「もし、わたしたちに罪はないというならば、自分自身を欺くことになり、真理はわたしたちの中にありません。罪の告白をするならば、真実で正しい神は、わたしたちの罪をゆるし、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。もし、罪を犯したことがないというならば、神を偽り者にすることになり、神のことばはわたしたちの中にはありません。
(Tヨハネ1:8〜10)

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学校経営 School Management

「カトリック学校としての学校経営の在り方」
カトリック学校としての戦略的学校マネジメントの展開
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 16     2.教務 (4)福音的カリキュラムとシラバス 2008年2月21日(木) 
 福音的なカリキュラムとは、学校教育活動における学習活動の教科指導によって、福音宣教が実施されていることであると言って良いだろう。よって、カリキュラムの中に宗教教科が設置され、そこで聖書や宗教倫理あるいは宗教音楽等の科目が実施されていることが不可欠である。勿論カリキュラムであるから、修学期間中のそれぞれの学年で何時間の授業が実施され、何単位の取得が可能なのかは明記されていなければならない。また、福音宣教を可能にする授業としては、体系的にかつ継続性を要するから、授業時間数としては週1単位以上、年間30時間以上は必要であろう。よって、初等教育においては、6年間で6単位、180時間、中学・高等学校の中等教育では、3年間で3単位、90時間が一応の目安となるのではないだろうか。また、学習活動以外に宗教行事やボランティア活動等の特別活動においても福音宣教に通じる教育活動が可能であるから、学習活動における教科指導についてはこの程度の時間数が適当であると考えられる。
 
 しかし、福音的カリキュラムと言えるためには、時間数や単位数だけで必要条件を満たすとは言えない。むしろ定められた授業時間数の中で、どのような内容をどのような教材を使って、どのように展開するかが最も大切であると言える。そこで重要となるのがシラバスである。シラバスとは、年間の指導計画や進度表、使用教材や学習法及び履修内容、出席日数や欠課時数、そして評価・評定基準や方法、単位認定など、履修予定の科目全般にわたる概要が、学習者である児童・生徒及び学生に具体的に提示できるものでなければならない。そして、それは教授者である教師にとっても教授内容と教授法、及び評価法を明確にし学習者に提示することでもある。よって、シラバスとは学習者にとっても教授者にとっても学習活動におけるそれぞれの責任や義務を明確にし、共に主体的に学習効果を向上させることを目的とした学習プランとマニュアル及びアウトラインであると言ってよいであろう。
 
 では、具体的に宗教教科におけるシラバスに、一般化できる内容を提示してみよう。
 
 1.教材 (聖書・テキスト・資料集・ノート等)
 2.履修内容(各学年・学期に履修する大単元・中単元・小単元等の学習内容を提示)
 3.進度表(月・学期・年間の予定表)
 4.定期試験の予定(試験方法及び日程と試験範囲)
 5.課題等の提出物(学期期間中及び長期休業期間に実施する課題等)
 6.評価・評定法(各学期及び学年における評価・評定法)
 7.欠課時数・単位認定(単位認定のために必要な出席時数等の認定条件)
 9.追試験及び再試験(追試験及び再試験の受験資格と受験要項)
 
以上のような項目を挙げることができるが、シラバスを提示する際に気をつけなければならないことがいくつかあると思われる。それはシラバス自体が明瞭・明確であること、シラバスについての説明が形式的にならないこと、学習者が教科・科目に興味・関心が湧くような内容であることである。
 
 上述でシラバスとは、学習者及び教授者が共に主体的に学習効果を向上させることを目的とした学習プランとマニュアル及びアウトラインであると定義したので、教授者はシラバスを提示する際、学習者がその教科・科目の特性を理解し学習することに興味関心を抱かせるように、生き生きとした態度で行うことが大切である。また、学習者は教科・科目の特性を理解するとともに、履修するに当たっての自己責任を明確にし、真摯な態度でかつ希望を抱いて学習に当たっていこうとする姿勢をつくることが肝要である。確かにシラバスそのものの内容は重要であるが、実はシラバスをどのように提示するかということは、授業において教材や学習内容がどうであるかということ以上に、教授法が最も重要であるのと同じく、シラバスの内容以上に重要であると言って良いであろう。
 
 よって、年度当初に実施されるオリエンテーションや教科ガイダンスにおいて教授者と学習者がシラバスを通してより良好なリレーションを形成していけるよう、最新の配慮と周到な準備をしておくことが求められる。そして、ひいてはそのこと自体が宗教教科をとおして福音宣教を可能にする第一歩となるであろう。
 
 17     2.教務 (5)総合的な学習と福音宣教 2008年3月27日(木) 
 総合的な学習の位置づけは、自ら学び自ら考えるという力を身に付けさせるというものであるが、現代の子ども達に不足または欠如していると言われる要素を、「生きる力」とか「人間力」等の表現で求められているところのものである。「生きる力」・「人間力」とは、福音宣教の観点から考えると、実に重要なことではないかと考えられる。なぜならば、「福音」とはそれ自体が、人間がいかにあり、いかに生きるかということに繋がり、その中で神が人間に望む姿としての恵みの良き知らせであるからである。よって総合的な学習が、「生きる力」や「人間力」を身に付けることを目的とするならば、そこには福音というメッセージを十二分に生かすことができる教育活動となり得ると言える。
 
 さて、総合的な学習は、現行の指導要領によると次のように定められている。
 
 1.学校の教育活動を進めるに当たっては、各学校において、生徒に生きる力を育むことを目指し、創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で、
   自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り、個性を生かす教育の充実に努めなければならない。
 
 2.学校における道徳教育は、生徒が自己探求と自己実現に努め国家・社会の一員としての自覚に基づき行為しうる発達段階にあることを考慮し、
   人間としての在り方生き方に関する教育を学校の教育活動を通じて行うことにより、その充実を図るものとし、各教科に属する科目、特別活動
   及び総合的な学習の時間のそれぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない。
 
 3.学校においては、地域や学校の実態等に応じて、就業やボランティアに関わる体験的な学習の指導を適切に行うようにし、勤労の尊さや創造す
   ることの喜びを体験させ、望ましい勤労観、職業観の育成や社会奉仕の精神の涵養に資するものとする。
 
 また、学習活動においては、下記のように規定されている。
 
 1. 総合的学習の時間においては、各学校は、地域や学校、生徒の実態等に応じて、横断的・総合的な学習や生徒の興味・関心等に基づく学習な
   ど創意工夫を生かした教育活動を行うものとする。
 
 2.総合的な学習の時間においては、次のようなねらいをもって指導を行うものとする。
  (1)自ら課題を見付け、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。
  (2)学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探求活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の在り方生き方を考えることができる
   ようにすること。 
 
 3.各学校においては、上記2に示すねらいを踏まえ、地域や学校の特色、生徒の特性に応じ、例えば、次のような学習活動などを行うものとする。
  (1)国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題についての学
   習活動。
  (2)生徒が興味・関心、進路等に応じて設定した課題について、知識や技能の深化、総合化を図る学習活動。
  (3)自己の在り方生き方や進路について考察する学習活動。
 
 4.各学校における総合的な学習の時間の名称については、各学校において適切に定めるものとする。
 
 5.総合的な学習の時間の学習活動を行うに当たっては、次の事項に配慮するものとする。
 
  (1)自然体験やボランティア活動、就業体験などの社会体験、観察・実験・実習、調査・研究、発表や討議、ものづくりや生産活動など体験的な学
   習、問題解決的な学習を積極的に取り入れること。
 
  (2)グループ学習や個人研究などの多様な学習形態、地域の人々の協力も得つつ全教師が一体となって指導に当たるなどの指導体制、地域の教材や
   学習環境の積極的な活用などについて工夫すること。
 
 では、これらのことを踏まえながらカトリック学校として、福音的宣教という観点から生きる力の要素とは何かを考えると以下のようなことが言えよう。
 
 「生きる力」とは、神から授かった固有の命と能力及び使命を自覚しながら、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力のことである。また、自己の人生を生き抜くための学び方やものの考え方を身につけ、問題の解決や探求活動に主体的、創造的に取り組む態度と自己のあり方生き方を考えることができる力である。さらに、宗教心と自尊心を持って、他者のために生きようとする隣人愛の精神である。
 
 次に福音的観点から総合的な学習の要素を考えてみると次のようなことがらが考えられる。
 
 1.キリストの教えに基づいた「愛の精神」を身に付け、現代を自立して生きる人間の育成という観点において
  (1)人間らしい豊かな心を養うこと。
  (2)より良き父母となる資質を育むこと。
  (3)一人ひとりに与えられた固有の命や特性および才能を生かし、自己の使命を果たすこと。
  (4)他を思いやり、自らを見つめ直すボランティア精神を身に付けること。
  (5)世界に開かれた国際的センスを学ぶこと。
 
 2.キリストの教えに基づいた「生きる力」という観点において
  (1)自分に与えられた可能性と使命に目覚め、知的能力、学習能力を磨く努力をすること。
  (2)キリスト教の教えに基づいた宗教性に根ざしている心と意識を育てること。
  (3)自己の成長につとめながら、他者と共に生きる姿勢を育てること。
 
では、これらのことを前提に総合的な学習の具体的内容を考えてみると以下のような項目を挙げることができるであろう。キリスト教的人間観に基づいた実践力として、以下のようなものが考えられるであろう。
 
  (1)人間学…恋愛・結婚・家庭・労働・出産・育児、性、ジェンダー論、礼儀・礼法 、法律、進路選択
  (2)国際理解…自国文化と歴史の理解、国際情勢、戦争と平和、南北 問題、 国際交流と国際貢献、グローバル経済、ボーダーレス、宗教、 理解と他国
   文化
  (3)情報…ITの習得、情報の平等性と差別、情報倫理、ヘイトサイトの見分け方などネット関連の正しい利用法
  (4)環境…資源エネルギー問題、人口問題、地球環境の問題(砂 漠化・温暖化・オゾン層の破壊・酸性雨・熱帯林破壊・ 生物多様性の現象・海洋汚染・有
   害廃棄物の越境移動)
  (5)生命…生と死、生命倫理、脳死、臓器移植、臓器売買、尊厳死安楽死、リヴィングウィル、ホスピス、バイオテクノロジー、人権問題
  (6)福祉・健康…高齢化・老齢化社会の問題、ノーマライゼーション、健康な体と精神の育成
  (7)ボランティア活動…隣人愛とボランティア精神、社会福祉施設研究、国連・NGO研究、災害及び難民などの緊急援助対策、地域美化
  (8)体験学習…自然体験や職場訪問などの社会体験、芸術鑑賞、観察・実験・実習、調査・研究・ものづくりや生産活動、修学旅行
  (9)討議と研究発表…現代の呈する諸問題を中心とするテーマ学習(自分たちでテーマを設定し、研究して発表する。)
  (10)統合力… 総合的な学習が知識や技術の習得のみに留まることなく、キリスト教的価値観のもとに正しい判断力を身につけるための価値観の形成
 
 以上のようなことがらが考えられるが、私たちが暮らすこの社会は日々変化し様々な問題を生み出しかつ複雑化しているので、私たち教育者は千変万化する社会に対応できる力を学習者に養わせるために、常に新たな課題を提示して対応できる柔軟性を身に付ける必要性がある。このような観点からもまさに総合的な学習とは、現代を生き抜くための「生きる力」・「人間力」を学びながら現代に必要な福音を注ぐことのできる格好の教科・学習活動であると結論づけられる。
 
 18     3.福音的生徒指導 (1)福音的人間観 2008年3月5日(水) 
 生徒指導は、学習活動から特別活動に至る学校教育全般と、幼児・児童・生徒・学生の家庭生活や友人関係等の私生活にまで及ぶ重要な要素を限りなく含んでいるものであるから、教育活動の根幹をなすものであると言って良い。よって、生徒指導をそのような観点に沿って述べていくものとする。
 
(1)福音的人間観
 人は、男女の結びつきである結婚をとおして絶対者である神から固有の生を受け、そしてその生は、父母を中心として家庭の中で育くまれていく。
 
 キリスト教宗教観ないしは福音的観点に立った人間観とは、『私たち人間の一人ひとりは、神の御計画によって、神が必要としたために、神より固有の生を授かるとともに、固有の使命と存在価値を与えられ、神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。』というものである。よって、どのような人間のいのちとその存在は、誰からもまたどんな理由によっても否定されることのない、絶対的な存在に由来する最も尊く至高のものであると言える。
 
 しかしながら、このようなキリスト教的人間観が、人間そのもののあり方を完全視するというものでは全くない。むしろ、我々人間は根本的に罪につながれているという、いわゆる原罪を持っており、それ故に我々人間は、主イエス・キリストの十字架の罪の贖いによるゆるしなしには、生きて行くことができない者たちであるということなのだ。
 
 然るに人間の教育の根底には、教育者である教師の学習者に対するゆるし・受容・寛容の徳を身に付けておく必要がある。あくまでも学校とは、人間の成長過程にある児童・生徒・学生等を扱う教育機関であって、裁きの場や更正機関ではないのであるから、前述の福音的人間観を根幹としながら、固有の生と使命を受け止め、一人ひとりを神から信託された尊い存在として、それぞれの発達段階に応じた教育を実践していかなければならない場なのである。
 
神との関わりの中にある人、他者との関わりの中にある人間、我々はこの二つの関わりの中で、神より与えられた自己の固有の生と使命を、生き抜いていかなければならない存在なのである。そして私たちは、その過程の中で罪に定められた弱い者でありながら、神とその子イエス・キリストの救いと聖霊による導きによって、聖なる者となるように招かれ、他者のために愛を尽くし互いに愛し合うことで、永遠の命へと復活することができるよう約束された者たちなのである。
 
根本的に人間の存在そのものが、尊く何者からも否定されない尊厳なものであるという所以は、神ご自身が人一人ひとりに与えられた固有の生と使命があるということと、イエス・キリストをとおして述べられた神による救いと神の国の到来、つまり互いに愛し合うことことで、神が望まれる御国が現実のものとなり、そこにおいて人は永遠の命に復活するという福音に拠るのである。それはとりもなおさず、私たちすべての人間は、神からの者で神に帰する者であるということなのだ。
 
 私たちミッションスクールの全ての教育者は、これらの福音的人間観を十分に理解し、福音的人間観に立脚し、日々の教育活動の実践に当たらなければならない。そして、この福音的人間観を根幹に教育活動が実践されるならば、私たちミッションスクールはイエス・キリストをとおして述べ伝えられた神の福音を広めるという使命を、必ずや果たすことができるであろう。教育活動には明確な教育理念が必要であるのと同様に、教育理念は人間をどう理解するかという、確固たる人間観に裏付けられていなければならない。これは、教育活動全般にわたる重要なことがらであるが、特に学校生活から家庭生活にまで学習者の全てにおよぶ生徒指導においては、不可欠なものとして位置づけられる。
 
 19     3.福音的生徒指導 (2)人間の二面性 2008年3月14日(金) 
 「色即是空 空即是色」4〜5世紀にかけて、活躍した中国南北朝時代の訳経僧、鳩摩羅什(クマーラージーヴァ)は、中国の人々に釈迦の思想を広めるため、梵語の韻を大切にしながらいかに漢字で釈迦の教えの真髄を伝えるかに尽力した高僧である。彼が漢訳した三十五部を越える教典のほとんどが日本に伝えられているそうだ。そんな偉業を成し遂げた鳩摩羅什の原動力は、破戒僧としての罪の意識ではなかったかと思う。「色即是空 空即是色」に、そんな彼の人生のすべてが感じ取れる。「この世のすべてのものは移ろい、固定的な実態はない。そして、その移ろう現実=色にこそ、空という真実を見いだすことができる」との解釈である。
 
 古代中国紀元前6〜5世紀に「仁」の思想を展開した孔子の弟子である孟子や荀子は、人間の本性をそれぞれ「性善説」と「性悪説」をもって著したが、これらの説は往々にして誤って解釈されがちである。その真意は、いずれも人間の本性は生まれながらにして善であるとか悪であるといっているのではなく、「性善説」は、人間は善となりうる萌芽をもっているからそれを養い育てなければならないというもの、そして、「性悪説」は人間は悪に走る性向があるのでそれを戒めなければならないというものなのであり、人間の二面性を説くものなのである。
 
 「共命鳥(グミョウチョウ)」という仏教の教えを伝えるための、一つの体に頭が二つあるという想像上の鳥の話がある。一つの体に、二つの頭があり、一方は昼(光)を支配し、もう一方は夜(闇)を支配する。闇の頭は光を嫌い、昼の頭に毒を飲ませるが、やがて一つの体であるこの鳥は、闇の方にも毒が回って両者とも死んでしまうというお話である。このたとえにも、人間の本質を突く仏教の教えが貫いている。
 
 では、キリスト教の人間観はどうであるかというと、前述のように「原罪」の思想に集約できる。つまり、人間は罪を犯してしまう弱さをもつ存在であり、それ故に「ゆるし」による罪からの解放無くしては生きてはいけないというものである。罪からの解放は、神によってのみ実現する訳であるが、それは取りも直さずイエス・キリストの十字架上の罪の贖いによる「ゆるし」と、その後の復活によって証された「永遠の命」に私たちも与ることによって成就するというものなのである。そこにキリスト教が、愛と赦しの宗教であるという所以があるのだが、キリスト教では人間の中にある罪深さを積極的に受け入れ、人間が犯した罪を神よりゆるされることで、再び生ける者となるのが人間であるとの受け止め方をしているのだ。キリスト教における罪とは、あるいは人間の持つ二面性とは、善悪の判断としては悪であったとしても、決して否定することなく人間の罪深さを肯定的に受け入れるのだ。カトリック教会が認める聖人と呼ばれる人々ですら、この原罪からは逃れることのできなかったのである。しかし、かれらは原罪を背負う人間であればこそ、神への絶対的信仰によって人並み外れた善行の数々を人々に知らしめることができたのである。人間とは、罪の繰り返しの中で神によるゆるしによる回心と、そこから生まれる新たな希望によって育まれ、神の望まれる姿に成長していくものではないだろうか。そして、そこに教育の果たす重要な役割があるように思える。「人は、人によって育てられるが、裁かれることによってではなく、ゆるされることによってのみ成長する。」と考えるのである。
 
 わたしたちは、人生を生きていく上で、現象としては不幸なことではあるが、度々ままならないことを経験する。それを仏教では「苦」といい、キリスト教では「苦しみ」と捉える。仏教では「苦」から解き放たれた世界、涅槃寂静=極楽浄土(鳩摩羅什の訳)を説く。キリスト教においては、イエス・キリストによる神の福音である神による救いと御国の到来を説いているが、それは具体的には、私たち人間はイエス・キリストに対する信仰によって、神の愛による赦しを受け、死から復活して永遠の命に与ることができるということを説いているのだ。
 
 いろいろな意味で世知辛く価値観が氾濫し混迷する現代社会のなかで、人を育てるという教育に携わる私たち教師は、現代人が忘れかけ欠如してしまっている宗教心に根ざした人間観と教育観を、再び思い起こし、教育活動の実践に当たることが求められているのではないだろうか。多種多様な価値観の反乱が招く社会問題や社会病理の蔓延する現代に生きるこどもたちに、何を教えればいいのだろうか。何を身に付けさせればいいのであろうか。何をしたら守ってやれるのであろうか。何をどうすれば、よりよい社会を築いていけるのであろうか。現代にはびこる諸悪の現象の一つ一つが、わたしたち教育者に真実は何であるのかと問いかけ、その解決を迫ってきているように思えてならない。
 
 福音的人間観に断固として立脚し、福音的生徒指導の実践をしなければ、現代に息づいた人間の教育は実現しない。それは取りも直さず、現代を生き抜き、よりよい社会を築いていける人間をつくり上げていくことができないということである。だから福音的人間観に立ち、宗教心に根ざした教育の実践ができる私たちミッションスクールが果たす役割は、極めて大きいと言わざるを得ない。
 
 20     3.福音的生徒指導 (3)懲罰と赦し 2008年3月21日(金) 
 どの学校にも学則というものが定められている。その中には必ず賞罰の項目があり、停学や退学処分についての規定がある。停学処分や退学処分の対象となるのは、学校保健法施行規則による出席停止処置を除けば、その主たるものは校則違反や法律を犯すなどの非社会的行動によるものがほとんどである。しかし、ここで一つの疑問を呈したい。非行や問題行動を起こした生徒を停学や退学等の処分をすることは、たとえ周囲に対する抑制力(見せしめ)にはなり得たとしても、果たしてその生徒に本来的な反省を促したり、改心をさせるような教育効果があるのだろうかというものである。わたしは、ここで前項で記したように再度申し上げる。「人は、人によって育てられるが、裁かれることによってではなく、赦されることによってのみ成長する。」と。そして、もう一つ「私たち教師は、裁き手ではなく、人の導き手である。」ということだ。ともすると、私たち教師は、児童・生徒及び学生に対して学校の閉鎖性および教師の個人的教育観による了見の狭さという性格上から、裁き手になりがちなものである。私たち教師は、教育活動の結果を評価するという大切な作業からは逃れられないが、評価と裁きを混同してはならないのであって、学習活動に対する評価の延長線上で、安易に人格を評価し断罪するようなことがあってはならないということを肝に銘じておかなければならない。
 では、「赦し」や「裁き」について、イエス・キリストのみ言葉を聖書から引用し、私たち人間にとって「赦し」こそが生きる道であるというイエス・キリストのみ教えを聖書で再確認してみたい。
 
 @「仲間を赦さない家来」のたとえ(マタイ18:21〜36)
 その時、ペテロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたたちに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸したお金を決済しようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れてこられた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってくださいきっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで主君はその家来を呼びつけていった。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を前部長消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
 
 A「人を裁くな」(マタイ7:1〜6、ルカ6:37〜38、41〜42)
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」
 あなたがたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
 
 B「赦し」(ルカ17:1〜4)
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらすものは不幸である。そのような者は、これらの小さいもの一人をつまずかせるよりも、首にひき臼をかけられて海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
 
 B「罪深い女を赦す」(ルカ7:36〜50(抜粋))
 「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
 
C「ベルゼブル論争」(マタイ12:31〜32(抜粋))
 「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。」
 
D「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:1〜11)
 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。女が、「主よだれも」言うと、イエスは一言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
 
E「『放蕩息子』のたとえ」(ルカ15:11〜32)
 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢誰が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輸をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」兄は怒って家に人ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦ともと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
 
 F「立法学者とファリサイ派の人々を非難する」(マタイ23:1〜12)
 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しにななった。律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷を
まとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生」と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
 
 このほかにも聖書には、私たちカトリック学校が生徒指導上守らなければならない掟とも言えるべき原則を学べるところがいくつもある。まずは私たちカトリック学校に奉職する教師の一人ひとりが、イエス・キリストの教えを十分に学ぶことで、学習者である幼児・児童・生徒及び学生を、『私たち人間の一人ひとりは、神の御計画によって、神が必要としたために、神より生を受け、神より固有の使命と存在価値を与えられ、神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。』と受け止めるとともに、私たち教師は、『教師』でありながら否『教師』であるからこそ「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」というイエス・キリストの教えを忘れることなく、主である神には勿論のこと、学習者である幼児・児童・生徒及び学生に仕え
るものとしての自覚を常に念頭に置きながら、原罪に定められた人間に対する「赦し」を教育の根底において、「人の裁き手」ではなく「人の導き手」としての使命を全うしていかなければならないのである。
 
 カトリック学校にとって福音的人間観に基づいた福音的生徒指導は、ミッションスクールとして絶対に死守しなければならない生命線とでもいうべきものである。これを疎かにするのならば、即座にでもカトリック学校としての看板を下ろさなければならないだろうし、最も重要な存在価値とその役割としての福音宣教というミッションを果たすことはできない。福音的生徒指導とは、それだけイエス・キリストの教えの核心をなすものだからなのである。
 

Last updated: 2012/12/3