テーマを「現代の科学に応答できる福音宣教」に設定した動機は、今講習会講師である瀬本正之神父の講義から、新しい福音宣教のKeywordは、現在まで人間が築いてきたもの、特に近代以降発展し続ける科学や多元主義に基づく他宗教を含めた文化、そして国家社会との「対話」であるとの提言に、現代の福音宣教の道標があるとの気づきを得たからである。
現代社会における「科学との対話」によって、現代に息づく「新しい福音宣教」が可能になるのではないかと考える。
1 現代における科学がもたらしているもの
現代人は、発展し続ける実証主義に基づいた科学に盲目的な信頼と万能観を抱き、その科学がもたらす経済的富や健康・長寿、病気からの解放、時には新たな生命の獲得などの利益を得ることによって、人間の本性としての神との関わりのうちに生きる霊性を忘れさせられてしまっている。
確かに現代の科学的知見と科学技術の大きな発展は、人類に多くの利益をもたらし、人間が自然を制御し方向づける能力を大いに高めた。しかし、それはまた同時に、人類を取りまく地球環境や人類そのものにも予期し得なかった深刻な問題を生じさせたことにもなっている。具体的には、地球温暖化をはじめ砂漠化やオゾン層の破壊、酸性雨、人口爆発による森林伐採と過放牧による砂漠化、生物多様性の減少、海洋汚染などの地球環境問題。また有限であることを知りながらも涸渇と独占そして分配の不平等を解決できない資源エネルギー問題および代替エネルギーとして開発された原子力を取りまく諸問題。科学技術の発達がもたらした生命に関する問題として、クローン技術や遺伝子組み換え技術、再生医療技術におけるES細胞(ヒト胚性幹細胞)の活用、生殖医療技術による人工授精や体外受精、代理懐胎や着床前診断と出生前診断および人工中絶の問題。医療技術の発展による安楽死と尊厳死、臓器移植と脳死、人の死とは?そこにおける命の自己決定権の問題などがある。
このような科学技術が人類にもたらす問題は、いずれも人類が自分自身で生み出した人類自身への問いかけでもある。
2 人間を人間たらしめる科学技術の活用と人類のいのちについて
これらの化科学技術がもたらす諸問題は、決して科学技術を否定するものではない。実際、科学技術は人間の生活を豊かにしていると共に安全や健康など人間の幸福と平和に寄与していることも事実であろう。科学技術の人類にもたらす問題の多くは、人間の科学技術の活用と制御の問題であり、人間の本性に問いかけ続ける神への応答の欠如によるものである。
聖書が語る神の姿は、完全な世界に神が永遠に住まうことを共に実現させる上で、なくてはならない存在として人間を必要とし創造した神である。神が望む人間の姿は、神の計画に基づいてすべての創造物が待ち望んでいる変容の管理者である。それは、この世の生きとし生けるものすべての被造物が、神の命にあずかるよう招かれているという神の御摂理である。
このような人間の責任に対して、教皇ヨハネ・パウロ二世は、回勅「いのちの福音」で、「世の庭を耕し、その世話をするようにいいつかったとき(創世記2・15)、人間は特有の責任を任されました。それは、居住している環境に対する責任であり、現在だけではなく幾世紀にもわたる将来においても、人間の人格の尊厳、人間のいのちに資するようにととの意図で与えた被造物に対する責任です。これは環境保護の問題であり、それはさまざまな動物の生息地や多種の生物の保護から、適切なしかたでいえば『人間のための環境保護』にまで及びます。」この環境保護の問題に対しては、いのちが持つ偉大な善、それもあらゆるいのちが持つ偉大な善を尊ぶ解決へと導く、明白で強力な倫理的支持が聖書に示されています。…自然界と関わりを持つときには、生物学的法則に従うのみならず、道徳的にも従わなければなりません。それを破れば罰を受けることになります。」と示されている。
私たち人間は、この自然環境が、人格的な交わりの場であることを忘れずに、神の似姿として形づくられた人間として、互いの交わりと対話のうちに、目に見える世界の最終的な完成を追求しながら目指していかなければならない。
3 現代の科学技術がもたらした人間の生物学的統合への責任
科学技術が現代の医学にもたらした新たな診断と治療は、病気や生命の誕生に対する新たな手段をもたらした。その一方で、そこから人間自身を改造する可能性も生まれ、人間はどこまで自分自身を造り変える変えることが許され、いのちに対する決定権を持つのかという、かつてなかった生命倫理の分野における人間の管理における責任が求められるようになった。いかに医療技術が発達しさまざまな治療行為が可能になろうが、人間の全体性と統合の原理を考えることなしに、すべての医療技術を容認するわけにはいかない。特に生命の誕生に関する生殖に関する人為的介入や受精卵を利用する医療行為に関しては、人間の利己的願望を満足させるために、神の御摂理に反するものとして放棄すべきものもあって、人間のいのちが男女の愛の賜として神より預かり誕生するものであることを忘れてはならない。遺伝子工学による生命への増進的介入は、人間が神の創造の協力者であるという枠組みの中においてのみ活用されるのでなければ、人間一人ひとりの人格の尊厳と独自性をも侵害し損なうこととなる。
また、命の自己決定権における延命治療と安楽死や尊厳死についても、人間と人間の身体の内なる神の像という霊性を尊重することが求められる。人間が死を自由に扱うことは人間の生命自体を自由に扱うことを意味し、自殺幇助や積極的安楽死、人工中絶は、たとえ悲惨で個人的事情があったとしても、人間がいのちの誕生や死を支配し決定できるという傲慢な姿勢を表す。神の似姿として造られた被造物である人間に許されている存在論的身分は、人間が自己を自由に扱う能力に対して、一定の制約や制限を課している。人間に与えられた支配権は、あくまでも神の御摂理の管理者としてのものであり、そかもそれは神との交わりの中で、神の自己無化する愛に対する応答としてのものであるから、決して無制限のものであるはずがない。人間が人間を含めた被造物に行使できる支配権は、神から分け与えられたものに過ぎず、神そのものではないとの分をわきまえなければならない。この神の掟を越えて破るとき、人間がどうなるのかは、旧約聖書創世記の天地創造の物語が語るところである。
3 現代科学との対話と福音宣教
対話とは、相手の間違いや欠点をたんに批判し、持論の正当性に説得するためのものではない。対話とは互いに人間としての不完全さを認め合い、人間の生と苦しみの記憶を絶えず心に留めながら、信仰をもたらす光に照らされて互いにゆるし受容し合うことである。しかし、それが正義の必要性を除外するものであってはならないので、互いにゆるし合うということは、言葉で言い表すほど簡単なことではない。
人間と人間が織り成す文化や社会とは、もともと多様なものである。現代は、高度な情報化と交通網の発達から、より価値観が多様化した多文化主義の時代であるが、だからといって何でもありということでは、人間の過ちさえも防げないということになってしまうだろう。人間の多様性と価値観の多様性の中にある価値基準に一定の幅を持たせ、健全な多元主義をもたらす必要がある。では、その中心的柱となるものは何であろうか。それは、「人間の本性といのち」に他ならないであろう。この観点においての対話こそが、「現代の科学に応答できる福音宣教」を可能にし、「福音の喜び」の実現をももたらすのではないだろうか。
これからも科学技術は発展をし続けることであろう。もしかすれば宇宙の誕生の解明にさえ至るかも知れない。しかし、たとえどんなに科学技術が発展し、人類の知恵が未知の世界に広がろうとも、人間の本性のあり方自体は何ら変わらないことは、人類の歴史が示しているところである。よって、科学技術の人類に貢献する確かな貢献を認めながらも、その正しいあり方や使い方において、神と人間の関係性こそが人間を定義づけ、人間を人間たらしめるものであることを、科学との対話の内に示していかなければならない。それが、私たちキリスト者とその共同体の使徒職であり福音宣教そのものにつながるものである。
科学技術の発展は、先の二つの大戦をそれまでにない悲惨で大量の人間のいのちを奪った。戦争は、平和の破綻である。そして、平和とは正義と愛の結実であり、この世に生きる人間の存在の第一の源であり、本質的な真理であると共に最高善である。その実現には、人間の業によるものではなく、神がすべての人間に与える最大の賜の一つであり、神の聖なる計画に従わなければ、なし得ないものである。平和とは、決して戦争や紛争そして人間のいのちに反するさまざまな問題が、この世界から消えることではないだろう。むしろ人間が自己崩壊の恐れから保身し、他者を排除しようとする利己的・個人主義的な考えと行いが、なくならない限り、そして、そのような価値観が主イエス・キリストが指し示した福音的価値に転換されない限りなくならないものではないだろうか。このような考えと行いを変える人間の生き方が、まさに主イエス・キリストの神の自己無化する愛に応答する生き方である「互いに愛し合うこと」の実践に他ならない。その「互いに愛し合う」神の愛を、私たち人間が主イエス・キリストに倣い行うところに、神が現存し神の国とその平和の実現がある。
今後も科学技術の発展への福音の問いかけと対話こそが、現代および将来の人間と人間社会へ向けての鍵を握っていると言えよう。
まとめ
私は、カトリック学校に奉職するカトリック信徒の一教員(非常勤講師)である。現在は、中学校社会と宗教および高等学校現代社会と宗教を担当している。いずれも、知識教育のみならず、生徒個々における価値基準や価値判断に大きな影響を及ぼす教科・科目を担当しているから、その責任は非常に大きいことを自覚している。
現代に生きる私たちは、とかく科学技術や実益的な価値と富、そして享楽を追い求めるがあまり、人間の本性である人間の霊性・宗教性を忘れがちである。だからこそ、教科指導において「現代の科学に応答できる福音宣教」を実践しながら、積極的に人間の本来的生き方を訴えかけ続けていきたい。それは、価値観が氾濫したこの現実社会で、何を頼りに生きて行けば良いのかに戸惑うことの多い生徒一人ひとりが、神の愛の招きに気づくことで、幸福に生きることができる人間へと導くものでありたいと願っている。そして、これを私自身の信徒使徒職として全うしていきたい。
以上。
参考図書
1 人間の尊厳と科学技術 教皇庁国際神学委員会 カトリック中央協議会
2 回勅 いのちの福音 教皇ヨハネ・パウロ二世 ペトロ文庫
3 キリスト教的生命倫理のヒント いのちの福音と教育 松本信愛 サンパウロ
4 使徒的勧告 福音の喜び 教皇フランシスコ カトリック中央協議会
5 教会の社会教説綱要 教皇庁正義と平和協議会 カトリック中央協議会
評価結果 A
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