U みずからのアイデンティティを生きる道
25 生き通すべきアイデンティティ
人間は働く者となるべく召されており、働くことは、人間を他の生き物から区別する一大特徴である。したがって、次のことが明らかである。すなわち人間は、召命にもとづくアィデンティティ、全人格にかかわるそれを持っだけでは十分ではない。人間は、それを実際に生きなければならないのである。もっと具体的に言えば、人間はそれぞれの働きを通して、「なによりも社会の文化的ならびに道徳的水準の絶え間ない向上に」貢献したければならないのである。もし、そのように教育したい教育者であるならば、もはや真の意味での教育者とは言えない。しかもその教育に、カトリックのアィデンティティの片鱗すら認められない場合には、この教育者は、およそカトリックの教育者とは言いがたい。こうした自分のアィデンティティを生きぬくとき、そのいくつかの局面は、たがいに共通しており、しかも本質的である。それらは、たとえどのようた学校においてであれ、信徒の教育者が自分の召命を生きる際に、必ず見い出せるものである。それら以外の局面は、さまざまなタィプの学校の、いろいろな性格に応じて異なってこよう。
1 生きぬくべきアィデンティティに共通する特質
(1) 希望に結びついた現実主義
26 無数の障害に出会う理想の実現
信徒の教育者のアイデンティティは、必然的にひとつの理想であって、それを成就していく道程には無数の障害がある。いくつかの障害は、各自の個人的な情況から生まれるものであり、他のものは学校および社会に存する欠陥によるものである。だが、すべての障害は子どもと青少年にこそ、はなばだしく強大な影響を及ぼす。アィデンティティの危機、社会構造に対する信頼の失墜、その結果生ずる不安と自信喪失、進展する杜会の世俗化への感染、権威についての正しい概念の消失、そして自由の正しい行使の欠落、これらは、今日の青少年たちが、文化や国によりさまざまた度合いで、カトリックの教育者にもたらしている数多の困難のごく一部にすぎない。のみならず、彼ら信徒教師の生活そのものが、家庭内の、また労働界の危機によって、深刻な脅威にさらされているのである。
このような今日の困難を、人は現実の姿として認識しなければならない。しかし同時に、健全な楽観主義とキリスト教の希望、ならびに、十字架の神秘への参与がすべての信徒に要求している気慨とをもって、その困難について考え対決していくべきである。それで信徒の教育者のアィデンティティを生きようとする者に、まずどうしても必要なことは、教会が神の啓示に照らされて、教育者のアイデンティティに関して発表してきた声明書に誠実に取り組み、それを自分自身のものとすることである。そのために必要な力は、一人ひとりの、キリストとの親しい交わりを通して見出されよう。
(2) 専門家としての意識キリスト教的人間観と人生観
27 専門家としての意識
専門家としての意識は、すべての信徒のアィデンティティに見られる最も重要な特質のひとつである。そこで、教会における各自の召命を生きぬこうと望む信徒に、まず第一に要求されることは、専門職の面でしっかりとした養成を受けることである。教育者の場合には、文化、心理、教育の各分野にわたる広範な有能性の獲得がこれに含まれる。しかしながら、最初に程度の高い養成を受けるだけでは十分でない。その水準を維持し、深化させ、常に現代的にしなければならない。これは、信徒の教師には相当に困難なことにちがいなく、この事実を無視することは、現実を無視することになる。つまり多くの場合、給料は十分でなく、アルバイト的な仕事に就くことが必要とたる。ところが、その場合はほかの仕事に時間が取られ、疲れてしまうので、このような情況と専門の勉強を進めていくこととは両立しがたい。多くの国々、特に発展途上国では、この問題は今のところ解決できない。
しかしそうであっても、教育者は次の点を理解しておかねばならない。すなわち、十分に授業の準備をせず、あるいは時代遅れの教授方法に頼って粗末な教え方をするならば、それは、生徒の全人格的な人間形成に貢献するようにという使命に、はなはだしく悖ることにたるし、しかもそれは、各自が示さなければならない生きたあかしを、おおい隠してしまうことにもなる、という点である。
28 人生と世界についてのキリスト教的洞察
カトリックの教師の努力はすべて、一人ひとりの生徒の全人格的な人間形成に方向づけられている。人間、人生、歴史、世界それぞれの究極的な意味についての問いに対し、キリスト教の啓示がもたらす答えを示すことによって、生徒の目の前に新しい地平が開かれていく。これらは、教育者自身の深い信仰から流れ出る答えとして、生徒に与えられねばならないが、同時に、一人ひとりの生徒の良心をこの上なく敏感に尊重しながら、示されねばならない。生徒は必ずや、信仰にもとづく答えのいろいろのレベルに立っていよう。そのため人生と世界についてのキリスト教的洞察は、きわめて初歩的な福音宣教から同じ信仰を分かち合うまでの、さまざまなレベルのすべてにかなう仕方で示されねばならない。そしていかなる情況にあっても、その示し方ば常に贈り物という性質を持つ必要がある。つまり、しきりに力説して差し出すとしても、強制することはできないのである。
とはいえその贈り物は、冷淡に、また抽象的に差し出すべきものではない。それは、生き生きした現実とみなすべきものであり、人間の全存在をかけるだけの価値があり、各自の生活の一部となるものだからである。
(3) 信仰と文化と生活との総合
29 信仰と文化との総合
この膨大な課題を遂行するためには、多種多様な教育的要因が一点に集中しなければならない。しかもこの要因のそれぞれについて、信徒は信仰のあかしを立てねばならない。有機的に、また批判的に、価値に方向づけられて文化を伝えることは、疑いもなく真理と知識を伝えることを含んでいる。カトリックの教師は、これを果たしながら、文化と信仰−この二つは密接な関係にある−との適切な対話を始める機会に、いつも注意を払っておくとよい。それは、生徒の内的総合をさらに深いレベルにまで導くためである。この総合が、もちろん、教師の内面にあらかじめ生きているべきものである点は、改めて言うまでもない。
30 人間の生活態度を生み出すキリスト教的価値
批判的な伝達とはまた、価値と対抗価値とを対比して示すことでもある。これらは、妥当な人生観と人間観に照らして判断されなけれぼならない。したがってカトリックの教師は、キリスト教の諸価値を示すときに、たとえ肯定的に想像力を凝らしてそうするとしても、単に一連の抽象的な賞賛すべき目標として示せばそれでよい、と思ってはならない。それは、人間の生活態度を生み出す価値として示されなければならず、生徒たちがそうした態度を身につけるよう励ますものでなければならない。この種の生活態度を次に例示してみよう。他人に対する尊敬を内に合む自由、良心的な責任感、誠実かつ不断な真理探求、冷静で穏健な批判精神、すべての人に対する連帯と奉仕の精神、正義に対する敏感さ、絶えず変化し統けている社会のなかで、変革の積極的な担い手となる使命があるのだ、という特別の自覚、などである。
カトリックの教師は、おおむね世俗化と信仰のない雰囲気のなかでそれぞれの使命を果たさなけれぼならないので、単に経験的で批判的な考え方だけに縛られないことが大切である。そのように心がけれは、生徒たおに人知の及ぼない超越的なものに気づかせ、啓示された真理を、心を開いて受け入れるように導くことができるであろう。
31 信仰と生活との総合
このような生活態度を育んでいく過程にあっては、教師は、これらの生活姿勢から生じてくる行動という、積極的な側面をさらに示しやすくなる。理想的には、生活態度と行動とが、個々の生徒の心のなかの信仰によって徐々に動機づけられ、信仰から溢れ出るようになっていく。このようにして、信仰にみなぎるものとなり、神の子としての祈り、秘跡にもとづく生活、相互の愛、イエズス・キリストに従うこと−つまり、信じる者が相続する特別な遺産の、ある部分を構成するすべての事柄へと発展していく。信仰によって統合された知識、価値、生活態度、それに行動は、一人ひとりの生徒が自分の生活と信仰を総合していく、という結果をもたらすのである。この意味で、他ならぬ福音宣教という目的、すなわち、人間の生活に、キリストのメヅセージを受肉させるという目的を果たす機会に、教育者ほど恵まれている信徒は、他にないと言ってもよいであろう。
(4) 個入の生活におけるあかし−生徒との直接的で個人的な接触
32 あかしの信憑性に必要なもの
行為は常に、話よりはるかに重要である。このことは生徒の教育期間中、特に重要となる。生徒に提示されている理想的人間像の具体的なあかしを、教師が一層真実に立てれば立てるほど、それだけ生徒はこの理想を信じ、それに倣うようになるものだからである。それというのも、これにより、その理想が正当で、それを目ざして生きるにふさわしいものであり、現実的で実現できるものだと、思われるようになるからである。信徒の教師の信仰のあかしがことに重要になるのは、このような意味においてである。生徒は、自分をとりまく世俗的な雰囲気には、全く欠けていることの多いキリスト教的な生活態度と行動を、教師のなかに見るにちがいないのである。逆に、このあかしがないままに世俗的な雰囲気のなかで生活していると、生徒はキリスト教が教える行動とは実現できない理想なのだ、と思うにいたるであろう。「若い世代が甚大な影響を蒙むる」種々の危機において、教育的努力が実を結ぶ最も重要な要因は、「常に個々の輪である。つまりその人柄と、その人の生活原則か生まれる道徳的品位、そしてこの生活原則と行為が一致すること」である。このことを、決して忘れてはならない。
33 生徒との個人的な対語の価値
この関連で、教師と生徒とのあいだの直接的で個人的な接触について上に述べたことが、特に意味深いものとなる。それこそ、あかしを立てる特別に恵まれた機会だからである。個人的な関係というものは、独り言ではなく、常に対話によって成り立っている。それで教師は、その関係を豊かにするのは双方であるということを、確信していなければならない。とはいえ、教師の使命を決して見失ってはならない。換言すれば教師は、生徒がその成長期のあいだ、ともにいて自分を導いてくれる者を必要としていることを看過してはならない。生徒は疑いと迷いを克服する上で、他人の援助を必要とするのである。他方、生徒と心の通い合う関係は、親しさと突き放しとを、賢明にかね合わせたものでなければならない。しかもこのかね合いは、個々の生徒の必要に適合させられねばならない。親しみがあれば個人的な関係は容易になるが、しかしある程度距離を置くことも肝要である。なぜなら生徒は、あらかじめ条件づけられずに自分の個性をどのように表現すればよいかを学ぶ必要がある。その上、生徒が責任をもってみずからの自由を行使するには、抑制されることなく自由でなければならないからである。
責任をもって自由を行使することはまた、自分の身のふり方を自分で選択することでもある。ここでその点に思いをいたすのもよいであろう。カトリックの教師は、信者である生徒と接する場合、教会における各自の召命の問題について話し合うことをためらってはならない。カトリックの教師は、司祭職または惨道生活への召命、あるいは、在俗会やカトリックの信徒的団体に私的に献身してゆく召命を見い出して、これを育てていく努力をなすべきである。この後者の可能性は、無視されていることが多い。そこでカトリックの教師はさらに、生徒が信徒の身分にとどまりながら、結婚生活に召されているのか、あるいは聖職位も含めて独身生活に召されているのかを、識別するよう援助する必要もある。
この直接的で個人的な接触は、単に、教師が生徒の人格形成を援助する上で役立つ方法論にすぎないのではない。生徒を適切に指導していくために教師が生徒につて知らねばならないことは、まさにこの交わりによって得られるのである。世代間の相違は深まり、しかも今日では、かつてないほど世代のうつりかわる時間が縮まってきている。そのため直接的な接触が、以前にもまして必要なのである。
(5) 共同体の一員としての視点
34 教育共同体の構成員とのコミニ一ケーション
生徒一人ひとりの個性が望ましく発達していくのに合わせて、この過程に絶対必要な要素として、社会性に富む態度が育成されるよう、信徒の教師は生徒を指導しなくてはならない。ただし、この社会性に富む態度とは、教育共同体の他の人びと、また、生徒が所属する学校とは別の共同体の人びと、そして全人類的共同体に対してのものである。カトリック信徒の教育者もそうした教育共同体の成員であり、学校の社会的環境に影響を及ぼすとともに、そこから影響を蒙むる。したがって、同僚とのあいだには親密た関係が作られるのが当然で、彼らは、チームとして協力し合わねばならない。その上教師は、教育共同体を構成している、ほかのグループとも親密な関係を築き上げるべきであって、ひとつの学校機構全体が共通に取り組む教育上の努力のそれぞれについて、進んで各自の分担を荷なうべきなのである。
家庭は「社会生活の第一の基本的な学校」であるから、生徒の両親と接する機会を進んで受けとめる義務、さらにそういう機会を積極的に作っていく特別な義務がある。このような交流はどうしても必要である。というのは、家庭の教育的な仕事と学校のそれとは、多くの具体的な場で互いに補完し合うものだからである。そして家庭と学校との交流は、両親が「教師および学校当局と、誠意をもって活発な関係を十分に打ちたてていく」という「重要な義務」を果たす助けになる。最後に、このような接触を通して多くの家庭は、子どもを正しく教育するために必要な援助を得ることができ、こうして「かけがえのない、譲ることのできない」自分たち自身の役割を果たすことができる。
35 社会文化的環境への注目
加えて教師は、学校の社会文化的、経済的、ならびに政治的環境、つまり学校が所在する地区、その地域、およびその国家のそうした環境に、常に注意を払わなければならない。今目の情報手段により、国家の情勢は各地域の状況に多大な影響を及ぼす。世界の現状−地域的、国家的、国際的−に周到な注意を払うことによってのみ、生徒に必要な資料を提供して、現に彼らに欠けているその種の教育を与えることが可能となり、予知できる未来に彼らを備えさせることが可能となるわけである。
36 教職団体の面における協力
カトリックの教育者が、カトリックの教職組織のほうを好むのは当然であるが、しかしすべての教育団体や教職連盟組織に、他の教育関連団体とともに参加し、協力することもまた、決してカトリックの教育者の役割と無縁なものではない。カトリックの教育者はさらに、国家の適切な教育政策を求めて戦う人びとを、可能なあらゆる方法で支援すべきである。人権とキリスト教的な教育原理を常に考慮していなければならないけれども、他の団体との関係には、労働組合の活動も含まれてよい。信徒の教師は、教職生活が時として、諸団体の活動から全くかけ離れてしまう場合もあり得ることを、忘れてはならない。これらの活動に全然参加せず、あるいはそれについて何ら知るところがないとすれば、この欠落が、重要な教育的問題に対し重大な害をもたらしうる、ということも悟っておくべきである。
そのような活動には報いのないことが多く、成功するか失敗するかは、活動に参加する者の惜しみない努力にかかっていることは真実である。けれども、カトリヅクの教師が無視できないほど重大な問題には、この惜しみない努力が火急に必要とされているのである。
(6) 専門職よりもむしろ召命
37 キリスト教の召命から見た専門家意識
信徒の教育者の仕事は、疑いもなく専門職の一面を持つ。しかしそれは、単なる専門家としての意識にのみ帰することはできない。専門家としての意識が、超自然的なキリスト教の召命によって刻印づけられ、しかもそこまで高められるのである。カトリックの教師の生活は、ただその専門職に従事するのみではなく、教会内での自分の召命を果たすことによって特徴づけられていなけれぱならない。信徒の召命において、我欲からの離脱と寛大さは人権を正当に擁護するものであるが、しかしそれはなおひとつの召命であって、そのことばが示しているとおり、充実した生活と個人的な献身への招きである。情熱に充たされた生活をおくる機会が、広くそこに与えられているわけである。
したがってすべてのカトリック教育者が、この召命の重要性と豊かさ、そして責任を十分に自覚することが望ましい。信徒の教育者はこの召命の要求することすべてに、十分に応えるべきであり、その応答こそ、地上の国の建設とその絶え間ない刷新にとっての、また、世界の福音化にとっての活力源であることを、しかと肝に銘じておくべきである。
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