A「いじめ問題」の福音的および一般的解決策について
では、実際に「いじめ問題」が発生したときの具体的解決法を福音的観点と一般的観点から述べる。まず、「いじめ問題」が発生した場合、前項で述べたとおり「いじめ問題」解決のためのマニュアルに従って、関連各部署(校長・教頭・生徒指導部長・学年主任・担任(学年団))が解決のための組織を立ち上げ一致協力して対応していくことである。
対応について第一に重要なことは、当事者であるいじめられた側(被害者)といじめた側(加害者)への適切な対応である。その際に最も注意しなければならないのは、どちらか一方の立場に偏って対応しないことと、もう一つには絶対にやってはならないことが学校組織の保身のための対応をしないことである。この点に関しては後述することとする。
さて、適切な対応とは状況に応じてということであるが、例えば発生した「いじめ問題」が刑法に抵触するような「傷害事件」や「殺人事件」あるいは当事者の「自死」という結果を招いてしまっているとするのならば、学校の範疇を超えているのでやむを得ないが警察や裁判所等の公権力にその対応の多くを委ねざるを得ないということになる。しかし、そういった際にも教師間の共通理解のもと一貫して統一した学習者への適切な対応をしていかなければならない。それは、いじめられた側(被害者)といじめた側(加害者)の学習者と関係保護者への対応とともに、他の学習者とその保護者および一般社会に対しての説明責任を果たすことである。
カトリック学校における「いじめ問題」の解決の原理・原則は「福音的である」ということである。よって、いじめられた側(被害者)本人および保護者の心情を大切に受け止めると同時に、「いじめ」行為によって受けた心的外傷のケアや今後の学校生活の継続に必要なことをサポートすることである。また、いじめた側(加害者)本人と保護者に対しても、できる限り切り捨てることなく自分が犯した罪を認めさせ、反省させ二度と同じ罪を犯さないことを決心させて、改心させることである。そして、被害者とその家族に謝罪させるよう導き新たな人として歩んでいく希望を持たせ、学校生活を継続できるようサポートしていかなければならない。さらに、いじめた側(加害者)に「自己の存在が、他者をいじめ傷つけるためにこの世に生まれてきたのではなく、神によって愛され必要とされながら、望まれて生まれた、かけがえのない存在であって、特別な使命を帯び生かされている存在なのであって、しかもそれは自分自身だけではなく、いじめた相手もそのような大切な存在であるのだ。」という「福音的人間観」を今一度、想起させることである。
「いじめ問題」とは、いじめらたる側もいじめた側も、そして周囲の者たちにも問題が投げかけられていると筆者は考える。そして、「いじめ問題」の最大の問題は、いじめた側(加害者)にあるのだが、それは責任の大きさというよりは、むしろその「いじめ」行為の起因となった理由や要因の根深さにあるのではないかと考える。よって、「いじめ問題」によって救済されるべきは、いじめられた側(被害者)とその保護者のみならず、いじめた側(被害者)とその保護者および関わりのあったすべての学習者とその保護者ではないだろうか。
学校教育現場において「いじめ問題」は、単に被害者と加害者との対峙という関係では終わらないのではないだろうか。特にカトリック学校における「いじめ問題」の解決は、「福音」的でなければならないのであって、しかもイエス・キリストの「福音」は、万人に宣べ伝えられたものであると同時に、「救い」もすべての人々のために開かれているものなのである。よって、カトリック学校における「いじめ問題」の解決は、被害者と加害者のいずれかの立場に立ってなされるのではなく、両者のいずれにとっても「救い」となるようにすすめられなければならないのである。
そこで、カトリック学校における「いじめ問題」の解決は、いじめた側(加害者)を一方的に罰したり裁くことを目的とするのではなく、両者を和解させ、両者の将来に希望をもたらすようになされていかなければならない。よって、決していじめた側(加害者)を罰することに終始するようなことがあってはならないし、いじめた側(加害者)に対する制裁は、「いじめ問題」発生の抑制にある程度役には立っても根本的な解決にはならないし、何よりもいじめた側(加害者)の「救い」にはならないのである。また、いじめた側(加害者)を制裁もしくは報復的に「退学処分」や「自主退学処分」にしたとしても、それは根本的な解決ではなく、単に問題を先送りすることにしか過ぎず、そのような解決方法は「いじめ問題」の膿を残し、新たな問題を生み出す病巣を自らつくり出すことにつながるだけである。更に、わたしたち教師は、「裁き手」ではなくあくまでも教育者であることを見失ってはいけないのである。
また、「W カトリック学校における学校運営 3 福音的生徒指導」でも述べたように、キリスト教的人間観の原点は「原罪」にあるのだから、私たち人間は神によってゆるされることによってのみ、生きて行くことができる存在なのであって、その実践がたとえ人間社会において限界があるとしても、私たちイエス・キリストのもとに集った神の共同体の民は、イエス・キリストが証しした愛と赦しを実践していかなければならない。そのためには困難が幾重にも重なることになるだろうが、私たち人間は自分自身の十字架を背負って生きて行かなければならなず、予期せぬことが起きるのも人生の常というものであるから、どんな出来事で重い十字架を背負わされるか分からないのである。そういう意味においても「いじめ問題」におけるいじめられた側(被害者)もいじめた側(加害者)も、そしてそれらに関わりを持った保護者や教職員等のすべての人々も皆、否応なしにそれぞれの十字架を背負わされることになるのである。そして、それぞれの自らの十字架を背負いながら生きていくことが、イエス・キリストに従う生き方であると同時に、真の「救い」につながる生き方なのである。この苦しみをとおして与えられる「救い」こそが、カトリック学校としての福音的「いじめ問題」の解決に他ならないのである。
第二に重要なことは、「いじめ問題」が発生した際の教職員間の情報の共有と、関係当事者および報道機関に対する状況に応じた適切な情報の公開である。
2011年滋賀県大津市立中学校の当時中学校二年生の男子生徒がいじめが原因で自殺した問題で、翌年の2012年2月に男子生徒の両親が、市といじめをしたとされる同級生3人らに7720万円の損害賠償を求め大津地裁に提訴。原告側である両親は、いじめと自殺を関連づける証拠として、学校が行ったアンケートを裁判所に提出。この事件が多くのメディアに取り上げられ、「いじめ問題」に対する世間の関心が高まるとともに、全国のいじめにあったとされる多くの児童・生徒とその保護者が警察に被害届が出され、警察も積極的に捜査に乗り出し文部科学省も積極的ないじめ防止策に乗り出すという事態となった。
この大津市のいじめ問題が現在の教育現場や教育行政に与えた影響や教訓は大きい。その第一は、学校社会の閉鎖性、そして第二には学校と教育委員会との癒着と隠蔽体質である。公立学校の場合、所属の地方公共団体(東京都の場合は区単位)の教育委員会とのつながり、特に人事の面では直結しているといってよい。それは、教育委員会の各部署の重要な人事の多くは事務方を除き、教育現場の教員から選任されているからである。また、各教育機関の長である校長の多くは、例外なくといっていいほど、教育現場から一度は教育委員会に入り、教育行政に携わる経験を踏まえてから現場に戻る仕組みとなっているのである。そして、さらには教育委員会の長たる教育長は、校長経験者から選任されるという仕組みになっているのが一般的であり、このような組織構成が学校教育現場と教育委員会の人事上の強いつながりと癒着体質を形成しているのである。
よって、大津のいじめ問題のような事件が起きると、教育長や校長は互いに組織の体制保持と地位や名誉の保身または責任の回避に傾倒し、その結果真実の隠蔽工作がなされて教育委員会の学校に対する管理・監督機能は消失してしまう結果となり、事実上教育委員会に対する権力の抑制と監視のための機関はないので、両者の不正を暴くことは難しくなってしまうのである。
この大津いじめ事件においての問題点は、いじめ事件に関する校内で実施した聞き取り調査やアンケートの情報が、被害者の保護者に適切に説明されていなかったという学校(長)の不手際という点と、警察にへの被害届提出後の教育長の記者会見での不適切で不明瞭な言動が、なおさら問題を面倒にしたばかりか、学校や教育委員会に対する不信感を事件の関係者のみならず、多くの国民にも抱かせる結果を招いたというところにある。この事件が招いた結果から得た教訓は、「いじめ問題」が発生した際には、いじめられた側(被害者)やいじめた側(加害者)とそれらの保護者の当事者に対する適切で真実な情報提供と説明責任および各メディアに対する状況に応じた適切で事実に基づいた情報公開の必要性ということである。これら三者に対する情報提供や説明責任を適切に果たさないことや提供する情報や発言が二転三転することは、情報の受け手側の疑心暗鬼が深まるばかりか、かえって問題を混乱させ問題の解決を困難にするだけだということである。なお、「いじめ問題」の内容が重大であればあるほど、マスコミはその重大性が故に報道意欲をかき立てられ追求を強めてくるし、週刊誌等のメディアによっては単に興味本位でおもしろおかしく記事を書き上げ、販売部数の増加につなげようとのコマーシャリズムに毒された輩(メディアや記者)もいるので、報道各機関に対する情報提供や説明責任の実施においては、慎重過ぎるほどの厳重な注意・対応が求められる。
勿論、カトリック学校の「いじめ問題」の解決にあたっても上述のような点に無関心でいるというわけにはいかない。なぜならば、日本のカトリック学校は私立学校であるから、私立学校にとって学校の評価や評判は、生徒募集に即時反映されるので、学校経営上の死活問題となる。よって、「いじめ問題」が発生することは、学校評価や評判を著しく低下させることにつながるので、事実の隠蔽や歪曲が発生する危険性を常に孕んでいるのである。事実、2012年7月に宮城県仙台市の私立高等学校では、「いじめた生徒」ではなく、「いじめられた生徒」が自主退学を迫られ転校させられるという事態が報道されている。このような私立学校における「いじめ問題」のケースでは、「いじめられた生徒」にせよ、「いじめた生徒」にせよ、「いじめ問題」が発生したという事実が外部に知れることが学校側にとっては不都合な事実・事態であり、「いじめ問題」を告発する可能性のある「いじめられた生徒」を在学させておくよりは、「いじめた生徒」を学校で保護・監督しておくことの方が、学校にとっては得策であるとの判断が働いたのであろうと想像できる。これでは「いじめられた生徒」にとっては、被害者にもかかわらず弱り目に祟り目、理不尽以外の何ものでもない。
このように、私立学校においても「いじめ問題」は学校経営上、負の方向に働くと判断されがちで、ややもすると誤った決断が下され兼ねないばかりか、最も大切にすべき学習者を犠牲にしてしまう危険性を否定できないという可能性があるのだ。よって、カトリック学校もその危険性や誘惑に曝されている存在である私立学校であるとの自覚を忘れることなく、厳重な注意を怠らないように努め、さらにイエス・キリストの「福音」を宣べ伝えるためのカトリック学校であることを常に念頭に置きながら、「いじめ問題」に関わる当事者に「救い」をもたらすように対処していかなければならない。
なお、「いじめ問題」発生確認後の福音的および一般的な解決法の手順を列挙しておく。
1.あらかじめ決められていた「いじめ問題」解決のための組織(いじめ対策委員会=仮称)を立ち上げる。(真っ先にいじめられた側(被害者)およびいじめた側(加害者)の保護者の協力を得て、不測の事態を防ぐため(特に自死の可能性)学習者それぞれの保護に当たる。)
2.解決のためのマニュアルに従って、解決の手段と役割分担を確認する。「いじめ問題」が刑事事件に発展した際は、報道各機関のマスコミ対策は初期の段階から備えておくことが肝要である。
3.「いじめ問題」当事者(学習者)各人および当事者全員での事情聴取をそれぞれ実施し、事実関係を確認する。
4.関係当事者のクラス担任と学年主任および他の教職員から事情聴取を実施する。(この際、「いじめ行為」を把握していたかどうかが焦点となる。)必要であれば地域社会の協力も得る。
5.関係当事者の保護者を招集し、学習者からの事情聴取で判明した事実確認をした上で、関連するその他の情報がないかどうかを確認する。
6.第三者(当事者のクラスの学習者やその他の目撃情報を持っている者)からの事情聴取。
7.関係当事者(学習者と保護者および教職員、その他)からの事情聴取した内容を、いじめ対策委員会で付き合わせ、事実の特定と情報を共有し解決策の基本方針を決定する。
8.職員会議を開き、「いじめ問題」の報告と解決方法の基本方針および情報の共有といじめ対策委員会で決定した解決策に対しての審議や意見聴取を行い共通理解を図る。教職員の守秘義務および情報提供の一本化を確認する。
9.関係当事者(学習者と保護者およびいじめ対策委員会、その他)を招集し、校長より事実確認と謝罪および今後の解決基本方針を伝達・説明し、学習者やその保護者から意見聴取をする。(この際、被害者と加害者およびその関係者が同席することが出来ない場合は致し方がないので個別に実施する。)
10.全校集会および保護者会を開き、校長は学習者と保護者に情報提供と説明責任を果たし謝罪する。
関連する情報や意見があれば聴取する。
11.いじめられた側(被害者)およびいじめた側(加害者)に対する今後の具体的な指導をそれぞれに説明し、学習者と保護者の同意を得る。(この段階では、被害者と加害者は敢えて同席する必要はない。)
12.必要に応じて(刑法に抵触するような犯罪行為に至った場合)記者会見を開き、適切な情報公開・提供および説明責任を果たす。(この場合、決して事実の隠蔽や歪曲および責任回避をしてはならない。)
13.いじめた側(被害者)に対しては、精神的ケアを中心に学校生活に復帰・継続できるように指導していくが、その際学校カウンセラーやソーシャルワーカーまたは担任教師や学年主任、その他の希望する教師など、なるべく多くの選択肢を用意し当事者本人および保護者に選ばせるようにする。そして、新たな人間となって、たくましく生きる力を身につけて学校生活に希望を持って継続していけるように指導することが大切である。そして、「福音的人間観」および「原罪」の観点から、いじめた側(加害者)を将来的に赦し、和解することが出来るようになることが最終的な指導の目標である。
14.いじめた側(加害者)に対しては、自分が犯した罪を自ら認めることができるよにさせ、罪を痛悔し相手とその保護者に謝罪するとともに、二度と同じ罪を犯さないことを心から決心し、罪の償いに相応しい作業や労働、または必要に応じて懲戒を与えて改心させることが肝要である。(ただし、懲戒は極力強制的・自主的な退学処分(転校処分を含む)は避けなければならない。カトリック学校における「いじめ問題」の解決とは、イエス・キリストをとおした「赦し」と「救い」そして「和解」につがるものでなければならないので、学校を退学・転校させることは「福音」的で根本的な解決にはならない。)そして、新たな人間となって学校生活の復帰と継続に希望を持って臨めるように指導することが大切である。また、いじめた側(加害者)にとっても将来的にいじめた側(被害者)と和解することが最終的な指導の目標であるが、いじめた者(加害者)の改心が一連の指導によって、いつの日にか「回心」へと止揚することが、真に「福音」的な解決であったことの証となるであろう。
15.関係当事者(特にいじめられた側(被害者)といじめられた側(加害者)との和解(「赦し」と「救い」)の実現。
なお、どのような不測な事態においても、それぞれの状況に応じて対応できるための学校組織マネジメントや危機管理体制を備えておかなければならないが、あくまでも第一に考えるべきは学習者に対する「福音」的な教育的働きかけであることは言うまでもない。
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