「もし、わたしたちに罪はないというならば、自分自身を欺くことになり、真理はわたしたちの中にありません。罪の告白をするならば、真実で正しい神は、わたしたちの罪をゆるし、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。もし、罪を犯したことがないというならば、神を偽り者にすることになり、神のことばはわたしたちの中にはありません。
(Tヨハネ1:8〜10)

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学校経営 School Management

「カトリック学校としての学校経営の在り方」
カトリック学校としての戦略的学校マネジメントの展開
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 36     7.「いじめ問題」に対する福音的対処 (2)「いじめ問題」の福音的な具体的対策(防止策と解決策) 2012年9月3日(月) 
(2)「いじめ問題」の福音的な具体的対策(防止策と解決策)
 
 確かに自然法や自然権をもとに発展してきている基本的人権の尊重という観点からも「いじめ問題」の対策は展開できるが、カトリック学校においては万人に共通の権利と言うよりは、人それぞれに与えられた固有の命や能力そして使命をもとにした「福音的人間観」というものを「いじめ問題」対策の根源的な原理・原則とすべきが適当である。よって、カトリック学校の「いじめ問題」防止および解決策のキーワードは「福音」であることを、ここで改めて確認したい。
 
 では、その「福音」をどのように具体的に教育活動の中で展開していけば、「いじめ問題」の防止や解決につなげることができるのであろうか。そこで「いじめ問題」の福音的な対策を、一般的な対策とも合わせて、防止策と対応策という二つの観点から、それぞれそのための児童・生徒等の学習者への指導・教育の点と制度および組織の整備という点で述べることにする。
 
 @「いじめ問題」の福音的および一般的防止策について 
 
 まず、「いじめ問題」の福音的防止策についてであるが、前述したように「いじめ」行為自体は、「人間の二面性や原罪」の観点から推測するに、あるいは過去の歴史を振り返れば、おそらく戦争や内戦そして日常的な諍いや対立と同様に、この世界からなくなることはないだろう。これは決してネガティブな発想というよりは、さまざまな事象が起こる現実社会において、対立や問題そのものがなくなること以上に、それらが解決されていく過程にこそ神の御旨が働き、そこに神の御国へとつづく恵みがもたらされ、神の御計画が完成されると考えるべきだからである。では、そのような根源的な神の御旨と人間存在のあり方や現実社会を踏まえた上で、その防止策を考察してみよう。
 
 先にも述べたように、福音的な「いじめ問題」の対策の原理・原則は、「私たち個々の人間は、神から愛され必要とされながら、望まれてこの世に生まれた存在でり、しかもそれぞれにその人にしかできない大切な使命を神から授かり、その使命を果たすためにそれぞれに特別な能力を与えられているかけがえのない存在なのである。」という福音的な人間観の理解であるから、これを日々の教育活動の中で学習者にどのように伝えれば「いじめ問題」の防止策につながるかということである。
 
 教育活動の主体は学習者とその保護者および教職員(特に教師)であるが、「福音的な人間観」を学習者や保護者に伝えるのは教師である。よって、まずは学習者に関わるすべての教職員が、どれだけ「自己と他者およびすべての人々が、神によって愛され必要とされながら、望まれて生まれたかけがえのない存在である」との自己認識と他者理解を共有し合えるかが重要である。この点においては、カトリック学校において絶対にぶれてはならない「福音的人間観」および「福音的教育観」の原理・原則であって、どのような個人的な信条や思想そして教育観を持っていようが、カトリック学校に奉職する限りにおいて、受容し従わなければならない福音共同体の完成を目指すための普遍的な原理・原則である。(すべてのカトリック学校の採用条件には、「福音共同体の形成や建学の精神にもとづいた教育に賛同し協力できること」とあるはずである。)これにすべての教職員が賛同し従うことなく、それぞれの教育観や価値観あるいは単なる個人的な発想のもとに教育活動が行われることになれば、価値観の相対化や崩壊をもたらして、カトリック学校としての秩序は瞬く間に崩壊し、「いじめ問題」に限らずさまざまな教育問題を誘引することになり、結果的にそれらの問題に翻弄され、福音的な対処できなくなって、最終的にはカトリック学校としてのアイデンティティを自ら失う結果を招くことになるであろう。
 具体的な「いじめ問題」防止策としては、福音的な防止策と一般的な防止策をあわせ、次の通りである。
 
1.教職員間の「福音的人間観」の共通理解と共有および教授法の研究
2.すべての授業(特に宗教科科目と公民科(現代社会・倫理)および総合的な学習)での「福音的人間 観」の教育実践
3.LHR等ホームルーム活動の中での「福音的人間観」をテーマとした教育実践
4.特別活動および部活動をとおしての「福音的人間観」の教育実践
5.祈りの慣行による福音化と内省の習慣化
6.家庭内の福音化と家族間のリレーションシップの強化
7.校内の福音化と教職員間と学習者間および教職員と学習者間、更に学校と保護者間の情報共有とリレーションシップの構築
8.地域社会の福音化と学習者および学校との情報共有とリレーションシップの構築
9.HR通信やデイリーライフまたはSNS等の活字メディアやインターネットを使ったリレーション シップの構築
10.「いじめ問題」に関する生徒の実態・状況把握(アンケート・聞き取り調査等)
11.「いじめ問題」についての学習者および教職員間の話し合いや意見徴収(ディスカッション・ディ ベート・ブレインストーム・KJ法・バランススコアカード等の活用)
12.「いじめ問題」の対応マニュアルの作成と公開
13.学校カウンセラーやソーシャルワーカー配置の充実
14.学校教育問題解決のための第三者委員会(教育オンブズマン)の設置
15.携帯電話・スマートフォン・PC等のインターネット社会のマナーと法律についての教育
 
 実は筆者は、どんな問題にしろ自己理解や他者理解および人間関係において「福音」が実現していれば、その解決にはそれで十分事足りると考えている。しかし、「いじめ問題」などの人間関係上のトラブルがゼロではないにしろ、未然に防げるものなのならば、これに超したことはない。また、現在の「いじめ問題」は、何人も侵すことの出来ない「人間の生きる権利」をも奪ったり脅かす事態に発展しているので、「いじめ問題」予防のための対策は不可欠である。
 
 何といっても、カトリック学校は「福音を宣べ伝えるという使命」を持っているのであるから、すべての教育活動をとおしてその使命が果たされることが望ましいことは言うまでもない。従って、「いじめ問題」においても「福音的な予防」がなされるべきであって、上に列挙した予防方法の『1.教職員間の「福音的人間観」の共通理解と共有および教授法の研究』〜『8.地域社会の福音化と学習者および学校との情報共有とリレーションシップの構築』までは、「いじめ問題」の具体的な「福音的予防策」である。また、『9.HR通信やデイリーライフまたはSNS等の活字メディアやインターネットを使ったリレーションシップの構築』〜『15.携帯電話・スマートフォン・PC等のインターネット社会のマナーと法律についての教育』までは、カトリック学校においても必要な一般的な予防策である。
 
 なお、「福音的ないじめ問題の防止策」の基本姿勢には、それぞれのカトリック学校の主な構成員である学習者・保護者・教職員を如何に福音化(イエス・キリストの福音を述べ伝え、福音的聖心が反映されること)し、カトリック学校の完成体である福音共同体に近づけていけるかということである。そして、その根幹として一つにはカトリック学校の主な主体者である学習者・保護者・教職員が「福音を知り、神の存在に気づく」ということと、もう一つにはカトリック学校の主な主体者間と地域社会および教会との「リレーションシップの構築」である。そして、それぞれのリレーションシップの構築のキーワードは、「挨拶・声がけ・会話・話し合い(議論)」等のコミュニケーションである。人間関係が良好に熟してさえいれば、意見の相違や感情の行き違いなど人間社会のさまざまなトラブルも、どうにか解決していけるものである。
 
 さらに、私たちカトリック学校の教職員が、イエス・キリストのもとに集った福音共同体となることで、私たちの「真の教師であり、真の友であるイエス・キリスト」のために、自らの命を呈して日々の教育活動に専念するのならば、乗り越えられない問題などあろうはずがないのである。私たちカトリック学校の教職員は、毎日の教育活動にあたって「信仰と希望と愛」を固く抱きながら、気概をもって務めていくことが求められている。
 
 
 37     7.「いじめ問題」に対する福音的対処 (2)「いじめ問題」の福音的な具体的対策 A「いじめ問題」の福音的および一般的解決策について 2012年9月6日(木) 
A「いじめ問題」の福音的および一般的解決策について
 
 では、実際に「いじめ問題」が発生したときの具体的解決法を福音的観点と一般的観点から述べる。まず、「いじめ問題」が発生した場合、前項で述べたとおり「いじめ問題」解決のためのマニュアルに従って、関連各部署(校長・教頭・生徒指導部長・学年主任・担任(学年団))が解決のための組織を立ち上げ一致協力して対応していくことである。
 
 対応について第一に重要なことは、当事者であるいじめられた側(被害者)といじめた側(加害者)への適切な対応である。その際に最も注意しなければならないのは、どちらか一方の立場に偏って対応しないことと、もう一つには絶対にやってはならないことが学校組織の保身のための対応をしないことである。この点に関しては後述することとする。
 
 さて、適切な対応とは状況に応じてということであるが、例えば発生した「いじめ問題」が刑法に抵触するような「傷害事件」や「殺人事件」あるいは当事者の「自死」という結果を招いてしまっているとするのならば、学校の範疇を超えているのでやむを得ないが警察や裁判所等の公権力にその対応の多くを委ねざるを得ないということになる。しかし、そういった際にも教師間の共通理解のもと一貫して統一した学習者への適切な対応をしていかなければならない。それは、いじめられた側(被害者)といじめた側(加害者)の学習者と関係保護者への対応とともに、他の学習者とその保護者および一般社会に対しての説明責任を果たすことである。
 
 カトリック学校における「いじめ問題」の解決の原理・原則は「福音的である」ということである。よって、いじめられた側(被害者)本人および保護者の心情を大切に受け止めると同時に、「いじめ」行為によって受けた心的外傷のケアや今後の学校生活の継続に必要なことをサポートすることである。また、いじめた側(加害者)本人と保護者に対しても、できる限り切り捨てることなく自分が犯した罪を認めさせ、反省させ二度と同じ罪を犯さないことを決心させて、改心させることである。そして、被害者とその家族に謝罪させるよう導き新たな人として歩んでいく希望を持たせ、学校生活を継続できるようサポートしていかなければならない。さらに、いじめた側(加害者)に「自己の存在が、他者をいじめ傷つけるためにこの世に生まれてきたのではなく、神によって愛され必要とされながら、望まれて生まれた、かけがえのない存在であって、特別な使命を帯び生かされている存在なのであって、しかもそれは自分自身だけではなく、いじめた相手もそのような大切な存在であるのだ。」という「福音的人間観」を今一度、想起させることである。
 
 「いじめ問題」とは、いじめらたる側もいじめた側も、そして周囲の者たちにも問題が投げかけられていると筆者は考える。そして、「いじめ問題」の最大の問題は、いじめた側(加害者)にあるのだが、それは責任の大きさというよりは、むしろその「いじめ」行為の起因となった理由や要因の根深さにあるのではないかと考える。よって、「いじめ問題」によって救済されるべきは、いじめられた側(被害者)とその保護者のみならず、いじめた側(被害者)とその保護者および関わりのあったすべての学習者とその保護者ではないだろうか。
 
 学校教育現場において「いじめ問題」は、単に被害者と加害者との対峙という関係では終わらないのではないだろうか。特にカトリック学校における「いじめ問題」の解決は、「福音」的でなければならないのであって、しかもイエス・キリストの「福音」は、万人に宣べ伝えられたものであると同時に、「救い」もすべての人々のために開かれているものなのである。よって、カトリック学校における「いじめ問題」の解決は、被害者と加害者のいずれかの立場に立ってなされるのではなく、両者のいずれにとっても「救い」となるようにすすめられなければならないのである。
 
 そこで、カトリック学校における「いじめ問題」の解決は、いじめた側(加害者)を一方的に罰したり裁くことを目的とするのではなく、両者を和解させ、両者の将来に希望をもたらすようになされていかなければならない。よって、決していじめた側(加害者)を罰することに終始するようなことがあってはならないし、いじめた側(加害者)に対する制裁は、「いじめ問題」発生の抑制にある程度役には立っても根本的な解決にはならないし、何よりもいじめた側(加害者)の「救い」にはならないのである。また、いじめた側(加害者)を制裁もしくは報復的に「退学処分」や「自主退学処分」にしたとしても、それは根本的な解決ではなく、単に問題を先送りすることにしか過ぎず、そのような解決方法は「いじめ問題」の膿を残し、新たな問題を生み出す病巣を自らつくり出すことにつながるだけである。更に、わたしたち教師は、「裁き手」ではなくあくまでも教育者であることを見失ってはいけないのである。
 
 また、「W カトリック学校における学校運営 3 福音的生徒指導」でも述べたように、キリスト教的人間観の原点は「原罪」にあるのだから、私たち人間は神によってゆるされることによってのみ、生きて行くことができる存在なのであって、その実践がたとえ人間社会において限界があるとしても、私たちイエス・キリストのもとに集った神の共同体の民は、イエス・キリストが証しした愛と赦しを実践していかなければならない。そのためには困難が幾重にも重なることになるだろうが、私たち人間は自分自身の十字架を背負って生きて行かなければならなず、予期せぬことが起きるのも人生の常というものであるから、どんな出来事で重い十字架を背負わされるか分からないのである。そういう意味においても「いじめ問題」におけるいじめられた側(被害者)もいじめた側(加害者)も、そしてそれらに関わりを持った保護者や教職員等のすべての人々も皆、否応なしにそれぞれの十字架を背負わされることになるのである。そして、それぞれの自らの十字架を背負いながら生きていくことが、イエス・キリストに従う生き方であると同時に、真の「救い」につながる生き方なのである。この苦しみをとおして与えられる「救い」こそが、カトリック学校としての福音的「いじめ問題」の解決に他ならないのである。
 
 第二に重要なことは、「いじめ問題」が発生した際の教職員間の情報の共有と、関係当事者および報道機関に対する状況に応じた適切な情報の公開である。
 
2011年滋賀県大津市立中学校の当時中学校二年生の男子生徒がいじめが原因で自殺した問題で、翌年の2012年2月に男子生徒の両親が、市といじめをしたとされる同級生3人らに7720万円の損害賠償を求め大津地裁に提訴。原告側である両親は、いじめと自殺を関連づける証拠として、学校が行ったアンケートを裁判所に提出。この事件が多くのメディアに取り上げられ、「いじめ問題」に対する世間の関心が高まるとともに、全国のいじめにあったとされる多くの児童・生徒とその保護者が警察に被害届が出され、警察も積極的に捜査に乗り出し文部科学省も積極的ないじめ防止策に乗り出すという事態となった。
 
 この大津市のいじめ問題が現在の教育現場や教育行政に与えた影響や教訓は大きい。その第一は、学校社会の閉鎖性、そして第二には学校と教育委員会との癒着と隠蔽体質である。公立学校の場合、所属の地方公共団体(東京都の場合は区単位)の教育委員会とのつながり、特に人事の面では直結しているといってよい。それは、教育委員会の各部署の重要な人事の多くは事務方を除き、教育現場の教員から選任されているからである。また、各教育機関の長である校長の多くは、例外なくといっていいほど、教育現場から一度は教育委員会に入り、教育行政に携わる経験を踏まえてから現場に戻る仕組みとなっているのである。そして、さらには教育委員会の長たる教育長は、校長経験者から選任されるという仕組みになっているのが一般的であり、このような組織構成が学校教育現場と教育委員会の人事上の強いつながりと癒着体質を形成しているのである。
 
 よって、大津のいじめ問題のような事件が起きると、教育長や校長は互いに組織の体制保持と地位や名誉の保身または責任の回避に傾倒し、その結果真実の隠蔽工作がなされて教育委員会の学校に対する管理・監督機能は消失してしまう結果となり、事実上教育委員会に対する権力の抑制と監視のための機関はないので、両者の不正を暴くことは難しくなってしまうのである。
 
 この大津いじめ事件においての問題点は、いじめ事件に関する校内で実施した聞き取り調査やアンケートの情報が、被害者の保護者に適切に説明されていなかったという学校(長)の不手際という点と、警察にへの被害届提出後の教育長の記者会見での不適切で不明瞭な言動が、なおさら問題を面倒にしたばかりか、学校や教育委員会に対する不信感を事件の関係者のみならず、多くの国民にも抱かせる結果を招いたというところにある。この事件が招いた結果から得た教訓は、「いじめ問題」が発生した際には、いじめられた側(被害者)やいじめた側(加害者)とそれらの保護者の当事者に対する適切で真実な情報提供と説明責任および各メディアに対する状況に応じた適切で事実に基づいた情報公開の必要性ということである。これら三者に対する情報提供や説明責任を適切に果たさないことや提供する情報や発言が二転三転することは、情報の受け手側の疑心暗鬼が深まるばかりか、かえって問題を混乱させ問題の解決を困難にするだけだということである。なお、「いじめ問題」の内容が重大であればあるほど、マスコミはその重大性が故に報道意欲をかき立てられ追求を強めてくるし、週刊誌等のメディアによっては単に興味本位でおもしろおかしく記事を書き上げ、販売部数の増加につなげようとのコマーシャリズムに毒された輩(メディアや記者)もいるので、報道各機関に対する情報提供や説明責任の実施においては、慎重過ぎるほどの厳重な注意・対応が求められる。
 
 勿論、カトリック学校の「いじめ問題」の解決にあたっても上述のような点に無関心でいるというわけにはいかない。なぜならば、日本のカトリック学校は私立学校であるから、私立学校にとって学校の評価や評判は、生徒募集に即時反映されるので、学校経営上の死活問題となる。よって、「いじめ問題」が発生することは、学校評価や評判を著しく低下させることにつながるので、事実の隠蔽や歪曲が発生する危険性を常に孕んでいるのである。事実、2012年7月に宮城県仙台市の私立高等学校では、「いじめた生徒」ではなく、「いじめられた生徒」が自主退学を迫られ転校させられるという事態が報道されている。このような私立学校における「いじめ問題」のケースでは、「いじめられた生徒」にせよ、「いじめた生徒」にせよ、「いじめ問題」が発生したという事実が外部に知れることが学校側にとっては不都合な事実・事態であり、「いじめ問題」を告発する可能性のある「いじめられた生徒」を在学させておくよりは、「いじめた生徒」を学校で保護・監督しておくことの方が、学校にとっては得策であるとの判断が働いたのであろうと想像できる。これでは「いじめられた生徒」にとっては、被害者にもかかわらず弱り目に祟り目、理不尽以外の何ものでもない。
 
 このように、私立学校においても「いじめ問題」は学校経営上、負の方向に働くと判断されがちで、ややもすると誤った決断が下され兼ねないばかりか、最も大切にすべき学習者を犠牲にしてしまう危険性を否定できないという可能性があるのだ。よって、カトリック学校もその危険性や誘惑に曝されている存在である私立学校であるとの自覚を忘れることなく、厳重な注意を怠らないように努め、さらにイエス・キリストの「福音」を宣べ伝えるためのカトリック学校であることを常に念頭に置きながら、「いじめ問題」に関わる当事者に「救い」をもたらすように対処していかなければならない。
 
 なお、「いじめ問題」発生確認後の福音的および一般的な解決法の手順を列挙しておく。
1.あらかじめ決められていた「いじめ問題」解決のための組織(いじめ対策委員会=仮称)を立ち上げる。(真っ先にいじめられた側(被害者)およびいじめた側(加害者)の保護者の協力を得て、不測の事態を防ぐため(特に自死の可能性)学習者それぞれの保護に当たる。)
2.解決のためのマニュアルに従って、解決の手段と役割分担を確認する。「いじめ問題」が刑事事件に発展した際は、報道各機関のマスコミ対策は初期の段階から備えておくことが肝要である。
3.「いじめ問題」当事者(学習者)各人および当事者全員での事情聴取をそれぞれ実施し、事実関係を確認する。
4.関係当事者のクラス担任と学年主任および他の教職員から事情聴取を実施する。(この際、「いじめ行為」を把握していたかどうかが焦点となる。)必要であれば地域社会の協力も得る。
5.関係当事者の保護者を招集し、学習者からの事情聴取で判明した事実確認をした上で、関連するその他の情報がないかどうかを確認する。
6.第三者(当事者のクラスの学習者やその他の目撃情報を持っている者)からの事情聴取。
7.関係当事者(学習者と保護者および教職員、その他)からの事情聴取した内容を、いじめ対策委員会で付き合わせ、事実の特定と情報を共有し解決策の基本方針を決定する。
8.職員会議を開き、「いじめ問題」の報告と解決方法の基本方針および情報の共有といじめ対策委員会で決定した解決策に対しての審議や意見聴取を行い共通理解を図る。教職員の守秘義務および情報提供の一本化を確認する。
9.関係当事者(学習者と保護者およびいじめ対策委員会、その他)を招集し、校長より事実確認と謝罪および今後の解決基本方針を伝達・説明し、学習者やその保護者から意見聴取をする。(この際、被害者と加害者およびその関係者が同席することが出来ない場合は致し方がないので個別に実施する。)
10.全校集会および保護者会を開き、校長は学習者と保護者に情報提供と説明責任を果たし謝罪する。
関連する情報や意見があれば聴取する。
11.いじめられた側(被害者)およびいじめた側(加害者)に対する今後の具体的な指導をそれぞれに説明し、学習者と保護者の同意を得る。(この段階では、被害者と加害者は敢えて同席する必要はない。)
12.必要に応じて(刑法に抵触するような犯罪行為に至った場合)記者会見を開き、適切な情報公開・提供および説明責任を果たす。(この場合、決して事実の隠蔽や歪曲および責任回避をしてはならない。)
13.いじめた側(被害者)に対しては、精神的ケアを中心に学校生活に復帰・継続できるように指導していくが、その際学校カウンセラーやソーシャルワーカーまたは担任教師や学年主任、その他の希望する教師など、なるべく多くの選択肢を用意し当事者本人および保護者に選ばせるようにする。そして、新たな人間となって、たくましく生きる力を身につけて学校生活に希望を持って継続していけるように指導することが大切である。そして、「福音的人間観」および「原罪」の観点から、いじめた側(加害者)を将来的に赦し、和解することが出来るようになることが最終的な指導の目標である。
14.いじめた側(加害者)に対しては、自分が犯した罪を自ら認めることができるよにさせ、罪を痛悔し相手とその保護者に謝罪するとともに、二度と同じ罪を犯さないことを心から決心し、罪の償いに相応しい作業や労働、または必要に応じて懲戒を与えて改心させることが肝要である。(ただし、懲戒は極力強制的・自主的な退学処分(転校処分を含む)は避けなければならない。カトリック学校における「いじめ問題」の解決とは、イエス・キリストをとおした「赦し」と「救い」そして「和解」につがるものでなければならないので、学校を退学・転校させることは「福音」的で根本的な解決にはならない。)そして、新たな人間となって学校生活の復帰と継続に希望を持って臨めるように指導することが大切である。また、いじめた側(加害者)にとっても将来的にいじめた側(被害者)と和解することが最終的な指導の目標であるが、いじめた者(加害者)の改心が一連の指導によって、いつの日にか「回心」へと止揚することが、真に「福音」的な解決であったことの証となるであろう。
15.関係当事者(特にいじめられた側(被害者)といじめられた側(加害者)との和解(「赦し」と「救い」)の実現。
 
 なお、どのような不測な事態においても、それぞれの状況に応じて対応できるための学校組織マネジメントや危機管理体制を備えておかなければならないが、あくまでも第一に考えるべきは学習者に対する「福音」的な教育的働きかけであることは言うまでもない。
 
 38     X.カトリック学校における責任者のあり方 1.カトリック学校の責任者の資格と適性 2009年10月21日(水) 
1.カトリック学校の責任者の資格と適性
 
(1)カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の資格
 
 ここで述べるカトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の資格とは、学校教育法施行規則や教育職員免許法に定められているところの教育機関監督者の資格をいうのではなく、あくまでもカトリック学校としての本来的使命やアイデンティティ並びにその独自性を教育活動の中に反映させていくことが出来る者に与えることができるとした資格ということである。
 
 カトリック学校の本来的使命またはアイデンティティ並びにその独自性は、福音宣教と司牧という二つの点に集約できるが、この観点からカトリック学校の責任者の資格や条件を考えれば、カトリック学校の責任者は司祭等の聖職者か修道者であることが最も望ましく、諸事情によりやむを得ない場合はカトリック信徒の教員等から代替え措置として選任しなければならない。
 
 カトリック学校の責任者が、司祭等の聖職者か修道者もしくはカトリック信徒でなければならないその第一の理由は、カトリック学校の本来的使命であるキリストの福音を述べ伝えるということは、まさに信仰を伝えるということに他ならないわけであるから、福音そのものを単なる知識として捉えることなく、福音を信じ行うという個人の信仰そのものが問われるということなのである。よって、イエス・キリストに対する信仰なくしては、福音を述べ伝えるということは不可能であり、信仰を持ち得るからこそ他者に伝えることができるものであって、そもそも人は持っていないものを他者に伝え引き継ぐなどというは、物理的に考えても不可能なことは、至極当然なことなのである。
 
 その第二の理由は、カトリック学校に学ぶ学習者とその保護者等の関係者を、イエス・キリストの共同体である教会に招かれた存在として司牧するというもう一つの使命から考えると、これもまた信仰や秘蹟そして教会共同体に対する深い理解が求められるわけであるから、単に学校教育法や校長職の規定および学校管理職としての職務を遂行できるだけでは全く不十分であり、カトリック学校の校長職の資格条件を少しも満たすことにはならないのである。
 
 その第三の理由は、カトリック学校の使命である宣教司牧とは、命をかけるだけの気概と召命観なくしては、達成できるものではないということである。よって、この理由からもカトリック学校の責任者が、司祭等の聖職者か修道者であることが、最も望ましということは明白である。カトリック学校の責任者の使命というものは、どんなに敬虔深い信仰心を持ち、教育活動に熱心で経験豊かなカトリック信徒の教員であろうとも、さまざまな世俗にしがらみを持ちながら生きる人間には、そうそう簡単にやり遂げることができるものではないのである。だから、諸事情により、聖職者や修道者が責任者を担うことが出来ない場合は、教育活動に経験豊かなカトリック信徒の教員等から、やむを得ず代替え措置として責任者を選任しなければならないということになるのである。
 
 では、カトリック学校の責任者が、司祭や修道者やまたは教育活動に経験豊かなカトリック信徒であれば誰でもいいのかというと、そうではない。これらに該当する人たちは、たとえ信仰心を持ち合わせていたとしても、その信仰自体が、どのような方向に向けられた信仰であるのかということが問われるのであって、あくまでもカトリック学校の責任者としての信仰の方向性は、カトリック学校の本来的使命である福音宣教と司牧という方向に向けられているということが、カトリック学校の責任者としての重要な要件なのである。
 
 以上、資格とはある一定以上の知識や技術を習得した者に与える許可証と理解できるが、カトリック学校の責任者の資格とは、カトリック学校の本来的使命またはアイデンティティ並びにその独自性である「福音宣教と司牧」(宣教司牧)の実践を、教育活動の中で具現化し完成の方向性に導くことの出来る信仰と気概を持った聖職者や修道者であるか、諸事情によりそのような聖職者や修道者が、どうしてもいないというやむを得ない場合にのみ、それぞれの教育活動に精通し熱心で経験豊かなカトリック信徒の教員等で、上記のこと柄が実行可能な者ということになる。また、カトリック学校の責任者としての用件には資格のみならず適正もその重要な要素となるから、このことについては次に後述する。
 
 39     X.カトリック学校における責任者のあり方 (2)カトリック学校の責任者の適性 2010年1月22日(金) 
(2)カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の適性
 
 カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の適性は、次の7項目にまとめられる。
 
 1.キリストの教えに基づいた福音的人間観・教育観をもとに教育活動を堅持できること。
 2.カリスマの所有と自己認識およびカリスマに基づいた使命観の自覚があること。 
 3.カトリック信徒として、教会共同体との関わりを持っていること。
 4.組織や人を指揮・統率するだけの高いリーダーシップ性と責任能力等を所持していること。
 5.学校教育活動に教師として従事した実務経験が十分にあること。
 6.管理者としてのマネジメント力を持っていること。
 7.教育者としての人間的包容力があること。
 
 カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の適性の第一は、キリストの教えに基づいた福音的人間観および教育観をもとに教育活動を堅持していけることである。
 
 福音的人間観および教育観については、この著作の随所で触れてきたことであるが、「福音的人間観」とは、私たち人間は、神の御旨に従ってその御計画の実現のために、その人固有の使命と命を与えられ、神に望まれて誕生した者であるということである。そして、主イエス・キリストに倣い、自分の命を捨てその使命を果たすが故に、永遠の命を与えられ天の国に入ることができるよう招かれているというものである。そして、この福音的人間観をもとに、学習者一人ひとりを神さまの子どもとして捉え、それぞれの使命と命を全うしていけるよう司牧するということが福音的教育観といういうことである。これらの福音的人間観および教育観をしっかりと堅持し、日々の教育活動に当たることができることが、カトリック学校の責任者としての第一の適性である。
 
 カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の適性の第二は、それぞれの責任者本人が、カリスマを所有しているかどうかという「カリスマの所有の有無」と、どのようなカリスマなのかという「カリスマの自己認識」、そしてそれらのカリスマに基づいた「カリスマに基づいた使命観の自覚」が明確であるということである。
 
 特にカトリック学校は、福音的人間観に基づいた教育活動の実践と、それらの教育活動をとおしての宣教司牧がその本来的目的であるから、責任者本人のカリスマが「貧しい人への奉仕」や「祈りと修行」また「独自の信心」など、さまざまなカリスマのなかでも特に「教育事業や宣教活動のカリスマ」を持っていることが、カトリック学校の責任者としての適性となると言えよう。
 
 いずれにせよ、カトリック学校の責任者には、神からその人固有に与えられた使命を成し遂げるために与えられた特別な力であるカリスマがなければならない。そして、カトリック学校の責任者としての使命は、福音的人間観に基づいた教育活動をとおしての宣教司牧であって、その使命を果たすために与えられた固有の能力であるカリスマを所有しているということが、カトリック学校の責任者としての適性の一部であると言える。
 
 次にカトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の適性の第三は、教会共同体との関わりを持っているということである。
 
 カトリック学校の責任者の職務遂行が、信仰に根ざしているものでなければならないのは勿論のこと、カトリック学校も教会共同体の一員であり、小教区および教区に属した組織であるのだから、カトリック学校の責任者は教会共同体の一員であることがその適性の要件としてあげられる。また、カトリック学校における宗教行事の企画運営には、司祭の霊的指導や宗教指導等のカテキズムは欠かせないし、ミサ聖祭や錬成会および黙想会の実施にも司祭の存在は必要不可欠な存在である。よって、カトリック学校の責任者が教会共同体の一員であることは、カトリック教会の洗礼を受けたという既成事実だけではなく、カトリック信徒として神の僕の生き方を貫き、信徒としての務めを果たしているということが大前提であって、カトリック教会の教えをよく学び理解し、教会共同体の一員として働くとともに、教会の秘跡に与り霊性に満たされているということも重要な適性要件の一つである。
 
 よって、カトリック学校の責任者が、カトリック教会共同体の一員としてカトリック信徒としての役割を十分に理解し果たしているということが、カトリック学校の運営を円滑にし、カトリック学校を教会共同体の一端として実質的に位置づけさせる重要な要件となることから、カトリック学校の責任者の適性の重要不可欠な要因であると言うことができる。
 
 カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の適性の第四は、一般社会におけるさまざまな組織のリーダーに求められるのと同様に、その組織を何のために何処に先導するのかという明確なヴィジョンと、その目的達成のために組織や人を指揮・統率するだけの高いリーダーシップ性と責任能力や判断力および決断力を所持しているということである。
 
 ただし、教会組織であるカトリック学校において、そのリーダーシップ性と責任能力や判断力および決断力の源は、あくまでもカリスマ(charisma)の本来的意味における神から与えられた使命を果たすための固有の恩寵・賜物としての能力に、裏付けられたものでなければならない。さもなければ、本来的カリスマからではないリーダーシップは、カトリック学校を進学や部活動至上主義といった、売名行為にも等しいコマーシャリズムに陥いらせ、カトリック学校の本来的な福音的人間観に基づいた教育からかけ離れた方向へと迷走させることになるだろう。
 
 カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の適性の第五は、学校教育活動に教員として従事した実務経験が十分にあるということである。
 
 それは、カトリック学校は取りも直さず学校教育機関であるから、その責任者として学校経営に当たらなくてはならないことはいうまでもない。よって、学校教育活動の基本である学習活動や特別活動における三指導部門(学習指導・生徒(園児・児童)指導・進路指導、あるいは幼稚園であれば六領域等の指導)に実際に携わった経験が十分にあり、教育活動における多くの事例をこなしてきたという実績がなければならない。実務経験のないリーダーは、教育論のノウハウのみに依存し机上の空論に陥り易く、実践的なドゥハウや経験に欠けるので、職場の教職員や園児・児童・生徒・学生等の学習者およびその保護者からの信頼を得られず、カトリック学校の社会的求心力を損失させる結果を招くことになる。
 
 カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の適性の第六は、管理者としてのマネジメント力に長けていることである。
 
 少子化現象に歯止めがかからず生徒確保に困難な現代において、学校責任者としての経営手腕は当然ながら厳しく問われる。よって現代における安定した学校経営、特に私立学校における健全な学校経営は、そのマネジメント力に大きく左右されることは避けられないので、一般企業にも勝るとも劣らない経営力を身に付けておくことは、必須であるといわざるを得ない。しかも、教育事業は利潤追求が最大の目的ではないし、経営的に考えれば極めて収益率の悪い事業であることは紛れもない事実である。それだけに一歩経営方針を間違えれば、取り返しの付かない事態を招くことになるから、学校経営に関する一通りのマネジメント力を十分に身に付け、健全経営を実現しておかなければならない。それがカトリック学校としての使命やアイデンティティを十分に発揮できる条件にもつながる重要な条件でもある。
 
 最後に、カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の適性の第七は、人間的包容力を持っていることである。
 
 カトリック学校の責任者として学校組織を動かすということは、その組織に属している人を動かすということでもある。「人は理屈を理解しても動かない。」あるいは、「人は理屈では動かない。」というのは、誰もが理解するところである。人は単純な損得で動きやすい弱さもあるが、最終的には合理的な理屈よりも、その人の信念に従うか、信頼できる人のため、または守るべき大切な人のために動くのである。組織のリーダーは、そのような人間の本質を掴み、組織で働く人々の人生の一部を背負うだけの度量が必要である。それが組織のリーダーとしての「人間力」ではないだろうか。
 
 また、学校組織は教師や学習者がその多くを占める構成員であるから、当然のことながら教師としての力量も問われる。学校教育現場において学習指導はもとより、特に学習者である幼児・児童・生徒及び学生との関わりのなかでは、人間としてその学習者とその家族の人生を左右するような判断や裁量を迫られる場面も少なくない。そうのような場合においては、カトリック学校の責任者であるリーダーは、どのような教師生活を送っているのか、更には一人の人間としてどのような人生を送っているのかさえまでも問われてくるのである。
 
 カトリック学校における教育とは、学習者本人が神が望まれた姿になるようその人を導き育て、神がその人に与えた固有の命と使命を全うできるよう気づかせる作業である。この一連の作業がいかに成就できるかが、カトリック学校の教員としての「教師力」である。
 
 カトリック学校の責任者としての人間的包容力とは、人一人ひとりをどう理解し、人一人ひとりの人生をどう受け止め、人一人ひとりとどう関わるのかという人間性そのものである。これはまさに主イエス・キリストに倣う者となることに他ならない。カトリック学校の責任者には、主イエス・キリストのように、その人の全てを許容して、その人を福音に導き永遠の命へと招くだけの神性な優しさと厳格さを持った人物が相応しい。そこにカトリック学校の責任者・リーダーとしての適性が求められる。
 
 カトリック学校の責任者・リーダーとは、誰にでもできるものではない。確かにこれらの適性を兼ね備えた人物など、司祭・助祭・奉献生活者(修道者)・信徒の中にでさえ、そう多くはないであろう。しかし、少なくともこれらの適性条件を兼ね備えキリストに倣う者こそが、カトリック学校の責任者としての適性があるということになる。
 
 40     X.2.カトリック学校の教頭および部長・主任等の資格と適性 (1)カトリック学校の教頭職 2010年4月23日(金) 
 ここで述べるカトリック学校の教頭職とは、校長の資格と同様に学校教育法施行規則や教育職員免許法に定められているところの教育機関監督者及び管理者の職務をいうのではなく、あくまでもカトリック学校としての本来的使命である教育活動をとおしての「宣教司牧」やカトリック学校のアイデンティティ並びにその独自性を教育活動の中に反映させていくための職務遂行としての教頭職がいかにあるかということである。
 
 とは言っても教頭職とは、校長の学校経営方針に従い、校長が目指す教育活動を教職員に周知徹底させ、その実現のために学校教育活動のあらゆる職務の遂行を管理監督するものであることには変わりはない。ただし、カトリック学校の場合は、校長の学校経営方針は個人的な教育観や教育理念によるものではないし、校長が目指す教育活動についてもカトリックの理念に根ざしたものでなければならないし、それらの教育活動をとおしてカトリック学校の本来的使命である「宣教司牧」がなされなければならないことは言うまでもない。ということは教頭職の遂行においても教頭は、カトリック学校の使命やカトリック教育の理念及び福音的人間観を十分に理解した上で、その職務の遂行に当たらなければならない。
 
 また、学校組織の中で教頭職とは、いわば要である。校長が指揮官であるとしたなら、教頭は指揮官である校長の職命令を遂行するために、すべての戦略や指揮を統括する参謀であると言ってよい。よって、カトリック学校における教頭とは、カトリック学校の使命を果たすための具体的戦略や通常の教育活動が円滑に行われるための具体的な計画を策定し、それらを教職員に実行させるよう指導に当たることができなければならない。特に、カトリック学校の使命を果たすために重要な教育理念や教育観を、すべての教職員が理解し実践できるように指導できるかどうかは、カトリック学校の教頭としての最重要課題である。
 
 以上のような観点から、カトリック学校の教頭の資格と適性は、カトリック学校の責任者のものに準じる。また、それらの理由もカトリック学校の責任者のものに準じるので、ここでは割愛する。(X カトリック学校における責任者のあり方 1.カトリック学校の責任者の資格と適性 (1)カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の資格 参照)
 
 このように、カトリック学校における教頭は、カトリックの理念や教育観および福音的人間観に基づき、すべての教職員が教育活動をとおしてカトリック学校の本来的使命である「宣教司牧」を果たせるようにするための導き手であるとの位置づけができる。そのためにカトリック学校の教頭は、キリストの福音を十分に理解し、カトリック教会やカトリック学校について精通していることが求められる。そして聖書解釈をはじめ、カトリック教会の要理解説やカトリック教育が何足るのかまで、カトリック教育に関する全般に渡って深い研鑽と知識に満たされていなければならない。それは、カトリック学校がその本来的使命である「宣教司牧」を学校教育活動の中で実現させるために、学校組織におけるすべての教職員をイエス・キリストの体である教会共同体に招かれた存在として導くためであって、カトリック学校のすべての教職員がイエス・キリストの福音を理解し受け入れて初めて実現できるカトリック学校の最大の使命である「宣教司牧」の実践のためなのである。
 
 学校組織体における教頭職は重要かつ激務であって、その学校がカトリック学校に足る学校となっているかどうかの鍵を握るキーパーソンであるといっても過言ではない。どのような学校経営をするかのヴィジョンを決めたり最終的な経営判断を決定するのは、その学校の責任者(学長・校長・園長)であるが、その実現のために具体的な計画や策定を立て、それらを教職員に実行させるために指揮・監督するのは教頭である。それは、学校の間取りを見ても明らかであろう。長はその職務上の必要性からそれぞれの職務室があるが、教頭は常に職員室で教職員と共に一日中時間と場所を共有して過ごしているではないか。教頭職とは、そのように日常的に一般の教職員と共に、最も身近な距離で日々の教育活動に関わる存在なのである。
 
 まとめとして、カトリック学校としての教頭の資格と適性およびその職務を、以下のとおりまとめておく。
 
 1.カトリックの信仰と教会の教えに基づき、教育活動をとおして「宣教司牧」を実践していく使命観を持っていること。
 2.カトリック信徒もしくは求道者として教会共同体との関わりを持ち、教会とカトリック学校の円滑な関係を築く役割を果たすこと。
   (ただし、未信者で教会共同体とのつながりを有していない者を必ずしも排除するものではない。) 
 3.キリストの教えに基づいた福音的人間観・教育観をもとに教育活動が実践できるように、すべての教職員にカトリック教育を周
   知徹底させ、その実践のための指導・監督すること。
 4.教職員に対して、カトリック要理の解説・指導ができること。
 5.カトリック学校の教育活動に、現場の教師として従事した実務経験が十分にあること。
 6.組織や人を指導・監督および統率するだけの高いリーダーシップ性と責任能力および組織マネジメント力を所持していること。
 7.学校教育における指導三部門(学習指導・生徒指導・進路指導)や特別活動等、それぞれの教育機関における教育活動全般
   に渡っての教員研修や指導を充分に果たすことができること。
 

Last updated: 2012/12/3