスト自らが定めたもので、神様の恩恵を表し、キリストの働きによって与えられる“しるし”のことです。秘跡には、「洗礼」、「堅信」、「ご聖体」、「ゆるし」、「病者の塗油」、「叙階」、「婚姻」の七つがあります。それぞれを簡単に説明すると次のようになります。
 
 1.「洗礼」とは、人が神様の子として新たに生まれ、キリストを信じる者となるための秘跡です。
 2.「堅信」とは、聖霊の恵みを受けて、洗礼による新たな命を成長させ、信仰の証を立てる力を与えるものです。
 3.「聖体」とは、救いのいけにえであるイエス・キリストの御体と御血とが、パンと葡萄酒の形で神様に捧げられて、キリストを信じる者の永遠の命の糧となる秘跡です。
 4.「ゆるし」の秘跡とは、洗礼後に犯した罪を、教会の司祭を通してゆるしてもらい、神様と和解するための秘跡です。
 5.「病者の塗油」とは、病気などで命が危うくなったキリスト者を助けるための秘跡です。
 6.「叙階」とは、教会の役職の任務と権能を授け、これをふさわしく行うための恵みです。もっと簡単に言うと、神父様になるためのお恵みです。
 7.「婚姻」の秘跡とは、キリスト者である男女の一生の縁を結び、夫婦がそのつとめをよく果たせるように、神様のお恵みをいただくための秘跡です。
 
 これらの七つの秘跡のうち、ご「聖体」についてもう少し詳しくお話ししましょう。
 イエス・キリストは十字架に掛けられるご受難の前の晩、つまり最後の晩餐の時に、パンを取って感謝し、弟子たちに与えて「皆これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される私の体である。」と言われ、次に杯を取って感謝し、弟子たちに与えて「皆これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯、あなた方と多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい契約の血である。これを私の記念として行いなさい。」と仰せられ、聖体の秘跡をお定めになりました。イエス・キリストが「聖体」をお定めになったのは、ミサ聖祭において新約のいけにえの奉献が、世の終わりまで教会の中で記念され再現されることによって、キリストを信じる者が、永遠の命の糧で養われるためなのです。ですから、「聖体」とは、パンと葡萄酒の形をしたキリストの御体と御血ということになります。
 
 次に、「ミサ聖祭」ですが、これはイエス・キリストの死が記念され、キリストの御体と御血とが神様に捧げられて、キリストを信じる者に永遠の命の糧として与えられるカトリック教会の祭儀です。ミサ聖祭では、神様に感謝することによって、それに与る者に豊かな神様のお恵みである罪のゆるしと哀れみ、そして「救い」が与えられ、全世界に神様の豊かなお恵みが示されるのです。この神様の豊かなお恵みは、すべてイエス・キリストの十字架上のいけにえ、つまり私たち人間を原罪から救って下さったという、イエス・キリストによる人類の罪のあがないに由来しているのです。
 
 ですから、ミサ聖祭に与るときには、イエス・キリストとともに最後の晩餐に同席して、またイエス・キリストの十字架上の罪のあがないを思い起こしながら、敬虔な心と感謝の心をもって参加することが大切なのです。
 
 どうぞ、5月30日の「聖母月のミサ」に与ることによって、全校の皆さんのもとに神様のお恵みが豊かに注がれますように、互いにお祈りいたしましょう。
 
      アーメン。
 47     「信じることと救い」 2007年11月20日(火) 
 皆さんは、「苦しいこと」や「悲しいこと」、「辛いこと」や「恐ろしいこと」を経験したことがあるでしょう。これらのことは、誰しも望まないことなのですが、残念ながら人生には自分の思いどおりにならないことや、望まないことが日常的に起こるものなのです。
 
 では、そんな時に皆さんはどうしていますか?さまざまな困難や試練から逃れようと足掻きますか?それともそこから一歩も引かずに立ち向かい何とかして乗り越えようと頑張りますか?
 
 さまざまな困難や試練にあったときに大事なことが三つあるとわたしは考えています。
 一つには、その自分では望まなかった困難や試練から逃げようとせず、先ずは受け止めることです。困難や試練の特徴の一つに、逃げれば逃げるほど苦しくなって、新たな問題を生み出して更なる苦しみをつくり、何もかもが怖くなってしまうと言うことです。ですから、そこから逃げることをなるべく避けて、自分が出くわす困難や試練は、自分自身に対する神さまからのメッセージやお恵みであると受け止め、自分を苦しめる困難や試練には意味があるのだと言うことを自覚することです。
 
 二つめには、それらの困難や試練を全部自分一人で引き受けてしまわず、「助けを求める」と言うことです。親や友人、先生や先輩など自分の信頼の置ける人に相談をしたり力を借りることが大切ではないでしょうか。得てして人とは、独断と偏見に陥りやすく、ものの見方が狭くなり、事の真実や本質が見えなくなるものです。そんな時、人生の先輩である両親や先生は良き道しるべとなってくれるでしょうし、特に友人は共に歩んでくれる良き助け手となることでしょう。
 
 三つ目は、さまざまな困難や試練を自分だけの力や他者の力を借て解決するにしろ、とにかく人間の力だけに頼って乗り越えようとしないことです。人間の力だけに頼ると傲慢や慢心という落とし穴に陥ります。この落とし穴に一度落ちたなら、なかなかそこから這い上がることができないものです。それは、人間の考えや認識のみが及ぶ、領分の狭い世界だからです。人間の力の及ぶ範疇には限界があるのです。つまり、私たちの日常に起きる困難や試練の中には、私たち人間の努力で解決できることとできないことがあると言うことです。そして、私たち人間の力の及ばないことに関しては、「解決」ではなく「救い」によらなければならず、さらにこの「救い」とは「信じる」ことから始まるのです。
 
 「もうだめだ」・「もう無理だ」・「もう無駄だ」と絶望に打ちひしがれ、奈落の底に突き落とされたまさにその時に、神の救いが始まるのです。神の遣い、そう天使の手が差しのべられるときです。イエス様も天使について福音書の中でこう預言しています。
 
「とても恐ろしいことが起きた後に、天使たちを遣わして地の果てから天の果てまで、全ての人たちを呼び集めて救う」と。
 
 
 もちろん天使は目には見えない存在です。しかし「自分を守ってくれる守護の天使」が神さまから遣わされ、自分の傍らで守ってくれているという「信仰」があるのならば、どんな困難や試練も私だけの力でもなく、他者の助けだけでもない、いつも私と共にいて下さる天使と一緒に苦難の時を歩んでいるのだという「信仰」に支えられることになるのです。困難なときにこそ、天の救いを感じることができる感性と信仰心を備えたいものですね。
 
 困難や試練に出会い、一人淋しく悩むとき、自分の傍らにいる天使にそっと手を差しのべてみてはいかがでしょうか。きっとそこには「救い」があることでしょう。
アーメン。
 48     「罪への誘惑」 2007年10月16日(火) 
 犯罪の凶悪化や低年齢化が進む昨今、今までには考えられない犯行やサイトいじめ等が横行し、それらの犯罪の発端にはわたしたちに身近な携帯電話が介しているという実態が明らかになってきています。
 
 そこで、今朝は罪の誘惑にもろく、いったん悪の道に足を踏み入れたら、なかなか這い上がれないどころか、ますますエスカレートし、悪に染まっていくという人間の罪深く醜悪で弱い一面と、自分の命さえも投げ打って、他者のために自己を与え尽くすという善良で崇高な強い一面を合わせ持つ、人間の二面性ということについて考えてみましょう。
 
 聖書において、「罪」とはどのようなことをいうのでしょうか。それは、神を侮り神に背を向けること。神からの離反であります。旧約聖書が書かれているヘブライ語では、「罪」にあたる20の異なる言葉があるそうですが、その中でも重要なものは、ハッタースでありギリシア語のハマルティアと同様に「的外れ」の意味を持つものだそうです。また、「罪」には、重いもの軽いものがあり、最も重大な「罪」は、殺人と偶像崇拝とみだらな性行為の3つであり、これらを犯したものは死の支配のもとに入らなければなりません。そしてそのような人々を「罪人」といったのです。
 
 私たちが罪を犯すきっかけや動機となるものは、決して特別で大げさなことからではなく、いわゆる「でき心」とか「心の隙間」といった小さなものからではないでしょうか?そして、最初はいけないと知りつつも一度だけならとか、知らないうちに気がつくと思いもよらぬ事になっていて、取り返しがつかなくなっていたとか、大体そんなところではないでしょうか?
 
 実は、これが「自由」ということでもあるのです。旧約聖書の「アダムとエバ」の話にあるように、人は神の掟を破り、「善悪を知る木の実」を食べてしまったという「罪」により、神のもとで永遠の幸福と命に生きることと引き替えに、「自由」を得たと同時に「死」に定められたのです。ですから私たちは、時々「自由」の使い方を誤り、「罪」を犯すことに使ってしまうのです。
 
 つまりキリスト教においては、人間は「罪」を犯してしまう弱さを持つ存在であり、それ故にその「罪」からの解放無くしては生きてはいけないという者なのです。「罪」からの解放は神によってのみ実現しますが、それは、イエス・キリストの十字架上の罪の贖いと復活に与ることによって成就するというものなのです。イエス・キリストは「わたしは、「罪人」を招くために来た。」と言っています。キリスト教が愛と赦しの宗教という所以がここにあります。
 
 仏教の教えにも人間の二面性を説く教えがあります。「共命鳥(グミョウチョウ)」という一つの体に頭が二つあるという想像上の鳥のお話しです。この鳥は、一つの体に二つの頭があり、一方は昼(光)を支配し、もう一方は夜(闇)を支配しています。しかし、闇の頭は光を嫌い昼の頭に毒を飲ませますが、やがて一つの体であるこの鳥は、闇の方にも毒が回って両者とも死んでしまうのです。結局、善と悪という二面性を持った一つの体は、悪に滅ぼされてしまうのです。このたとえ話にも人間の二面性という人間の本質を突く、仏教の教えがうかがえます。
 
 みなさん、私たちの日常のあちらこちらに私たちを「罪」に招くたくさんの事柄が散らばっています。そのどれもが魅惑的で面白そうでスリリングなことばかりです。ですから、ともすればその「誘惑」に負けて引き込まれてしまいそうです。そしてそれは身近で小さな事から始まり、「罪」という毒はあっという間に全身に回って大切な自分を死に追いやってしまうのです。そうならないためにも、スカート丈やブラウスなど制服の着こなしや頭髪、日常の言動、特に他者を傷つけいじめにつながるような愛のない言葉遣い、携帯電話やパソコンでの無責任な誹謗中傷の書き込み、友人関係や異性との交際などなど、身の回りの小さな出来事に細心の注意を払い、悪からの誘惑を遠ざけ、不正を喜ばず、ご両親と他者への感謝を忘れずに、自分の善良なる一面を大切に養い育て、神さまが望む本来の自分を目指して、日々努力することを求めましょう。
 
 今日の一日を感謝のうちに大切に過ごせますように…。アーメン。
 49     「回心」 2007年6月21日(木) 
 今朝は、現在読まれている使徒言行録に記されている「回心」ということについてお話ししましょう。
 
 ここでいう「回心」は、悪い心を改めることを意味する「改心」ではなく、回る心の「回心」のことです。この回る心の「回心」を辞書で引くと、「過去の罪の意志や生活を悔い改めて、神の正しい信仰へ心を向けること。」とあります。ポイントは、「悔い改め」というところと「神の正しい信仰へと心が向く」というところです。要は自己の罪深さを自覚し、この世の価値から神の価値へと心が180度転換するということなのです。ちょっと難しいかも知れませんが、「回心」とは、別な言い方をすれば自己の罪を悔い改めること、つまり罪から立ち帰り、神へ帰属するということです。
 
 使徒言行録に限らず、聖書の中においては「回心」という言葉ではなく、「悔い改め」という言葉で示されているのですが、キリスト教においてこの「回心」=「悔い改め」とは、大変重要な出来事や体験となるもので、神の命を授かりキリスト教信者になるための洗礼にもつながることです。事実イエス・キリスト自身も、当時、救い主の誕生と神の救いの到来を告げ知らせ、罪を悔い改めることを人々に訴えていた洗礼者ヨハネから、ヨルダン川にて洗礼を受けているます。 それは、イエス・キリスト自身が示す神の救いと御国の到来という福音の恵みに与るためには、わたしたち人間の一人ひとりが罪を悔い改めることが必要であるということを、身をもって人々に表すために行ったことに他ならなかったのです。
 
 洗礼とは、聖パウロが述べるように、水の中に沈められることをとおして、キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に新たに神の命に生まれることを意味します。イエス・キリストは、悔い改めは重要なこととして、宣教のはじめに「悔い改めて福音を信じなさい」と語っておりますし、また「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言っています。そして、これはキリストの業に基づいてのみ可能なことであり、また聖霊による神の賜であると使徒言行録に記されています。
 
 さて、皆さん、私たちは日々毎日のように罪を犯す存在として生きています。勿論、社会的な法律を犯さないまでも、やるべきことを怠けて無責任だったり、やってはいけないと知りつつもいい加減だったり、感情にまかせて暴言を吐いたり、何気ない一言や思いで家族や友人の心を傷つけたりと、あげればきりがないほどで自己嫌悪に陥ることもしばしばです。それは紛れもない事実と言おうか、それが実際のところの現実の人間の姿であります。
 
 こんな私たちですから、私たちは毎日自分の犯した罪を反省し悔い改め、神さまや他者から許されて、日々新しい自分として生きていかなければ、一歩たりとも前に進むことはできません。つまり、私たちは許されるから生きていけるのです。私たちは日々許されているのですから、他者に対しても許してあげるのです。許され許すことによって私たちは新しい人として生まれ変わって生きていけるのです。そのための第一条件として自らの罪の「悔い改め」を忘れないようにいたしましょう。
 
 では、今日も一日、良き日でありますように、神さまの御恵みが皆さんとご家族の上に豊かに注がれますことをお祈りいたします。
 
アーメン。
 
2007年6月21日(木)朝礼時の宗教講話より
 50     「使徒言行録」 2007年4月19日(木) 
 今朝は、今月から5月にかけて読まれる使徒言行録についてお話ししましょう。
 
 使徒言行録とは、イエスの死後、聖霊の降臨によって、エルサレムに使徒たちを中心とする教会が生まれ、使徒たちが聖霊に導かれて福音を広め、教会を確立して、帝都ローマに至った経過を記した文書で、28章から成る初代教会発展の歴史書です。
 
 著者は、ルカによる福音書の著者と同一で、同福音書の続編として書かれています。著者であるルカは医者であり、パウロの伝道旅行にも同伴したと言われていますが、諸説があり真相ははっきりしていません。しかし、初代教会の史料として信想性のある記事も多くふくんでいることは事実です。書かれた年代は、学者によって異なり、紀元80年から90年頃と、かなり開きがあります。
 
 内容については、第一に序言はルカ福音書との関連を記し、続いてイエスの昇天、十二使徒の補充による教会の確立。
 第二には、聖霊降臨によりペトロを中心とする教会が誕生したこと。そして、使徒の活動と教会生活、ユダヤ人の反対とステファノの伝道と殉教について。
 第三には、異邦人に向けた伝道の開始。サマリア伝道やパウロの回心についてとペトロの異邦人への伝道。そして、アンティオキア教会の成立やパウロの第1回伝道旅行などについて。
 第四には、異邦人に向けての伝道の発展。パウロの第2回伝道旅行と第3回伝道旅行について。
 第五には、パウロの逮捕とローマ行き、エルサレムにおけるパウロの捕縛。カイサリアでの監禁。ローマヘの護送、ローマにおけるパウロの伝道などです。
 
 使徒言行録の特色は、第一には、新約聖書中、教会の誕生、伝道の進展について歴史的に叙述した唯一の文書であり、初代教会の様子を知る上に貴重な資料を含んでいるということ。
 第二には、しかもこれは聖霊の働きによって神の救済の計画が実現されていくという救済史観をもって書かれたものなので「聖霊行伝」とも言われているということ。
 第三には、ペトロ、ステファノ、パウロ等の説教は物語の構成要素として重要な位置を占めており、それらの中に福音宣教の基本的内容が繰り返し強調されているということ。
 第四には、宣教活動がイスラエルの民であるユダヤ人から異邦人へ向けて転換され、世界に広がっていった過程が記されており、そのなかでキリストにならう使徒たちの苦難、ローマ世界における教会の政治的対決などが叙述されているということ。
 第五には、これらの要素を統一するものは、福音宣教の活動が、救済史の中心地エルサレムから異邦世界の中心地ローマヘと進展するという力強い歴史観であるというところです。
 
 みなさん、このようにルカによって記された福音書と使徒言行録は、イエス=キリストの誕生から公生活における行いとその教え、そして十字架上の死と復活、さらには聖霊の働きや弟子たちの宣教活動と教会の成り立ちなどを理解する上で、最もふさわしい聖書のカ所と言えるでしょう。
 どうぞ、これを機会に、ルカによる福音書と今朗読されている使徒言行録を読んで、主イエス=キリストの行いと教え、そして使徒たちの命を懸けた宣教活動が、どのようなものであったのかに触れてみて下さい。
 

Last updated: 2016/11/15