神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、.に不思議な業を、したでは、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。
(使徒言行録2:17〜21)
 

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『この民のところへ行って言え。
あなた達は聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。』
(使徒言行録28:26〜27)
キリスト教研究 宗教学・教理学・宗教史・哲学・宗教科教育法
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 51     「永遠の命」 2007年3月15日(木) 
 
 皆さん、おはようございます。
 今朝は、「四旬節」によせて「永遠の命」をテーマにお話しすることにしましょう。
 
 教会歴で言いますと、今は「四旬節」という期間で、キリスト教の最大のお祝い事である「復活祭」を迎えるために準備をする時です。英語の「四旬節」(レント(Lent))は、季節の春」を意味しまが、ラテン語の「四旬節」(クワドゥラゲシマ(Quadragesima))の言葉の意味は、数字の「40」を意味します。この「40」という数字は、旧約時代からユダヤ教やキリスト教においては非常に重要な「数」なのです。
 
 例えば、旧約聖書の「創世記」に出てくる「ノアの箱舟」の物語は、神との約束を忘れ、貪欲と快楽の生活に溺れて、節制と謙遜を忘れた人間が、神に真っ当き人であったノアとその家族、そしてこの世のすべての一つがい動物のを残し、神がもたらした大洪水によって滅ぼされてしまうというものでした。その時の豪雨と洪水の期間が40日40夜です。
 
 また、「出エジプト記」におけるモーゼのお話の中にも出てきます。エジプトから奴隷の身分であったイスラエルの同胞たちを救い、荒れ野をさまよい神の山シナイ山に着いて、「神の十戒」を授かるために山に隠ったのも、40日40夜でした。さらに、その後モーゼとイスラエルの民は、神の約束の地に入るために40年もの試練の時を過ごさなければならなかったのです。
 
 そして、新約聖書においては、何と言ってもイエス=キリストが宣教活動に入る前に、荒れ野で断食をする中、悪魔からの誘惑を受けるのも40日という期間でしたし、十字架の受難の後、復活して弟子たちの前に現れ、身をもって「永遠の命」を示され、弟子たちに最後の教えを説き、福音を述べ伝えるための派遣をしたという期間も40日間でした。
 実は、この「40」という「数」もしくは「期間」は、神のご計画がその御業により成し遂げられるための準備期間であり、その時が満ちて、新たな世界が始まるということを意味するものなのです。そして、実はこれがキリスト教における「終末」の考え方なのです。普通、一般的に言う「終末」とは、何か天変地異が起こり世界が破滅することを意味するのでしょうが、キリスト教における「終末」・「世の終わり」とは、そのようなものではなく「新たな時代への始まりの時」・「準備の完結」もしくは「時代の転換」を表しているものなのです。
 
 ですから「四旬節」とは、イエス=キリストの復活をとおして始まる、「新たな命」と「新たな時」を迎えるための準備をする「40」日間ということなのです。では、「新たな命」・「新たな時」とは何でしょうか。それは取りも直さずイエス=キリストをとおしての神と人間との間に交わされた新しい約束、つまり「新約」のことです。「新約」とは何でしょうか?それは、「神による救いと神の国の到来」そして「永遠の命」が、イエス=キリストをとおして、私たち人間に与えられるということです。「永遠の命」とは、私たち人間がイエス=キリストをとおして神と新たな関係にはいることであると新約聖書に記されているとおり、「肉体的な永遠の命」でもなければ、「魂における永遠の命」を意味するものではなく、まさに「私たち人間が、イエス=キリストをとおして、神と新たな関係に結ばれること」なのです。
 
 ちょっと神学的になり難しくなってしまいましたが、お分かりいただけたでしょうか?分かりませんよね!実は、分かっているかのように言っているこの私も、本当はよく分かっていないのです。でも、聖パウロもフィリピ人への手紙第3章12節で、このように言っています。
 
 「わたしは、そこへ、すでにに到達したわけでも、自分がすでに完全な者になったわけでもないので、目指すものをしっかり捕らえようと、ひたすら努めています。このために、わたしはキリスト・イエスに捕らえられたのです。兄弟の皆さん、わたしは自分がそれをすでにしっかりと捕らえているとは思っていません。ただ一つのこと、すなわち、後ろのことを忘れて前のことに全身を傾け、目標を目指してひたすら努め、神がキリスト・イエスに結ばせることによって、わたしたちを上へ招き、与えてくださる賞を得ようとしているのです。
 ですから、わたしたちは完全であればあるほど、このことを念頭に置きましょう。もしあなた方が、何らかの点で別な風に考えているなら、きっと、神がそのことをも明らかにしてくださいます。何はともあれ、ここまでたどり着いた道を歩み続けましょう。」
 
 みなさん、新しい春がもうそこまでやってきています。学年末のただ中で新年度に向け、あなた方にとっての「新たな命」と「新たな時」を迎えるための「準備の完結」がどうであるのかが問われています。現在の自分自身の心と態度を反省し、上級学年への決意と準備をしてください。それがきっとあなた方一人ひとりが、「永遠の命」につながる道を歩むことにつながるに違いありません。
 
 今日も一日、みなさんに神さまのお恵みが豊かにありますよう、お祈りいたします。
アーメン。
 52     「いのち」 2006年12月25日(月) 
 今年の世相を表す文字が「命」であったように、今年ほど「いのち」について根本から考え直させられる機会が多かった年はないように思います。
 
 「いじめによる自殺」、「幼児虐待」、「親子間による殺人」、「過労やマンションの耐震偽造そして高等学校による未履修の責任問題に関連しての自殺」。その他、「ホームレス者に対する少年による虐待・殺人」、テレビドラマ「十四歳の母」に代表される「人工中絶問題」、世界に目を向ければ「北朝鮮による拉致問題」、毎日のように絶えることのない「テロ事件」、世界各地で起きている「紛争」や「戦争」。生命倫理(バイオ=エシックス)に関する問題としての「尊厳死」・「安楽死」、「クローン技術」や「臓器移植」等々、挙げればきりがないほどです。
 
 そもそも命とはどのようなものなのでしょうか?旧約聖書「いのち」とは、ヘブライ語でハイイーム(hayyim)といい、元来はそれぞれの生き物を生かしている力(気息、血)の観念を含んでいる言葉です。人間もこの力を神により吹き込まれて、初めて生きる者となった〔創世記2:7〕という創造信仰に応じて、人間には操作不可能で、ただ神のみがその与奪、祝福と呪いについて絶対的な支配をもつものとされています。
 
新約聖書では自然的・身体的命〔マタ6:25・ルカ12:22-23〕を指す場合は、ギリシア語のプシュケー〔Psyche〕、という言葉で表現されており、神からの終末論的な賜物としての救い(永遠の命)を指す場合は、ゾエー〔zoe〕=霊魂〔ヨハネ3:16 ローマ6:22-23〕の語が使われています。では、旧約聖書と新約聖書における「いのち」についての記述について共通する点は何でであるかと言いますと、「いのち」そのものは、「神から与えられたものである」という一貫した考え方なのです。前述した聖書のカ所を抜き出してみましょう。
 
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。  〔創世記 2:7〕
 
 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」  〔マタイ6:25〕
  
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」  〔ヨハネ3:16〕
   
 「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」  〔ローマ6:22-23〕
 わたしたち人間は誰一人として、自分の意志によって生まれてきてはいません。両親の願いではあったことでしょうが、親の意志によるものとも言い難い面もあるのです。「いのち」とは、自分はもとより人の意志の及ばない、何ものかの決定によって生まれ出るものなのです。ですから、「いのち」は、自分の所有物とは違い、個人の自由意志による自己決定権がないものであるという結論が、当為のかたちとして、導き出されるのです。
 
 わたしたち「いのち」ある者は、与えられた「いのち」をただ全力で生き抜くということだけが求められているのです。人生を「生きる」ことのなかには数々の困難が立ちふさがっています。わたしたちは、その度に悩んだり、苦しんだり、悲しんだりと辛いことを経験します。しかし、ただ与えられた「いのち」を全力で生き抜くという意味において、「生きる」とは戦いそのものと言えます。そして、その苦しみがあるからこそ、大きな喜びや幸せを感じ、生きる意義を知ることができるのです。
 
 わたしたち教師や親、そして社会に暮らすすべての大人は、子どもたちがどんなことにも立ち向かい、誰かと共に生きていくという力を、身に付けることができるように育てていかなければなりません。
 
 「いのち」の問題には、現代に生きるわたしたち人間が忘れかけた、「生かされて生きている者」としての「生」の根本的在り方を問われているのではないでしょうか。
 
2006年12月マーテルアルマ12号より
 
 53     「愛について」 2006年10月12日(木) 
 キリスト教は、愛の宗教といわれますが、では「愛」とはどのようなことでしょうか。
今月の聖書朗読のカ所に、パウロが示す「愛」が記されているところがありましたね。
コリント人への第一の手紙第13章1節から13節の「最高の道である愛」のところです。その一部を読み直してみましょう。
 
 「たとえ、人間の不思議な言葉、天使の不思議な言葉を話しても、愛がなければわたしは鳴る銅鑼、響くシンバル。たとえ、預言の賜があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、愛がなければ、わたしは何ものでもない。たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、たとえ、賞賛を受けるために自分の身を引き渡しても、愛がなければ、わたしはなんの益にもならない。愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。愛は、ねたまず、高ぶらず、誇らない。見苦しいふるまいをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数えたてない。不正を喜ばないが、人とともに真理を喜ぶ。すべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ。」
 
 では、イエス自身はどのように「愛」について語っていたのでしょうか。福音書のいくつかを紹介いたしましょう。
 
 イエスはお答えになった。「第一のおきてはこれである。『イスラエルよ、聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』。第二のおきては、『隣人をあなた自身のように愛せよ』これである。この二つのおきてよりも大事なおきてはない。」これは、マルコ12章29節〜31節。
 
 「私よりも父や母を愛する人は私にふさわしくない。また、私よりも息子や娘を愛する人は私にふさわしくない。また、自分の十字架をになってわたしの後に従ってこない人は、私にふさわしくない。自分の命を保とうとする人はそれを失い、私のために命を失う人は、それを得るであろう。」これは、マタイ10章37節〜39節。
 
 「わたしがあなたたちを愛したように、互いに愛し合うこと、これが私のおきてである。友のために命を捨てる、これにまさる大きな愛はない。わたしが命じることを行うならば、あなたたちは私の友である。(中略)互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」これは、ヨハネ15章12節〜17節の一部。
 
 イエス・キリストは、当時の形骸化した戒律やおきてを嫌ったのですが、このように「愛」については大変厳しい姿勢を貫き、唯一のおきてを命じています。イエスはその公生活の約三年間を『福音』を述べ伝えるということにすべてを費やし、命をも捧げたのです。それはまさに「神の愛」の実践と「神の国の到来」の布告を、自らの血と肉を人々に分け与え、十字架上の死によって人間の罪を贖い、そして、「復活」によって完結させたイエスの生き様そのものなのです。 とかくわたしたちは「愛」を何かと取り違えたり、はき違えたり、すり替えたりと自分の都合のいいように解釈しがちです。しかし、イエスは「愛」については、躊躇することなく、「友であり隣人であるわたし(つまりイエスそして、ひいては神)のために命を捧げなさい。」それこそが「愛」である、と言っているのです。
 
 これは大変なことですね。自らの命を誰かのために捧げるなどということは、そう簡単にできることではありません。でも、そんな愛のかたちは意外にも身近なところにあるのではないでしょうか。それは「母親の愛」だとわたしは思います。生徒の皆さんは、女性です。子を宿し、慈しみ養うことのできる性を授かったことを、大切にして欲しいと願っています。 
 では、今日も一日よき日でありますように…。アーメン。
 54     パウロと書簡 2006年9月7日(木) 
 
 今朝は9月・10月の聖書朗読のテーマとなっている書簡とその著者、なかでもキリストの福音を最も広く述べ伝えたといわれる聖パウロについてお話ししましょう。
 
 まず、書簡というのは手紙のことです。現代においても手紙は重要な役割を果たすように、聖パウロが生きたキリスト教迫害時代においては、なおさら重要なものでした。皆さんも離れている友だちが何かに悩んでいたり、苦しんでいたり、困っているということを人伝いに聞いたとしたならば、何はともあれ、まずは励ましの言葉をメールで送るのではないでしょうか?聖パウロも同じだったのです。同じキリストを信じる同胞の者たちを勇気づけ、信仰を強めながら述べ伝えていくために、各地のキリスト者に向けて励ましや諭しなどの多くの手紙を書いたのす。
 
 しかし、そんなパウロもはじめからキリストを信じる者ではありませんでした。むしろその正反対だったのです。
 
 パウロは、キリストの時代に、小アジアのタルソに生まれ、サウロと呼ばれていました。彼は、ユダヤの律法や母国語以外に、ギリシャ語、天幕作りなどを学んでいました。エルサレムに遊学し、有名な律法学者ガマリエルから律法を学び、生粋のファリサイ派となっていったのです。そしてサウロは、イエスの新しい教えが神への冒涜であるとの信念から、徹底的にキリスト教徒を迫害するのでした。(使徒言行録 9.4 参照)。
 
 ところがある日、キリスト教徒を捕らえるためにダマスカスに行く途中のことです。突然、天からの光に打たれ、サウロは地面に倒れるのです。そこで主キリストの声を聞きます。
 
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」
「あなたはどなたですか」
「お前が迫害しているナザレのイエスである」
 
この後、サウロはしばらく盲目となってしまいます。
 
 ダマスカスに着いたサウロは、「イエス・キリストこそ神の子である」と回心して、何が信ずべき道であるのかを悟り、キリスト教徒の洗礼を受けるのです。
 
 このように、キリスト者を迫害するサウロの改宗は突然であったため、ペトロやマタイそしてヨハネなどのイエスの弟子たちは、サウロの回心を信じられず、彼は苦しい立場に置かれます。そんなサウロに力を貸したのが、バルナバであり、アンティオキアで共に宣教して、そこに初めて教会を建てるのです。その頃から、サウロは、パウロと呼ばれるようになりました。
 
 それからパウロは、宣教旅行に3回出かけ、小アジア、ギリシャ、ローマ、コリント、アテネなどで多くの艱難(かんなん)に遭いながらも、ゆらぐことのない信仰によって、キリストの愛を伝えるために力を注いだのです。
 
 パウロは、主のご受難後25年目、ネロの治世2年目に捕らえられて、ローマへ送られました。2年間は軟禁状態にあって、ユダヤ人たちと論争していましたがその後、ネロに釈放されて、西方諸国に伝導しました。しかし、キリスト教の迫害の最中、ネロの治世の14年目、とうとう斬首されてしまうのです。それは奇しくも、キリストの十二使徒の一人、ペトロが十字架にかけられたのと、同じ年の同じ日のことでした。
 
 聖パウロは、外の新しい地の人々に宣教したことから、「異邦人の使徒」と呼ばれています。新約聖書の中にある彼の書いた書簡は、いかにキリストの愛がすばらしいかを私たちに伝えてくれます。
 
 聖パウロの書簡を読むに当たって、彼の力強くも優しさに満ちた溢れた愛に触れながら、私たちが暮らすこの複雑化し混乱した現代の社会に向けてのメッセージを受け取っていきましょう。
 
2006年9月7日(木)朝礼講話より
 
 55     「納税問答」 2006年8月14日(月) 
皇帝への税金(マタ22:15〜22、ルカ20:20〜26)
 
 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしようか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン
銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖喉と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われれた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き人った。
 
 今日の朗読カ所は、有名な「納税問答」といわれるところですが、ごく一般的な解釈や活用法としては、「政教分離の原則」として捉えられることが多いようです。
 
 しかし、イエスの発言の文脈と真意はどうだったのでしょうか。まずこの場面は、ファリサイ派という律法を重んじる人々が、イエスを陥れようとして、策略を練って行われた問答であることに気をつけなければなりません。イエス=キリストは当時の特権階級の人々、特にユダヤ教の祭司や律法学者たちの権威や立場を脅かす者として嫌われていたのです。
 
 つまり、その目的はこうです。ファリサイ派とヘロデ党の人々は、イエスに対して人頭税を払うことの解釈をさせ、犯罪者に陥れようととしたのです。
 
 もし、イエスが、「人頭税を払わなくても良い。」と言ったのならば、彼らを支配しているローマ帝国に対する反逆罪として訴えることができるし、反対に「人頭税は、払うべきだ。」とイエスが言えば、神の権威を語り、自らを神の子救い主とであると称する者が、実際のところはローマの権威に屈する者で、単なる偽善者に他ならないということを証明できるという訳なのです。
 
 しかし、この問答の結果は、イエスが数段上手だったようです。イエスは、その当時のローマの通貨である「デナリ銀貨」を持ってこさせ、銀貨に印されている肖像と銘を言わせたのです。その肖像と銘はローマ皇帝のものだったのですが、イエスは、銀貨という物としての価値と政治的権力は皇帝によるもので、1デナリは、当時の社会の人ひとり当たりの一日の労働賃金であり、その労働の実りは、神からのものであると言う、まことに簡潔で完全無欠な返答をして、彼らを驚嘆させ、その謀略を封じてみせたのです。
 
 私たちは、二つの価値の狭間に揺れて右往左往することがしばしばありますが、今日の聖書の朗読にあるように、常にイエス=キリストに倣って本当の価値を見失わないようにありたいものです。
 
 今日も一日健やかにありますように。アーメン。
 
2006年7月11日(火)朝礼講話より

Last updated: 2016/11/15