神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、.に不思議な業を、したでは、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。
(使徒言行録2:17〜21)
 

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『この民のところへ行って言え。
あなた達は聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。』
(使徒言行録28:26〜27)
キリスト教研究 宗教学・教理学・宗教史・哲学・宗教科教育法
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 1     「幸い」とは 2016年11月15日(火) 
 人にとって、幸せとは何でしょうか?人は誰しも幸せを求めて生きていますし、日本国憲法にも幸せになる権利(幸福追求権 第13条)があると規定されています。では、聖書では幸福(「幸い」)をどのように説いているかというと、「神に祝福された幸福の状態」と説いています。しかし、聖書、特にイエスが示す幸せと、私たち人間が描く幸せとは、少なからず違いがあるようです。
 
 旧約においては、おもに神からの物質的な賜物(長命、子孫の繁栄、富、豊作)によって幸福が約束されている記述が見られます。(申6:3、33:11、サム下6:11)しかし、新約においては、物質的な物ではなく内面化された信仰の事柄として捉えられています。新約聖書の「山上の説教」の冒頭に(マタ5、ルカ6)、神による幸いが示され、来たるべき神の国の終末的信仰と結びについて、幸福の真の姿が説かれています。ここで示されている「幸い」には、イエス・キリストの救いの業に信頼すること(ロマ4:6-8)であるとパウロはいっています。また、初代教会の迫害時代において、キリストのために迫害を受け、その試練に耐え、信仰を全うすることが幸いである(ヤコ1:12、Tペト3:14)との記述も見られます。
 
 新約聖書マタイ福音書5:3-5に記されている「幸い」について読み解いてみましょう。このカ所は、「真福八端」と呼ばれ、幸せになるための八つの糸口をイエスは説いています。ここでいう「幸い」には、ギリシア語のマカリオイ(Μακαριοι) が使われていますが、この語は、私たち人間が自己のさまざまな努力や忍耐によって求めるもの、人生の目的とするものとしての地位や財産等の自己実現、そして家族に恵まれているなどという相対的な幸いではなく、あくまでも自己と神との交わりがもたらす恩寵としての「幸い」であり、絶対的な幸いを意味するものです。また、ギリシア語のマカリオイ(Μακαριοι) は、ヘブライ語では「祝福(berakah)」という言葉に変わり、この言葉の原意は「救済に満ちた力を付与する」です。ですから、聖書が特「幸い」とは、人間の行動がもたらす結果としてのものではなく、神の人間に対する恩寵や祝福として与えられる賜物として理解されるべきものでしょう。
 
 ですから、マタイのこのカ所の内容には誰もが困惑し、その解釈に戸惑ってしまうのではないでしょうか?なぜなら、「貧しいものが幸いであったり、悲しむ者が幸い」であったりと、私たち人間が考える「幸い」からは、はなはだかけ離れているからです。では、そこのカ所を読んでみましょう。
 
 「心の貧しい人々は幸いである、
   天の国はその人達のものである。
  悲しむ人々は、幸いである、
   その人達は慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、
   その人達は地を受け継ぐ。
  義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人達は満たされる。
  憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人達は憐れみを受ける。
  心の清い人々は、幸いである、
   その人達は神を見る。
  平和を実現する人々は、幸いである、
   その人達は神の子と呼ばれる。
  義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせ られるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな 報いがある。あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
 
とありますがいかがですか?私たち人間が普通に考える幸いのあり方として読むならば、あまりにも理不尽で、理解に苦しむはずです。しかし、聖書が語る「幸い」の本来の意味を前提として読むならば、合点がいくのではないでしょうか?この世において人間が生きていく中で、誰しもが味わう困難、そしてそれに伴う苦しみや悲しみ、孤独感…。知恵文学の一つである旧約聖書の「ヨブ記」は、まさに神の前に義人として苦しむヨブの姿が、切々と語られています。しかし逆説的ではありますが、人間が苦しみを抱えながら生きるところに、神の目は注がれるのです。ですから、貧しい者や悲しむ者、柔和な者や義に飢え渇く者、憐れみ深い者や心の清い者、平和を実現する者や義のために迫害される者、そしてイエス・キリストのためにののしられ迫害される者は、神に祝福され、神の力がおよび、神からの賜物としての恩寵を受けるからこそ、「幸い」なのです。
 
 現代に生きる私たちは産業革命以来、功利主義的な価値観をもとに幸せを追求してきました。しかし、それらの多くは個人主義的あるいは利己主義的な価値観の多様化(氾濫)をもたらしたことも事実です。そして、私たち現代人は、幸せを追求しながらも心のどこかに渇望を感じながら、生き辛さを感じているのではないでしょうか?経済の繁栄は、地球環境を傷つけ、その飽くなき追求は競争社会と格差社会を生み出しています。それらは大人社会にあっては長時間労働による過労死や自死、家庭崩壊等々。大人社会は当然子ども社会にも影響を及ぼします。学校社会においては、子どもたちをいじめによって自死に追い込んだり、家庭崩壊による貧困問題は、子供の教育格差を生み出し、不登校や引きこもり栄養失調など、さまざまな問題を露呈しています。まるで、現代人は幸せを求めながらも、自らの行いによって、不幸をつくりだしているかのようです。
 
 このような現代人に、イエス・キリストの説く「幸い」は、悔い改め(回心)によって新しい生き方に生きるよう(価値観の転換)に、二千年の時を超えて今もなお招いていくれているのだと思います。神とのつながりを保ち続けながら生きることこそが、私たちを本来の人間らしい生き生きとした命に解放し、真の「幸い」に導いてくれるのだと…。
 
 2     「罪と悔い改め(回心)」について 2016年11月15日(火) 
 聖書における「罪」とはどのようなことでしょうか?日本語で「罪」といえば、一般的に法律を犯すことをいいますが、英語ではclimb(法律上の大罪)、offense(法律上の小罪)、vice(道徳上の罪)、そしてsin(宗教上の罪)に分類され、聖書における「罪」はsinに当たります。
 
 では英語のsinという聖書における「罪」について説明したいと思います。旧約聖書に記される「罪」(ヘブライ語のハッタース)や新約聖書に記される「罪」(ギリシア語のハマルティア)は、いずれも「的を外す」の意味があり、この際の的とは神のことです。また、ユダヤ教における「罪」には、アヴェラーの語が使われており「神の意志を拒否すること」を意味します。つまり、聖書における「罪」の意味は、「神に背を向け、神の意志から遠ざかること」なのです。この考え方の根底には、旧約聖書の創世記、天地創造物語における「人間の創造」があります。「人間は神にかたどり神に似せて造られた存在であり、神がその鼻に命の息(ルーアッハ)を吹き込まれたことにより、生きる者となった。(創1:26、2:7)」とあります。ですから私たち人間は、神によって創造され神によって生かされている者なのですから、神とのつながりなしには生きていくことのできない存在であるという訳なのです。しかし、失楽園物語に語られるとおり、人間(アダムとエヴァ)は神から与えられた自由(園のどの木からとって食べても良い)に対する唯一の掟(園の中央にある善悪の知識の木からだけは、決して食べてはならない)を、蛇にそそのかされ食べてしまい、神に対する自らの離反によって自由を失い、「罪」を背負って生きていく者となってしまいます。(創2:15-17、3:1-24)これが、神に背を向ける人間の根源的な原「罪」の姿です。
 
 しかし、神の愛は人間の想像を遙かに超えます。神は、人間がどのような状態にあろうとも恵みと救いの手をさしのべる方です。そのために神は自ら私たちに寄り添い、常に私たちとともにおられる方、ヤーウェでありインヌマエルの神です。私たちの神は、罪人であるからこそ、ご自分に招き悔い改めることに気付かせてくれる神です。
 
 では、「悔い改め」(ギリシア語ではメタノイア)とは何でしょうか?それは、自らの「罪」を認め「罪」の償いをするために、それまでの生き方の方向性を180度転換する意志と行動、つまり「回心」にあります。それは、神に背を向け離れていた状態からの方向転換であり、神と再び結ばれる神への原点回帰です。そして、「罪」を犯した人間が「悔い改め」と神の慈しみにより再び神と結び合うこと(religaraを語源とするreligion)がキリスト教信仰における宗教的意味なのです。
 
 新約聖書においては、救い主であるメシア(キリスト)の道筋を真っ直ぐにせよとの呼びかけに応える人々に洗礼(バプテスマ)を授けていたのが洗礼者ヨハネですが(マルコ1:2-8)、このバプテスマが「悔い改め」のしるしであったのです。「悔い改め」とは、ただ単に「」罪」を悔い悲しむのではなく、全人格的に心を入れ替えて神に立ち帰り、清い生活をしようと神に対する心的態度の全き改変です。ですから、人が真の「悔い改め」に至るには、まずは「罪」を知覚する必要がありますが、人は「罪」を知りつつもなおもそれに安ずる傾向がありますから、「罪」を自覚するだけでは足りません。また、「罪」を嫌悪し後悔するだけでも足りません。それは、後悔は絶望というさらに深い罪に人を陥らせるからです。人間にとって「罪」を放棄することは、人間の本性から不可能なことなので、それもまた真の「悔い改め」には至らないでしょう。では、どのようにして人は真の「悔い改め」に至ることが可能かといえば、イエス・キリストと出会うことです。イエス・キリストに出会いイエス・キリストを知ることにより、神の言葉と聖霊とに照らされて、初めて人は自分の罪深さを知り、自己の意志を新たにして、そこから離れて神と出会うことができるのです。イエスの宣べ伝えた福音を信じ現存する神と出会い、ともに生きること。これこそが命に至る「悔い改め」です。
 
 「罪」とは、一見人間の否定的な状態であるかのようですが、「悔い改め」と神との出会いそして永遠の命に導いてくれる入り口のようなものなのかも知れません。私たちの主イエス・キリストが、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:32)、「はっきり言っておく。心を入れ替えて(悔い改めて)子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはでき
ない。」(マタイ18:3)と教えるように…。
 
 3     「福音」とはなにか 2016年10月5日(水) 
 私たちの主イエス・キリストの行いと教えの核心は、彼が宣べ伝えた「福音」にあります。では、イエス・キリストの「福音」とは何でしょうか?
 まず、「福音」の言葉の意味ですが、「福音」とはギリシア語の「エウアンゲリオン」の訳語で、「良い知らせ」という意味です。この言葉は元来、人々に戦いの勝利を知らせたり、子どもの誕生を知らせたりする場合に用いられていました。旧約聖書においては、イザヤ書40:9、41:27、61:1に記されており、これらはイスラエルの民のバビロン捕囚からの解放、ならびにヤーウェの終末的支配への預言に用いられています。
 
 では、イエスがあらわし宣べ伝えた「福音」とはどのようなものであったのでしょう。新約聖書の四つの福音書の中では、マタイとマルコだけに「エウアンゲリオン」という言葉が用いられていますが、そこでは御国の福音・神の福音と言われ、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」がその要約です。また、マタ26:13では、主はご自分の死に言及した後、「この福音」と記されています。この福音は事実、主の死と復活とにより初めて明らかにされましたが、福音はいのちにまさるもの(マコ8:35、10:29)使徒たちや信仰者のあかしや宣教を通じて、全世界に宣べ伝えられるべきものであり(マコ13:10、16:15)、その感性とともに世の終わりが到来するという約束(マタ24:14)としても記されています。
 
 「福音」の内容を端的にあらわすならば、マルコ福音書が「神の子イエス・キリストの福音(マコ1:1)」で始まりますが、マルコ福音書記者は「父なる神の救い」と「神の国(神が支配する王国=バシレイア・トゥー・セウー)の到来」という隠された「福音」が、徐々に明らかにされるよう記されています。つまり、イエス・キリストの「福音」とは、父なる神の救いの実現と神の勝利の支配の到来を告げたものということができます。
 
では、さらにこの「父なる神の救いの実現と神の勝利(神が支配する王国)の支配の到来」とは何を意味するのでしょうか。残念ながら、それは具体的に新約聖書のどの部分にも記されていません。しかし、福音記者による四福音書の中のイエスのみ言葉とその行いやたとえ話、および使徒言行録やパウロの書簡とその他の書簡そして黙示録を読み解いていくことで、どのようにすれば現実に生きる私たち人間とその社会に「福音」が実現するのかを読み取ることができます。
 
 例えば、福音書でイエスが語られるたとえ話のなかで誰もが知っている「良いサマリア人(ルカ10:25-37)」・「見失った羊(ルカ15:1-7)」・「放蕩息子(ルカ15:11-32)」のそれぞれのたとえ話に、神の愛がどのようなものであるかが説かれていますが、神の人間への愛は常に神自らが人間に近づき、一方的でかつ無償であり、自己無化(ケノーシス)する愛です。そして、イエスは常にそのような神の愛に応答すること、しかも行動としてあらわすことを求めます。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ。また、隣人をあなた自身のように愛せよ」という律法を知識だけで理解するのではなく、また口だけで唱えるのでもなく、イエスはそれを実行しなさいと言うのです。なぜならば、この隣人愛の実践あるところにこそ神の救いと神の国の実現があるからなのです。つまり、神の救いや神の国の実現という「福音」は、神とのつながりの中で私たち人間が、イエスに倣い神の愛を実行するところに現存させることができるものなのです。私たち人間が、イエス・キリストをとおして神とつながる信仰において神の愛を実践するところに、神の救いと御国の到来、そして神とその御子イエス・キリストが現存するのです。いうならば、「福音」とは、まずは私たち人間に神の愛に対する応答が問われているということでしょう。
 
福音書以外に使徒言行録の以下の文書には、イエスが宣べ伝えた福音というよりは、イエス・キリストの業における贖罪(人間の罪の購い)の出来事が「福音」として記されています(ロマ1:2-)。それゆえ「イエスによる罪の赦しの「福音」(使徒13:38)」、「和解の福音(Uコリ5:19)」等々、「福音」の特色を表す言葉が結びついて用いられています。また、「福音」が神にもとづき、キリストによっていることより、「神の福音(ロマ1:1、Tペトロ4:17)」、「キリストの福音(ロマ15:19、Uコリ2:12、フィリ1:27)」のように記されています。なお、「福音」という言葉は、律法に対比して用いられていますが、律法に従うのではなく、「福音」の真理にしたがって歩み(ガラ2:14)、ただ信仰によってのみ義とされるというキリストの贖罪への応答こそが、これらのカ所には強くあらわされています。やはり、イエス・キリストが宣べ伝えた神の愛による人間の救いや解放と神の国の到来という「福音」は、神の愛とイエス・キリストの罪の購いに対する私たち人間の応答がキーワードとなっているようです。
 
 4     「教会共同体について」 2016年10月5日(水) 
 新約における「教会」のギリシア語「エクレシア」は、旧約においてはイスラエルの会衆を意味するヘブライ語「カーハール」の訳語をキリスト教会に用いたものです。「教会」を表すギリシア語のエクレシアの原義は、「呼び出された者たちの集合」という意味で、一般的に使われている「教会」があらわすような「教え」や「教義」という意味はまったくありません。「エクレシア」を「教会」と訳したのは、18〜19世紀に中国に渡った宣教師たちが漢訳としてもちいたもので、日本においては明治の中頃、プロテスタントの聖書学者たちが中心となった聖書の翻訳委員会で、「エクレシア」の訳語が「教会」とされ、それが定着したものなのです。したがって「教会」の本来的意味は、「誰かの呼びかけに応じたり、惹かれたりして集まった人々の集会、グループ、団体、党派」というもので、ユダヤ教やキリスト教におけるものは、「神が諸国の民の中から選び出し、召し集めた群れ」という意味を持っており、現在私たちが常用している「教会」の意味や少々堅苦しく敷居が高いとのイメージを持たれる場所を表すものではないということになります。
 
 「エクレシア」の語は、やがてギリシア・ヘレニズム文化圏において政治的決議件をもつ成人男性からなる市民集会をさす術語となりましたが、新約聖書では使徒言行録19:32、39、40で言及されるエフェソス市の「集会」が唯一その用法に準じています。新約聖書におけるその他の用例は、具体的に各地域に存在する信徒たちの個別集会をさして使われる場合と、包括的にそれぞれの時代のキリスト教全体をさす場合があり、そのいずれかに厳密に分類することが難しい場合も少なくないようです。
 
 歴史的にはマタイ16:18、18:17にもかかわらず、生前のイエス自身が教会共同体を設立した可能姓はきわめて小さいとされ、むしろイエスの死後の原始キリスト教会が初めてこの呼称を採用することによって、旧約聖書の契約の民イスラエルが「会衆(カーハール)」と呼ばれていることに対抗して「真のイスラエル」という自己理解を表現したものといえるでしょう。
 
 イエスは、ペトロに対し、「わたしはこの岩の上に教会を立てる」(マタ16:18)と言われました。また、使徒言行録は、エルサレムに集まっていた弟子たちの群れに聖霊が与えられて、教会の歩みが始まったことを伝えています。(使2章)そこでは復活の主イエス・キリストを告白し、悔い改めてバプテスマを受けた者たちが、人種や言語の別を超えて、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使2:42)と記されています。以後教会は常に聖書に導かれ、広く世界にキリストの福音を宣教し続ける(使1:8)使命を持ちました。こうして「教会」は、新しい神の民としての交わりと、使命として課せられた福音の宣教とによって、古いイスラエルに変わって神の救済の歴史を担うものとなったのです。
 
 パウロの手紙においても、御霊に宿る「神の神殿」(Tコリ3:16)、「霊による交わり」(フィリ2:1)として、「聖霊によって一致を与えられた共同体」であることが強調されています。しかし、特に重要なのは、「キリストの体」という理解です。(ロマ12::5、Tコリ12:27、エフェ1:22-23、コロ1:18)キリストは「教会」のかしらであり、「教会」はキリストの肢体であるとされています。すなわち、「教会」は聖霊において現存する生けるキリストに導かれ、このキリスト者相互はは、おのおのの相違を保ちつつ一つの信仰共同体として、「教会」を形成しているのです。そして「キリストの満ちあふれる豊かさにまで成長する」ため、体全体が互いに結びあわされて、愛によって造り上げられていくのです。(エフェ4:11-16)
 
 「教会」は現にキリストとの一致を賜っていると同時に、終末時における完成を目指して進んでいく希望の信仰共同体です。さらに、ヨハネは特に現在におけるキリスト教会との交わりを強調して、ブドウの木と枝のたとえを用いて説明しています。(ヨハ15:1-11)キリストは「まことのブドウの木」であり、キリスト者はその枝としてただキリストの言葉によっていき、愛の戒めを守ることが求められています。
 
 私たちキリスト者の信仰は、イエス・キリストを中心とした教会共同体の交わりのうちに成長し完成されていくものですから、信徒同士の信仰的・人間的交わりをイエス・キリストのうちに深めていくことが大事ですね。
 
 5     「わたしたちは何を信じているのか?」− 使徒信条(クレド(Credo))  − 2016年10月5日(水) 
 私たちが信じている神は、天地万物の創造主である父なる神と、その御一人子でありこの世に使わされたイエス・キリスト、そして父なる神の息吹である聖霊のいわゆる三位一体の神です。三位一体の神とは、非常に難しい概念かも知れませんが、この三つは神のペルソナ(位各)であり、これら三つが一つの本質であるということです。ペルソナ(位各)とは、人間の人格(personality)の要素が性格・気質・能力によって構成されているように、唯一の神が人間を愛するが故、ご自分の親しい交わりのうちに招き入れ、人間を神が望む幸福な姿として導き救うための慈しみに満ちた愛の姿です。
 
 さて、三位一体の神である父なる神と御一人子であるイエス・キリストについては、第1回目と第二回目に解説しました。今回は三つのペルソナの3番目に当たる聖霊について説明し、私たちが信じている神について述べることにしましょう。
 
 「聖霊」については、旧約聖書・新約聖書の各所に語られています。まず、旧約聖書の最初に出てくるのは、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1・2)と天地創造のはじめよりその存在があり、神の創造の業に深く関わっていることが記されています。また、神が人間を創造する際に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2・7)とありますが、これはヘブライ語のルーアッハという言葉で、命を与える息吹、風を意味し、その根底には神から人間に与えられているとの理解があります。特に、「霊」によって、人は生きる者とされたわけですから、この霊は人を人たらしめるものということに他ならず、人は神からのこの「霊」によって生きる者とされたということは、私たちに人間は霊的存在であり神とのつながりによってのみ、神が望む人間らしい姿として真に生きていける者になるということなのです。
 
 新約聖書における「聖霊」は、ギリシア語のプネウマという言葉が当てられており、「神の霊」・「復活したキリストの霊」を「聖霊」と表していることが多いようです。新約聖書において明確に「聖霊」について語られているカ所は幾つかあります。
 
 例えばルカが記した使徒言行録で復活したイエス・キリストの復活後の50日目に当たる五旬祭(ペンテコステ)の日に、使徒たちに天から与えられたとされる(使徒言行録2・1-4)聖霊降臨についての記述では、使徒たちを宣教活動に駆り立てさせ必要な力として聖霊の無償の賜(カリスマ=恩恵・恩寵・寵愛・魅力に由来)として記されています。また、ヨハネ福音書では「そう言ってから、彼らに息を吹きかけられて言われた『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネ20・22)など、「聖霊」を「弁護者(パラクレートス)」とし記し、イエス・キリストが語ったみ言葉が記されています。(ヨハネ14・16-26・16・7-15)また、パウロのコリントの手紙一には、「癒やしの賜、奇跡を行う力の賜、預言する賜、異言を語る賜、それを解釈する賜、知恵、知識、堅い信仰」(コリント一12・6-11)など、同じ霊によって一人ひとりに分け与えられるものであると記されています。(聖霊の七つの賜=上智・聡明・賢慮・勇気・知識・考愛・主への畏敬)
 
 以上のように「聖霊」は、人間を神の前に正しく人間らしく生きる者とさせ、主イエス・キリストにおいて、その福音を宣べ伝るキリスト者として生き抜くため、またキリストによって集められた共同体を神に導くための特別な力を与えて下さる方ということができると思います。ですから、「聖霊」は私たちキリスト者にはなくてはならないものですね。
 以上、私たちが信じる神は、父と子と聖霊の三位一体の神です。冒頭に記したように三位一体の概念は大変難しいものですが、簡単に解説しておきます。
 
 父と子と聖霊という言葉は、マタイ福音28・19の弟子たちを派遣する祭のイエス・キリストのみ言葉として記されていますが、「三位一体」という言葉については旧・新約聖書を通して、どこにも記されていません。キリストの受肉という観念のない旧約聖書には、受肉の根拠である神の三一的性質を示すカ所はありません。新約聖書においては、イエス・キリストが唯一の神に向かって「アッバ父よ」(マルコ14・36)との呼びかけは、旧約には類例のないもので、子であるイエスと父なる神との信頼・畏敬に満ちた交流と関係性が表れており、聖霊も父からイエスによって世界に派遣され、イエスを告白する力となって、キリスト者のカリスマ的生活の源泉として働くものであると記されています。また、ヨハネ福音書やヨハネの手紙一には、イエスは永遠の昔から神の独り子で、時満ちて受肉しイエスを通して父なる神が啓示された聖霊も父鳴神を源泉とし、子を通して派遣され、イエスの死後その働きを継続する実存者であるとの記述から、父と子と聖霊の三一的ヴィジョンがうかがえます。
 
 このように新約聖書には三位一体の源泉や萌芽となるような記述はありますが、三位一体という言葉そのものはなく、実は「三位一体」という言葉は教父時代につくられたものです。では、どのように形づくられていったのか?その歴史的展開を簡単に解説します。
 
 イエスの死後、イエスの示した福音を受け継ぎ各地に宣教したのは使徒たちですが、それを引き継いだのが教会共同体を指導する立場にあった教父と言われる人々です。教会共同体は、その創生期である使徒時代から多くの問題を抱えていました。それは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者そしてグノーシス主義者との考え方の違いから来る対立でした。そのような対立の中で、イエス・キリストへの真実の信仰のあり方を確立するために、異端と言われる考え方を否定もしくは排除する必要性がありました。よって、教父たちは、ユダヤ教的一神教論とギリシア的他心論およびグノーシス主義の間にあって、受肉したキリストを根拠に三位一体論を確立していったのです。三位一体論は、父と子の同一本質関係(ホモウーシオス)を示したニカイア公会議(325年)や聖霊論を提示したコンスタンティノポリス公会議(381年)を通して5世紀のカルケドン公会議(451年)にまでに成立しました。
 
 西方教会(カトリック)では、アウグスティヌスが心理学的・哲学的に三一論を展開しましたが、他方で三一性の聖霊を巡ってフィリオクェ問題(ニカイア・コンスタンティノポリス信条の解釈・翻訳をめぐる問題で、キリスト教神学上の最大の論争の一つ。カトリック教会で言う聖霊(正教会の聖神)は、父鳴神と、子にして神であり人でもあるイエス・キリストとともに、三位一体を構成するが、正教会では聖神は父より発するとされるが、カトリック教会では聖霊は父と子より発するとするのが、その相違点である。)は、東西両教会分裂(大シスマ1054年)の主因となりました。正教会では、父の唯一原理性(も名ルキア)から発する各位各の自存性を強調しますが、西方教会は聖霊を父と子を結ぶ愛として三位の同一本質性を強調します。
 
 中世から近代にかけ三位一体理論は、フィオーレのヨアキム(中世イタリアの神秘思想家1135〜1202年)の三位的歴史観や三位的歴史観や、父・子・聖霊・の関係を正・反・合の弁証法に吸収したヘーゲル哲学において歴史か世俗化されました。
 二度の世界大戦による神学的世界観の破綻、多元的価値観の出現、諸宗教の出会いを体験した今日では、歴史超越的な内的三位一体論に対し救済詩的三位一体論が注目さてきていますが、救済史に働く神の、子と聖霊を通した自己譲与から三位一体論を展開するカール・ラーナー(ドイツのイエズス会司祭・神学者 宗教的包括主義を唱えた。1904〜1984年)や聖書による終末論的な人類の解放と栄光化の歴史における「栄光の三一性」を語るモルトマン(ドイツの神学者・牧師 希望の神学を提唱1926〜)などがその好例です。
 
 他方東方教会の伝統を承けるウラジミール・ロースキイ(正教会の神学者1903〜1958年)は、父に対する人間の神秘的礼拝的態度を説いたが、こうしたキリスト教的三位一体論に対して、フェミニズムの父権性批判による父の否定、他宗教との対話における聖霊の働き、疑似神秘主義に対するペルソナの役割、アジア的風土における三位一体の意義や表現など、さまざまな問いかけがなされています。
 
 しかし、ペルソナ的自由や交流、宗教的実存や祈りなど三位一体論は依然、神と人間との関係について示唆を与え続ける信仰の神秘です。
 やはり三位一体論とは、大変難しいですが、揺るぎない信仰を持ち続ける中で理解しうるものなのかも知れませんね…。なお、ミサで唱えられる使徒信条とニケイア・コンスタン値ノーブル信条を掲載しておきます。
 
「使徒信条」
天地の創造主、
全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、
おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、
陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、
全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、
聖なる普遍の教会、
聖徒の交わり、
罪のゆるし、
からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。
 
「ニケア・コンスタンチノープブル信条」
わたしは信じます。唯一の神、
全能の父、
天と地、
見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
わたしは信じます。唯一の主、イエス・キリストを。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、
わたしたちの救いのために天からくだり、
聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ、
聖書にあるとおり三日目に復活し、
天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、
父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
死者の復活と
来世のいのちを待ち望みます。アーメン。
 
参考図書
カトリック教会のカテキズム カトリック中央協議会
カトリック教会の教え カトリック中央協議会
YOUCAT(Youth Catechism) カトリック中央協議会
キリスト教辞典 岩波書店

Last updated: 2016/11/15