「もし、わたしたちに罪はないというならば、自分自身を欺くことになり、真理はわたしたちの中にありません。罪の告白をするならば、真実で正しい神は、わたしたちの罪をゆるし、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。もし、罪を犯したことがないというならば、神を偽り者にすることになり、神のことばはわたしたちの中にはありません。
(Tヨハネ1:8〜10)

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学校経営 School Management

「カトリック学校としての学校経営の在り方」
カトリック学校としての戦略的学校マネジメントの展開
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 41     (2)カトリック学校の中間管理職(主任・部長)の適正と責任 @学年主任の適正と責任 2010年8月29日(日) 
@学年主任の適正と責任
 学校教育の根幹となる学習指導と生徒指導および進路指導において、最も責任の重い位置づけにあるのが、学年主任であると断言していいのではないだろうか。なぜならば学年主任の職務とは、学校の教育方針に従って直接個々の生徒と接するクラス担任や教科担当教師を具体的に指導・監督する立場にあるからである。つまり学年主任は、より直接的で具体的な日々の教育活動の実践の指導的役割を果たすに当たって、学校の教育方針や校長の掲げる教育目標を具体的に日々の教育活動の中で実践・展開していく責任を負っているのである。そこで、学年主任がどのような人間観をもとに、どのような教育観をもって日常の教育活動の実践に当たっているかと言うことは、その教育機関の教育内容自体に大きく関わる重要なことであると言ってよい。よって、カトリック学校における学年主任は、カトリック教育の根幹である福音的人間観とは何かについてを日頃からよく理解し、理解するだけではなく具体的教育目標や実践目標等を打ち立てて、日々の教育活動の中で福音的人間観に従った教育活動を具現化できなければその職を全うすることはできない。
 
 では、カトリック学校の学年主任がその職を全うするために必要な要件は何であるか以下に列挙しておこう。
 
 1.カトリック教育の根幹である福音的人間観をよく理解し、それに従って福音的教育観が自己の日々の教育活動の教育理念と
   していること。
 2.学習者(園児・児童・生徒・学生)の存在を福音的人間観をもとに捉え、日々の教育活動で学習者に直接触れるクラス担任や
   教科担当教師に対して、福音的教育観に基づいたクラス運営や、授業の実践ができるよう指導・監督できること。
 3.福音的教育観に基づき、学習者一人ひとりと人間的で親密かつ責任ある人間関係を築いていくことができ、また、それを各ク
   ラス担任や教科担当教師が実践できるように指導・監督できる   こと。
 4.学年目標や実践目標等(月間目標や週間目標)に、福音的人間観や福音的教育観に基づいた具体的実践目標を教育目標
   に掲げ、クラス担任や教科担当教師が日々の教育活動の中でそれらをクラス運営や教科指導に反映させることができるよう
   指導・監督できること。
 5.主に自分の学年の学習者に対して、福音的人間観とは何かについて理解させ、学習者個々の存在が福音的価値のもとにあ
   ることに気づかせ、それぞれの自己実現に向かって積極的に学校生活を送り、人生を全うすることができるように指導できるこ
   と。
 6.学習者の家庭環境や友人環境をこまめに把握した上で日々の観察を怠らず、学習者が家庭や学校等の悩みや問題を抱えた
   時、感情に流されることなくそれらの問題を受容するとともに学習者および学年教師団と共有し、学年全体で解決に向けた行
   動と祈りができるよう指導計画を策定し実践できること。
 7.学年集会等で学習者に対して、目に見えないものの大切さ(「絶対者である神」や「愛」、「思いやり」や「優しさ」等)や祈るこ
   との大切さについての指導ができること。
 
 教師とは、それぞれの教育観を持っているので、とかく自己判断の下に行動しがちであるが、カトリック学校の教師はそうであってはならない。特に、学年主任の教育観が個人的なものであっては、カトリック学校の一貫した教育活動を不可能にしてしまい、たとえそれが偏ったものではないとしても、カトリック学校独自の福音的人間観に基づいた福音的教育観でなければ、カトリック教育の実践は不可能になってしまうのである。
 
 よって、カトリック教育の実践に当たっては、カトリック信徒であればそのような問題も生じる可能性は少ないだろうが、未信徒の教員の場合、思想や教育観を強制されるのではないかと言う問題がある。しかし、この問題はカトリック学校の教員採用のあり方において、カトリック教育に賛同できない教員を採用しないか、現行憲法においては、信教の自由や思想・良心の自由が保障されているのであって、それに基づいて様々な宗教団体の教育機関も認められているのであるから、カトリックの理念に基づいた教育活動に従えない教員は自己の教育観にあった教育機関で教鞭を執るべきで、カトリック学校からは去ってもらうしかないのである。もし、そのような問題をカトリック学校の教育現場で抱えているとしたのなら、それはその教員の問題と言うよりは、学校経営方針に従えない教員を採用した理事会にあると言って良い。いずれにせよ、カトリック学校に奉職する全ての教職員は、学年主任のみならず、福音的人間観に基づいた福音的教育観をもって日々の教育活動に一致団結して取り組んでいけるようでなければならない。その中でも特に、学年主任の役割と責任は、学年主任自体もそうであるように、日常の教育活動の中で直接学習者と関わるクラス担任や教科担当教師を指導・監督するという立場にあることから、最も重大であると言うことなのである。
 
 以上、学年主任に求められることを列挙したが、これらのことからも学年主任の適正は、カトリック信徒であるか未信徒であるかに関わらず、福音的人間観に基づいた福音的教育観を教育理念として、日々の教育価活動を実践し、かつそれらを各クラス担任や教科指導教師に指導・監督できる責任を果たすことができるということになる。
 
 42     (2)カトリック学校の中間管理職(主任・部長)の適正と責任 A部長の適正と責任 2010年10月19日(火) 
A部長(分掌(特に指導三部門の部長・主任))の適正と責任
 
 学校組織における組織マネジメント上、重要な要となるのは指導三部門の分掌である。よって各分掌を管理・運営する部長の責任は、教育活動の根幹を形成する上で重要かつ重い。特にカトリック学校における分掌業務は、一般の教育機関で行われる教育活動の管理・運営のみならず、指導三部門においていかにカトリック学校の本来的使命である「宣教師牧」を具現化するかということが問われるとともに、その運営方針は学年運営やクラス運営および学習活動や特別活動など、その学校の全ての教育活動に反映されるものであるから、カトリック学校の教育活動の根幹をなす隅の親石とも言うべきものである。
 
 では、具体的にこれらの指導三部門においていかに「宣教師牧」の実践がどうあるべきかについては既に前述したが、教務部門においては、「2.教務 (1)学習活動 教科における福音的学習指導 (2)特別活動 特別活動における福音的指導 (3)学校行事による福音宣教の実践 (4)福音的カリキュラムとシラバス (5)総合的な学習と福音宣教」、生徒指導においては、「3.福音的生徒指導 (1)福音的人間観 (2)人間の二面性 (3)懲罰とゆるし」そして進路指導においては、「4.福音的進路指導 (1)福音的人間観に基づいた進路指導 (2)福音宣教と進路指導 (3)福音的進路指導と進路実績」の各項目で示した。これらのことを、各分掌の部長・主任はそれぞれの業務に反映させていく責任を果たしていかなければならない。
 
 以下、カトリック学校における分掌の部長・主任がその職を全うするための責任と適正を挙げておこう。
 
 1.カトリック教育の根幹である福音的人間観をよく理解し、それを自己のの教育活動の教育理念として日々の教育活動
   ないし分掌業務に当たっていること。
 2.学習者(園児・児童・生徒・学生)の存在を福音的人間観をもとに捉え、日々の教育活動、特に分掌業務の中に福音的
   教育観を反映させることができるようにすること。
 3.自分の分掌に所属する教員に対して、福音的人間観とは何かについて理解させるとともに、分掌業務を通して個々の
   学習者が、それぞれの自己実現を果たしていくのだということを周知徹底できること。
 4.各分掌における実践目標等(月間目標や週間目標)に、福音的人間観や福音的教育観に基づいた具体的実践目標を
   教育目標に掲げ、全ての教員が日々の教育活動の中でそれらを実践できるよう指導・監督できること。
 5.個々の教員が、福音的教育観に基づき学習者一人ひとりと人間的で親密かつ責任ある人間関係を築いていくことがで
   きるよう、分掌業務を通じて全ての教員に指導・監督できること。
 6.各分掌におけるカトリック学校の本来的使命である「宣教師牧」の実践の実現を果たすために、分掌および全ての教職
   員とそれぞれの分掌における実践目標を共有し、その指導計画を具体的に策定し実践していくことができること。
 7.福音的教育観によるカトリック学校の本来的使命の完成のため、教員個々における教育活動および教師団による教育
   活動が組織的かつ有機的に実践されるよう、各分掌間の連携を円滑に図ること。
 
 分掌業務、特に教務部・生徒指導部・進路指導部の指導三部門は、教育活動の根幹をなす要であるから、この三部門において福音的人間観および福音的教育観に沿った教育活動が企画・運営されてなければ、カトリック学校の本来的使命である「宣教師牧」を果たすことはできない。そのためには、各分掌の責任者である部長・主任が、いかにカトリック教育の根底に流れる福音的人間観を理解し、福音的教育観に基づいた分掌の運営計画を策定し、その実践ができるかということが鍵を握ることになる。「人は人によってのみ教育されることで成長し、完成に導かれていく。」とは、教育における真実の一端を表すものであろう。ならば、カトリック学校の本来的使命である「宣教司牧」の実現は、「カトリック学校の学習者は、福音的人間観を理解し受容した教師に導かれることによってのみ、神から与えられた固有の能力を開化させその使命を果たすことによって、本来的自己実現の完成に導かれていく。」のである。
 
 以上の観点で、カトリック学校における分掌の部長・主任の果たす責任と適正は、カトリック学校の本来的使命を果たすという観点において、学年主任のそれと同様、特に重大であることは言うまでもない。特に、上に列挙したカトリック学校における分掌の部長・主任の果たす責任と適正にていての7つの要件を全うすることは困難を極めるであろうが、カトリック学校の本来的使命である「宣教司牧」の実現のためには、必要不可欠な実践項目である。また、分掌の部長・主任がカトリック信徒であるか否かについても、信徒・未信徒に関わらず福音的人間観に基づいた福音的教育観を教育理念として、日々の教育価活動が円滑に実施できるよう、全ての教員にそれぞれの分掌活動を通して指導・監督できる責任を果たすことができるということが重要なことなのである。よって、学校運営に深く関わる学校組織の責任者は、例外なくカトリック学校の本来的使命である「宣教司牧」の実践を果たすために、福音的人間観に根ざした福音的教育理念を確固たるものとして、各人の職務遂行に専念するということが重要課題となるのである。
 
 また、カトリック学校は、一般の学校教育機関の持つ使命に留まることなく、「宣教司牧」という本来的な使命を帯びている。よって、その使命を果たすために、カトリック学校は学校組織全体を福音的共同体として完成に導いていかなければならず、カトリック学校における部長・主任は、校長・教頭を核にしながら、その導き手・助け手とならなければならない。それが、カトリック学校の部長・主任の果たすべき使命なのである。
 
 43     X.カトリック学校における責任者のあり方 3.カトリック学校の責任者および管理職の評価 2012年10月22日(月) 
3.カトリック学校の責任者および管理職(理事長・園長・校長・教頭・学長等)としての評価
 
 学校教育活動において、教師は定期的にあるいは日常的に授業評価等の勤務評定を管理職や学習者、あるいはその保護者から直接評価されるが、学校経営において経営権・裁量権を持つ理事長・園長・校長・学長等の管理職は、誰からどのように評価されたらよいのであろうか。カトリック学校の本来的目的である宣教司牧の実践と学校共同体を福音共同体に完成させるという観点から考えてみよう。
 
 基本的にカトリック学校の経営責任者は、以下の機関・組織からの評価を受けながら、カトリック学校の本来的目的を果たしていくことが望ましいと考えられる。
 
 1.所属する教区の教区長である司教
 2.所属する小教区の主任司祭および信徒会
 3.理事会
 4.学習者
 5.学習者の保護者
 6.管理職を除く一般教職員
 7.所属する地域社会(町内会等)
 
 以上のような共同体組織・団体をとおして、学校経営者および管理職の経営・管理能力や勤務状況、そして学校という教育機関としての教育効果や教育実績、並びにその年度毎の事業目標の達成度が評価されることによって、カトリック学校に勤務する一般教職員と管理職との評価される者と評価する者との力関係に、一定の均衡をもたらし平等で健全な関係を形作ることになろう。
 
 具体的には、1.の所属する教区の教区長である司教、2.の所属する小教区の主任司祭および信徒会には、カトリック学校としてどのように教会共同体の一部、または教会から派遣された共同体として教区や小教区とのつながりを具体的に持っているかを評価してもらえるだろう。そして、この評価は、カトリック学校がその本来的使命である宣教司牧を生徒やその保護者および教職員に対して実践しているかや、カトリック学校という学校共同体を福音共同体としてどれ位成長させているかを判断できる。
 
 また、4.の学習者や5.の学習者の保護者からは、より明確な教育機関としての教育効果や教育実績
を提示してもらえるであろう。特に、4.の学習者からは日常的な学校生活での関わりから教育者としての評価をもらえるし、5.の学習者の保護者からは、保護者会や式典などの学校行事をとおして、そして何よりも自分の子ども(学習者)の成長をとして、教育者や学校を統括するリーダーとしての経営者もしくは管理職としての評価が受けられよう。
 
 さらに、6.の管理職を除く一般教職員からは、日々の勤務状況から経営者や管理職としてのリーダー性や全教職員の模範となるような勤務態度であるか、傲慢で権力を振りかざすようなパワーハラスメントはないか、一般教職員の意見を吸い上げより民主的で協調性に富んだ健全な職場環境を作る努力が為されているか、そして何よりも日常的に福音的な態度で学習者や教職員に対し接し、学校共同体を福音共同体に導こうとしているかなど、より詳細な評価を得ることができるであろう。
 
 7.の所属する地域社会(町内会等)からは、地域に根ざした教育活動の実践が行われているか、また地域にどのような具体的な貢献がされているかを、校内における教育活動以外のボランティア活動など社会性あるいは社会的行動としてのフィランソロピーや、学校教育機関としてどれ位情報公開が為されているかというディスクロージャー(情報公開)やアカウンタビリティ(説明責任)が十分行われているかなどの判断できるであろう。
 
 そして、3.の理事会からは、学校経営者および管理職としての経営・管理能力やその年度毎の教育効果や教育実績、並びに事業目標の達成度が評価されるだろうし、最終的に理事会は、1.の所属する教区の教区長である司教、2.の所属する小教区の主任司祭および信徒会、4.の学習者、5.の学習者の保護者、6.の管理職を除く一般教職員、 そして7.の所属する地域社会(町内会等)の評価の観点から、学校経営者および管理職として相応しいかなどの総合的な判断をしていかなければならない。無論、学校責任者等の管理職の任命責任や財務管理責任など、最終的なすべての経営責任は、理事会とその最高責任者である理事長が負うことになる。
 
 こうして、経営者や管理職も一方的に評価する者に終始するのではなく、評価する者も評価されることのよって、権力の抑制と均衡が保たれ、健全で協調性に富んだ人間関係や職場環境をつくりあげることができ、学校組織をカトリック学校としての理想的なあり方である福音共同体へと成長させていくための前提条件となるのである。
 
 44     カトリック学校の責任者(園長・校長・学長)の評価と人事考課 2012年10月22日(月) 
3 カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)としての評価と人事考課
 
 カトリック学校に限らず、組織において経営責任者や管理職の評価は必要不可欠であり、かつ健全経営のためには最も重要であると言ってよい。にもかかわらず、学校組織の場合は、会社企業と異なり非常に曖昧な部分があるのが現状である。そして、その曖昧さが如何に学校組織における運営全般の在り方や組織内の人間関係に及ぶまでを不健全にしていることか…。
 
 では、カトリック学校における責任者の評価の在り方が如何にあれば、カトリック学校を目指すべき「福音共同体」の完成に導くことができるのかを考察したい。
 まず、カトリック学校における責任者の評価基準は、次の聖書のカ所に見られると言ってよいであろう。
 
 「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言えあれた。「あなた方も知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうではない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコによる福音書第10章42〜45節)
 
 カトリック学校の責任者とは、学校組織体を「福音共同体」にまで導くことが求められるわけであるから、当然のことながら学校経営者としての手腕もさることながら、上記の聖書のみ言葉に記されているとおり、主イエス・キリストに倣って自校のすべての教職員に仕える謙虚な姿勢と行動が求められる。
 
 では、そのような経営責任者としての姿勢や経営判断および業績を誰がどのような具体的基準で評価するのかということが求められることとなる。一般の会社・企業においては、一般社員は勤務評定や人事考課をもとにそれぞれが所属する上司によって評価され、部長級の管理職は、その上の取締役や社長によって評価される。そして、取締役を始め社長ら会社のトップは、株主総会によって評価されるという構造が明確にある。しかし、学校組織の場合は、本書で何度か触れているように閉鎖社会という特異性を否定できず、カトリック学校も例外ではない。だからこそ、「Z カトリック学校と地域社会 1.社会に開かれた学校としてのカトリック学校 (2)学校の閉鎖性と学校評価およびディスクロージャー(情報開示)とアカウンタビリティ(説明責任)、(3)カトリック学校におけるコンプライアンス(Compliance 法令遵守) 2.カトリック学校とパブリック・リレーション(Public Relation) (2)カトリック学校における社会的責任投資(SRI Socially Responsible Invesment )と適格検査(スクリーニング Screening) [.カトリック学校と理事会および外郭団体 1.カトリック学校と理事会」の観点から理事会の構成を開かれたものにすることや学習者とその保護者および地域社会や教会(小教区や教区)からの学校評価を兼ね合わせることでカトリック学校の経営責任者としての姿勢や経営判断および業績、そして何よりも重要なカトリック学校としての使命である「福音宣教」という観点から公正な評価が可能になると言えよう。なお、カトリック学校における経営責任者の評価においては、「マルコによる福音書第10章42〜45節」の観点からも一般教職員からの評価が加味されることが重要であることを申し添えておきたい。
 
 また、学校に限らず経営責任者は教職員に具体的経営ビジョンや経営目標を提示しなければならない。そして、それら経営責任者が提示した経営ビジョンや経営目標の実現のために、教職員の一人ひとりがどのような貢献や協力ができるのかを明確に提示し評価してもらうのが人事考課というものである。よって、学校経営責任者の明確な経営ビジョンや経営目標がない限り、一般教職員は個々人として具体的に何をすればよいのか、そして教職員団としてどの方向を目指して歩んでいけばよいのかが見えてこないのである。このような観点において、学校経営者の明確な経営ビジョンや経営目標の一般教職員に対する提示が如何に重要なものかが浮き彫りとなってこよう。
 
 経営判断を任された者、裁量権を預かった者の責任は誠に重要・重大である。特にカトリック学校の経営責任者は、その使命である教育活動をとおした「福音宣教」や「司牧」そして学校組織を「福音共同体」へと導いていくという使命を負っているから尚更である。しかし、それらの使命感を果たしていくための気概を持たなければ、カトリック学校の経営責任者は務まらないし、相応しいとは言えない。それが、カトリック学校の経営責任者としての最大の評価基準とも言えるものである。
 
 以下、カトリック学校の経営責任者としての具体的な評価項目としては次の事柄を挙げておく。
 
 (1)「福音宣教」・「司牧」という観点から自校の教育ビジョンを明確化しているかどう か。
 (2)「福音宣教」および学習者の「福音的自己実現」のための具体的教育目標を「福音的人間観」および「福音的教育観」をもとに設定しているかどうか。
 (3)「福音宣教」のための具体的教育活動を明示してどのように実践しているかどうか。
 (4)一般教職員に対しての「福音宣教」やカトリック学校の教職員としての研修をどの程度実践しているかどうか。
 (5)一般教職員とのリレーションシップの形成のための努力と構築をどの程度図り、自 校を「福音共同体」の完成に向けて導く努力をしているかどうか。
 (6)一般教職員に対して福音的かつ公正な評価を実施し、強権的な職務命令やパワーハラスメントはないかどうか。
 (7)カトリック学校に相応しい教育者および経営責任者としての研鑽を積み、それらを一般教職員に反映させているかどうか。
 
 こうして、学校経営責任者も一方的に一般教職員を評価することに終始するのではなく、評価する者も他者や他の機関によって評価されることによって、権力の抑制や均衡が保たれ、健全で協調性に富んだ人間関係や職場環境をつくりあげることができ、学校組織体をカトリック学校としての理想的なあり方である「福音共同体」へと成長させていくことを可能にする前提条件となるのであろう。
 
 
 45     Y.教科・学級担任教員以外の教職員(養護教員・事務・用務等の教職員)の福音的役割 2011年6月3日(金) 
1.学校教育における教科・学級担任教員と養護教員・事務・用務等の教職員との差異
 
 カトリック学校において、そこに奉職する教職員の使命は、それぞれの職務内容がいかなるものであうとも、「福音共同体の一員として、福音宣教と司牧を果たしていくこと」であるというには何ら変わりはない。そして、その使命を果たしていくためには、「カトリック学校に奉職する全ての教職員は、キリストのもとに一致して、学校組織そのものを福音共同体と成長させていくために、協力していく責務を負っている。」のである。
 
 しかし、カトリック学校に奉職する全ての教職員の使命と責務が共通するものであるとしても、各教職員の職務内容によってその使命を果たすための手段や方法、そして学習者に対する接し方や場面がそれぞれ異なってくるのは必然である。たとえば教科を担当する教員であれば、授業をとおして学習者と関わり、授業内容をとおして宣教司牧という使命を果たせるであろうし、学級担任ならば、ホームルーム活動をとおして学習者と関わり、学校行事やLHR等をとおしてその使命を果たすことができるであろう。また、同じように養護教諭であれば、専門的立場からすべての学習者の保健及び環境衛生の実態を的確に把握し、疾病や情緒障害、体力、栄養に関する問題等心身の健康に問題を持つ学習者の個別の指導をとうして、宣教司牧という使命を果たしていく場面が与えられるであろうし、学校事務職員は、庶務・財務・学籍取扱いや校内における諸規定の整備・策定等の業務をとおして学習者と直接的・間接的に関わり、その使命を果たしていけるだろう。さらに学校用務員は、学校の環境の整備その他の用務をとうして学習者と触れ合い、宣教司牧という使命を果たしていけるであろう。
 
 このように、教職員の職務内容が異なれば、同じ宣教司牧という使命を果たすための手段や方法、その場面が違ってくるのと同様に、学習者のそれぞれの教職員に対する受け止め方も異なってくるはずであろう。勿論、それは誰がどの職務に就いていようが、学習者個々人の人に対する受け止め方の差異から生じてくるものもあろうが、学校教育活動における職務内容や学校生活で触れ合う主な場面の違いによって、人間関係の関わり方やつくられ方が変わってくるという要素もあるはずである。
 
 これらの観点において、学習者が学校生活を送る中で、養護教諭や事務・用務等の職員は、教科担任や学級担任の教員とは別な存在であるといえるだろう。それは、養護教員や事務・用務等の職員が一般教員と職務内容が異なるため、ヒューマンリレーションのアプローチの仕方やポジションが、学習者側からも教職員側からも共に異なることによって生じる現象なのではないだろうか。
 
 具体的には、われわれ教科担任や学級担任の教師は、その職務の性格上、学習者を何らかの観点で評価するという立場から離れることはできない。無論、学習者と教師の関係がが評価・被評価という関係に終始することが全てではないにしろ、学校組織が教育活動をその本来的目的とする限り、教師が生徒を「評価する」ということからは逃れることはできないし、現在は学校評価という観点から、学校側も学習者やその保護者あるいは地域社会など、多方面から評価される立場になっているにせよ、学校教育機関の教育活動には評価が不可欠なことであることは、自明のことであろう。しかし、学校教育機関において、その教育効果を評価することそのものが、人間関係を形成する上で障壁となることがあるということも否めない事実ではないだろうか。その点、養護教員や事務・用務等の教職員は、学習者を教科や学校生活における行動等の観点で直接的に評価する機会は極めて少なく、「評価する者と評価される者」というある種の主従関係や利害関係に縛られないで済む。このことが学習者と養護教諭や事務・用務等の教職員が人間関係を形成していく上で、互いにその距離感や価値基準が、主従関係や利害関係が先立つことなく、保護者や友人等の近親者との関わりのように、特に身構えることなく、打算のない平等で養護的な関係でいられるのであろう。そして、これらの要因が学習者と養護教諭や事務・用務等の教職員との人間関係のリレーションの形成を、容易かつ円滑にさせるのだと考えられる。
 
 以上、学校教育における教科担任や学級担任などの教員と養護教諭・事務・用務等の教職員との差異を踏まえた上で、カトリック学校における養護教諭・事務・用務等の教職員の福音的役割を考察してみる。
 

Last updated: 2012/12/3