兄弟の皆さん、もし誰かが不意に誘惑に襲われ罪を犯したなら、聖霊に導かれて生きている人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しい道に立ち返らせなさい。あなたも誘惑されないように、自分に気を付けなさい。互いに重荷を担い合いなさい。そのようにすれば、キリストの律法を全うすることになります。何ものでもないのに、自分はひとかどのものだと思うのならば、自分自身を欺くことになります。一人びとり自分の行いを検討してみなさい。そうすれば、自分にだけは誇れても、他人に対して誇ることはできないでしょう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負っているからです。
(ガラテヤ6:1〜5)

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第2バチカン公会議公文書 
「キリスト教的教育に関する宣言」
および
カトリック教育聖省文書

第2バチカン公会議公文書
「キリスト教的教育に関する宣言」
 
カトリック学校に関連するローマカトリック教会教育聖省からの公式文書
1 第2バチカン公会議 キリスト教的教育に関する宣言
2 教会の宣教使命に適応する学校の宗教教育 
3 カトリック学校 1977年3月
4 紀元2000年を迎えるカトリック学校 1997年12月
5 学校に働く信徒の使命
−信仰の証人として−
 
前のページ 目次 次のページ
 16     W 3 文化の獲得による人間形成の場としての学校 2006年3月8日(水) 
25.カトリック学校は学校である
 
 カトリック学校独自の使命をよりよく理解するためには、まず学校とは何かという基本概念について考察する必要がある。学校本来の持つべき一定の条件を具えていないものは、「カトリック学校」ではありえないからである。
 
学校の一般的目的
 
26.学校とは何か
 
 さまざまな学校の定義や、種々の段階の学校にみられるいろいろな新しい今日的動向を注意深く調べてみると、「学校」とは、生徒の体系的かつ批判的な文化の摂取を助けることによって、その全人間的な教育をはかる場であるといえよう。確かに学校は、若い世代に文化的遺産と生き生きと出会わせて、彼らの全面的な発達を促進するまたとなく恵まれた場なのである。
 
27.人間としての文化の獲得
 
 このような教育を行なうためには、生きた文化との出会いが、学校では生徒自身がそれに触れ、それを修得するという形で実現されねばならない。その時生徒は、絶対的価値をみずからの現実的条件と対決させ、それを現実の中に生かしていこうとするのである。
 実際、文化というものは、それが青少年たちの生きている時代の現実的状況と関連づけられて、初めて教育的価値をもつものとなる。学校は、生徒の知的欲求とか、ものを発見する喜びを刺激し、そのさまざまな実際的体験及び修得したいろいろの知識の意味に目ざめさせながら、逆に出来合いのものを示すにとどまるならば、知性を鍛え活発にしなければならない。もし学校がこの務めを怠り、逆に出来合いのものを示すにとどまるならば、このこと自体が、生徒の人格の発展を妨げることになるであろう。
 
 
学校と世界観
 
28.教育と世界観
 
 以上述べたところから、次のように結論づけられる。学校は、そのよって立つ世界観に則して、内容・方法両面を含む、その人間形成の計画全体を根本的に再検討しなければならない。学校はもともとこの世界観から生まれてきたのであり、学校のすべてはそれを基準とするからである。
 
29.統一的世界観の必要性
 
 教育は価値判断を欠くことができないので、それが明示されるか暗示にとどまるかは別にして、必ず何らかの世界観と結ばれている。そのため、学校という共同体の成員が、たとえ自覚の程度に差はあるにせよ、あるひとつの共通した世界観を持つことは、極めて重要である。すでに、教授活動そのものを統一的に整えようとする場合にすら、それがかかわってくるのである。
 事実、すべての世界観はある特定の価値規準を前提にしているが、人はこの価値規準を信奉し、教師やおとなは、ここから教育者としての権威を得てくる。但し、そこで決して忘れてならないのは、学校は人間の教育を目的として教えているのだということ、換言すれば、人間が外からの権威によってではなく、内側から成長するため、また、人間としての全面的な発達と成長を妨げていると思われるさまざまな絆から彼を解決するためにこそ教授するのだ、ということである。したがって学校のすべての活動は、人間の全面的な発達を意識的に成し遂げるよう整えられた教育プランから、生まれてこなければならない。
 
30.学校の倫理的次元
 
 文化の道徳的・宗教的側面を強調することも、教育機関としての学校の使命である。青少年の精神的活動を鼓吹すること、また彼らが、人間の心理的自由の前提であリ、しかもこれを完成に導く倫理的自由を獲得するよう援助すること、これも明らかに学校の目的なのである。しかしながら、この倫理的自由は、人生に意味と価値を与える絶対的価値に支えられていないなら、誰もこれを獲得できるものではない。ここでことさらこれに言及するのは、教育界においてさえ、世論を価値規準として受け入れる傾向が顕著に認められるからであリ、そこには、現代世界のもっと根本的な必要を見落して、一時的・皮相的な解決に走る危険があるからである。
 
 
現代社会における学校
 
31.真に教育する学校の必要性
 
 現代社会の根本的問題のひとつは、科学と技術の発展にともなって生じてきた非人間化と大衆化の問題である。これにふさわしい対策を得ようとすれば、ただちに、まずもって学校がその本来の使命を果たして、自立精神と責任感に富み、みずからの良心にしたがって、自由に決定の下せる人間を養成することが求められる。このことは、学校を社会の一機関とみなして、そこでこそ青少年が少しずつ現実世界を知り、自分自身の世界観を形成するようになるということを考えてみるなら、いよいよ明らかとなる。
 
32.文化的価値と人生的価値
 
 このように理解するなら、学校は、ただ単に文化的価値のあれこれを選択するのみでなく、生き方に直結した人生的価値をもあれこれと選択していることになる。これもまた、学枚運営の中で効果的に生かされねばならない。そのためには、学校はひとつの共同体として、その成員である教師と生徒とが真に人格的に交わることにより、また個々人としてばかりでなく、その成員すべてが、建学精神にみなぎる世界観をもつことにより、そうした人生的価値を伝えなければならない。
 
 17     X 4 カトリック学校の教育計画(プラン) 2006年3月8日(水) 
カトリック学校の独自性
 
33.カトリック学校の中心であるイエズス・キリスト
 
 カトリック学校の特色を探って、最初に「学校」という観点から考察してきたが、今度は、「カトリック」という特質に目を転じてよいであろう。これは、言い換えれば、イエズス・キリストを中心とした、純粋にキリスト教的な世界観との関連で、これを検討するという意味である。
 
34.福音の精神による教育計画
 
 カトリック学校の、教育計画の土台はキリストである。キリストは、人間が神のような生き方をすること−具体的には、福音の精神にしたがって考え、望み、行ない、その真福八端の教えを人生の指針として生きること−ができるようにすることによって、人間という存在の新しい意味を啓示し、人生の意味を転換させた。ある学校が「カトリック」学校といえるのは、たとえその程度に差はあるにしても、その学校共同体のすべての成員が、キリスト教的人生観を心に抱きながら生きている場合である。それによって福音のいろいろな根本的な教えが、その学校の教育の規律、行動の内的動機、そして窮極目的となるからである。
 
35.キリスト教的教育と全人教育
 
 こうしてカトリック学校は、完全な人間の育成に意識的に取り組んでいる。というのは、人間のすべての価値のあますところのない実現と、その調和ある統一とが見いだされるのは、申し分のない「人間」としてのキリストにおいてだからである。そして、実にここにこそ、カトリック学校の「カトリック」という独自の特色が存在する。またここにこそ、カトリック的特質であるすべての人に奉仕するという使命に忠実でなければならない理由、つまり、人間のさまざまな価値の独立性を尊重しながらこれを涵養し、全人類にこれを役立てなければならない理由がある。実際、人間を高め、その存在に新しい価値を与えて、真に偉大なものとするのは、イエズス・キリストであり、この御方こそ、カトリック学校が生徒たちに紹介する人生の鏡、理想像なのである。
 
36.キリスト教的観点からの文化の獲得
 
 そこで、カトリック学校が、他のすべての学校同様、人間を全面的に発達させるために、文化を批判的かつ体系的に伝達するべきものとするならば、カトリック学校は、この目的を、キリスト教的世界観、それも「文化は人間のすべての召命において重要な位置を占める」というキリスト教的理念にもとづいて達成しようとする。さらに、この世に生きる人間が、キリストによって救われた存在であることを念頭において、キリスト者がキリスト者独自の種々の徳を発展させて、キリストにおける新しい生命を生き、それによって「神の国」の建設に、ともに参加できるよう彼らを教育しようとする。
 
37.カトリック学校の任務
 
 以上の考察を踏まえると、カトリック学校の任務とその教育の内容は、次のように描き出すことができる。すなわち、カトリツク学校の任務とは、一方で文化と信仰を、他方で信仰と生活とを、調和的に一致・統合させることである。そしてこの一致・統合は、前者にあっては、さまざまな分野に及ぶこの世の知識を教材として、これを福音の光のもとで習得することにより、また後者においては、キリスト者の特徴である種々の徳を身につけ、これを養うことにより達成されるであろう。
 
 
信仰と文化の統合
 
38.信仰の光でみた人間的知識
 
このように生徒が自分にさずけられる授業を通して、信仰と文化とを統合するよう援助しようとするのであれば、どのような時にもカトリック学校は、人間的知識の価値を十二分に認め、授業を学校教育に課せられている目標から逸脱させてはならない。
 
39.専門的知識の自律性
 
 そればかりか、カトリック学校は、さまざまな分野に及ぶ人間的知識が、青少年の全面的発達を推進し、信仰を進歩させ深化させうるものとなる為には、それら専門的知識の自律性と、それに固有の方法を尊重することが必要であると考えている。したがって、これらの専門的知識を、単なる信仰のつっかい棒と見なしたり、護教的目的に仕える手段と考えるのは、誤りといわねばならない。学校の授業は、生徒を鼓舞して種々の知識、勉強方法、そして道徳的並びに社会的態度を習得させ、こうして生徒各自が自己の人格を開花させ、社会人間の有能な一員として、社会に奉仕できるようにするのである。とはいえ、これら教授の目的は、ただ単に知識を獲得させるためばかりではなく、同時に過去から伝わるいろいろな価値に目覚めさせ、特に真理を発見させることにある。
 
40.真理の探究とその教授
 教育活動をこのように包括的に捉えるならば、キリスト者である教師にとって、教授とは、生徒を信仰の世界に導き入れ、これに親しませるすばらしい道であり、同時に生徒の習得した人間的知識を、信仰上の真実によってより一層正しい知識とし、これを一層豊かにさせるための、すぐれた道であることが理解されるであろう。実際、教授には、生徒の精神を高めて、信仰の目でものを見るようにする無数の機会が与えられており、こうした機会は、決してなおざりにされてはならないものである。しかしながらこれのみで満足せず、キリスト者である教師は、同じ信仰をもつ生徒が、人間として円熟していくために、教授上、さらに徹底的な方策を探し求めなければならない。教師は、この教授をもって生徒の頭と心を形成し、この教授を通じてこそ、文化によって豊かにされた人間性をあげて、キリストと人格的なかかわりを持てるよう導くのである。
 
41.学校における《真理そのもの》の追求
 
 さらに学校が、人間的知識を万人の見いだすべき真理のひとつと考え、しかもそれらのさまざまな教材が、完全な自由と責任をもって《真理そのもの》を探究し、取扱い、提示している人によって教授されるなら、その学校は、すでにある意味でキリスト教的である。なぜなら、真理を発見し、認めることは、《真理そのもの》の探究へと至らせるからである。そしてまた、教授する専門教科に精通しており、同時にキリスト教的英知を内に秘めている教師は、教える内容のより深い意味を生徒に授け、語る言葉を越えてかれらを《真理そのもの》の核心にまで導くのである。
 
42.他の人間的価値の教授
 
 人間の文化的遺産の宝庫には、特に真理にかかわる価値以外にも、いろいろな価値が蔵されている。もしもキリスト者の教師が、生徒を助けてこれらの価値を理解させ、尊重させ、体得させるならば、この教師は、永遠の価値に向かって、生徒を一歩一歩高め導いていることになる。信仰を養い育てる上で、教示するということがどれほど重要であるかは、人間の知識と価値の獲得を、このようにして《創られざる源》へ向けて導くことを考えれば、明らかであろう。
 
43.教育に携わる人の人となり
 
 このようなカトリック学校に独自の目標が達成されるかどうかは、教育内容とかカリキュラム以上に、そこで教育にたずさわる人物にかかっている。教授が信仰の世界を教示するものであるかどうか、キリストの福音を伝えるものであるかどうかは、教師の能力によって大きく左右される。文化と信仰との一致・統合は、教育を行なう人間自身がもうひとつの統合、つまり信仰と生活との一致・統合を、どの程度なし遂げているかに依存するのである。
 したがって、教育者はその高貴な使命によって、唯一の《師》であるキリストに倣い、ただ単に言葉だけではなくみずからのすべての行動をもって、その生き方全体を通して、キリストの秘義を告知するよう召されている。この点からするど、教科のひとつに宗教科を組み込み、信仰の教育をこれに限っている学校と、その学校の教育全体がキリスト教的精神に貫かれている学校との間には、根本的な相違のあることが明瞭である。
 
信仰と生活の統合
 
44.信仰と生活の一致・統合
 
 教授は容観的な文化の獲得を目的とするが、その使徒的使命から考えると、それは信仰と文化とを一致・統合させるだけでなく、生徒が信仰と生活とを人格的に一致・統合するよう働きかけるものでもある。
 
45.キリスト教的人間の形成
 
 カトリック学校は、生徒をキリスト教に則って、全人間的に形成することをみずからの特別な任務だ、と考えているが、家庭や社会で、このような人間形成が度々無視されることの多い今日、この任務は、以前にもまして一層重要なものとなっている。しかし、カトリック学校は、生徒を信仰と生活との一致・統合に導きながらも、この一致・統合は、神の望まれるままの人間になれるよう、たえず回心をしていくその過程において、初めて実現されることを熟知している。
 そこで、カトリック学校は、生徒が自分のあらゆる生活場面で、神と個人的に対話するように教える。また、個人主義を克服し、信仰の光によって、自分には、他の人々との連帯の中で、責任をもって生きる使命があることに気づくよう導く。キリスト者が、この錯綜した世界に生きるということ自体が、神に仕えるために兄弟の必要に力を尽くし、この世界を人間のよりふさわしい住居にするよう、招いているのである。
 
46.キリスト教的人間への招き
 
 カトリック学校は、生徒が、大自然の語リかけを通じて、そして科学と技術のもたらす成果を通して、神と人間とをより深く知るよう教える。他方生徒は、自分の使命が、この世で生きること働くことを通して、人々の中で神の愛の証しをたてることだということ、そしてその理由は、自分もまた、すべての人の救い主キリストによって真の意味を与えられるこの救いの歴史にあずかっているからだということを、毎日の学校生活の中で体験し、学んでゆく。
 
47.キリスト教的生活の場としてのカトリック学校
 
 カトリック学校は、本当のキリスト者であるためには、洗礼を受けるだけでは充分でなく、福音の精神に含致して生きなければならないことを承知している。そのためカトリック学校のなすべきことは、生徒が自分の信仰をよりよく理解して日々の生活を送り、それにふさわしい心の態度を徐々に身につけ、受洗者としての義務と責任を引き受けることができるよう、学校全体の雰囲気を整えることである。
 また教育に際して忘れてならないのは、キリスト教の教えにしたがって、さまざまな基本的な徳を次第次第に良心に、より堅固に、より深く根づかせて、その良心を形成することである。中でも信仰・希望・愛の対神徳を理解させ特に愛徳において進歩させることである。こうして自分の生命を捧げるまでに愛徳がその人の魂となり、人を、単なる善人からキリスト者へと変えるのである。
 したがって、カトリック学校の教育活動の中心はキリスト自身であり、このキリストの模範にならって、みずからの生活と人生を律しなければならない。教育が単なる人間形成にとどまる他の多くの学校と、カトリック学校との相異は、ここにある。カトリック学校は、キリスト者を養成し、教えと証しを通してあらゆる知識にまさるキリストの秘義を、非キリスト者たちに啓示するのである。
 
48.並立する教育機関
 
 カトリツク学校は、家庭、種々のキリスト教共同体、小教区、青年団、文化及びスポーツの協会や連盟といった、他の教育機関と協力して、その教育の任にあたる。しかしそれと同時に、社会の他の多くの生活圏からの文化的情報を得て、それに参加する機会を見逃してはならない。
 このような「学校と並立する他の教育機関」の存在は、学校をいよいよ重要なものにさせている。そのため学校は計画性をもって批判的に教育することにより、生徒に判断力と自制力を会得させるべきであり、それによって、現代のマス・コミが提供するさまざまな情報の中から、意識的かつ自由に選択できるよう教えねばならない。人間は、これらの情報を個人として批判的に判断し、全体的視野のもとに整理し、まとめ、人間として、またキリスト者として、これらを自分に役立て、同化できなければならないからである。
 
宗教教育
 
49.宗教教育の重要性
 
 カトリック学校の独自の使命は、信仰と文化、信仰と生活とがともにひとつになるために、信仰の光のもとに文化を計画的かつ批判的に伝達し、さまざまな欲求をキリスト教的な徳にまで陶冶することにある。と同時に、教会が伝えてきた、福音の教えを教授することの重要性を見落してはいない。実際、福音の教授は、教育活動の根本的要素なのであり、このような教育によって、生徒は、献身的で首尾一貫した生き方を選択するようになるのである。
 
50.授業としての宗教教育
 
 学校での宗教教育についてはいろいろな問題があるが、今ここでそれらを取りあげるつもりはない。しかし、特に強調しておきたいのは、宗教の教授は、たとえそれが教科課程の中に宗教の時間として組み込まれていない場合であっても、生徒に世俗的一般文化と宗教文化とのバランスを失わせることのないよう、専門的に、秩序正しく授けられねばならない、というこどである。宗教を教えるというような授業は、他の授業とは根本的に区別されるものであって、宗教上の真理をただ知的に承認すればそれでよい、というものではない。むしろ自分の前存在を、キリストというお方に委ねることこそ、その目的なのである。
 
51.宗教的成熟に欠かせない宗教教育
 
 要理教育(カテケージス)に最も適切な場は、家庭である。家庭が他のいろいろなキリスト教共同体、特に小教区の助けを得て、子女に教えることが何よリも望ましい。しかし、その場合でもカトリック学校でなされる要理教育が、生徒の信仰を育て熟させる上にいかに重要なものであるかは、いくら強調しても強調しすぎることはない。
 
52.時代に開かれた宗教の教師と教授方法
 
 それゆえカトリック学校は、教育心理学や要理教授法の進歩と、その成果に注意を怠ってはならないし、とりわけ、管轄教会当局からの指示・指令に対しては、心広くこれを受け入れねばならない。さらに学校は、要理教育を担当する教師の力量を、たえず向上させるようはからって、教会に委ねられた《教え導く》使命がよりよく達成されるよう協力しなければならない。
 
キリスト教的な教育共同体の核心であるカトリック学校
 
53.信仰共同体としてのカトリック学校
 
 このようなわけで、カトリック学校は「教育のすべてを通して、キリスト教的価値の証しをたてようとする人々が集う場所」とならなければならない。カトリック学校は、他のすべての学校にまさって、生きることの意義を伝えることを第一とする共同体でなければならない。というのは、カトリック学校が目指しているのは、上述したとおり、すべての価値の規準であるキリストご自身に、信仰をもって自分を委ねていくことだからである。けれども信仰というものは、日々、あらゆる生活現場で、深い信仰を生きている人びとと出会うことによって得られるものである。キリスト者の信仰は、共同体の中で生まれ、育ってゆくわけである。
 
54.神のみことばによる支え
 
 したがって、カトリック学校にとって共同体という要素が不可欠なのは、ただ他の学校同様、それが人間の本性、及び教育の本質に属するから、という理由だけからではない。それは、信仰の本質からも要求されるものなのである。
 カトリック学校は、独自の教育計画を掲げながらも、それを十分に実現しえていないことを認めている。それでカトリック学校は、共同体として、常にその存在理由を生む源泉に立ち帰り、これを尺度に検討し、ここから新たな力を得る必要のあることも承知している。そしてここにいう源泉とは、キリストの救いの福音にほかならない。それは聖書と聖伝、とりわけ典礼と秘跡のうちに、また福音のみことばを生きぬいた人々、あるいは今日それを生きている人々のうちに表わされている。
 
55.キリストとの出会いの場
 
 たえずみことばに聴き従い、度々キリストと出会っていなければ、カトリック学校はその中心点を見失なってしまう。カトリック学校独自の教育計画を実現するために必要な力は、すべて、キリストとの交わりのみから汲み取られる。
 その上キリストとの交わりがあれば、「学校という共同体の中に、愛と自由という福音的精神のみなぎる雰囲気を作り出す」こともできる。生徒はこのような雰囲気の中で初めて−たとえ、まだ明確には意識していないにしても−人間の尊厳を体験することができる。人間ひとリびとリの尊さを信じ、そのひとりぴとりに神が親しく呼びかけていることを認めるなら、カトリック学校は、生徒が人間として解放され、自覚的に神と対話するもの、神の愛に素直に応えるものとなる上で、独自の貢献をなすものである。
 
56.愛による人々との交わり
 
 カトリック学校は、「キリスト教的実存哲学の中心といっていいこの信仰上の根本的教え」を、その教育活動の土台とする。カトリック学校は、権力と支配の手段として文化を伝達するのではない。むしろ生徒が、さまざまな人と出会って互いによく理解し合えるように、そしてさまざまな出来事と事象を観察して、よりよくものを識るように、その手段として文化を伝達する。カトリック学校は、学問と知識を成功や富を得るための手段と見るのではない。人々に責任をもって仕える義務を、そこに見るのである。
 
カトリック学校の教育計画が含む他の側面
 
57.開放性
 
 もしもカトリック信者たちが、その子どもたちに、カトリック学校で信仰にもとづいた自主的な教育を授けようとして、独自の学校を設立する場合、生徒を閉鎖的にしたり、思い上りを助長したり、不和や対立を増大するような知識を与えようとしてはならない。かえって他の人との出会いを準備し、協同と協力を促進するような教育を施すものであってほしい。他の人々に対して広い心を持ち、かれらの考え方・生き方を尊重し、その心配や希望にあずかりかれらの現実の生活条件や将来の計画に参加する、そういう人物を育ててほしいからである。
 
58.正義
 
 カトリツク学校は、種々のキリスト教的理想に満たされているので、今日、世界中のあらゆる方面から湧き上がっている声、正義の行なわれる社会の実現を求める声を聞きわけ、その招きに応えて正義の確立に力を尽くすはずである。カトリツク学校は、たとえ周囲の人々のメンタリティに対立するような場合でも、正義の要求することを勇気を持って教えなければならない。そればかりか、ただ教えるだけで満足せず、みずからの生活領域の中で、特に毎日の学校生活の中で、それを実行に移すよう努めなければならない。
 ある国々のカトリック学校は、その国の法律・経済事情から、その資金をみずからが確保しなければならず、そのため主に裕福な家庭の子女を受け入れているが、これは正義の証しに添えなくなる危険をはらんでいる。教会が第一に教育という奉仕を向けようとしているのは、「富と財を持たない人々、家族の愛と支えを奪われている人々、あるいは信仰の恵みを知らない人々」なので、こうした状態は、カトリック学校の責任者たちにとって、一層大きな問題となる。教育は、個人にとっても国民にとっても、社会的・経済的な向上に役立つ強力な手段である。したがって、もしもカトリック学校がもっぱら有産階級の生徒を対象に、あるいはそれを優先的に教育しようとするならば、この社会階級の特権を維持させ、社会の不正義に組することになるのである。
 
59.協力の必要性
 
 人間をそのような高さにまで至らせようとする教育計画は、当然、この教育に関係する人々がすべて自由にこれを選んで協力するのでなければ、実現することはできない。それは決して、人に強制してできるものではない。この教育計画は、ひとつの可能性として、ひとつの喜ばしい福音として差し出される。そのため、拒否されることもありうる。しかし、この計画を忠実に実現しようとする学校は、その成員すべての心と信念が一致していることを、あてにできるものでなければならない。
 
学校共同体の全成貝による教育への参加
 
60.キリスト教的な生活様式をもつ共同体
 
 カトリック学校は、はっきリと打ち出された教育計画にもとづき、それを忠実に達成しようとするもので、真正な共同体を形成する。この共同体は、文化の伝達という学校独自の任務を果たしつつ、その成員のひとりびとりが、福音的な生き方をよりよく生きるよう助ける。このような共同体においては、他人を尊敬することは、真にキリストご自身に仕えることであり、互いに協力することは、兄弟愛の精神から生まれてくる。そして共通善を目指して政治に参加することは、神の国を建設する使命を、責任をもって引き受けることにほかならない。
 
61.全成員が担う教育活動
 
 したがって、学校という共同体の全成員−教師、父母、生徒、職員、その他関係者−は、各自の役割と能力に応じて、この共通の教育計画を達成するために、自覚と責任をもって協力すべきであり、これは良心の義務である。福音的精神をもってなされるこの参加は、それ自体すでにひとつの証しであり、この証しは単に共同体の中にキリストを《建てる》のみではない。それは同時に、キリストを輝かすことであリ、万人にとって《しるし》となるのである。
 
教会と社会に仕えるカトリック学校
 
62.学校の分野での教会の代理
 
 このようにしてカトリック学校は、生徒およびあらゆる学校関係者にかけがえのない奉仕をする。そればかりでなく社会に対しても重要な奉仕を行っている。今日社会は、互いの連帯をつくり出そうとする多くの努力と、常に新しい形をとって現われてくる個人主義的な生き方とに、引きさかれている。そのため、この分裂した社会は、カトリック学校を通して、共通善の実現をともに目指すところから本当の共同体が生まれうること、少なくともそれを知ることができる。その上、カトリック学校が文化と教育の世界で、組織的にキリスト教の存在を確立するならば、その存在自体によって、今日の多様化した社会に対し信仰の意義を示し、人類を悩ましているいろいろな問題に、答えを提示することになる。さらに、カトリツク学校は、人類の益を求めて学校と教育という分野に地歩を占め、教会に謙遜で献身的な奉仕を行なうよう召されている。
 
63.真の使徒職
 
 こうしてカトリック学校は、「真の使徒職」を繰りひろげてゆく。実にカトリック学校の使徒職に携わる人は、「教会の必要欠くべからざる任務を果たしている」のである。
 
 18     Y 5 現代におけるカトリツク学校の責任 2006年3月8日(水) 
64.カトリック学校の責任
 
 カトリック学校が、その抱えている種々の問題を克服するには、まず第一に、カトリック学校の使命を達成するために必要な、最上の条件を見いだし、それを実現することが肝要である。その場合に要求されることは、賢明で建設的、しかも勇気と忍耐をもった調査・研究であり、内外からのしかかるいろいろな困難にも、また、最終的にはカトリック学校の廃絶をもくろんでいる「度々使い古されて、かなり常套句となっているスローがン」にも、打ち負かされてはならない。
 こうしたスローガンに譲歩することは、自殺行為を犯すことである。特に学問の領域において教会が、教育機関を備えることに対して、程度の差こそあれ、基本的にこれを拒否することは、「キリスト教会について、現実離れのした危険な幻想を抱いている証拠である」。
 
65.カトリック学校の問題点
 
 教会の教えに導かれたこれらの学校は、幾世紀にもわたって多大の犠牲を払って、その教えを実践に移そうと努めてきた。そうして時と所のさまざまな要求に応えた種々の施設を人類に提供してきた。カトリック学校は、この奉仕の務めをさらに遂行していく義務を感じているが、同時に、自分たちにいろいろな不足があることも認めている。実際、過去と同じく今日も、カトリック学校と呼ばれていながら、カトリック学校を特徴づけるはずの教育計画に充分答えておらず、したがって教会と社会に対して、なすべき奉仕を怠っているように思われる学校がある。
 いろいろな要因を挙げて、現在カトリック学校を悩ませている多くの困難を説明することもできよう。しかしここで、それを細大もらさず調べるつもりはない。ただ、そのうちのいくつかを取りあげて反省と検討を促し、必要なら、勇気をもって改革にとりかかるよう励ましたいと思う。
 
66.学校のアイデンティティー
 
 学校で働いているカトリック信者たちによく欠けていると思われるのは、カトリック学校が本来もつべき独自性をはっきり意識していないことである。カトリック学校と、その他の学校との相異から生まれてくる種々の結果をすべて引き受ける勇気に欠けていることも、挙げられよう。
 とはいえ、今日カトリック学校の任務が、以前にくらべてずっと困難な、複雑なものになっていることは事実である。さまざまな変動が、教会内にも社会にも次々と起こり、中でも多様性(プリュラリズム)と世俗化(セキュラリゼーシヨン)によって、キリストの福音がますます社会の片隅に追いやられている今日、キリスト教自体が、新しい生活様式を求められているからである。
 
67.絶えざる自己批判と脇力
 
 同じ理由から、カトリック学校が、その教育計画に忠実であろうとするなら、絶えず自己批判し、創立の目的と動機を常に想い起こさわばならない。もちろん、こうしたからといって、今日カトリック学校が直面している諸問題が自動的に解決するわけではないが、それらを克服する正しい方策が、教育の新しい動向に対処する中で見いだすことができ、信ずる宗教の如何を問わず、人類の真の進歩のために献身している人々と協力して、初めて得られることであろる。
 そのような協力は、特に、他のキリスト教系の学校との間でなされねばならず、教育の分野においても、キリスト者の一致を促進する必要がある。その上この協力は、公立学校との間にも拡げてゆくべきである。最初は教師同士の接触、出会い、共同研究などから始めれば、やがて生徒同士や家庭間にも、この協力を及ぼすことができるであろう。
 
68.経済上の問題
 
 最後に、法的・経済的事情からくる問題点として右に指摘しておいたことが、もう一度繰り返しておきたい。ある国々においては、法的・経済的事情がカトリック学校の活動を束縛し、特に、あらゆる階層の子女を受け入れることを妨げ、カトリック学校とは富める者の学校だという誤まった印象を与えているのである。
 19     Z 6 カトリック学校が直面している特殊な問題 2006年3月8日(水) 
69.特殊な問題
 
 以上、カトリック学校が抱えているさまざまな困難について考察してきたが、次に学校で働いている人々、あるいは学校の責任者たちが、現在直面している種々の問題をとりあげてみたい。それは、主要なものを列挙すれば、組織と計画、カトリック教育の独自性の確保、修道会経営の学校使徒職、宣教国におけるカトリック学校、教師のキリスト者としての養成、教員組合、経営状態、といった問題である。
 
カトリック学校の組織と計画
 
70.カトリック学校と教導職
 
 第ニバチカン公会議は教導職(ヒェラルキア)と使徒職に携わる者との協力について述べているが、その原則はカトリック教育という場においても適用される。教育共同体を構成する諸グループは、「参加」と「共同責任」の原則にもとづき、それぞれ固有の資格をもって、カトリック学校に関する取り決めや、その実行に参画すが、この原則は、特に、キリスト教的教育計画を案出する時、また、それを実施する段階で必要とされる。
 一方、種々の責任の配分については、補完性の原則が用いられ、この原則にもとづいて教導職は、特に教育の分野の専門家の意見を尊重する。「使徒職を果たす権利と義務は、聖職者であると否とを問わず、すべての信者に共通なものであり、一般信徒も教会の建設に固有の役割リを持っている]からである。
 
71.使徒的委任
 
 第ニバチカン公会議が述べたこの原則は、カトリック学校の使徒職に特別よくあてはまる。カトリック学校の使徒職とは、教授と宗教教育とを、一定の枠づけをもつ教育活動の中で緊密に結び含わせるものだからである。ここに一般信徒の特別な使命が現われてくる。「人間生活の多くの分野が自律化され、その自律化によって時には道徳が宗教的秩序が放棄されかねない今日、キリスト者の生活は、大きな危険にさらされているが、それだけに一般信徒の使徒職は、ますます大切なものとなってきているのである。
 一般信徒としてのこの役割に加えて、カトリツク学校で働いている信徒は、さらに「教会の使徒職に、より直接に協力するよう」召されている。宗教の授業を通してであろ、と、あるいは、もっと広い意味での宗教教育を通してであろうと、彼らは、生徒たちがますます信仰と文化、信仰と生活とを統合していけるように援助する。この意味でカトリック学校は、いわぱ教導職から「委任」された使徒的施設なのである。
 
72.司牧全体への組み込み
 
 この委託された仕事の重要な特色は、「神の教会を導くために、聖霊によって立てられた人々と、一致していることである。この一致の絆は、司牧の全体的計画にも見いだされる。つまリ、「全司教区もしくはその中の特定の地域において、使徒職のあらゆる活動は、司教の指導のもとによく調整され、緊密に関係づけられるべきである。それによって要理教育、布教活動、福祉事業、社会活動、家庭問題、学校教育、その他司牧上の目的を追求するあらゆる事業及び組織が協カ一致させられ、こうして教区の一致を一層はっきり示すのである。この点は、カトリック学校にとって、一層欠かせないと思われる。なぜならカトリりク学校は、多くの場含、「教区司祭、修道司祭、修道者、一般信徒の使徒的協力」の上に設立されているからである。
 
カトリック学校の独自性の確保
 
73.教育共同体全体の責任
 
 カトリック学校の独自性を守リ、これを促進するにはどうすべきか、という問題も、右に述べたことを背景にして考えられなければならない。確かに、カトリツク学校で行なわれる宗教教育の正統性を見守リ、キリスト教的道徳の遵守を監督する貢任は、教会当局が負うものではある。しかし、カトリック学校をキリスト教的教育の果たされる場として確保するのは、教育共同体全体の任務である。
 その点、子どもをカトリック学校に託する信者の両親には、ひとつの特別に重大な責任が課せられている。子どものためにカトリツク学校を選んだからといって、子どもをキリスト教的に教育する義務から解放されたわけではない。彼らには、その教育に対する積極的な協力が求められているのであって、一方では、カトリック学校のキリスト教的教育推進の努力を支え、他方では、参加可能なさまざまな組織を通して、学校がキリスト教的教育の原則に忠実に従っているかどうかを見守るのである。
 この親の役割に劣らず大切な役割を担うのは、教師たちである。彼らは、カトリック学校独自の使命を保ち、促進させ、特にキリスト教的精神を、授業と学校生活全体の中に浸みこませるよう期待されている。カトリック学校の本質にかかわる、そうしたキリスト教的特徴について意見が対立したり、困難な問題が生じた場合には、教会当局はその問題に介入することができるし、また、介入すべきである。
 
カトリック学校と修道会
 
74.修遣会の本来的使命と学校使徒職
 
 カトリツク学校が直面している問題のいくつかは、もともと、教育を使徒職として果たすために創立された修道会のあるものが、社会的・政治的変動によって学校事業を放棄し、他の活動に移ったために生じたものである。またひとつには、修道会の創立精神を調べ、その独自のカリスマに従うように、という第ニバチカジ公会議の勧めによって一部の修道者・修道女が学校事業を放棄したためでもある。
 
75.学校使徒職に対する異議
 
 しかしながら、学校教育という使徒職に対する批判は、検討する必要がある。ある人は、いわゆる、より直接的な宣教に取リ組んでいるが、その場合に、学校における教育の傑出した使徒的価値については、忘れてしまっている。
 また他の人々は、使徒職は共同体として果たすよりも、あるいは、ことさら、そのために設けられた使徒的施設の中で働くよリも、個人的に活動した方がよいと考えている。しかしながら、教育に関しては、共同体として行なう方がどれほど有利であるかは、改めて言うまでもない。
 カトリツク学校の廃校を正当化するために、少なくとも目に見える上では、使徒的成果があがっていないと主張される例も多い。しかし、これは一つの口実に過ぎない。それはむしろ、学校の教育のやり方や生活様式を・全体的に見直す契機とすべきであり、教育者に固有の、謙遜で希望を失わない態度を思い起す機会とすべきである。教育者の仕事は、他の分野では通用する合理的な物差しをもってきても、それで測ることのできないものなのである。
 
76.改造改組
 
 特殊な事情からカトリック学校の組織を変更したり、他の使徒職に転換させる必要があると思われる場合、それが真に得策かどうか、必要かどうかを最終的に判断するのは、その地の教会の正当な長上である。この場合、右に述ベたように、司牧全体を配慮して熟考されなければならない。
 
宣教国におけるカトリック学校
 
77.教国における学校使徒職の留意点
 
 カトリック学校の使徒職は、宣教国においてはよリ一層重要である。教会の歴史が浅く、まだ外国からの宣教師の助けを必要としている国々では、カトリック学校の成否は、多く、それがその地域の必要に適応できるかどうか、にかかっている。例えば、カトリック学校が、個々のキリスト教的共同体としての教会、そして、その国の教会全体の姿を示すことができるかどうか、また、その教育面での実力と、度量の広い他との協力によって、その国全体の進歩発展に寄与できるかどうかによるのである。
 キリスト教的共同体としての教会が生まれたばかりで、まだ教育施設の責任を、直接担うことのできない宣教国では、教会当局がそのような責任を一時的に引き受けて、先に述べたような教育目標に向けてカトリック学校を運営する。
 
カトリック学校の教師
 
78.教師の刷新
 
 カトリック学校の特徴は教師の証言と行動によって与えられるものであるから、教師こそ何にもまして重要な要素である。それゆえ、教師たちがたえず成長しつづけるよう適切な司牧的配慮を怠ってはならない。そのねらいは教師たちを鼓舞して、教室内でキリストの証人となり、教師独自の使徒職にともなう諸問題に取り組ませるようにすることである。問題は特にキリスト教的世界観・教育観にかかわるものであるが、福音の原理に則して授業を行なう方法にも関している。この点、さまざまな段階のカトリック教育施設と、際的な組織を結成するなら、大いに有効であろう。そこで働く教師が連合して、個別の、そして国際的な組織を結成するなら、大いに有効であろう。
 
79.権利と義務
 
 教職員組合は、教育に従事する人々の利益を守るための組織であるが、これについての問題も、カトリック学校独自の使命との関連で考察されねばならない。カトリック学校で働く人々の権利が、真実な正義感覚によって保障されるのは、当然のことである。けれども、かれらの物質的利害、あるいは、その教師としての任務遂行を助ける社会的・道徳的制約を問題にする場合には、第ニバチカン公会議によって明らかにされた原理が、ここにも適用されるであろう。
 すなわち「信徒は、教会に属する者としての権利と義務と、社会の成員としてのそれを注意深く見分けなければならないが、この世のあらゆる事柄において、キリスト者としての良心に従って行動すべきであることを忘れず、両者を一つに調和させることにも努めなければならない」。また「信徒は、現世的な仕事に従事しているときでも、世に福音を告げるための大切な働きをなしうるし、またそうしなければならない」。
 そこで、それぞれの組合において、教師や職員、親や生徒の種々の権利を擁護するために力を合わせて活動するに際しても、青少年のキリスト教的教育に奉仕するという、カトリック学校独自の使命に留意する必要がある。「神の民であると同時に市民でもある信徒は、キリスト者としてのただひとつの良心を持ち、常にこの良心に従って生きなければならない」のである。
 
80.教職員組合の使命
 
 こうして組合は、組合員の権利を擁護するのみでなく、同時に、これら組含員が、カトリック学校独自の使命から生じる責任を分担していることについても、配慮するはずである。カトリック教育に携わるものは、特定の世界観を奉じる学校に、その事情をよく知った上で自由に就職したのであるから、この特質を尊重し、学校の責任者の指導にしたがって、積極的に協カしなければならない。
 
カトリック学校の経営状態
 
81.さまざまな状態
 
 経営面から見ると、カトリック学校の経済状況は、その多くが好転してきており、ある国では全く正常化している。特に政府が、学校の多様性の利点とその必要性を認めている国々では、公立学校と並んでカトリック学校を選択できる政策がとられている。
 種々の助成金制度は、かつては全くの好意から与えられていたのであるが、それが次第に発展して、国家との間に協定、契約、あるいは協約を結ぶに至っている。これによってカトリック学校は、その独自性を保ち、その固有の使命を適切に果たせることとなった。他方、同時に、程度の差こそあれ、国家の学校制度と緊密に緒ばれることとなり経済的に保障され、公立学校に準じた法律的地位を与えられている。
 
82.希望にみちた解決
 
 このような協定は、カトリック学校が果たしている奉仕の、公的性格を認めた政府の好意と、その国の教会当局、あるいは種々のカトリック連合会の、決然とした処置によるところが大きい。こうした解決法があることは、カトリック学校の責任者たち、特に、それなりの数のカトリック学校を全国に散在させるには、今のカトリック信者の力ではなお経済的に困難で、その維持がゆるされない国々のそうした責任者たちにとって、大きな励ましである。
 かれらが確信しておいてよいのは、多くは不正に由来する困難な状況を一掃しようと努めることが、とりもなおさず、生徒ひとりびとりの全面的発達をもたらす教育を、可能にするのであり、そればかりか、その努力は、教育の自由と権利を擁護して、「両親が自分の子どものために、自分の良心に従って真に自由に学校を選ぶことができる」ようにするのだ、ということである。
 
 20     [ 7 刷新への勇気と協力による献身 2006年3月8日(水) 
83.使命の自覚と刷新への勇気
 
 カトリック学校でキリスト教的教師として献身する人は、この使徒職の必要性とその影響力の大きさを、固く確信するようになるはずである。実際、この確信をもってキリストの福音を受け入れる者、この確信のもとに現代の青少年を愛し理解する者、この確信に照らされて人々の真の問題と困難を理解し、識別する者のみが、カトリック学校という使徒的事業の発展に貢献する。かれらは、カトリック学校が、その使命を実践に移し、その高遠な理想とその時代の現実的要求とに適合したいろいろな変革・刷新を行なおうとする時、勇気と大胆さをもってこれを援助するのである。
 
84.恩恵の役割
 しかしながら、カトリック学校の教育的効果は、即時的ないし短時間に測ることはできない。キリスト教的教育においては、常に教師と生徒間の自由な関係が必要な役割を演じているが、それのみでなく、恩恵がともに働いていることも忘れてはならない。しかし、自由と恩恵がその実を結ぶのは、単なる現世的価値判断では測りつくせない霊のリズムによる。恩恵が人間の自由の中に注ぎこまれると、この自由は十全な意味の自由となり、聖霊の自由へと高められる。この、人間を真に自由にする恩恵の力に、意識的かつ明白に協力するなら、その時こそカトリック学校は世界にあってキリスト教のパン種となるのである。
 
85.非キリスト者への奉仕
 
 カトリック学校は、あらゆる人々のうちに聖霊が働いていることを固く信じているので、キリスト者でない人々に、その独自の教育計画と手段とを提供する。もちろんその場合、多種多様の文化圏に固有な、精神的及び遣徳的特質や社会的・文化的価値を十分に認め、これを保持し、推進しながら、そうするのである。
 
86.教育計画への忠実さ
 
 このような観点からすれば、投入できる資力が不足し、教える生徒の数も比較的少数であったとしても、カトリック学校がその存在の価値を決め唯一の条件、つまり、その本来の教育計画に忠実であるという条件を充たすのであれば、決してこの奉仕の務めを放棄すべきではない。他方、この目的への忠実さこそは、カトリック教育機関に再編成や改革の必要が生じた場合に、最も重要視すべき試金石となるのである。
 
87.事業継続の動機
 
 カトリツク学校の責任者たちすべてが、今後、教育の使徒的価値を再発見するまで、みずからの使命について熱考していくなら、それがとりもなおさず、その教育事業をよりよい条件の下で遂行し、それを次の世代に忠実に伝えていく何よりの準備となる。こうして、カトリツク学校によって、数多くの青少年が信仰を成長させ、真理と愛と希望という貴重な宝を受け入れ、これを実現する機会を得ていることを知るならば、かれら責任者たちも必ずや・深い確信と信念が強まり、喜びと犠牲的精神が高まるのを覚えるであろう。
 
88.教師への励まし
 
 カトリツク教育聖省は、カトリック学校がみずからの使命をよく自覚し、その任務をよりよく達成するよう助力するものである。そこで本聖省はやむにやまれず、カトリツク学校に働くすべての人々に対して、今一度心からの激励を送リたい。教会が、自己の唯一の救済的使命を果たすために携わる多種多様な使徒的奉仕の中で、この教育の務めるが、とりわけ重要な位置を占めることは疑いえないのである。
 
89.修道会への励まし
 
 中でも教会は、特別に、聖霊からカリスマを受け、青少年の教育に挺身している各種修道会に対して、信頼と新たな期待を寄せる。かれらが開放的かつ献身的に、その創立者のカリスマに忠実に留まり、教育の奉仕より展々効果的に見える他の使徒的活動の魅力に屈しないで、カトリック学校という教育的使徒職に献身し続けるよう望みたい。
 
90.第ニバチカン公会議の勧め
 
 第ニバチカン公会議が終了して十年あまりを経た今日、カトリック教育聖省は、かって公会議が『キリスト教的教育に関する宣言』を結んだ勧めのことばを、もう一度、カトリック学校にあってその使命の実現に邁進しているすべての司祭・修道士・修道女・一般信徒に与えたい。「自分たちがみずから選んだ任務を寛大な心で果たし、生徒の心にキリストの精神を吸き込むにあたっても、また教育方法論を究め、学問研究を深めるに際しても、すぐれた効果をあげるよう努力すべきことを切望する。これは、教会の内的一新を促すばかりでなく、現代世界、特に知的な分野側に、教会の存在がよい影響を及ぼすためである。」
 

Last updated: 2014/5/12