四 学校で働く信徒に対する教会の援助
71 全教会に求められる支え
学校で職務を遂行する信徒の置かれている情況は千差万別なので、彼らが孤立感に襲われたり、誤解されているような気持を味わうことも多い。そのため落胆したり、時には教える責任を放棄してしまうことさえある。こうした困難を克服するため、もっと一般化して言えば、みずからの召命を生きぬく上での力づけを求めて、学校に働く信徒が、いつも教会全体からの支えと助力を頼りにできるようでなくてはならない。
1 信仰とみことば、そして秘跡にもとづく生活による援助
72 謙遜な信仰・希望・愛
まず何よりも、信徒は自分自身の信仰によって支えられる。信仰は、自分の召命を生きぬくために必要な謙遜、希望、愛の無尽の源泉である。なぜなら、誰であれ教育者が、みずからの限界とあやまちとを認め、自分が常に成長していかねばならず、自分の追求している理想はいつまでも実現しつくせないものと悟るには、謙遜が欠かせないからである。また教育者はみな、堅固な希望を持っていたければならない。というのは、教師とは、生徒のために骨折ったその実りを、みずから刈り入れる者ではないからである。最後にすべて教育者は、常に変わることなく成長していく愛を必要とする。それは、生徒の一人ひとりを、彼が神の似姿として創造されたものであり、イエズス・キリストのあがないの業によって神の子の位にあげられた者として、愛するためである。
この謙虚な信仰、この希望、そしてこの愛は、みことばと秘跡による生活、それに神の民全体の祈りを通して、教会によって与えられている。というのは、みことばは教育者に語りかけ、教育者のアイデンティティとその任務の偉大さを思いおこさせる。秘跡による生活は、教師として生きていく上に必要な力となり、何かの失敗をなしたときには支えとなる。さらに全教会の祈りは、イエズス・キリストが約束された確かな応答に信頼して、教育者とともに、教育者のために、人間の心が希求し嘆願するすべてのこと、かてて加えて、あえて希望も嘆願もしないことまで、神に捧げるからである。
2 共同体による援助
73 信徒教育者の召命に対する正しい評価
教育は、苦労は多いがこの上なく重要な仕泰である。そのため実際に教育するとなると、これはデリケートでしかも複雑である。教育という仕事には、落ち着き、心の平和、過剰負担からの解放、文化と信仰の両面での絶え間ない成長が要求される。だが今日の社会では、以上の条件がすべて同時に整うことは稀である。そこで信徒の教育者としての召命が何であるかは、教会の最適任者たちが神の民に対し、さらにたび重ねて、一層深いところまで説明してよいものである。教育というテーマは、このことばに含まれているあらゆる面にわたって、今まで以上に力をこめて発展させられて然るべきである。それというのも、教育は、教会がその救いの使命を果たす優れた機会のひとっだからである。
74 適度な社会的地位の保障
この点が分かれば、必然的に教育についての望ましい理解と、適正な評価とが生じてくる。すべての信徒は、もしも教育者として働く信徒がいなければ、教会の信仰教育も重要な柱のひとつを欠くことにたる旨、よくわきまえておくべきである。したがって信徒はすべて、当然、教育者がその働きに相応する社会的地位と経済的水準を得られるよう、また、教育者がその任務を果たす上に無くてはならない、物心両面の安定を確保できるよう、力の限り積極的に協力しなければならない。教会の成員は誰であれ、それぞれの国にあって、教育政策の立法化およびその施行が、キリスト教的教育原則をできるだけ反映するように力をつくす戦いから、免じられているなどと考えてはならない。
75 促進すべきカトリックの連盟組織
現代の世界情勢を直視するなら、教導職は、教育に献身する各種修道会とともに、教育にたずさわるカトリック信徒の、すでに存在している数多のグループや運動、また連盟組織を支援していくにちがいたい。その上、さらに他の新しいグルーブを組織して、各時代と、さまざまた国のさまざまな情況に最も適したタイプの連盟組織を、常に求めていくはずである。信徒の教育者の召命は、多くの教育上の目標に加えて、そこから生じてくる社会的および宗教的目標を達成することも求める。だがこれらのことは、結束した連盟組織の力がなければ、実現が不可能なのである。
3 学校白体からの援助−カトリック学校と信徒
76 他の組織の参考となるカトリック学校
カトリック学校の重要性は、この場合、学校以外のカトリックの団体組織が、そこに働く信徒をどのように援助すべきかを示す、具体的実例になりうる点である。本聖省はかつて信徒の教師について語った際、カトリック学校の特徴は、教師のあかしと行動とによって与えられるものであるから、教師こそ何にもまして重要たものである」と、ためらうことなく宣言した。
77 調和のとれた雰囲笥
信徒がカトリック学校に見い出すべきものは、何よりもまず、作為のない敬意と思いやりに満ちた雰囲気である。カトリック学校は、教育者相互のあいだに、ほんものの人間関係が樹立される場でなければならない。司祭、修道±、修道女、そして信徒は、それぞれ独自の召命にもとづくアィデンティティを保持しながら、同時にひとつの教育共同体に完全に統合される。しかもその一人ひとりは、
当然、この共同体の全く同等な成員として扱われるのである。
78 これを達成する手殴
学校の理事とその同じ学佼に働く信徒とが、同じ理想のもとに生きるべきものとすれば、次の二点が重要である。第一に、信徒は、自分が学校で果たす職務に対し、十分に明確肢契約によって保障された、妥当な報酬を受けなければならない。それは、過剰な仕事を負担したり、教育者としての義務をおろそかにしかねない兼職に頼ったりする必要もなく、人間の品位ある募らしを営んでいけるだけの俸給である。これをただちに実現しようとすれば、家庭に非常な財政的負担をかけることになったり、学校の授業料を値上げしたために、それが一部のエリート集団の学校になってしまったりする恐れもある。しかし、真に妥当な額の俸給が支払われない限り、信徒は、その学校の理事会の第一の急務がそれを達成するのに必要な基金をつくり出すことにある、とみなして然るべきである。第二に、信徒は、学校の責任領域に真に参加すべきである。言いかえれば彼らは、必要な能力をあらゆる分野で有しているのであり、カトリック学校を特徴づける教育目標の実現に、真実かかわっているのである。そのため学校は、このような献身を励ますのに役立つ手段はすべて講じるべきで、それがなければ、この学校の種々の目標は、決して十全には実現されえたい。忘れてならないのは、学校というものは常につくられていくものであって、そのなかで役割を分担するすべての人びと、とりわけ教師たちの労苦のおかげで実を結んでいくものだ、ということである。望ましいこの種の参加を実現するためには、いくつかの条件が欠かせない。すなわち、信徒の召命を正しく尊重すること、必要な情報を交換すること、深い信頼感を寄せること、最後に、必要とあれば、学校の授業、管理、運営の責任を信徒の手にゆずること、である。
79 教育者の生涯養成への配慮
学校はその使命の一端として、信徒の専門的および宗教上の生涯養成のために、手厚い配慮を加えるとよい。そうすれば信徒は、進むべき方向と必要な援助を学校に期待できることになるし、また必要に応じ、みずから進んでそのために時聞をさくようにもなろう。生涯養成は欠くことができない。それがなくては、学校は掲げた目標からますます遠ざかっていくことになる。他の教育センターやカトリックの専門組織と協力すれば、必要な養成を提供する講習会、セミナー、その他の会合をたびたび開催することも、カトリック学校にとってさほど困難なことではない。事情によってはこれらの会合に、カトリック学校に奉職していない信徒の教育者を加えてもよいであろう。この人びとにも、必要性を感じながらも他所ではなかなか見い出せない機会が、与えられることになるからである。
80 カトリックの家庭と学校
カトリック学校の絶え間ない向上と、学校が教会の他の教育機関と協力して、信徒の教育者に提供する援助とは、カトリックの家庭−家庭一般、なかでも子どもをこれらの学校へ送っている家庭−の助力に大きく依存している。家庭はあらゆる面、つまり、学校に対する関心、敬意、秘力、経済的支援などの面で、彼らなりに学校を支えていく責任のあることを自覚すべきである。誰もが同じ程度に、あるいは同じやり方で協力することは不可能にちがいない。だがそれにもかかわらず、財力の許す程度に応じ、できる限り寛大に協力する用意がなければならない。家庭の協力は、学校がその目標を達成していく面にも、また、学校の責任領域を分担する面にも及ぶべきである。一方学校側は、その教
育方針がどのように適用され、どのように改善されているかについて、そして教育の実情や管理について、さらに時に応じては経営についても、保護者側に絶えず情報を提供し続けることが望ましい。
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