(4)福音的キャリア教育
1991年のバブル経済の崩壊や2008年のリーマンショックに端を発する経済混乱による不況は、企業の人件費削減のためのリストラクチュアリングや新採用の停止や保留など、日本の伝統的な雇用形態や雇用関係および賃金体系に大きな変化と不安をもたらし、さらには高齢社会の急速化による年金負担における公的資金軽減のために労働法が改正され、定年延長が義務づけられたことなどによって、現代の若者たちを取りまく就職環境は年々厳しさを増すばかりである。そのうえに、現代社会における若者の内向き志向の生活態度や行動様式が職業・就職観の未熟さや希薄化と相まって、大手企業が求める完成されたスキルとコミュニケーション能力を持った即戦力となる人材と若者たちが求める雇用体系が不安定で福利厚生の不十分な中小企業より、賃金をはじめ様々な労働条件で安定かつ有利な大手企業を希望するというミスマッチが一層の就職難を生み出している。(大手企業は、外国からの留学生を採用し、中小企業からの求人はあるが、日本の学生たちは敬遠する。)このような就職難は、出口保証を最大限求められる大学等の高等教育機関や実業系の高等学校にとっては学校評価に関わる重要な解決課題となり、その結果としてキャリア教育ということが取り沙汰されることとなったと言えるであろう。しかし、洋の東西を問わず働くということは、生きる上で欠かせない生業であるわけだから、キャリア教育という言語を用いてはいなかったにしろ、中学校から大学に至る学校教育のなかで進路指導の一環として既に実施されていたもので、特別に目新しいものではなかったはずである。にもかかわらず、今何故キャリア教育なのかということを考えるにあたり、フリーターやニート、そしてパラサイト・シングル、あるいはピーターパンシン・ドロームやシンデレラ・コンプレックスなどと表現される、現代日本(日本だけには限らないが)の若者たちの人生観あるいは職業・就職観に至るまでの思考の安易さや未熟さという青年期の長期化に伴うモラトリアムに触れないわけにはいかないであろう。
そもそもモラトリアムとは、「支払い猶予」を意味する経済用語であったものを、アメリカの心理学者エリクソンが青年期を大人になるための準備期間としてその責任や義務を果たすことを猶予される期間として用いいたものであった。しかし、このモラトリアムに新しい変化が見られるようになったのが1970年代、日本の精神医学・心理学者の小此木啓吾氏は、社会人になることを回避して、自分から青年期を延長する青年を「モラトリアム人間」と呼んでいる。また、古典的な青年期におけるモラトリアムが半人前の意識に悩まされ、早く一人前の大人として自立し、大人社会から認められるための努力を喚起することにつながるものであったのに対して、現代のモラトリアム期の若者たちは大人たちはもはや目指すべき理想の姿からは除外され、むしろ彼らと隔たりを置くことで自己が独自の存在として生きることを求めていると同時に、厳しい現実からの逃避や自己分裂あるいは全能感や解放そしてゲーム感覚の意識に浸りながら、モラトリアムから脱することを望まなくなっているのである。
このようなモラトリアム現象は、1980年代にアメリカの心理学者ダン・カイリー氏によって「ピーターパン・シンドローム」としても表されたり、米国の女流作家コレット・ダウリング氏が「他人に面倒を見てもらいたい」という潜在的願望によって、女性が「精神と創造性」とを十分に発揮できずにいる状態を、1981年に「シンデレラ・コンプレックス」と評しているが、いずれも現代の自立できない若者たちを表す概念である。
このような現代における青年期のモラトリアム現象及びその長期化現象は、第二次世界大戦後の社会状況の一層の変化である大衆化や管理化あるいは高度情報化、そして国際化(Internationalization)やグローバリゼーション(Globalization)などという現代社会に特有の現象と多いに関連性があるとともに、これからの若者世代にも大きな影響を及ぼし、人間の発達段階における青年期にさらなる変化をもたらすに違いないだろう。いずれにせよ、社会構造や社会状況が過度に複雑化し、それにともなって様々な分野における価値観が多様化・多岐化・複雑化したことにより、もはやそれらの価値判断や価値選択をするための判断基準や倫理観および道徳観念が崩壊・喪失状態にあるといっても過言ではないのである。
では、現代社会におけるこのような社会状況や若者世代における現象を前提に、福音的キャリア教育がどのようになされるべきかについて考察してみよう。
まず、福音的キャリア教育の原点や原理・原則は、「福音的人間観」であることを申し上げたい。なざならば、キャリア教育の原点は、自己の存在認識や自己理解が前提になるからであって、その第一には、自己の誕生起源つまり「私は、何故この世に生まれたのか?」に始まり、自己の人間観である「私は何のために生きているのか?」、あるいは「私は何のためにこれから生きようとしているのか?」ということに帰着するからである。このような観点から、学校教育機関におけるキャリア教育は、なるべく早い段階からおこなわなければならない。つまり、本項の冒頭で述べたように、キャリア教育とは、経済の景気動向による不況・好況に左右されながら実施するようなものではなく、もともと本来的かつ根源的な人間の存在や生きる意義に基づいておこなわれなければならない教育分野における崇高な位置を占める教育的使命の一つなのである。
よって、キャリア教育の原点は自己の存在起源や存在価値を「福音的人間観」によって理解することから始めることが望まれるが、その根源には絶対者である「神」の存在を認識することが求められる。それが決して明確かつ確信に至ることがなくても、漠然とした感覚でもかまわないが、とにかく人間の存在や力を遙かに越える「神」の存在を想起させることである。然るにこれは幼児期の早い段階において実施されるべきであり、その観点においてキャリア教育のはじまりは幼児教育にあるといってよい。ただし、幼児教育におけるキャリア教育は、決して職業観を植え付けることや職種や業種にどのようなものがあるのかということを教える必要は全くない。むしろそのようなことは職業に対する固定観念や偏見をも生み出しかねないので、教えない方が賢明である。幼児教育におけるキャリア教育は、「神」という絶対的に自己を肯定し愛してくれる存在がいらっしゃるのだ、ということを父母の愛情による信頼感をとおして認識もしくは想起させることが最重要課題である。さらに、自己の根源的存在に対する疑問としての「なぜ、自分はこの世に生まれたのか?」という幼児期から児童期の初期にいたる「なぜ?」・「どうして?」の疑問探求志向の時期にこのように教えるのである。「それはね、神さまがお前をお望みになったからだよ。神さまがお前を必要となさったからなんだよ。そして神さまは、お前にやって欲しいことがあるんだよ」と。そして、このことが自己理解と他者理解の原理・原則となることが、人間理解の上で最も重要なことなのである。
幼児期から児童期に至るまでのキャリア教育の最も重要な観点は、自我を徹底的に肯定的に受け止めさせ、「自分が神さまや他者から必要とされている人間なんだ、そして他者も自分と共に大切な存在なんだ。」という意識を他者に対する信頼性と自律性を養いながら自覚させていくことである。以上が、幼児期・児童期における一貫したキャリア教育の達成課題である。
次に、児童期の中・後期の段階に入ると今度は「神さまは、お前にやって欲しいことがあるんだよ。お前にしかできないことがあるんだよ。そして、それを成し遂げるための特別な力(能力)を与えて下さっているんだよ。」という福音的人間観の観点から、神から個々の人間に与えられた「固有の使命と能力」を「義務」ではなく「夢や希望」というかたちで考えさせることでる。この頃からは、ある程度具体的な職種や業種にどのようなものがあるかを自主的に調べさせるところから初めてもいいであろう。ただし、児童期に続く青年期の発達課題であるアイデンティティの確立の観点から、主体性を育成するために決して強制的かつ誘導的に、あるいは意図的にも行ってはならない。この時期における発達課題である主体性や勤勉性を育成していくために十分に配慮する必要性があるからである。
さて、青年期に入ると自我の目覚めが起き、周囲の言葉、特に大人の諭しや指導を拒むようになって、若者を一層手に負えなくする。いわゆる第二の誕生や第二反抗期あるいはマージナルマンや心理的離乳などの言葉で表現される青年期における人間の必死なる自立に向けたもがきその時代である。この自立に向けた青年期の苦悩は、むしろ人間の発達段階の中では健全かつ必要不可欠な行動や現象である。この時期の発達課題はアイデンティティの確立にあるのだから、徹底して自己探求に目を向けさせることである。しかも、弱い自分や見たくない自分から目を背けることなくである。否応なしに絶え間なく繰り返される自己への疑問、それこそが真の自分を発見するための自己探求にむけた原動力となるのである。ここで再び、幼児期に屈託なく湧き上がってきた素朴な疑問であった「自分は、どうしてこの世に生まれてきたのだろう?何のために生きているのだろう?自分にしか出来ないことって何なんだろう?自分に与えられた能力は何で、何のために使ったら良いのだろう?」という再度の問いかけに、今度は自らが自分に対して自問自答する番(時)なのである。
この青年期のそれぞれの段階(プレ青年期・青年前期・青年後期・プレ成人期)に応じて、主体性と自己に与えられた自由をもって、福音的に自己の存在を捉えることがこの時期のキャリア教育の重要な要件である。無論この青年期の各段階、特に青年中期から後期にかけては、具体的な職業や職業観について多くの職業体験(インターンシップ)や社会人の講話および職場見学あるいは高等教育機関等の講義を体験するなど、なるべく多くの情報と体験をとおして、より具体的な自己の将来像を描かせ、可能な限りの選択肢をつくらせることである。そして、人間は職業をとおして他者や社会に貢献しながら自己実現を図ることができるということに気づかせることが重要である。さらに、それが人間とは、神によって固有の使命を果たすために、神に必要とされ望まれてこの世に生命を授けられ、その使命を果たすために自分にしかない能力を与えられたかけがえのない存在であるという「福音的人間観」に基づいたものであるならば、それは「福音的自己実現」を果たすことになるのだという主体的な気付きや真の自己発見あるいは覚醒につなげることが出来れば、そこに福音的キャリア教育の完成が実現することになるのである。これは、16世紀の宗教改革者カルヴァンによる予定説に裏付けられた職業召命観とは違い、あくまでも人間の神に対する信仰と自由意志によって気付き選択された本来的自己に向けた自己実現である。
さらに、離職率が激しい昨今、青年後期やプレ成人期において職業人(社会人)となったならば、人は働いて労苦の末に日々の糧を得て生きる者であることを、体現をとおして実感することを教え諭しておくことである。人生は、苦しみをとおらなければ得ることができない貴重なものがあることを、そしてそれは自己の使命を覚り真に生きる者となるための過程もしくはそのものであることを知ることである。孔子は「吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩」と言った。孔子のような非凡な師であっても天命を知るには五十年を要したのであるから、凡夫である者にとってはいかほどのものであろうか。また、わたしたちの主イエス・キリストは仰せになられた。「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ16:24〜25)」と。生きるために働き、それに伴う苦しみを主なる神に捧げることで報われるものがある。そして、労苦して働くことの苦しみを十字架上の主イエス・キリストに献げることで、生きることの意味、労働の意味を知り得て自己の使命と存在意義に気付いて初めて人は真に生きる者となるのである。
このように、福音的キャリア教育とは、幼児期から成人期に至るまでの発達過程において、それぞれの発達段階に応じて「福音的人間観」に基づいた自己探求による神と自分との関係のなかで真実なる自己の生命の根拠と生きることの意義である神から与えられた固有の使命の自覚とその達成に向けた決意を喚起させることに他ならないのである。
|