兄弟の皆さん、もし誰かが不意に誘惑に襲われ罪を犯したなら、聖霊に導かれて生きている人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しい道に立ち返らせなさい。あなたも誘惑されないように、自分に気を付けなさい。互いに重荷を担い合いなさい。そのようにすれば、キリストの律法を全うすることになります。何ものでもないのに、自分はひとかどのものだと思うのならば、自分自身を欺くことになります。一人びとり自分の行いを検討してみなさい。そうすれば、自分にだけは誇れても、他人に対して誇ることはできないでしょう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負っているからです。
(ガラテヤ6:1〜5)

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第2バチカン公会議公文書 
「キリスト教的教育に関する宣言」
および
カトリック教育聖省文書

第2バチカン公会議公文書
「キリスト教的教育に関する宣言」
 
カトリック学校に関連するローマカトリック教会教育聖省からの公式文書
1 第2バチカン公会議 キリスト教的教育に関する宣言
2 教会の宣教使命に適応する学校の宗教教育 
3 カトリック学校 1977年3月
4 紀元2000年を迎えるカトリック学校 1997年12月
5 学校に働く信徒の使命
−信仰の証人として−
 
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 11     [ 教育共同体としての雰囲気 2006年3月8日(水) 
18.結論を述べる前に私たちは、教育共同体の雰囲気と役割について簡単に触れておきたい。それは学生、保護者、教師、管理者、職員という各種の構成員の間の交流と協力によって成立している共同体である。私たちは教育共同体を構成する人びとの中に存在する関係の重要性に注目しなければならない。少年期と青年期のうちは生徒は優れた教育者との間に個人的な関係を体験することが必要で、そこで教えられることは、生徒のその後の自分のあり方、他人との関わり方、一貫した態度、ライフスタイル、日々の行動に大きな影響を与え、人格形成してゆくのである。私たちは個々の役割を尊重すると同時に、共同体的次元も大切にしなければならない。なぜかというと、それは現代における学校の発展のために極めて豊かな経験の一つだからである。また、第二バチカン公会議によれば、カトリック学校の共同体的次元は社会学的なカテゴリーだけでなく神学的にもその根拠を持っていることを忘れてはなるまい。教育共同体は、人間相互の関係を通して、人間のあらゆる面での養成の場としての学校の目的を推進する使命を持っているのである。
 
19.カトリック学校において、「このユニークなキリスト教的な学校の雰囲気を創る第一の責任は、個人として、また共同体としての教師たちにある。」教えるということには特別に道徳的な深みがあり、それは人間の何より優れた創造的な活動である。なぜかいうと、教師は生命のないものの上に書くのではなく、人間の霊そのものの上に書く仕事にたずさわっているからである。それゆえ教師と生徒との関係は途方もなく重大なものであり、単なるギブ・アンド・テークではない。のみならず、教師たちと教育者たちは特殊のキリスト教的な召命に応え、教会の使命にも独特の方法で参加しているのである。「実にカトリック学校がその目的を果たすことができるかどうかは教師たちにかかっている」ということを忘れてはならない。教育共同体における親の役割は特別に大切である。なぜかというと、子どもたちの教育の第一の、また、本来の責任は父母にあるからである。不幸にして現在、このユニークな役割を他に委任する傾向が拡がっている。そのため親がもっと子どもに関わるよう、そのイニシアティブを促進する必要があるが、それと同時に、カトリック学校の教育プロジェクトを通して、家族が必要とし、また家族をも巻き込む正しい種類の具体的なサポートを与えることも必要である。かくて学校は常に生徒たちの家族と連絡を取って対話を交わすことを目指さねばならない。教育プロジェクトが有効に実施されるために必要な個人的アプローチを実現するために保護者の協力は必須である。このようなことは保護者会の育成によって得られるものである。
 
 12     \ 結び 2006年3月8日(水) 
21.教皇はいみじくも、「教会ヘ導く第一の、かつ基本的な道は人間であり、その道はキリストご自身がたどられた道である」ことを指摘された。かくてこの道は福音宣教を行う者と無縁でなくなったのである。その道をたどる時、教育というチャレンジの緊急性に気づくだろう。つまり学校の仕事はかけがえのないものであり、学校に人間的・物質的資源を投資することは預言的選択なのである。紀元二千年の到来を目前に控えて、私たちは「聖霊降臨」であった第ニバチカン公会議において教会がカトリック学校に対して公表した以下の指令の全容を理解するのである。「カトリック学校は、神の民の使命を果たすうえに大いに貢献し、教会と人間社会相互間の利益のため両者の対話に役立つことができ、そのために現代の状況のもとでも極めて重大な義務を有している。」
 
  於ローマ、一九九七年十二月二十八日、聖家族の祝日
 
                    カトリック教育省長官
                     枢機卿ピオニフギ
 
                    カトリック教育省秘書
                     大司教ホセ・サライバ・マルテインス
 13     T カトリック学校 1977年3月 教育聖省 序 2006年3月8日(水) 
 
1.公会議によるカトリック学校
 
 カトリック学校は、第ニバチカン公会議の教会像、とりわけ『教会憲章』および『現代世界憲章』にうたわれた教会像が世の注目を浴びるにつれて、教会にとっていよいよ重要なものとなっている。それについてはすでに、公会議の『キリスト教的教育に関する宣言』で、キリスト教的教育という広い視野から論じられている。本文書は、その宣言の趣旨を発展させながら、カトリック学校に的をしぼって、いっそう詳細な考察を加えようとするものである。
 
2.本文書の内容と意義
 
 改めて言うまでもなく、現代は多様性の社会であってキリスト教的教育は幾多の深刻な問題をかかえている。そこでカトリック教育聖省はなによりもまず、カトリックを称し、カトリック学校と呼ばれる学校の本質と、種々の特色に注意を向けさせることが先決であると考える。とはいえ、その国がキリスト教的伝統を持つ持たないにかかわらずカトリック学校は、さまざまな国情と法律制度のもとで活動せざるを得ない。そのため国別による地域的問題は、各国の教会によりそれぞれの社会的・文化的事情に応じて対処され、解決されねばならない。
 
3.カトリック学校の存在理由
 
 他面カトリツク教育聖省は、この機会に、カトリツク学校のもつ教育的意義を正しく提示して、それらの間題解決に寄与するのも時宜に適ったことだと思う。実にこの教育的意義こそ、カトリック学校の真の存在理由であり、その使徒職の礎にほかならないからである。もとよリ、本文書はそれらの問題の徹底的解明を志すものではない。ただカトリック学校についていっそう入念に究明し、その本来の使命をますます実り豊かなものにするための基本的前提をこに提供したいのである。
 
4.本文書の名宛人
 
 もちろん各国の司教協議会は、どのような種類の学校に学んでいるにせよ、その国のすべてのカトリック青少年に司牧的配慮を向けることがみずからの使命であることは、重々承知していよう。しかし本教育聖省が、本文書をもって各国の司教協議会に懇請したいのは、今日、各種のカトリック学校に学ぶ青少年のすべての教育的要求に応え、しかもそれぞれの学校段階を包摂するような、効果的な教育計画を案出し、その実現に意を用いてほしい、ということである。聖省はまた、両親、教師、生徒、学校管理者など、すべての教育に責任を有する人びとに対しても、カトリック学校が真に市民的かつ使徒的な奉仕を果たせるよう、できる限リの資力と手段とを尽すよう切望したい。
 
 14     U 1 カトリック学校と教会の救済的使命 2006年3月8日(水) 
教会の救済的使命
 
5.神の救済計画
 
 神秘的な愛の計画にしたがって父なる神は、時が満ちるに及んで、地上に神の国を建設して人類の霊的再生を図るため、ご自分の御独リ子をこの世に送られた。そして御子イエズス・キリストは、その救済のみわざを継続するために、聖霊に生かされた教会を目に見える有機体的組織として設立された。
 
6.教会における救いの計画の実現
 
 教会は、この聖霊に導かれて常に自已理解を深め、みずからの本質と使命の秘義に思いをいたしている。教会は、キリストとの生きた関係をたえず新たに発見し直して、「みずからの使命を達成するため、また、こうして人類とのつながりをますます緊密で有効なものとする最善の方途を探し出すために、より大いなる光と力と喜びを見い。だしている。」ここにいう人類とは、教会がその一部でありながら、しかも明確な一線を画するものであるが、教会はすべての人類がひとり残らずキリストのみ恵みに浴しうるよう、これに奉仕するのである。
 
7.人類の救いのために
 
 したがって、宣教こそ教会の使命である。すなわち教会は、すべての人びとに救いの福音を告げ知らせ、洗礼によってキリストに生きる新しい人聞を誕生させ、神の子としての自覚をもって生きるよう教育しなければならない。
 
教会が使命達成のために用いる手段
 
8.教会の使命を担う学校
 
 教会は、その救済の使命を遂行するため、まず何よりもイエズス・キリストが与えられた手段を用いる。しかしそれ以外にも、時代や文化の相違に応じて、その超自然的な目的の達成、及び各人の人格の向上に役立つかぎり、さまざまな手段を援用する。教会はみずからの務めに勤しみながら、これらの手段を、時代の情況の変化や人類の新たな必要に適応させる。多種多様な文化に出会い、人類の絶えまない進歩を前にしても、教会は常にその信仰の告知を通して、「あらゆる時代あらゆる地域の人々に、それのみが人生に十全な意味を与える超越的な目的を提示するそして教会がみずからの学校を設立するのは、実にこの使命を達成するためである。つまリ、学校が真実特定の世界観・人間観・歴史観を育て伝える場であるなら、教会のそれらの学校こそ、人間を全面的に形成する優れた手段である、と考えるのである。
 
 
教会の救済的使命に参与するカトリック学校
 
9.福音とのつながり
 
 カトリック学校は、特に信仰教育の実践を通じて、この教会の救済的使命に参与している。その場合教会は、「キリストの教えにしたがって、人間が真理と恩恵という神の賜物をふさわしく受けるためには、心理面での自覚と健全な道徳意識が、ともに発展させられねばならない」ことを、深く心に留めている。それで教会は、その子らが新しい生命に生まれかわっている事実を、彼ら自身に明確に自覚させることは、みずからの義務であると痛感している。カトリック学校がその目的を、時代の文化的状況とのかかわリの中で見定めるとき、その基準となるものは、信者の心と生活に根づいたキリストの福音にほかならないからである。
 
 
多元的文化と教会の教育的課題
 
10.教会と文化との出会い
 
 教会は、「時代の推移に伴って、絶えず完全な神的真理を目ざしながらも、文化の源泉をやむことなく究め続け、その数々の成果を用いて啓示の理解を一層深め、世界との建設的な対話を実践し続けてきた。今日も、教会を導くのは主の霊である、という信仰の光に照らされて、教会は現代社会に見られるさまざまな出来事、必要、願望の中げ、神のみこころに最もかなう、最も切実な課題を見究めようと努めている。
 
11.多元的文化
 
 現代社会の特徴はいろいろあるが、とりわけ文化の多様性をその特色としている。教会はこうした現代社会の只中にあって、キリスト教的なものの見方考え方が、実際に生かされる必要を認めている。それは、この見方考え方こそが現代の混沌とした思想や行動の渦の中で、健全な判断基準となるものだからである。「人はイエズス・キリストに聞くことによって教えられ、人間を高める価値と、人間を低める価値とを峻別するようになるのである。
 
12.多様性の社会における教育の意味
 
 したがって、教会はこの文化の多様性を前にして、自律性と責任感に富んだ人物を養成するよう、今にもまして力を注がねばならない。それによって彼らは、信仰を麻痺させる相対主義に抵抗し、洗礼時の約束を生き抜くことができるのである。
 その上教会は、この文化の多様性に直面して、本物のキリスト教的共同体を育成するよう求められている。この本当の共同体こそ溌溂としたキリスト教精神に生かされて、この人間世界の建設と発展のために、対話と協力の精神をもって自主的で積極的な献身をなしうるのである。さらに教会は、唯物主義、実用主義、技術主義といった現代の文化的特質に対しても、一同じような教育的努力で立ち向かうよう求められている。
 
13.学校の多様性
 
 教会は、このような文化の多様性と対決する中で、教会自身の目的を守り抜くために、学校の多様化の原理を支持する。つまり、多種多様な学校の共存、そしてもしも可能なら、それら相互間の協力を奨励する。こうして青少年たちに、それぞれに固有な世界観に則った価値観を養成する機会、それと同時に共同体づくりに積極的にあずかる機会、それを通じて、やがては人間社会そのものの建設に活発に参与する準備の機会が提供されるのである。
 
14.学校の多様性におけるカトリック学校の位置
 
 以上の観点からすれば、たとえ様式や可能性は状況によって異なるにしても、カトリック学校が、いずれの国の教育制度にも固有の場を占めることは、いたって当然である。教会は、このような学校を選ぶ可能性を人々に提供することにより、文化の多様性という特徴をもつ現代社会が強く要請している積極的な協カの必要に応えようとする。同時に教会は、その提供を通じて教育の自由を促進し、それによって良心の自由、そして両親がわが子のために、自分たちの教育観により一層ふさわしい学校を選ぶ権利を、支持し擁護したいと思う。
 
15.教育界での教会的存在
 
 最後に教会は、カトリック学校が、現代人に教育をもって奉仕することにより、重要で不可欠な、教会に似た務めを果たしていることを信じて疑わない。実際、教会は、カトリック学校を通して文化との対話に参加し、企画的な人間形成が真に行なわれるよう、教会独自の強力な貢献をする。そのため、もしもカトリック学校が消滅するならば、文化にとっても人類にとっても、また人間の自然的及び超自然的運命にとっても、はかリ知れない大損害となるであろう。
 
 15     V 2 現代のカトリック学校が直面している諸問題 2006年3月8日(水) 
16.カトリック学校への異論
 
 教会の救済的使命から考えて、教会は、カトリック学校こそ教会の成員に十分な教育を施こす特に恵まれた場であり、また、すべての人に提供される最も重要な奉仕のひとつであると見なしている。しかし、だからといって教会は、たとえばカトリック学校そのものの存在意義や、実際上の成果を疑問視する数々の疑念と批判が、いろいろな方面から投げかけられていることを看過しているわけではない。だが、その問題は、現代のような、目まぐるしく根底から変化している社会では、そのすべての学校が直面している問題なのであり、もっと巨視的な観点から論じられなければならない。
 
 
カトリック学校に対する批判
 
17.刷新へのすすめ
 
 カトリック学校をめぐる議論をみると、それらは結局いくつかの批判、難点、反対提案に整理される。これらの異論を心得ておくことは、具体的状況に則した議論を行ない、確固とした視点を得るために必要である。それはまた、教育に携わる人たちが、現代世界の教育に対する要請に応えて、出来るかぎりの力を注ぐよう、彼らを励ますにちがいない。
 
18.組織の拒否
 
 まず第一に、教会内外の、信徒の使徒職について十分な理解をもたない人々は、カトリック学校が組織として存在すること自体を攻撃する。彼らは、教会が成員個々の証しばかりでなく、社会的組織としても証し得ること、たとえば真理の探究に、あるいは福祉・厚生事業にひとつの組織として取り組むことを通じて、世に証し得ることを認めていない。
 
19.転向主義の危険
 
 他のグループは、カトリック学校は一般に開かれた学校でありながら、限られた宗教目的の為に利用している、と批判する。確かにキリスト教的教育は時として誤解され、教化主義に陥ったリ、偏狭で一面的な文化観に導いたリする危険がある。しかしながら、危険があるからといって次の事実を被い隠すなら、それは許されないことである。すなわち、全人間的な教育は宗教的分野を除外できないこと、そして、この宗教的分野が教育全体の中にどのように組みこまれるかによって、人格の他の側面の発達が大きく左右されることである。この事実は忘れられてはならない。
 
20.時代錯誤の教育施設
 
 また他の人々によれば、カトリック学校はもはや時代錯誤的な代物であり、それは公立学校の少なかった、かつての時代には確かに必要な代用品であったが、しかし今日のように国家が教育の責任を負うようになった時代においてはもはやその存在理由は消失した、というのである。実際、学校教育に対する国宗の統制が次第に強化され、表向き思想的に中立な画一的学校が、多くは一方的なやり方で全国に設置されているが、これによって、共通の人生観にもとづいて自然発生的に生じてきた共同体の存立は、危機に瀕している。この事態に直面して、カトリック学校は、教会という共同体に属する人々が、その望みに従って学校を選択できるように、その余地を残しておくのである。
 
 
21.富める者のための学校
 
 ところが、ある国々の教育制度は、多様性の社会において学校を自由に選択できることの価値を考慮していない。そのため、それらの国々におけるカトリック学校は、残念なことではあるが、富裕な社会層の子弟をのみ教育する結果となっている。それでこれらのカトリック学校は、教育によって社会的経済的な差別を維持している、と非難されている。
 
22.教育的効果の少なさ
 
 これらと関連して、カトリック学校の教育の成果にづいても批判がみられる。カトリック学校は一自分の信仰にもとついて生き、政治的・社会的課題に対して十分に準備された本もののキリスト者を育成しえていない、と非難するのである。しかし、この種の不確かさは、およそ教育と名のつく営みにはつきものであリ、実際上のあるいは外面的な失敗によって、意気沮喪するには及ばない。というのは、青少年の受ける教育的影響ははなはだ多面的であり、しかも、長い年月が経た後に初めてその成果が表われることも、しばしばあるからである。
 
23.種々の解決策
 
 以上、カトリック学校に対する異論をいくつか指摘してきたが、これを終えるにあたって、教会の教育事業、つまりカトリック学校が、今日どのような状況の中で教育の営みを進めているのか、改めて考えてみなければならない。それは急速に変化してゆく社会の中での営みであって、学校は、世界中いたるところで深刻に問題化している。それはまた、第ニバチカン公会議の指針にしたがって、開かれた心という雰囲気の中で営まれているが、この指針は度々誇張され、誤解されて伝えられている。さらにこの営みは、人材の確保の面でも財政の安定化の面でも、重大な困難に遭遇している。
 このような状況を眼の前にして、いったい教会は、ある人びとが示唆するように、カトリック学校を放棄すべきなのだろうか。そして教会の勢力を、むしろこれに優先すると思われる領域、教会自身の使命にもっと相応しいと思われる領域での直接的な福音宣布に結集し、教育に関しては、国公立の教育機関に司牧的な配慮と奉仕とを向けるべきなのであろうか。もしも、こうした解決策がとられるならば、それは公会議の指針に反するものである。そればかりか、その解決策は、教会の本来的な使命からいっても正しくない。このことは、以下の考察によって明らかになるであろう。
 
 
今日の学校が置かれている状況
 
24.今日の学校の重要性
 
 カトリック学校の現状を正しく理解するためには、今日の学校が一般的に抱えている問題という一層広範な見地から、これを検討しなければならない。脱学校論者たちの意見(現在その理論はそれほど意味をもっていない)を別にすれば、学校はその果たす役割と有効性によって、現代社会でますます重要なものとなっている。このことは、学校のもつ社会的意義(教育問題への両親の参加、民主化及び機会均等の実現)や、学校が他の教育機関の教育上の役割を次第に吸収していく事実、義務教育年限がさらに延長されていく事実に現れている。
 

Last updated: 2014/5/12