神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、.に不思議な業を、したでは、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。
(使徒言行録2:17〜21)
 

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講話集   Lectures

『この民のところへ行って言え。
あなた達は聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。』
(使徒言行録28:26〜27)
キリスト教研究 宗教学・教理学・宗教史・哲学・宗教科教育法
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 56     「罪への誘惑」 2006年8月14日(月) 
罪への誘惑(マルコによる福音書9:42〜50)
 
 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。†もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。†もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごし
なさい。」
 
 今日の朗読カ所は、「罪への誘惑」とあるように、人間の誘惑に対する弱さを説いています。そして、自分の罪を改心することなく、この世の欲望に留まることは、罪人に定められ、本当の命に預かることはできないといっているのです。 
 
 「私を信じるこれらの小さな者の一人」とは、イエス=キリストを信じ、神の前において貧しく小さな信仰者のことを意味しています。そして、その信仰をつまずかせる者とは、現世的な価値に心身を奪わせる罪への誘惑であるというのです。人間にとって、富や名声、権力や賞賛など、この世で人よりも優れていることを手にしたいと望んだり、目標を達成したいと思うのは、ごく自然な欲望かも知れません。そのために、手や足や目は何といっても重要な器官ですし、なくてはならないものでしょう。しかし、キリストは、それが信仰の妨げになるのならば、つまり自分に罪を犯させるものとなるのならば、切り捨てて本当の命に預かる方が良いと教えているのです。
 
 キリスト教では、人は皆罪に定められているという考え方、それを原罪といいますが、イエス=キリストは、その原罪から人間を救うために、その罪を贖い、十字架にかけられ死んだのです。そして、そのような神の愛の実践こそが死者のうちから復活し永遠の命に預かる方法であるということを、身をもって教えてくださった方なのです。
 
 「塩」は、人を人たらしめる神への信仰をあらわしています。塩味は、塩なしでは味付けられないように、人間は信仰なしには人間とはなり得ないのです。自分の内に塩を持ちなさいとは、自分の心の中に神を宿しなさいということです。そして何よりも今日の朗読カ所で象徴的なのは、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。」というカ所です。蛆や火は、人を食い尽くし焼き尽くす罪のことです。地獄では、罪は決して償えず消えることがないというのです。「しかし、人は皆、火で塩味を付けられる。」とあるように、罪は人に信仰を持たせる機会を与えてくれるというのです。罪の意識が神への信仰という回心に向かうならば、罪は人間に欠かすことのできない信仰という塩を与え、人間を永遠の命へと導くものとなるのです。
 
2006年6月22日(木)朝礼講話より
 57     「たとえ話」の真意 2006年5月9日(火) 
 皆さん、おはようございます。
 宗教指導部の佐井総夫です。
 
 聖書の御言葉は、そのほとんどが象徴的であったり、不可解であったりと難しさを伴うことが多く、文字通り読んだのではその意図するところが伝わらないことがあります。
そして、今読まれているマルコによる福音書にも特別な『秘密』が隠されています。そのキーワードが、「たとえ話」にあるのです。そこで今日は、来週の朗読から、たくさん出てくる「たとえ話」についてお話ししましょう。
 
 普通「たとえ」を用いる場合には、話の内容をより相手に分かり易くするために用いるものなのですが、イエス様は逆であったようです。不思議に思うかも知れませんが、そのカ所を紐解いてみましょう。では、新約聖書の67ページを開いてください。4章の10節〜12節を読んでみます。
 
 たとえを用いて話す理由
イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちが、たとえについて尋ねた。そこでイエスは言われた。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてのことがたとえで示される。それは、
 『彼らは見るには見るが、認めず、
 聞くには聞くが、理解できず、
 こうして、立ち帰って赦されることがな  い』ようにするためである。」
 
また、68ページを開いてください。4章の33節〜34節を読んでみます。
 
たとえを用いて語る
 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
とあります。
 
 ということは、どうゆうことでしょうか。
「たとえ話」を用いるのは、相手に分かり易く伝えるためにではなく、直接的に真実を見せたり、聞かせたりするのではなく、見る者、聞く者に自らその意味を求め、考えさせるために「たとえ話」を用いたというわけなのです。そして、弟子達にだけは「たとえ話」の意味をそっと教えていたというのです。
 
 外の人々とは、見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できない人々のこと。イエス様の教えに聞き従う人とは、弟子達のように『神の救い』と『神の国』、つまり福音を求める者のことです。
 
 求める者とは必要としているとか必要としていないという以上に、神を受け入れる姿勢のある者とない者との違いと言えるでしょう。
では、結びに66ページの「種を蒔く人」のたとえ話、4章の1節〜9節と67ページのその説明である4章の13節〜20節のカ所を読んで終わりにします。
 
「種を蒔く人」のたとえ
イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そこに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろ教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出ていった。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」ほかの種は、石だらけで土のの少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
 
「種を蒔く人」のたとえの説明
 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
 
 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御一言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がない
ので、しばらくは続いても、後で御言藁のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御信葉を聞くがこの世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍の実を結ぶのである。
実りあるよき一日をお過ごし下さい。
アーメン
    2006年5月2日(火) 朝礼講話
 58     「マルコによる福音書」について 2006年4月21日(金) 
 
 皆さん、おはようございます。宗教指導部の佐井総夫です。
 
 今日は、4月・5月のテーマである「マルコによる福音書」について、お話ししましょう。
 
 「マルコによる福音書」とは、当然マルコという人物によって書かれたわけですが、このマルコという人物はどのような人だったのでしょうか?
 
 マルコの母は、エルサレムに住む資産家で、その家を信者たちの集会場に貸し出したりしており、なんとその家は最後の晩餐や聖霊降臨があった家とも言われています。また、キリストが捕まるその夜、祈りを捧げたゲッセマネの園は、父の所有の土地だったというわけですから、さしずめマルコは、大金持ちの御曹子といったところでしょう。
 
 しかし、マルコはそのような財産に執着することなく、イエスの死と復活後、イエスの一番弟子だったペトロに従い、イエスも話した彼のアラム語をギリシア語に訳し宣教活動を共にしているのです。そして、ペテロの殉教後、イエスの教えの数々を編纂して福音書を完成させたのです。また、彼の叔父であるバルナバもパウロなどと同様に殉教するほどに熱心な宣教者でした。
 
さて、「マルコによる福音書」は、マタイ・ルカの他の福音書のもととなったもので、共感福音書といわれる三つの福音書の中では最も古いものです。そして、その内容はイエスの伝記というのではなく、イエスを地上に現れた「神の子」として、人々が信じるに必要なことを記したもので、歴史的順序による記録ではないのです。
 
 さて、今日の福音のカ所ですが、聖書の所々に出てくる、イエス・キリストが病人を癒すという奇蹟の部分です。実はキリストは、医者を職業にしていたわけではないのですが、医者でもあったと言えるのです。当時の医者とは、現代の医者とはかなり違っていて、悪魔払いを行う人のことをいいました。それは、病気は悪魔による仕業か罪の報いであると信じられていたからです。ですから医者は、いつも悪魔と対決しなければならず、人々は、医者のことを悪魔に近く、ひょっとしたら悪魔に取り憑かれているかも知れないと、恐れ忌み嫌っていたのです。当然、病人は言うまでもありません。
 
 そんな存在に救いの手をさしのべたのが、イエス・キリストであったわけです。イエス・キリストの福音は、病人に限らず、一貫して世間から虐げられた、貧しく小さな人々に向けられています。
 
私たちはとかく、自分の身を守るためや優越感に浸る(保身の)ために、貧しかったり、汚かったり、醜かったり、弱かったりする者を差別したり、遠ざけたり、時にはいじめたり、攻撃したりさえするところがあります。しかし、イエス・キリストは、そのような人々のために自分を与えて愛してこそ、本当の命を得ることができると教えるのです。
 
 イエス・キリストに倣いましょう。
 次回は、「たとえ話」についてお話しすることにします。
 
 では、今日も神様より与えられた一日を共に大切に過ごしましょう。
 
 アーメン。
(2006年4月20日(木)朝礼講話より)
 59     『ヨハネの手紙』について 2006年4月21日(金) 
 今月読まれている聖書は、「ヤコブの手紙」ですが、今朝は、このヤコブの手紙について、お話ししましょう。
 
 さて、この手紙の著者とされているヤコブという人物ですが、実は謎が多く、特定するのが難しいのです。聖書の中には、ヤコブという名前の人物はたくさん登場し、新約聖書だけでも五人のヤコブが登場してきます。その中で、最もこのヤコブの手紙の著者としてもくされるのが、イエスの兄弟といわれているヤコブです。えっ!イエスに弟がいたんですかって?そのようです。しかし、当時の社会では、同じ家に親戚も含めて同居する拡大家族が当たり前で、同じ家に住む者たちを兄弟姉妹と呼び合っていたようですから、実の兄弟とは断言できないのです。
 
 また、ヤコブは同書の中で最初イエスを信じなかったが、主の復活後信じるようになったと言っていますから、イエス=キリストの伝導生活を常に共にした十二人の使徒の中のヤコブではないと思われます。
 
 十二人の弟子といえば、皆さん十二人の弟子たちの名前を知っていますか?
一人目は、イエスの一番弟子で、天国の鍵を授かった岩という名のシモン=ペテロ、英語名はピーター。彼には別名もありバルヨナ、ケパとも言われていました。彼は漁師でしたが、イエスから魚ではなく人を漁る者にしようと言われ最初の弟子に選ばれました。
 二人目は、その弟でイエスに最も愛されたというアンデレ、英語名はアンドリュー。彼もまた漁師。
 三人目は、ゼベダイの子でヨハネ福音書や黙示録の著者と思われるヨハネ、英語名はジョン。彼は特別な霊的能力があったようです。
 四人目はその兄弟で、へロデオ王によって殺されたゼベダイの子ヤコブ、このヤコブは大ヤコブといわれます。英語名は、ジェームズ。
 五人目は、小アジアで殉教したと言われるフィリッポ。英語名はフィリップ。
六人目は、アルメニアで殉教したバルトロマイ、英語名はバーソロミュー 。ナタナエルという名も持っていたようです。
 七人目は、徴税人でユダヤ人たちからは罪人扱いされいたマタイ、マタイによる福音書の著者とされています。英語名は、マシュー。
 八人目は、遠くインドにまで宣教したと言われるトマス、英語名はトーマス。
 九人目は、アルパヨの子ヤコブで、こちらは小ヤコブといわれています。
 十人目は、ヤコブの子タダイともいわれるユダ。ペルシャで殉教。英語名はジュダ。
 十一人目は、熱心党のシモン。彼もまたペルシャで殉教。英語名はサイモン。
 十二人目は、イエスキリストを裏切り、その罪の大きさに耐えられず、自殺したイスカリオテのユダ。以上の十二人です。
 さて、ヤコブに戻りますが、彼はこの手紙を特定の町にいるキリスト者の人々に書いたのではなく、イスラエルの国を出てローマ帝国の各地に散ったユダヤ人のキリスト者たち、あるいはパレスチナ地方に住むキリスト者に当てて書いています。その内容は、短いながらも信仰における実践・行動に対する教えがしっかりと語られています。ヤコブは、真の信仰には、行いが伴うということを強調しています。この観点からイエスの教えの倫理的な面を前面に押し出していると言えるでしょう。例えばこうです。
 
 み言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。これは、第一章の二十二節の部分です。また、人がなすべきよいことを知っていながら、それを行わないのならば、それは罪です。
これは、四章の十七節。このようにヤコブは徹底して信仰に行いが伴うよう求めたのです。言行一致といったところでしょうか?耳の痛い話でもありますが、特に教師にとっては大切な教えですね。
 
 また、特徴的な教えは、試練にあったときの態度についてです。試練はわたしたちにとってつらいことですし、喜ぶことなどとうていかないません。しかし、ヤコブは試練と誘惑について、こう記しています。
 
 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。これを耐え抜いた者は、主を愛する人に約束された報いとしての、命の冠を受けるでしょう。しかし、人はそれぞれ、自分の欲に引かれ、そそのかされて誘惑に落ちるのです。そして、欲は身ごもって罪を産み、罪は熟して死を生み出します。
 
 これは第一章の十二節〜十五節の一部分。ヤコブは、なぜ試練を喜びとするのかについての答えを、明確にしかも力強く記しています。
 
 わたしたちには、自分の意に反する出来事や要求にどう対処するかが問われているのです。今日の朗読カ所でも教えているように、わたしたちも日々の試練に忍耐をもって立ち向かい、成長を遂げた本物の自分・完全な者となるよう日々行動をもって努力を重ねて行きましょう。
 
2005年9月27(火)青森明の星高等学校朝礼火曜講話より
 60     『マルコ福音書の秘密』 2006年4月21日(金) 
 聖書の御言葉は、時に象徴的であったり不可解であったりと難しさを伴うことが多く、文字通り読んだのではその意図するところの真意が伝わらないことがあります。そこで今日は、今日の福音箇所をひもとき、その意図するところを探ってみることにしましょう。
 
 今日の福音書の読み方についてお話ししましょう。
 
 新約聖書にはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書があります。このうちマタイ・マルコ・ルカの福音書は、共観福音書といって同じ資料と観点に立って書かれて、共通点が数多く見られる福音書です。特に十一月に入って読まれているマルコによる福音書は最も古く、早くに書かれたもので、紀元後六十年頃といわれています。そして、マタイやルカ福音書にはマルコによる福音書と共通の部分が多いためこれらの元となった福音書であると考えられています。
 
 さて、そのような位置づけが成されているマルコによる福音書ですが、この福音書には特別な『秘密』が隠されています。そのキーワードが、今日の朗読部分にあると言っていいでしょう。
 
今日の朗読部分をもう一度読み返してみましょう。
 
  「灯火を持ってくるのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないのか。隠れ ているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のあるも のは聞きなさい。」
 
 このカ所の「灯火」は神様からの「福音」つまり「よい知らせ」のことです。「升の下や寝台の下」は、神様からの「福音」は、「ふさわしくない時と場所」には表されることはないということです。そして、「燭台」は、ろうそくの「灯火」を備えるところですから、「福音」を述べ伝えるに「ふさわしい時と場所」すなわち、神様からの「良き知らせ」・「福音」は最もふさわしいときにふさわしい場所が用意されていることが預言されているのです。
 
 また、さらに「福音」はこう続いています。「隠れているもので、あらわにならないものはなく秘められたもので公にならないものはない。」 この部分は神の救いの業について語られた部分で、「嘘や隠し事はいつかはバレる。」ということを言っているのではありません。「隠されているもの・秘められたもの」とは神の救いの業・秘儀に関わることで、今は人々には内緒・明かすことはできないが、時が満ちてふさわしい時期にふさわしいところでやがては明らかにされ、証されることを意味し、この部分は、そのことを預言しているのです。
 
そして、「福音」はこう結びます。「聞く耳のあるものは聞きなさい。」これは、もう一つ重要なことを告げています。前述した「神の救いの業に預かれる人々」とはどのような人々なのかということです。ここの福音書のカ所はイエスが一人になられたとき、十二人の弟子と一緒にイエスの回りにいた人たちが、たとえについて尋ねたその答えとして、語られている部分です。つまり十二人の弟子と一緒にイエスの回りにいた人々とは、「見るには見るが認めず、聞くには聞くが、理解できない」という『外の人々』、または、「種を蒔く人」のたとえ話に出てくる「道端のものや石だらけのところに蒔かれるもの、そして茨の中に蒔かれるもの」のことでもない、「御言葉を聞いて受け入れる人々」のことであり、「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍の実を結ぶ人々」のことです。しかも、これらの人々の区別は個々人や集団による区別に止まらず、同一人物の中にもあることに注意を払わなければなりません。それは、たとえ話を語っている相手が、全てを捨てイエスに従った十二人の弟子やイエスを慕い、救いを求めてきている人々であるにもかかわらず、イエスは、「聞く耳のあるものは、聞きなさい。」と言っているからなのです。そこには私たち人間の持つ二面性や、決心しても、ゆらぐ心の弱さや油断を見抜く、イエスの人間に対する鋭く深い洞察力がうかがえます。
 
結論として、神様の「福音」は、「見るには見るが認めない人々」や、「聞くには聞くが理解できない人々」のためにあるのではなく、「ふさわしい時にふさわしい場所」で「見て聞いて悔い改め回心し実践する人々」のために、もたらされたものである。ということを言っているのです。 
 
 では、最後に最も重要な核心部分に触れましょう。それは、このマルコによる福音書に隠された特別な秘密のことです。
 
 秘密は、隠し事ですが、今日の福音のように必ず証されると言っています。実はその秘密とは、『イエスが、キリストであり、神の子、救い主である。』ということだったのです。イエスはそのことを弟子達にも、奇蹟の恵みに与った人々へも黙っておくようにと言われました。なぜならば、それは時が満ちていなかった、「ふさわしい時にふさわしい場所」ではなかったからなのです。では、その「ふさわしい時にふさわしい場所」とはいつで何処だったのでしょうか。「その時その場所」の秘密は、『イエスの十字架上の受難』であったのです。このことによって時が満ち、『イエスが、キリストであり、神の子、救い主である。』という秘密が証されることになるのです。
 
 「灯火」は「福音」。「福音」は、「良い知らせ」。「良い知らせ」とは、「悔い改め、回心し、神の御心を行うことが、神の子イエス=キリストの受難と死を通して、人々を『復活』に導き、『永遠のいのち』を与えられる。」ということなのです。ここにキリストを通しての人類に約束された神による究極の救いのダイナミズムが息づいているのです。
 
 「いやぁ〜、朝から難しい話をしてしまいましてごめんなさいです。でも、たった数行の中にこんなにも深いことが込められているなんて聖書ってすごいですねぇ〜。難しいですねぇ。」
 
 でも、「幼子のように単純に神様を信じて受け入れ、キリストのように考え、行うものは、神の救いに預かることができる、とも言えるのです。」
 
 では皆さん、「見るには見るが認めない人々」や、「聞くには聞くが理解できない人々」ではなく、「見て聞いて悔い改め回心し実践する人々」になれるよう、共に努力いたしましょう。
 
青森明の星高等学校朝礼講話集2004年10月より
 

Last updated: 2016/11/15