「もし、わたしたちに罪はないというならば、自分自身を欺くことになり、真理はわたしたちの中にありません。罪の告白をするならば、真実で正しい神は、わたしたちの罪をゆるし、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。もし、罪を犯したことがないというならば、神を偽り者にすることになり、神のことばはわたしたちの中にはありません。
(Tヨハネ1:8〜10)

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学校経営 School Management

「カトリック学校としての学校経営の在り方」
カトリック学校としての戦略的学校マネジメントの展開
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 26     5.福音的ホームルーム経営 (1)教室における宗教的環境整備 2008年7月24日(木) 
 ホームルーム経営の第一歩は、教室の環境整備ではないだろうか。年度初めに新たな児童・生徒を迎えるに当たって、担任としてまずやることはクラス運営方針を考えることと教室の環境整備であろう。クラス運営を成功させることができるかどうかの第一の鍵は、教室の環境整備であり、第二の鍵はクラス担任としての学級経営方針を生徒たちに提示することである。
 
 ここでは、その第一の鍵である環境整備について述べる。
 
 根本的に人間は、外部からの働きかけである生活環境に影響を受けながら、人格形成がなされていくものである。もちろん生来的に持って生まれた一次的な気質や能力などの個性はあるものの、誕生後の育児環境やその後の生育環境などの二次的な外部からの働きかけによる要素は、人間の人格形成の上で、もっとも大きな影響力があると言ってよいのではないだろうか。この二次的な外部からの働きかけによる影響力には、両親からの愛情や躾あるいは親以外の兄弟姉妹や友人など、他者との関わりからくる人格的交わりによるもの、そしてどのような教育を受けたかなどの精神的環境による影響力、また家庭の経済力やどのような生活環境にあるかなどの物質的環境による影響力、さらには風土や地域環境などの自然環境による影響力の三つがあると考えられる。教室の環境整備とは、いわばこの二次的な外部からの働きかけである物質的環境による影響力に当たると言っても良い。
 
 そこで、一般的な学校における教室の環境整備とは、校訓や学年目標・クラス目標の掲示、掲示板のあり方とその内容、そして行事日程表の整備や机の配置等々であろうが、ここで述べるのはカトリック学校としての教室における宗教的環境整備のことである。
 
カトリック学校には、イエス・キリストの福音を述べ伝えるという特別な使命があるのだから、教室環境においても十分にその使命が果たされるよう配慮されていなければならない。具体的事項を上げると次のようになるであろう。
 
 @神の御言葉とキリストの福音を伝える聖書の設置
 Aキリストの福音の象徴としての十字架の設置
 Bカトリック精神と学校の教育方針を表す校訓等の掲示
 C従順・謙遜・敬虔・柔和など女性や母としての理想であるマリア像の設置
 D「主の祈り」や「聖母マリアへの祈り」等、日々の学校生活の中で祈りの慣行を促すための祈りの言葉の掲示
 E信仰心の重要性を感じさせるための聖画や聖品の設置
 Fキリスト教価の値観を伝えるための機関誌や雑誌等の設置
 
 これら七項目については、教室のみならず校舎内外の校地全般に渡って共通して必要なものであるが、児童・生徒の学校生活の中心の場である教室については特に重要であると言える。また、これらの設置物や掲示物は一義的には「物質」=「物」でしかないとの解釈が成されるかも知れないが、いずれもキリスト教における思想や精神性そのものであるか、若しくはそれらを現しかつ伝えるために、必要不可欠で有意義なものである。
 
 確かに教室における環境整備は、「二次的な外部からの働きかけである物質的環境による影響力に当たる」と前述した。この考え方は、ともすれば唯物論的な思想に解される誤解が生じる危険性があるかも知れないが、これらのものの原点は、あくまでも精神性そのものであって、その精神により形作られたものであるから、単なる物質から受ける外部的な影響力とは質を異にするわけである。よって教室における宗教的環境整備とは、哲学上の唯神論や唯物論に体系づけらるところのものではなく、
人間生活全般において私たち人間の生活が、さまざまな要因に影響を受け決定づけられているという事実を表しているのである。
 
 いずれにせよ、児童・生徒に最も大きな影響力を及ぼす担任によるクラス経営において、教室の環境整備は重要な要素である。特に、カトリック学校において福音宣教という固有の使命をホームルーム単位においても果たそうとするならば、日常的に宗教的価値観や環境に触れさせることは、必要不可欠なことであって非常に重要なものであるから、クラス担任はこれらのことを、十分に理解し受け止めた上で、教室の環境整備に努めることが大切である。
 
 27     5.福音的ホームルーム経営 (2)福音的価値観に基づいた生徒とクラス担任との信頼関係 2008年7月30日(水) 
 生徒と学級担任教師との信頼関係を気付き上げることは、学級担任教師にとって最重要任務ともいうべきものである。しかし、一言に信頼関係と言ってもさまざまな形の信頼関係があろう。そもそも信頼関係というものは、自己と他者との間に働く双方向の信頼の念や自己を他者に安心して委ねる情であると言って良いのであろうが、その信頼関係がどのように形づくられ、どのような質のものであるのかは十分な吟味を必要とするところである。
 
 それは、教師と生徒間の信頼関係とは、組織間における管理的役職上における信頼関係や伝統芸能、武道等における封建的な師弟関係などの侍従的な信頼関係でもないはずである。しかし、ともすれば閉鎖的な学校教育の現場では、教育的な信頼関係とは言い難い関係が横行する危険性をはらんでいるので、私たち教師は生徒との関係がどうあるのかを日頃からよく反省し、常に生徒との関わり方には十分気を付けなければならない。
 
 特に学級担任としては、クラス運営を計画する際に、生徒との信頼関係をどのような方法論でどのような質のものを築き上げていこうとするのかという明確なヴィジョンを念頭において、クラス運営に当たることが重要である。よって、ここで述べる生徒とクラス担任との信頼関係とは、教育活動上の生徒と教師間における信頼関係がどうあるべきかを問題にするのであって、中でもその関係が福音的価値観に基づいたものであることの重要性について述べることにする。
 
 前述の3.福音的生徒指導(1)福音的人間観で述べたように、キリスト教の宗教観における福音的観点に立った人間観とは、『私たち人間の一人ひとりは、神の御計画によって、神が必要としたために、神より固有の生を授かるとともに、固有の使命と存在価値を与えられ、神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。』というものであるから、福音的価値観に基づいた生徒とクラス担任との信頼関係とは、まずクラス担任がこの福音的人間観を十分に理解しそれを踏まえた上で、クラスの生徒一人ひとりとの関わりを持っていくことが大前提となる。
 つまり、自分が任されたクラスの生徒一人ひとりは、『神の御計画によって、神が必要としたために、神より固有の生を授かるとともに、固有の使命と存在価値を与えられ、神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。』との認識を常に忘れてはならないのであって、しかも担任教師である自分自身の存在自体も福音的価値観に基づいて捉えられていなければ、生徒一人ひとりをも福音的価値観に基づいて捉えることは難しいであろう。なぜならば、人は往々にして自分の物差しで人を測るものであるから、先ずは自分自身の人間的存在を価値あるものと受け止め、その価値が神から由来するものであってかつ重要な使命を帯びたかけがえのない者であるとの自覚が、生徒一人ひとりの存在を福音的に捉えることにつながることであろう。
 
 では、そのような福音的人間観をどのように生徒一人ひとりに伝え、クラス運営に反映させていけばよいのだろうか。その答えは、クラス担任としての日常的な業務や教師としての生き方そのものにあるのではないだろうか。毎日の朝終礼(SHR)における担任講話の話題、生徒や教師間においての日常的な言動。または、LHRのあり方や総合的な学習で扱う教材や学習内容、そして清掃時間や遠足、二者面談や文化祭等の授業以外の学校行事等、担任教師として、生徒に対して働きかける教育活動のすべての場面が当てはまるであろう。そのような日々の教育活動で、生徒は教師の一挙手一投足に至るまでを見ているものである。よってクラス担任がどのような教育的働きかけや関わりを持とうとしているのるかは、生徒には否が応でも伝わり教師としての生徒に対する姿勢が常に問われることになるのである。
 
 日常的な日々の教育的働きかけや人間的関わりの中で、生徒一人ひとりを福音的に捉えるのならば、彼らの一人ひとりがどのようなパーソナリティを持ち、どのような使命を神から託されている存在なのかを見出すことになるであろう。クラス担任として生徒一人ひとりをこのように捉えることができるようになれば、自ずと生徒一人ひとりの人格を尊重し、大切にせずにはいられなくなるはずである。
 
 他者を大切にできる人間は、他者からも大切にされ尊敬されるものである。よって、生徒一人ひとりの全人格ばかりか、その存在のすべての価値は神から由来するのだ、との認識を確固たるものとすのならば、その担任教師は生徒からの信頼を一身に受けることになるであろう。そして、生徒とクラス担任との関係における福音的人間観に基づいた価値観を共有するための努力の結果、互いの相乗効果の働きによって、福音的価値観に基づいた生徒とクラス担任との信頼関係が初めて築き上げられることになるのである。 
 
 28     5.福音的ホームルーム経営 (3)福音的価値観に基づいた生徒の父母とクラス担任との関係 2008年8月12日(火) 
 児童・生徒の父母との関係において重要な大原則が一つだけある。それは、「児童・生徒との父母とは極力トラブルを避け、リレーションを保持し続けること。」である。そのためには、教師としての父母に対する要求と父母からの要求とのバランスを保つことが大切である。さらにそのバランスを保つために、まずは父母の要求を受け入れる姿勢をつくり、聞き役に徹するというカウンセリングマインドを養うことが肝要である。生徒の父母に限らず人間関係においてことら側の考えを理解してもらうには、まずは相手の考えや立場を受け入れることが先決であり、事をうまく運ばせる鉄則であろう。福音的価値観に基づいた生徒の父母と担任との関係を構築していくためには、児童・生徒一人ひとりの父母の考えやそれぞれの立場、そしてこどもに対する思いをまずは受け入れることがその第一歩となる。
 
 その上で、福音的価値観に基づいた児童・生徒の父母と担任との関係を築いていくための次の段階は、世の中の多くの親が子供に対して抱いている固定観念を改めてもらうことである。その固定観念とは二つある。その一つは、「子供は天からの授かりもの」、もう一つは「親あっての子」というものである。この世間一般で言う常識に対する発想の転換を図ってもらわなければならない。
 
 まず、「子供は天からの授かりもの」は、「子供は天からの預かりもの」という発想の転換である。確かに、すべての子供が持つその大切な存在意義や生命の誕生の神秘性から、子供は天からの授かりものなのではあるが、どの子供も親とは全く別の人格を所有し、固有の自己実現を果たすのであって、その存在には親とは違う独立性を帯びているのである。よって親は、子供が親から精神的に自立し、固有の自己実現を果たしていけるよう自立させなければならないのであって、子供の人格や将来性を親の目的の手段として扱うようなことがあってはならないのだ。このような観点から、「子供というものは、天からの預かりもので、やがては一人前にしてお返しする」という発想を持つことが、本来的な子供の幸せを願う親の姿勢というものなのではないだろうか。
 
 次に、「親あっての子」というものであるが、存在そのものの順番という意味では正しいのだろうが、よくよく考えてみれば人は最初から親なのではなく、子供が生まれてきてくれて初めて親となれるわけで、親と子の関係の成立という観点においては、子が先ということになるのである。つまり、人は結婚し子が誕生することによって、母親・父親とならせていただくのであって、子供の誕生無くしては決して親とはなり得ないのである。このような観点から、「親あっての子」ではなく、「子あっての親」というわけである。
 
 これら二つの発想の転換は、福音的価値観に基づいた児童・生徒の父母と担任との関係を構築していく上で、最も重要な福音的人間観を生徒の父母に理解してもらうために非常に重要な用件となってくる。
 
 福音的価値観に基づいた生徒の父母と担任との関係とは、児童・生徒の父母と担任教師とが福音的人間観を理解し共有するということである。福音的人間観とは、先にも述べてきたとおり、『私たち人間の一人ひとりは、神の御計画によって、神が必要としたために、神より固有の生を授かるとともに、固有の使命と存在価値を与えられ、神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。』というものであるから、福音的価値観に基づいた児童・生徒の父母とクラス担任との関係とは、児童・生徒との信頼関係を築いて聞くのと同様に、まずクラス担任がこの福音的人間観を十分に理解しそれを踏まえた上で、児童・生徒の父母一人ひとりとの関わりを、子供(児童・生徒)の自立と固有の自己実現を達成させるという共通の目的の共有にあると言える。
 
 結論的に福音的価値観に基づいた児童・生徒の父母と担任との関係とは、それぞれが子供(児童・生徒)の存在や親(父母)そして先生(教師)をどのような価値観で受け止め、どのような目的のために、どのような行動をするかということなのである。それは、取りも直さず子供(児童・生徒)の存在を福音的人間観によって捉え、子供(児童・生徒)の自立と固有の自己実現の達成という共通の目的を生徒の父母および教師が子供(児童・生徒)を介し共有することに他ならないといって良いのではないだろうか。どの子供(児童・生徒)も「神さまからお預かりしたかけがえのない大切な存在」である。神さまが与えて下さった子供の命を大切にし、神さまから与えられた使命を果たせる者となるように育てていかなければならない。これもまた親となった、教師となった私たち大人の使命に他ならない。
 
 29     5.福音的ホームルーム経営 (4)ホームルームにおける祈りの慣行 2008年9月22日(月) 
 キリスト級における信仰の基本は、「祈りと行動」である。勿論、祈りは行為そのものであるから、行動に含まれるのだろうが、信仰心に根ざした行動とは祈りから始まるものであって、祈りは行動の源、原点あるいは原動力と位置づけることができよう。
 
 日本の伝統的な宗教である神道に根ざした年中行事にでさえ出向く人々が減ってきている昨今、現代人は信仰心を忘れたかけてはいないだろうか。一年の計は元旦にありとまで言われる初詣にすら近頃の若者は行かなくなってきているのである。このような現象にも現れているように、現代人は「祈る心」を失いつつあるという危惧感を持たざるを得ないのである。
 
 どの宗教かは別として、「祈る」という行為そのものは人間にとってごく自然な活動であると思う。にも関わらず、現代人に祈りそのものの行為自体を忘れさせてしまう要因とは何なのであろうか。それは幼児体験から、宗教的儀式等の経験が欠如していることから来ているのではないかと考えられる。それは、初詣や節分、雛祭りや端午の節句、そして十五夜、または、お彼岸や花祭り、お盆や除夜など伝統的年中行事をとおして伝えられてきた「祈る心」の伝承が途絶えてきたとにあるように思われる。その反面、外来文化としてのクリスマスやヴァレンタインデイ、そしてハロウィンなどは本来の宗教的意義を度外視して、商業ベースに乗せて年末商戦などの消費経済の道具に使われ、私たち消費者はそれに乗せられてしまっているのだ。
 
 クリスマスについて言えば、こども達はクリスマスを迎える心の準備をすることもなく、家中をクリスマスグッズやイルミネーションで飾り立て、プレゼント交換どころかプレゼントは、一方的にもらうものと思い込み、そしてケーキやご馳走を食べてパーティをするものだと信じて疑わず、本来は何の日でどのように過ごすものなのかも全く理解はしていないのである。
 
 このような日本の現状にあって、児童・生徒たちが「祈りの心」を育む機会や場面が幼少の頃から少ないないのが実状なのである。では、これらの現状を踏まえてどのような解決方法があるのだろうか。家庭における日常生活の中で、「宗教心」や「祈りの心」を育む機会や場が希少となっているのであるから、学校生活の中でそのような機会や場を提供する他はないであろう。そう考えた場合、カトリック学校における役割や存在意義は急上昇することになる。児童・生徒は、一日の約半分を学校で過ごすわけであるから、自ずと学校教育で行われる宗教の授業や宗教行事を通しての宗教教育の影響力が多大であることはいうまでもない。日常の中から「宗教心」や「祈る心」の欠如している現代の児童・生徒にとって、カトリック学校はそれらの機会や場を提供し、補い育てる格好の場となることは間違いないことである。
 
 では、具体的にホームルームにおいて「宗教心」や「祈る心」を育むためにどのようなことが可能であろうか述べてみよう。第一には、朝礼である。多くのカトリック学校においては、毎朝朝礼を慣行しているが、その中で「主の祈り」や「聖母マリアへの祈り」を唱えることは一般的であるし、聖書朗読もなされているはずである。このような場合、一日の始業時に祈りから始まるという形をとることになるので、先に述べたようにキリスト教における信仰の基本である祈りが生活の中に取り入れられることになる。また、教室内の環境に目をやってみれば、十字架やマリア像の設置、そして聖画や祈りの掲示がなされているであろう。これらも児童・生徒の学校生活環境の中で、「宗教心」や「祈る心」を育てる役割の一躍を担っていることは間違いない。
 
 また、授業後の帰りの終礼やSHRにおいても祈りの中で一日を振り返り、反省の時間を設けているカトリック学校も多いはずである。この場合、一日の学校生活が祈りで始まり祈りで終わることになるから、児童・生徒において「宗教心」や「祈る心」を育むためには、理想的な形をとることになる。ただ、それらの祈りの行為が形式的にならないようにとの配慮が必要である。確かに祈り自体が習慣になることは望ましいことではあるが、祈りを唱えることが習慣化することによって、祈りが形骸化してしまったのでは祈る意味が無くなってしまうので、その点においては十分気を配る必要性がある。
 
 更に、ホームルームではないが、カトリック学校における特徴的なカリキュラムとして、宗教の教科・科目が設定されているのが通常であるが、この授業の始業時や終業時に黙想や祈りを取り入れていることも多く、このことも児童・生徒の「宗教心」や「祈る心」を育むことに大いに役立っていることは、言うまでもない。また、現代のこども達には食育教育の必要性が唱えられているが、食前・食後の祈りを唱えることによって、自然の恵みや食料産業に関わる人々に感謝することの重要性も伝えることができよう。
 
 このように、「祈る」ということは神そのものや自然全体、または自分の目の前には存在しなくとも自己とのつながりや関わりのある人々を思い起こさせ、摂理や人間に対する信頼の念を培う良い機会ともなるものである。人間関係や社会の営みの中で、最も重要なことは信頼関係であろう。信頼とは目には見えないが、相手を敬い大切にすることができるための礎となるもので、愛するという行為の原動力である。そして、それは「祈る」という人間の極めて自然で素直な行為無しには、生まれてこないものではないだろうか。そこに「祈る」大切さや祈りを日常的に慣行することの必要性を見出せるのである。日々の祈りの慣行こそが、現代の児童・生徒たちに欠如した「宗教心」や「祈る心」を喚起させることにつながるであろう。
 
 30     5.福音的ホームルーム経営 (5)福音的ホームルーム経営実践のための基本-1 2008年10月31日(金) 
1.福音的人間観に基づいた自己並びに他者に対する理解と受容
 
 福音的ホームルーム経営を実践するに当たって重要なことは二つに大別することができる。一つには、担任教師およびホームルームの構成メンバーである個々の児童・生徒が、福音的人間観に基づきいかに自己理解を深めながら、いかに他者を受容し生徒間および教師と児童・生徒間の相互理解を深めていくことができるかということである。また、もう一つにはホームルームという集団を、福音的観点からいかにして共同体というレベルの集団にまで育てることができるかということである。この二つを更に端的に言い表すのならば、それは福音的人間観に基づいた自己並びに他者に対する理解と受容、そして共同体の育成ということになろう。
 まず、第一にあげた個々の理解について具体的に示すと、次のようになる。
 
 @担任教師および児童・生徒における自己理解
 A担任教師による個々の児童・生徒理解
 B児童・生徒による担任教師の理解
 C担任教師と児童・生徒間の相互理解
 D児童・生徒間における相互理解
 
 @「担任教師および児童・生徒における自己理解」
 
 担任教師および児童・生徒における自己理解とは、教師および児童・生徒が自分自身についてどれだけ自己理解ができているか、あるいは自己理解を深めようとしているかということである。そして、その自己理解がいかに福音的人間観に基づいたものとなっていて、そこにおける自己実現への原動力が召命観に根ざしているのかが、重要な要件となってくる。
 
 そもそも自己理解とは、思春期を経験した大人ならば誰しもが理解しているとおり、意外に難しいことなのである。自分のことなのだから一番分かっているはずとの考え方もあるが、その逆に自分のことだからこそ、分からなかったり自己認識が誤っているということも多々あるのではないだろうか。だから、私たちは常に自己理解を深めようとの努力を怠ってはならないのであって、自己を深く見つめ自己に対する理解を深めることによって自己を受容することができるようになるのであって、自らの自己理解と自己受容が可能になってはじめて他者を理解し他者を受容できるようになるのである。
 
 よって、教師は教師として、児童・生徒は児童・生徒としてそれぞれが自己理解に努めることは、両者の相互理解につながっていくことでもあるので、先ずはそれぞれが自分自身のパーソナリティを十分に吟味、把握して、そのパーソナリティが何のために与えられ、何に用いることが望ましいのかを考え判断していかなければならない。このような過程で自己理解を深めていくことが、福音的召命観に根ざした自己理解につながっていくことになり、ひいては自己の目指すべきあるいは本来的自己のあり方を見出すことができるようになるであろう。自己理解とは、教師であろうが児童・生徒であろうが、人間関係を構築していく上での大前提であると言えよう。
 
 A「担任教師による個々の児童・生徒理解」
 
 担任教師による個々の児童・生徒理解は、福音的ホームルーム経営以前にクラス経営には欠かせない担任教師として果たすべき第一の義務ともいえるものである。担任教師としてクラスの個々の児童・生徒理解を深めることは当然のことであるが、ここでいう児童・生徒理解とはあくまでも福音的人間観という観点からの生徒理解というものである。つまり、福音的人間観とは『私たち人間の一人ひとりは、神の御計画によって、神が必要としたために、神より固有の生を授かるとともに、固有の使命と存在価値を与えられ、神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。』というものであるから、担任教師は、クラスの個々の児童・生徒のが神様からどのような固有の生や固有の使命および存在価値を与えられているのかを、現時点での現象のみにとらわれることなく、将来的見地に立って的確に見極めていくようにしなければならない。
 
 このように福音的人間観にたった児童・生徒理解は、個々の児童・生徒をより深く将来的かつ召命観に基づいた人間理解を可能にし、個々の児童・生徒一人ひとりの将来性を広げるとともに本来的自己実現に導くものとなるであろう。
 
 B「児童・生徒による担任教師の理解」
 
 人間関係とは一方的なものではなく、常に双方向に働きかけられることが本来的なものであるから、クラス経営における人間理解においても、担任教師による児童・生徒理解だけでは一方的な関係に終わってしまうので、児童・生徒による担任教師の理解も行われることで双方向の人間関係と相互理解が可能となる。
 
 勿論、児童・生徒は成長過程の途上にある者たちであるから、担任教師による児童・生徒理解と同等に考えることは出来ないかも知れないが、担任教師による児童・生徒理解が生徒による担任教師の理解よりも的確で正しいものであると考えるのは、教師の傲慢であるとともに主従関係に基づく人間理解であることに十分気をつけるべきある。教育活動における人間理解は、互いに同じ目線に立ち、相手の立場を受け止めながら共に行われることが重要なのである。
 
 特に、青年期にある中学校・高等学校の生徒を扱う教育現場では、青年期に特徴的な純粋な正義感や理想からくる大人社会に対する反抗的・批判的な姿勢や自立心と依存性が交錯した矛盾性などを十分に理解しながら関わりを持つべきである。また、そのような青年期にある生徒に、担任教師が自分自身を理解してもらうことは簡単なことではないが、教師としての福音的召命を生徒に理解してもらうことによって、生徒による担任教師の人間理解はより一層深まり、担任教師と生徒間における相互理解が進展することにつながるであろう。実は、クラス経営にとって児童・生徒による担任教師の理解とは、健全なクラス経営や有機的な集団作りおよびクラスを単なる集団から共同体へ発展させるための重要なキーワードとも言えるべきことなのである。
 
 C「担任教師と児童・生徒間の相互理解」
 
 前述の通り、人間関係とは一方的なものによるのではなく双方向性の関わりによって初めて成立するものであって、それを支えるものは互いの信頼関係に他ならないであろう。では、信頼関係は何から生まれるのかといえば、互いの相互理解が原点となるのではないだろうか。そのような意味において、担任教師と児童・生徒間における相互理解は、クラス経営には絶対なくてはならないものと言えよう。特に、ここで論じる相互理解とは、互いの家庭環境であるとか趣味が何であるとか好きなものが何であるとかといった個人的情報や個人的な趣味趣向にかかわるものとは違い、あくまでも福音的人間観に基づいた自己と他者の理解を出発点とした人間関係の構築よって成立するものを意味している。
 
 福音的人間観に基づいた相互理解と信頼に裏付けられた人間関係は、自分自身にはない他者の持つ異質なもを受容すること、つまり相手を丸ごと受け入れることが相互に出来るようになり、これが他者と、または集団において対立と争いのない関係や共同体へと発展させる原理となる。そして更にこれらの気付きが、自分自身も他者も神から特別かつ固有な生と使命および存在価値を与えられた者同士であるということに気づかされ、それを認め合い互いの命や存在を神という絶対者において一致させ、自他の存在が永遠の命に招かれた者であるとの福音的自覚に止揚されていくことになるのである。
 
 D「児童・生徒間における相互理解」
 
 福音的なクラス経営のクラス集団のほとんどを構成する児童・生徒間における相互理解も重要な要素である。よりよい集団作りや単なる集団を共同体レベルにまで引き揚げるためには、集団を構成するメンバー間の相互理解は絶対欠かせないものであるし、人間の成長にとっても欠くことのできない他者との関わりを形成させていくための柱とも言えるべきものであって、児童・生徒が同世代の人間から相互に影響を与え合い成長していくことは、人間の成長過程における発達課題という観点からも重要なことである。また、人間社会において集団生活は基本的な形態であるから、その集団生活が円滑に営まれるか否かは、その集団の構成メンバーがいかに相互理解を深め互いに受容しあっているかが鍵を握っている。相手のことをよく知ることにより信頼関係が構築され、その信頼関係が自他を相互に受容し合い、単なる集団を共同体という福音的価値観によってつながれた集団へと発展することを可能にさせるのである。
 

Last updated: 2012/12/3