神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、.に不思議な業を、したでは、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。
(使徒言行録2:17〜21)
 

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『この民のところへ行って言え。
あなた達は聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。』
(使徒言行録28:26〜27)
キリスト教研究 宗教学・教理学・宗教史・哲学・宗教科教育法
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 6     「私たちが信仰する神の名について」 2016年10月5日(水) 
 私たちが信仰する神の名は、ヤハウェといい、旧約聖書における古代イスラエルの唯一絶対神、天地創造の神の名前です。この名はヘブライ語の4つの子音文字(鱠裝 アルファベット表記では右から左にYHWH)で構成され、神聖四文字(テトラグラマトン)と呼ばれています。
 
 このヤハウェの名は、古くから「存在」を意味しますが、モーセは神から「民をエジプトから連れ出すのだ」と命じられましたが、躊躇して行動を起こせずにいました。「私は何ものなのでしょう」と渋っているモーセを、神は「わたしは必ずあなたとともにいる」と励ましました。それでもモーセは不安を拭うことができず、エジプトに住む同朋のもとに行って「神がわたしをここに遣わした」と名乗っても、「それはどういう神だ」と問い質されるでしょう。「その時、わたしを遣わした神の名を聞かれたら何とこたえたら良いでしょうか?」とのモーゼの問いかけに対して、神がモーセに応えて「わたしは在る。わたしは在るという者だ」(『出エジプト記』第3章第14節)と名乗った事に由来してます。
 
 「わたしは在る。わたしは在るという者だ」の意味ですが、この文章は二つに分けて訳されていますが、原文は三つの単語からなるひとつの文章からなっています。つまり、動詞「わたしは在るだろう」のあとに関係代名詞が置かれ、最後に動詞「わたしは在るだろう」が繰り返されている奇妙な文章構成となっています。動詞「在る」は「…なる」の意味にもなるので「わたしはなるであろうところのものになるだろう」と訳すことができます。つまり、「お前が何処にいても、そこにわたしはいるだろう=わたしは常にともににいる」の意味だと考えられています。
 
 神が語った「ともにいる」とは、モーセへの約束であり、イスラエルの民への約束でもあったのです。英書の神は常に民とともにいて、彼らの苦悩や課題を見て、聞いて、知っており、時宜にかなった応答をする神なのです。モーセがさまざまな困難を克服し、民を導けたのは、「ともにいる神」とともに歩んだからなのです。そして、旧約聖書『イザヤ書』7章14節、同8章8節にその誕生が預言される私たちの主イエス・キリストもまた二つの言葉、インマヌ( 、Immanu、われらとともにいる)とエル(瑟 、El、神)を組み合わされた「神はわれらとともにいる」という意味のインヌマエルの神なのです。
 
 ユダヤ人はモーゼの十戒「神の名をみだりに唱えてはならない」とのトーラー(律法)から神の名である「ヤハウェ」にかわって、「主」を意味するアドナイ(狡翹ヌ [テ?ィュnay]」ス。クヨ (Lord)。ケ、モテ、、、、隍ヲ、ヒ、ハ、遙「ヤウェ、ホH、筵「・ノ・ハ・、、ネユi、゚フ讀ィ、、ハ、ノ、キ、ニ。「・茹マ・ヲ・ァ、ホテ、ホーkメ、アワ、ア、ニ、ュ、゙、キ、ソ。」ャFヤレ、筵讌タ・菠ヒ、マメサー翹サ、ヒ、ェ、、、ニ。「・茹マ・ヲ・ァ、・茹マ・ヲ・ァ、ネコ、ミ、コ。「・「・ノ・ハ・、、「、、、、マ・マ・テ・キ・ァ・(萇ナフム [ha ?m])などと呼びます。これらは、ヤハウェとは別の語です。
 
 ヘブライ語の4つの子音文字(鱠裝 アルファベット表記では右から左にYHWH)という神の名は、ユダヤ教の大祭司の限られた聖職者によってのみ、口にされていたようですが、南ユダ王国崩壊からバビロン捕囚までの時代に書かれた『ラキシュ書簡』にも 鱠裝 は頻繁に現れており、この名がこの時代ぐらいまでは、発音されていたようです。しかし、バビロン捕囚から解放され300年の間にユダヤ教が一時期弱体化し、この新生4文字を発音できる限られた聖職者がいなくなり、それとともにどのように発音するのかが不明瞭になっていったらしいのです。もともとヘブライ語は子音文字表記であるため、文字を読む人の読解力や語彙力に頼っていたたことと、神の名はみだりに唱えてはならないとの律法から、一部の聖職者のみにしかその発音のしかたは伝えられることが許されなかったことが、神聖四文字の発音の消失につながったということです。その後、紀元前3世紀初めごろから翻訳の始まった『七十人訳聖書』では、原語のヘブライ語での 鱠裝 が置き換えられ、ほとんどの箇所で「主」を意味するキュリオス (Κ?ριο?) と訳されています。はっきりしているのは、創世記の冒頭により、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒は、天地創造の神を、ヤハウェ、テオス、アッラーであると考えている点で共通し、同じ神を信仰しているということになります。 
 
 最近の動向として、2008年6月29日付でバチカンの教皇庁典礼秘跡省は「教皇の指示により神聖四字で表記されている神の名を典礼の場において用いたり発音したりしてはならない」との指針が示されました。教皇庁はこの指針の中で、近年の神の固有名を発音する習慣が増加している事態に対して懸念を表明し、神聖四字については「ヤーウェ」「ヤハウェ」などではなく、「主」と訳さなければならないと述べ、神の名を削除するよう求めています。これを受けて日本のカトリック司教協議会は、祈りや聖歌において「ヤーウェ」を使用してきた箇所を原則として「主」に置き換えることを決定しました(一例として「主ヤーウェよ」と呼びかける部分は「神である主よ」とされた)。
以上。
 
 7     「イエス・キリスト」という名前について 2016年10月5日(水) 
 私たちが信仰する「イエス・キリスト(紀元前7〜4年頃 − 紀元後28年頃)」とは、どのような意味を持った名前でしょうか。名前は、個人を特定するだけではなく、その人物の使命や役割をも意味する重要なものです。
 
 例えば、イエスの道を指し示すために、その先駆的役割を果たした洗礼者ヨハネの「ヨハネ」の意味は、ヘブライ語で「主は恵み深い」を意味するヨーハーナーン 鱧銜 Y?ィ。n?n が元の形とされ、ギリシア語では"Ιω?ννη?" (イオーアンネース)です。また、イエスの一番弟子であったシモン・ペトロは、ケファともいわれ、本名はシモン(ヘブライ語読みでは「シメオン」襃。「シモン」は「シメオン」の短縮形)で、イエスにより「ケファ」(アラム語で岩の断片、石という意味)というあだ名で呼ばれるようになりました。そして、後に同じ言葉のギリシア語訳である「ペトロス」という呼び名で知られるようになりました。そして、ユダヤ名がサウロ(ヘブライ語)であるパウロという名前が「小さき者」という意味を持っていることも良く知られていることです。(ギリシア語名では「パウロス」となる。)
 では本題の「イエス・キリスト」の意味を説明します。
 
 まず、「イエス」は、アラム語のイエシュア(鴿褪, Yeshua)=ヘブライ語のヨシュア(イェホーシューア、鯊蒟ノヒムヌ, Yehoshua)で、「ヤーウェ(YHWH 新生四文字で表記される神の名前)は救う」という意味です。私たちが現在用いているイエスという表記は、「イエースース(?ησο??, Iィ・s?s、古典ギリシア語再建音)」の慣用的日本語表記であって、現代ギリシア語では「イイスス」となりますが、以前日本のカトリック教会では「イエズス」と発音していました。
 このように「イエス」とは、かなり大層で重要な意味を持った名前なのですが、『ユダヤ戦記(紀元前200年頃からユダヤ戦争終結の紀元75年までを記す全7巻の記録)』の著者である1世紀のユダヤ人歴史家、フラウィウス・ヨセフスによると、その人を特定するために何かを付け加えなければならなかった当時には、同郷で同じ名前を持っていた人は10人を下らないというごくありきたりの名前だったようです。ガリラヤのイエスは、村の人々から「イエシュア・バル・ヨセフ(ヨセフの子イエス)」と呼ばれ、他の場所では「イエシュア・ハ・ノツリ(ナザレのイエス)」と呼ばれていました。
 
 次に「キリスト」とは、どのような意味でしょうか?古典ギリシア語「クリストス(Χριστ??, Khristos)」の慣用的日本語表記でで、「クリストス」は「膏(油)を注がれた者」を意味するヘブライ語「メシア(マーシアハ、ネムト鯢, M?夭ェ?)」の訳語です。これは名前ではなく称号やイエスの使命を表すものです。当時のユダヤ社会で膏(油)を注がれたる者は、王や祭司などの限られた人物にだけでしたから、イエスの場合もその特別な使命を表すもので、イエスは自分自身をキリストであることを自称しましたが、それは自分が「神の子救い主」であることを意味したのです。
 
 現在私たちが使っているギリシア語:「?ησο?? Χριστ??」は、ヘブライ語ラテン文字転記:Yhoshuah ha-Mashiah イエシュア・ハ・メシア)は、ギリシア語で「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味で、私たちキリスト者にとっては、この呼称自体にイエスがキリストであるとの信仰内容が示されているといえるものです。このように、「キリスト」は救い主への称号であったため、キリスト教の最初期においては、イエスを「イエス・キリスト」と呼ぶことは「イエスがキリストであることを信じる」という信仰告白と等価であったと考えられます。「イエス・キリスト」はギリシャ語で主格を並べた同格表現ですから、「キリストであるイエス」「イエスはキリストである」の意味です。マタイ伝・マルコ伝はそれぞれの冒頭で「ダビデの子イエス・キリスト」「神の子イエス・キリスト」と呼び表しており、この結合表現は新約の他の文書でも用いられています。パウロ書簡には「イエス・キリスト」とならんで「キリスト・イエス」の表現も見られ、紀元1〜2世紀の間に「イエス・キリスト」の方が定着していきました。
 
 8     木鎌耕一郎著 「青森キリスト者の残像」 書評 2016年3月21日(月) 
 本書は、まえがきで青森とキリスト教の出会いを網羅的に扱ったものではなく、その中のいくつかの事象を抽出して検証し記したものであるとし、その第一の出会いをイエズス会を中心とするカトリックの宣教師たちが来日した16世紀の室町末期から安土桃山時代の頃、そして第二の出会いは日本が鎖国を解いて西洋の文物や制度を受け入れた明治の頃であるとしている。
 
 本書は、これら日本におけるキリスト教徒の二回の出会いを前提としながら、青森におけるキリスト教徒との二回の出会いの時期に起こったいくつかの事象を検証し、次の通り三部構成で紹介されている。第一の出会いについては、第一部「青森とキリシタン」、第二の出会いについては、第二部「明治期における青森のキリスト者たち」と第三部「青森飢饉とウェストン」である。
 
 さて筆者は、まず本書のタイトルである「青森キリスト者の残像」の「残像」という言葉の定義に注目した。辞書(広辞苑)によれば、残像とは「感覚器官への直接の刺激が無くなった後に残る感覚現象」とある。これに対し人や物の実態とは異なる実像の対義語としての「虚像」とは意味が異なるから、「残像」という語彙は明らかな事実や実体に対して、私たちの感覚に残る現象を意味する。
 
 この「残像」という語義を踏まえながら、キリスト教信仰の歴史的事実ないし実体に対する「残像」とは何かということを問えば、現代に生きる私たちキリスト者、特に本著においては、青森のキリスト者にどのような感覚的現象としてキリスト教信仰が残されているのか、ということになるであろう。それは、取りも直さずキリスト教信仰が、どのような形で現在まで継承され現存しているのかを問うことに他ならない。
 
 以上の観点で、この「残像」の持つ意味を本書に当てはめると、著者は第一部の「青森とキリシタン」において、キリシタン時代の津軽藩初代藩主津軽為信とその子ら信建や信牧らのキリスト教との出会いとその関連、そして禁教令によって津軽に流された流刑キリシタンたちと彼らの処刑の史実に求めている。とすると、どうしても一つの疑問を呈さなければならない。それは、津軽藩初代藩主津軽為信やその子ら信建や信牧らのキリスト教との出会いが、現代の青森のキリスト教信仰に「残像」として記憶されているのか?ということである。
 
 戦国時代並びに安土桃山時代および江戸時代にかけてのキリシタンの歴史を明らかにする文書・資料は、あまりにも限られている。それは、時の為政者である豊臣秀吉が、サン・フェリペ号事件を契機に、バテレン追放令を始めとしてキリスト教禁教令、さらに徳川家康以降、幕藩体制のもとで、キリシタン弾圧は強化・徹底されていったため、その実体を記した文書・資料等が抹消されていったためである。この期間のキリシタンに関する明確な記録は、僅かにイエズス会士ルイス・フロイスによる「日本史」や「日本年報」そして当時の宣教師たちとキリシタンたちとの間で交わされた手紙などに限られている。この点においては、著者が語るように、わずかな「残像」をたよりに推察するしかないところである。
 
 例えば著者が、津軽為信のキリスト教の出会いを、高山右近との関わりの可能性から導いている点や巡察師を訪ねて説教を聞くようになった奥州の大名が為信であったと推察している点においては、その可能性は十分あったと考えられる。しかし、たとえその奥州の大名が伊達政宗については否定されていたとしても、「奥州のきわめて有力な大名」と修辞されていることからすれば、本州最北端の小さな領地である津軽の領主為信であるとは、にわかには信じられない面があるし、為信を有力な大名であるとする根拠は何であるのかについても明確ではない。また、為信を有力な大名と推測するのと同様に、有力な大名が、伊達政宗ではないとわざわざ否定しているのは何故かという点も、疑問も残るところであり、最後まで幕府のキリシタン弾圧に抵抗し、支倉常長を遣欧使節として送っていたた伊達政宗を擁護する目的から、そのように記されたと推察できないわけでもない。
 
 いずれにせよ、「奥州のきわめて有力な大名」というのならば、本来は伊達氏か南部氏であると理解するのが自然で、当時の多くの戦国大名が、南蛮貿易を頼りに藩の財力や軍事力を強めようとするために、キリスト教に近づいた要素があったことは明らかであり、そのために宣教師や巡察師に高山右近を通して近づこうとした大名は数多くいたであろう。よって、高山右近を通して説教を聞くようになった「奥州のきわめて有力な大名」を、津軽為信に確定するには、それを明確にする新たな資料の発見と今しばらくの研究が必要ではないかと思われる。
 
 次に第二部「明治期における青森のキリスト者たち」の「第八章カトリックの宣教者たち」についてだが、明治期におけるカトリックの宣教は、フランスのパリ外国宣教会から始まったが、1870年頃パリ外国宣教会宣教師のL.モンターギュ神父により、1617年に津軽に流されたキリシタン子孫の実態調査がなされている。ここでL.モンターギュ神父は、磐城山麓高田村の潜伏キリシタンから「こんちりさんのりやく」を贈られている。その際、この冊子がどこからもたらされたのかは誰も語ろうとしなかったのは、おそらく潜伏キリシタンの共同体が時の為政者や一般に知られることを恐れたためだとされている。現在この「こんちりさんのりやく」は、上智大学のキリシタン文庫に収められ、写真版のみで閲覧が許されているとのことである。(『こんちりさんのりやく』の成立背景と意義−キリシタンの精神的支柱としての特異性− 上智大学神学部教授 川村信三)
 
 しかし、津軽に流刑されたキリシタンとその子孫たちが、250年余りをこえて護り続けてきたゆるしの指南書の「こんちりさんのりやく」の所有さえも、津軽における長崎の浦上天主堂での信徒発見の再現には結びつくことはなかった。そして、残念ながらこの事実については、著者が、「本書は、まえがきで青森とキリスト教の出会いを網羅的に扱ったものではなく、その中のいくつかの事象を抽出して検証し記したものである」と断りを入れてはいるものの、津軽流刑キリシタンたちが末裔にまで長く信仰を護り続けた証としての「こんちりさんのりやく」について触れていないことは残念なところである。しかし、これらの事実が、現代の青森県の多くの信徒たちにとって残像として記憶されているのかという観点においては、津軽父子とキリスト教の出会いと同様、そうではないのである。
 
 第三部の「青森飢饉とウェストン」については、この時代になると資料や記録が多々あり、特に青森飢饉の救済についての実体が、ウェストンによる救援基金の設立やベルリオーズ司教を中心とした救済活動として詳細に記されている。そして、それらの活動が「青森ウェストン祭」という催し物や「ウェストン謝恩碑」という具体的な事実として現在にまで語り継がれている残像として読み取れる。また、ウォルター・ウェストンの登山家としての功績みならず、「青森基金救援基金」を設立した宣教師・キリスト者としての生き様が、同じく山を愛する著者のウェストンへの尊敬と愛着とともに語られているところに共感を覚える。
 
 最後に、本著書「青森キリスト者の残像」の意義について記しておきたい。言うまでもなく、この著書は青森県のキリスト者の残像の幾つかの事象を抽出して検証したものであるが、ここでいう残像とは、過去のキリスト者たちの信仰やそれに基づいた行動などの歴史的事実が、現代の私たち青森キリスト者に継承されてこそ残像となり得るものである。そのためには、過去の歴史全体ではなくても幾つかの事実を知ることから始まり、知ったことを私たちの現実の信仰に結びつかせ、新たな福音宣教や共同体づくりという具体的な行動に展開されることで、それらが次世代の共同体や信徒たちに受け継がれていくことに他ならない。このような観点においてこの著書は、青森キリスト者にとって残像となるべき事実を想起させ得る貴重なものである。
 
 キリシタン時代から明治初期にかけての青森県のキリスト者の残像となり得るものに関する事実については、あまりにもなおざりにされ続けてきたのではないだろうか。それら私たち青森キリスト者に受け継がれるべき歴史的事実が、何故忘れ去られてきたのかの理由を明らかにしながら、現代の青森キリスト者の残像になるべき事実を掘り起こし、同じ信仰を生きている現代の青森キリスト者の残像としていかなければならない。その上で、次世代の青森キリスト者にも残像として継承できるものとしていかなければならない。本書の一部から二部の前半にかけては、わずかな残像をたよりにできる限りの推察を試みるものであるにはせよ、現代の青森キリスト者が受け止めるべき歴史的事実を記していることに間違いは無い。なお、キリシタン時代から明治期にかけての青森県の教会史は、本書とともに「誰も語らなかった津軽キリシタン
 
 なぜ歴史はこの事実を見落としたのか 坂本正哉著 青春出版社)、青森県とカトリック 宣教百年史 小野忠亮著 百年史出版委員会)を合わせ読むことで、残像とすべき事実がかなりの範囲で把握できる。
 
 私たち青森キリスト者は、信仰の残像とすべき多くの事実を掘り起こさなければならない。例えば、1624年(元和9年)、仙台藩でキリシタン迫害が起こり、イエズス会のポルトガル人宣教師ディエゴ・カルワリオ神父と信者が捕えられ、広瀬川で殉教した。そして1971(昭和46)年、広瀬川の畔にある西公園の東端大橋の近くに、仙台教区の司祭深沢守三神父制作によってブロンズ像「キリシタン殉教記念碑」が建立され、天を仰ぐカルワリオ神父と、深い祈りをささげる二人の殉教者は、彼らの深い信仰を地元仙台の信徒を始め、広く仙台教区の信徒に今も伝えており、毎年2月には、この殉教碑前で「仙台キリシタン殉教祭」が行われている。本来であれば畿内からの津軽流刑キリシタンとはいえ、その中の数人が処刑され殉教しているのであるから、「仙台キリシタン殉教者」のように、殉教祈念碑や殉教祭というような形で、現代の青森キリスト者や共同体に語り継がれ、残像として記憶されているべきことであろう。そのような青森キリスト者にとってかけがえのない信仰の宝であり残像となるべき出来事を風化させてはならない。筆者は、本書がキリシタン時代から明治期にわたる青森キリスト者にとっての信仰の残像となるべき事実を掘り起こし、将来にわたって語り継ぐためにそれらを具現化し、共同体の残像とすることを静かにそして淡々と語りながら、読者に促しているように思う。福音は語り継がれなければならない。語り継がれることによってキリスト者をはじめ多くの人の記憶に残像として刻まれていく。本書は、信仰の残像となるべき事実を真に残像とするために、少なくとも青森県をはじめ仙台教区および日本のすべてのキリスト者の必読の書といえよう。
 
以上。
 
 9     「女性宗教者 蟻の町のマリア北原怜子の霊性について」 2015年11月11日(水) 
 教科指導において授業の導入は、生徒の興味関心および本時の授業目的を意識させる観点において、極めて重要である。
 
1.導入
 本時の授業テーマである「女性宗教者 蟻の街の北原怜子の霊性について」の授業を展開する上での導入として、初等教育および中等教育で既に履修済みである日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが、何故命がけでキリスト教を日本に伝えたのかを生徒に発問し、イエス・キリストの福音を証しし自分を他者に与え尽くす信仰に根ざした生き方である霊性について説明する。その上で、戦後の混乱期に貧しい人々のために、自分の短い生涯を神に全力で献げた「蟻の街のマリアと呼ばれた北原怜子」という一人の女性がいたことを紹介し、次の展開につなげていく。
 
2.展開
(1)北原 怜子(きたはら さとこ)の年表 
1929(昭和4)年8月22日  東京府豊多摩郡(現・東京都杉並区)生まれ。北原金司(群馬大学・東京農業大学教授、経済学博士)の三女。
1937(昭和22)年       桜蔭高等女学校(現桜蔭中学校・高等学校)、昭和女子薬学専門学校卒業。
1949(昭和24)年11月1日 光塩女子学院内のメルセス会修道院にて受洗。洗礼名はエリザベト、堅信名はマリア
1950(昭和25)年       浅草の姉の家に転居した際に、コンベンツアル聖フランシスコ会ゼノ修道士と知り合う。その後、蟻の街の人とと共に暮らす。
1958(昭和33)年1月23日 死去。享年28歳。
2015(平成27)年1月22日 教皇フランシスコにより尊者となる。
 
(2)キリスト教徒の出会い
 北原怜子は、妹の肇子がメルセス会が創立母体である光塩女子学院に通うことで、妹に同伴して同学院に足を運ぶ中、メルセス女子修道院でスペイン人のシスター、マリア・アンヘレスから聖書やカトリックの教義書である公教要理を学び、光塩女子学院の聖堂で洗礼を受ける。洗礼を受けた後、怜子は祈りを欠かさず、十字架を身に付けるようになった。
 
 後にメルセス会修道女となることを決心するが、病気のためにかなわなかった。
 
(3)ゼノ修道士との出会い
 ゼノ修道士との出会いは、その後の北原怜子の生き方を決定づけることになる。
 
 ゼノ・ゼブロフスキー修道士(1898〜1982)は、ポーランドのスロヴェに生まれ、29歳でコンベンツアル聖フランシスコ会修道会に入会。1930年、マキシミリアノ・コルベ神父らと共に宣教のため来日。1945年8月長崎にて被爆し、戦後は東京・浅草のバタヤ街など全国各地で、戦争で家族を失った子どもたちの救済と自立のために働いた。
 
 怜子は、受洗後、浅草の姉の家に転居した際に、ゼノ修道士によって蟻の街を紹介され、そこに住む貧しい人々と関わるようになる。
 
(4)北原怜子の活動
 怜子は、コンベンツアル聖フランシスコ会ゼノ修道士に蟻の街を紹介されてから、そこに住む子どもたちに、くこと勉強すること、遊ぶことの楽しさを伝えていくが、当時そこに住む人々を追い出そうとする動きもあり、怜子はいつも困難に直面し、衝撃を受けながらもカトリック信者としての自分のあり方を誠実に見つめ、あゆみを深めていく。
 
 最初は、子どもたちに勉強を教えることで、奉仕の喜びを感じていたが、次第に自分も蟻の街の人々と共に働かなければ、キリストのように生きているとは言えないと感じるようになる。そして、裕福な家庭に生まれた女性として奉仕活動をすることをやめ、保証された生活を手放し家族のもとを離れて、蟻の街の人々と共に廃品回収を行い過ごすことを決意するとともに、本当の意味で蟻の街の人々からも受け入れられるようになる。
 
 関係動画を見せる。1「蟻の町の誕生」https://www.youtube.com/watch?v=knWWAdj3EMs
2「蟻の町へ」https://www.youtube.com/watch?v=4Umge6yN4z83北原怜子如何在艱難環境中找到教會(4-6-2015)https://www.youtube.com/watch?v=s7nlV0Mjv2E
 
(5)北原怜子の霊性
 怜子は、蟻の街の子供たちに勉強を教えてあげることぐらいのことだけで、立派なカトリック信者のつとめを果たしているような気になっていたという。しかし、徐々にいかに身を粉にして働いても、己の高慢心をそのままにしておいて、貧乏人を助けることができるはずがないことに気付き、蟻の街の子を助けるには、自分自身も蟻の町の娘になり生きる道を選ぶのである。
 
 やがて、そんな献身的な怜子の姿はメディアに取り上げられるようになり、自分一人の力で何もかもやれるようなうぬぼれになったこともあったことを書簡に書き留めている。しかし、怜子はいやしくもカトリック信者である以上は、自分は神の御旨を世に伝えるための媒介体に過ぎないと心得、自分の力によって行われた何もないことを自覚し、これまでの自分自身の生き方を恥じ入るのである。
 
 後に怜子は、全身全霊の活動と、もともと病弱であったことから、病の床に伏すこととなが、怜子の代わりに子供たちの世話をする佐藤慶子という女性に対して一次嫉妬を抱くものの、小さい醜いマリアという自分の姿が消えてなくならなければ、私のすべてを消すことにはならないという、正に「もし天主様の御旨にかなうなら、私の生命は喜んで蟻の街に献げるとお約束しました。そのお約束を果たすべき火が、どうやら来たようでございます。」の怜子の言葉に表されるように、イエス・キリストを模範とする自己無化する神の愛の真のあり方に到達するのであった。
 
 関連図書の紹介「蟻の町のマリア北原怜子」松居桃楼著
 
3.まとめ
 怜子は、イエスのような姿に近づこうと、愛とほほえみのうちにすべてを手放して仕え、晩年は人には決して目立たない形でその歩みをたどり続けた。司祭でもなければ、修道者でも殉教者でもなく、一人の素朴なカトリック信徒の女性として、貧しい人々の只中でひっそりとその歩を深め続けたのである。たとえ、地味な生き方でもイエスの愛に日々深く生かされて、喜んですべての人を心から大切にし、イエスを証ししながら神の愛とその国を実現したのである。
 北原怜子の生き方・霊性は、「他者のために自分の命を生きる」というところに神が現存するというイエス・キリストの生き方、福音そのものなのである。
以上。
 
評価結果 A
 
 
 10     中等教育における宗教科教科指導とその評価について 2015年11月11日(水) 
−授業評価におけるRubricの活用法と指導案の関連−
 
 日本における中等教育の宗教科教育で十分配慮しなければならないことは、教科指導の対象である生徒のほとんどがキリスト教信徒ではないことから、宗教教育における信仰教育と宗派教育および宗教知識教育の区別を明確にすることである。
 
 カトリック学校およびキリスト教主義学校の本来的目的は、教育活動を通してイエス・キリストの福音を宣べ伝えることではあるが、元来、福音宣教とは福音を宣べ伝えることがその本旨であって、洗礼を施し信徒にさせることではない。福音を受け入れ信徒になるかどうかは、福音を聞いた者の自由意志に託されるものである。かといって、カトリック学校における宗教科教育が、単に宗教知識を教授するもに終始したのでは、一般の公立中等教育機関における社会科・公民科教育の宗教分野の学習に等しくなってしまう。よって、カトリック学校の中等教育における宗教科教育は、宗教の授業を通して、人間の宗教性を喚起し、イエス・キリストとの出会いの機会を提供し、福音を宣べ伝えることが重要である。
 
 さて、中等教育にいる生徒ともなれば、当然社会的な影響やつながりを強くもつようになっているし、自我の目覚めが起こる人生の中では最も重要な時期であるといえる期間である。人間の発達段階におけるこの時期の発達課題は、アイデンティティの確立であるから、人間の本性や人間存在および自己の存在価値を考えることが重要になる。そのような観点で、被造物である人間には創造者である神からその秩序に従うことが問いかけられることから、「キリスト教は、人間の本性を問い続ける」のである。このことは、中等教育における生徒一人ひとりの人格の形成に大きな道標となるとともに、そこにおける宗教教育が果たす役割と責任も大きい。
 
 では、中等教育における宗教教育をどのような授業を通して個々人の人間の本性に問いかけ、最終的にイエス・キリストとの出会いを目指して、教科指導の結果を評価していくかであるが、それを1.「アプローチ(弁えておくべき多様な切り口)」・2.「パースペクティブ(保つべき視野))」・3.「ヴィジョン(共有すべきヴィジョン)」・4.「スタンス(志すべき境涯)」の四つの項目から述べてみる。
 1.「アプローチ(弁えておくべき多様な切り口)」
 どのような教材を用いて宗教科の授業を展開し、最終目的である「イエスとの出会い」を果たすかであるが、最も重要な観点は、生徒一人ひとりの日常の生活にそれぞれの授業テーマが落とし込まれることである。その切り口としての教材は、聖書そのもののみならず、文学や歴史、芸術、宗教学や哲学、倫理学、時事問題などの社会問題、そして宗教体験や聖人の霊性、聖歌など多種多様である。しかし、これらのものを授業教材として扱うためには、教師が十分に咀嚼しながら指導案を構成し、ルーブリックや授業のリアクションペーパー等を活用した授業評価に至るまでを、考慮していかなければならない。
 
 なお、聖書そのものを用いる場合は、神学の教授に陥ることなく焦点ををはっきりさせておくべきこと、および宗教教育全般がイデオロギーと混同することのないようにとの配慮が十分気を付けなければならない。
 2.「パースペクティブ(保つべき視野)」
 パースペクティブは、宗教科授業の根幹でありコンセプトであり、カトリック学校における宗教科教育の教育目的といって良いものであある。どんな教材を扱おうとも、どのような視野でそれらの教材を授業展開するかで、落としどころが違ってくることさえある。カトリック学校における宗教科教育の教育目的は、人間の本性を問いかけながら、人間にとって神とのつながりをもちながら、神の望む姿に近づこうとする生き方が、人間にとって不可欠であることに気付かせることである。それが、神の無条件の愛であるケノーシス(自己無化)に、人間がどのように応答するのか(テオーシス)の問いかけであり、その模範としてイエスのミメーシスがあるのだから、宗教科教育を通してイエスと出会うことは、生徒一人ひとりの人間の本性を見つめ、霊的存在としての自己を発見することに至る最良の道となるであろう。
 
3.「ヴィジョン(共有すべき展望)」
 宗教科教育における共有すべきヴィジョンは、「人間のいのち探求」ではないだろうか?人間の根本的存在のあり方を含め、人間のいのちが、どうあるべきか?そして、人間として自己がいかに生きたら良いのか?の問いかけは、生徒も教師も共有すべきヴィジョンとして、平等・公平の立場としてもっておく必要がある。これらのことは、他教科に比較して宗教科教育の最も特徴でもあり、「答えを共有するよりも問いかけを共有する」ところに重点が置かれるところである。
 
4.「スタンス(志すべき境涯)」
 宗教科教育のスタンスとしては、人は皆、一人ひとりが担っている十字架に向かって歩んでいるという視点である。勿論、それは宗教科教育に携わる教師としても同様であり、自己の信仰と誠実に向き合いながら、一信仰者としてイエスの十字架に近づこうとする姿勢が求められよう。また、人間は被造物としての神の御摂理の中に生きているのであるから、それに従うことが求められているということも重要な視点であり、人間の宗教性を根幹に、生徒とのかかわりを築いていくことが大切である。
 
 最後に宗教科授業におけるルーブリックの具体的評価項目について述べる。 Quality
 Factor不適当やや適当適 当良 適最 適 導入における本時の意識付け テーマ・教材の選定の適正 テーマ・教材に対する理解度 テーマ・教材の展開のあり方 生徒への教材の提示の仕方 本時の生徒の思考の深度上表上のように、評価項目(Factor)を1.「導入における本時の意識付け」2.「テーマ・教材の選定の適正」3.「テーマと教材に対する理解度」4.「テーマと教材の展開の仕方」5.「生徒への教材の提示の仕方」6.「本時の生徒の思考の深度」、評価度(Quality)を、不適当・やや適当・適当・良適・最適と五段階に区分した。
 
 なお、ルーブリックには、十二分な教材研究と周到で綿密な指導案がなければ、その評価の観点も明確化できないし、特に授業の切り口である導入時の意識付けは重要で、何気ない日常的で生徒の関心のある話題から、授業テーマにどう結びつけるかが、生徒一人ひとりが自己の問題として受け止めることができるかに直結する。さらに、ルーブリックだけによる評価ではなく、現在わたしが実践中の授業に対するリアクションペーパーを生徒に記入して貰うことで、個々人の観想や考えさせられたこと、新たに学んだこと、質問など、生徒の生の感想や意見そして疑問を知ることができるので、両者の併用による授業評価が望ましいであろう。
 
 また、授業は、教師にとって永遠の課題である。どんなに教材研究してもし過ぎることはない。そして、同じテーマで授業をしてもクラスによって反応が違うし、特にわたしのように対話法で授業展開する場合はなおさらであるから、授業対象クラスや個々の生徒に応じた授業展開ができることも重要である。
人間および価値観の多様化がますます複雑化・進展していく中で、人間の霊的側面や宗教性の探求から、人間の本性を問いかけ、より人間らしく生きられるより良い社会の構築のためにも、宗教教育の果たす役割は、これまで以上に大きく必須であると考える。
以上。
 
評価結果 A

Last updated: 2016/11/15