1.福音的人間観に基づいた自己並びに他者に対する理解と受容
福音的ホームルーム経営を実践するに当たって重要なことは二つに大別することができる。一つには、担任教師およびホームルームの構成メンバーである個々の児童・生徒が、福音的人間観に基づきいかに自己理解を深めながら、いかに他者を受容し生徒間および教師と児童・生徒間の相互理解を深めていくことができるかということである。また、もう一つにはホームルームという集団を、福音的観点からいかにして共同体というレベルの集団にまで育てることができるかということである。この二つを更に端的に言い表すのならば、それは福音的人間観に基づいた自己並びに他者に対する理解と受容、そして共同体の育成ということになろう。
まず、第一にあげた個々の理解について具体的に示すと、次のようになる。
@担任教師および児童・生徒における自己理解
A担任教師による個々の児童・生徒理解
B児童・生徒による担任教師の理解
C担任教師と児童・生徒間の相互理解
D児童・生徒間における相互理解
@「担任教師および児童・生徒における自己理解」
担任教師および児童・生徒における自己理解とは、教師および児童・生徒が自分自身についてどれだけ自己理解ができているか、あるいは自己理解を深めようとしているかということである。そして、その自己理解がいかに福音的人間観に基づいたものとなっていて、そこにおける自己実現への原動力が召命観に根ざしているのかが、重要な要件となってくる。
そもそも自己理解とは、思春期を経験した大人ならば誰しもが理解しているとおり、意外に難しいことなのである。自分のことなのだから一番分かっているはずとの考え方もあるが、その逆に自分のことだからこそ、分からなかったり自己認識が誤っているということも多々あるのではないだろうか。だから、私たちは常に自己理解を深めようとの努力を怠ってはならないのであって、自己を深く見つめ自己に対する理解を深めることによって自己を受容することができるようになるのであって、自らの自己理解と自己受容が可能になってはじめて他者を理解し他者を受容できるようになるのである。
よって、教師は教師として、児童・生徒は児童・生徒としてそれぞれが自己理解に努めることは、両者の相互理解につながっていくことでもあるので、先ずはそれぞれが自分自身のパーソナリティを十分に吟味、把握して、そのパーソナリティが何のために与えられ、何に用いることが望ましいのかを考え判断していかなければならない。このような過程で自己理解を深めていくことが、福音的召命観に根ざした自己理解につながっていくことになり、ひいては自己の目指すべきあるいは本来的自己のあり方を見出すことができるようになるであろう。自己理解とは、教師であろうが児童・生徒であろうが、人間関係を構築していく上での大前提であると言えよう。
A「担任教師による個々の児童・生徒理解」
担任教師による個々の児童・生徒理解は、福音的ホームルーム経営以前にクラス経営には欠かせない担任教師として果たすべき第一の義務ともいえるものである。担任教師としてクラスの個々の児童・生徒理解を深めることは当然のことであるが、ここでいう児童・生徒理解とはあくまでも福音的人間観という観点からの生徒理解というものである。つまり、福音的人間観とは『私たち人間の一人ひとりは、神の御計画によって、神が必要としたために、神より固有の生を授かるとともに、固有の使命と存在価値を与えられ、神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。』というものであるから、担任教師は、クラスの個々の児童・生徒のが神様からどのような固有の生や固有の使命および存在価値を与えられているのかを、現時点での現象のみにとらわれることなく、将来的見地に立って的確に見極めていくようにしなければならない。
このように福音的人間観にたった児童・生徒理解は、個々の児童・生徒をより深く将来的かつ召命観に基づいた人間理解を可能にし、個々の児童・生徒一人ひとりの将来性を広げるとともに本来的自己実現に導くものとなるであろう。
B「児童・生徒による担任教師の理解」
人間関係とは一方的なものではなく、常に双方向に働きかけられることが本来的なものであるから、クラス経営における人間理解においても、担任教師による児童・生徒理解だけでは一方的な関係に終わってしまうので、児童・生徒による担任教師の理解も行われることで双方向の人間関係と相互理解が可能となる。
勿論、児童・生徒は成長過程の途上にある者たちであるから、担任教師による児童・生徒理解と同等に考えることは出来ないかも知れないが、担任教師による児童・生徒理解が生徒による担任教師の理解よりも的確で正しいものであると考えるのは、教師の傲慢であるとともに主従関係に基づく人間理解であることに十分気をつけるべきある。教育活動における人間理解は、互いに同じ目線に立ち、相手の立場を受け止めながら共に行われることが重要なのである。
特に、青年期にある中学校・高等学校の生徒を扱う教育現場では、青年期に特徴的な純粋な正義感や理想からくる大人社会に対する反抗的・批判的な姿勢や自立心と依存性が交錯した矛盾性などを十分に理解しながら関わりを持つべきである。また、そのような青年期にある生徒に、担任教師が自分自身を理解してもらうことは簡単なことではないが、教師としての福音的召命を生徒に理解してもらうことによって、生徒による担任教師の人間理解はより一層深まり、担任教師と生徒間における相互理解が進展することにつながるであろう。実は、クラス経営にとって児童・生徒による担任教師の理解とは、健全なクラス経営や有機的な集団作りおよびクラスを単なる集団から共同体へ発展させるための重要なキーワードとも言えるべきことなのである。
C「担任教師と児童・生徒間の相互理解」
前述の通り、人間関係とは一方的なものによるのではなく双方向性の関わりによって初めて成立するものであって、それを支えるものは互いの信頼関係に他ならないであろう。では、信頼関係は何から生まれるのかといえば、互いの相互理解が原点となるのではないだろうか。そのような意味において、担任教師と児童・生徒間における相互理解は、クラス経営には絶対なくてはならないものと言えよう。特に、ここで論じる相互理解とは、互いの家庭環境であるとか趣味が何であるとか好きなものが何であるとかといった個人的情報や個人的な趣味趣向にかかわるものとは違い、あくまでも福音的人間観に基づいた自己と他者の理解を出発点とした人間関係の構築よって成立するものを意味している。
福音的人間観に基づいた相互理解と信頼に裏付けられた人間関係は、自分自身にはない他者の持つ異質なもを受容すること、つまり相手を丸ごと受け入れることが相互に出来るようになり、これが他者と、または集団において対立と争いのない関係や共同体へと発展させる原理となる。そして更にこれらの気付きが、自分自身も他者も神から特別かつ固有な生と使命および存在価値を与えられた者同士であるということに気づかされ、それを認め合い互いの命や存在を神という絶対者において一致させ、自他の存在が永遠の命に招かれた者であるとの福音的自覚に止揚されていくことになるのである。
D「児童・生徒間における相互理解」
福音的なクラス経営のクラス集団のほとんどを構成する児童・生徒間における相互理解も重要な要素である。よりよい集団作りや単なる集団を共同体レベルにまで引き揚げるためには、集団を構成するメンバー間の相互理解は絶対欠かせないものであるし、人間の成長にとっても欠くことのできない他者との関わりを形成させていくための柱とも言えるべきものであって、児童・生徒が同世代の人間から相互に影響を与え合い成長していくことは、人間の成長過程における発達課題という観点からも重要なことである。また、人間社会において集団生活は基本的な形態であるから、その集団生活が円滑に営まれるか否かは、その集団の構成メンバーがいかに相互理解を深め互いに受容しあっているかが鍵を握っている。相手のことをよく知ることにより信頼関係が構築され、その信頼関係が自他を相互に受容し合い、単なる集団を共同体という福音的価値観によってつながれた集団へと発展することを可能にさせるのである。
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