教科指導において授業の導入は、生徒の興味関心および本時の授業目的を意識させる観点において、極めて重要である。
1.導入
本時の授業テーマである「女性宗教者 蟻の街の北原怜子の霊性について」の授業を展開する上での導入として、初等教育および中等教育で既に履修済みである日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが、何故命がけでキリスト教を日本に伝えたのかを生徒に発問し、イエス・キリストの福音を証しし自分を他者に与え尽くす信仰に根ざした生き方である霊性について説明する。その上で、戦後の混乱期に貧しい人々のために、自分の短い生涯を神に全力で献げた「蟻の街のマリアと呼ばれた北原怜子」という一人の女性がいたことを紹介し、次の展開につなげていく。
2.展開
(1)北原 怜子(きたはら さとこ)の年表
1929(昭和4)年8月22日 東京府豊多摩郡(現・東京都杉並区)生まれ。北原金司(群馬大学・東京農業大学教授、経済学博士)の三女。
1937(昭和22)年 桜蔭高等女学校(現桜蔭中学校・高等学校)、昭和女子薬学専門学校卒業。
1949(昭和24)年11月1日 光塩女子学院内のメルセス会修道院にて受洗。洗礼名はエリザベト、堅信名はマリア
1950(昭和25)年 浅草の姉の家に転居した際に、コンベンツアル聖フランシスコ会ゼノ修道士と知り合う。その後、蟻の街の人とと共に暮らす。
1958(昭和33)年1月23日 死去。享年28歳。
2015(平成27)年1月22日 教皇フランシスコにより尊者となる。
(2)キリスト教徒の出会い
北原怜子は、妹の肇子がメルセス会が創立母体である光塩女子学院に通うことで、妹に同伴して同学院に足を運ぶ中、メルセス女子修道院でスペイン人のシスター、マリア・アンヘレスから聖書やカトリックの教義書である公教要理を学び、光塩女子学院の聖堂で洗礼を受ける。洗礼を受けた後、怜子は祈りを欠かさず、十字架を身に付けるようになった。
後にメルセス会修道女となることを決心するが、病気のためにかなわなかった。
(3)ゼノ修道士との出会い
ゼノ修道士との出会いは、その後の北原怜子の生き方を決定づけることになる。
ゼノ・ゼブロフスキー修道士(1898〜1982)は、ポーランドのスロヴェに生まれ、29歳でコンベンツアル聖フランシスコ会修道会に入会。1930年、マキシミリアノ・コルベ神父らと共に宣教のため来日。1945年8月長崎にて被爆し、戦後は東京・浅草のバタヤ街など全国各地で、戦争で家族を失った子どもたちの救済と自立のために働いた。
怜子は、受洗後、浅草の姉の家に転居した際に、ゼノ修道士によって蟻の街を紹介され、そこに住む貧しい人々と関わるようになる。
(4)北原怜子の活動
怜子は、コンベンツアル聖フランシスコ会ゼノ修道士に蟻の街を紹介されてから、そこに住む子どもたちに、くこと勉強すること、遊ぶことの楽しさを伝えていくが、当時そこに住む人々を追い出そうとする動きもあり、怜子はいつも困難に直面し、衝撃を受けながらもカトリック信者としての自分のあり方を誠実に見つめ、あゆみを深めていく。
最初は、子どもたちに勉強を教えることで、奉仕の喜びを感じていたが、次第に自分も蟻の街の人々と共に働かなければ、キリストのように生きているとは言えないと感じるようになる。そして、裕福な家庭に生まれた女性として奉仕活動をすることをやめ、保証された生活を手放し家族のもとを離れて、蟻の街の人々と共に廃品回収を行い過ごすことを決意するとともに、本当の意味で蟻の街の人々からも受け入れられるようになる。
関係動画を見せる。1「蟻の町の誕生」https://www.youtube.com/watch?v=knWWAdj3EMs
2「蟻の町へ」https://www.youtube.com/watch?v=4Umge6yN4z83北原怜子如何在艱難環境中找到教會(4-6-2015)https://www.youtube.com/watch?v=s7nlV0Mjv2E
(5)北原怜子の霊性
怜子は、蟻の街の子供たちに勉強を教えてあげることぐらいのことだけで、立派なカトリック信者のつとめを果たしているような気になっていたという。しかし、徐々にいかに身を粉にして働いても、己の高慢心をそのままにしておいて、貧乏人を助けることができるはずがないことに気付き、蟻の街の子を助けるには、自分自身も蟻の町の娘になり生きる道を選ぶのである。
やがて、そんな献身的な怜子の姿はメディアに取り上げられるようになり、自分一人の力で何もかもやれるようなうぬぼれになったこともあったことを書簡に書き留めている。しかし、怜子はいやしくもカトリック信者である以上は、自分は神の御旨を世に伝えるための媒介体に過ぎないと心得、自分の力によって行われた何もないことを自覚し、これまでの自分自身の生き方を恥じ入るのである。
後に怜子は、全身全霊の活動と、もともと病弱であったことから、病の床に伏すこととなが、怜子の代わりに子供たちの世話をする佐藤慶子という女性に対して一次嫉妬を抱くものの、小さい醜いマリアという自分の姿が消えてなくならなければ、私のすべてを消すことにはならないという、正に「もし天主様の御旨にかなうなら、私の生命は喜んで蟻の街に献げるとお約束しました。そのお約束を果たすべき火が、どうやら来たようでございます。」の怜子の言葉に表されるように、イエス・キリストを模範とする自己無化する神の愛の真のあり方に到達するのであった。
関連図書の紹介「蟻の町のマリア北原怜子」松居桃楼著
3.まとめ
怜子は、イエスのような姿に近づこうと、愛とほほえみのうちにすべてを手放して仕え、晩年は人には決して目立たない形でその歩みをたどり続けた。司祭でもなければ、修道者でも殉教者でもなく、一人の素朴なカトリック信徒の女性として、貧しい人々の只中でひっそりとその歩を深め続けたのである。たとえ、地味な生き方でもイエスの愛に日々深く生かされて、喜んですべての人を心から大切にし、イエスを証ししながら神の愛とその国を実現したのである。
北原怜子の生き方・霊性は、「他者のために自分の命を生きる」というところに神が現存するというイエス・キリストの生き方、福音そのものなのである。
以上。
評価結果 A
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