グローバリゼーションの進展がますます進む今日、日本社会のみならず世界全体の社会および人間の生活、特に人間関係における相互理解に及ぼす影響は、少なからず大きいものとなってきていると言えよう。なぜならば、どんな政治的・経済的あるいは社会的な国際関係も、まずは人対人から始まるものであるから、そこにいる当事者間の相互理解が新たな関係の展開を決定づけると言っても過言ではない。
そこで、人間関係を構築する上で最も重要なものはお互いの信頼関係が築けるかどうかであって、その信頼関係は互いに互いのことをまずは知り合い、理解し合うことが先決である。そして、知り合い理解し合うということは、互いの共通点と相異点を明確にすることであり、そうすることによって互いの一致点(合意)が見出され、平和的共存というものが可能となるであろう。
とは言っても、グローバリゼーションの進展が必ずしも人間社会にとってメリットをもたらしたりポジティブな方向ばかりに働いてきたとは言えないことは、人類の数々の戦争や紛争そして現代における数多くのテロ事件、あるいは発展途上国と先進国間の広がる経済格差で既知のことである。では、このような異国間あるいは異人種や異民族間における対立は何故生じるのであろうかと言えば、その多くは領土や主権そして経済的利益など国益にたいする利害関係や異文化、異宗教に対する無理解と自己の文化に対するエスノセントリズム(Ethnocentrism)や自宗教を絶対と見なす原理主義に他ならないと言えるであろう。
よって、人間関係における相互の信頼関係を礎とした相互理解を実現するために、自己を支え他者理解をしていく上での根底をなす個人の信念や宗教を、どのように理解し受け止めるかは非常に大きな決定要因となるものであるから、自己の宗教の立場をどのように理解して他者にどのように提示し、他者の宗教をどのように理解しどのように受容するかの二つの観点から、諸宗教の対話をいかにすすめるかについて述べることとする。
自己の宗教の立場をどのように理解して、他者(他宗教)にどのように提示するのか?についてであるが、信仰者にとって自己の神ないし信仰とは、個人的なレベルにおいては絶対的なものでりそれで何ら問題はないだろう。しかし、これが他者との関わりのレベルにおいては、たとえ同じ宗教といえどもその考え方や解釈、そして受け止め方が違ってくるし、無論他宗教を信仰する人々との関わりにおいては、多くの障害をもたらすことは想像に難くない。
自己の宗教を他宗教との関わりの中でどのような立場をとるかについては、基本的に排他主義、包括主義、多元主義の三つに区分できる。もともと宗教とは、人間の暮らす世界が限定的であった時代においては、排他主義や原理主義はごく自然な態度であったことで、グローバリゼーションの進展が急速に広がり他者理解無しに成立不可能な国際社会を前提としないのならば、排他主義は同じ信仰で形成された共同体や民族の持続的発展には、むしろ効果的な主義・主張・態度と言えたものであろうし、多くの宗教はこの立場を堅持し続けてきた。
しかし、18世紀後半の産業革命を機に、20世紀に入ってその環境は一変したと言える。それは、科学技術の発展に伴い人類が大量破壊兵器を所有することによって過去に例を見ない二度の大戦で大量の人間の死(時に民間人)を経験し、それはともすると人類の破滅のみならず地球の破滅をももたらす事態を招いていると気付かされているからである。つまり、20世紀に入って人間個人および人類やこの世を救うはずの宗教が、その役割を果たせずに来たか、より本来的役割を果たそうと従来の排他主義的歩みを方向転換しなければならないことに目覚めさせられたからではないだろうか。
現にカトリック教会は、1962年〜65年に教皇ヨハネ23世とパウロ6世のもとで、第二バチカン公会議が開かれ、教会のアジョルナメント(現代化・刷新)をスローガンに教会共同体の改革が始まり、公会議で取り決められた各憲章・教令・宣言の実現のための努力は、現在にまで続いており、「エキュメニズム(Ecumenism)に関する教令」はキリスト教教会の一致のみならず、より幅広く諸宗教間の対話と協力を目指す運動として今日も重要な課題として位置づけられ実践さている。
では、人間個人や世の救い、そして世界平和や人類の持続的発展に宗教が寄与することを念頭に、諸宗教間の対話による相互理解を考えると、排他主義や原理主義的な立場でその実現はあり得ないどころか対立や紛争を助長させることは言うまでもない。そこで、次に考えられる立場が、包括主義や多元主義という立場を考えるということになろう。
まず包括主義は、排他主義の独善的な姿勢を反省し、他宗教の真理性を部分的には認めるという態度であるが、ドイツの神学者カール・ラーナー(Karl Rahner)の「無名のキリスト者」論に代表されるように、キリスト教以外の宗教伝統の中にも救いの現実性を認めつつも、それだけでは十分でないとし救いの根拠をキリストに基礎づけた宗教と対決するのではなく、他宗教をキリスト教の視界に包括しようと考えるものである。カトリック教会が、第二バチカン公会議以降とってきた立場であるが、我々キリスト者特にカトリック信徒の立場から考えるならば、特に大きな問題はないとしても、他宗教の立場からすれば自分たちの宗教がキリスト教に包括(強制的に納めさせられるという上から目線的姿勢)されるというのは、受け入れ難いものがあるのではないかとの疑問は否めない。
しかし、後に触れるが自己の宗教を相対化して他宗教を理解するというのであれば、自己の宗教ないし信仰の各人における内面性においての絶対性が揺らぐこと(もしくは否定され)になり、本末転倒になり兼ねない。つまり、ここに宗教における個人における絶対性と他者との関わりにおける相対性という二律背反からの不可避的な現実が諸宗教間の相互理解への道の前にはだかることになるのである。
次に多元主義(相対主義)であるが、この立場は自宗教も他宗教も全く対等で相対的な存在に過ぎないと考え、包括主義同様に他宗教のうちにも救いの存在を認めるが、包括主義が自宗教を担保した上で他宗教の存在を認めるのとは異なり、他宗教への完全な開きを要求するものである。このような多元主義の立場は、仏教となら仏教徒として、ムスリムならムスリムとして、ヒンドゥーならヒンドゥーとして救われるとして、他宗教の救いの根拠をキリストに基礎づけたりはぜず、勿論「無名のキリスト者」などと呼んだりもしない。そして、諸宗教間の対話や相互理解は、可能であるどころか必然であるとの立場をとっている。
だが、このような諸宗教間の対話や相互理解を実現可能であるとの主張をする多元主義(相対主義)の立場に全く問題がないわけではない。それは、自己の宗教ないし信仰をも他宗教と同く相対的な存在として受け止めるところである。過去の歴史あるいは現代の社会がいいあらわしているとおり、価値や文化の相対化は一見良さそうではあるが、何事にも功罪があるように相対主義は価値観の反乱や道徳の崩壊、そして真理が覆い隠されてしまう事態を招くという問題点(デメリット)があることである。マザーテレサが言った「神に近づけば近づくほど、神が見えなくなる」の言葉や遠藤周作の「深い河」の小説に著されているものは、自己の信仰を突き詰め真理を求めながらも、人間の悲惨さとその救いという現実を目の前にして、自己の信仰の在り方に苦悩する内面が浮き彫りにされている意味深い永遠の課題のようなものを感じる。
やはり、イギリスの神学者ジョン・ヒック(John Hick)のような相対主義の立場においても、宗教における個人における絶対性と他者との関わりにおける相対性という二律背反についての問題を完全に解決するには至っていないと言えよう。なぜならば、多元主義は、自己の宗教をも他宗教と同様な一宗教であると位置づけるため、自己の宗教の信仰に対する絶対性については何ら答えを与えるものではないからである。
また、一般的に良く言われる宗教を登山と喩え、頂上に登るにはいろいろなルート(諸宗教)があって、それらを選ぶのは個人の自由や生まれ育った環境によるものであるとの考え方は、正に相対主義的な宗教の捉え方であろう。しかし、山を登った経験のあるものならば誰しも解るように、どんな単独峰の山であってもその裾野にいるうちは木々や岩嶺がはだかり、頂上を望める山は少ないものである。つまり、頂上は登っていって初めて見えてくるものであり、登らないうちはいくつものルートがあることさえ見えてこないものである。そして、労苦してある程度登り視界が開けてきて初めて、自分が歩んできた道のりやこれから目指そうとする頂上が見えてくるのであり、登っていない者には、自分が登ってきた道程もこれからの行き先も解らないのである。登山のように宗教にとっての頂上というものがあるのかどうかは解らないが、宗教とは徹底して求めて信仰して初めてようやく何かが見えてくるというものではないだろうか。日本人の心情でイエスの教えをとらえ「風の家」を主宰するカルメル会司祭井上洋治神父が言うところの「どの道を上っても同じ高値に出るのだと言うことを確信を持って断言する方がいるとしたら、その人は自分の足で、汗水を流しながら喜びと苦しみをかみしめながら山登りをしている人ではなく、ただ麓でそうに違いないと信じている人だと言うことだけは言えるように思います。」の言葉が浮かんでくる。
そして、それぞれに宗教が目指す頂上というものが本当に同じ頂上なのか?という疑問も残るところである。確かに共通する何かはあっても違う頂上ではないのだろうか。もし、宗教が登山に喩えられるのであれば、山もいろいろあっていいはずである。つまり、私は自己の宗教ないし信仰を相対化してしまうことで、本当に自己の宗教が目指す真理を得られるかどうかという危惧感が拭いきれないということと、諸宗教が目指すものはそれぞれ違っていてかまわないと同時に、それが諸宗教間の対話や相互理解に支障をもたらすものだとは考えないのである。
他者の宗教をどのように理解して、自己に他宗教をどのように受容するのか?についてであるが、「自己の宗教の立場をどのように理解して、他者(他宗教)にどのように提示するのか?」で述べたことを前提に考えるのならば、マザーテレサの次の言葉が浮かんでくる。それは、「唯一の神がおられ、その神はすべての人々にとっての神です。ですから、神の前ですべての人が平等であることが大切です。ヒンドゥー教徒やイスラム教、仏教徒がカトリックになることを祈るのではなく、ヒンドゥー教徒がより良いヒンドゥー教徒になるように、イスラム教徒がより良いイスラム教徒になるように、仏教徒がより良い仏教徒になるように祈りましょう。」というものである。このマザーの言葉こそが、他宗教をどのように理解するかの究極の答えではないだろうか。
前述したとおり排他主義・包括主義・多元主義の三つの立場には、それぞれ功罪と長短があるが、いずれにせよグローバリゼーションが急進した現代の国際社会においては、ますます国家間および個々人間において、他文化や他宗教理解が求められるていくことだろう。殊に人口減少が進む日本社会にとって、今後日本が多人種・多民族国家になる可能性も少なくない。そのような中、日本人が培ってきた宗教観の本地垂迹説も然る事ながら、古代から地理的条件によるシルクロードの最終地点として様々な文化を取り入れ発展してきた日本人の包容力の大きさは、諸宗教の対話をすすめていくうえで一層求められていく時代となろうことと、だからこそそのような時代において日本人は重要な役割と責任を担うことが出来るのではないかとの可能性を秘めていると考えるのである。特に、日本の総人口に占めるたった0.3パーセントにしか過ぎないカトリック信徒ではあるが、我々キリスト者は「地の塩世の光り」としての使命がある。そしてイエス様のみことばどおり、私たちキリスト者はからし種の一粒となって、この世に福音を宣べ伝えていかなければならない。それは言い換えればキリスト者と諸宗教との対話をすすめていくことに他ならなず、第二バチカン公会議が定めた「エキュメニズム(Ecumenism)に関する教令」の推進であり、信仰年に定められたこの機会を新たな出発点として、今後更なる努力を続けていかなければならないと考える。
以上。
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