兄弟の皆さん、もし誰かが不意に誘惑に襲われ罪を犯したなら、聖霊に導かれて生きている人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しい道に立ち返らせなさい。あなたも誘惑されないように、自分に気を付けなさい。互いに重荷を担い合いなさい。そのようにすれば、キリストの律法を全うすることになります。何ものでもないのに、自分はひとかどのものだと思うのならば、自分自身を欺くことになります。一人びとり自分の行いを検討してみなさい。そうすれば、自分にだけは誇れても、他人に対して誇ることはできないでしょう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負っているからです。
(ガラテヤ6:1〜5)

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第2バチカン公会議公文書 
「キリスト教的教育に関する宣言」
および
カトリック教育聖省文書

第2バチカン公会議公文書
「キリスト教的教育に関する宣言」
 
カトリック学校に関連するローマカトリック教会教育聖省からの公式文書
1 第2バチカン公会議 キリスト教的教育に関する宣言
2 教会の宣教使命に適応する学校の宗教教育 
3 カトリック学校 1977年3月
4 紀元2000年を迎えるカトリック学校 1997年12月
5 学校に働く信徒の使命
−信仰の証人として−
 
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 6     V 前進をめざして 2006年3月8日(水) 
8.決してその全容を示したものではないが、以上述べたカトリック学校の抱える喜びと問題点の概要は、紀元二千年の到来を迎えるにあたって、カトリツク学校が若い世代の教育にどのような貢献ができるかを考えさせることとなるだろう。教皇ヨハネ・バウロ二世も書いておられる。「世界と教会の将来は『若き世代』のものである。それは今世紀に生まれ、新しく始まる一千年の最初の世紀において大人になる人びとのものである。」かくてカトリック学校は、これら若者たちが、技術的・科学的能力に特徴づけられる社会において生きてゆくために必要な知識を獲得する手段を提供しなければならない。しかし、それと同時に私たちは何にもまして、彼らにしっかりとしたキリスト教的な教育を施さなければならないのである。そしてカトリック学校が現代の世界において教育の一つの場であるためには、その根本的な特色を強化する必要があるとの確信を持たねばならない。
 
 
人格とその教育
 
9.カトリック学校は一人格になるための、また人格としての人間のための学校であることをその根本としている。「物質的あるいは精神的ニーズを持った個々の人間の人格こそはキリストの教えの中核である。したがって人間が人格になっていくことがカトリック学校の目標なのである。」この人間とキリストとの間のかけがえのない関係を強調する信念が、人間に関する真理の全容はキリストにおいてのみ明らかになると教えるのである。このためカトリック学校は、人間の全人的発達をその目的とすることにおいて、教会の要請に応え、人間のすべての価値のあますところのない現実と一致がキリストにおいて完成することに気づいている。この気づきはカトリック学校の教育プロジェクトが人格をその中心においていることに具現されていて、その教育的努力を力づけ、強固な人格性の育成へとその努力を導いているのである。
 
10.我々の時代の杜会的・文化的雰囲気は、「カトリック学校の根本的存在意義と、その本来の使徒職の土台、カトリック学校の価値」を影の薄いものにする危険を孕んでいる。最近は、学校と教育を巡る世論、国際的な組織、諸政府の関心が高まり、以前よりも敏感になっていることは確かであるが、しかし教育を全く技術的、ないしば実用的なものに格下げしようとする傾向が目立っている。教育学と教育に関する諸科学は、深い意味を持つ教育の価値とヴィジョンという本質的なものよリも、むしろ現象学と教授法の研究に注意を多く向けているように思われる。内容をぼやかす危険をもたらすゆるやかで安易な合意が求められ、一般的な価値観によって教育の断片化が行われ、学校は世間が求める中立性に後退させられる恐れがある。このような中立性は、教育によって引き出せる潜在的可能性を弱め、生徒たちの人格形成に否定的な影響を与える。教育は常に、人間とは何か、生きるとはどういうことかについてのはっきりした概念を持ち、それを前提として行われるものであるのに、そのことを忘れる傾向がある。学校が中立を表明するということは往々にして、宗教に関係のあることを教育と文化の領域からすべて締め出す結果を生むことになりかねない。しかしながら正しい教育学的アプローチというものは究極的な人生の目標の中において、より決定的な分野に対して開かれているべきで、それは「いかに」という方法だけでなく、「何故」という理由に触れるものでなければならない。それは教育の中立性の主張についての誤解を正し、知識と獲得した事実との間をさ迷うことから起きる分裂から、教育というプロセスに一致を取り戻すのだ。そして一人の人間をその全き存在、周囲から超脱することができる存在、しかも歴史の中で生きている存在としてクローズアップするのである。キリストの福音に生かされた教育プロジェクトにより、カトリック学校はこのチャレンジを受け止め、「人となられたみことばの秘義によってのみ人間の秘義は明らかになる」という確信をもってそのチャレンジに応えるよう召されているのである。
 
 7     W 教会の中心にあるカトリック学校 2006年3月8日(水) 
11.現代の世界の複雑さは、カトリック学校のカトリツク的アイデンティティヘのよりいっそうの自覚を必要としている。このカトリック的アイデンティティからこそカトリック学校はその独自の特色を打ち出し、"組織"として現実的、かつ特別な司牧の場の一つ、教会の正真正銘の道具であり得るのだ。カトリツク学校は教会の福音宣教の使命に参与し、キリスト教的な教育を実施する特権を持った場でもある。このようにして、「カトリック学校は同時に福音宣教と全人教育の場であり、文化的受肉の場、異なった宗教と社会的背景を持つ若者たちが、活溌な対話を交わす訓練を受ける場でもあり得るのだ。」つまりカトリック学校のカトリック的性質は、教えることを旨とする場としての学校のアイデンティティそのものの中にある。それはそこで行われる教育活動ゆえに、一つの真の正当な司牧的集団となり、「そこにおいて信仰と文化と生活は調和的なものになる」のである。かくて、カトリツク学校のこの教会的ディメンション(次元)は、単なる付加物ではなく、正当かつ特別な役割であり、教育活動のあらゆる瞬間に浸透、かつ充満する独自の特色であり、そのカトリツク性の基礎となるものであり、その使命の中心であることが強調されねばならない。この次元を育成してゆくことこそ教育共同体を構成する全員の目標でなければならない。
 
12.このアイデンティティ故に、カトリツク学校はキリスト教的共同体の中で作られる教会的体験をする一つの場である。しかしながら、忘れてならないことは、キリスト教的共同体の有機的な司牧的活動の中に位置づけられた場合にのみ、学校は教会を体験する役割を果たすということだ。カトリック学校は特別な方法で若者たちにキリスト教的な人間形成を助ける出会いの場を提供することができるのだ。しかしながら不幸にして学校が躍動」する司牧的活動の重要な部分とみなされていない場合があり、ときには共同体とは異質のもの、あるいは異質に近いものと考えられる場含もある。そういうわけで各教区の司牧的共同体の、教育と学校に対する意識を高めることは緊急の要である。
 
13.教会の中で、カトリック学校は何よりまず、多くの修道会が、その独特のカリズマと特別の使徒職に基づいて、教育に惜しみなく奉献したことの目に見えるあかしである。しかしながら、ここにも問題がないわけではない。会員の召命の数が驚くほど減少しているだけでなく、修道会員をして教育使徒職を放棄させる重大な誤解も生じている。言いかえれば、一方では学校の仕事を司牧的な活動と分離させようとする動きがあり、他方では具体的な教育活動を修道生活の特定の要求と両立させることがむずかしくなっているのである。それぞれの修道会の創立者たちが当初持っていた豊かな直感力は、どんな理屈を挙げようとも、このような態度が根拠のない危険なものであるかを雄弁に物語るものである。私たちは教育共同体の中で生涯をささげる修道者の存在が不可欠のものであることを忘れてはならない。なぜかというと、「自らを奉献した人々は、教育活動において特に効果をあげることができる」からである。彼らは、修道的奉献のうちに、自らを他者への奉仕のためにあますところなく無報酬で与える姿を身を以って示している。修道者の存在は、司祭と信徒の教師とともに生徒たちに、「教会のイメージを生き生きと示し、教会の豊かさ」を知らせているのである。
 
 8     X カトリツク学校の文化的アイデンティティー 2006年3月8日(水) 
14.カトリツク学校の性質の中から、教育プロジェクトの極めて顕著な要素の一つ、文化と信仰の統合も生まれてくる。実に、信仰というコンテックスの中で知識は知恵となり、ヴィジョンとなるのだ。個々の教科を貫く理性と信仰を一つに織りなす努力によってそこに一致と統合と連携が生まれ、学校で習ったことの中から世界と人生と文化と歴史に対するキリスト教的ヴィジョンが産み出される。カトリツク学校の教育プロジエクトの中では学習の時間と人間形成の時間は異なったものではなく、また、概念を修得することはそのまま思慮深くなってゆくことなのである。いろいろの科目は、知識を獲得するためにのみあるのではなく、価値を身につけ、真理を発見するためにあるのだ。これらすべては真理探求の雰囲気を必要とする。そこにおいては、確信を持ち首尾一貫した教育者、学問と人生の教師は、不完全ながらも、唯一の師であるキリストの姿を生き生きと写し出しているのである。その意味で、キリスト教的な教育プロジェクトにおいて、すべての科目はそれぞれの異なった内容を持ちながらも、成熟した人間性の形成に寄与し合っているのである。
 
 9     Y 「習を助けることは愛することを意味している」(知恵の書6・17) 2006年3月8日(水) 
15・教会的な次元からもう一つのカトリック学校の特色が生じている。すなわちカトリック学校は万人のためにあり、中でもいちばん弱い者たちに配慮する学校なのだ。過去においてカトリック学校は、その大半が社会的にも経済的にも恵まれない者たちのニードに応えて開設されたものであった。あらためて言うまでもないことだが、本来カトリック学校は勉学の道を断たれ、自分たちで何とかする以外、方法がなかった青少年の教育のために始められている。今日でも、世界の各地で大勢の青少年は物質的貧困のために正規の学校教育を受けることができず、十分な人間的、キリスト教的人格形成を受けられないでいる。他の地域では、カトリツク学校は別の新しいタイプの貧困に直面している。過去においてそうであったようにカトリック学校は現在でも、無知、不信、物質的資源の欠乏に対処することには馴れている。ウルスラ会のシスターたちの教えを受けた十五世紀の貧しい家庭の子女、カラサンツの聖ヨゼフの修道者たちが世話したローマの道を駆け回りながらわめいていた男の子たち、ラ・サール会員がフランスの村々で世話した子どもたち、ドン・ボスコのもとにかくまわれた子どもたちが、今や人生の意味を全く持たず、何らの到達すべき理想を持たない子どもたちとして再び登場している。彼らには何の価値観も示されていない。彼らは信仰の美しさについて何も知らない。その家庭は崩壊していて、そこに愛はなく、物質的にも精神的にも貧しい状況の中で彼ちは社会の新しい偶像の奴隷となっている。その社会が彼らの将来に用意しているものは、多くの場合失業と排斥のみなのだ。カトリック学校はこの新しい種類の貧者たちのために愛の息吹を吹き込むのだ。すべての人のために、特に社会から軽んじられ、貧しくされている人たちに教育の機会を提供すること、社会で働くことができるように彼らを訓練すること、人間としてもキリスト教徒としても彼らを養成することを目的として、カトリック学校は奮起せねばならない。貧しい人、小さくされた人びと、真理を求めている多くの人びとに対するキリストの愛の現れとしての熱意と惜しみない献身の、他に例を見ない融合を、この新旧いずれの貧しさの中にも見いだすことができるし、見いださなければならない。
 
 10     Z 社会に奉仕するカトリック学校 2006年3月8日(水) 
16.カトリック学校は他の教育機関と区別して考えられたり、別個の機関として管理運営されているものではなく、政治にも経済にも文化にも社会一般にも関わって存在している。そのようなカトリック学校としては新しい文化的な状況の中で歩んでゆく覚悟が必要である。教育に関心を寄せている教会共同体の最前線にあって、人間を全体として捕らえていない教育プロジェクトを安易に受け入れることを拒否することによって、教会以外の教育機関の模範ともなり刺激ともならなければならない。このように、カトリック学校の公的役割は明らかである。それは私的なイニシアチブから生まれたものではなく、元来が公的な性格を持つ教会のあり方を表現するものなのである。それは世間に対しても有益な役割を果たすものである。それははっきりと、かつ、たしかにカトリックの信仰に基づく物の見方として位置づけられたものであるにせよ、カトリック教徒だけに限られることなく、そのすぐれた教育プロジェクトの価値がわかり、参与しようとするすべての者のために開かれている。この開かれている事実は、特にキリスト教徒が大多数を占めていない国々および発展途上国において顕著である。これらの国々においてカトリツク学校は、何らの差別を抱くことなく公共の進歩と人間的成長を促進しつづけて来た。さらに、カトリック学校は国公立学校と同様に公的な役割も果たしている。というのはその存在が文化的・教育的多元主義を保証するだけでなく、何よりまず子どもたちに受けさせたいと思う教育を選ぶ家族の権利と自由を保証しているからである。
 
17.かくてカトリツク学校は、国と地方公共団体の権威ある人びととも心を開いて建設的な対話を行う。そのような対話と協力は相互の尊敬に基づいて行われ、各自の役割の認識と人類に対する共通の奉仕の精神に基づくものでなければならない。この目的を果たすために、カトリック学校はその国で生命の尊重と宗教の自由を始めとする基本的人権が守られている場合、それぞれの国の学校制度の中で働き、各国独自の法に喜んで従うのである。カトリック学校の場合に限らず、学校と国家との正しい関係は、相互の関係というよりむしろ、そこにおいてふさわしい教育を自由に選び、それを受ける権利が一人ひとりにあるかどうかにかかっている。この権利は、補完の原理に基づいて行使される。なぜかというと、「市民の自由を保護し擁護することを義務とする公的権威というものは、かくて、分配に関する正義の原則に従わねばならない。それは保護者が各自の良心に従って、子どもたちのために学校を全く自由に選ぶことを可能にする公的補助金を保証することである。」正式の声明という形式的なものだけでなく、このような基本的人権の実効的行使においても、いくつかの国では私立の学校を法律的ならびに経済的に認めるか否かの重大な問題が起きている。私たちは教皇ヨハネ・パウロ二世が最近ふたたび表明された熱い希望に心を合わせ、すべての民主主義国が「私位学校の教育プロジェクトを尊重しつつ、私立学校を平等に扱う具体的な手段を講ずること」を願うものである。
 

Last updated: 2014/5/12