神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、.に不思議な業を、したでは、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。
(使徒言行録2:17〜21)
 

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『この民のところへ行って言え。
あなた達は聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。』
(使徒言行録28:26〜27)
キリスト教研究 宗教学・教理学・宗教史・哲学・宗教科教育法
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 21     詩編6の様式と構成の分析 2014年12月6日(土) 
1.構成と様式の分析
表 題6:1 指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。 呼びかけ6:2
主よ、 願い 怒ってわたしを責めないでください
憤って懲らしめないでください。 呼びかけ6:3
主よ、 願いと嘆き
憐れんでください
わたしは嘆き悲しんでいます。 呼びかけ 主よ、 願い 癒してください、 わたしの骨は恐れ 嘆き6:4
わたしの魂は恐れおののいています。 呼びかけ 主よ、 嘆き いつまでなのでしょう。 呼びかけ6:5
主よ、 願い
立ち帰り
 
わたしの魂を助け出してください。
あなたの慈しみにふさわしく
わたしを救ってください。 嘆き6:6
死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず
 
陰府に入れば
だれもあなたに感謝をささげません。6:7
わたしは嘆き疲れました。
夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。6:8
苦悩にわたしの目は衰えて行き
わたしを苦しめる者のゆえに
老いてしまいました。 敵への語りかけ6:9
悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。 神への信頼と
 
主はわたしの泣く声を聞き
確信6:10
主はわたしの嘆きを聞き
 
主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
6:11 敵は皆、恥に落とされて恐れおののき
たちまち退いて、恥に落とされる。
(日本聖書協会 新共同訳聖書から引用)
 
 この詩編の全体の文学的構造は、文学的表現をもって語ろうとしているところにある。詩編6の文学的手法をみると、並行法(Parallelismus membrorum、対句法ともいう)を用いていることに気づく。それは、2節の句において、前半と後半にわけて、同じことを異なる用語で繰り返しているところである。 具体的には、前半部の「主よ」(A)を除いて、「怒って」(B)は「憤って」(B')と、「責めないで」(C)は「懲らしめないで」(C')で繰返されている。 記号で表せば、ABC−B'C'という並行法となっており、これによって作者の言わんとすることが強調されている。
 このように、詩編6には並行法が各節に1つづつ、合計10カ所みられる。 ただし、7節の「わたしは嘆きの中で疲れ果てました」は、並行法の列からはみ出している。そしてこの7節を境にして、前後にそれぞれ5つの並行法が用いられている。よってその7節の句は、短いながらも全体の中心にあって、この詩編作者の辛く苦しい窮状をこの句に凝縮させている。
 この歌には、8節と9節の間に明らかな変換点があり、2〜8節と9〜11節に分けられる。前半部分は詩編作者の窮状と嘆願であるのに対し、後半部分は作者の敵たちに対する神の裁きへの信頼の表明である。
 各節を詳しく見ると、2節の主なる神への呼びかけの後、怒りと憤り、責めと懲らしめという主題で始まるが、この主題はこの節のみで終わっている。 3節の嘆願は、さまざまな言葉で繰返され、5節では3回も繰返されている。そして「まことに」に続いて、その嘆願の理由(=「なぜなら」)として言われる窮状は、3節前半では「弱りきっています」だけであるが、3節後半と4節では更に強調されており、その後も繰り返し8節まで続いている。このように主なる神への嘆きと願いが、自分の辛く苦しい窮状の訴えと共に、より急迫していることをあらわしている。
 9〜11節では、信頼の表明であるが、まず敵たちに「離れ去れ」と語りかけ、続いて「まことに」のあと、「主」を主語としてその理由が語られる。9節では「悪をおこなう者」は、8節の「わたしを苦しめる者」に呼応し、9節〜11節の「泣く声」、 「嘆願」は7〜8節の訴えに呼応し、10節後半〜11節の「祈り」は、3〜5の嘆願と訴えに呼応して言われている。このように9〜11節は、3〜8節を主題的に逆に遡るchiasticという手法が用いられている。この最後の11節で敵が受ける恥が語られ、これがこの詩編作者を苦しみのうちに拘束されていることの終わりへの希望を意味しているのであろう。このように、その全体をとおして文学的な表現をもとに構成されている。
 詩編6の歌は、作者の痛悔の念を前提としながら、自分に悪事を行う敵によって疲れ果て苦しめられている窮状への嘆きを歌いながらも、神によって自分の正当性が必ずや現され、敵が恥にさらされることで、この苦悩から救ってくださるであろうとの確信と希望が歌われている。
 
2.解釈
 詩編第一巻の6は、最も古い詩集として位置づけられている「ダビデの詩」であるが、K.Gunkelによれば、詩編6は「嘆きの歌」の「個人の嘆きの歌(Klagelieder dess Einzelnen)」に属する歌であり、詩編中の7つの痛悔の歌(septem psalmi poenitentiales)の一つで、罪を痛悔する祈りとしてカトリック教会では用いられてきたものである。(罪を通悔するその他の詩には、詩編32、詩編38、詩編51、詩編102、詩編130、詩編143がある。)カトリック教会では、特にこの痛悔の詩編を四旬節や聖年に唱える習慣がある。
 詩編6は、「わたしを癒してください(3節)」とあるように、一般には死の危険に落とし込められた病人の祈りではないかとの説もあるが、(最近ではL.Alonso Schkel,G.Ravasiなど)私はそのような歌には思えない。確かに病気を文字通り、「気を病む」とか聖書の人間観による罪人を病人と理解し、何らかの罪によって魂が苛む状況を病気とするならばらば、この詩編は病人の祈りと言ってもよいだろう。
 しかし、この詩編は全体として、特に最後の9〜11節以降から解釈するのならば、自分自身に悪を行う者・敵の仕業によって身も心も疲れ果て、神への信頼と希望を失いかけながらも、それでもなお神への救いを求め窮地からの解放を求める歌ではないかと思われるのである。そして、自分自身がそのような窮地に追い込まれ苦しむのは、敵の一方的な仕業だけによるのではなく、自らの罪にもよるところがあるとの自覚(2節)が窺える。無論、自分の非によるものでは無いとも考えられるが、当時の社会通念として、自分自身に降りかかる病気などの災難は、罪による因果応報であるとの考え方も否めなし、神に対する謙虚な信仰を持った人物なら、決してその理由を他者のせいだけには求めないのではないかとも考えられよう。いずれにせよ、この詩編の作者は、敵によって窮地に立たされ疲れ果てた原因を、神との良好な関係や信頼に反する行為を自分自身に見出している面があると思われる。
 旧約聖書学者K・セイボルトによれば、病人の祈りと言えるのは詩編38、41、88、シリア語の偽典詩編Vの4つであり、病気と関係があるのは詩編30、39、69、102、103、イザヤ38:9−20であり、それが明確ではないものが詩編6、13、32、51、91としている。 したがって、詩編6が病人の祈りであるとは断定できないとも考えられる。また、N・ローフィンクによると隣人の暴力によって死ぬほど悩まされている人の祈りではないかとの主張もある。また、イエスが受難のためにエルサレムに来られたときに御父に向かって言われた祈りの中に、 「今、わたしの心は騒いでいる。なんと言おうか。父よ、わたしをこの時から救ってください」(ヨハネ12:27)とあるが、これは詩編6を念頭に唱えられたのではないかと考えられている。「わたしの心は騒いでいる」は、詩6:4の「わたしの魂もなおわなないています」、「父よ、わたしをこの時から救ってください」は、詩6:5の「あなたの慈しみのゆえに、わたしを救い出してください」にあたるとの主張もあり、とするならば、この詩編6はイエスの受難を瞑想するための痛悔の詩編として唱えるにも相応しいと考えられている。
 その他、詩編は9節の「悪事を働くすべての者よ、わたしを離れ去れ」は、マタイ7:23とルカ13:27でも引用されることから、福音記者にとってもこの詩編はなじみ深いものであったことが推測されよう。また、ヨハネ12:20〜35でもこの詩編の6:4が背後にあると考える主張もある。大きな罪を犯した人は、自分が神から遠く離れてしまい、もう神が自分を加護してはくれないと考え失望するであろう。しかし、真の信仰者であれば、それでもなお自分を顧みて下さいと神を呼び求めるに違いない。神との良好な関係を自ら犯した罪によって壊した人間は、その罪深さを認め神に救いを求めることで、神との良好な関係を新たにし、信仰を深めていくのである。それが、ネフェシュでバーサールな人間の真の姿であると同時に神が望む人間の姿でもあろう。神は、自分自身の弱さや愚かさ、そして神の恵みなしでは生きてはいけないとの人間としての限界を知る謙虚なものに対して、憐れみと慈しみそして忍耐をもってともにおられるのである。罪の意識や苦境は、人を神へと導き新たな希望を与えてくれよう。神への信頼と希望を持ち続けて生きている限り、絶望することはない。
 この詩編6は、理不尽で不条理なことと出くわすこの現実世界にあって、神の御旨が分からなくなり苦悩する者が、自らの罪を顧みながら、なおも信仰と希望を捨てずに苦しむ者と共に現存する神を呼び求める歌であると言える。
 
以上。
 
 参考文献
 1.夏期神学集中講座配付資料
 2.HP Fr. PAUL MIKIO WADA和田幹男/詩篇6 解説
 
 22     『キリガイ ICU高校生のキリスト教概論名(迷)言集』書評 2014年3月8日(土) 
 本書は、国際基督教大学高等学校・キリスト教科 有馬平吉教諭の授業実践報告書であるが、氏が担当するキリスト教概論の「授業風景」と期末試験の「問い」と「生徒たちの答え」が中心となって構成されている。項目は「まえがき 1自分がモノ扱いされたらどう? 2ワイセツってなに? 3他人の目が気になる? 4いい大学に入りたい? 5なんのために働くの?  6自分だって差別していない? 7そのまま信じて大丈夫? 8キリスト教かキリストか? 9人は死んだらどうなるの? 10自分のなかにも罪がある? 11神に“はしご”はかからない? 12愛は体験しないとわからない? 13他にいいたいことあるひと? 資料集 あとがき」となっている。
 
 読み始めていくと、各項の「授業風景」の中に笑いがある。氏が本書の資料集「キリガイの授業の基本方針 5笑いの難しさ(P231)」で「笑いの反応というものをよくつかむことは、生徒の心をよくつかむことにもつながってくるように思います。」と記しているとおりである。そして、本書の注目すべき点は、1〜13の各テーマにおける期末試験の「問い」に対する「生徒たちの答え」である。ICU高校生の生徒状況について著者は、3分の2が帰国生で残りが国内で育った一般性であることを指摘した上で、「『ICU高校のキリスト教教育は、帰国生の多い学校だからこそできる極めて特殊な教育であり、他校には当てはまらないし、あまり参考にならない』という見方もあるかもしれません。しかし、その逆かも知れません。」と記しながら、対話的授業とディスカッションを中心とし、教科書を使わない授業形態についても言及している。確かに帰国生は他文化に触れてきているため、一般性に比較して価値観の違いがあるだろうが、人間の成長段階における青年期、特に高校3年間の邂逅は、その後の人格形成に多大な影響を及ぼすことに変わりはない。とは言え、いくら純粋性や柔軟性を持ち合わせ多感な高校生たちであっても、毎日の日常に埋没し苦悶しながらも自己の生き方に何かしらの落としどころを見出そうとする姿は、大人たちの生き方に比して大差がないのも事実である。各項目の「生徒たちの答え」からもその点が窺える。だからこそ、そこに風穴を開け福音の息を送り込むことの重要性がある。実に、「12愛は体験しないとわからない? 13他にいいたいことあるひと?」の2つの項に記されている「生徒たちの答え」を読むことで、福音を宣べ伝えることの必要性を実感できるとともに、本書「資料集 9生徒の心のフタをとる 10討論では聞くことが大事 12よい授業は綱引きだ」で述べられているとおり、キリガイの授業にこそ重要な価値が帯びてくる。
 
 本書の印象の一つ目に「最初は、これは面白い、授業に使えるぞ!」であるが、1〜7までの項を読み進んでいくうちに、「これは道徳の授業か?これで生徒に福音を宣べ伝えることができるのか??」という、ちょっとしたストレスを感じるが、それはその後の8〜あとがきまでを読むことで解消される。特に、「資料集 キリガイ2年生の他の授業と1年生の授業(P210〜220)」を読むことで、日常のキリガイの聖書を使った授業風景も垣間見られる。おそらく、これは氏の生徒実態を踏まえた上での、年間を通した授業計画における意図的な手法なのだろうと思う。そして、二つ目の印象としては、氏の授業や指導案があるのなら拝見してみたいということである。教師にとって授業とは、使命であり分岐点(Turning Point)となるものでなかろうか。どんな教師になるかは、日々どんな授業をし、生徒たちとどんな関わりをするのか?に掛かっている。そのような観点で、課外活動や部活動もさることながら、授業は常にどんな教師になるかの分岐点となるものだ。本書の「キリガイの授業方針(P221〜238)には氏の授業に臨む姿勢や教育観が余すところなく語られている。三つ目の印象は、読者を高校生時に戻って生徒として氏の授業を受けてみたいと思わせることである。 その理由には、各項目の「生徒たちの答え」の随所に現れているが、特に2年次の最後の授業の「12愛は体験しないとわからない?と13他にいいたいことあるひと?」の2つの項に集約されているだろう。
 
 本書の大部分を占める期末試験の生徒の回答に対する真剣なまなざしは、普段の対話法を中心とした氏の授業によるものであり、それは氏が一人ひとりを神から愛されているかけがえのない存在として受け止めているということを、生徒たちに体現させているからに他ならない。キリスト教主義学校が、その使命(Mission)である福音を生徒たちに宣べ伝えることができなかったら、その存在価値はない。本書は、そのような意味で宗教科担当者は勿論のこと、キリスト教学校に関わるすべての教職員必読の書と言っても過言ではないだろう。
 
有馬平吉編著 新教出版社2012年
日本カトリック教育学会学会誌掲載予定
 23     旧約聖書の創世記原初史における人間観と新約聖書における人間観との関連について(宗教科教育法) 2013年9月3日(火) 
 この講義は、どのように教えるかという教授法(Technic)ではなく、何を教えるかという教材(Teaching Material)についてを学んだ。特に、聖書を自分の読みたいように読み自己解釈のもと、自分の思いを伝えるための道具とすることなく、神のメッセージを正確に伝えるものと出来るようにとの観点で、「どうすれば、自分が言いたいことから離れて、神のメッセージを伝えることが出来るか。」を大きなテーマとしてすすめられた。そして、このレポートは常に誰かに語ることを念頭に書くこととされている。
 
 以上の観点を前提に、旧約聖書の創世記原初史における人間観と新約聖書における人間観との関連ついて述べることとする。
言うまでもなく、旧約聖書の創世記「原初史」は系図を除けば、創造の秩序の物語と破壊する物語から成っており、それらはあくまでも事実を伝えるものではなく、神によるこの世の創造と人間の創造の価値を表すことに論点が置かれ、特に人間が何故創造されたのかというその意義に注目しているのであって、人間の創造の事実そのものには大きな興味・関心は寄せられていない。
 
 神がこの世を創造するに当たって、人間以外の被造物に関しては迷うことなく、あるいは聖書の記述としては何の前置きもなく創造されたと命令・指定形で記されている。しかし、人間の創造についてだけは「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして…」と記されているとおり、神の対話のうちに、すべての創造物の秩序を守らせ支配させる者として人間を造ろうとしたのだが、人間を創造することへの一抹の戸惑いが表現されているのである。
 
 さらに、聖書学的には1章より2章の方が古いとされるが、物語の配置としては2章を後に持ってくることによって人間の創造(15節から25?)について詳しく述べ、人間の本質的在り方を明確にしている。特に、神と人間との創造の関連性において、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして生きる者となった。」と述べ、ネフェシュ(困窮したひと)として何かに渇望しそれを求めていかなければ生きていくことの出来ない存在、または神からの救いや命に渇いた弱さを持ったバーサールな存在として説明されている。
 
 つまり、人間とは神によって創造された被造物であるから、人間存在そのものは神の助けを必要とし渇望するネフェシュとしての存在であるとされ、さらに確かな神の力との対比においては弱くもろい限界を持ち、神と無縁な状態ではバーサールな存在であると示しているのだ。
 しかし、神と無縁な状態ではバーサールな存在であるとしながらも、神から与えられるルーアッハ(息)により、人間の弱さと限界を克服できる存在となることも示され、神との関連性の中にこそ本来的人間像があることを説いていおり、それがレーブとして人間の中に息づき、ネフェシュでバーサールな存在としての人間は、神との連続性の関係において欠如している部分を補完・補充されることで生きる者となることが説かれている。
 
 また、21節においては渇望・欠如している人間を補完するために、神の具体的な恵みとして女を創造し、男女の関係を互いに助け合い向き合う存在としてその平等性を示すとともに、互いの関係性の深さを表すことで人間の渇望・欠如が男と女によって満たされ、一つのバーサールとしての人間として完成することを説いている。そして、それは一つの共有の肉体、一つの生命の交わりを意味し、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」という表現で肉体的な側面からも男女の一体性を表している。
 
 さらに、3章における「蛇の誘惑」(失楽園)の物語は、原初史に出てくる最初の罪の物語である。ここにおいては、原初史におけるどの罪の物語にも適用されている原理が語られ、血縁・地縁に基づく基礎的集団である共同体は、罪を犯す集団になってしまうことを語っている。つまり、この物語に登場する善悪の知識の木は、神の大いなる人間への恵みに対して一つだけ禁令を設けたものであり、それは神の恵みとその恵みによって生きている存在であることを、常に人間に忘れさせないためのものである。しかし、悪魔や誘惑としての象徴である蛇は、それを巧みに利用して神の掟を逆説的な捉え方をもって人間を罪に招いたのである。そして、神との関連性におけいてのみ生きる者となったバーサールな存在としての人間は、自らの力で神同様に完全であること望み、その木の実を口にしてしまうのである。その結果、人間は不完全で欠けていることを自覚することになり、自らの不完全さに恥を覚えるようになったのだ。これこそが、人間の持つ原罪、つまり神との連続性の関係においてのみ完成され生きる者である人間が、神との関係を自ら断絶し、自らの力でのみ完全になろうとする傲慢こそが、人間の罪の根源であることを述べているのである。
 
 然るに、バーサールとしての人間の本質は、神との関係においてはあくまでも欠けている者としての存在であるから、神の意志に従順になりきれず、その欠如は人間の努力によって埋めきれるものではなく、神の恵みによってのみ実現できるのである。人間は、そのようなバーサールにしか過ぎない弱くてもろい、そして罪に陥りやすい存在であるからこそ、神は人間に対する怒りを抑え、人間に心を留めて下さるのであって、それが神から人間が愛される所以であることを説くのである。
 
 以上、旧約聖書の創世記原初史における人間観とは、神によって創造された被造物であるが故に神の恵みを必要とし、神との関連性の中でこそ満たされて、人間として真に生きる者となるというものである。
 
 このような旧約聖書原初史における人間観を見ると、一つの気づきがある。それは、旧約聖書の天地創造のはじめの部分において、既に神の福音が余すところなく語られているという事実である。勿論、旧約聖書であるからユダヤ人(ユダヤ教を信じる人々)に向けられた限定的な福音ではあるが、この神の福音が後に主イエス・キリストをとおして開かれたものとして新たに語られ、新約時代を迎えることとなるである。とは言っても、主イエスの福音は、罪深さを含めた人間の弱さによって神の絶対的な憐れみに出会い、神に依らなければ満たされ生きていくことが出来ないバーサールとしての人間であるが故に、神に愛されるのだという旧約における福音の基本的なスタンスを礎に、肉という生き方から霊という生き方への方向転換である回心によって、人間は死に打ち勝ち永遠の命に復活することに導かれるというダイナミズムとして完成されるのである。
 
 このような主イエスの福音は、ペテロの離反やユダの裏切りの対比によっても表されている。人間が罪を犯した場合、その罪を自覚すれば誰しも悲しみを覚え後悔する。しかし、その後悔が単に後悔に終わってしまうのか、それとも悔い改めに変わるのかは神との関連性にあるのだ。悲しんでいる者が、神との関わりの中で悲しむとき、それは神の御心にかなった悲しみとなり、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを呼び起こし回心へと導かれるが、神との関わりのない悲しみは、この世の悲しみとして死のみしかもたらされないのである。つまり、悔い改めや回心とは、神との関わり無しで実現することはないものなのである。
 
 このような観点において、ペテロもユダも自分の犯した罪に対する自責の念という点においては同じであったものの、ペテロは神とのつながりにおいて悔い入り神の憐れみを求めたのに対し、ユダはイエスを売り渡したことへの自責の念のみに終止し、神への憐れみと和解を求めず、それが自死につながってしまうという結末となったのである。神は、決して憐れみを求め悔い改める者を見捨てず、常にともにいて下さる方なのである。このような形で旧約聖書にはほとんど見られない「悔い改める」は、新約聖書においては多用されている。旧約聖書における「神に立ち返る」は、新約聖書においては「悔い改める」という形で、福音書やパウロの書簡などにもみられる。代表的なものは、「放蕩息子」のたとえ話があげられる。このたとえ話に出てくる語彙アポロリューギは、本来いなければならないところから離れて滅び行くことを意味する言葉である。父に遺産を要求し放蕩を尽くした子の息子は、本来いるべき父のもとを離れたことが、やがて生活苦をもたらすばかりか生きることもままならないほどに立ちゆかなくなるのである。これは、まさに人間が神のもとを離れるとどのような状態になるのかを的確に表すものである。しかし、父の元に戻ってきた息子を父は喜びをもって何らとがめることもなく迎え入れ宴を催すのである。さらに、そのことに嫉妬する兄に対して、父はお前は常に私のもとにいることを諭し、ここにおいて父なる神とともに人間がいるということは、物質的な恵みとしてのつながりではなく、あくまでも霊的なつながりであることを諭している。嫉妬した兄は、父との関係を物質的な物が恵みであるとして捉えていたのである。
 
 この放蕩息子のたとえ話は、神の人間に対する憐れみと許しとは何か、またそれを受けるには人間は神に対してどのような態度でいなければならないのかが語られているとともに、人間が犯す罪によって断ち切られた神とのつながりを回復させるためには、犯した罪を悔い改め回心することによって神のもとに立ち返り、神との関わりを常に更新することが求められていることを教え諭しているのである。そして、それが神の憐れみによってのみ生きるものとなる命を永遠に与えられる条件として提示しているのだ。
 
 人間とは、悲しいほどに愚かな存在である。そして、この世の多くのことに、また人にもつまづく。人間社会は人間の価値・常識を求めるが、神の目からは愚かなものであり非常識であるのだ。われわれキリスト者は、主イエス・キリストを証ししながら、神の価値観をこの世に指し示して生きていくことが求められている。それは、まさに主イエス・キリストの受難と重なるところがある。しかし、その受難、苦しみを通らなければ復活も永遠の命に導かれることもない。「友のために命を捧げること、これ以上の愛はない。」との主イエスの言葉の友とは、実に主イエス・キリスト自身のことなのである。私たちキリスト者は、バーサールとしての人間であることを念頭に置きながら、自分の十字架を背負い、主イエスに自分の命を捧げ、苦しみながらもだえながらも常に神の憐れみによって満たされることで、この世に生きることによって、自己の使命を果たし永遠の命に与るのである。
 
以上。
 
 24     「ヤハウェ」・「ヘブライ」・「イスラエル」について 2013年9月3日(火) 
 「ヤハウェ(yahweh)」は、ヘブライ語で、古代イスラエルの固有名詞としての神の名とされ、旧約聖書においての用例は6800を越える。ユダヤ学者たちは、モーセの十戒第三戒(出エジプト記20:7)による神名濫唱の禁止から、子音YAWHを「わが主=アドナイ(donay)」の異形という形で読ませたといわれるが、これが元来どのように発音されたかは不明である。その理由として、B.C.70年のエルサレム陥落後、大祭司にのみ相伝されていた四文字のYAWHの発音が、大祭司がいなくなったことで分からなくなったとされている。(ヘブライ語にはもともと22の子音しかなく母音を表す文字がないこともその理由の一つと考えられよう。)さらに、訳語の「主」は、七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)のギリシア語キリオス(Kyrios)以来の伝統で、原音は、「ヤハウェ(yahweh)」と学問的に復元される。また、旧約聖書は神名ヤハウェの啓示をモーセ(ヘブライ語でモシューであるがエジプト系の名前である。)に遡らせ、モーセが契約と律法とによって、全く新しい性格(動詞ヤーハー「ある、存在する」)と結びつけて(出エジプト記3:14)、神「ヤハウェ(yahweh)」として流浪の民ヘブライに啓示したのである(出エジプト記6:3)。すなわち、「ヤハウェ(yahweh)」は、エジプトに囚われていた民を贖い出した救済の神であり、創造者なる唯一絶対の神であるという神観が「ヤハウェ(yahweh)」信仰の根底にあるのだ。しかし、いずれにせよ神名「ヤハウェ(yahweh)」の起源については、聖書外資料に基づく種々の提案があり、確かなことは不明であるとされている。
 「YAWH」の呼び名はともかくとして、ではその神 「ヤハウェ(yahweh)」とは、どのような神であるのだろうか。出エジプト記のモーセが出会った神という観点から述べることとする。
 
 モーセは神から民をエジプトから連れ出すことを命じられるが、躊躇して尻込みする。そして神に対し「わたしは何ものなのでしょう」と答えるが、神は「わたしは必ずあなたともにいる」と励ますのである。しかし、その神の励ましに対してもモーセは不安を拭い切れずに「神がわたしをここに遣わしたと民に言ったとしても、それはどうゆう神だと問い質されるに決まっている」とあくまでも逃げ腰なのである。そして神はモーセに対して「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト記3:14)と答えるのである。この文章は、二つに分けて訳されているが、原文は三つの単語からなる一つの文章であり、「わたしはあるだろう」という動詞とその後の「関係代名詞」と「わたしはあるだろう」という動詞が繰り返されている構成となっている。この文章は、「わたしはなるであろうものになるだろう」と訳することもでき、「お前がどこにいてもそこにわたしはいるだろう」つまり、「わたしは常にともにいる」という意味として捉えることができる。
 神がモーセに語った「ともにいる」とは、神のモーセに対する約束であり、イスラエルの民への約束でもある。神は常に民とともにいて、彼らの苦悩や境遇を見て、聴いて、知って、時宜にかなった計らいをする方であるのだ。逆説的に捉えるならば、民が常に神とともにいるという信頼があるのならば神は常に民とともにいるのであって、そこに揺るぎない神の民に対する救いと民と神との関連性が表されている。
 
  以上、神「ヤハウェ(yahweh)」の起源が不明だとしても、また宗教史的に見れば、イスラエル民族の中で最初からヤハウェという神が崇拝されていたのではないとの可能性は否定できないとしても、「ヤハウェ(yahweh)」と出エジプトとの関連性は密接で切り離し得ない。よって、「ヤハウェ(yahweh)」崇拝は、出エジプト伝承ととにイスラエルにもたらされた可能性があると考えられる。また、イスラエル民族共同体の成立当初から自らを「ヤハウェ(yahweh)」の民と理解していたということは、旧約聖書全体から総合的に判断できることから、「ヤハウェ(yahweh)」の民の歴史的起点として理解されて伝承され、出エジプトという出来事が「ヤハウェ(yahweh)」信仰の原点として位置づけられたと考えられる。
 
 「ヘブライ」についてであるが、まず聖書の歴史によれば「ヘブライ人」とは、ユーフラテス川の対岸から来た人たちを指す(創世記14:13、ヨシュア記24:2)。あるいはこの名はもともとエベルからつくられた父称であって、イスラエル人を含むすべての彼の子孫を指すともされる。ヘブライ語の「イブリー」は、アッカド語の「ハビ(ピ)ール」と同根と考えられ、「移動する者」、「向こう側、川向こうの人」、「よそ者」の意で、おそらく紀元前2000年頃以降、遊牧生活をしながら他の土地からパレスチナ(カナン)地方に移住してきたイスラエル民族の祖先たちが、先住民から「(ヨルダン川の向こうから来た)よそ者」(創世記39:14、出エジプト記3:18、サムエル記上4:6)という蔑称の形で、また同胞奴隷をそのように呼んでいた(出エジプト記21:2)ことから、それが自分たちの呼び名になったのではないかとも推測されるが、蔑称を自分たちの呼び名として用いる事への疑問は残るところである。
 
 また、、エジプト語では「アピール」という形で表されており、「ハビール人」は、外国人であって幸運をもたらす兵士たちであった。バビロニアでは、彼らは傭兵でありヌズのフリ人の間では、政経を得るために身を奴隷として売らねばならなかった。元来この名前は民族名ではなく、総称であってハビール人がパレスチナに侵略したとの記述がテル・エル・アマルナ文書にあるように、イスラエル人は確かに「ハビルー」と呼ばれる集団に属していたが、ハビルーのすべてがイスラエル人ではなかったようである。
 
 ヘレニズム期以降は、伝統を重んずるユダヤ人をさし(ユディ10:12)、初代教会ではアラム語を母語とするユダヤ人キリスト者をヘブライ人と呼んでおり(使徒6:1)、パウロも自らをヘブライ人と誇る(Uコリント11:22、フィリピ3:5)と記されている。
 
 旧約聖書創世記は、ヤコブがエジプトに移住したことで閉じられているが、その後に続く出エジプト記、レビ記、民数記、申命記では、ヤコブの子孫がモーセに導かれてエジプトを脱出し、荒れ野を彷徨いヨルダン川東岸に到着するまでのことが書かれている。モーセは約束の地に入ることなく、あるいは神によって入ることをゆるされず死に、後継者であるヨシュアがエリコを手始めにカナンの地を次々と獲得した過程がヨシュア記に記されている。さらに続く士師記にはカナンの地に定住した民が士師と呼ばれるカリスマ的指導者たちによって困難を克服する様子が述べられているが、イスラエルの成立はカナン定着後であると考えらており、独自の歩みを経てカナンに定着した集団が結合して部族連合が形成され、それが時間の流れとともに拡大しながら最終的に十二部族による部族連合が形成されたと考えられる。
 
 よって「ヘブライ」という呼び名は、このイスラエル十二部族の部族連合体が形成される以前の過程において徐々に形づくられ、流浪の民である少数民族としてのアイデンティティ、特に弱小共同体を堅持するための旗印となっていっていき、それが彼らの集団としての結束と生きるすべであったのではないかと推測できる。
 
 「イスラエル」とは、ヘブライ語で「神が支配する、神は強し、神と闘う者」の意味で、もともとはヘブライ民族十二部族の宗教連合体の名称で、「イスラエル」という民族が存在するわけではない。紀元前1200年代後半以降、パレスチナ地方に定着してからこう呼ばれるようになったもので、イスラエル十二部族の部族連合体形成後、民族的かつ神聖な呼称として用いられることとなった自称であって、他民族からは「移動する者、よそ者」を意味する「ヘブライ人」と呼ばれていた。
 
 しかし、史実としてのイスラエルの起源は諸説あって、その起源を探る文献が聖書以外には歴史的資料が存在しないため確認できていない。しかし、「イスラエル」という名が登場する最古の文献は、ラメセス大王を継いだファラオ・メルエンプタハがその治世第5年(紀元前1208年)に作成させた戦勝碑文があって、それによればこの王が征服したカナン都市や民を列挙する中に「イスラエル」と呼ばれる民が存在していた事が記されているので、紀元前1200年前後からパレスチナ山地や丘陵地の小居住地に定着した一集団の中に「イスラエル」と名乗る民の存在の痕跡を認めることができる。
 
 聖書の中で「イスラエル」の言葉は次のように用いられている。一つには、族長ヤコブの別名で後にヤコブがヤボクの湖畔で神と格闘したとき、「お前は神と人と闘って勝ったからだ」としてこの名を与えられた(創世記32:23-33)。また、二つ目にはヤコブを祖とする十二部族に与えられた総称(創世記49:16,28、出エジプト記1:9)。レハブアムの時代に王国が南北に分裂するまで、ユダの人々もイスラエルと呼ばれていた。そして三つ目には、北王国がソロモンの子レアブハムに背いて、ヤロブアムT世を王に望んだが、ダビデ家に対する忠誠を守り抜いた南王国のユダと区別するためにこれをイスラエルと称している。
 
 ソロモンの統一王国がレハブアムの時代に南北に分裂(B.C928年)した際、北イスラエル王国は10部族、南王国はユダとシメオンの二部族となりユダ王国と呼ばれたが、北イスラエル王国は、南王国よりも外国の影響を強く受け、宗教的にも混乱があった。やがてイスラエルが紀元前722年に、ユダ王国が紀元前587年に滅亡し捕囚時代に入るが、この頃から以後イスラエルの名称は再び「移動する者、よそ者」を意味するヘブライ人全体の呼び名となった。ただし、政治的社会的にはユダヤ人の名が一般的となっている。
 新約聖書では、パウロによってキリストによる新しい神の民(教会)が「神のイスラエル」と呼ばれている。(ガラ6:16、ロマ9:6、11:26、ヘブ8:8)現在では、1948年以降、全世界に離散していたユダヤ人(ユダヤ教徒)がパレスチナに建設した新国家もイスラエル共和国と呼ばれている。
 
 このように、「イスラエル」とは、アブラハムを原祖としその血縁であるヤコブを祖とする十二部族の集団が、神の約束の地を獲得するまでの流浪する時代や捕囚時代においては「ヘブライ」と呼ばれ(自称し)、唯一絶対神である「ヤハウェ(yahweh)」によって選ばれし民としての民族意識を形成しながら、宗教共同体であるユダヤ人の理想国家としての「イスラエル」であると言えよう。
 
以上。
 
参考文献
1.「旧約聖書を学ぶ人のために」並木浩一/荒井章三[編]世界思想社
2.「図解雑学旧約聖書」雨宮慧 著 ナツメ社
3.「聖書時代史」旧約編 山我哲雄 著 岩波現代文庫
4.「岩波キリスト教辞典」岩波書店
5.「新共同約聖書 聖書辞典」 新教出版社
6.「キリスト教徒の出会い 聖書資料集」冨田正樹 著 日本キリスト教団出版局
7.「旧約聖書を読む」 池田敏夫 著 中央出版社
8.「聖書年表 聖書地図」和田幹生 著 女子パウロ会
 25     ヨハネ福音書における告別説教とイエスの受難・復活について(宗教学) 2013年9月3日(火) 
 ヨハネ福音書は、イエス・キリストが神の子であることを示そうとする「キリスト論」(Christology)であるとの位置づけが出来る。しかも、父なる神から人間を救うため、愛そのものとしての使命を果たすため受肉し「神の子として天から降りてきて、人の子として天に昇る」という「上からのキリスト論(High Christokogy)」である。つまりヨハネ福音書におけるキリストとは、世の救いのために父なる神から派遣された神の息子(Θεου(神の)、Υιοs(息子))としての存在であり、神は一人子である息子イエス・キリストを派遣した者であり、イエス・キリストは神によって派遣された者という父と子の一体性という派遣思想が見られるのである。そして、その神の一人子を信じた人々であるヨハネ教団ともいうべき信従者へ、イエス・キリストが真に神の子であることを証しすることを目的に、文学的に物語形式をとって書かれた書物であると言えよう。
 
 また、イスラエルの伝統において信仰は視覚的な体験である「見ること」が重視されているのに対し、ヨハネ福音書では「聴くこと」という聴覚的な体験が重視されており他の共観福音書では、「見る」という単語(@horao Atheoreo Bblepo Ctheomai)が多く使われているのに対し「わかる」・「知る」(oida, eidov)が多用されている。これは、もう既にイエスを実際に体験として見ることが出来なくなった時代に、見て体験して信じることよりも知って信仰して分かることによって信じるためである。勿論他の共観福音書もその点は共通しているが、ヨハネ福音書は他の共観福音書以上にその点に重きを置いて書かれていることは、全体を通してもみても明確である。ただし、私にとっては、文学的な観点から聖書を紐解くのは初体験であったが、「文学」と言う語彙を広辞苑で引くと@学問。学芸。詩文に関する学術。A言語(Literature)によって人間の外界および内界を表現する芸術作品。詩歌・小説・物語・戯曲・評論・随筆などからなる。文芸。B律令制で、親王家に官給された家庭教師。C江戸時代、諸藩の儒官の称。とあるが、おそらく文学的に聖書を読むというのは、広辞苑が説明するAの意味において読むということなのだろうと考える。
 
 以上のことを前提として、「ヨハネ福音書の告別説教」である13章31?から16章33?、特に15章18節から16章4節の「迫害の予告」についてをイエス・キリストの受難と復活について触れながら、記述することとする。
 
 「ヨハネ福音書の告別説教」は、神ご自身の民に対するイエスの栄光の掲示である。新約聖書における他の共観福音書の場合、主イエス・キリストがどのように生き何を教えたかを述べることに関心事があるのに対し、ヨハネ福音書は復活した主イエス・キリストが、今われわれのうちに現に臨在しているという事実と、復活した主イエス・キリストが私たちヨハネ教団の中で、どのように働きかけているのかを指し示そうとしているのが最大の特徴であると言えよう。よって、「ヨハネ福音書の告別説教」の始まりの部分で、まず主イエスが弟子たちの足を洗うという具体的行為を示すことで、互いに足を洗い合うということ、つまり「主イエス(私)が愛したように互いに愛し合いなさい。」という新しい掟の象徴として表現されている。しかも、この行為は「告別説教」を弟子たちに施す主イエスの今までの教えの集大成を行う前の清めとも理解でき、ユダの裏切りを弟子のヨハネにのみ明らかにし、回心しない弟子をその場から去らせていることからも、洗足とともに裏切り者のユダの排除は、聖と俗を明確に区別しているのではないかと思われる。それは正にヨハネ教団における聖別を宣言しているのではないだろうか。「ヨハネ福音書」は、主イエス・キリストが受肉しこの世にこられたことで、この世が聖と俗あるいは善と悪に区別され、その二元論的な価値観の基準が主イエス・キリストによってもたらされたこと、特に聖や善そして正義がいかにあるかを著している。そして、主イエス・キリストを信じる(信仰する)者が神(父)の「栄光」(ドクサdoxa)によって聖なる者に聖別されるという、神(父)とイエス(子)そして弟子ヨハネ教団の一体性と相互内在を強調し教団内の聖の重要性をを説いているのである。
 
  つまり「ヨハネ福音書の告別説教」の導入は、主イエス・キリストに愛される者と愛する者、信じる者と信じない者との区別と違いを明確にし、同福音書の「受難と復活」におけるイエスの十字架の意義や復活についても信じる者にとっては勝利であるが、信じない者にとってはただの敗北であるとの二面性の区別をも明確にしているのである。
 
 また、ヨハネ福音では、「告別説教」の本文に入る前の最後の部分に、「ペテロの離反の予告」を配置している。この意味を推測するに、おそらくは当時の教会の人々に広く知られていたと思われる主イエスに最も信頼され、天国への鍵を預けられたと言われるペテロにでさえも、聖霊が降る以前は人間としての弱さがあり、いくら主イエスを目の前にして信仰を誓ったとしても、聖霊によらなければ信仰を充足できない人間の根源的弱さである原罪(人間の神性の不完全さおよびその欠如)、しかも主イエスは、そのことをご存じであることをを明らかにしているのである。
 
 以上のことを前置きにヨハネ教団の信徒に、「告別説教」という形で、「イエスは父にいたる道」、「聖霊を与える約束」、「イエスはまことのぶどうの木」、「迫害の予告」、「聖霊の働き」、「悲しみが喜びに変わる」、「イエスは既に勝っている」、「イエスの祈り」という主イエス自身の説教という文体をとりながら、イエスへの揺るぎない信仰を強め受け継いでいくための主イエス・キリストの教えの核心を長大に説くのである。
 
 特に15章18節から16章4節の「迫害の予告」については、ヨハネ教団の信徒による信仰共同体の持続的発展に不可欠なものであったに違いない。なぜならば、当時も現在においても主イエスの教えは、価値観の転換(回心)を求めるからであり、価値観の転換とは既成の価値観の否定・方向転換であるから、当然世俗社会の一般常識や普通という観念に異論を唱えることになり、反発を招くのは必至なわけである。だからこの福音記者は、主イエスに次のように語ってもらうのである。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛していたはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」と。
 
 つまり、迫害は主イエスに所以するものであり、かつ主イエスへの信仰所以であること。しかし、それは主イエスによって特別に選ばれ愛されていることを宣言するものである。さらに、世が主を憎む故に自分たちを憎むことは父なる神をも憎むことになることを示し、世の人々の罪の根源を父なる神を知らないことにあることを示すのである。また、主イエスがこの世に来て父なる神の福音を告げ知らせ、行い(偉大な業)をもって父なる神の愛を証ししたにもかかわらず、世の人々は父なる神と主イエスを憎んでいることを著し、世の罪深さ、愚かさを既に律法に書いてある言葉が実現するためであるとして強調している。その上で、主イエスの取りなしによって遣わされる弁護者としての聖霊によって、主イエスが神によって使わされた神の御一人子、救い主であることが証しされ、自分たち自らも主イエスを証ししていく存在であることを述べている。
 
 そして、「迫害の予告」の締めくくりとして、やがて主イエスをキリストとして信仰するヨハネ教団の教会共同体の信徒が迫害されることを預言し、その時が訪れたとき主自らが語った言葉を思い起こすことによって彼らをつまずかせないためであることを宣言することによって、ヨハネ教団の信徒一人ひとりの信仰の保持と信仰共同体の堅持および持続的発展を喚起、叱咤激励しているのである。
 
 おそらくヨハネ福音書の成立年代から推測するに、ヨハネ福音記者はヨハネ教団の信仰共同体の結束を強化し持続的に発展させていくためには、それまでの三つの福音書では物足りなさを感じていたに違いない。それは、ヨハネ教団における内部崩壊や外部からの強い弾圧など、緊急に解決しなければならない切迫した事情があり、その必要性から書き記す必要があったに違いない。いずれにしても、この「ヨハネ福音書の告別説教」の部分は、現代における価値観の多様化した時代、その多様性をいかに理解し合い、共感し、つながり会えるかが求められる今日においては、非常にその解釈と実行の面においては難しい要素を含んでいると言わざるを得ない。しかし、多様性を理解し受け入れるが余り、自己の独自性や個性をはじめ、宗教界では諸宗教間の対話を優先するが余り、多様化の中に埋没してしまってはいないだろうか、との疑問が残る。確かに、原始キリスト教時代と現代を同じ土俵で考えることには一抹の危険と無理があるものの、当時のオリエント文化圏やユダヤ社会において価値観の転換をもとめるキリスト教信仰や価値観は、それぞれの国や地域の為政者や権力者など既得権を持つ支配者階級の者にとっては、危険思想であり恐怖心を煽るものだったに違いない。そのような観点においては、現代のキリスト教も共通点があるだろう。確かに第二バチカン公会議以降のアジョルナメントをスローガンとした開かれた教会の推進は、それまでの排他的あるいは原理主義的な教会の在り方から、世俗的社会との対話を足がかりとしながら協調路線を歩んできたといえよう。それはグローバリゼーションが急進する現代にあって、様々な宗教や文化を背景とした人々が行き交う国際社会を形成することになったが、経済的な利害関係を土台に国益や自社の利潤追求の打算的関係が優先されるるため、先進国主体の経済発展の実現にはなり得ても、人間の根本的なつながりにまでは至っていない。むしろ、グローバリゼーションの功罪は、価値観や宗教観の無理解およびそれらの多様化による混乱からくる対立や紛争というネガティブな問題を多く生み出しているとうデメリットの方が目立っていると言っていいのではないか。
 
 そのような現代社会の諸問題を鑑みるに当たり、「ヨハネ福音書の告別説教」は、われわれキリスト者に主イエスへの信仰の原点を呼び起こすものではないだろうか。もとより、福音書をはじめ聖書とは、主イエス・キリストへの信仰を前提とした信じる者に対する遺言(Testament)であるはずである。正に、そのような観点においては「ヨハネ福音書の告別説教」の「迫害の予告」の部分は、現代に生きるキリスト者としての信仰の心構えの原点であると言える。われわれキリスト者は、常に主イエス・キリストの受難を思い起こし、この世から憎まれ迫害されることを恐れることなく、神から遣わされ受肉した御一人子主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることで、やがて死から復活し永遠の命へ与ることが出来るという希望と、一人子を世にお与えになるほどこの世を愛されているという神の愛と、自分自身の十字架を背負いキリストに付き従い生き抜くという信仰によって、キリストの体である教会共同体を堅持させながら、この世にイエス・キリストを証しすることが求められているのである。
 
以上。
 

Last updated: 2016/11/15