「もし、わたしたちに罪はないというならば、自分自身を欺くことになり、真理はわたしたちの中にありません。罪の告白をするならば、真実で正しい神は、わたしたちの罪をゆるし、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。もし、罪を犯したことがないというならば、神を偽り者にすることになり、神のことばはわたしたちの中にはありません。
(Tヨハネ1:8〜10)

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学校経営 School Management

「カトリック学校としての学校経営の在り方」
カトリック学校としての戦略的学校マネジメントの展開
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 31     5.福音的ホームルーム経営 (5)福音的ホームルーム経営実践のための基本-2 2008年11月4日(火) 
2.ホームールームを福音的共同体に成長させるために
 
 「1.福音的人間観に基づいた自己並びに他者に対する理解と受容」で述べたように、ホームルームを福音的共同体に成長させるためには、担任教師と児童・生徒における個々の自己理解と相互理解の両面を基盤に、自己および他者をどのように福音的に受容できるかが重要な鍵を握っているといえよう。
 
 人間の根本的存在のあり方とは、他者との関わりの中で自己のパーソナリティを生かして自己実現を達成し、福音的使命を果たすことで真の自分自身となっていくことである。そのためには、実存主義における単独者としての自分自身の成長のみならず、他者との関わりの中で果たされていく「人」もしくは「人間」としての成長や自己実現がより重要であるといえる。私たち人間は、確かに神の前には単独者であるのだろうが、人間としての個々の成長や自己実現そして福音的使命は、他者との関わりや家族そして社会などの集団との交わりの中で実現されていくように神に導かれているのではないだろうか。よって、私たちは神の招きに従って、自己をより深く理解していく中で自分自身に与えられた固有の福音的使命に気付くとともにそれを受容し、他者との関わりや自己が関わる集団との交わりの中でその使命の達成に邁進していくよう求められているのである。
 
 では、ホームルームをそのような福音的共同体に育てていくためには、具体的にどのようにすればよいのであろうか。
 
 第一には先にも述べたように、ホームルームを経営する担任教師のホームルーム経営方針を児童・生徒によく理解してもらうことである。勿論、担任教師が児童・生徒に自分自身のことやホームルーム経営方針を理解してもらうことは容易なことではないが、L.H.L.(ロングホームルーム)や毎日の朝終礼およびS.H.L.(ショートホームルーム)を有効に活用し、教師としての教育方針やホームルーム経営方針、そして究極的には教師としての福音的召命を児童・生徒に理解してもらうことによって、担任教師に対する人間理解はより一層深まり、担任教師と生徒間における相互理解と信頼関係の構築を可能にすることになる。このような意味においても、L.H.L.(ロングホームルーム)や毎日の朝終礼およびS.H.L.(ショートホームルーム)および文化祭や運動会、遠足等の学校行事への参加のあり方が問われるし、重要であるといえよう。
 
 第二には前述したとおり、よりよい集団作りや単なる集団を共同体レベルにまで引き揚げるためには、集団を構成するメンバー間の相互理解が絶対欠かせない。人間関係における相互理解とは、人間の成長にとって欠くことのできない他者との関わりを形成するための柱とも言えるべきものであって、これをもとに築き上げられた信頼関係は、人間の成長過程における発達課題という観点からも重要な要素である。また、人間社会において集団生活は基本的な形態であるから、その集団生活が円滑に営まれるか否かは、その集団の構成メンバーがいかに相互理解を深め、互いに信頼し合い受容しあっているかが重要である。
 
 第三には、集団をまとめるリーダーの育成である。確かに担任教師は、ホームルーム経営において要であることには間違いはないのであるが、集団育成し動かすためにはその集団を構成する児童・生徒の中にリーダーが存在することが、非常に重要な要件になってくるのである。なぜならば、単なる集団が何らかの目的を持ち方向性を持った機能的集団、もしくは一定の枠組みの中で愛情に結ばれた基礎的集団となるためには、構成メンバーからの信頼をもとにこれを支え舵取りをするリーダーなくしては有機的な集団の育成は困難であるからである。よって、ホームルームを福音的共同体に育てていくためには、児童・生徒の中からリーダーを育てることが不可欠であるといえよう。
 
 第四に、ホームルームという集団に一定の機能や目的を持たせることである。確かに学校教育におけるホームルームという集団は、教育を受けるという一定の目的の下に集まった機能的集団といえるが、その反面特に一定の目的を持たず血縁や愛で結ばれた家族のような基礎的集団の要素も持っているともいえる集団である。実はそこにホームルーム経営の難しさの所以もあるのではないかと感じている。そのような要素や性格を持った集団であるからこそ、クラス目標や努力目標または学校行事において何かを達せさせようとする一定の目的、または学習班や生活班等の生徒一人ひとりやグループが何かしらの責任を持った役割を担うことで、ホームルームという集団は一定の機能を持つことになり、ホームルーム経営がよりスムーズに運ばれることになるであろう。
 
 以上、学校教育におけるホームールームという集団を、福音的共同体という段階に成長させるための重要課題として四つのことがらをあげておくことにする。
 
 32     6.不登校生に対する福音的対処 (1)学校教育現場における新たな福音的使命 2008年12月3日(水) 
(1)学校教育現場における新たな福音的使命
 
 文部科学省の調査によると、2004(平成16)年度の小・中学校の不登校児童生徒は約12.3 万人で、高等学校を含めると19万人にも達し、その数は増加し続けている。不登校の原因やその背景としては、核家族化や少子化そして両親の共働き等の家庭環境によるもの、また学校生活に対する不適応や成績不振、交友関係やいじめ等によるもの、そして生育歴や精神疾患等の本人に関わる個人的なさまざまな要因が複雑に絡み合って生じているケースが多く、社会全体の構造的変化や情報の氾濫等の社会現象そのものの影響が多大にあると言って良いのではないかと感じている。
 
 このように不登校生の問題は、現代の教育現場が抱える諸問題の中においても、その数の増加という観点みならず、生徒個々の健全な人間的成長(人間の成長過程における、それぞれの発達課題の達成)や教育機関や教師の不登校生に対する対処という観点からも、非常に重要な課題として解決を迫られている問題ではないだろうか。この点においてカトリック学校における不登校生の対処とは、まさに福音的な人間観に基づいたものでなければならず、キリストの福音が虐げられたものや弱者のために向けられたものであるから、カトリック学校は不登校生に対して福音を述べ伝えることがミッションであるとの受け止め方が正当であるといえる。私たちカトリック学校は、時代に即してその時々の教育現場のどこにミッションがあるのか、どこに福音が必要なのかを敏感に受け止める気付きやセンスが求められる。このことは、「時のしるし」を読むという福音宣教には欠かせない先見の明を持つことでもある。
 
 「時のしるし」を読むという観点において、昭和初期以降特に戦後の日本に海外から宣教活動に入った多くの教育や社会福祉等の活動修道会は、当時の日本社会のどこに福音が必要なのかをよく見極めていた。例えば教育修道会の多くは当時の日本社会において、中等教育および高等教育が一部の階層人々に限られ、特に一般の女子には中・高等教育は必要ないという差別的な社会的風潮に福音的使命を見出し、日本社会における女子教育の必要性に応えて、戦後の日本社会における女子教育の普及に見事に貢献したと言えるだろう。
 
 では、現代においてはどうであろう。確かに、戦前、戦中そして戦後の混乱期において、中・高等教育の普及は福音的使命であり社会的要請でもあった。そのような意味で中・高等教育を受けられずにいた子女たちに教育的機会を与えるということは、「時のしるし」に叶った福音宣教であったはずである。だが、今や高等学校や短大・大学等の中・高等教育は、一般国民の所得の向上が少子化の影響とも相まって一部の階層や男女を問わず一般的に普及したと言える。よって、中・高等教育の普及という意味においては、教育修道会の福音的使命は終わったと断言してよいのではないだろうか。
 
 しかし、中・高等教育の普及という使命を終えたからといって、日本の学校教育現場に福音がいらなくなったわけではない。むしろ、現代の学校教育現場にこそ福音が必要なことが数多く増えたと言ってよいだろう。それは、不登校やいじめ、学力低下や中途退学者の増加等、現代の学校が抱える様々な教育問題からみれば明白なことであり、「時のしるし」を読むという観点において、私たちカトリック学校が現代の教育現場で果たすべき福音的使命は変化し、むしろ増えていると言ってよいのである。
 
 カトリック学校にいる私たちは中・高等教育が普及した今、教育現場では不登校やいじめに会って苦しんでいたり、学力が身につかないままにされたり中途退学を余儀なくされたりしている者たちが、学校生活の直中で悶絶しながら声なき声で慟哭していることに気づかなければならないのではないだろうか。私たちカトリック学校は、そのような児童・生徒あるいは学生たちの求めに応えているのだろうか、自問自答しなければならない。今ここに私たちカトリック学校は、新たな福音的使命を神より授けられたのである。
 
 33     6.不登校生に対する福音的対処 (2)不登現象の発生と原因 2009年3月15日(日) 
@不登校現象の発生原因と現状
 
 文部科学省の記録では、学校教育現場において「不登校」という現象が報告され始めたのは1950年代からで、その現象が目立ち始めたのは1970年代以降になってからだとされている。当時は児童・生徒が学校に登校しないことを「登校拒否」という名称で呼んでいたのだが、1980年代になって「登校拒否」の児童・生徒が増加するとともにその実状が徐々に明らかになると、学校に登校しない原因が学校に行きたくても行けないなどの精神疾患によるものから学習意欲の欠如からくる怠学によるものまで、その原因が多岐にわたることから「登校拒否」という表現は不適当であるとの理由で、学校に登校しない原因の如何に関わらず、学校に登校しない現象のことを「不登校」と呼ぶようになった経緯がある。
 
 1990年代以降「不登校」という現象は増加傾向をたどり、その実情も深刻かつ恒常化していった。不登校の原因としては、小学生と中高生では異なっており、中高生では友人、教師との人間関係や学業不振など「学校生活に起因」が最も高い割合を占めているのに対して、小学校では病気など「本人の問題に起因」が高くなっている。また、「家庭生活に起因」するケースは、小学校が3割弱と最も高く、中学・高校と進むにつれて減少する。文部科学省によると小学校の不登校生は22,709人で在籍者数の0.32%、中学校では99,546人で在籍者数の2.75%(2005年統計)、国公私立高校の不登校生徒数は、全国で計67,500人(2004年度統計)で、在籍者に占める割合は1.82%となっている。高等学校においては、不登校生のうち中退に至ったのは24,725人で、不登校生徒に占める割合は36.6%だったと公表している。 高等学校における不登校のきっかけは「学校生活に起因」・「本人の問題」がそれぞれほぼ4割で、残りが「家庭生活に起因」するもので、不登校が継続している理由では「無気力」が最も多いとの統計結果となっている。以上が、不登校生の現状としてあげられる。
 
 このような不登校現象に対する取り組みとしては、小・中学校の教育現場においては「保健室登校」や「登校訓練」、また「教育相談」や「学校カウンセリング」など不登校生に対する対応処置が取られるようになったが、全日制の高等学校においては欠席日数が多いとのことで入学選抜の段階で不合格とされるケースが多く、中学校時において不登校となった生徒は定時制や通信制の高等学校に進学せざるを得ないとの場合も少なくない。
 
 学校教育現場で不登校現象が増加したその背景には、女性の社会進出とそれに伴う家庭における教育力の低下、その他地域社会や学校における教育力の低下などがあげられよう。さらに、これらを根本原因とする親子関係や夫婦関係およびこどもたちの幼少期からの人間関係環境が大きく変化したことも重要な要素といえるだろう。現代の児童・生徒を取り巻く生活環境は、価値観の多様化や情報の氾濫、そしてそれに伴う道徳観念の希薄化等、あまりにも急速で大きな変化を呈しているため、このような社会環境の中で良好で健全な人間関係を形成していくことが非常に困難になってきているのである。つまり社会的要因が、不登校という現象を助長させてきたのではないだろうか。また、不登校現象というものが高度経済成長期に発生し増加していったことから、産業構造の高度化による経済的な発展やそれに伴う核家族化による育児環境の変化そして高等学校・大学への進学率の上昇も不登校現象の発生と増加の原因とは無関係ではないだろう。
 
 不登校の原因として、「本人の問題に起因」・「家庭生活に起因」、また不登校が継続している理由では「無気力」との報告があるが、いずれも不登校の原因を個々人の理由に帰する傾向がみられる。しかし、それでは不登校という現象はもっと以前に学校教育が始まった時点から発生していなければならなはずであろう。ここに不登校現象が個々人の理由に帰するものではないものがほとんどであるという根拠が見出されよう。不登校現象とは、社会情勢の変化や家庭生活環境の変化、そのほか価値観の多様化や道徳観念の低下、また情報の氾濫や教育を取り巻く環境の変化などの理由が複雑に交錯した社会に、児童・生徒たちが適応することが難しくなったことから発生した社会現象もしくは社会病理の一つとも捉えることができるのである。
 
 いずれにせよ、現代の学校教育現場において、不登校現象もしくは不登校生に対する対処・対応は、その実態から必要不可欠なことであることは明白であるし、教育現場にキリストの福音を述べ伝える使命を持つ私たちカトリック学校の教職員は、この不登校現象にイエス・キリストの実践した隣人愛を持って解決に当たっていくことが求められている。
 
 以下、カトリック学校における不登校生への対処がどのようにあれば福音的であるのかを述べることにする。
 
 34     6.不登校生に対する福音的対処 (3)不登校生に対するな福音的対処 2009年3月15日(日) 
 不登校現象の実態を踏まえた上で、学校教育現場における不登校生に対してどのような対応をしていくことが、福音的であるのだろうか考えてみる。
 
 まず第一にカトリック学校は、不登校児童や生徒を積極的に受け入れているかどうかということを自らに問わなければならない。それは、中学校・高等学校・短大・大学等の入学段階で、前教育機関での不登校生の入学資格を認めているのかということである。具体的には欠席日数や欠課時数の多い児童・生徒に対する入学許可を、積極的に行っているのか消極的なのか、あるいは認めていないのかということである。このことは、「@不登校現象の発生原因と現状」で述べたように、不登校とはまさに教育現場の直中で起きている現象であって、当事者である不登校生自身やその家族は、不登校という苦しみから抜け出したいと望み、救いを求めている者であるとの認識ができてい問いかけである。そして、福音とは取りも直さず救いを求める者のためにあるのだから、教育現場における福音宣教をミッションとするカトリック学校は、当然のことながらその実践をしていかなければならない場なのであって、もし教育現場において救いを求めている者を無視し、助けを求める声に応えようとしないのであれば、それはイエス・キリストの教えに耳を閉ざし福音を述べ伝えるというカトリック学校の最も重要な使命を放棄することと同じなのである。
 
 確かに不登校生との関わりには、その原因の複雑さや固有性から困難を伴うことが必至である。しかし、教育を通してキリストの福音を述べ伝えていくとの使命を持ったカトリック学校が、本来の活動の場である教育現場で、苦悩している不登校生やその父母に積極的に関わろうとしないのでは、福音宣教という使命を果たす機会を自ら投げ出して無関心でいるのと同じことなのである。よって、カトリック学校の不登校生に対する対処として福音的であるかどうかの第一の要件は、不登校生(児童および生徒)を積極的に受け入れているということなのである。
 
 では、第二の要件として重要なことは、受け入れた不登校生およびその父母と学校(教職員)がどのような教育的関わりを、どのようにして持っているかということである。具体的には、不登校生とのその父母と関わるための教員やスクールカウンセラーなどの人的配置や組織の構築、また不登校生の学習活動支援や単位認定などの教務上の措置や規定、そして教室やカウンセリング室等の施設の用意である。
 
 人的配置や組織の構築について、まずは不登校生とその父母に専門的に関わる人的配置が必要である。現代の不登校は、先にも述べたように社会的要素が複雑に絡み合い、長期的症状を呈するケースが多く、しかも多くの場合精神疾患を伴うか精神疾患につながっていく場合も少なくないため、不登校や教育カウンセリングおよび精神疾患についての専門知識を習得していなければ対応できないなど、十分な配慮が要求される。よって、不登校生およびその父母と対応していくためには、それ相当の専門知識や経験を積んだ学校カウンセラーを常駐させたり、精神科の専門医を校医として依頼すること、さらに不登校生を扱う担任(担当)教師が教育カウンセリングの資格を取得したり研修を受講するなど、一通りの専門的知識や資格を持った上で関わっていくことが不可欠である。
 
 次に組織の構築については、不登校生およびその父母と学校が具体的にどのような関わりを、どのように形づくっていくかという組織マネジメントが必要である。不登校を改善していくことで重要なことは、学校教職員による個人単位の単独プレイで関わらないことが肝要である。もちろん不登校生に関わる個々の教職員の教育活動を否定するものではなく、あくまでも不登校とは他の児童・生徒以上に、その関わり方如何によっては不登校生個人の将来を大きく、しかも是か非かの二者択一をも迫られるほどのことにもつながりかねないという、特異性と繊細性を伴った事例ということからである。
 
 よって、不登校生およびその父母と関わる教職員の構成としては、ホームルーム担任教師と学年主任そして学校カウンセラー等の学校組織側の人間と、教育相談や精神科医等の外部機関の人間がスタッフを形成し、組織的にかつ具体的行動計画や指針を明確にし一貫性を持って関わっていくことが求められよう。
 
 さて、学校という教育機関である以上、学習活動がなされていなければその機能を果たしていることにはならない。不登校とは、学校に何らかの理由で登校できない状況をいうのだから、学校に登校できない期間の学習活動をどう支援するのかということが当然発生する。しかし、多くの学校教育機関では、不登校生に対する学習活動支援がなされていないのが現状ではないだろうか。そこで、不登校生の学習活動支援や単位認定などの教務上の措置や規定をどのようにしたらよいか考えてみよう。
 
 まず、学習活動支援であるが、不登校生は登校できないか登校できても通常の授業や学校行事等の特別活動に参加することが難しい。そこで、どうしても登校できず授業に参加できなかった期間の学習活動を補填し支援していかなければならない。具体的には、登校できた日や長期休暇期間に補填授業を実施すること、自学自習が可能なテキストや課題を与えて提出させること、インターネットを通した授業を開設すること、そして通信教育を実施するか通信制課程の学校を併設することなどが考えられよう。いずれにせよ、学校に登校できなかった期間の授業補填を何らかの方法で可能な限り補填するということができる体制をつくることである。
 
 では、評価・評定や単位認定などの教務上の措置や規定はどのようにしたらよいであろう。不登校の場合は、欠席日数や授業の欠課時数が増えてしまうことから、通常の規定を当てはめるとどうしても各教科の評価・評定や単位認定(高等学校の場合)を出す上で制約が出て来てしまう。そこで、不登校の場合は特別な規定を設けて評価・評定や単位認定をする必要性が出てくる。また、その前段階の措置として不登校認定という規定も必要となってこよう。以下、不登校認定と単位認定および評価評定における規定の具体例を挙げておく。
 
 1.以下の条件を満たしたものを不登校と認定する
   @精神科や心療内科などの医療機関もしくは教育相談機関から不登校であると診断または認定された。
   A心意的・精神的理由で長期欠席が続き、本人および父母が精神科や心療内科などの医療機関もしくは教育相談機関等の専門機関に通うことを決めた。
   B不登校生本人およびその父母が何らかの理由で専門機関での治療ができず、学校長が特別に不登校と認定した。
 
 2.不登校認定された場合の出席日数および欠課時数について(高等学校の場合の単位認定)
   @出席日数は登校すべき日数の二分の一を目安とする。
   A授業の欠課時数は、授業実施時数の二分の一を目安とする。
   B授業の出席日数は、補填授業や課題授業、およびインターネット授業など通常授業を代替えすると認められるものについては積極的に加算することとする。
 
 3.評価・評定について
   @定期試験を受験していない場合も、補填授業や課題提出など学習効果があったと判断される材料で評価する。
   A評価の基準は、原則として一般生徒の基準を適用するが、なるべく生徒の有利に働くよう配慮する。
   B評定の基準は、原則として一般生徒の基準を参考にし、なるべく生徒の有利に働くよう配慮する。
 
 最後に施設としては、不登校生が、学校に登校しやすい環境を整えておくということが不可欠である。そのため最低限、カウンセリング室と不登校生専用の教室が設置されていることである。カウンセリング室は、不登校生とプライバシーに関わる相談や会話をするのには不可欠であり、外部と遮断されプライバシーを守られた環境は、個人に安心感を与えより親密なリレーションをはかることができるようになるはずである。また、不登校生専用の教室は、登校訓練と授業参加訓練のためには不可欠である。不登校の場合、一般の教室にはすぐに馴染めない場合が多く、一般生徒と共通の日課(時間割や教室環境)で行動できない不登校生に、学校環境に慣れるために一般の教室とは一線を画し規制を緩和した環境を提供することで、段階的に学校生活に馴染ませ登校意欲と授業参加意志を呼び起こさせながら、不登校生に学校生活に対する安心感と希望を与えることから始めることが重要である。
 
 以上、不登校生に対する福音的対処について述べてきたが、不登校生とその父母と関わる上で最も重要なことは、希望を与え続けることである。つまり、現段階では不登校であっても、学習活動は可能であり、いずれ不登校は治癒し通常の学校生活ができるようになって、その先の人生も限りなく広がっているのだという希望を持たせることが、不登校生本人および父母に対しての福音となるはずである。カトリック学校は、不登校のような教育現場で問題を抱え苦しむ児童・生徒やその家族に福音を述べ伝えるという明確な使命を持った学校であるのだから、できる限りの最大限の教育活動の提供を厭わず、イエス・キリストの教えに付き従い常に福音述べ伝える教育活動に専念するよう、弛まない努力が必要なのである。
 
 35     7.「いじめ問題」に対する福音的対処 (1)「いじめ問題」対策(防止策と解決策)の原理・原則 2012年8月28日(火) 
(1)「いじめ問題」対策(防止策と解決策)の原理・原則
 
 学校教育の中で「いじめ問題」は、永遠の課題と言えるのではないだろうか。「いじめは、昔からあった。」と口々に巷でもいわれているように、少なくとも筆者の世代(1958年(昭和30年代)生まれ)では、集団暴力やリンチあるいは恐喝(カツアゲ)、悪口・罵倒・暴言、そして仲間はずれや嫌がらせ、弱い者いじめに悪質ないたずらなどの行為は、頻繁にではないにしろ日常的にあったと思う。しかし、それらを「いじめ」という固定的もしくは一定の定義による表現で表すことは、一般的ではなかったし、執拗に継続的かつ陰湿で誰かを自殺にまで追い込むといった事態を招くまでには至らなかったようにも思う。それは、おそらく現代の教育現場が抱える「いじめ問題」とは、行為の質がそのものが変わってきていたり、「いじめ」の行為が招く結果や周囲に与える影響が旧来型の「いじめ」とは大きく異なってきているからであると思われる。
 
 「いじめ問題」が学校教育現場や一般社会において、一つの社会問題として認識され始めたのは、学校教育現場が「校内暴力」という問題を抱え始めた1980年代中頃以降ではないだろうか。そしてこの頃の「いじめ」とそれ以前の「いじめ」の質の違いは、いじめる側(加害者)のいじめ行為の目的にあると推測される。文部科学省による「いじめ」の定義も2007年以前のものは、「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」としていたものが、現在(2007年以降)の児童・生徒の問題に関する調査で用いるいじめの定義は、「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」とした上で、その判断基準としては「いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場に立って行うよう徹底させる」としている。いずれにせよ、現在の学校教育現場で問題視されている「いじめ」には、いじめる側(加害者)が「いじめ」という行為によって、いじめられた側(被害者)が肉体的・心理的苦痛を感じることに快楽的もしくは嗜虐的に楽しむことを目的として行われているという傾向があるように思われる。
 
 具体的な行為としては、仲間はずれ、無視(シカト)、陰口、悪口、暴行、傷害、侮辱、脅迫など、旧来型のいじめの行為と本質的には変わらないが、決定的に大きく質を異にするのはネット社会の進展によるパソコンや携帯電話そしてスマートフォンなどの情報機器という手段やその方法(メール・ホームページ・ブログ・プロフ・掲示板等)があげられ、このようなインターネットを介した悪口・誹謗中傷・風説の流布、そして言動と・表現のあり方としては、「きもい」、「うざい」、「死ね」に代表されるように、相手の心情を著しく傷つけ人間存在を根底から否定する傾向が見受けられる。また、更にいじめた側(加害者)がいじめられる側(被害者)に、いじめられた側(被害者)がいじめる側(加害者)にとめまぐるしく立場が逆転することも、現在の「いじめ」行為の特徴的な部分である。
 
 また、現在の「いじめ」のもう一つの特徴的な一面として、いじめる側(加害者)の「いじめ」に対する認識があげられる。いじめる側(加害者)のいじめ行為の理由の多くは、「遊び感覚やゲーム感覚」であって、いじめ問題が発覚した後の事情徴収でのいじめる側(加害者)の多くは、「遊んでいるつもりだった。」とか「こんなふうになるとは思わなかった。」などという、いじめられた側(被害者)からすれば残酷とも言えるほど、あまりにも淡々と軽々しく無頓着で、腹立たしいとも思われる発言をするのである。そして、そこにはいじめる側(加害者)の希薄な罪意識やいじめられた側(被害者)に対する無関心で無責任な態度や、時にはあわよくば事なきを得ようとのしたたかさや陰険さもうかがえるケースがあるほどで、そのようなところにいじめられた側(被害者)がいじめ行為の結果、不登校になったり精神疾患を患ったり、最悪の場合は自殺にまで追い込まれるという悲惨な結末を招いているという現実とともに、現在の「いじめ問題」の極めて悪質で深刻な実態と複雑な社会背景やその解決の困難さが見受けられるのである。
 
 さて、このような「いじめ問題」の対策として1996年の文部大臣の緊急アピール「深刻ないじめは、どの学校にも、どのクラスにも、どの子どもにも起こりうる」から始まり、2007年の政府が行った「教育再生会議の第一次報告に関連して、いじめを繰り返す児童・生徒に対する出席停止措置などの現在の法律で出来ることは教育委員会に通知するように」との指示に至るまでの経緯があるが、その効果はいかほどであろうかはなはだ疑問である。
 
 さて、ではカトリック学校における「いじめ問題」の根本的対応と解決には、どのような基本姿勢が求められるであろうか。それは、やはり「福音」の一言に尽きるであろう。「いじめ問題」の根本的な解決には、まず「人間とはどのような存在であるのか」という人間理解がなければならない。キリスト教の人間理解とは、以前にも述べた「福音的人間観」や福音的生徒指導のカ所で述べた「人間の二面性と原罪」であって、そのことを理解した上で考えていかなければ「いじめ問題」の根本的対策は不可能であると同時に、カトリック学校での「いじめ問題」の対処にはならないと考えている。そして、それは正にそれぞれのカトリック学校の日常の教育活動が真に「福音」的であるかどうか、あるいはどれだけ「福音」が学習者の生き方・生活の仕方に反映されているのか、またいかに福音共同体を目指している学校であるのか、ということの問いかけでもあるのだ。
 
 キリスト教の「原罪」という人間観に立って考えるのならば、おそらく「いじめ」は無くなりはしないだろう。特に価値観の多様化・氾濫した現代の社会においては、人間の生活や社会がますます複雑化し、ストレス社会とも表されるように、解消されることなく行き先を失った不満や抑圧そして現在および将来への不安や絶望は、その捌け口を求めて不特定多数の人々への攻撃というかたちをとって暴走し、誰にも止められない状況にあるかの様相を呈している。しかし、今そのような複雑化し多種多様な社会問題を抱える現代社会に生きる私たちにこそ、決して現在と将来に対する閉塞感に押し潰されることなく、「希望を持ち続け、力強くも逞しく生き抜く力」が求められているのではないだろうか。よって、「いじめ」がなくなること以上に、社会全体で「いじめ」を防止したり、解決していく力を身に付けることの方が、より重要で現実的な課題なのである。そして、カトリック学校においてのその原理・原則は、「福音」そのものでなければならない。
 
 「いじめ問題」対策のために最も重要な「福音」は、「私たち個々の人間は、神から愛され必要とされ、望まれてこの世に生まれた存在でり、しかもそれぞれにその人にしかできない大切な使命を神から授かり、その使命を果たすためにそれぞれに特別な能力を与えられているかけがえのない存在なのである。」ということである。つまり、この「福音的人間観」の第一の真理を、日々の学校生活の中で学習者や教職員が互いに確認し合い共有していることが重要なのである。しかも、「神から愛され必要とされながら、望まれてこの世に生まれた存在」は、「私」だけではなく「あなた」もなのであって、「自己と他者およびすべての人々が、神によって愛され必要とされながら、望まれて生まれた、かけがえのない存在である」との自己認識と他者理解を共有するのならば、「いじめ問題」は無くなることは無いにしても、防止できない問題や解決できない問題ではなくなるはずなのである。そして、それらの問題解決の渦中にある人々の関わりのなかに福音が述べ伝えられるのであれば、必ずや聖霊の働きが一人ひとりに息づいて問題解決がなされるばかりか、いずれそれぞれが「神はすべての人間をイエス・キリストをとおして神の御国という福音共同体に導き、永遠の命に招いている」という福音の第二の真理に目覚めさせ、人間存在の福音的価値との邂逅を果たすことになるのである。
 

Last updated: 2012/12/3