兄弟の皆さん、もし誰かが不意に誘惑に襲われ罪を犯したなら、聖霊に導かれて生きている人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しい道に立ち返らせなさい。あなたも誘惑されないように、自分に気を付けなさい。互いに重荷を担い合いなさい。そのようにすれば、キリストの律法を全うすることになります。何ものでもないのに、自分はひとかどのものだと思うのならば、自分自身を欺くことになります。一人びとり自分の行いを検討してみなさい。そうすれば、自分にだけは誇れても、他人に対して誇ることはできないでしょう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負っているからです。
(ガラテヤ6:1〜5)

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第2バチカン公会議公文書 
「キリスト教的教育に関する宣言」
および
カトリック教育聖省文書

第2バチカン公会議公文書
「キリスト教的教育に関する宣言」
 
カトリック学校に関連するローマカトリック教会教育聖省からの公式文書
1 第2バチカン公会議 キリスト教的教育に関する宣言
2 教会の宣教使命に適応する学校の宗教教育 
3 カトリック学校 1977年3月
4 紀元2000年を迎えるカトリック学校 1997年12月
5 学校に働く信徒の使命
−信仰の証人として−
 
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 26     X (2) 教育者としての信徒 2006年3月8日(水) 
(2) 教育者としての信徒
 
15 信徒に適切な教育者の召命
 
 第ニバチカン公会議は、教育者の召命に特別な注意を払い、この召命は、教会において他の身分に属する人びとの場合と同様、信徒にとってもふさわしいものだ、としている。
 
 全人格的な人間の形成という仕事に寄与する者は、ナベて教育者と呼べる。しかし教師は、それを自分の職業とする者である。そのため学校について語るとき、教師については、人数の上からだけでなく、制度としての学校の目的から言っても、特別な考察が加えられて当然である。他面、この人間形成に幾分でもあずかっている者のことも取り上げなければならない。とりわけ学校の理事、カウンセラー、助手やコーディネィター、また、教師の教育活動を補足し、これを完成する人びと、あるいは、管理的ならびに補助的な地位にあって協力する人びと、である。ここでなされる教育者である信徒についての分析は、教師の役割に集中するものとなるが、これは、それぞれに特有の働きを通して、教師とは別の役割を果たしているすべての者にも適用できる。この分析内容は、彼ら各自が考察を深めていく上で、ひとつの拠りどころとなるであろう。
 
16 教師に必要なふさわしい個人的準備
 
 今ここで取り上げている教師とは、学校という職場で一連の知識体系を、単に機械的に伝達している職業人を指すのではない。「教師」とは「教育者」、すなわち、人間形成に力を貸す者と解すべきである。教師の職務は、知識の伝達を除外するものではないが、実はそれをはるかに超えている。したがって、知識を伝達するのに適切な専門的準備が要求されるとすれば、教師本来の役割を成就するためには、なおさら適当な専門的準備が必要である。この教師本来の役割とは、絶対におろそかにできない人間形成であって、それをわきまえずに教育という仕事を企てるのは愚かなことである。
 
 カトリックの教育者が、教育という職業の一大特色として何よりも重視すべき点は、真理を伝えるということである。カトリックの教育者にとって、真理であるものは何であれ、真理そのものであるお方−神−にあずかっている。したがって、真理を伝えるという専門職は、現場で教えながら、根本的にはキリストの預言的使命に比類ない形で参与することにたるのである。
 
17 生徒の全人格的形成
 教育の目ざす全人格的な人間の形成には、生徒のすべての能力の開発、職業生活への準備、倫理的および社会的自覚の育成、超越的なものの感得、それに宗教教育が含まれる。あらゆる学校、そしてそこに働くあらゆる教育者はみな、「自立精神と責任感に富み、自由に正しく選択できる人物を養成する」よう尽力すべきであり、こうして「青少年がますます現実世界を知り、自分自身の世界観を形成するよう」備えさせるべきである。
 
18 キリスト教の人間観
 
 その上、どのタイプの教育も、それぞれに特有た人間観の影響を受けるものである。今目の多元的世界においてカトリックの教育者は、教会の教導職と親しく交わりながら、自分たちの働きに、キリスト教的人間観を意識的に注ぎこまなければたらない。それは人権擁護を含む概念であるが、そればかりか神の子としての尊厳を人間に与えるものでもある。それは、キリストによって罪そのものから解放された最大限の自由を、そして愛によって神ご自身を最終的かつ完全に所有するという、限りない高貴な運命を人間にもたらす。それは、相互愛と教会共同体を介して、すべての人びとのあいだにこの上なく真正な連帯関係を樹立する。それは、人間的なものすべてを最大限発達させることを要求する。というのは、創造主である神が私たお人間を、世界の主と定められているからである。最後にそれは、受肉した神の御子であって同時に完全な人間であるキリストを、模範とも仲介者(神と人とのあいだの)ともするよう招く。実にキリストのまねびこそ、ありとあらゆる男女が、個人としても共同体としても完成される上での、汲めどもつきない源泉なのである。このようにしてカトリックの教育者は、確信をもって人間を一層人間らしく育てることができる。のみならず、信徒である教育者の特殊な務めは、世界に深くかかわり、人間という家族に属する人びとの大多数と、寸分たがわぬ世俗的な生活を送っている人びとが、かの同じ高貴な尊厳の所有者であるという生きた手本を、生徒に示すことである。
 
19 社会の改良は教育的召命の一部
 
 カトリックの教育者の召命にはすべて、社会の発展向上をさらに推進するという仕事が含まれている。男も女も、社会のなかでの自分たちの役割を進んで引き受ける人物を養成し、その人びとが社会の諸機構の改善に全力をあげて取り組み、これらの社会機構を、より一層福音の原理にかなうものに改めていけるよう育てるのである。こうして彼ら教育者は、人間杜会をいま以上に平和で友好的で、共同体的なものに高めていく人間を育て上げる。他方今日の世界には、途方もなく大きな問題が種々横たわっている。すなわち、飢餓、文盲、人間による人間の搾取、個人相互間および国家間における生活水準のはなはだ対照的た格差、侵略と暴力、増大する麻薬の間題、妊娠中絶の法制化、そのほか人間生活の品位を下げる多くの例が挙げられる。これらの問題はみな、カトリックの教育者が鋭敏な社会的意識と、市民としての強い政治的責任感をみずからの内に育み、同時に、生徒の心にもそれをっちかうよう、要請するものである。言いかえれば、カトリックの教育者が身をささげねばならないのは、「愛に生かされた文明」を実現させていく男女の養成という仕事なのである。
 
 しかしその際、信徒の教育者は、自分自身の実生活において、こうした社会的意識及び杜会の改良を示さなければならない。それによって生徒は、信徒に特有の役割を高く評価して、社会のなかのそれぞれの場を荷なう準備ができることとなる。それというのも、こういう生活こそ、生徒の大多数が召されている生き方だからである。
 
20 信仰の面から見た文化の医達
 
 学校は、人間を全人格的に形成するために独特の手段を用いる。それはすなわち、文化の伝達である。そこで、カトリックの教育者が文化と教会との深い関係について熟考することが、この上なく重要となる教会は、文化に影響を与えるのみでなく、逆に文化によって条件づけられるからである。教会は、人間の文化のなかにあって啓示に適合するもの、また、キリストのメッセージを布告し、各国民・各時代の文化の特徴に応じてそれを一層適切に表現するのに必要とするものは、すべて受け入れる。文化と教会生活との緊密な関係は、創造とあがないとを結ぶ絆を、ことに鮮明に示すものなのである。
 
 このような理由から、文化の伝達が純粋に教育的活動となるためには、組織だったものでなければならないし、同時に、批判と評価を含み、歴史的で活カのあるものでもなければならない。信仰はカトリックの教育者に、批判と評価をおこなう上でのいくつかの根本原理を提供する。彼らは信仰に助けられて、人間の歴史全体が、神の国の完成においてこそ最高点に達する救済の歴史であることを認めるであろう。それによって文化は、完壁な高みを常に目ざすべき創造性に富んだものとなるのである。
 
 ここでも、つまり文化の伝達においても、信徒の教育者には果たすべき特別な役割がある。信徒の教育者は、文化のより一層世俗的な側面の作り手であり、またそれにあずかる者でもある。それで信徒の教育者の使命は、信徒としての立場から、文化にふさわしい世界的性格について、文化の世俗的側面と宗教的側面とをつなぐ総合について、さらに、一信徒として期待される文化への貢献について、生徒が理解するよう導くところにある。
 
21 教師と生徒との個人的関係
 
 教育という場における文化の伝達は、必然的にひとつの方法論を含む。その諸原則と技術とは、一貫したある種の教育学を形成する。教育理論は種々様々であるが、カトリックの教育者がそこからキリスト教的人間観にもとづいて選ぶべきものは、生徒との直接的で個人的な接触を重視する教育学の実践的技量である。教師がもしも、生徒は基本的には積極的な価値観を抱いているものだ、との確信にもとづいてこの接触を図れば、両者の関係は開かれたものとなり、対話が始まって、教師の行動を通して現れる、信仰のあかしについての理解が容易となるのである。
 
22 教育共同体
 
 カトリックの教育者が学校で果たすことは何であれ、すべてひとつの教育共同体の組織のなかでおこなわれる。この共同体は、学校を全人格的な人間形成の手段とする上で貢献している人びと、つまり、生徒、保護者、教師、理事、職員という各種グループ相互の交流と協力で成り立っている。学校組織を教育共同体と捉えるこの概念は、学校のすべてを網羅するものではないけれども、それが以前にもまして広範に認められてきた点も考慮すれば、現代の学校をこの上なく発展させ豊かにするものである。カトリックの教育者は、この共同体を構成する中心的成員のひとりとして、みずからの職務を果たす。ところが教職というこの職業組織は、それ自体、人間に共同体の一員としての次元を生きるすぐれた機会−同時に生徒たちのあいだにこうした次元を育む好機−を提供する。人間はすべて、社会的存在として、また神の民の一員として、共同体のなかで生きるべく召されているからである。
 
 こうして学校という教育共同体は、それ自身がひとつの「学び舎」である。それは、社会的に一層広い共同体の成員になるにはどうすればいいか、を教える。その上、この教育共同体が同時にキリスト教共同体であるならば−これこそ、カトリック学校の教育共同体が常に目標とすべきものであるが−、それは、教会と呼ばれる気高い共同体の一員であるとは何を意味するかを、教師が生きた模範をもって生徒たちに示す大切な機会となるのである。
 
23 精神的交わりの中心
 
 学校の共同体的組織のおかげで、カトリックの教育者は、多様で広範囲の人びとと交わりを持つことになる。つまり、学校と教職とがそのために存在する生徒たちだけでなく、教育という仕事に関する同僚、保護者、職員、学校の理事とも交わることになる。カトリックの教育者は、これらそれぞれのグループにとってはもとより、学校が接触を持つ学術的・文化的諸団体にとっても、また、各地の教会と小教区にとっても、さらには、各人が置かれた場であって、しかもいろいろな方法で影響を及
ぼすべきその生活環境全体にとっても、精神的感化のひとつの源泉でたければならない。こうしてカトリックの教育者は、その種の感化力を発揮するよう招かれているのであるが、この感化は、明らかに福音宣教の異なった形態なのである。
 
24 信徒の務めについての要約
 
 要約すると、信徒の教育者は、学校という共同体組織のなかで、世間一般に生きる人としての召命を信仰をもって生きぬくことにより、教会内での特殊な使命を果たす人物である。すなわち、可能な限り高度な専門的資格を身につけ、信仰に根ざした使徒的意図を抱いて、人間の全人格形成のために、文化の伝達という手段においても、あるいは生徒との直接かつ個人的な接触を重視する教育の実践においても、それぞれが属する教育共同体に対し、またこの共同体にかかわるさまざまな人すべてに対し、精神的感化を与えるのである。家族および教会が学校の教育的努力を信じて任せるのは、実にこの意味での共同体の一員である信徒に対してである。信徒の教師は、人びとを聖化する使命、つまり教会の教育的使命にあずかっていることを心底から確信する必要があり、教会全体から切り離されているなどと考えてはならない。
 
 27     Y U みずからのアイデンティティを生きる道 2006年3月8日(水) 
U みずからのアイデンティティを生きる道
 
25 生き通すべきアイデンティティ
 
 人間は働く者となるべく召されており、働くことは、人間を他の生き物から区別する一大特徴である。したがって、次のことが明らかである。すなわち人間は、召命にもとづくアィデンティティ、全人格にかかわるそれを持っだけでは十分ではない。人間は、それを実際に生きなければならないのである。もっと具体的に言えば、人間はそれぞれの働きを通して、「なによりも社会の文化的ならびに道徳的水準の絶え間ない向上に」貢献したければならないのである。もし、そのように教育したい教育者であるならば、もはや真の意味での教育者とは言えない。しかもその教育に、カトリックのアィデンティティの片鱗すら認められない場合には、この教育者は、およそカトリックの教育者とは言いがたい。こうした自分のアィデンティティを生きぬくとき、そのいくつかの局面は、たがいに共通しており、しかも本質的である。それらは、たとえどのようた学校においてであれ、信徒の教育者が自分の召命を生きる際に、必ず見い出せるものである。それら以外の局面は、さまざまなタィプの学校の、いろいろな性格に応じて異なってこよう。
 
1 生きぬくべきアィデンティティに共通する特質
 
(1) 希望に結びついた現実主義
 
26 無数の障害に出会う理想の実現
 
 信徒の教育者のアイデンティティは、必然的にひとつの理想であって、それを成就していく道程には無数の障害がある。いくつかの障害は、各自の個人的な情況から生まれるものであり、他のものは学校および社会に存する欠陥によるものである。だが、すべての障害は子どもと青少年にこそ、はなばだしく強大な影響を及ぼす。アィデンティティの危機、社会構造に対する信頼の失墜、その結果生ずる不安と自信喪失、進展する杜会の世俗化への感染、権威についての正しい概念の消失、そして自由の正しい行使の欠落、これらは、今日の青少年たちが、文化や国によりさまざまた度合いで、カトリックの教育者にもたらしている数多の困難のごく一部にすぎない。のみならず、彼ら信徒教師の生活そのものが、家庭内の、また労働界の危機によって、深刻な脅威にさらされているのである。
 
 このような今日の困難を、人は現実の姿として認識しなければならない。しかし同時に、健全な楽観主義とキリスト教の希望、ならびに、十字架の神秘への参与がすべての信徒に要求している気慨とをもって、その困難について考え対決していくべきである。それで信徒の教育者のアィデンティティを生きようとする者に、まずどうしても必要なことは、教会が神の啓示に照らされて、教育者のアイデンティティに関して発表してきた声明書に誠実に取り組み、それを自分自身のものとすることである。そのために必要な力は、一人ひとりの、キリストとの親しい交わりを通して見出されよう。
 
 
(2) 専門家としての意識キリスト教的人間観と人生観
 
27 専門家としての意識
 
 専門家としての意識は、すべての信徒のアィデンティティに見られる最も重要な特質のひとつである。そこで、教会における各自の召命を生きぬこうと望む信徒に、まず第一に要求されることは、専門職の面でしっかりとした養成を受けることである。教育者の場合には、文化、心理、教育の各分野にわたる広範な有能性の獲得がこれに含まれる。しかしながら、最初に程度の高い養成を受けるだけでは十分でない。その水準を維持し、深化させ、常に現代的にしなければならない。これは、信徒の教師には相当に困難なことにちがいなく、この事実を無視することは、現実を無視することになる。つまり多くの場合、給料は十分でなく、アルバイト的な仕事に就くことが必要とたる。ところが、その場合はほかの仕事に時間が取られ、疲れてしまうので、このような情況と専門の勉強を進めていくこととは両立しがたい。多くの国々、特に発展途上国では、この問題は今のところ解決できない。
 
 しかしそうであっても、教育者は次の点を理解しておかねばならない。すなわち、十分に授業の準備をせず、あるいは時代遅れの教授方法に頼って粗末な教え方をするならば、それは、生徒の全人格的な人間形成に貢献するようにという使命に、はなはだしく悖ることにたるし、しかもそれは、各自が示さなければならない生きたあかしを、おおい隠してしまうことにもなる、という点である。
 
28 人生と世界についてのキリスト教的洞察
 
 カトリックの教師の努力はすべて、一人ひとりの生徒の全人格的な人間形成に方向づけられている。人間、人生、歴史、世界それぞれの究極的な意味についての問いに対し、キリスト教の啓示がもたらす答えを示すことによって、生徒の目の前に新しい地平が開かれていく。これらは、教育者自身の深い信仰から流れ出る答えとして、生徒に与えられねばならないが、同時に、一人ひとりの生徒の良心をこの上なく敏感に尊重しながら、示されねばならない。生徒は必ずや、信仰にもとづく答えのいろいろのレベルに立っていよう。そのため人生と世界についてのキリスト教的洞察は、きわめて初歩的な福音宣教から同じ信仰を分かち合うまでの、さまざまなレベルのすべてにかなう仕方で示されねばならない。そしていかなる情況にあっても、その示し方ば常に贈り物という性質を持つ必要がある。つまり、しきりに力説して差し出すとしても、強制することはできないのである。
 
 とはいえその贈り物は、冷淡に、また抽象的に差し出すべきものではない。それは、生き生きした現実とみなすべきものであり、人間の全存在をかけるだけの価値があり、各自の生活の一部となるものだからである。
 
(3) 信仰と文化と生活との総合
 
29 信仰と文化との総合
 
 この膨大な課題を遂行するためには、多種多様な教育的要因が一点に集中しなければならない。しかもこの要因のそれぞれについて、信徒は信仰のあかしを立てねばならない。有機的に、また批判的に、価値に方向づけられて文化を伝えることは、疑いもなく真理と知識を伝えることを含んでいる。カトリックの教師は、これを果たしながら、文化と信仰−この二つは密接な関係にある−との適切な対話を始める機会に、いつも注意を払っておくとよい。それは、生徒の内的総合をさらに深いレベルにまで導くためである。この総合が、もちろん、教師の内面にあらかじめ生きているべきものである点は、改めて言うまでもない。
 
30 人間の生活態度を生み出すキリスト教的価値
 
 批判的な伝達とはまた、価値と対抗価値とを対比して示すことでもある。これらは、妥当な人生観と人間観に照らして判断されなけれぼならない。したがってカトリックの教師は、キリスト教の諸価値を示すときに、たとえ肯定的に想像力を凝らしてそうするとしても、単に一連の抽象的な賞賛すべき目標として示せばそれでよい、と思ってはならない。それは、人間の生活態度を生み出す価値として示されなければならず、生徒たちがそうした態度を身につけるよう励ますものでなければならない。この種の生活態度を次に例示してみよう。他人に対する尊敬を内に合む自由、良心的な責任感、誠実かつ不断な真理探求、冷静で穏健な批判精神、すべての人に対する連帯と奉仕の精神、正義に対する敏感さ、絶えず変化し統けている社会のなかで、変革の積極的な担い手となる使命があるのだ、という特別の自覚、などである。
 
 カトリックの教師は、おおむね世俗化と信仰のない雰囲気のなかでそれぞれの使命を果たさなけれぼならないので、単に経験的で批判的な考え方だけに縛られないことが大切である。そのように心がけれは、生徒たおに人知の及ぼない超越的なものに気づかせ、啓示された真理を、心を開いて受け入れるように導くことができるであろう。
 
31 信仰と生活との総合
 
 このような生活態度を育んでいく過程にあっては、教師は、これらの生活姿勢から生じてくる行動という、積極的な側面をさらに示しやすくなる。理想的には、生活態度と行動とが、個々の生徒の心のなかの信仰によって徐々に動機づけられ、信仰から溢れ出るようになっていく。このようにして、信仰にみなぎるものとなり、神の子としての祈り、秘跡にもとづく生活、相互の愛、イエズス・キリストに従うこと−つまり、信じる者が相続する特別な遺産の、ある部分を構成するすべての事柄へと発展していく。信仰によって統合された知識、価値、生活態度、それに行動は、一人ひとりの生徒が自分の生活と信仰を総合していく、という結果をもたらすのである。この意味で、他ならぬ福音宣教という目的、すなわち、人間の生活に、キリストのメヅセージを受肉させるという目的を果たす機会に、教育者ほど恵まれている信徒は、他にないと言ってもよいであろう。
 
(4) 個入の生活におけるあかし−生徒との直接的で個人的な接触
 
32 あかしの信憑性に必要なもの
 
 行為は常に、話よりはるかに重要である。このことは生徒の教育期間中、特に重要となる。生徒に提示されている理想的人間像の具体的なあかしを、教師が一層真実に立てれば立てるほど、それだけ生徒はこの理想を信じ、それに倣うようになるものだからである。それというのも、これにより、その理想が正当で、それを目ざして生きるにふさわしいものであり、現実的で実現できるものだと、思われるようになるからである。信徒の教師の信仰のあかしがことに重要になるのは、このような意味においてである。生徒は、自分をとりまく世俗的な雰囲気には、全く欠けていることの多いキリスト教的な生活態度と行動を、教師のなかに見るにちがいないのである。逆に、このあかしがないままに世俗的な雰囲気のなかで生活していると、生徒はキリスト教が教える行動とは実現できない理想なのだ、と思うにいたるであろう。「若い世代が甚大な影響を蒙むる」種々の危機において、教育的努力が実を結ぶ最も重要な要因は、「常に個々の輪である。つまりその人柄と、その人の生活原則か生まれる道徳的品位、そしてこの生活原則と行為が一致すること」である。このことを、決して忘れてはならない。
 
33 生徒との個人的な対語の価値
 
 この関連で、教師と生徒とのあいだの直接的で個人的な接触について上に述べたことが、特に意味深いものとなる。それこそ、あかしを立てる特別に恵まれた機会だからである。個人的な関係というものは、独り言ではなく、常に対話によって成り立っている。それで教師は、その関係を豊かにするのは双方であるということを、確信していなければならない。とはいえ、教師の使命を決して見失ってはならない。換言すれば教師は、生徒がその成長期のあいだ、ともにいて自分を導いてくれる者を必要としていることを看過してはならない。生徒は疑いと迷いを克服する上で、他人の援助を必要とするのである。他方、生徒と心の通い合う関係は、親しさと突き放しとを、賢明にかね合わせたものでなければならない。しかもこのかね合いは、個々の生徒の必要に適合させられねばならない。親しみがあれば個人的な関係は容易になるが、しかしある程度距離を置くことも肝要である。なぜなら生徒は、あらかじめ条件づけられずに自分の個性をどのように表現すればよいかを学ぶ必要がある。その上、生徒が責任をもってみずからの自由を行使するには、抑制されることなく自由でなければならないからである。
 
 責任をもって自由を行使することはまた、自分の身のふり方を自分で選択することでもある。ここでその点に思いをいたすのもよいであろう。カトリックの教師は、信者である生徒と接する場合、教会における各自の召命の問題について話し合うことをためらってはならない。カトリックの教師は、司祭職または惨道生活への召命、あるいは、在俗会やカトリックの信徒的団体に私的に献身してゆく召命を見い出して、これを育てていく努力をなすべきである。この後者の可能性は、無視されていることが多い。そこでカトリックの教師はさらに、生徒が信徒の身分にとどまりながら、結婚生活に召されているのか、あるいは聖職位も含めて独身生活に召されているのかを、識別するよう援助する必要もある。
 
 この直接的で個人的な接触は、単に、教師が生徒の人格形成を援助する上で役立つ方法論にすぎないのではない。生徒を適切に指導していくために教師が生徒につて知らねばならないことは、まさにこの交わりによって得られるのである。世代間の相違は深まり、しかも今日では、かつてないほど世代のうつりかわる時間が縮まってきている。そのため直接的な接触が、以前にもまして必要なのである。
 
(5) 共同体の一員としての視点
 
34 教育共同体の構成員とのコミニ一ケーション
 
 生徒一人ひとりの個性が望ましく発達していくのに合わせて、この過程に絶対必要な要素として、社会性に富む態度が育成されるよう、信徒の教師は生徒を指導しなくてはならない。ただし、この社会性に富む態度とは、教育共同体の他の人びと、また、生徒が所属する学校とは別の共同体の人びと、そして全人類的共同体に対してのものである。カトリック信徒の教育者もそうした教育共同体の成員であり、学校の社会的環境に影響を及ぼすとともに、そこから影響を蒙むる。したがって、同僚とのあいだには親密た関係が作られるのが当然で、彼らは、チームとして協力し合わねばならない。その上教師は、教育共同体を構成している、ほかのグループとも親密な関係を築き上げるべきであって、ひとつの学校機構全体が共通に取り組む教育上の努力のそれぞれについて、進んで各自の分担を荷なうべきなのである。
 
 家庭は「社会生活の第一の基本的な学校」であるから、生徒の両親と接する機会を進んで受けとめる義務、さらにそういう機会を積極的に作っていく特別な義務がある。このような交流はどうしても必要である。というのは、家庭の教育的な仕事と学校のそれとは、多くの具体的な場で互いに補完し合うものだからである。そして家庭と学校との交流は、両親が「教師および学校当局と、誠意をもって活発な関係を十分に打ちたてていく」という「重要な義務」を果たす助けになる。最後に、このような接触を通して多くの家庭は、子どもを正しく教育するために必要な援助を得ることができ、こうして「かけがえのない、譲ることのできない」自分たち自身の役割を果たすことができる。
 
35 社会文化的環境への注目
 
 加えて教師は、学校の社会文化的、経済的、ならびに政治的環境、つまり学校が所在する地区、その地域、およびその国家のそうした環境に、常に注意を払わなければならない。今目の情報手段により、国家の情勢は各地域の状況に多大な影響を及ぼす。世界の現状−地域的、国家的、国際的−に周到な注意を払うことによってのみ、生徒に必要な資料を提供して、現に彼らに欠けているその種の教育を与えることが可能となり、予知できる未来に彼らを備えさせることが可能となるわけである。
 
36 教職団体の面における協力
 
 カトリックの教育者が、カトリックの教職組織のほうを好むのは当然であるが、しかしすべての教育団体や教職連盟組織に、他の教育関連団体とともに参加し、協力することもまた、決してカトリックの教育者の役割と無縁なものではない。カトリックの教育者はさらに、国家の適切な教育政策を求めて戦う人びとを、可能なあらゆる方法で支援すべきである。人権とキリスト教的な教育原理を常に考慮していなければならないけれども、他の団体との関係には、労働組合の活動も含まれてよい。信徒の教師は、教職生活が時として、諸団体の活動から全くかけ離れてしまう場合もあり得ることを、忘れてはならない。これらの活動に全然参加せず、あるいはそれについて何ら知るところがないとすれば、この欠落が、重要な教育的問題に対し重大な害をもたらしうる、ということも悟っておくべきである。
 
 そのような活動には報いのないことが多く、成功するか失敗するかは、活動に参加する者の惜しみない努力にかかっていることは真実である。けれども、カトリヅクの教師が無視できないほど重大な問題には、この惜しみない努力が火急に必要とされているのである。
 
(6) 専門職よりもむしろ召命
 
37 キリスト教の召命から見た専門家意識
 
 信徒の教育者の仕事は、疑いもなく専門職の一面を持つ。しかしそれは、単なる専門家としての意識にのみ帰することはできない。専門家としての意識が、超自然的なキリスト教の召命によって刻印づけられ、しかもそこまで高められるのである。カトリックの教師の生活は、ただその専門職に従事するのみではなく、教会内での自分の召命を果たすことによって特徴づけられていなけれぱならない。信徒の召命において、我欲からの離脱と寛大さは人権を正当に擁護するものであるが、しかしそれはなおひとつの召命であって、そのことばが示しているとおり、充実した生活と個人的な献身への招きである。情熱に充たされた生活をおくる機会が、広くそこに与えられているわけである。
 
 したがってすべてのカトリック教育者が、この召命の重要性と豊かさ、そして責任を十分に自覚することが望ましい。信徒の教育者はこの召命の要求することすべてに、十分に応えるべきであり、その応答こそ、地上の国の建設とその絶え間ない刷新にとっての、また、世界の福音化にとっての活力源であることを、しかと肝に銘じておくべきである。
 
 28     Z カトリック教育者という召命の、学校のタイプによって異なる特質 2006年3月8日(水) 
 
(1) カトリック学校の場合
 
38 カトリック学校に固有のもの
 
 カトリック学校に固有の特徴は、「学校共同体に、自由と愛という福音的精神に生かされた雰囲気を作り出していくこと、そして、青少年を助けて、彼らが自分の人格の発達を、洗礼による新しい被造物としての成長と調和させていくようにすること、さらに生徒が世界、人生、人間について徐々に修得する知識が信仰に照らされるように、人類の全文化を究極的に救いのおとずれに秩序づけることである。」以上のことから、カトリック学校は明らかに、「特に進行にもとづく教育の実践を通して教会の救済的使命に参与」している。つまり、教会の教導職に忠実をつくし、人間のの最高の模範であるキリストを教え示し、学校でおこなう宗教教育の質について特別に配慮する。
 
 カトリリック学校に働く信徒は、その学校の全般的な教育本方針を支える理想と特別な教育目標について、当然知っておくべきである。そしてカトリック学校が、信徒の教師の召命を、どこよりも最大限自由かつ完全に生きることのできる学校であるそのわけは、まさにこの基本方針によるということを、わきまえておかなければならない。それは他のいろいろな学校に勤務する信徒が、各自の可能性に応じて使徒的活動をなす上での模範となる。このことに気がつけば、カトリック学校に働く信徒は、それらの理想と警目標を達成する責任を誠実にみずから荷なおうとするようになるであろう。もちろん、だからといって、種々の困難が横たわっていることを否定するわけではない。それらのなかで現代の多くの国々のカトリック学校では、生徒も教師もかなりいろいろな人が入りまじっている事実を指摘しておきたい。これが、重大な諸問題をもたらしているからである。
 
39 学校の基本方針の同化と体得
 
 ある種の基本的特質は、すべてのカトリック学校に共通する特徴である。しかしそれらは、種々様々の形で表現されうる。多くの場合そうした具体的表現は、その学校を創立し、経営し続けている修道会の独特のカリスマに対応している。その学校の設立が教区であろうと、修道会であろうと、あるいは信徒であろうと、それぞれのカトリツク学校は、ある教育思想や教育構想、ないし独自の教育学によって表明される、特有の性格を保持してもよいのである。信徒の教師は、自分が勤める学校のそうした特徴と、それらを息づかせている背後の理由を理解するよう努めなければならない。彼らはこれらの特徴を同化し、体得して、その学校に独特の性格が実現されるよう尽力すべきなのである。
 
40 典礼と秘跡にもとづく生活への参与
 
 カトリック学校に働く信徒は、自分が信奉している信仰と、期待されている生きたあかしとの目に見えるひとつの表現として、学校における典礼と秘跡にもとづく生活に、気取らず積極的に参加することが大切である。彼らの具体的な模範によって、この生活が信仰者にとってどれほど重要であるかを知れば、生徒は一層自発的にこれにあずかるようになろう。生徒は今日の世俗化した世界にあって、カトリックと自称しながら、典礼や秘跡に全然あずからない人びとを数多く目撃する。典礼や秘跡に真剣な態度であずかり、それをキリスト教的生活の源泉および糧としているおとなに接することは、生徒にとってはこの上なく重要なのである。
 
41 霊的感化を与えるグループヘの参加
 
 カトリック学校という教育共同体は、キリスト教的共同体、つまり、純粋に信仰に根ざす共同体となるよう努めねばならない。そのためには、この教育共同体を構成している主要なグループ、すなわち、両親、教師、生徒それぞれの少なくとも一部が、キリスト教的生活を実践している必要がある。さもなければ、その理想の実現はおろか、その出発点すら整ってはいないことになる。すべての信徒、とりわけ教育者が、司牧的な感化を得られるグルーブ、ないしは、福音にしたがって生きる生活の糧を養なうことのできるグループに、進んで参加することは大いに望ましい。
 
42 カトリックでない生徒との関係
 
 時おりカトリック学校には、カトリックを信仰していない生徒や、宗教的信仰が全然見られない生徒がいる。信仰は暴力を是認しない。信仰は、ご自身を啓示される神に対する、人間の自由な応答である。そこでカトリックの教育者は、自分の宗教的確信にしたがって、また、その学校のアイデンティティに合致するやり方で教理を説くにしても、同時に、カトリックでないこれらの生徒を十分に尊重しなければならない。カトリックの教育者は次の点を確信しつつ、いつでも真の対話へと心を開いておくとよい。すなわち、このような情況では、それぞれの良心にしたがって真剣に神を求めている人びとを、暖かく誠実に受けとめることこそ、自分の信仰について与えることのできる最大の証明であるという確信である。
 
43 教会生活の豊かさの生きた表現
 
 宗教教育は、カトリック学校の最終目的のひとつである。教育共同体が教会共同体の豊かさを、より完全に表していればいるほど、この使命は一層よく果たされることになる。司祭、修道士と修道女、そして信徒が同一の学校に居揃っているたら、彼らはこの豊かさの生きた姿を生徒に示すであろうし、それによって生徒は、教会の真の姿をよりよく理解できるようになるであろう。信徒はこの観点から、司祭および修道者もそうであるが、自分の存在の重要性についてよく反省してみるとよい。というのは、教会におけるこれらタィプの異なる召命が、それぞれ生徒に対して、独自の受肉の仕方をモデル別に示しているからである。つまり信徒は、地上の存在がキリストにおいて神に依存していることをほのめかし、その手がける専門職は、世界を神に向けて整えていくことを示すモデルである。次に司祭は、キリストにより秘跡を通してすべての信者に与えられる恩恵の多様た源泉、みことばという啓示の光、それに教会の位階性が身に帯びる奉仕という特質を表している。そして修道者は、真福八端の徹底した精神を、また唯一の究極的な現実である神の国への絶え間のない招きを、さらにはキリストヘの愛と、キリストにおいてすべての人に向けられる愛を、生きて示すモデルなのである。
 
44 地域教会の司牧活動への参加
 
 司祭、修道者、信徒それぞれの召命にこのような独自の特徴があるとするならば、これら各々の身分の人びとが自覚すべきことは、自分たちが相互に補完し合うなら、それはカトリック学校の特色を保証する上で、大きな助けになるということである。言いかえれば、それぞれが一致と協力を目ざして力をつくすべきなのである。これに加えて、信徒はカトリック学校を、その地区の教会と一致して−これは決して忘れてはならない観点である−、小教区の活動を補なう形で司牧活動に加えていくよう、助けるものでなければならない。さらにまた、信徒が経験とイニシアチブを発揮して、カトリック学校相互のあいだにも、カトリック学校と他の学校−特にキリスト教系の−あいだにも、また、社会全体とのあいだにも、より一層効果の上がる関係とより親密な協力が生まれるようにするとよい。
 
45 修道者の教師の減少の回避と必要な場合の代替
 
 信徒の教育者は、司祭や修道者がカトリツク学校から姿を消すか、その数が著しく減少するかすれば、学校の活力が確かに低下することを十分わきまえていなければならない。こういう事態は、可能な限り避けるべきであるが、しかし信徒は、必要なら、あるいは少なくともそのほうが望ましければ、現在であれ将来であれ、自分たちの力でカトリック学校を維持していけるだけの用意がなければならない。今日の学校が巻きこまれている歴史的動向を見てみると、伝統的なカトリック国の多くでは、少なくとも近い将来、カトリック学校が存続していくには信徒に依存せざるを得なくなる、という結論に達する。それはちょうど、多数の若い教会において、カトリック学校が信徒に荷なわれて大いに成果を上げてきているように、である。この責任は、恐れたり遺憾に思うといった受動的な態度では、とても負いきれるものではない。それは、力強く有効な行動へと挑戦的に立ち向う責任である。だがこの行動は、この場合でも、遠からずしてその活動を縮少していこうとしている修道会の、助けを借りて将来を見通L、計画を立てていくべきであろう。
 
46 カトリック学校の信徒への委譲
 
 いずれは司教たちが、教育の分野でキリストの明瞭なあかしを立てたいと願う信徒のうち、その任を果たすに足りる者の力を活用し、カトリツク学校の経営を全面的に彼らに譲り、それによって信徒が教会の使徒的使命に、今まで以上にしっかりと組み込まれるような時代がくる。
 
 教育の分野がこのまま拡大を続けていくとすれば、教会は、青少年をキリスト教的に教育するために、あらゆる有用な手段を活用しなければならない。もっとも、カトリツク信徒の教育者の分担が増大すると言っても、それは決して種々の修道会が経営する学校の重要性を下落させるものではたい。修道士や修道女が、個人としてあるいは共同体として、それぞれの教育の場で示す独自のあかしは、これらの学校が世俗化した世界にあってはますます必要であることを、確かに暗示している。
 
 修道会の会員にとって、自分の会が経営する学校ほどこのようなあかしを立てやすい場所はない。それは、こうした学校においてこそ、若者たちと直接かつ長期にわたって接触を保つことができるからである。そしてこの交わりのなかで、人生と世界のさまざまな次元を解明する手段として、信仰の真理が自然に取り上げられることが多い。このような接触は、種々の理想と経験が生徒の人格面に、いつまでも消えない印象を残す人生のこの時期には、とりわけ重要なのである。
 
 しかしながら、信徒の教育者に対して投げかけられた、教育を通して積極的な使徒的活動に献身するようにという教会のこうした要講は、教会に連なる学校にのみ向けられているのではない。それは、教えることを通してキリスト教のあかしを立てることが可能である隈り、広大な教育界全体に及ぶ要請なのである。
 
 29     [ (2)さまぎまの教育思想を共有する学校の場合 2006年3月8日(水) 
(2)さまぎまの教育思想を共有する学校の場合
 
47 多元的な思想を持つ学校
 
 ここでは、カトリック学校とは教育思想を異にしながらも、キリスト教の人間観や人生観と本質的には矛盾しない公・私立学校を取りあげる。世界中の大半の学校は、このようなタイプのものである。こうした学校の教育基本方針には、明確な人間観および人生観をもって展開したものもあれば、もっと狭く限定して、ある特定のイデオロギーを建学の精神にするところも見うけられる。また、ある一般的原則の枠内で、教師たちのあいだにさまざまの思想やイデオロギーが共存することを容認する学校もある。この場合の「共存」とは、ここでは多元主義を表明するものと解してよかろう。そのような学校では、それぞれの教育者が、自分の人間観と独自のイデオロギーにしたがって授業をしたり、生活原則について説明したり、価値観を育成したりしている。こうして、いわゆる中立の学校というものは実際には存在していないので、ここでは問題にしない。
 
48 教会を独特の形で示す信徒
 
 今日の多元的で世俗化した世界では、教会の存在を示す唯一の手段はこれらの学校で働く信徒だ、ということがしばしば生じる。これは、さきに述べたことの具体的な一例である。つまり、教会は信徒によってのみ、ある特定の環境や学校に触れることが可能となるのである。この事実をはっきり自覚するならば、これに勇気づけられて、信徒がみずからの責任を引き受けていくようになるであろう。
 
49 文化と信仰との対語への導き
 
 信徒の教師は教科を担当する際に、キリスト教信仰の洞察が、自分の教える科目とも、また生徒集団や学校それぞれの情況とも両立するほどに、それを自分のものにしていなけれぱならない。そうすることによって教師は、生徒が真の人間的な価値を発見する助けとなろう。一方、たとえ学校に宗教教育をする意図が全くなく、むしろ実際上は、宗教教育に直接対立する多くの要因が作用しているような、その学校固有の制約のなかで働かねばたらないとしても、なお教師は、信仰と文化の対話を始めるという点で、貢献をなしうる。将来、生徒が両老を真に調和させるところまで導きうるものは、この種の対話にほかならない。このような努力は、カトリックの生徒には特に実りあるものとなるにちがいなく、カトリックでない生徒には、ある意味での福音宣教となりうるのである。
 
50 他人の信念の尊重
 
 思想上多元的な学校では、自分の信仰にしたがって生きると同時に、常に生徒の人権を侵害しない限りという条件のもとで、他の教育者の思想的な立場や活動を注意深く尊重する必要がある。相互に尊重し合うことによって、すべての善意の人びと、なかんずく他のキリスト者とのあいだに建設的な対話が始まる。こうして、多元的杜会の必然的な実りである信教の自由と人間の自由が、キリスト教信仰の立場から単に理論的に擁護されるほかりでなく、具体的に実践される現実が、必ずや明白に示されるであろう。
 
51 信徒と教育共同体の他の成員との関係
 
 同僚のいろいろな活動、教育共同体の他の成員との関係、そして特に生徒の保護者たちとの関係に積極的にあずかっていくことは、とても大切なことである。これを通して、信徒が働いている学校の教育目標やカリキュラム、また教授方法のなかに、次第に福音の精神を浸透させていくことができるからである。
 
52 福音に生きる者のイメージを映す信徒
 
 専門職に精進すること。真理と正義そして自由を支持すること。常に奉仕的な態度で他人の立場に心を開いていること。生徒に対して自分から進んで献身し、兄弟としてすべての人と連帯を結ぶこと。あらゆる点で全く良心的に生活すること。以上のことを、多元主義の学校で働きたがら実践しているカトリック信徒は、生きた鏡となる。その教育共同体の一人ひとりがその鏡のなかに見るものは、福音に生かされた者のイメージを映し出した姿なのである。
 
(3) その他の掌校の場合
 
53 布教地の学校に働く信徒
 
 ここでは特に、布教地と呼ばれている国々の学校、ないしは、キリスト教の活動がほとんど全面的に失なわれてしまった国々の学校のことを、念頭においている。おそらく信徒は、学校においてのみでなく、自分が居住Lている地域でも、教会をさし示す唯一の存在である。こうした情況にあっては、信仰の呼びかけはほかに道がない。信徒の教師が、生徒に対し、その教育共同体の他の成員に対し、また、自分がひとりの教育者として、あるいはひとりの人間として接するすべての者に対し、福音のメッセージを宣言する唯一の声なのである。これまで述べてきたひとつひとつのこと、たとえば、責任の自覚、教授についての(一般的に言えば教育について)のキリスト教的見地、他人の信念の尊重、カトリック以外のキリスト者、およびキリスト教を信じていない人びととの建設的な対話、学校の各種グループヘの積極的な参与、そして何よりも大切な自分自身の生活による生きたあかし−これらはすべて、学校の置かれている情況が右のとおりのところでは、決定的に重要となる。
 
54 教会が追害されている国々の場合
 
 最後に、忘れることができないのは、教会が迫害されている国々、キリスト教徒だということが判明すれば、教育者としては働けなくなるような国々の学校で働いている信徒である。学校の方針は無神論に根ざしており、そこで働く信徒は、自分が信仰者であることを隠していなければならない。このような困難な情況では、ただ存在しているだけであっても、もしもそれが福音に導かれている者の、無言ではあるが生気に満ちたものであれば、すでにキリストのメッセージの有効な宣言となっている。それは、学校で無神論的な教育を促進する人びとの、有害な目論見を打ち消していく役目を果たす。そしてこのあかしは、生徒と個人的にも触れ合っていくならば、諸々の困難にもかかわらず、より一層明示的に福音を宣教する機会に恵まれることもあろう。信徒の教師は、カトリック教徒であることを名乗りえないままであるにしても、こうした情況を憂う人間的、宗教的動機によって、やはり唯一の道となりうる。これらの国々の多くの若人たちは、彼ら教師を通して、学校で歪められ攻撃されている福音と教会について、幾分でも正しい知識を持つようになりうるのである。
 
55 カトリックでない生徒との接触
 
 どのような種類の学校でも、特にある国々においては、信徒の教師がカトリックでない生徒と接触する機会がたびたびある。その際に執るべき態度は、その生徒を尊重するだけでなく、気持よく受け入れ、普遍的なキリスト教の愛に動機づけられて対話を始めるとよい。これに加えて信徒の教師は、真の意味の教育は、知識の伝達につきるのではなく、人間の尊厳を高め、真の人間関係を樹立し、真理、すなわちキリストに心を開いていく道を準備するものだ、ということを常に心に刻んでおくとよかろう。
 
 30     \ 3 宗教の教師としての信徒教育者 2006年3月8日(水) 
3 宗教の教師としての信徒教育者
 
56 宗教の授業
 
 宗教を教えることは、どの学校においても妥当なことである。なぜなら、学校の目的は、人間の持つ基本的な次元のすべてについて人間を育成することであり、宗教の次元は、この人間形成に欠くことのできないひとつの部分だからである。宗教教育は、実際に生徒と両親の権利−これに相応する義務も伴うが−なのである。少なくともカトリックの立場では、これまで数多くの場合に強調されてきたとおり、宗教教育は、信仰と文化を適切に総合していくための、この上なく重要な手段である。
 したがってカトリックの宗教の授業は、いわゆる要理教育とは区別されるものであり、同時にそれを補足するものであって、当然、すべての学校のカリキュラムの一部を形成すべきものである。
 
57 信徒使徒職の優れた一方法
 
 宗教を教授することは、要理教育とともに、「最も優れた形の信徒使徒職」である。このため、また今日の巨大な学校組織で宗教を教えるには、多くの教師が必要となるため、信徒は大多数の場合、それも特に基礎教育の段階で、宗教教育を担当する責任を有している。
 
58 信徒に与えられた活動分野
 
 したがって信徒は、さまざまの場所でさまざまの情況にしたがって、こうした宗教教育の分野で自分たちに与えられている、この重大な役割を自覚せねばならない。信徒の寛大な協力がないならば、宗教の教師の人数は、目下の必要を満たすためにも不足を来たす。ある国々では、すでにそれが現実となっている。他の多くの点と同様、この点においても、教会は信徒の協力を頼んでいる。若い教会では、これは特に緊急を要しているはずである。
 
59 教導職への忠誠
 
 宗教の教師の役割は、きわめて重要である。なぜなら、この教師に「要求されているのは、自分あるいは誰かほかの教師の教えを伝えるのではなく、イエズス・キリストご自身の教えを伝えることだからである。したがって宗教の教師(および要理教師)は、教える相手の特質を考慮に入れて、「教導職の指導と真の源泉に忠実に従うよう心がけながら、自分の考察や授業に光を与えうるものを、神学的研究の成果から用立てるあらゆる機会を利用するとよい。」そのようにしてはじめて彼ら教師は、適切にその役割を果たすことができる。それで「教師は、変わった教説でもって子どもや青少年の心を混乱させてはならない。」さらに、宗教の教師自身の神学的および教育学的養成に関し、また彼らの教授細目に関し、その地の司教が定めた規準はすべて忠実に順守されねばならない。他面、彼らはこの種の分野では何よりも、生活によるあかしと熱心な宗教的実践とが、特に肝要であることを心に銘記しておくべきである。

Last updated: 2014/5/12