8.決してその全容を示したものではないが、以上述べたカトリック学校の抱える喜びと問題点の概要は、紀元二千年の到来を迎えるにあたって、カトリツク学校が若い世代の教育にどのような貢献ができるかを考えさせることとなるだろう。教皇ヨハネ・バウロ二世も書いておられる。「世界と教会の将来は『若き世代』のものである。それは今世紀に生まれ、新しく始まる一千年の最初の世紀において大人になる人びとのものである。」かくてカトリック学校は、これら若者たちが、技術的・科学的能力に特徴づけられる社会において生きてゆくために必要な知識を獲得する手段を提供しなければならない。しかし、それと同時に私たちは何にもまして、彼らにしっかりとしたキリスト教的な教育を施さなければならないのである。そしてカトリック学校が現代の世界において教育の一つの場であるためには、その根本的な特色を強化する必要があるとの確信を持たねばならない。
人格とその教育
9.カトリック学校は一人格になるための、また人格としての人間のための学校であることをその根本としている。「物質的あるいは精神的ニーズを持った個々の人間の人格こそはキリストの教えの中核である。したがって人間が人格になっていくことがカトリック学校の目標なのである。」この人間とキリストとの間のかけがえのない関係を強調する信念が、人間に関する真理の全容はキリストにおいてのみ明らかになると教えるのである。このためカトリック学校は、人間の全人的発達をその目的とすることにおいて、教会の要請に応え、人間のすべての価値のあますところのない現実と一致がキリストにおいて完成することに気づいている。この気づきはカトリック学校の教育プロジェクトが人格をその中心においていることに具現されていて、その教育的努力を力づけ、強固な人格性の育成へとその努力を導いているのである。
10.我々の時代の杜会的・文化的雰囲気は、「カトリック学校の根本的存在意義と、その本来の使徒職の土台、カトリック学校の価値」を影の薄いものにする危険を孕んでいる。最近は、学校と教育を巡る世論、国際的な組織、諸政府の関心が高まり、以前よりも敏感になっていることは確かであるが、しかし教育を全く技術的、ないしば実用的なものに格下げしようとする傾向が目立っている。教育学と教育に関する諸科学は、深い意味を持つ教育の価値とヴィジョンという本質的なものよリも、むしろ現象学と教授法の研究に注意を多く向けているように思われる。内容をぼやかす危険をもたらすゆるやかで安易な合意が求められ、一般的な価値観によって教育の断片化が行われ、学校は世間が求める中立性に後退させられる恐れがある。このような中立性は、教育によって引き出せる潜在的可能性を弱め、生徒たちの人格形成に否定的な影響を与える。教育は常に、人間とは何か、生きるとはどういうことかについてのはっきりした概念を持ち、それを前提として行われるものであるのに、そのことを忘れる傾向がある。学校が中立を表明するということは往々にして、宗教に関係のあることを教育と文化の領域からすべて締め出す結果を生むことになりかねない。しかしながら正しい教育学的アプローチというものは究極的な人生の目標の中において、より決定的な分野に対して開かれているべきで、それは「いかに」という方法だけでなく、「何故」という理由に触れるものでなければならない。それは教育の中立性の主張についての誤解を正し、知識と獲得した事実との間をさ迷うことから起きる分裂から、教育というプロセスに一致を取り戻すのだ。そして一人の人間をその全き存在、周囲から超脱することができる存在、しかも歴史の中で生きている存在としてクローズアップするのである。キリストの福音に生かされた教育プロジェクトにより、カトリック学校はこのチャレンジを受け止め、「人となられたみことばの秘義によってのみ人間の秘義は明らかになる」という確信をもってそのチャレンジに応えるよう召されているのである。
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