「もし、わたしたちに罪はないというならば、自分自身を欺くことになり、真理はわたしたちの中にありません。罪の告白をするならば、真実で正しい神は、わたしたちの罪をゆるし、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。もし、罪を犯したことがないというならば、神を偽り者にすることになり、神のことばはわたしたちの中にはありません。
(Tヨハネ1:8〜10)

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学校経営 School Management

「カトリック学校としての学校経営の在り方」
カトリック学校としての戦略的学校マネジメントの展開
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 21     3 福音的生徒指導 (4)清掃活動の協同・協働 2012年12月3日(月) 
 
 清掃活動をわざわざ福音的生徒(学習者)指導の項目に入れたのは、清掃活動が持つ学校全体もしくは学習者の学校生活に対する姿勢を変えるほどの教育的効果があると考えるからである。
 
 学習活動に教室環境の整備が欠かせないのと同様に、学校生活のみならず人間の日常生活において清掃活動は欠かせない。そして、人間は生活環境にその行動を規定または大きく影響を受けるから、生活環境の整備や整理整頓は学習者の健康や精神の在り方にまで影響を及ぼすものである。よって、成長過程にある学習者にとって清掃活動は、修道僧や修行僧の修身(自分の行いを正し、身を修めととのえることの意において)にも共通するものがあると言って良いだろう。
 
 とは言っても、私がここで論ずる清掃活動は、修道僧や修行僧の修身のように真理や悟りを探求するための修行に通じるものではなく、「清掃活動の協働・協働」とタイトルにあるように、教師と学習者が人間にとって実に基本的な日常的行為である清掃活動を共に同じ立場で役割分担をして共に働くというところに意義を見出しているからである。
 
 教師を目指す多くの生徒や学生が異口同音に共通して理想の教師像として掲げるのは、「子どもの目線になって」とか「子どもの立場に立って」指導できる教師と言う言葉であるが、実に熱意と情熱に満ちた純真でいい心構えである。しかし、一度教師になるとその教師としての理想や志は薄れていってしまうようである。私が知っている多くの教師は、清掃時間には腕組みをしたまま上から目線で監督をしているか、その清掃区域にいるのならまだしも職員室で仕事をしていたり雑談している者たちだ。教師とは、学習者と共にいて初めて価値ある存在になるのであって、学習者不在の教育活動は教育現場にいる教師としては、教師としての責任ある役割や学習者との貴重な関わりの時間を自ら放棄してしまっていると言わざるを得ないであろう。教師とは、学習者と共にいてこそ教師としての使命を果たせるのであって、正にこの共にいるという行為自体に、わたしたちの主イエス・キリストの行いに倣う者となり、清掃活動をとおして福音が行き渡ることになるのである。
 
 この協同・協働という行動形態そのものが、実に重要なのである。同じ立場に立ち同じ行為を分け合い活動する、あるいは働くということが、いかに互いの心を通わせ信頼関係や協力関係そして一体感をつくることとなることか。わたしたちの主イエス・キリストも神の子でありながら受肉し、最も弱い嬰児としてこの世に生まれ、何の権威も権力も財産も持たない一人の人間としてこの世に共に生きられなかったのならば、二千年もの時を越えて福音が語り継がれ、これだけ多くの人々に信じられ救いをもたらすことができていたであろうか。大げさに聞こえるかも入れないが、清掃活動を協同・協同することには、神の御前においてはみな平等であり、神に対して謙遜でいなければならないことを教えてくれる。清掃活動には、それだけの深い意味合いと人の心を動かし行動に変えるだけの力が秘められている。
 
 清掃活動はできる限りすべての教職員と学習者が同じ時間に同じ姿で協同・協働して実践することが重要である。特に、校長等の学校責任者自らが清掃活動に携わり範を示せば、その姿を学習者や教職員が見ることによって、それだけで学校は大きく変わる。もし、大学の学長が自ら清掃活動を率先してやるならば効果覿面、それを見ただけで学生はその学長を尊敬するばかりか、走り寄って「私も一緒にやらせて下さい。」と言うに違いない。最後の晩餐の夜、わたしたちの主イエス・キリストが自ら弟子達の足を洗ったように、教師自らが学習者と共に清掃活動を協同・協働するならば、学習者の学校生活に対する姿勢や教師に対する態度、そして教職員間の人間関係を大きく変化させ、学校(学園)全体を活性化させると共に一致団結させ、福音共同体へと成長させていくことになるであろう。
 
 清掃活動をはじめ、学校教育活動のすべての部面において教職員の学習者に対して示す協同・協働の姿勢こそが、福音的学習者指導の原点であると言えよう。
 
 22     4.福音的進路指導 (1)福音的人間観に基づいた進路指導 2008年4月4日(金) 
 福音的人間観とは、「私たち人間の一人ひとりは、神の御計画の中で、神が必要としたために、神より固有の生命を授かるとともに、神の御計画の完成のために固有の使命と存在価値を与えられ、神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。」というものであるから、この概念に基づいた進路指導とはどのようなことであろうか考えてみよう。
 
 教育現場における進路指導の基本的あり方に、まず第一に自己の適性を把握することから始めることはごく一般的なことではあるが、このことを福音的人間観に当てはめて考えるならば、自己の適性を把握することとは、まさに福音的人間観の『神より与えられた固有の使命と存在価値』とは何かを考え、それに気づくことである。個人における適正とは、一人ひとり千差万別である個性にもつながるものであるが、それは取りも直さず人間が生まれながらに神より与えられた固有の使命や存在価値そのものであると言えよう。そして、これらのことは人間という観点から解釈すると「自己の可能性の模索と発見」であるとか、「本当の自分との出会い」であるとか、「本物の自分になる」とかという表現に言い換えられるものである。
 
 学習者である児童・生徒および学生、特に児童や生徒は若年かつ経験が浅いため、とかく進路を自己の希望や興味関心を中心に考えがちである。しかし、往々にして中高生ぐらいまでは自己に対する理解がまだ未熟であることから、自己の適性を見誤ったり、自己の適性そのものを考慮しないままに将来の進路考えがちなものである。もちろん自己の適性を考えるがあまり、将来に対する希望を失ったり、必要以上の不安を抱いたり、自己の可能性を狭めてしまったりしないように配慮しながら指導することも重要なことである。
 
 また、私たち教師においては、学習者やその保護者の進路希望を実現し、進路実績を果たすことが最大の任務と責任であると捉えがちなところがある。しかし、本当に学習者やその保護者の希望する進路を達成させることが本来的な進路指導であろうか疑問を呈さなければならない。カトリック学校の進路実績は、あくまでも学習者一人ひとりの神より与えられた固有の使命と能力の可能性の達成の結果でなければならないからである。学習者である児童・生徒および学生が、生まれながらに神より自己に与えられた使命や存在価値という福音的人間観に立ち、自己の将来と可能性および肯定的自我を見出していく中で、他者との関わりである社会に貢献していくというアイデンティティを確立していくことが青年期の発達課題であるとともに、福音的人間観という観点における進路達成であると言えるのではないだろうか。
 
 私たち人間の存在のあり方は、福音的人間観をもとに考えると、神の御計画の中で神より与えられた固有の生命と使命を、他者との関わりの中で生き抜くことが求められているわけであるが、このこと自体が個人における固有の存在価値や私たち人間の命や人格の尊厳の根拠となるものであって、どんな価値基準にもまして優先されるべきものなのである。よって、この福音的人間観こそがどのようなことを差し置いても、最優先されるべきものであると言っても過言ではない。人間が、または個人が最大限に尊厳されるべき根拠は、私たち人間の一人ひとりが、神の御計画の完成のために、神より固有の命と使命を授かっているからに他ならないのであって、私たち人間はそのことに気づくことによって、初めて自我の尊さに覚醒し、「自己の可能性の模索と発見」であるとか、「本当の自分との出会い」であるとか、「本物の自分になる」と言われることを目指していけるようになるのである。
 
 よって私たち教師が、学習者に対して進路指導を実施する際には、この福音的人間観をしっかりと指導の根底に置いておかなければ、学習者に対して自己を本来的に生かしていくための進路指導にはなり得ない。カトリック学校における進路指導の第一には、福音的人間観に基づいて、まずは学習者である児童・生徒および学生が自分自身を福音的に捉えるという最も根本的で優先的な原点に立たせるということが重要なのである。そのために、私たちカトリック学校の教師は、まず自分自身の存在を福音的に捉えることからはじめ、その上で学習者に対して進路指導ができるよう毅然たる態度で臨むことが求められる。
 
 カトリック学校における進路指導とは、単に学習者とその保護者の進路希望を達成させるためのものでもなければ、進路実績を向上させ生徒募集に役立たせるためのものでもない。それは、あくまでも「私たち人間の一人ひとりは、神の御計画の中で、神が必要としたために、神より固有の生命を授かるとともに、固有の使命と存在価値を与えられ、その完成のために神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。」という福音的人間観に立脚し、神の御計画の実現を図っていこうとするものでなければならない。なぜならば、神の御計画の実現とは、人間の本来的な幸福の完成でもあるからである。
 
 23     4.福音的進路指導 (2)福音宣教と進路指導 2008年4月24日(木) 
 進路指導において、あるいは進路指導をとおして福音宣教を可能にするにはどのようにしたらよいであろうか。前述の通り、カトリック学校における進路指導の第一には、福音的人間観に基づいて、まずは学習者である児童・生徒および学生が自分自身を福音的に捉えるという最も根本的で優先的な原点に立たせるということが重要なのでことある。つまり、福音的人間観に基づき自分自身は、『神より与えられた固有の使命と存在価値』を与えられた者と考え、それに気づかせることである。そうすることで「自己の可能性の模索と発見」であるとか、「本当の自分との出会い」であるとか、「本物の自分になる」とかと言われることが実現するであろう。そして、学習者である児童・生徒及び学生にこれらのことを自覚させることが一つの福音宣教であると言えるのである。進路指導における福音宣教の第一段階は、自己の存在を福音的人間観に基づいて捉えさせることにある。
 
 自己の存在自体を福音的人間観に基づいて認識できれば、神より自己に与えられた固有の命を生かし、その使命を果たそうと生きるであろう。それは取りも直さず、社会に対する働きかけに繋がるから、神の御計画の実現の一躍を担うことになるわけである。よって、進路指導における福音宣教の第二段階は、福音的世界観を持たせることにある。福音的世界観とは、神の御計画に従ってこの世界が創られ、神の御摂理の中ですべての営みが為されているという事である。だから自己の存在が、神の御計画と店吊りの中に組み込まれていると言うこと、そして私たち人間が、人間生活の営みの中で起こるさまざまな困難や苦しみ、理不尽なことやどうにもできないこと等々からの救いが、イエス・キリストの十字架による罪の贖いによって実現し、ついには罪による死からも解放されて復活し、永遠の命に与るという完全な姿に招かれている存在であるということである。
 
 このような福音的世界観が学習者に形成されれば、福音的人間観と相まって自ずとおのおの自己に与えられた固有の使命を見いだし、それを全うさせることに邁進することであろう。私たち人間には、それぞれに固有の使命が与えられて、それに見合った能力が授けられている。しかし、それはあくまでも萌芽であって自ら培い、他者から育まれること無しには実ることはない。だから、福音的な進路指導において最も重要で必要な役割は、われわれ教師が学習者である個々人のそれぞれが神より授かった固有の使命や能力に先ずは気づかせ、その萌芽を育むよう導いていくことであると言えよう。このことが、進路指導における福音宣教の第二段階である。
 
 進路指導における福音宣教の第三段階は、弁証法的に考えると第一段階における「自己の存在を福音的人間観に基づいて捉えさせること。」と第二段階における「福音的世界観を持たせること。」を止揚させるという統合的作業である。それは、学習者である児童・生徒及び学生がそれぞれの成長段階における発達課題の達成とともに、自己の能力の開化や伸長及び開発を福音的人間観に基づいた目的のために行うことと、現在及び将来の自分を他者のために生かそうと決意する段階にまで引き揚げることである。この作業によって、カトリック学校の進路指導における福音宣教は、神学的知識または直接的な聖書のみ言葉を語ることなく、実質的かつ有機的に学習者の適正や将来の希望を考えさせながら達成させることができる。
 
 そもそも人間はすべてにおいて皆それぞれに生まれ、育てられて創られていく。その千差万別の異なる成長過程や能力・気質・性格等の人格の差異が存在する本質的理由は、絶対者である神より固有の生と使命を授けられているからなのであるとともに、そのすべてにおいて異なる人間が、神の御摂理に従って神の御計画の実現である真に幸福な世界の創造のためであることに他ならないであろう。
 
 私たちカトリック学校の教師は、いかなる理由があっても児童・生徒及び学生を排除もしくは疎外することがあってはならないのであって、福音的人間観と福音的世界観を日々の教育活動の根底に据え、学習者である幼児・児童・生徒及び学生の一人ひとりが神から固有の生と使命を授かった存在であることを心にとめながら、特に学習者の将来を決定づけることに繋がる進路指導においては、最善の注意と心配りをもって当たっていかなければならない。
 
 進路指導における福音宣教とは、私たち教師が学習者である幼児・児童・生徒及び学生それぞれの発達段階に応じて、一人ひとりの存在を福音的人間観及び福音的世界観に基づいて受け止めるとともに、学習者に対してもそのことに気づかせるよう導くことである。その結果、学習者の一人ひとりが社会との関わりの中でイエス・キリストの教えに学び、自己を他者に与えるということが自己を生かす最上の手段であるとともに、この世で最も崇高で尊い行為であって、それが神の御計画に参与することになると同時に、そのために自分の存在があるのだという覚醒に繋がることであろう。
 
 24     4.福音的進路指導 (3)福音的進路指導と進路実績 2008年5月22日(木) 
 進路実績は学校経営における生徒募集に関連して、最も重要な要素であるといっても過言ではない。なぜなら、進路実績はその学校のセールスポイント(売り)となることは勿論のこと、学校評価の観点からも授業内容や教員の学習指導の結果がいかにあるかという教育効果の評価にまで及ぶからである。しかも、進路実績というものは、生徒指導などのように学校教育における教育効果がなかなか客観的なもので表すことができないものが多いのに比べて、進学率や合格者数などの数字や進学・就職先などの学校名や企業名という目に見える形で現れるので、より説得力を持つことになるわけである。
 
 日本における昨今の少子化という社会現象を受け、私学の幼児・児童・生徒及び学生の募集は年々厳しさを増すばかりで、限られた絶対数の中からの争奪合戦を繰り広げている。そんな中で最近はますます企業の競争原理を教育現場にそのまま当てはめるような風潮が強まりつつあるように思われる。その理由の一つには、アメリカ型のコトラーやドラッガーらが確立したマーケティングマネージメントの原理を多くの経営コンサルタントが、利益拡大のため市場を教育界にまで広めてきたことにあるのではないかと言える。そして、そこには教育活動と教育現場の現状を知らないばかりか、教員経験の全くない経営コンサルタントが、企業の経営マネージメントにおける主語である「顧客」を「生徒や父母」に、「企業」を「学校」に変えただけの到底思慮深いとは言えない学校マネージメントが、大腕を振って横行してはいないかという疑問を呈さずにはいられない。
 
 最近の学校マネージメントに対して言及する経営コンサルタントの決まり文句は、顧客中心主義であって、顧客としての生徒や父母のニーズにどう応えるか一辺倒になってしまっている。そこには教育機関や教育者として生徒に何を提示し、どう指導するかという教育目標などというものは皆無に等しいと言っていいほど、顧客のニーズに応えさえすればよいということが強調され、教育を手段のみとしか扱っていない傾向が明らかに認められるのである。経営コンサルタントの中には、学校や教師の考えなどはどうでも良いと豪語する者さえいるほどである。しかし、こういった学校マネージメントは明らかに間違いなのであって、教育とは常に双方向のものでなければならず、幼児・児童・生徒及び学生とその保護者(顧客)のニーズに応えさすればそれですべてを満たすなどというものではないのである。
 
 では、そのような少子化のあおりを受け、真っ先に進路実績を上げ、顧客満足度を充足させることと宣伝効果を上げることを至上命令とするような進路指導ではなく、学校教育現場の実状を踏まえた上で、福音的進路指導と進路実績がどのような関係と位置づけで為されるべきかという事について考察してみよう。
 
 まず、前述のように福音的進路指導とは、福音的人間観に基づいたものでなければならないことを次のように論じた。
 
 「カトリック学校において私たち教師が、学習者に対して進路指導を実施する際には、この福音的人間観をしっかりと指導の根底に置いておかなければ、学習者に対して自己を本来的に生かしていくための進路指導にはなり得ない。カトリック学校における進路指導の第一には、福音的人間観に基づいて、まずは学習者である児童・生徒および学生が自分自身を福音的に捉えるという最も根本的で優先的な原点に立たせるということが重要なのである。そのために、私たちカトリック学校の教師は、まず自分自身の存在を福音的に捉えることからはじめ、その上で学習者に対して進路指導ができるよう厳然たる態度で臨むことが求められる。
 カトリック学校における進路指導とは、単に学習者とその保護者の進路希望を達成させるためのものでもなければ、進路実績を向上させ生徒募集に役立たせるためのものでもない。それは、あくまでも「私たち人間の一人ひとりは、神の御計画の中で、神が必要としたために、神より固有の生を授かるとともに、固有の使命と存在価値を与えられ、その完成のために神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。」という福音的人間観に立脚し、神の御計画の実現を図っていこうとするものでなければならない。なぜならば、神の御計画の実現とは、人間の本来的な幸福の完成でもあるからである。」
 
 よって、進路実績はあくまでも福音的進路指導の結果のとしてのものでなければならないのであって、進路実績を上げるための進路指導や学習指導でもなければ、生徒自身の存在も進路実績を上げるための手段としてあるわけでもない。当然のことながら、学校存続のためのセールスポイント(売り)やアドバルーン(宣伝効果=CM)としての進路実績でもないはずである。確かに、少子化現象が進行し、幼児・児童・生徒及び学生の募集における教育市場というものが限られ狭まっている現状では、「背に腹は代えられない」という短絡的な考え方もあることだろうが、どんな分野においてもその場しのぎや本来的ではない二次的、三次的な対処法としての方法論をもって実践すると、何らかの歪みや弊害もしくは根底からその組織や活動を崩壊させかねない事態を招くものである。
 
 私たちは、紛れもなくカトリック学校であって、カトリック学校としてのミッションを果たせなければ、その存在意義は失われてしまう。戦略的な現代企業経営マネージメントに学ぶところは学びつつも、私たちカトリック学校は、カトリック学校としてのミッションを果たすために、カトリック学校独自の学校経営マネージメントを、確立することが急務であることだけは確かなことである。
 
 25     4.福音的進路指導 (4)福音的キャリア教育 2012年11月13日(火) 
(4)福音的キャリア教育
 
 1991年のバブル経済の崩壊や2008年のリーマンショックに端を発する経済混乱による不況は、企業の人件費削減のためのリストラクチュアリングや新採用の停止や保留など、日本の伝統的な雇用形態や雇用関係および賃金体系に大きな変化と不安をもたらし、さらには高齢社会の急速化による年金負担における公的資金軽減のために労働法が改正され、定年延長が義務づけられたことなどによって、現代の若者たちを取りまく就職環境は年々厳しさを増すばかりである。そのうえに、現代社会における若者の内向き志向の生活態度や行動様式が職業・就職観の未熟さや希薄化と相まって、大手企業が求める完成されたスキルとコミュニケーション能力を持った即戦力となる人材と若者たちが求める雇用体系が不安定で福利厚生の不十分な中小企業より、賃金をはじめ様々な労働条件で安定かつ有利な大手企業を希望するというミスマッチが一層の就職難を生み出している。(大手企業は、外国からの留学生を採用し、中小企業からの求人はあるが、日本の学生たちは敬遠する。)このような就職難は、出口保証を最大限求められる大学等の高等教育機関や実業系の高等学校にとっては学校評価に関わる重要な解決課題となり、その結果としてキャリア教育ということが取り沙汰されることとなったと言えるであろう。しかし、洋の東西を問わず働くということは、生きる上で欠かせない生業であるわけだから、キャリア教育という言語を用いてはいなかったにしろ、中学校から大学に至る学校教育のなかで進路指導の一環として既に実施されていたもので、特別に目新しいものではなかったはずである。にもかかわらず、今何故キャリア教育なのかということを考えるにあたり、フリーターやニート、そしてパラサイト・シングル、あるいはピーターパンシン・ドロームやシンデレラ・コンプレックスなどと表現される、現代日本(日本だけには限らないが)の若者たちの人生観あるいは職業・就職観に至るまでの思考の安易さや未熟さという青年期の長期化に伴うモラトリアムに触れないわけにはいかないであろう。
 
 そもそもモラトリアムとは、「支払い猶予」を意味する経済用語であったものを、アメリカの心理学者エリクソンが青年期を大人になるための準備期間としてその責任や義務を果たすことを猶予される期間として用いいたものであった。しかし、このモラトリアムに新しい変化が見られるようになったのが1970年代、日本の精神医学・心理学者の小此木啓吾氏は、社会人になることを回避して、自分から青年期を延長する青年を「モラトリアム人間」と呼んでいる。また、古典的な青年期におけるモラトリアムが半人前の意識に悩まされ、早く一人前の大人として自立し、大人社会から認められるための努力を喚起することにつながるものであったのに対して、現代のモラトリアム期の若者たちは大人たちはもはや目指すべき理想の姿からは除外され、むしろ彼らと隔たりを置くことで自己が独自の存在として生きることを求めていると同時に、厳しい現実からの逃避や自己分裂あるいは全能感や解放そしてゲーム感覚の意識に浸りながら、モラトリアムから脱することを望まなくなっているのである。
 
 このようなモラトリアム現象は、1980年代にアメリカの心理学者ダン・カイリー氏によって「ピーターパン・シンドローム」としても表されたり、米国の女流作家コレット・ダウリング氏が「他人に面倒を見てもらいたい」という潜在的願望によって、女性が「精神と創造性」とを十分に発揮できずにいる状態を、1981年に「シンデレラ・コンプレックス」と評しているが、いずれも現代の自立できない若者たちを表す概念である。
 
 このような現代における青年期のモラトリアム現象及びその長期化現象は、第二次世界大戦後の社会状況の一層の変化である大衆化や管理化あるいは高度情報化、そして国際化(Internationalization)やグローバリゼーション(Globalization)などという現代社会に特有の現象と多いに関連性があるとともに、これからの若者世代にも大きな影響を及ぼし、人間の発達段階における青年期にさらなる変化をもたらすに違いないだろう。いずれにせよ、社会構造や社会状況が過度に複雑化し、それにともなって様々な分野における価値観が多様化・多岐化・複雑化したことにより、もはやそれらの価値判断や価値選択をするための判断基準や倫理観および道徳観念が崩壊・喪失状態にあるといっても過言ではないのである。
 
 では、現代社会におけるこのような社会状況や若者世代における現象を前提に、福音的キャリア教育がどのようになされるべきかについて考察してみよう。
 
 まず、福音的キャリア教育の原点や原理・原則は、「福音的人間観」であることを申し上げたい。なざならば、キャリア教育の原点は、自己の存在認識や自己理解が前提になるからであって、その第一には、自己の誕生起源つまり「私は、何故この世に生まれたのか?」に始まり、自己の人間観である「私は何のために生きているのか?」、あるいは「私は何のためにこれから生きようとしているのか?」ということに帰着するからである。このような観点から、学校教育機関におけるキャリア教育は、なるべく早い段階からおこなわなければならない。つまり、本項の冒頭で述べたように、キャリア教育とは、経済の景気動向による不況・好況に左右されながら実施するようなものではなく、もともと本来的かつ根源的な人間の存在や生きる意義に基づいておこなわれなければならない教育分野における崇高な位置を占める教育的使命の一つなのである。
 
 よって、キャリア教育の原点は自己の存在起源や存在価値を「福音的人間観」によって理解することから始めることが望まれるが、その根源には絶対者である「神」の存在を認識することが求められる。それが決して明確かつ確信に至ることがなくても、漠然とした感覚でもかまわないが、とにかく人間の存在や力を遙かに越える「神」の存在を想起させることである。然るにこれは幼児期の早い段階において実施されるべきであり、その観点においてキャリア教育のはじまりは幼児教育にあるといってよい。ただし、幼児教育におけるキャリア教育は、決して職業観を植え付けることや職種や業種にどのようなものがあるのかということを教える必要は全くない。むしろそのようなことは職業に対する固定観念や偏見をも生み出しかねないので、教えない方が賢明である。幼児教育におけるキャリア教育は、「神」という絶対的に自己を肯定し愛してくれる存在がいらっしゃるのだ、ということを父母の愛情による信頼感をとおして認識もしくは想起させることが最重要課題である。さらに、自己の根源的存在に対する疑問としての「なぜ、自分はこの世に生まれたのか?」という幼児期から児童期の初期にいたる「なぜ?」・「どうして?」の疑問探求志向の時期にこのように教えるのである。「それはね、神さまがお前をお望みになったからだよ。神さまがお前を必要となさったからなんだよ。そして神さまは、お前にやって欲しいことがあるんだよ」と。そして、このことが自己理解と他者理解の原理・原則となることが、人間理解の上で最も重要なことなのである。
 
 幼児期から児童期に至るまでのキャリア教育の最も重要な観点は、自我を徹底的に肯定的に受け止めさせ、「自分が神さまや他者から必要とされている人間なんだ、そして他者も自分と共に大切な存在なんだ。」という意識を他者に対する信頼性と自律性を養いながら自覚させていくことである。以上が、幼児期・児童期における一貫したキャリア教育の達成課題である。
 
 次に、児童期の中・後期の段階に入ると今度は「神さまは、お前にやって欲しいことがあるんだよ。お前にしかできないことがあるんだよ。そして、それを成し遂げるための特別な力(能力)を与えて下さっているんだよ。」という福音的人間観の観点から、神から個々の人間に与えられた「固有の使命と能力」を「義務」ではなく「夢や希望」というかたちで考えさせることでる。この頃からは、ある程度具体的な職種や業種にどのようなものがあるかを自主的に調べさせるところから初めてもいいであろう。ただし、児童期に続く青年期の発達課題であるアイデンティティの確立の観点から、主体性を育成するために決して強制的かつ誘導的に、あるいは意図的にも行ってはならない。この時期における発達課題である主体性や勤勉性を育成していくために十分に配慮する必要性があるからである。
 
 さて、青年期に入ると自我の目覚めが起き、周囲の言葉、特に大人の諭しや指導を拒むようになって、若者を一層手に負えなくする。いわゆる第二の誕生や第二反抗期あるいはマージナルマンや心理的離乳などの言葉で表現される青年期における人間の必死なる自立に向けたもがきその時代である。この自立に向けた青年期の苦悩は、むしろ人間の発達段階の中では健全かつ必要不可欠な行動や現象である。この時期の発達課題はアイデンティティの確立にあるのだから、徹底して自己探求に目を向けさせることである。しかも、弱い自分や見たくない自分から目を背けることなくである。否応なしに絶え間なく繰り返される自己への疑問、それこそが真の自分を発見するための自己探求にむけた原動力となるのである。ここで再び、幼児期に屈託なく湧き上がってきた素朴な疑問であった「自分は、どうしてこの世に生まれてきたのだろう?何のために生きているのだろう?自分にしか出来ないことって何なんだろう?自分に与えられた能力は何で、何のために使ったら良いのだろう?」という再度の問いかけに、今度は自らが自分に対して自問自答する番(時)なのである。
 
 この青年期のそれぞれの段階(プレ青年期・青年前期・青年後期・プレ成人期)に応じて、主体性と自己に与えられた自由をもって、福音的に自己の存在を捉えることがこの時期のキャリア教育の重要な要件である。無論この青年期の各段階、特に青年中期から後期にかけては、具体的な職業や職業観について多くの職業体験(インターンシップ)や社会人の講話および職場見学あるいは高等教育機関等の講義を体験するなど、なるべく多くの情報と体験をとおして、より具体的な自己の将来像を描かせ、可能な限りの選択肢をつくらせることである。そして、人間は職業をとおして他者や社会に貢献しながら自己実現を図ることができるということに気づかせることが重要である。さらに、それが人間とは、神によって固有の使命を果たすために、神に必要とされ望まれてこの世に生命を授けられ、その使命を果たすために自分にしかない能力を与えられたかけがえのない存在であるという「福音的人間観」に基づいたものであるならば、それは「福音的自己実現」を果たすことになるのだという主体的な気付きや真の自己発見あるいは覚醒につなげることが出来れば、そこに福音的キャリア教育の完成が実現することになるのである。これは、16世紀の宗教改革者カルヴァンによる予定説に裏付けられた職業召命観とは違い、あくまでも人間の神に対する信仰と自由意志によって気付き選択された本来的自己に向けた自己実現である。
 
 さらに、離職率が激しい昨今、青年後期やプレ成人期において職業人(社会人)となったならば、人は働いて労苦の末に日々の糧を得て生きる者であることを、体現をとおして実感することを教え諭しておくことである。人生は、苦しみをとおらなければ得ることができない貴重なものがあることを、そしてそれは自己の使命を覚り真に生きる者となるための過程もしくはそのものであることを知ることである。孔子は「吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩」と言った。孔子のような非凡な師であっても天命を知るには五十年を要したのであるから、凡夫である者にとってはいかほどのものであろうか。また、わたしたちの主イエス・キリストは仰せになられた。「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ16:24〜25)」と。生きるために働き、それに伴う苦しみを主なる神に捧げることで報われるものがある。そして、労苦して働くことの苦しみを十字架上の主イエス・キリストに献げることで、生きることの意味、労働の意味を知り得て自己の使命と存在意義に気付いて初めて人は真に生きる者となるのである。
 
 このように、福音的キャリア教育とは、幼児期から成人期に至るまでの発達過程において、それぞれの発達段階に応じて「福音的人間観」に基づいた自己探求による神と自分との関係のなかで真実なる自己の生命の根拠と生きることの意義である神から与えられた固有の使命の自覚とその達成に向けた決意を喚起させることに他ならないのである。
 

Last updated: 2012/12/3