私たちが信じている神は、天地万物の創造主である父なる神と、その御一人子でありこの世に使わされたイエス・キリスト、そして父なる神の息吹である聖霊のいわゆる三位一体の神です。三位一体の神とは、非常に難しい概念かも知れませんが、この三つは神のペルソナ(位各)であり、これら三つが一つの本質であるということです。ペルソナ(位各)とは、人間の人格(personality)の要素が性格・気質・能力によって構成されているように、唯一の神が人間を愛するが故、ご自分の親しい交わりのうちに招き入れ、人間を神が望む幸福な姿として導き救うための慈しみに満ちた愛の姿です。
さて、三位一体の神である父なる神と御一人子であるイエス・キリストについては、第1回目と第二回目に解説しました。今回は三つのペルソナの3番目に当たる聖霊について説明し、私たちが信じている神について述べることにしましょう。
「聖霊」については、旧約聖書・新約聖書の各所に語られています。まず、旧約聖書の最初に出てくるのは、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1・2)と天地創造のはじめよりその存在があり、神の創造の業に深く関わっていることが記されています。また、神が人間を創造する際に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2・7)とありますが、これはヘブライ語のルーアッハという言葉で、命を与える息吹、風を意味し、その根底には神から人間に与えられているとの理解があります。特に、「霊」によって、人は生きる者とされたわけですから、この霊は人を人たらしめるものということに他ならず、人は神からのこの「霊」によって生きる者とされたということは、私たちに人間は霊的存在であり神とのつながりによってのみ、神が望む人間らしい姿として真に生きていける者になるということなのです。
新約聖書における「聖霊」は、ギリシア語のプネウマという言葉が当てられており、「神の霊」・「復活したキリストの霊」を「聖霊」と表していることが多いようです。新約聖書において明確に「聖霊」について語られているカ所は幾つかあります。
例えばルカが記した使徒言行録で復活したイエス・キリストの復活後の50日目に当たる五旬祭(ペンテコステ)の日に、使徒たちに天から与えられたとされる(使徒言行録2・1-4)聖霊降臨についての記述では、使徒たちを宣教活動に駆り立てさせ必要な力として聖霊の無償の賜(カリスマ=恩恵・恩寵・寵愛・魅力に由来)として記されています。また、ヨハネ福音書では「そう言ってから、彼らに息を吹きかけられて言われた『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネ20・22)など、「聖霊」を「弁護者(パラクレートス)」とし記し、イエス・キリストが語ったみ言葉が記されています。(ヨハネ14・16-26・16・7-15)また、パウロのコリントの手紙一には、「癒やしの賜、奇跡を行う力の賜、預言する賜、異言を語る賜、それを解釈する賜、知恵、知識、堅い信仰」(コリント一12・6-11)など、同じ霊によって一人ひとりに分け与えられるものであると記されています。(聖霊の七つの賜=上智・聡明・賢慮・勇気・知識・考愛・主への畏敬)
以上のように「聖霊」は、人間を神の前に正しく人間らしく生きる者とさせ、主イエス・キリストにおいて、その福音を宣べ伝るキリスト者として生き抜くため、またキリストによって集められた共同体を神に導くための特別な力を与えて下さる方ということができると思います。ですから、「聖霊」は私たちキリスト者にはなくてはならないものですね。
以上、私たちが信じる神は、父と子と聖霊の三位一体の神です。冒頭に記したように三位一体の概念は大変難しいものですが、簡単に解説しておきます。
父と子と聖霊という言葉は、マタイ福音28・19の弟子たちを派遣する祭のイエス・キリストのみ言葉として記されていますが、「三位一体」という言葉については旧・新約聖書を通して、どこにも記されていません。キリストの受肉という観念のない旧約聖書には、受肉の根拠である神の三一的性質を示すカ所はありません。新約聖書においては、イエス・キリストが唯一の神に向かって「アッバ父よ」(マルコ14・36)との呼びかけは、旧約には類例のないもので、子であるイエスと父なる神との信頼・畏敬に満ちた交流と関係性が表れており、聖霊も父からイエスによって世界に派遣され、イエスを告白する力となって、キリスト者のカリスマ的生活の源泉として働くものであると記されています。また、ヨハネ福音書やヨハネの手紙一には、イエスは永遠の昔から神の独り子で、時満ちて受肉しイエスを通して父なる神が啓示された聖霊も父鳴神を源泉とし、子を通して派遣され、イエスの死後その働きを継続する実存者であるとの記述から、父と子と聖霊の三一的ヴィジョンがうかがえます。
このように新約聖書には三位一体の源泉や萌芽となるような記述はありますが、三位一体という言葉そのものはなく、実は「三位一体」という言葉は教父時代につくられたものです。では、どのように形づくられていったのか?その歴史的展開を簡単に解説します。
イエスの死後、イエスの示した福音を受け継ぎ各地に宣教したのは使徒たちですが、それを引き継いだのが教会共同体を指導する立場にあった教父と言われる人々です。教会共同体は、その創生期である使徒時代から多くの問題を抱えていました。それは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者そしてグノーシス主義者との考え方の違いから来る対立でした。そのような対立の中で、イエス・キリストへの真実の信仰のあり方を確立するために、異端と言われる考え方を否定もしくは排除する必要性がありました。よって、教父たちは、ユダヤ教的一神教論とギリシア的他心論およびグノーシス主義の間にあって、受肉したキリストを根拠に三位一体論を確立していったのです。三位一体論は、父と子の同一本質関係(ホモウーシオス)を示したニカイア公会議(325年)や聖霊論を提示したコンスタンティノポリス公会議(381年)を通して5世紀のカルケドン公会議(451年)にまでに成立しました。
西方教会(カトリック)では、アウグスティヌスが心理学的・哲学的に三一論を展開しましたが、他方で三一性の聖霊を巡ってフィリオクェ問題(ニカイア・コンスタンティノポリス信条の解釈・翻訳をめぐる問題で、キリスト教神学上の最大の論争の一つ。カトリック教会で言う聖霊(正教会の聖神)は、父鳴神と、子にして神であり人でもあるイエス・キリストとともに、三位一体を構成するが、正教会では聖神は父より発するとされるが、カトリック教会では聖霊は父と子より発するとするのが、その相違点である。)は、東西両教会分裂(大シスマ1054年)の主因となりました。正教会では、父の唯一原理性(も名ルキア)から発する各位各の自存性を強調しますが、西方教会は聖霊を父と子を結ぶ愛として三位の同一本質性を強調します。
中世から近代にかけ三位一体理論は、フィオーレのヨアキム(中世イタリアの神秘思想家1135〜1202年)の三位的歴史観や三位的歴史観や、父・子・聖霊・の関係を正・反・合の弁証法に吸収したヘーゲル哲学において歴史か世俗化されました。
二度の世界大戦による神学的世界観の破綻、多元的価値観の出現、諸宗教の出会いを体験した今日では、歴史超越的な内的三位一体論に対し救済詩的三位一体論が注目さてきていますが、救済史に働く神の、子と聖霊を通した自己譲与から三位一体論を展開するカール・ラーナー(ドイツのイエズス会司祭・神学者 宗教的包括主義を唱えた。1904〜1984年)や聖書による終末論的な人類の解放と栄光化の歴史における「栄光の三一性」を語るモルトマン(ドイツの神学者・牧師 希望の神学を提唱1926〜)などがその好例です。
他方東方教会の伝統を承けるウラジミール・ロースキイ(正教会の神学者1903〜1958年)は、父に対する人間の神秘的礼拝的態度を説いたが、こうしたキリスト教的三位一体論に対して、フェミニズムの父権性批判による父の否定、他宗教との対話における聖霊の働き、疑似神秘主義に対するペルソナの役割、アジア的風土における三位一体の意義や表現など、さまざまな問いかけがなされています。
しかし、ペルソナ的自由や交流、宗教的実存や祈りなど三位一体論は依然、神と人間との関係について示唆を与え続ける信仰の神秘です。
やはり三位一体論とは、大変難しいですが、揺るぎない信仰を持ち続ける中で理解しうるものなのかも知れませんね…。なお、ミサで唱えられる使徒信条とニケイア・コンスタン値ノーブル信条を掲載しておきます。
「使徒信条」
天地の創造主、
全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、
おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、
陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、
全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、
聖なる普遍の教会、
聖徒の交わり、
罪のゆるし、
からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。
「ニケア・コンスタンチノープブル信条」
わたしは信じます。唯一の神、
全能の父、
天と地、
見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
わたしは信じます。唯一の主、イエス・キリストを。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、
わたしたちの救いのために天からくだり、
聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ、
聖書にあるとおり三日目に復活し、
天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、
父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
死者の復活と
来世のいのちを待ち望みます。アーメン。
参考図書
カトリック教会のカテキズム カトリック中央協議会
カトリック教会の教え カトリック中央協議会
YOUCAT(Youth Catechism) カトリック中央協議会
キリスト教辞典 岩波書店
|